2019年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信489より
先月の報告会から

北の森にオオカミを追って

大竹英洋

2019年11月27日 新宿区スポーツセンター

アメリカとカナダの国境を跨ぐスペリオル湖は世界最大の淡水湖だ。その岸からはまるで大洋のような景色が広がる。時折、湖の上を白樺やポプラの樹々の間を抜けてきた風が、極北のにおいを運んでくる。そんなスペリオル湖から北西約2,000キロメートル先に位置するグレートスレーブ湖までの原生林をノースウッズ(北の森)と写真家・大竹英洋さんは呼んでいる。ノースウッズは日本列島の4倍の面積を持つ亜寒帯林の森だ。カナダ楯状地という先カンブリア期につくられた岩盤の上に、松やもみといった針葉樹や白樺やポプラなどの白い広葉樹が鬱蒼と生い茂っている。果てしなく続く原生林には人間の安易な侵入を阻むかのように大小無数の湖が点在し、その森の中でオオカミやムースといった沢山の動物達が生命の営みを繰り返している。「自然の奥にある秘密を伝えたい」という想いを胸に彼は20年もの間そんなノースウッズを撮り続けている。

生い立ちと写真家への道

■大竹さんは1975年京都府舞鶴市生まれ。幼少期に東京都世田谷区に引っ越し都会で育つが、大学時代にワンダーフォーゲル部に入部し沢登りを始める。「透き通る水の中を泳ぐイワナを捕まえて、焚き火で炙って食べるんです。そんな中、一息ついてふと夜空を見上げると、空には視点が定まらないほどの満点の星空が煌めいています。それは言葉を失うくらいの光景です。都会の中での暮らしは嫌いではありません。でも、都会の中では見えないものがあることをそのとき知りました。それがそうした活動にのめり込んでいくきっかけになったんだと思います」と語る彼は、いつしか自然の中に長期間入っていき、その奥にある秘密を伝えることを職業にできないかと考えるようになった。

◆しかし、実際にどうしたらそれを仕事にできるか分からない。漠然と写真家になることを考え始めていたが、何をテーマにすべきか決めあぐねていた。星野道夫さんのアラスカのように、一生をかけて取り組めるフィールドを探したが、一向に結論は出ない。「頭で考えていても、ダメかもしれない」と思い始めていたある晩、奇妙な夢を見た。

◆夢の中で暗い木造の小屋にいた。窓の外を眺めると真新しい白い雪が降りしきっている。その雪の降りしきる森の中から灰色の巨大な犬のような生きものが現れ、彼を見つめた。その瞳は何かを見定めるような、そして、誘うような光を宿していた。「オオカミ」と思った次の瞬間、すぐにその生きものは森の奥へと消えていった。それだけの夢だった。

◆夢を見てすぐ、図書館でオオカミについて調べる。目に飛び込んできたのは『ブラザー・ウルフ ──われらが兄弟、オオカミ』というジム・ブランデンバーグが撮ったオオカミの写真集だった。ジムはナショナル・ジオグラフィック誌で30年以上も契約フォトグラファーとして活躍してきた人物。その名は知らなくとも流氷に向かってジャンプする白いオオカミの写真を知っている人は多いだろう。その写真はジャック・ロンドンの『犬物語』(柴田元幸訳)の表紙にも使用されている。

◆『ブラザー・ウルフ』のページを捲りながら、魂を揺さぶられた彼は、後日ナショナル・ジオグラフィック誌の協会本部に「あなたのような写真家になりたい。もし叶うなら、あなたに弟子入りしたい」とジム宛の手紙を送った。しかし、返事が返ってくることはなかった。

◆就職活動はせず、大学を卒業したその年の5月末にジムに会うためにミネソタ州を訪れた。手掛かりは『ブラザー・ウルフ』の見返しにあった彼の撮影フィールドを記した手描きの地図。ジムの家は滝の傍にある。ミネソタ州の森の中で滝を見つければ、彼に会えるかもしれない。もし彼に会うことができなくても、その間にオオカミを撮影できるかもしれない。期待を胸にカナダとの国境に近いイリーの街に足を運んで見つけた地図には、ジムの手描きのものと一致する場所があった。

◆イリーの街からジムが住んでいるであろう土地まではカヌーで2泊3日の距離。「ゆっくりと土地の景色を胸に刻みながら漕いでみよう」と7泊8日の時間をかけ、その目指す場所に向かうと確かにジムに会うことができた。その後すぐ、ジムの友人である世界的な探検家のウィル・スティーガーを紹介される。ウィルは1986年に犬ぞりによる無補給北極点到達を達成し、1990年には総距離6,000キロの南極大陸犬ぞり横断を世界で初めて成功させた人物。この旅をきっかけにノースウッズは彼のフィールドになった。

ノースウッズの四季

■水辺の氷が解け始める頃、カナダグースの声が聞こえ始める。渡り鳥達が、子を産み、育てるために南からノースウッズに帰ってくるのだ。ハシグロアビはカナダの1ドルコインの裏側にも描かれノースウッズを代表する水鳥。蝶ネクタイを締めたような容姿で赤い目を持ち、陸の上を歩くのは苦手。忙しなく小魚を雛に与えるその上を白頭鷲が大きく旋回している。

◆一方、この地で冬を越す鳥もいる。同じ冬を過ごしたゴジュウカラには仲間のような連帯感を覚えるものだ。エリマキライチョウはその羽根を小刻みに羽ばたかせ、まるで太鼓の音のような重低音を響かせる。ノースウッズの春は実に賑やかだ。そんな鳥達の声に導かれるようにアメリカクロクマの子供達が現れる。風がヤマナラシの葉を揺らす音が眠気を誘うのだろうか。子グマ達はあくびをして、やがて木立の上で眠りについてしまう。

◆新緑の6月、獣道を歩いて倒木を乗り越えようとすると木漏れ日の中でバンビがうずくまっていた。危うく踏みそうになり、その場で様子を眺めていると長いまつ毛を持ったバンビが吸い込まれそうな黒い瞳でこちらを見返してくる。しかし、怯えているような素振りは見えない。母鹿を探すかのように辺りをきょろきょろと見回したバンビだったが、やがて周りの景色に紛れるように寝入ってしまった。そんな森の中では口の周りをベリーで真っ赤にしたシマリスが短い夏を謳歌している。

◆ノースウッズの移動手段のひとつが、カナディアンカヌー。その土地で作られた道具で旅をするとその自然が近くに感じられる。隣り合った湖に移動するにはカヌーも荷物も肩に担いで運ぶ必要があるが、山のない平坦な土地ゆえにそれほど苦にはならない。撮影の際は湖の水をそのまま飲料水として使う。人間の身体の6割以上は水でできているが、キャンプが長いと身体が湖の水に満たされ、だんだん湖との境界がなくなっていくようだ。

◆秋はノースウッズが色付く季節。冬眠をしないアカリスは厳しい雪の季節を乗り越えられるようにせっせと木の実を集める。そんなアカリスを横目にして、泳ぎが上手なウッドランドカリブーは大きな蹄で難なく湖を渡っていく。世界最大の鹿であるムースの発情期に、その習性を利用した狩りの方法がある。白樺の皮でつくったメガホンでメスの鳴き真似をして、オスを誘き寄せるのだ。掠れた少し悲しいようなその音を響かせると、それを聴き分けたオスが巨体を揺らし、トウヒの枝を折りながらやってくる。そして、南へ渡るトランペッタースワン達の声が聴こえなくなると水辺に氷が張り始める。

◆白銀のノースウッズの森の中を、音もなく歩くオオヤマネコが狙っているのはカンジキウサギ。頭から雪原に突き刺さるように飛び込んでいるのは、アカギツネ。雪の下の暖かい世界で冬を越そうとしているネズミを狙っているに違いない。そんな雪原に残る足跡はオオカミのものだ。オオカミの遠吠えを真似ると森の四方から伸びやかな声がこだましてきた。やがて一頭のオオカミが目の前に現れる。オオカミは大竹さんをひとしきり眺めた後、辺りを揺るがすような遠吠えをあげ、森の奥へと消えていった。凍てつくような夜には龍が天を駆け巡るようにオーロラが舞う。長い夜が明け、エリマキライチョウが求愛のダンスを踊り始めると春の足音が聞こえてくる。湖の氷が溶け、南から渡り鳥たちが帰ってくると、また新しい命の季節が巡ってくる。

◆「ノースウッズで野生動物と見つめ合う瞬間に感じたのは、「見ている」ではなく、「見られている」という感覚でした。彼らから「お前は何者なんだ?」と真っ直ぐな目で問いかけられると、自分たち人間がどうやって生きていくべきか深く考えざるを得ません」と語る大竹さん。著書『もりはみている』(こどものとも年少版2015年10月号/福音館書店)の中で、こう綴っている。

もりはしずまりかえり
なにもしゃべらないけれど

まつのきの
すあなのおくから
あかりすがみている

すぎのきの
こずえのかげから
ごじゅうからがみている

やまならしのきの
えだのうえから
こぐまのきょうだいがみている

そのしたで
おかあさんぐまも
じっとみている

ゆうぐれちかづく
こだちのむこうから
となかいがみている

よるのやみから
ふくろうがみている

もりはしずまりかえり
なにもしゃべらないけれど

いつだって
きみをみている

ピマチオウィン・アキ(生命を与える大地)

■2018年に、カナダ初の世界複合遺産として登録されたオンタリオ州とマニトバ州にまたがる土地は、ピマチオウィン・アキ(先住民オジブワ族の言葉で「生命を与える大地」の意)と呼ばれ、7000年もの間、狩猟採集民であるオジブワ族(自称アニシナベ)によって守られてきた。アニシナベはカヌーを使いワイルドライスと呼ばれる野生の穀物を収穫するのだが、その籾殻はかつて風を使って選り分けられていた。ピマチオウィン・アキはそんな風と共に生きた時代の名残が残る場所である。しかし同時に、先住民が虐げられてきた歴史を抱えた土地でもある。白人社会への同化を狙った「インディアン法」により、主に1970年代までカナダとアメリカの先住民は全寮制の寄宿学校に入れられ、部族の言葉を使うと舌に針を刺されるといった虐待を受けていた。ちなみにカナダで最後の寄宿学校が閉鎖されたのは1996年のことである。こうした背景から伝統文化の断絶が起こり、心に深い傷を負ったアニシナベがいる一方で、失われた先祖の儀式を取り戻すという動きも生まれてきている。「星野道夫さんはギリギリ間に合った世代だと僕は思うんです。文化の断絶の起こる前の世代の人達とも繋がることができました。でも、僕達はそうじゃありません。それでも今、次の世代がその失われたものを必死に未来へと繋ごうとしています。その姿を僕は見届けていきたい」と報告会の後に大竹さんは語った。そんなアニシナベの家族に連れられて森で彼が見たのは、ライフルで仕留めたムースの喉の皮を「昔からそうしてきた」と最初に切り取り、森の木々に捧げる姿だった。ムースの解体は子供達も手伝う。なんでも撮って伝えてほしいと頼まれた大竹さんだったが、家長の背後から写真を撮ろうとすると制止された。「解体中の体内は見てはいけない」と突然タブーがその場に立ち現れたのだ。その瞬間のことを「数千年前の世界と今が繋がった気がした」と大竹さん。一般的にムースを仕留めても白人は肉しか食べないのだが、アニシナベの人々は内臓も食べる。心臓や腸や胃袋は持ち帰って塩茹でし、腎臓はスライスして、オイルで炒める。珍味と言われるムースの鼻は、焚き火で毛を焼いた後に細かく刻んで3、4時間煮る。そうすると内側の軟骨も柔らかくなり、外側は燻されたような味が残る。大腿骨の骨髄はバターのように肉につけて食べる。どれもとても美味しい。そして、食べることで、子供達が舌で味を覚えていくことが大事なのだ。

ブーツを履いて歩き出せ

■「ノースウッズは、まだほとんど知られていない地域ですが、いつかみんなが憧れるような土地になってくれればいいなと思っています」と話す彼だが、これまでの活動の集大成とも言える写真集をこの春出版する。序文は、ジム・ブランデンバーグだ。そんなジムとの出会いや彼が写真家となるまでを綴った書籍『そして、ぼくは旅に出た。』を出版した報告を兼ね、2018年の春先にミネソタを旅した彼はウィル・スティーガーにも会いにいったのだが、その日はウィルが南極大陸横断を達成してからちょうど28年目の3月3日だったという。南極大陸横断という偉業を成し遂げたウィルは当時45歳。久しぶりに再会した43歳になって間もない大竹さんに「キャリアが始まったばかりだな! お前の人生はまだ半分も残っている。これから40年は旅ができるぞ」と語ったウィル。講演会などで「どうしたら探検家になれるんですか?」と質問をしてくる子供達にいつもこう答えているという。

「Put your boots on and start walking!!
(ブーツを履いて歩き出せ)」

◆私事で恐縮だが、レポートの書き手である僕は昨年の12月に新卒から約17年勤務した会社を退職した。この春から始まるパラオからハワイ島までの1万キロの航海に参加するためだ。もちろん、乗船するのはアリンガノ・マイス。「4年前の航海のその先の世界を見てみたい」という想いが、最終的に僕を突き動かした。2020年は僕がスターナビゲーションを知ってからちょうど20年目の年に当たる。航海の先には何もないかもしれない。でも、もしそこに何もないのなら、そのないことをこの身体で確かめたいと思う。

僕の人生もまだ半分も残っている。
さあ、ブーツを履いて、歩き出そう。(光菅修


報告者のひとこと

地平線会議をめぐる不思議な縁

■日本を代表する冒険家、探検家、ジャーナリストが集う地平線会議。目や耳の肥えた参加者たちに、果たしてノースウッズなどという、どこにあるとも知れない場所で、人類の記録に挑むのでもない、個人的な探求の旅の話が、どう受け止めてもらえるのか全く気にしなかったと言えば嘘になる。それでも会場に到着してからずっと、特に緊張もせず、むしろ温かい気持ちのままに報告を終えることができたのには、いくつもの理由があった。

◆まず、会場の新宿スポーツセンター。母校の戸山高校に近いこの施設は、じつは学生時代に空手道部の一員として、何度も練習にきた場所である。試合に勝った記憶もほとんど無い平凡な部員だったが、あのときかいた汗が、今もこの建物の床のどこかに染み込んでいるのかもしれないと思うと、なんとも言えない懐かしさがこみ上げてきた。

◆主な所属は空手道部だったが、スキー部と兼部をしていた。基礎スキー習得が目的で、春と冬の休みにはゲレンデ合宿があった。ぼくは初心者だったが、同学年には上級者の班に混じる者もいて、その中の一人が合宿の夜に、呆れたように話し始めた。「あの顧問の先生、まじで頭おかしいぜ。ゲレンデじゃないところをどんどん滑っていくんだ」。立ち入り禁止のバックカントリーに、顧問自らが生徒を連れ出すなんて、今の時代なら大問題かもしれない。その顧問こそが地平線会議の元代表世話人、三輪主彦先生だった。

◆三輪先生は地学の担任で、何を習ったのかはさっぱり覚えていないが、横道にそれた雑談が面白かった。例えば、「この前、死海で泳いでいたら、対岸が光るので、なんだと確認したらびっくり。銃口がこっちを向いていたんで、慌てて逃げたよ(笑)」と。いま思えば、テレビや新聞などのメディアを通さず、実際に体験した人の口から伝えられる世界情勢に触れた最初の機会だった。もしかすると、その後なんとなくジャーナリストというものに憧れ、進路を決めることになる種のようなものが、無意識のうちに撒かれていたのかもしれない。そんな三輪先生と高校卒業以来、じつに26年ぶりに再会できた。

◆ジャーナリストを目指し、新聞やテレビなどのマスコミへの就職率が多い大学と学部を探して、一橋大学社会学部に狙いを定めた。部活を言い訳に、全く受験勉強をしていなかったので、高望みも良いところだった。でも一度決めたら頑固なのは生まれつき。2年の浪人生活を経てなんとか入学した。しかし入学後は学業よりも、ワンダーフォーゲル部での沢登りに夢中になった。山頂に立つのは達成感もあったが、むしろそこに至るまでのキャンプ生活に惹かれた。自然の奥を旅する魅力に取り憑かれたぼくは、その先に見えてくるものを伝えたいと思うようになり、大学三年の秋に写真家になることを決めた。この報告会にも思い出深いワンゲルの先輩が、3人も駆けつけてくれたのは嬉しい驚きだった。

◆大学生のとき、ちょうど関野吉晴さんのグレートジャーニーがテレビでよく放映されていた。経歴を見ると大学の先輩である。地平線会議の存在を知ったのも、この頃、関野さんの活動を追っていたからだと思う。その時は「すごい人たちの集まりがあるのだな」と、遠目に見上げるだけだった。しかし、そのすぐ後、興味を引く報告会が開催された。

◆卒論にとりかかっていたぼくは、チュコト半島のトナカイ遊牧民のトナカイレースに関する民族誌を調べていた。ある日、ふとしたきっかけでチュコト半島ではないが、モンゴルの奥地のツアータンというトナカイ遊牧民について、地平線会議で報告があるというので参加した。それが、1998年10月30日にアジア会館で行われた山本千夏さんの報告会だ。そこでぼくは、ノースウッズと出会うのに大きな影響を与えた、モンゴル遊牧民の夢の話を聞くのである──ここから先の経緯は『そして、ぼくは旅に出た。:はじまりの森ノースウッズ』(あすなろ書房)に書いたので、詳しくは読んでもらうしかない──。その後、千夏さんとは別の場所でも話をする機会があり、今回もわざわざ旅の予定を変更して会場に駆けつけてくださった。

◆こうして1999年5月に始まったノースウッズへの旅。時は流れ、2018年の5月に、再び地平線会議がぼくの前に現れる。そのきっかけは先述の本『そして、ぼくは旅に出た。』が「第七回梅棹忠夫 山と探検文学賞」を受賞したことだった。他でもない、代表世話人である江本嘉伸さんが選考委員で、授賞式でお会いしたのだ。まさか自分が地平線会議の報告者になるとは思ってもいなかったが、江本さんからお誘いを受け、長野亮之介さんとも事前にじっくり話をする機会を設けてくださった。そうした手間と時間をかけて報告会に臨んだことも、当日リラックスできた大きな理由だと思う。

◆最後にもう一つ。予期せぬ再会があった。最近報告会に顔を出すようになった中川原加寿恵さんだ。次の報告者が古い知人の大竹と気づいて事前に連絡をくれたのだ。誰しも人知れぬ苦労があるだろうから、ぼくもあまり語ったことはないが、ここまでずっと順調にきたわけではない。ノースウッズに通って3年が過ぎた2002年、撮影が思うように進まず、精神的にも肉体的にも不調を来たし、どうにも動けなくなって写真家の夢を諦めざるを得なかった。

◆失意の底にいた時、原宿のとあるビルで行われていたオープンマイクのリーディングイベント「BOOKWORM」を知った。音楽家の山崎円城さんや青柳拓次さんらが主催し、本の一節や詩など、それぞれが好きな言葉を持ち寄って、人前で語ってシェアするイベントだ。参加者の中にカズエさんもいた。最初は人の言葉に耳を傾けていただけだが、ゆったりとした空気感に促され、あるときから自分もマイクの前に立つようになった。

◆好きな本や自作の詩だけでなく、ときにはミネソタの冬の気温を読み上げてみたりこれまでの旅の話を語るようになった。緊張したが、参加者の誰もが長年の友人であるかのように真摯に耳を傾けてくれたことが励みになり、心の傷は少しずつ癒されていった。そして、その励ましは、2003年秋に東横線学芸大学駅にある喫茶店「平均律」で行った、初めての写真展へと繋がってゆく。それまで誰も展示をしたことがなかったが、今は亡きマスターが「壁を使って写真展でもしたら?」と声をかけてくれたのだ。

◆フライヤーも準備して各方面に送ったところ、出版社から来てくれたのはただ一人、福音館書店のベテラン編集者だった。まだ何も世に出ていないぼくの作品を見に来てくれたことにも驚いたが、憧れの「たくさんのふしぎ」で「本を一緒に作りませんか」と言われたのにはもっと驚いた。こうして、ぼくはもう一度、夢に向かって歩き始めることができたのである。今回の報告で自作の『もりはみている』という写真絵本を朗読したが、そのようなことが人前でできるようになったのは、間違いなくBOOKWORMでの経験が活きている。カズエさんとの再会によって、挫折当時の苦い味を思い出すとともに、今こうして写真を撮り続けられている幸せを、しっかりと噛み締めることができた気がする。

◆「報告者のひとこと」という原稿依頼だったが、地平線会議との縁を思い出していると、ずいぶん長くなってしまった。言いたいのは結局、これまでずっと人との出会いによって生かされ、今があるということだ。人生には巡り合わせというものがある。ちょうど来月、2月21日からは人生で最も大きな個展がフジフイルム スクエアで始まる。それにあわせて、これまでの撮影の集大成となる写真集の刊行もある。桃栗3年、柿8年、ノースウッズは20年。機が熟すにはそれ相当の年月がかかり、収穫の時期を逃しては痛んでしまう。そうしたタイミングで、こうして地平線会議の報告者に呼ばれたのも、なにか大きな流れの中で、昔から決まっていたことのように思える。

◆今回の報告会を通して、過去から現在の自分を見つめ直し、さらに、地平線会議に集う皆さんと出会えたことで、人生の糸がより太く紡がれていくのを感じる。この先に何が待ち受けているのか、とても楽しみでならない。(大竹英洋


ノースウッズ・なないろペダル・そしてインド

■江本さん、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。12月報告会の大竹英洋さんのお話では、名前も知らなかったアメリカ北部の湖水地帯・ノースウッズの世界に魅せられました。オオカミの夢に導かれてたどり着いた、美しい湖畔の景色。極寒の地で力強く生きる人たちの目、生き延びるための智慧、獲った命を無駄なく使う術……。何十年も同じところに通っているからこその、ただ通り抜けていく一過性の旅とはまた違った奥深さと妙味を感じました。

◆そして「野生動物たちは道具も何も持たずに生身で過酷な自然を生き抜いている」という言葉に、極寒の森の中で身を潜め、動物と同じ目線で撮影をされている大竹さんの野生動物への畏怖とリスペクトを感じました。これはわたしも以前狩猟をしていた頃に感じていたことで、だからこそ自分は安全な場所にいて遠くから撃つのではなく、なるべく対等でありたい、罠をかけて彼らと知恵比べをして、正面きって対峙したいと思ったのです。

◆それでもなかなか罠にかかってくれなかったり、やっとかかってもそこから止めを刺す瞬間はいつも葛藤がありました。目の前にいる鹿の美しい目を見つめながら、自分はその命を奪うのに値する人間なのか?と突きつけられるようで、ナイフを持つ手はいつも震えていました。──そんなことを思い出しながらお話を聞いていました。

◆さて、昨年はわたしにとって大きな転機となる1年でした。自転車旅を終えて2年以上経ち、ようやく当時のことを『なないろペダル』という本にまとめることができました。その節は江本さんはじめ地平線会議の皆様にたくさんご協力や助言、励ましの言葉や嬉しい感想をいただき、本当にありがとうございました。本を携えてあちこちでお話会をさせていただく機会もあり、どれほど多くの人たちに支えられて今の自分があるかをあらためて実感しました。

◆その一方で、話す内容が過去のものになっていくにつれ、自分の気持ちが離れていくような感覚や行き詰まりを覚えはじめているのも事実です。過去よりも今にフォーカスするために、そろそろ次の旅に出る時期かなという気がしています。

◆というわけで、来週からインドにいってきます。今回は自転車も持たず、荷物も極力身軽にして、いろいろと歩き回ってみようと思います。昨年の秋からはじめたウォーキングツアーガイドの仕事の影響もあって、改めて「歩く」ことの魅力を感じています。インドの文化、思想、手仕事、家庭料理、自然の恵みを生かす智慧……。自分の目で見て聞いて味わって、全身で感じてきます。はじめてのインド、どんな出会いが待っているのかドキドキです。

◆また帰国したら旅の報告をしに伺いますね。現地の家庭料理を習ってくるつもりなので、インドカレーVSエモカレー、勝負しましょう(笑)。(青木麻耶

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