■新型コロナウィルスが猛威を振るう中、前回の通信を読んで「長いこと閉ざされていたあのナガランドの報告だ!!」とワクワクしながら会場に入ると、飾らない佇まいに意志の強い瞳が印象的な女性が立っていた。延江由美子さん。今日はナガランドを含むインド北東部の暮らしや文化を300枚の写真とともに報告してくださる。延江さんはローマ教皇を頂点とするカトリック教会のMMS(メディカル・ミッション・シスターズ=医療宣教師)という女子修道会のシスターとして活動されている。
◆いくつもの部族の言語を操り異文化の中で軽やかにステップしているようにみえる延江さんにも、これまでに幾つかのターニングポイントがあった。高校生の時に交換留学生として一年間過ごしたアメリカで熱心なクリスチャンのホストファミリーと出会い、深い宗教体験や人生の見方を教わり、自らもクリスチャンの洗礼を受けた。帰国後、獣医をめざし入学した北海道大学でヒグマ研究グループ(北大クマ研)と出会い、さらなるカルチャーショックを受け、獣医としてアフリカで働くことを夢見つつも、大学院進学直前にカルカッタのマザー・テレサのもとでボランティアをして過ごすことになる。
◆結果、獣医学から看護へ針路を変更。獣医資格を取得後学費を貯め、アメリカで看護学部に入学。その時の友人の紹介でMMSと出会うことになる。アフリカへは行きそびれたが、2000年からインド西部マハシュトラ州と北東部でミッションに参加、今に至っている。
◆北東部赴任前に働いていたマハシュトラ州のプネのHolistic Health Centreでのダウン症の少年へのたった一回の治療の効果に愕然として、鍼治療も習得した。治療前後の写真を見て江本さんが思わず「これ、同じ人なの?」というくらいの表情の変化なのだ。鍼を刺して微弱な電気を流して気の流れを促進するという技術をひっさげて、延江さんのインド北東部でのミッションは始まった。
◆インドは人口が13億人、その4割が20代以下の多民族多宗教。多様性とコントラストの国だ。インドの人は“多様性の中の一致”ということに誇りをもっているが実際は州ごとに異なる公用語、宗教、カーストなどによって分断されていて社会集団間での対立は激しい。逆三角形の形のインドからバングラデシュの北東にちょこんとはみ出した小さい三角の地域がインド北東部だ。8つの州(アルナチャル・プラデシュ、アッサム、メガラヤ、ミゾラム、マニプール、ナガランド、トリプラ、シッキム)からなる先住民族(モンゴロイド系が多い)が多く住む地域でチベット・ビルマ系やモン・クメール系の言語を話す。一般的に想像する「インド」の人々とはかなり隔たりがあるような気がする。「インドであってインドでない」と延江さんがいうそこはいったいどんなところなのだろう?
◆北東部で国境がバングラディッシュと隣接する州の一つがメガラヤ州。メガラヤ州の西地域がガロヒルズ、中央地域がカシヒルズである。ガロヒルズにはクリスチャンが多く女系のガロ族、ヒンドゥー教のラバ族、ヒンドゥー教徒やムスリムのベンガル人、精霊信仰のハジョン族などが暮らしているが、延江さんが一番親しくしていたのはガロ族で、竹と藁の素朴な高床式住居での生活の様子が多数の写真で紹介された。土地が豊かなところやバナナの葉っぱのお皿に主食が米とは南インドのようだ。
◆『世界が100人の村だったら』13人が青空トイレをしている。そのうちの半分がインド人。女性には危険も多い。そこでインド政府が行ったクリーンインディアキャンペーンの一環としてガロヒルズにも立派なトイレができた。でもトイレだけでなく下水や汚物処理の教育も大切である。写真ではガロの家族や民族衣装が次々と紹介されていく。手織りの布の腰巻が美しい。同じガロ族でも山のほうに住んでいる人は、より先住民族に近いキリッとした顔つきだ。ガロの人々は豊かな自然環境のせいか心優しい人が多いが、お祭りの伝統的な衣装からも推測できるように昔は戦闘的な民族だった。
◆ガロの家族が延江さんのために踊ってくれた曲がチベットの歌謡曲のように聞こえてしまって、ああ、ほんとうに「インドであってインドでないな」と納得してしまった。ラバ族のキリスト教の儀式がヒンドゥー教の影響を受けていたり、ヒンドゥー教のプジャにベンガル人も参加していたりで渾然としている。溢れる民族衣装の写真に目が奪われる。
◆延江さんの重要な仕事である鍼治療は村の人々に喜んで受け入れられた。マラリアの後遺症の15歳の少年に3か月通って経絡を刺激する鍼治療をした結果歩けるようになったという。鍼治療は自転車にまたがって出張治療できるのが良いところだそうだ。自転車で出向く先々には面白い発見がたくさんある。
◆共同体で行う魚釣りも面白い。田んぼでの小魚釣り、池でも、川でも日がな1日魚釣り。冷蔵庫はないので獲れた魚はその日のうちにフライにして食べてしまう。小魚は干して竹の中に入れて発酵させる(ナッカム)。このナッカムを使っていわゆるインドカレーではないこの地域独特のカレーができあがる。週に一度はどこの町や村でも市がたち、肉や野菜や生活必需品が売られる。手の込んだ手織りの布も売られているが商売をしているのはビハール人かベンガル人。商売が下手なガロの人々は中間搾取されてしまうのだ。
◆機を織るのも米をつくのも秋の収穫も手作業。牛を歩かせて脱穀。時々牛が籾を食べてしまってもシェアの精神で気にしない。最近では気候変動で大洪水が起きて橋が流されたり季節はずれの大雨で収穫間際のお米が台無しになったり甚大な被害をもたらす一方、そこには店ができてピクニックスポットとなる。なんとも大らかでたくましい。ガロ族の紹介の間「本当に幸せそうなんですよ」という言葉を何度聞いただろう。経済的には貧しいが幸福度満点のガロの人々の笑顔に延江さんでなくても引き込まれてしまう。
◆メガラヤ州はバングラデシュと接しているのでバングラデシュから人(ムスリムに限らず)が流入しやすいし、バングラデシュ側にも昔からガロは住んでいた。一般的にムスリムの男性はハンサムなのでガロの女の子が「ポ〜」となってしまう。しかし結婚するとムスリムとなり、ガロの女の子が相続した土地がムスリムのものになってしまう。また、昔から現金を必要としない生活をしてきたガロ族はいざ現金が必要となると土地を担保にムスリムからお金を借りるので、そこでも土地がムスリムのものになる。
◆かつてはガロ族しか住んでいなかった場所に多くのムスリムが住むようになってきた。また、このようにムスリムの人々がどんどん増えていっている原因の一つとして、女の子たちは若年で結婚し、どんどん子どもを産んで大変な子沢山になるということも忘れてはならない。ガロヒルズでは、貧困によって多くの若者が武装集団に加わり洗脳され、治安が一時ひどく悪化したがピースキャンペーンの活動によって今は落ち着いている。
◆カシヒルズの中心地でメガラヤ州の州都でもあるシロンはイギリスの植民地時代の避暑地。ヒマラヤ桜に囲まれたイギリス風の建物が建つ美しい街だ。しかしシロンから一歩外にでると、全くの別世界で貧しい。写真ではチェックの布を纏ったエキゾチックな容貌のカシ族が印象的だ。ガロヒルズとは同じ州なのに全く違う。カシ族はアレカナッツの実と緑の葉を一日中食べて口を赤くしている(インドでいうパーン?)。
◆カシ族もほとんどがクリスチャンで肉は大好き。市場には牛の頭が鎮座している。血のソーセージ、血の混ぜご飯、豚の腸のサラダ、カシ族独特のカレーと食生活もけっこう強烈だ。米食(蒸す)で子沢山で兄弟姉妹の世話は当然、家族で団欒など、なんだか昔の日本のようだ。カシヒルズには炭鉱が多いのだが環境問題で閉鎖され、大事な現金収入の道が閉ざされて大打撃となっている。布を織るのも大切な現金収入でインド北東部ではどの地域でも機を織る。今日はたくさんの手織りの布が延江さんの後方に展示されている。ガロの手の込んだ花柄模様のダクマンダ(腰巻)、ラバとアディバシの来客の首にかける布(チベットのカターのよう)、アッサムに住むカルビの布、ナガの大判の厚手の布。使い方も模様もそれぞれ特徴がある。
◆メガラヤ州の北と東に隣接するブラマプトラ川流域に広がる平野がアッサム州。ブラマプトラ川は源流のあるチベットではヤルツァンポ川と呼ばれ、やがてはガンジス川と合流してベンガル湾に流れ出でる。ヒンディー教徒のアッサミーズやボド、イギリス統治時代にお茶のプランテーションに出稼ぎに来てジャングルを畑に開墾したアディバシ(ウラオン族、サンタリ族)をはじめ北東部で最も多様な民族を抱えている。
◆体格も言葉も宗教も風習も違う。向かい合ってものすごく丁寧で可愛らしい挨拶をかわすサンタリの人々には会場からも驚きの声があがった。顔や手に刺青をしている人もいる。北東部に住む先住民族には文字はなくアルファベットを使うのだが、ベンガル人の影響をうけたアッサム語だけは文字がある。梵字に似ている。さまざまな民族の歌や踊りの動画に魅せられたが多くの民族が暮らすアッサムのもうひとつの現実は……。
◆ヒンドゥー至上主義を掲げるモディ政権が、パキスタンやバングラデシュ、アフガニスタンといった周辺諸国から2014年までにインドに入国して5年以上住んでいるイスラム教徒以外の6つの宗教の信仰者に国籍を与える「国籍法改正案」を導入。今、まさにインド全国で起きている抗議の動きは北東部アッサム州全域をも巻き込んでいる。政府は「国民登録簿」を発表して「本物のインド人=ヒンドゥ教徒」を認定しなおすという。
◆1971年にパキスタンからバングラデシュが独立した時に内戦が勃発し多くの人が北東部に逃れてきた。その後彼らは住みつき選挙権まで持っている人もいるにもかかわらず、この「国民登録法」は「本物のインド人」を認定しなおすという目的で2015年に始まった。モディ政権はヒンドゥ教徒こそ「本物のインド人」とし、ムスリムや少数派を「よそ者」と位置づけている。2018年7月末で400万人が国籍を失いかねないといった危機的な状況にもある。
◆イスラム教徒への迫害であり、多宗教を認める「世俗国家」としてのインドという国の根幹を揺るがせかねない事態となっている。その上、ムスリム、クリスチャン、ダリット(カーストの最底辺の不可触民)等マイノリティーに対する迫害も激化している。延江さんのようなシスターたちは宗教の壁なく誰とでも親しく交流できているが、こうした現実もぜひ報告したかったそうだ。
◆ナガランドはインドでもほとんど知られていなかった地域。19世紀後半にイギリスがこの地域をナガランド、そこに住む先住民を十把一絡げでナガ族と名付けたにすぎない。ナガはサンスクリット語で「へび」の意味だがナガランドとは関係ない。ナガの人々がインドの支配下に置かれるきっかけをつくったのは19世紀から始まったイギリスによる植民地支配。地図を見るとナガ族はナガランド州、マニプル州、アルナチャル・プラデシュ州及びミャンマーといった地域に居住している。地図上のそういった区分はナガの人には関係なく区切られたもので、ある家などは家の半分はインドで残りの半分はミャンマーだったりするそうだ。大国が勝手に国境をひいてしまい、そこに住んでいた人たちが犠牲になってしまったのだ。
◆ナガの人々はほとんどがクリスチャンでその90%がバプティスト。「バプティストとカトリックは仲はよくないです。なぜならバプティストがカトリックを受け入れてくれないからです……」と仰る延江さん。ここにも私には測り知れない宗派の隔たりが存在するのだろうか。カトリックの立派な教会やキリスト像、美しい民族衣装でミサに集う婦人会の女性が映し出された。シスターたちの写真は全員が日本人のような……全員がナガ人のような……。延江さんもしっかりとけ込んでいる。「シスターはどの部族なの?」と尋ねられと「ジャパニーズ・トライブ」と答えるそうだ。
◆「ナガ族は30年くらい前までは『首狩り族』でした」さらっと仰る。ナガ族は部族ごとに自分たちの村で自分たちの文化を祝うお祭りを違った時期に一年を通じて催しているが、年に一度、ナガ族の様々な部族が一堂に集まってナガとしてのヘリテージを祝う「ホーンビルフェスティバル」というお祭りがある。戦闘的なコスチュームに大きな装身具、角や貝の飾り、士気を高めるダンスや儀式、どぶろくや肉のごちそうを食べて一週間も続くお祭りに世界中からカメラマンが押し寄せるそうだ。会場に展示してあった赤と黒の大判の布を長野さんがマントのように羽織ってみせてくれた。「かっこいいなぁ」と江本さんがつぶやいた。山岳地帯のナガランドでは毛布代わりにもなる布は重宝する。赤、青、黒が基調のかっこいい布だ!
◆コヒマはナガランドの州都で、カテドラルというカトリックの司教が住んでいる教会がある。コヒマの村は家々が密集して建っている。山の斜面にへばりつくようにできた集落の入り口にはその村独自のデザイン(文字がないのでゲートの石や木に文化を刻む。石もまたスピリットがある特別な存在)のゲートが建っている。昔は夜間や敵が攻めてくると閉めたそうだ。
◆理想的な民主主義が行われていたと文献にも書かれていた長閑な村。集落の写真はネパールの山岳地帯のようだ。電気はきているが暖房や煮炊きは薪。森林伐採は環境破壊の深刻な問題でもある。土間に囲炉裏での生活で、以前はお産さえも土間で行ったようだが、ナガ族は非常に頭が良く革新的な民族性なので生活はどんどん近代化してきている。スマホは当たり前。山を崩して国道も広げられている。
◆「石と土以外なんでも食べる」と自ら豪語するナガ族。干しガエルに驚いていたら「犬や猫がいないなと思っていたら、みんな食べちゃうんですよね」と解体される犬の写真が! ワンコを弟だと思っておぶっていたカルビ族とは正反対だ! 狩猟と焼畑の生活だったのだが、食はバラエティーにとんでいる。川ヘビ、蜂の子、蚕、カエルに昆虫。バッファローの頭や肉、鶏、干し魚、発酵した筍、ハーブや唐辛子の山、古着の山まである。
◆ラジャ・チリ(拷問にも使われた世界で最も辛いチリの一つ)やアクニという納豆(塩・唐辛子・生姜を入れてチャトニイにする)はご飯のお供となる。市場とはうって変わって棚田や田植えの風景はほっとする。田植えの時には歌をうたう。教会の婦人会の人が歌ってくれたハーモニーは、映画『あまねき旋律』のようなあの独特の美しい調べだった。
◆婦人会の歌の内容は「若い女の子への歌:少女たちよ、泣かないで。今、生きていることを楽しもう。将来どこか遠いところに行くことになるかも知れないのだから。今、こうして自分たちの地にいる時を大切にしてほしい」というものだそうだ。今を生きるシスターや神父志願の学生たちにもMMSも含むカトリック教会は教育の機会を与えている。
◆1944年日本軍がビルマからインパール攻略を目指した「インパール作戦」(現地ではジャパン・ウォー)。コヒマは激戦地となり、連合軍と日本軍の戦争なのに大勢のナガ人も犠牲になった。コヒマには連合国の戦没者墓地がある。日本軍の犠牲者は3万とも4万とも言われているがその遺骨のほとんどは未だ奥深い山のどこかに取り残されたまま。彼らの慰霊のための寄付が1989年にコヒマの教会に寄せられた。ナガの犠牲者には何かあるのだろうか……。
◆ナガには日本の軍歌を覚えている人がいる。「白地に赤く日の丸染めて……」この動画を見ながら、私はこれがナガの犠牲者への供養の形なのかもと思ってしまった。日本軍は土地に詳しいナガの協力を得るために学校を設立したりもした。ナガの独立支援を約束していた日本軍は敗退したが、独立を目指す方向は変わらず、1945年8月14日(15日にはインドがイギリスから独立)にナガは独立宣言をする。しかし、どこの国にも無視されてしまい、武装闘争へとすすんでいく。
◆この間、チベットを受け入れたインドに対抗して中国はナガを支援した。独立宣言が世界中から無視されたことも、イギリスやインド、中国といった大国の力に振り回されてしまったこともまるで過去のチベットをみているようで心が痛い。何度か和平協定の締結が試みられたが民族間の分裂も招いて泥沼化。今も戦闘こそないが解決には至っていない。1950年代にはインド軍による多くの拷問や暗殺があった。その後、全面的な戦いは1975年まで続いた。インド政府はその酷たらしい事実を国際社会から隠すために2011年までナガランドを許可証が無ければ入域できない制限地域にして、事実的に世界から隔離した。それ故にナガランドはその存在自体を知られることがなかった。
◆写真には仲良く並んで写っているMMSのもとにいる学生たちも、現地出身の若いシスターたちも部族間でいざこざが起きることが多いが、未来の社会には多の文化共存しかありえない。MMSはそういった活動をつづけていく。と延江さんは力強く仰った。市場に並んだ屠られたばかりの水牛の首、「でも、マグロの頭と一緒ですよね!」。首狩り族って……「でも、日本も戦国時代は晒し首してましたよね!」。なるほど、異なる文化を上手に変換して認めて共存していく方法を教えていただいた。(田中明美 チベット好きのデザイナー)
■メディカル・ミッション・シスターズ(MMS)という日本にはないカトリック女子修道会のシスターが、地平線会議で報告会?? それに巷は新型コロナウイルスの感染拡大ですったもんだの大騒ぎ。開催日は、会場が1か月間の閉館になる直前という間一髪のタイミング。今回、曲がりなりにも報告会を終えることができたのは恩寵としか言いようがありません。あらためまして、ご尽力くださった方々にこの場を借りて心よりお礼申し上げます。
◆さて。「インド北東部について」と大風呂敷を広げたものの、その内容はというと、私が2007年から修道女として関わってきたごく限られた民族(ガロ族、カシ族、ラバ族、アディバシ、カルビ族、ボド族、ナガ族)の生活場所と風習、彼らが置かれている現実とその歴史背景などを、これまたごく限られた私の個人的な経験とあれこれ見聞きしたことに基づいてまとめたものでした。これまでもキリスト教関係の場では何回か話をしてきましたが、今回はたっぷりとお時間をいただいたので、あれもこれも欠かせないとつい欲張ってしまい、結局、動画を含め300枚という膨大な写真をお見せしながらの報告となりました。二次会がなくなったぶん少し延長できたのですが、それでもやっぱり時間は足りなくて、もっと質疑応答できたら良かったし、お越し下さった方々ともっとお話ししたかったと残念でなりません。
◆私はMMSとして足掛け20年インドで活動をしています。北東部に移るまで5年間はムンバイのあるマハラシュトラ州で、プネを拠点として鍼やマッサージを通して地域医療に携わっていました。現地語であるマラティ語を学び、MMSの家があるヒンズー教徒の村とダリット(カーストで一番虐げられている人々)のコミュニティーに足繁く通い、彼女たちにミッショナリーとして育ててもらったと言っても過言ではありません。
◆その後北東部に赴任。そこに住む人々のおおらかさと多様な文化の素晴らしさ、思わず目を見張る興味深い生活習慣にすっかり魅了され今日に至っています。さんざん苦労して身につけたマラティ語は北東部にあっては当然使い物にならず、ガロ、カシ、カルビ、ナガミーズ、ロンマイと少しでもその土地の言葉を学ぼうと努めていますが、違う言語のフレーズや単語が頭の中でスープの具のようにぷかぷか浮いてるみたいで、どれをとっても「現地語レッスン1」レベルから脱出できず、いくつもの言語を自由に操る子供たちには笑われています。
◆こうして現地でのことにあれこれ思いを巡らせていたら、宗教や国の違いは人々を隔てる境界ではなく、むしろ「縁側」つまり人と人を繋げる「縁」が生じる「縁側」かも?という趣旨の文を見つけました。まさに我が意を得たり!というのも、ミッショナリーは境界線にいる立場の人間ですから。
◆宗教の自由を謳うインドですが、ヒンズー教原理主義団体がバックにある現政権下ではミッショナリーとして入国するといろいろ面倒なので、ここ数年は観光目的ということにして入っています。そして矛盾するようですが、ナガランドに到着すると修道服に着替えます(MMSはインドの他の地域を含め世界のどこでも修道服を着ません)。というのも、ナガ、ガロ、カシ、アディバシにはクリスチャンが多く、修道服を着ていれば身分は一目瞭然。相手は安心してくれます。北東部では日本人なら誰でもナガと思われますから、得体の知れないナガのおばさんよりシスターの方がなにかと便利なのです。
◆それにしても、ナガランドは例えば、「コヒマからディマプールに行くとインドに来たって感じる」と言われていましたが、2011年から許可がなくても入域できるようになったこともあってか、かつてのような強烈な非インド性は感じられません。凄まじい勢いで開発も進んでいます。ナガランドに限らず、ガロヒルズもカシヒルズもカルビアングロングもどんどん変わって行くのでしょう。もともと見知らぬ土地に行くのが好きなので、これからも機会を見つけて(あるいは作って)北東部を探っていこうと目論んでいます。またいつか世界のどこかでみなさんにお目にかかれますように。
■最後になりましたが、参考資料の地図について、お詫びのうちに訂正させていただきたいことがあります。まずはブラマプトラ川について。報告会の後で次のご指摘をいただきました。「<ブラマプトラ川>はディブルガーの先で北側に伸ばしてほしかったです。探検史で有名な『謎の大屈曲部』のあるヤルツァンポがブラマプトラ川の源流ですから」ということです(ディブルガーは地図ではアッサム州の北の端っこに黒丸で示されています)。もう一つ、記述が曖昧だったところがあります。1947年独立時には地域全体がアッサムと呼ばれていましたが、8つの州が徐々に別々の州となって行きました。シッキムは1975年に北東部の8つ目として最後に加わったのですが、それまでしばらくの間、彼の地の7つの州は「セブン・シスターズ」と呼ばれていたということを付け加えさせていただきます。他にもまだお気づきの点が多々あったと思いますが、どうぞご勘弁くださいませ!
追伸:インド行きは延期です
■3月3日にインド政府は日本人に発給していたビザを無効にすると発表。18日に予定していたインド渡航は延期です(中止になりませんように!)。3月中旬からのひと月間はインドにおける修道会の新規会員勧誘活動にとっては大変重要な時期で、今回も到着した翌日にはマニプールかカシヒルズへツーリングに出掛けることになっていたのですが……。
◆生徒たちにも「3月また必ずくるから!」と約束していました。北東部の姉妹たちによると、インドでも感染者は増えていて、人々はとても神経質になってきているそうです。今できることは一刻も早く事態が収束し入国制限が解除されることを祈り願いつつ、この事態だからこそできることに専念すること、でしょうか。Go with the Flow. というわけです。
◆私が冬と夏は日本に居る理由は年老いた母をサポートするためなので、娘がもう少し滞在することに母は素直に喜んでいます。それにしても、去年9月の渡航予定日は台風15号上陸にあたってしまったし、もしかしたらこういうことは今後、「よくあること」になってしまうのかも知れませんね。(延江由美子)
■「お前はコヒマから来たのか」30数年前、インドのロータン峠でいきなり声をかけられたことがあった。声の主の憐れみと見下すような視線を感じたのが「コヒマ」を実在の地だと実感した最初だった。我々の世代だと「コヒマ」と聞けば「インパール作戦」と即座に思う。「インパール作戦」に身内が参加したという友人たちもいるが、そのことは大っぴらに話してはいけないことで、話題にされたくないようであった。そのためか、私にとっての「コヒマ」は活字の世界の地でしかなく、語弊のある言い方をすれば「自分には縁のない地」であった。その後、不思議な縁あって「コヒマ」も「インパール」も身近な地名となった……。
◆そのコヒマに拠点をおいて活動している延江さんの講演があると知り、足を運んだ。動物好きでアフリカでの仕事をと考えて獣医資格を取得するも、大学院進学直前に体験したマザー・テレサの下でのボランティア活動が転機となり、アメリカ・カトリック大学に入学して看護師資格を取得。1995年に日本人唯一人のMMS(メディカル・ミッション・シスターズ)会員となった延江さんは2000年にインドに派遣され、2007年からはハリそしてマッサージなどのケアやセラピストとしてナガランドでのミッションに参加している。
◆延江さん自身の活動内容もさることながら、ナガランドの複雑な歴史背景や民族間の対立そして今なお続いている独立闘争への思いや、自分たちのミッションなど外部からの影響で若い世代が都市部へ流出することに対する葛藤など、通過するだけの旅人とは異なる視点での報告に、久々にすがすがしい思いがした。
◆「インドだけどインドじゃない」「インド人だけどインド人じゃない」インドで未だ事前に入域許可を取得しなければならない、ナガランドのさらに北側のアルナーチャル・プラデーシュ州北東部・ブラマプトラ川源流周辺の人たちも同じように「俺たちはインド人じゃない」と口にする。第二次大戦が始まっていることも知らないまま、一方的に「インパール作戦」の荷役に連れていかれたアディ族も当時の日本人に対して好印象を抱いている。
◆現政権の経済優先のための大規模開発はインド北東部全体に及んでいる。一見未だ<非文化的>生活を送っているように見える彼の地の人々には彼らなりの文化も文明もある。我々の国もそうであったように、遠くない将来彼の地もいわゆる<文化的な生活>となるのであろうが、願わくばその変化が緩やかに進むことを祈る。(寺沢玲子)
■約1年ぶりの報告会。参加者が少しずつ集まってザワザワしてくるこの雰囲気が大好き。アジア旅をしてきたのに、なぜかまだインドには至っていない。そのせいでしょうか、地平線通信の延江由美子さん紹介文に引き寄せられて、遥々参加することになりました。
◆会場には延江さんが持ち帰った美しい布が、数種類並べられていた。布はインドの魅力のひとつ。ガロ族の女性が腰巻として使うダクマンダと呼ばれる布。横縞と花柄の組み合わせが可愛らしい。ナガ族のものと説明されていた黒と赤の大胆な縞の布は、何度か訪れたベトナム中部の高地に住む民族のものと雰囲気が似ている気がする。背の高い長野亮之介さんがゆったり纏えるサイズ。
◆高山に戻り、ベトナムの写真集を広げた。なるほど、私はCOTU族やGIETRIENG族の衣服を思い出していたのだ。よく見ると、そっくりではないが配色や縦縞に類似点がある。ベトナムの布の素材はざっくりとした木綿。ナガ族の布は保温性があるが感触は羊毛ではない。ということはアクリルか? たぶん以前は木綿、もしくは獣毛(羊毛やヤクの毛)で織られていたのだろう。デザインが縞だけかと思いきや、黒地の部分に数カ所、赤い紋様が入っている。表からしか見ていないので確証はもてないけれど、東南アジアでよくみられる縦紋織かな。いったいどうやってこのデザインは伝わっていったの? ナガランドには他に草木染の柔らかい色を活かしたデザインの布もあるらしい。あれやこれやと妄想は膨らむばかりであった。
◆私は旅先で出会う魅力的な布について理解したいという想いから、染織を学び始めた。制作工程についてはある程度想像できるようになったけれど、それぞれの民族衣装が持つ歴史や制作技術の伝播など、知らないことだらけである。今回、訪れたことのないナガランドの布に触れて、様々に思い巡らして愉しんだ。旅をしなくちゃ。初心に返るきっかけをいただきました。ありがとう!
◆延江さんからは、現地の人々や土地への深い愛が伝わってきた。湧きあがった熱い想いに素直に行動。直感を疑わず、正直に生きてこられた素敵な方だ。お手本にしたい。そうだ! 振り返ってみると、迷いがない時は必ず上手くいく。進学のための上京、勤めを辞めての長期旅行、染織の専門学校入学、帰郷と染織活動。いくつかの決断と、流れに身を任せることの繰り返しで歩んできた。そして今は、実家の片づけに手こずりながら、これからの人生を共にする相棒くんとの暮らしについて思いを馳せている。
◆延江さんとはたぶん同世代。また、お話できる機会がありますように。そして現在、日本人にインドビザは発給されていない。一日でも早く戻れるように願っています。(山の麓から海の近くに移住予定 中畑朋子)
■江本さん、まず、人をその気にさせる会話術に感心いたします(こうして地平線通信に感想を書くことになったのですから)。そして、通信の次回報告会の報告者の風貌を描いた絵は毎回感心しきり、しています。けど、今回会場で語る延江シスターは絵よりもずっとずっと可愛く、生き生きしておられた。
◆そしてスライドを動かしながら語る延江シスターの愛情に満ちた口調。スライドに写し出される作為のない人々の表情。赤ちゃんをおぶう子供の、幼くして生きる大変さを知った眼、唄いながら田植えする女性たちの穏やかな、辛い労働の中の喜び。人生を表すようなくねった小川の流れ……。部落ごとに違う美しい絵柄の織物。……みんなそれぞれが素敵だけど多種の顔つきの部族のそれぞれに似合っているように見える。そして、その美しい織物を搾取的に(とシスターはおっしゃった、と聞こえた)に売る商人の、ちょっとズルそうな眼……。
◆話は私ごとになりますが、東京から秩父に来て30年。その時近所から働き者の奥さんが手伝いに来てくれたのですが、日毎収穫物を下げてきてくれ、我が家の小さな庭に台所からの生ゴミをうめ、雨どいから水を集め、周りから石を運び、素朴な花をつける野菜畑を作ってくれました。おまけにです! 月末の支払い時に渡した金額が「私はこんなに働いていない」と、余分を返してきました。畑仕事をしている時の、自然の中にいる時の、彼女の表情の美しさにうっとりしたことを思い出します。彼女は「両神」という「山奥出身者」でした。
◆スライドを見ながら自然と共に生きる表情に同じ美しさを見ました。車を脱輪させて往生していると前の家のオジサンが近所の男たちを集めて救ってくれましたっけ。
◆シスターも最後に語られたように、そんな自然の中に、質素ながら心豊かに生きる暮らしぶりも変わってきました。会場を後にしながら「私たちとこの奇跡の星、地球はどこに行くのだろう……」と、四角いビルとアスファルトの道を歩きながら頭をよぎる思いでした。それでも帰り道をたずねた方の親切なこと! ちょっと感動して、嬉しくなって「そう簡単には自然と人の心は壊れない、再生する」と思い、願い、祈りました。シスターからミッションのこと、教育のこと、沢山まだ伺いたいです。30年前、東京育ちが山里に移り、自然に生かされつつ教えられつつ。(斉藤宏子 1981年11月27日、第25回地平線報告会で「へのかっぱ号の漂流」という話をしてくれた故斉藤実さん夫人)
■はじめて参加した地平線報告会は、自分にとっては最高の報告会だった。スピーカーはインド北東部で医療活動に長年従事する、カトリック修道会シスターの延江由美子さん。新型コロナウィルスの感染拡大が日々報じられていたなか、会場の新宿スポーツセンター会議室には50人近い聴衆が詰めかけた。
◆ぼくはインドをメインとする南アジア研究者で、数年前からインパール作戦、それに現地の歴史や文化をテーマに調査を進めている。ちょうど年末マニプル州に滞在し、インパールを拠点に州内各地をまわってきたばかりだった。帰国後に自分の担当編集者から「笠井さん、こんな報告会がありますよ」と教えてもらったのが2月の地平線報告会だった。案内文の「インド北東部」「ナガ族」「納豆」といった言葉にぼくの心は躍った。締め切りが迫る原稿を抱えていたが、「これだけはなんとしてでも行かねば」と思い、会場に足を運んだ。
◆延江さんが語るメーガーラヤやアッサム、ナガランドの村々の話は、現場で人びとと直接関わってきた方ならではのリアリティに満ちあふれていた。各地で撮りためてきた写真や動画からも、彼女がいかに現地に溶け込んでいるかが伝わってきた。きっと一枚一枚に短い時間では語り尽くせないストーリーがあるのだろう。鍼やマッサージを通じて難病に悩む人びとを助けてきたとのことだったが、それだって現地の人びとと関係を築き、信頼を得るまでには並大抵ではない努力はあったのではないかと想像した。
◆時間の関係もあり簡単に触れるにとどまっていたが、納豆をめぐる話も興味深かった。インド北東部の納豆はぼくの調査テーマのひとつでもあり、インパールでは現地の家庭で納豆料理をふるまってもらったり、商品化されているドライ納豆を入手したりしていた。延江さんがスライドで見せてくれたナガ族の納豆はペースト状に近い感じで、日本の納豆のような粒状のもの以外にもさまざまな食べ方があることがわかった。北東部の納豆だけでも1回分の報告会になるくらいの深さと広がりを持っていると思う。
◆もちろん、明るい話ばかりというわけではない。ひとつは民族間の対立だ。メーガーラヤでは、母系制のガロ族のなかにはムスリムと結婚する女性も増えてきており、そうすると改宗するだけではなく財産をめぐる問題も生じているという。また、ガロは魚や野菜をとることはできても販売は不得手で、その部分はベンガル人やビハール人が担っているという話も、現地の経済構造の一端を垣間見た気がした。近年、反政府武装勢力の活動は沈静化していると聞いてはいたが、たとえばナガランドの組織は存続しており、まだ予断を許さない状況だということも伝わってきた。
◆延江さんの背後には、彼女が持参した北東部各地のカラフルな織物が何種類も掛けられており、文字通り彩りを添えていた。終了後に実際に手に取ってみたり羽織らせてもらったりしたが、赤と黒が基調のナガ族のものが印象的で、寒冷な季節もある高地に住む彼らにとって厚手で防寒にもなるという話にも納得だった。
◆参加前に読んだ『地平線通信』の次回報告会予告で、もうひとつ目にとまった文章があった。「高3の時に一年留学したアメリカで……」のくだり。四半世紀以上前のことになるが、ぼくも高2のときにAFSという国際団体を通じてアメリカに1年留学した経験があった。休憩時に延江さんとお話しした際に尋ねてみると、「わたしもAFSです」とのお答え。やはり! このところあちこちでAFS留学経験者に出会う機会が続いていたが、インド北東部がらみでもそれが起こるとは。時期もアメリカ国内の派遣先も違うが、高校留学という共通の体験で一気に親近感が高まった。
◆気がつけば時計の針は午後9時半を指していた。もう3時間も経ったの?と驚くほど濃密な内容だった。恒例という二次会で「延長戦」をしていただきたかったが、今回は中止になってしまったのが残念でならない。延江さんの話を聞いて、予定していた次のナガランド訪問を前倒していますぐにでも現地に行きたい気持ちになった。しかし、そんな最中に新型コロナの影響でインド政府が日本を含む感染拡大国からの入国を制限する措置を発表。当面のあいだ、一部のケースをのぞきインド渡航は不可能になった。この状況が一日も早く収束し、ふたたび北東部の地を踏めるのを願っている。(笠井亮平)
|
|