■3年半ぶりに開催された地平線報告会。会場の新宿スポーツセンターに足を踏み入れた瞬間、懐かしい気持ちでいっぱいになった。開始時刻の13時が近づくと受付の前には行列が。そのなかには宮本千晴さん、三輪主彦さん、岡村隆さん、向後元彦・紀代美さんご夫妻など、地平線会議創設メンバーの御大たちの姿も。SNS上ではなく、ようやく本物の皆さんと会えた嬉しさで顔がほころんでしまう。
◆冒頭で進行役の長野亮之介さんから紹介され、代表世話人の江本嘉伸さんが挨拶した。コロナ禍の間、報告会はできなくても地平線通信の発行が途絶えることはなかった。「通信には地平線会議のいろいろな思いがこめられている。パンデミック時代の貴重な記録として今後残っていくと思う」と江本編集長。
◆ついに再開する報告会の記念すべき最初の報告者は、フォトグラファーの小松由佳さん。2016年に報告者となって以来2度目の登場だ。あれから6年が過ぎ、世界情勢も彼女を取りまく状況も大きく変わった。6年前はベビーカーに乗っていた長男サーメル君は、この春から小学生になった。
◆小松さんが「皆さん、こんにちは!」と話し始めたとたん、芯のある透き通った声に聴衆はさっそく惹きこまれる。自らのすべてを注ぎ経験したことを淡々と語る言葉は、私たちの心にまっすぐ響く。今日の話は3つのパートに分かれているという。これまでの活動、現在の活動、これからの活動について、だ。会場の正面に置かれたテーブルの上には、昨年取材を決行したシリアから持ち帰ったガラスの破片や新聞紙の切れ端などが並べられていた。
◆小松さんは秋田県の片田舎で生まれ育った。そこでは家族と山で山菜を採ったり、田植えの最中に顔を上げると遠くに青い山々が見えたり、そばにいつも山があった。「あの山の向こうを見てみたい」と憧れを募らせた小松さんは、大学で山岳部に入り、2006年に日本人女性初のK2登頂を達成。「山で培ったものは今も私に多くを与えてくれている」と熱をこめた。
◆しかしやがて、山麓で生活を営む人びとの存在に魅了されるように。フォトグラファーという新たな道を歩き始め、国内外を旅するなかで2008年にシリアを初めて訪れた。当時のオアシス都市パルミラの写真には、世界遺産である遺跡の向こうに緑色のナツメヤシ(パーム)の木々が連なる。その土地で小松さんは、砂漠で100頭のラクダを飼う遊牧民アブドゥルラティーフ一家と出会い交流を深めていく。そして家族の1人である青年レドワンと惹かれあっていった。
◆ところが2011年以降、シリアが泥沼の内戦状態に。穏やかに暮らしていた人びとは戦火に巻きこまれ、人口2240万人のうち約1450万人が難民や避難民になった。民主化運動に参加したレドワンの兄2人は反逆罪として警察に追われ、1人はヨルダンへ逃げ難民に、もう1人は今も行方不明。兵役に入ったレドワンは政府軍の一員として市民弾圧に加担することが耐えられず脱走。小松さんは彼とヨルダンで落ちあい、2013年に現地で結婚。日本で一緒に暮らし始めたものの、アラブと日本では文化も価値観も大きく異なり「サバイバルな日々」を過ごしている。
◆ここからはシリア難民の取材活動の話。シリア国内は場所により、シリア政府、クルド人勢力、トルコ軍、反体制派勢力、アメリカ軍の影響下にあって、とても不安定。ちなみにシリア政府はロシアとイランから軍事協力を受けている。
◆不可抗力で難民になったシリア人たちは、今どうしているのか? かつての彼らの豊かな暮らしを知る小松さんは、2013年から毎年彼らに会いに行き、家族としてコミュニティに溶けこみながら取材を続ける。出産後の2017年からは子連れ取材に。「東京での育児は孤独ですが、難民キャンプへ行くとワイワイした温かさがあって癒されます」。現地では誰の子であろうと関係なく、みんなで育てる文化がある。
◆2021年のシリア取材から日本へ帰る直前、レドワンの父親ガーセムの訃報が届いた。懸命に働いてラクダを増やし、家族を増やし、シリアという土地に根づいて誇り高く生きていたガーセム。難民になってからは家も仕事も失い、精神を病んでいた。生涯の幕を閉じた彼の体は、異国トルコに埋葬された。
◆翌2022年夏、小松さんはトルコのオスマニエを訪問(今年2月のトルコ大地震の震源地近く)。ここには夫の親族6家族が暮らしており、居候しながら彼らの生活の変化を見つめた。するとシリア難民たちに変化が起きていることに気づく。彼らはシリアに戻ることを諦め、トルコから海を越えてギリシャへ渡り、そこから徒歩でヨーロッパ各地へ散って、より良い暮らしができる場所を探し求めるようになっていたのだ。
◆レドワンの兄アブドゥルメナムと彼の息子エブラハムも、そうだった。まだ13歳のエブラハムは内戦で学校に行けず、アラビア語の読み書きができないけれど、車やバイクの運転ができるので、今回小松さんのドライバーとして活躍。そんな彼が一家の命運を賭けて、「明日渡航することになった」と言う。少年である彼がほかの家族に先駆けて旅立つ理由は、子どもだと難民申請が通りやすいため。申請が通ったら、トルコにいる家族を呼び寄せる計画なのだ。エブラハムの旅立ち前夜、小松さんはあどけない彼のポートレートを撮影し、別れを告げた。
◆小松さんには今回どうしても果たしたい目的があった。11年ぶりにシリアに入り、現地を撮影することだ。厳しい情報統制がしかれ、独裁政権下にあるシリアに外国人がカメラを持って行くのだから、当然ながら危険極まりない。しかし「もしシリアに帰るなら今しかないと思った」。サーメル君が小学校に上がる前で長い休みがとれたこと。今はレドワンと婚姻関係にあるため親族訪問ビザを得られること。ウクライナ侵攻の影響でロシア軍がシリアから撤退ぎみであること。以上のタイミングが重なったためだった。
◆正規ルートであるベイルートからシリアに入国した当日、外務省から秋田の実家へ「即退避を」と電話が。さらに小松さんのスマホにも在ベイルート日本大使館から同様の連絡が来た。なぜ携帯番号を知っているのか謎が残るが、小松さんは大使館に毎日連絡を入れながら動くことに。そしていよいよシリア内部へ。
◆シリアでは監視のために秘密警察がついて来て、「パルミラでは撮影禁止。あなたは家にずっといるように」と忠告された。本来なら夫の友人宅に滞在する予定だったが、警察が彼女を別の親族宅へ連れていき、昼間は自宅軟禁状態に。夜になって涼みに外出すると、周囲の建物がことごとく崩れ落ちていたのを目撃した。秘密警察と交渉してパルミラの遺跡を見に行ったら、ナツメヤシも、夫や彼の家族と歩いた場所も、ボロボロに破壊されていた。
◆そしてついにガーセムの実家へ行くことが叶う。だが以前の穏やかな生活の面影はなく、家の窓はなくなり、床には瓦礫やモノが散乱。秘密警察からカメラでの撮影は不可と言われ、やむなくカメラを外に置いて、スマホのみを手に急いで家のなかを撮影。1分後に家を出てカメラを確認すると、内部に入っていたSDカードが破損しており、やっとの思いで撮った写真が消滅……。ギリギリの精神状態が1週間つづくなかで、唯一安らげたのはトルコにいる夫や子どもたちとテレビ電話で会話するひとときだった。「パルミラから帰るというより脱出という感じで、トルコに戻りました」。
◆ところがトルコで待ち受けていたのは、予想外の波乱。空港へ迎えに来た夫から「第二夫人をめとりたい」と告げられたのだ。昨今トルコ南部のシリア難民の間では、シリアから妻を迎える結婚紹介ビジネスが流行っている。男性側は手頃な費用で若い女性と結婚でき、女性側はシリアから抜け出すことができ、互いに利点がある。乗り気なレドワンと彼の家族とは対照的に、小松さんは放心。ところがレドワンの兄の夢にガーセムが現れ、「レドワンの結婚は不要」と告げたのがきっかけで、家族内の風向きが変わり第二夫人の話は流れたのだった。
◆この一件で、シリアで見た無惨な光景に対するショックが吹き飛ぶほどの衝撃を受けたという小松さん。しかもレドワンの親族からは「夫を満足させるため、もっと努力を」と諭された。「地平線会議でこんな話をするのはどうかとも思ったのですが、夫の姉たちから夫婦の営みの頻度を尋ねられ、2週間に1、2回くらいと答えたんです」。すると姉たちから「シリア人は毎日2回以上。あなたが悪い」と怒られ、セクシーな下着をたくさん贈られ、さらに複雑な気持ちに。その数日後に小松さんは40歳の誕生日を迎え、姉たちから励ましとともに祝われた。小松さんはガーセムのお墓参りへ行き、夢に出てきてくれたお礼を伝え、トルコを発った。
◆日本へ帰国後もしばらく頭がクラクラしていたが、「夜空の暗さにではなく、星の美しさに目を向けよう」という「40歳の誓い」を立てた。「生活が改善されない苦しみや問題はあるけれど、それでもシリア難民がいかにしなやかに強く生きているかを見つめ、撮影をしていきたい」と言う。
◆どんな困難があっても、落ちこんでも、また顔を上げて歩みつづけ、さらに強固な輝きを放つのが小松由佳さんだ。今年6月にはふたたびトルコにいるシリア難民を訪れ、地震の被害状況も取材予定。現在2冊目の本の執筆も進行中で、ほかにも写真展や写真集でこれまでの取材内容を発表していきたいという。「これからも彼らがどのように新しいふるさとを築いていくのか、難民として生きるとはどういうことなのか、写真という媒体で表現していきたい」と締めくくった。[大西夏奈子]
■3年半ぶりのリアル地平線報告会。その日を心から楽しみにしていました。報告者はなんと私とのことで江本さんからお声がけいただき、大変光栄なことでした。思えばこの3年ほどは、この先どうなることやらと思えた新型コロナの流行下、「コロナ禍だからこそできること」をしようと、現場に立ち続けることを意識してきました。この時代を生きていることを全身で受け止め、もがきたかったのです。報告会では、例年のトルコ南部でのシリア難民取材や、昨年のシリア取材などについて皆様にお話させていただき、改めて自分の活動について振り返ることができました。どうもありがとうございました。
◆最近になり、ようやくコロナの流行が終息しましたが、コロナ禍を経験した私たちの社会は、学校や職場でのリモート化など、新しい文化を育みました。私たちはかつての日常に戻るのではなく、コロナと共に培った新しい価値と共にこれからを生きていくのでしょう。そんな人間の歴史の転換期を目撃し、そこに生きている意味を問いながら、今日もカメラを手に歩き続けるのみです。
◆さて6月は、2月に発生したトルコ・シリア大地震の被災地へ、短期間の取材へと向かいます。昨年秋に取材から帰ってきたばかりで金欠極まりないですが、継続して取材してきたトルコ南部のシリア難民コミュニティが地震の被害を受け、大きな変化を迎えています。現場に立ち続けることで見えるものを見つめてきます。では皆様、行ってきます。[小松由佳]
■コロナ禍を経て3年ぶりの報告会。そして再開の第一発目の報告者は小松由佳さん。少し早めに会場に入ると、どこを見ても懐かしい顔ぶれ。言葉を交わすたびに、声が弾む。
◆迎えた報告会。緊迫のシリア取材とシリアからトルコへの脱出。その直後の第2夫人メトリタイ騒動。「女は強いんじゃなくて強くなっていくのよ」と、現地の女性たちに慰められ、アラブの女になったと認められたこの騒動と、その文化的背景を端的に俯瞰した考察。小松さんのピンと張った迫力ある話には、誰も割って入ることができない緊張感を感じた。
◆最後に語った「夜空の暗さにではなく、星の美しさに目を向けよう」という自身の誓い。激しく目まぐるしい日々を経て辿り着いた小松さんのその言葉には衝撃を受けた。
◆写真家として、二人の子を持つ母として、そして難民の困難さに直面する一人の人間として。どんな状況でも幾多の困難に対して、前向きでしなやかな強さの源泉は何なのかじっくりと訊いてみたい。[福井から馳せ参じた 塚本昌亮]
■4月の報告会に参加しました。コロナ禍以前からご無沙汰しており、久しぶりで少し緊張していた私を江本さんも皆さんもあたたかく迎え入れてくださり、会えない時間などまるでなかったかのようでした。
◆ちゃっかり3次会まで参加してしまい、酔いと眠気で朦朧とした私の前で、気づけば「それは愛だよ!」の言葉の大合唱。武蔵野美大で学び、関野吉晴さんの黒潮カヌープロジェクトに参加した私は、今は中高一貫の女子校に勤務しています(今年は中1のぴよぴよちゃん達を担任しています)。
◆地平線会議と出会ってから20年。自身の環境が変わる中、変わらずお付き合いできる人たちがいることの喜びをひしひしと感じながら、「うん、確かにこれって愛だよね」と霞がかった頭でぼんやりと考えたのでした。次回通信を楽しみにしています。[木田沙都紀]
■この春、中3に進級したので少しだけ近況報告をする。去年の秋から生徒会長をしている。それまでは本部役員として言われたことをこなすだけだったが、会長として新たな企画を考案したり話し合いをまとめたりするようになった。責任ある立場という自覚を持ち、日々仕事を全うしている。
◆私の学校の運動部は早いところだと5月くらいに引退試合があり、そこから受験勉強に本腰を入れる人が多い。それに比べて私の所属している吹奏楽部はサマーコンサートをもって引退となるので、7月いっぱいまで部活がある。 他の部活の人たちと学力面で差が開いてしまわないように、今のうちから人一倍内容の濃い勉強をして差をつけたいと思い、これまで通りの週一回の塾に加え、日曜特訓の受講資格を取得し日々がんばっている。
◆中1の頃から毎年合唱コンクールのピアノ伴奏をしている。最初はピアノが弾けるという理由で半強制的にやらされたのだが、自分の伴奏に歌が乗る楽しさに気づき、そして歌が下手くそだから歌いたくないということもあり伴奏者に立候補するようになった。ただ、パッと譜面を読んですぐ弾けるタイプではないのと、受験生になり更に忙しくなることを見越して、本番の一年も前から3年生の課題曲の伴奏を練習している。もう概ね弾けるようになり、音楽の先生には「授業で弾いてみる?」と言われた。自分ではまだ納得がいっていないのでそれは断ったが、10月にある合唱コンクールまでに曲を研究しつくして本番当日成功させたい。
◆ここ一年くらいの趣味は自分の過去のアルバムを見ることだ。学校のアルバムもそうだが、年長〜小5まで毎年通っていたモンゴルのアルバムを見て懐かしさに浸っている。それを見てモンゴルのことを思い出すが、言葉は3年以上のブランクによってほぼ忘れてしまった。キリル文字は何となく読める。ただ、単語が思い出せないのだ。家で母にモンゴル語で話しかけられることが時々あるのだが、本当に何を言っているのかわからない。せっかくモンゴル人やモンゴル語教室の先生の知り合いがいるのだから、受験などが落ち着いたらまた一から勉強し直すのもいいなと思った。
◆神津島で寮生活をする長岡祥太郎くんが 「島ヘイセン」という題で連載をしているのを読んで、同じく生徒会長で受験生なのだと知った。会わないうちに内面も外見も大きく成長しているなと感じた。離島留学という選択をし、親元を離れ、地平線的な生活を送っている祥太郎くん。目先のことしか考えていない私とは大違いだなと尊敬の念を抱いている。
◆先月22日、約3年ぶりの地平線報告会が行われた。金曜だと部活があって参加できないので土曜開催というのはすごく嬉しい。通信を見ることでしかみんなが何をやっているのかを知る機会がなかったので、久しぶりにじかに報告を聞くことができてよかった。最近は何も考えず(強いて言うなら受験どうしようとかしか考えず)のらりくらりと過ごしていた。
◆私にとってとても刺激的な時間だった。また、私も久々に会った人たちのことを忘れかけていたが、3年も経つと私の容姿が結構変わったようで、前まで仲良くしてもらっていた人から最初は気づいてもらえなかった。しかし通信などに母が書いていたのを読み、「ゆずちゃん、生徒会長やってるんでしょ〜」などとたくさん話しかけてもらえて嬉しかった。二次会の北京は安定の美味しさで、更に初めて会った方とも話ができて充実した時間だった。日曜特訓の宿題が終わっておらず切羽詰まっていたため三次会への参加は断念した。非常に惜しい。今月は金曜開催ということで参加できないが、今後の報告会も楽しみにしている。[瀧本柚妃]
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