2019年11月の地平線報告会レポート


●地平線通信488より
先月の報告会から

山旅を“量”で残す

伊藤幸司

2019年11月29日 新宿区スポーツセンター

■1945年生まれの伊藤幸司さんは、早稲田大探検部出身で1968〜69年に第1次ナイル河全域踏査隊を組織している。高校・大学と写真部にも所属し、フリーのカメラマン、ライターとして世界各地を歩いてきた。

◆民俗学者・宮本常一先生を所長として1966年に設立された日本観光文化研究所(以下、観文研)では1970年から旅のグループ「AMKAS=あるくみるきくアメーバ集団」で探検学校という名のハードツアーを企画し、第1回ボルネオ(サバ)、第6回アフリカ(カメルーン)ではリーダーを務めた。1975年の第8回の東アフリカ(ケニア・タンザニア)でもリーダーとして宮本常一所長をアフリカに連れて行きバイクの荷台に乗せて走るということをやっている。観文研のあるくみるきく107号「特集宮本常一・東アフリカをあるく」に記録されている。

私が知る観文研

■ここで私も若き日に勤務していた観文研について説明しておきたい。もともと研究所は、近畿日本ツーリストがその収益の1部を社会に還元し、あわせて、「旅とは何か」「旅はどうあるべきか」を自由な立場から研究・実践してもらおうと設立した機関であり、23年間続いた。「探検」への志向は明確ではないまでも、偉大な旅人のひとりである宮本常一のもとに、国内をさまざまな視点をもってほっつき歩いている旅人間たちが集まっていた。

◆そしてその若く貧しい旅人間たちに対して、「ここで食おうとは思うな。なけなしの金をつぎこんで頑張っている多くの仲間が、こことのかかわりで、すこしでも永く、深く旅を続けられるようにしよう」という原則をもった。アメーバー集団の名付け親でもあり、東京農大探検部を創設し、学生探検家たちの全国的な組織づくりに奔走してきた向後元彦さんやその研究所のアメーバー的サロンの事務局を担当した宮本千晴さんの顔が報告会最前列に在った。

◆AMKASは、大学探検部の行動技術論を武器として「海外旅行」に切りこんでいく運動でもあった。同時に伊藤さんは一般化した技術論ではなく個別の体験を「あむかす旅のメモシリーズ」という行動者自身による手書きのガイドとして発行した。まだ1964年の「海外渡航の自由化」からさほど時を経ていない時代の話である。この魅力的なサロンでの様々な活動は多くの人々を巻き込み、1979年発足の「地平線会議」へとつながっていく。

◆主要な創設メンバーの1人である伊藤さんは当初、その頃は珍しかった留守番電話を使った地平線放送を発案。その音声が当日司会を担当していた丸山純氏の労作の地平線ウェブで今でも聴けることを今回初めて知った。また、地平線通信をハガキからB5版の冊子である今のスタイルにしたのも伊藤さんである。軌道に乗せたら「あとは若い人で」と風のように去っていくのも伊藤スタイルだとか。

23年続く山旅ガイド「糸の会」

◆前置きが長くなった。風のような伊藤幸司さんをなかなか捕まえられずに、報告会登場は2010年12月「宇宙にひとつだけの輝くゴミ」以来9年ぶり。タイトルは「山旅を“量”で残す」である。カルチャースクールの登山講座の講師から始まった伊藤さんの山旅ガイド歴は23年間続いている。もともと「山屋」だという意識はまったくなくて、むしろ気持ちは「探検学校」の延長だそうだ。

◆伊藤さんの主宰する「糸の会」は1995年から“がんばらない山歩きと発見写真旅”をうたっている。「がんばらない山歩き」は平地を「時速4kmで歩くエネルギーで登山道を歩き続けること」激しい運動によって心臓や筋肉を鍛えるのではなく、軽い運動によって、毛細血管での酸素の配達効率をアップするため「がんばらない」歩き方が極めて有効だそうだ。

◆実は私も糸の会の新米会員である(といってもまだ2回しか参加していない幽霊部員みたいなものであるが……)。月に4回は日帰りや1、2泊の山旅計画があり、日帰りは2人以上、泊りは3人以上の参加者があれば台風でも電車が動いていれば実施する(悪天候の山にも出かけることで得られる技術向上や状況判断力があるという)。23年で1000回を超える山行。そして一回の山行で膨大な量の写真を撮り、写真にキャプションというには長い文章を付けて山旅図鑑として糸の会ホームページに掲載。会員でなくとも誰でも検索して見られるようになっている。

◆その膨大な“量”を実感してもらうために2019年5月21〜23日の大台ケ原から大杉谷の2泊3日の山旅図鑑No.244を印刷して持っていらした。641頁厚さ8センチが会場を回る。自分で糸を使って綴じる技術にも驚いた。それを肩に担いで「もうこれはゴミですから」と笑顔の伊藤幸司さん。江本さんはそのゴミを大事そうにザックの中に入れて持ち帰った。

◆私が初参加した2018年5月26日の丹沢、大野山の山旅図鑑を今回初めて見た。新宿駅小田急線のホームで待ち合わせしてから目的地に着くまで初参加の私にずーっと「質より量が大事」という話をされたことを思い出した。たしかにどの写真にも撮影場所と時間が克明に記されている。これが重要で私も意識してたくさんの写真をスマホで撮ったのだが敢えて時刻場所設定をしていなかったら、これは記録になりませんと言われたのが衝撃的だったのでよく覚えている。

◆見たものについてリンクが貼り付けられている。例えば丹沢湖バス停で降りた出発場所にあった記念碑について。それを読みながら、この記念碑の前で「糸の会では準備体操はしません。しかし初参加なのでちょっと足の筋を伸ばしておきましょうか?」と言われたことを思い出した。足を伸ばして片足立ちする私に伊藤さんは「ハイ、いいでしょう。これはバランス感覚を見るのと同時にコーチである私に従順かどうかを見ているのです!」と笑顔で言ったのだった。

◆実はこの山行では私たちは道に迷って当初とは違うコースを歩くことになるのだが、11:27その迷って入ってしまったクヌギ林の写真には、クヌギの利用についてリンクを貼り考察する。リンクには書いていなかった「くぬぎ炭」に言及して、そういう価値を商品化する意図でクヌギの植林がされていたとしたら、おもしろそうと。実際この日の終盤に同じ山北町の向こう側で、私たちは文化活動としての炭焼き窯を見ることになった。

◆5月の丹沢で名物のヤマビルに全員が喰われたことも思い出深いが、13:28 突然始まったドタバタ場面にヤマビルについてのリンクが貼られていた。と、こんなふうな山旅図鑑だから行動記録は当然膨大になるのだった。行動記録の「質より量」。ネットのサーバー上に保存しておけば、検索エンジンが自動的に見出しをつけてくれる。「山旅図鑑」は令和のデスクトップ・パブリッシングだと言う。しかし、やはり量だけでないモノを見ておもしろがる眼=質だよなぁとも思う。その眼を養うためにはやはり量なんだろうか……。

◆“量”ということで言えばこんなエピソードがある。前述の「あむかす旅のメモシリーズ」の1987年最後の89巻は金井重さんの「おばんひとり旅 4年半で50カ国」であった。私は観文研に来た金井重さんにお茶を出すくらいで、重さんは毎日コツコツと手書きする。メモシリーズの最低条件は400字詰め原稿用紙50枚以上。伊藤さんが中味をチェックすることもない。「50枚以上あるものは読まなくとも大丈夫だという確信があった。評価をすればいろんな言い方があるかもしれないが、50枚以上書いた人には語りたいことがそれだけあったということ。量を書くということがすごく大事。」

◆それはその昔、山と溪谷社の編集者がAMKASに来て「400字400枚書けたら本にする」というのにぱっと書いたのが関野吉晴さんと賀曽利隆さんで、2人の原稿はそれぞれ単行本として結実した。自分は書こうとは思わなかったから敗北感はなかったが、その時、400枚書けるということは文章の巧稚や旅の中身がどうかということを超えて、そのボリュームに何か大きな価値があると、「質より量だ」と確信を得たそうだ。

旅の目カメラの目

■第2部で1982年5月伊藤幸司さん37歳の時に書いた「旅の目カメラの眼」(トラベルジャーナル新書)から朗読した。岡村隆さんがトラベルジャーナルに企画した旅行学入門シリーズ5巻として書かせてくれたと。かなりの量を読まれて、読んだところに付箋がついたその本を報告会のあとにお借りした。実におもしろくて夢中になって読んだ。副題に“世界”に触れる海外旅行写真術とついているが哲学書のようでもある。この通信が届けられるまでには、伊藤さんのホームページ 糸の会『山旅図鑑』で報告内容とこの本の朗読箇所をスキャンして掲載するそうだ。是非見てもらいたい。「まえがき旅を撮る写真と写真を撮る旅」から朗読のほんの一部を抜粋して紹介したい。

《旅が自由なのは心が解き放たれるためであり、旅がロマンチックなのは感性がよみがえるためであり、そして旅の日々が充実するのは「いま」とか「現在」を意識する瞬間が驚くほどふえるためである。人間は本来、たったの五秒ほどしか「現在」を感じないという。五秒前のことは過去であり、現在の五秒先は未来であるはずなのだ。それが、日常の繰り返しのなかで、人間は過去から学び、未来を見通すというような大それたことをやってしまう。五秒先はおろか、明日のことも、来年のことも、わかってしまうような人為的な時の流れに身をまかせようとしてしまう。ところが、旅に出て、その「時」の魔術からも解き放たれると、五秒後も、一歩先も未知の世界だということをあらためて知らされる。そして前進する一歩一歩が未知を既知に変えていくという、じつにシャープな「現在」感を味わうことになる。旅のそういう心地よい緊張感と、カメラマンの求めるシャッター・チャンスとが、じつは同一のものなのである。逆にいえば、心のカメラがつぎからつぎへとシャッター・チャンスを求めていくとき、旅はいい旅だといっていい。》

《ある光景にカメラを向けようとする原動力は、感激や感動である。出会った風景を美しいと思う。その感動は網膜上の映像によるのではない。脳細胞に伝えられ、私たちが「心」とよぶものにしみた風景なのである。それをカメラがそのままとらえてくれるはずはないのだ。カメラは単なる道具である。それは、本来立つはずのない自転車が、漕ぐことによって走り出すというのに似た道具である。だからまず、カメラを感動した風景の中へ運びこんでやることだ。するとカメラは、感動の断片を記録したうえで、新たな風景へと私たちをみちびいてくれるようになる。写真はフットワークだ、といった人がいる。一瞬一瞬の、あるいは一個一個の光景を追いかけていくうちに、感動はさらにふくらんで全身を包み込む。それを乱写というのかもしれない。乱写するすることによって、カメラははじめて「心」と直結する回路をもつことになる。(カメラに「心」の回路をつなぐより一部抜粋)》

◆私が写真をカメラでなくスマホで撮るようになったのはいつ頃からだろうか。スマホの方がトリミングしたり加工しやすく私にとっては自由度の高い写真が撮れる。またSNSで発信しやすく、スマホで写真を撮らない日はない。スマホになってよりこの言葉が実感できるというのは、おもしろいなぁと思う。次回、糸の会の山行に参加するのは2月の北八ヶ岳スノーハイク1泊2日である。初めての雪山でどんな出会いがあるだろう。今度は時間場所を設定してたくさん写真を撮ってこよう!!(高世泉


報告者のひとこと

「糸の会」は「あむかすたんけん学校」のシニア版

■テーマは「山旅図鑑」でしたが、私は登山家ではありません。ちょとしたはずみからAMKAS(あるくみるきくアメーバ集団)というふざけた名前の罠にひっかかって人生を狂わせたひとりです。

◆アフリカ遠征という学生時代のシゴトのひとつを終えたときに、アフリカ関係の記事を雑誌から拾い集めて、そのコピーをファイリングするという泥沼作業をやらせてもらえるチャンスがあったのです。いちおうバイト料が出ましたから「シゴト」でもありました。雑誌の編集部に行ってバックナンバーを借り出して、近畿日本ツーリストという会社の大型コピー機に張り付いて膨大なコピーを取り、それを、どんどん増えていくファイリングケースで整理していくというシゴトでした。1972年にアフリカ行きのチームメイトだった小川渉さんといっしょに『AMKAS資料目録アフリカ』という500部の本も出しました。

◆雑誌専門図書館としては大宅文庫がありますが、私たちは自分たちが関心をもった領域に絞って、雑誌記事の一定規模の収集を行うという、かなり「アタマのいい」シゴトをしたつもりでした。コピー代は見た目タダでしたし、私たちはバイト料以上のシゴトをしました。結果として「頒価600円」という報告書でひとまとめしましたから、プロジェクトとしては鼻高々……のはずでした。が、事務用のファイリングケースがどんどん増えて、雑誌の切り抜き記事に類するコピーだけでも、都心のビルの床面積をどんどん侵食していったのです。

◆今回「山旅図鑑」としてひとつの理想形を生み出した……と私がみなさんにアピールしたかったのは、あんなものはネット空間のどこかにささやかに置いておけば、最新技術の捜索・運搬ロボットさんがほぼ瞬時に持ってきてくれるのだということです。

◆昔の話にもどりますが、次に私が担当したのは「あむかす・旅のメモシリーズ」(1975〜1987)で、89冊刊行しました。「手書き」なので編集者による校正作業は必要なく、400字詰め原稿用紙で「50枚以上」という基準を満たしてくれさえすれば内容の審査も必要ない、という画期的なミニ出版(200部刊行)システムでした……よね。50ページ以上の「書籍」でしたから国会図書館に永久保存されている……はずです。

◆この「50枚以上書いたら本にします」というのは山と溪谷社で「現代の探検」という季刊誌をちょうど創刊した阿部正恒さんが「400枚書いたら本にするよ」と呼びかけたシカケのミニ版なんですが、その呼びかけに即時対応して400枚の処女作を世に出したのは賀曽利隆さんと関野吉晴さんでした。

◆そういう青春の得難い体験によって私の人生は(今の方向に)進んだのでしょうが、1995年、50歳のときに「糸の会」(伊藤の会)というのを始めたのは(いろいろな経緯があってせねばならない状況になったのですが)かつて1971年夏から翌年の年末までに集中的に7回実施し、1975年と76年に追加した「あむかす探検学校」の、シニア登山版でした。

◆半年ごとに計画を立ててしまって、なんでもかんでも出かけてみる、という単純なことから発見したものがいくつかあります。今回の報告会の準備中に引っ張り出した古い図面が、富士山の登山道が「標準的登山道」と繰り返し主張してきた「標準」の決定的な証拠を見せてくれました。私がこのところ考えてきた「登山道の歩き方」を強力に支えてくれるはずです。

◆その富士山登山道の古い図面のコピーとスキャンからの脱線話ですが、セブンイレブンで古いアルバムをスキャニングするすすめです。古いアルバムを処分できない理由のひとつは、写真をはがしてしまうと、たちまちアルバムという入れ物にある「時」と「場所」と「物語」から切り離されてしまうからです。そこでアルバムのページを、300dpiできちんとスキャンしてみていただきたいのです。ほとんどの写真アルバムには保護シートが貼られていて不安ですが、剥がさずに、そのままやってみてください。

◆そうするとページごとの写真と文字情報とが一緒に複写されます。もし必要なら、そのデータから中の写真1枚だけを切り出すと、それは写真1枚を300dpiでスキャンしたものと基本的に同じですから、1枚の写真として上質な写真用紙にプリントすることができますし、数倍の引き伸ばしにも耐えるはずです。

◆そうとわかれば、アルバムに整理されていないバラバラの写真も、バラバラのまま、A3サイズのコピー範囲にきれいに並べてスキャンしておけばいいのです。私の経験ではセブンイレブンのゼロックスがじつに使い勝手がいいのです。

◆今回、固有名詞が出てこない恐怖と脱線して止まらなくなる恐怖を抑えるために、かなり入念な準備をして台本もつくったので、それをホームページ(itonokai.com「山旅図鑑」)にアップします。(伊藤幸司


探検家伊藤幸司

 久しぶりに伊藤君の話を聞いた。自らの探検家としての半生をどう総括して見せるのだろうと楽しみだったが、彼にそれを語らせるには時間が短すぎ、目次だけ7割の章を並べたところで時間が尽きた。しかも本当は各章には副題がなければ意味が完結しないのに、副題抜きになってしまった。全貌は別の機会に、たぶん別の形で聞く、いや彼のブログを読むしかない。

 だから、失礼ながら、聞いていたほとんどの人には伊藤君が何を語っているのか分からなかったのではないかと思う。だが古い友人であるわたしには目次の各章の副題がちらちら見えるし、今回彼が何を話したかったかが分かる気がする。伊藤幸司は一貫して自分の「探険」の話をしていたのだ。主題は自分の来し方を探険の連続たらしめている「探求の方法」である。

 伊藤君は探検家らしいタイプの探検家ではない。才能や才覚に恵まれている訳でもない。金や生計に恵まれてもいない。にもかかわらずいつも探険家なのだ。人の真似をすることだけは自分に許さず、手応えを直感した独自の方法を徹底して追求することで仕事や生活を探険に変えてしまう。

 伊藤君がわれわれに語ろうとした各章は自慢話や苦労話ではなくて、その過程でなんとか手法を探り出し、それに固執し、追求しつづけることで見えた世界の報告書なのだ。その探求の経過と方法が、語られなかった副題である。見かけはかならずしも出来のよくない出版物や仕事なのだが、ほとんど素人に近いレベルから独自の方法を見つけ出し、自力だけでその結果にたどり着いた、その見えていない探求と努力の過程は「探険」としかいいようがない。

 伊藤君がなぜ独自の方法にこだわるのか。それはたぶん自分を凡人だと思っているからだろう。凡人だけれどもなんらかの優れた方法を頼りにすれば、結構優れた先人たちも気づかなかったことに気づき、まだ世間の人が見ていない世界が見えたりする。方法が独自であればその過程はいっそう辛く苦しくなりがちだ。しかし見え始めたときの喜びやたどり着いたときの達成感はかけがえなく大きい。探検の達成感だ。

 方法は天才的なひらめきや感性によるものではなく、凡人でもできる手法がいいと彼は考える。それなら誰でもやれる。伊藤幸司はいつも周辺の人、特に後進の人たちを気にかけているお人好しで優しく、よき先輩である。だから丸山君を捕まえて、夜を徹して話したりしてしまう。彼の念頭にはいつも平凡な一般人もみな「探検家」になれるはずだという希望と課題がある。そして鍵は歩いていく、やっていく「方法」にあると。みずから手探りで新しい方法を探求し、忍耐強く支えながら待っていてくれる仲間を巻き込んで実験をつづけている。出来のよしあしはさておき、「そこまでやるか〜!」という結果になる。

 報告会で伊藤君が上面をなで、目次の章立てだけ並べて見せた各章はそれぞれ鍵となった方法があった。わたしは本当はそれを整理して聞かせてほしかった。そうすれば彼の来し方が呆れるほど誠実に探険の連続であり、彼が語りたかったのは徹底して探険の方法論だったのだとみんな納得してくれたと思う。伊藤君にしか描けない、見せられない探険の世界なのだと。

 とはいえ、限りなくディテールであり、小奇麗にまとまらないのも伊藤幸司の世界だから、これはもう望む方に無理があるのかもしれない。(宮本千晴

PS. 糸の会のブログに全資料を載せるそうです。


伊藤幸司さんが「普通の人」ではない、ということ

■報告会当日の昼になって、いきなり今日の司会をやれと命じられたので、心の準備がまったくできていなかった。おまけに会場で、なんとスライドが前代未聞の700枚もあると聞いて、すっかり気が動転。どんどん進行しなきゃという焦りから、話そうと思っていたエピソードもほとんど紹介できずに終わってしまい、後悔ばかりが残った。

◆なかでも一番気になっているのが、伊藤幸司さんが「普通の人」ではないことがどこまで伝わっただろうか、という点だ。今回は脱線しないようにと綿密な台本を作り、その流れに沿ってスライドも用意された。おかげで、人脈の入り乱れる地平線会議設立に至る前史などもこれまでになくすんなり頭に入ってきたが、逆にああいう手堅くきちんとしたスタイルが伊藤幸司流なのだと思われてしまうと、ちょっと悔しい気がする。

◆報告会の冒頭でも触れたように、なにしろ昼過ぎにやってきた初対面の学生相手に、夕食・夜食をはさんで朝まで一方的にしゃべり続けることができる人である。伊藤さんは酒を飲まない。まったくのシラフで、世間話などに興じることもなく、日本人離れした30センチの至近距離からこちらの目を見つめ、ただひたすら旅の道具やノウハウについての持論をしゃべる。見ず知らずの学生にここまで本気で相手をしてくれる好意にも心底驚いたが、語るべき内容を自分の頭のなかに日ごろからこんなにも溜め込んでいることに驚嘆させられた。

◆伊藤さんはクールで、ベタベタした人間関係を好まない。親分肌ではなく、年若い学生も必ず「さん」付けで呼び、ですます調でていねいに話すので、ちょっと距離ができる。焚きつけるだけ焚きつけたら、あとは勝手にやってくれと突き放して、アフターフォローはしてくれないのだ。地平線会議の初期にあれだけ活躍し、みんなに強い影響を与えたのに、軌道に乗るやいなや、いつのまにか姿を消してしまった。

◆伊藤さんを突き動かしているのは、自分にとって「おもろい(という表現を昔よく使っていた)」かどうか、ということらしい。そのおもろいことの基準は、ほかの人がやらないことを自分が初めてやる、というところにあるようだ。映画用の長尺フィルムを切ってパトローネに詰めて撮影するのも、宮本常一先生を荷台に乗せてバイクでアフリカを走るのも、地平線会議という新しい運動体の創設にかかわったのも、留守番電話を使って2分半の番組を流す地平線放送を始めたのも、独自の登山理論を打ち立てて実践するのも、それが新しいことだったから。誰も確定できなかったナイル川の最長源頭を探しに出かけた学生時代から、ずっとそうなのだろう。

◆地平線会議が設立される直前、初めて書いた『あるくきくみる』の「東京特集号」の巻頭原稿をやっと脱稿した私に、この号のレイアウトをやってみないかと勧めて、写植の指定法などの組み版のワザをゼロから手ほどきしてくれたのも、編集を担当した伊藤さんだ。その後、ある企業の広報誌のスタッフに誘ってくれて、今度は私が編集者で、伊藤さんがライターとなった。そこで痛感させられたのが、伊藤さんはその企業の製品に惚れ込むことで原稿を書く、逆に惚れるところが見つからないとなかなか筆が進まないということだ。しかも、その惚れ込むポイントが常人のそれではなく、開発担当者自身があんぐり口を開けてしまうような、目立たない機能やデザインにもこだわってしまう。

◆もうひとつ驚かされたのは、徹底的なアマチュアリズムである。というより、プロフェッショナルであることを極力避けようとする。プロとして仕事をすると、どうしても効率優先で手際よくやろうとするし、100点満点や120点は最初から諦めて、コンスタントに80点をキープするようにしてしまいがちだ。ところが伊藤さんは膨大な手仕事が発生するのもまったくいとわずに、常に全力でゴールを目指し、しかもその試行錯誤の過程を隠さずに書いてしまう。読者のこともあまり念頭にないらしく、自分がおもろいと感じるところをそのまま伝えられれば十分と考える、編集者泣かせのライターだ。

◆Macintoshというコンピューターを手に入れれば面白く遊べる、と誘ってくれたのも伊藤さんだった。上記の広報誌編集の仕事のためだったが、私はたちまちこれが出版・印刷業界のあり方を根底から変えると悟り、いかに商業出版に耐えうるものを作るかという方向へと突き進んだ。ところが伊藤さんは最初こそプロ用ソフトを手にしてみたものの、デスクトップ・パブリッシング(DTP)の原点にこだわり、自分のデスクから民生用の機材やソフトを使って、どうやったら面白い表現活動を続けていけるかを模索してきた。その見事な成果がいま、驚異的な量のコンテンツの塊である「山旅図鑑」となって私たちの前に姿を見せている。たった1ページのウェブページを印刷しただけなのに、A4判で600ページを超える! 効率と時間優先のプロの発想ではけっして作れない、まさに伊藤幸司流のパブリッシングだと思う。

◆伊藤さんは観文研で宮本千晴さんから多くを学び、私はその精神や技法を伊藤さんを通じてわずかながら継承した。『地平線データブック・DAS』をはじめとする地平線会議の出版物を開いてみると、そこかしこにお二人の手口が見て取れる。それがとっても誇りに思えてくる、味わい深い報告会だった。[丸山純

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