2020年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信499より
先月の報告会から

地平線の根っこ

江本嘉伸

2020年10月29日 新宿スポーツセンター

7か月ぶりの報告会

■本当に久しぶりの新宿スポーツセンター。参加受付のために予め送ってもらった葉書を忘れてはいけないと、何度も鞄の中を確かめながら向かった。思えばどこか懐かしい。もう何年前だろうか、どこで地平線会議のことを知ったのかは忘れてしまったが、会社員になりたてだった私は、月に一度、同じようにハガキを握りしめて、会場のアジア会館に向かう夜が楽しみだった。初志を追い求めて行動を続けている人たちの話をうかがうことで、変化の少ない日々の気持ちを紛らわせていたのだと思う。今回の江本さんの話を聞いて、まさにその頃の自分の思いや、地平線会議という「場」のありがたみが蘇って来た。

◆検温をしてもらい手を消毒して、長机に1人ずつの割合の席に着く。見渡すと多くが馴染みの人ばかりだったが、やはり、こうして実際にお会いできると、懐かしさも込み上げてジーンと来る。「地平線の根っこ」と題した8ページの小冊子も配られた。今回、進行を務める丸山純さんが仕上げたばかりだという。前のほうでは、落合大祐さんが映像記録のためのカメラ設置に忙しい。いつもは報告者のまん前にどんと構えている江本さんだが、今日は主役としてこちら向きのテーブルに。

◆「今日の久々の報告会、『地平線の根っこ』」とイラスト担当の長野亮之介画伯は命名しましたが、私には『江本嘉伸の根っこ』という命名のほうがふさわしい内容に思えます。これまで江本さん、新聞記者としての仕事は地平線の中ではできるだけ出さないようにしてきたそうですが、今日はそうしたことも含めて存分に話してほしい」と、丸山さんの冒頭挨拶から7か月ぶりの報告会が始まった。

32年前の林彪機

◆「恐ろしいことが起こりました。今年は御年80に。(地平線会議も)とっくにやめているんじゃないかと思う年齢ですが、相変わらず続けている。それどころか3月以来、通信はどさっと厚くなった。それはなんだろうと作りながら思うのです。何よりも、新型コロナウイルスの席巻という未曾有の事態が進行している今を記録しなくちゃならない、という使命感です」

◆「2月に横浜港に立派な客船が入って来て患者が出始めた頃から、見守っている期間がもう10か月続いている。冒険や探検ではないが、みんな何を感じて生きているのか記録を残そう。あと30年経ったら私はいない。コロナが吹き荒れた時代の市民の記録が語り継がれなくてはならない」と。そして、「今日はこれまで見せてこなかったいくつかの記録を見てもらいます」そう言っていくぶん茶色くなった新聞を掲げ、前の席から回覧を始めた。

◆墜落した軍用機の尾翼部分の写真が大きく載っている。手元に回ってきた時によく見たら、1988(昭和63)年4月9日(土)の読売新聞夕刊一面で、「無残「林彪機」の残がい」「モンゴルの草原1キロ四方に散乱」という見出しの、墜落したトライデント機の写真も痛々しい取材記事だった。

◆71年9月、中国でナンバー2の地位にあった林彪がクーデターに失敗、毛沢東にやられて脱出後、飛行機は草原に墜落したのだった。その機体の尾翼部分がほとんどそのまま残っている現場。「17年後、現場に案内されてこれを見せられた。え?これがそのまま残ってるのか?!と驚いた。西側メディアはまったく入れなかった草原」。それを伝えるふるい色褪せた新聞記事を手にとってもらうことで例えば「現場」というのは、そういうことに思える」と、江本さんはこの新聞を最初に見せた理由を語った。

◆色褪せた新聞、何十年か前に録音された音声、そうしたものを地平線会議はいかに大事にしてきたか、オンライン形式の講演会、トークに慣れっこになっている身には見えない風景を江本さんは冒頭強調したかったようだ。

半世紀前のエベレスト

◆今回の報告会のテーマは、日本人の登頂から半世紀を迎えたエベレストのことが中心だと聞いていたが、先ずはその話題から。江本さん自身も75年の日本女子隊と、80年の日本山岳会チョモランマ隊に同行取材をしている。「なんとなく新聞の仕事で行ったなあということもあり、ほとんど語ってはこなかったが、現場はやはり面白かった」と語り始める。

◆最初は70年に日本山岳会隊と日本エベレスト・スキー探検隊が競合した時の話。スクリーンに大きく映し出された写真は、5月6日、スキー隊の三浦雄一郎さんがローツェフェース7700m地点から2分20秒の滑降の後に転倒、「おしまいか」という一瞬。パラシュートの端っこが氷のギザギザに引っかかり、なんとか止まったというシーンだ。日本山岳会隊の人たちも交信を止めて静かに見守り、無事だとわかった時には、みんなが拍手したという。三浦さんも、さすがにあの瞬間は死ぬと思ったらしい。「その後、70歳、75歳、80歳の時にもエベレストに登ったが、登る分にはすぐ死ぬことはない。アイゼンがしっかり食い込んでさえいればいいのだが、スキー板では止まるに止まれない」。

◆日本女子隊に同行した時、ローツェフェースを登った江本さんも、5年前の滑降地点を見て「ちょっとこれは……」と思ったそうだ。その時、三浦さんは37歳、まさに絶頂期。そこまでかけてやりたかったのだ。この年は大阪万博の年。「183日間に6400万人の人が見に行って、人気の館は入れなかった」。お金はないけれど、何か目立つものをやりたいというネパール観光局の思惑と、日本山岳連盟の高橋照さんの思いつきが合わさり、ヒマラヤ、エベレストの大きなパノラマ写真を飾るという目玉企画ができ、スキー滑降と映画撮影の許可を、前に計画していた日本山岳会より先に取ってしまった。当時はシーズンに一隊が原則。「頂上までは登らない」という条件で滑降許可が出た。

◆スキー隊にもすごいクライマーがそろっている。「もしかしたら先に登っちゃうんじゃないか」という心配もあり、「頂上にはいきません」という念書を交わしお互いにさわらないように、世界最高峰に共存していた。エベレストは南極点、北極点とともに、地球の三極として世界の冒険者にとって象徴的存在だった。日本人の初登をやりたいと日本山岳会が考え、世界最高の冒険をやりたい三浦さんの挑戦と重なった。しかし、三浦さんには痛恨の思いも残った。アイスフォールの崩落で6人のシェルパが死んだのだ。専従スタッフとしてスキー隊を支えた加藤幸彦さんが、最後まで荼毘につきあって礼を尽くしたという。

◆続いて映し出されたのは日本山岳会隊の写真。ここで江本さんが語ったのは高所登山の怖さ、慶応大学山岳部出身の成田潔思さんの死についてだ。登山隊には隊員間の競争心も付きものだが、28歳の成田さんは誰にも負けない体力の持ち主だった。山麓に滞在していた時、トレーニングに騎馬戦をやったが、成田さんにはシェルパもかなわない。「彼は頂上に行くかも」と、あの植村直己さんがライバル心を燃やしていた。しかしBC入り直前で風邪をひいてしまい、高所順化がうまくいかなかった。6400mのABCまではやっと行けたが、C1まで戻ってきたところで突然死んでしまった。結果、未踏だった南西壁は断念したものの、5月11日に植村直己さんと松浦輝夫さん、翌日、平林克敏さんとシェルパが東南稜から登った。

◆写真は80年に江本さんが取材同行しているチベット側の山容へと切り変わった。この時は日本山岳会隊が北壁を初めて登攀、重廣恒夫さんらが登った。その後、エベレストは、登頂しただけじゃ価値がないと、様々な試みが行われるようになっていく。「石川直樹君が登った2001年にも、フランスの青年、マルコ・シフレディがスノーボードで北壁を滑ったが、その時のルートがすっきりしてなかった、と翌年もう一回試みて今度は死んでしまった」。そして、商業公募登山隊の時代となっていった。

頂上直下の行列

◆「むしろこの写真を一番見てほしい。これが今日のエベレスト話のハイライトです」という言葉とともに映し出されたのは、ラッシュで大混雑する信じられない頂上直下の行列の写真だ。「登り、下りのすれ違いで、どうしても待っている時間ができる。充分に酸素が吸えるか吸えないかも命綱なのに。今はこういうことがほぼ年中行事みたいだ。これは何も美しくない。この人たちにとって記録は残るが。一人800万円、1000万円といったコマーシャルエクスぺディションが、ちゃんとビジネスになっている。いつの間にか世界はそうなったんだ」と、以前を知る江本さんは嘆く。

◆続いて頂上に立つ田部井淳子さんの写真。75年、エベレスト日本女子隊が登頂に成功。江本さんはこれに同行した。日本山岳会隊や三浦隊がエベレストに出かけた70年、田部井さんたちはアンナプルナIII峰に登頂している。その模様は『アンナプルナ女の闘い7577m』という本に描かれているが、江本さんは久野(当時宮崎)英子隊長の豪胆さに魅かれたという。「女が登るなんて無理だ」。誰もがそんなことを言っていた時代だった。しかし75年のエベレストでは結果的に久野さんではなく副隊長の田部井さんの力、リーダーシップだけが印象に残った。帰国後の田部井さんの活躍はご存知の通りである。

鍛えられた山岳部

◆続いて、アルバムから複写した学生の頃の江本さんの写真が映し出された。18歳の時だそうだ。江本さんは東京外国語大学ロシア語科に入学してまもなく山岳部に入部した。東京芸大山岳部にいたお兄さんの影響もあったらしい。「いまは山岳部自体がなくなってしまったが、当時の大学山岳部がそうであったように、外語山岳部もかなり先鋭的な登山を目指していた。北穂の滝谷では初登攀争いもしていた」。写真の横には「1959,8 はじめての山から帰って数日後 身体中が痛く、下痢にもめげず、食い続け、ボーッとして、尚かすかに興奮している−」という文字も記されている。5年間、ロシア語はどこへやら登山に明け暮れる日々だった。

◆「いきなり45キロもの重たい荷物を背負って歩かされた。石を背負っていたようなもの」。強くはなったが、背負い方がまずかったためか、いわゆる「ザック麻痺」に。合宿を終える頃には左腕がだらんと下がってしまい、上げられない。「後になって、少しやばいクライミングをする時に、最後は左腕が利かなくなる瞬間があり、それは登攀にとって致命的だった」という。リーダーとして出かけた剱岳、北穂高の滝谷……。厳しい登攀の写真が次々と続く。写真を見て今も胸が疼くのは、62年3月、北穂の頂上にテントを張って1週間もいた時のこと。吹雪でテントが埋まらないように交替で除雪した。

◆滝谷は当時北穂からいったん降りて壁に取り付くのが普通だったが、外語山岳部はその後は下の岐阜県側の蒲田川から入った。「滝谷にはAからFまで6つの沢があり、その全てを登下降した。アイゼン技術はこういう所で鍛えられた。慣れてくると斜面が急なことも楽しくなる」。その技術はエベレストで役に立ったという。

ローマ字原稿

◆続いて江本さんが披露したのは、「たまたまローマ字の原稿が出て来たので持ってきてみた」という、日に焼けて時代を感じるA4サイズの薄紙。「誰か読んでみて」という呼びかけに、長野亮之介さんが代表して読み上げた。「CHOMOLANMA BC KARA TNTOODESKATE EMOTO……」チョモランマの取材時に書いた予定稿だそうだ。高所でも必ずタイプライターを持って行き、ローマ字で原稿を書いた。「ネパールならばメールランナーが、この原稿はチベットだから、ヤクとジープで電信が送れるところまで運び、1日半かけて東京に届く」。

◆江本さんがここで語りたかったのは「伝える」ということの大事さ。今はSNS等で瞬時に何千、何万の人に伝えられるが、そうではないものを見せたかったとのことだ。「だから今でも地平線通信は紙で作っている」。78年には日大隊の北極点到達を取材した。植村直己さんも相次いで到着。本に書いているが、日大隊に先を越されて悔しがっていたという。北極に住み着いている日本人エスキモーで、シオラパルクの村長もずっとやった大島育雄さんの写真に続き、「北極点を競った3人」と記された写真が映された。ヨットの堀江謙一さん、日大隊の池田錦重さん、植村直己さん、そして江本さんたち。こうした話題で社会面トップを書いたりしていたそうだ。

地平線会議の誕生

◆後半は地平線会議の話に。「これが今に続く私の姿。新聞記者もやりながら地平線のことも一生懸命やって、結果的にそれが今も続いている……」。78年12月、法政大学で関東学生探検報告会という催しが3日間にわたって開かれた。「3日間とも通いました。面白かった」。江本さん38才の時で、参加者のなかで宮本千晴さんとともに最年長だった。「三浦さんがエベレストを滑った37歳とも近い。怖いもの知らずでもあったんでしょう」。宮本さんが、最後の日にこんな質問をした。「この3日間よかった。ただ、学生をやめて、この後、皆さんどうされるんですか」。会場はちょっとだけシーンとなってしまった。それぞれ就職したりして、その後も続ける人はいない。

◆「何かやろうか。俺たちがこういう人たちを支えなきゃいかんのじゃないか」と江本さんと宮本さんは話し合った。何人かが四谷の喫茶店に何度も集まり、79年8月17日、江本さん宅で「地平線会議」という名前が決まった。それが地平線の誕生日だ。毎月報告会を開く、記録として通信を出すということも。そういう話の中で会場に快活な女性の音声が響いた。「こんにちは。ダイヤルしていただいてありがとう……」。地平線会議誕生の頃に伊藤幸司さん、丸山純さんらがスタートさせ、2分半の放送を毎週作っていたという地平線放送だ。続いて年報『地平線から』『DAS』『地平線大雲海』などの写真も披露された。パスポートが自由に取れるようになった1964年には、わずか12万8000人だった海外渡航者数が、ほとんどがツーリズムや旅行とはいえ、352万人という(当時としては)すごい数になっていた。

◆「どうやって記録に値する年報にするかが問題。年報『地平線から 1979』ができた時はジーンと来ましたね。値段は1500円で確か500部刷ったが、そんなに売れなくて」。でも毎年、毎年出し、その都度発刊記念大集会をやった。初代編集長は関西学院大学探検部OBの森田靖郎さん、その後は白根全さんが引き継いだ。

地平線放送と年報『地平線から』

◆スクリーンに再びチョモランマの写真が映し出されると同時に、会場に今度は男性の声が流れた。「えーと、ただ今ノースコル、目の前の壮大な眺め……。時間は午後5時……」。強風のためか途切れ途切れではあるが江本さんの声だ。1980年4月、チベットのチョモランマ北東稜。7000mを超えたノースコルのキャンプにいる時、「そうだ地平線放送があった」と小さなテープに収録したものだという。「伝え続けるには、あらゆるやり方がある。たどたどしいけれども、この音は何十年ぶりに聞いた」と述懐する。

◆82年7月、『地平線から・1981』発刊記念の大集会。ドキュメンタリー映像の専門家、故牛山純一さんが地平線会議にすごく関心を示して支援してくれ、有楽町そごうビルの映像カルチャーホールで貴重な映像を1日見るという催しが開かれた。82年秋にはその縁で3か月以上のチベット自治区縦横断旅に参加できることになった。チベットにはまだなかなか入れなかった時代だが牛山さんがドキュメンタリー枠をとってくれ、新聞記者には許可が出ないので、番組宣伝用のスチールカメラマンとして出かけたそうだ。

◆カメラ三つぶら下げて標高4000m以上の高地を走り回った。川を渡るヤク、毛糸を撚る婦人、お食い初め、バターやチャン、ヤクの皮革を縫い合わせて作った「コワ」という川舟での漁、鳥葬の岩……。遊牧の草原、収穫の農村、森の暮らし、僧院の生活等々、チベットの珍しい写真が続く(この時の体験は『ルンタの秘境』として光文社から発刊された)。江本さんが著した『ルポ 黄河源流行』の書影も出てきた。86年の刊行だ。「行くたびに本も書いてきました」。

社会主義時代のモンゴル行

◆その後はモンゴルの写真が続々と登場。87年に初めて出かけてから30回以上は行っているとのこと。「1968年 モンゴル ハルヒラー連峰 外語大山岳部」という文字が記された古い冊子も映し出された。江本さん自身は同行できなかったが、外語大の山岳部が外国隊として初めてモンゴルの山に出かけた時の登山計画書。参加できなかったことは悔しかったが「その悔しさが出発点になっている」という。

◆江本さんが初めて訪れた頃、モンゴルは完全にモスクワのコントロール下にあった。言い換えればロシア語が通じた。驚いたのは今では信じられないが、チンギス・ハーンがソ連の歴史観をそのまま受け入れ「残虐な征服者」として完全にタブー視されていたことだった。折からゴルバチョフのペレストロイカが始まり、そのことが江本さんのモンゴル遊牧草原への“潜入”を助け、数年後、チンギス・ハーンの陵墓を科学的方法で探索する「ゴルバンゴル学術調査」として結実してゆく。

◆民主化以前の社会主義時代のモンゴルの遊牧草原、都市の暮らしを体験したことは私にとって実に大きな財産だった、と江本さんは言う。たとえば、1000頭、2000頭の家畜をいい草を食べさせ太らせながら屠場まで1000kmもの「家畜運搬旅」をする人々の遊牧システムは、社会主義時代のもの。今では若い遊牧民は知らない暮らしぶりだという。88年には冬の遊牧草原を長期取材。「子羊がいっぱい誕生して、一匹も死なせないように大変な戦いになるんです。毎晩寝ずに羊たちの出産を見守り、一頭の赤ちゃんの命も大切にする。子家畜を守るというのはそういうことなんだ」。

◆今では日本の大相撲では不可欠のモンゴル力士たちもモンゴルの民主化の賜物という。毎年7月11日の「ナーダム祭」の時にはウランバートルの中央スタジアムに512人の力士が参加し、芝生の上、2日ががりでゆっくり、ゆっくり取り組みが進む。モンゴル相撲の話や、乗馬中の江本さんの写真も。馬にほんの少し上達し、酔った勢いで裸馬に乗ったら、わざとクリークをジャンプされて投げ出され、大反省したという顰蹙もののエピソードもある。

◆『鏡の国のランニング』という本も紹介された。40才になってから始めたランニング。北極でもチベット高原でも「地球のどこにいても毎日10km走ろう」と決めた。「夏も冬も本当に10km走った。考えてみれば元気ではあったんですよ」マラソンを3時間08分で走れるようになったという。

『西蔵漂泊』の世界

◆続いて映し出されたのが『西蔵漂泊(上下巻)』の書影。93年、94年の刊行だ。明治から大正にかけてチベットに潜入した十人の日本人たちを紹介したもの。「80年のチョモランマ登山の際に、かつてチベットに潜入した日本人のことを調べた経緯もあり、さらに85年の黄河源流行でも、チベットについてさまざまな資料を読ませてもらいながら、日本人のチベットの旅に強く関心を抱くようになった」という。

◆私事ではあるが刊行当時、私はこの本の版元の山と溪谷社に勤めていた。江本さんの著す内容はもちろん、こんな重厚な本を刊行できる会社に改めて誇りを感じたものだった。本になる前に『山と溪谷』誌に連載されていた頃には、自分は当時ブームを巻き起こしていたスキー雑誌の世界に浸りきっていたが、やはり、こうした骨太の企画を連載できるような編集部に異動したいと、かなり我儘を言って移らせてもらう上で、精神的に背中を押してくれた連載でもあった。

◆執筆当時は、まだ三人のかたが健在だった。西川一三さん、木村肥佐生さんの二人は、興亜義塾で情報員の教育を受けてチベットへ旅立った人たち。木村さんは要領がよくスマートな青年、対して西川さんは浮いた話は全くなく、仲間内でも「馬鹿みたいに一徹な男」と評されていたという。江本さんは、お住まいの盛岡で東京でと西川さんに何度もお会いした。「戦争を知っている人は、あまり口にしたくなかったこともあり、なかなか話をしてくれないものだが、あの人たちにお会いして話を聞けたのは、本当によかったなあと思う」と懐かしむ。今みたいに飛行機もなにもない時代。日本からチベットを目指すには船と自分の足で歩くしかない。

◆もう一人の野元甚蔵さんは97歳まで健在だった。「暮らしていた鹿児島の開聞岳の麓、山川町(現指宿市)に毎年通い、はじめは取材だったが、そのうちご家族とも親しくさせていただき、取材を超えておつきあいさせてもらった」という。小学生のお孫さんと海に潜って魚の種類を教えてもらったり、夜のイカ曳き漁を体験したり。「地平線報告会に2度(2009年5月と2010年5月)も来て話をしてくれた。野元さんの著書(悠々社刊『チベット潜行 1939』)をお手伝いできたこともいい思い出です」。

社内では評判悪し

◆ここでは詳しく書ききれないが、配布された8ページの冊子「地平線の根っこ」を読むと、江本さんのさらに多彩な活動ぶりが見える。72年8月、国交正常化直前の中国取材、北朝鮮の平壌での南北赤十字会談取材、フィリピン・ルバング島で小野田寛郎さんを捜索、77年のソ連取材……。「なんとなく好きなことをやって字にしてきた」。しかし、「好きなことを仕事にする人はもちろん好かれないね。社内では評判が悪かった」と自己評価は辛口だ。「いいんじゃないか。あいつはあれで」とだいぶ上の上司が認めてくれ、仕事を進められたのがありがたかったという。

◆その当時の仕事の一つとして黄ばみかけた、よれよれの新聞が披露された。モンゴル遊牧草原の記事だが、写真が見開き中央部をまたいで大きく載る「ノドつぶし」という手法でレイアウトされている。「新聞は何十ページあろうと真ん中だけに見開きで写真が大きく使えるページがある。このスペースを利用してモンゴルの遊牧草原を迫力ある写真とともに紹介した」。記事下には企業広告が載る。江本さんの書く記事の人気故に広告企画として組まれた例だ。「業務でやった仕事だから地平線で話すのはきまりが悪い。サラリーマンがこんなことやっていいのかと時には思いましたよ」と遠慮しつつも、「新聞記事の面積では稼いでいたし、一応のことはしてきたのかな」と述懐する。

◆海外に出かけて多忙な時期には地平線のことはかなり仲間にお願いしてしまった。「報告会も年報も……。つくづくありがたかった。だからその分、日本にいる限りは頑張る、と決意した」。江本さんはちょうど2000年に読売新聞社を退職し、地平線会議の仕事に本格的に取り組むようになる。スクリーンには、それ以降の動きが次々と映し出された。02年の国際山岳年には田部井淳子さんを助けて日本委員会事務局長を務め、「日本にも山の日を」と小学生たちに呼びかけてもらった。当時の「山の日」ポスターの写真には外語大山岳部の先輩、三宅修さんが撮影した羅臼岳の写真が使われている。08年10月25日、沖縄県うるま市で開かれた「地平線あしびなー」。もちろん2011年3月11日の東日本大震災の時も現地に出向いて行動した。陸に乗り上げてしまったままの「乗り上げ船」、84人の子供たちが津波に飲まれた石巻の大川小学校の写真などが映される。「先生がとにかく山に逃げろと言ってくれていれば……」。

◆「これが私の歩いてきた道です。僕にとってはそれが地平線だった」。そして「今回の報告会のあとも多分新型コロナウィルスの猛威は終息しない。当分報告会はできず、通信を発行するだけになりそうだが、その分、コロナ時代の記録を残す気持ちでいい通信をつくりたい」と。年末の「地平線通信500号」を目前にして、久しぶりに話す側と聞く人たちとが同じ空気を吸いながら開かれた報告会。江本さんの話は、こんな言葉で結ばれた。「とにかくコロナ時代でも記録を残すこと。さまざまな人が本気で書くことで空気が動く。それが大事だと思う」(久保田賢次

■10月の報告会はネットでも配信します。休憩を挟んで前編70分、後編60分の熱い語りが期間中ならいつでも無料で繰り返し観られます。配信は12月29日までの予定です。ご希望の方は までメールでお申し込みください。折り返し担当者からアクセス方法をお知らせします。受付は手作業のため、お申し込みいただいてから数日かかるかもしれませんのでご容赦ください。また、申し込み者が素性不明の場合は返信できないことがあります。

報告者のひとこと

■久々に報告者となって空間が空いていることにほっとしている自分に驚いた。100人が入っても大丈夫な会場なのに、今回だけは参加者の少ないことを祈る、というヘンテコな気持ちで前に立ったのだ。会場に離ればなれに座ったのは20人あまり。話し始めるとこういうさ中に聞きに来てくれた人に損はさせないぞ、という気持ちが出てくるから不思議だった。

◆話したかったことの一つは「時代をどうとらえるか」ということだ。そのために日本人のエベレスト登頂から半世紀経ったことを報告のきっかけとした。人間の寿命から言って「あれから1世紀」はない。せいぜい半世紀か70年ぐらいであろう。エベレストの登山史は、ヨーロッパで生まれたアルピニズムの発展史であるとともに中国という巨大国がチベットを飲み込もうとする厳しい現場でもある。

◆「密拒否とマスク着用」こそ2020年の象徴だろう。旅も探検もない、こういう事態は誰も予想できなかった。関野吉晴のグレートジャーニーが終わっていてほんとうによかった、という思いがコロナが騒がれて以来、ずっと私にはある。当分、報告会はできなくても地平線通信という紙媒体を活き活きさせ続けたい、と願う。(江本嘉伸


控えめな江本さん

 コロナという新しい日常のなかで、地平線報告会をどうすべきなのか? 江本さんはこのことについて、ずっと考えてきたという。今年の春、メディアは「今日もこんなに感染者が増えた」と人々の感情を煽り、日本中に自粛ムードを広げていた。江本さんはギリギリまで悩んだ末、3月の報告者である森田靖朗さんを自宅に招き、少人数の前で話していただくという決断をした。翌4月からは、ついに報告会がなくなった。そのぶん、地平線通信が厚みを増した。江本さんの報告会に対する情熱は、そのまま通信制作のほうへ注がれた。

 10月。7か月ぶりに報告会を行うと決めたものの、コロナの状況によっては土壇場で中止になる可能性もある。そうなっても迷惑がかからないようにという意味合いもあり、江本さん自身が報告者を務めた。報告会の冒頭で江本さんはこう言った。「これまでZoomの講演会に何度か参加した。悪くはないが、どこかで“違うんじゃないの?”という思いもあった」。生の報告会を40年間毎月続けてきた地平線会議にとって、Zoom報告会という選択肢は今のところ「違う」らしい。

 会場では江本さんの人生年表が配られた。司会役の丸山純さんが、江本さんとあうんの呼吸で前夜に制作したという冊子だ。1972年8月・日中国交正常化直前の中国へ渡航、1972年9月・南北赤十字会談の取材で北朝鮮入り、1972年11月・ルバング島で小野田寛郎氏の捜索活動に参加、1975年5月・エベレスト日本女子隊登頂成功に同行、1978年4月・北極点到達の日大隊に同行、1987年5月・林彪墜落現場を取材、1991年8月・ゴルバチョフ退陣の瞬間に社会主義末期のモンゴル滞在……。現代史の激動に立ち会ってきた、なんと刺激的な人生。新聞記者として、無類の冒険好きとして、自らの足で現場を渡り歩いてきた江本さんの人生年表は圧巻だった。

 この日印象的だったのは、「今からする話は会場に来ている皆さんだけに話します。オフレコでお願いしたい」と前置きされた3つの裏話。輝かしい冒険記録の影には、むきだしの野心や嫉妬、足の引っ張り合い、色恋沙汰などの泥臭い人間模様が存在していたりする。世の中は現場に行かないと知りようのない、生々しい真実だらけなのだろうと考えさせられた。煮えたぎる好奇心を持って多くの人と本気で関わってきた江本さんは、それだけ多くの秘密を抱えているのだろう。

 報告会中盤、「今日のテーマの底にあるのは“伝える”という行為の大事さです」と江本さん。地平線報告会や通信がアナログにこだわるのは、そうじゃないと届けられない何かがあるからなのだと思う。「SNSに載せれば瞬時に何万人とすぐつながれるのかもしれない。でもそういう時代だからこそ、あえてつながらないことも良しなのでは」。記者時代は必ず現場にタイプライターを持参した。5,300メートルのエベレストBCでは天気が良ければ外で、悪ければテントにこもって、初登頂成功の予定稿を書いたという。現場に身を置かないと感じられない空気のようなものは、きっと文字にも表れる。

 ところで、地平線報告会で江本さんはつねに拳を振り上げ、「オイ!」と吠えている(ようなイメージがある)。しかしこの日は妙に穏やかで控えめ(?)だったので不思議だった。後でハッとしたのだが、江本さんはいつも、他の誰かの凄さを訴えるために吠えている。そうしてこれまで数えきれない若手の可能性を表に引っ張り出し、背中を押してきた。新聞記者を引退してフリーになった後も、自著を書くことより地平線通信の制作に没頭しているので、約20年間本が出ていない。以前宮本千晴さんが、「地平線会議は江本の天職」と語っていらっしゃったのを思い出す。(大西夏奈子

ナマエモ効果

■「使命は、客観的に事実を伝えること」。そんな新聞記者気質が働くのか、江本さんの報告会で私見や私情を耳にした記憶は、あまりない。あるいは地平線を語るときも、「世話人代表的立ち位置」からのコメントが多かった気がする。ところが、この日の江本さんはちょっと違った。個人と言うのか、私人と言うのか。「あっ、ナマのエモトさんが喋ってる!」と、誇張すればそんな印象だった。そこに今回の報告会にかける静かな意気込みを感じ、また、「ああ、この人はいつもオフィシャルだったんだなぁ」との感慨にも打たれた。

◆映し出された写真の中には既に目にしたものもあったが、ナマエモ効果なのか以前よりリアリティが増幅され、林彪搭乗機の墜落現場など、自分も渺々たる荒野を渡る風に打たれて、残骸を見上げている気分になった。現場と言えば、報告会場も小さな現場だ。この日は、小松由佳さんの男の子2人が、コロナ下で緊張気味の会場の空気を和ませてくれた。この御時世に屈託ない子供たちの姿は救いだけど、未知の土地での子連れ取材となれば話は違う。「どんなに大変だっただろう」と想像し、改めて頭の下がる思いがした。

◆報告会で体験を伝えるのは、報告者のトークや写真だけではない。聞き手の我々も場の当事者となり、会場全体が媒体に変わって、さまざまな情報が行き交う。これだけは、どんなに優れたリモートイベントでも真似できない。当たり前に報告会が開けていた時には気付かなかった当たり前のことに気付けた。その点でも、私には意味のある報告会だった。(久島 弘

やはり報告会は生がいいですね

■昨夜は報告会に参加させていただき、ありがとうございました。初めて目にする映像や古色の新聞、雑誌なども手元に廻してくださったり江本さんならではの貴重なお話しを伺うことができ、楽しい時間でした。

 やはり報告会は生がいいですね。コロナ災厄の今だからこそ記録しておこう、との“地平線の根っこ”を地平線通信に感じ、読ませて頂いています。私の心の栄養です。

 どなたかおっしゃっていました。江本さんの執筆集のようなもの私も是非お願いしたいです。(報告会翌日便箋で 横山喜久

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