2019年9月の地平線報告会レポート


●地平線通信486より
先月の報告会から

知らない世界に自分を置く

荻田泰永

2019年9月27日 新宿区スポーツセンター

■久々の地平線報告会に娘と参加した。2016年6月の村上祐資さん報告会に息子と娘を連れて参加した以来だから3年ぶりだ。娘を荻田さんの「100milesAdventure」に参加させたことで今回はこの報告会レポートを頼まれてしまった経緯もあり、午後4時、娘を横須賀の中学校からピックアップした時は間に合うかドキドキしていた。案の定、首都高が渋滞気味で車は一向に進まない。オタオタし始めた私に娘は「大丈夫だよ。9時半頃までやってるんでしょ?」と平然としている。えっ? いつからうちの娘はこんなに腹がすわってしまったの?

◆20分ほば遅れてたどり着いた会場は、いつもより青年、少年少女の姿が多かった。今日の話は、前半が娘が参加した「100miles Adventure」、後半は「北極圏を目指す冒険ウォーク2019」となる。どちらもリーダーは北極冒険家荻田泰永さんなのでこの冒険家が何を見据えて計画を立てているかよくわかるだろう。

◆「100milesAdventure」とは、荻田さんが北極徒歩冒険行を経て計画した子供たちとのプロジェクト。全国から集まった小学6年生たちと、100マイル(160km)を踏破するひと夏の冒険。知らない世界を知ることで得られる感動、多様な世界の姿、小さな一歩を重ねていくことで遠くのゴールに辿り着く喜び、北極の世界で学んだ多くのことを、未来を担う子供たちにも経験して欲しいという想いから発案。少人数、長期間で子供たちと歩き旅を行なうことで、チームが次第に家族のようになり、目的遂行のための一体感が出来上がる。

◆「歩く」「生活する」「進む」という普遍的な行為こそがアクティビティとなるように、 旅の間には予定調和的な体験プログラムは極力排除し、それぞれの子供たちに合った成功体験を得て、再び自分の生きる世界に帰っていってもらいたいと、荻田さんは考えている。だからこそ、チャンスは一度、小学生最後の夏、6年生限定なのだ。ルートはスタートとゴールが決まらないと美しくない。東京駅→富士山頂とか厳島神社→出雲大社とか分かりやすい。距離とかキャンプ場の配置やロケーションなどもあるので、計画を立てるにあたり、グーグルマップを何日も眺め続ける。「ひたすら毎日距離を測っていると、ああここがいいなというのが決まってくる」という。

◆そしてスタート前にロケハンにも行く。ひととおり全部、車でルートを見て、危ない道ではないか確認したりキャンプ場を決めて、5月になったらルート発表、参加者募集を行う。やり方がユニークだ。まず最初に今年のルートと日程などの詳細を発表し、その後に「参加者募集開始日不告知の先着順」によって参加者を決めるのだ。 いつ募集を開始するかはあらかじめ告知しない。不告知であるという告知はする。で、ある日突然ウェブサイトやSNSのみで参加者募集を開始したことをアナウンスする。

◆その瞬間からの先着順で定員になり次第、募集停止。予約不可。早い者勝ち。当然、参加者の男女比の操作もできないので男女比もバラバラ。私も可愛い子には旅をさせよのファーストミッションで募集開始に出遅れまいと20日余のスマホ依存症的生活を経て、親の熱量の証したる参加者枠ゲットの後、小6の我が娘は昨年の第7回第1ルート170km踏破&磐梯山登頂を果たした。

◆なぜ「参加者募集開始日不告知の先着順」という手法をとるかというと、ひとつは一番公平だと荻田さんが思っているから。たとえば、8&8の16人の枠に40人応募があるとして、そこからくじ引きで16人選びましたというのは、すごく不公平だと思う。40人いたとしたら1〜40までの熱量のグラデーションがあるはずだから。全員が同じ行きたい熱量なわけはなくて、だったら上から16人が来るべきというか、熱量が高い人が行ける可能性が上がる方が公平かなと思う。

◆100マイルに行きたい人は、この「参加者募集開始日不告知の先着順」を知っていて、毎日毎日チェックしている。「いよいよ始まったらそこでバババって応募してくれる」と、荻田さんは続ける。「今年もそのやり方で5月26日の19:30ちょうどにウェブサイトにアップ、その後フェイスブックやツイッターなどのSNSだけで、募集開始しましたって言うと、1件目の応募が19:38。2件目が19:39分。3件目が19:42分とかで、第1ルートが48分で埋まった」私は応募する側だったからほんとうにあの緊張感、切実さがわかる。

◆第2ルートも7人はすぐ決まって、最後の一人も1時間半くらいで応募が終った。参加者を集めるのに苦労した第1回目、2回目が懐かしいほどという。「8年やってると、だんだん知ってくれてる人も増えているなと。100マイルに参加したい人、100マイルだから参加したい人が来てくれる。だから「うちの息子が虫に刺されたんだけどどうしてくれる」みたいな面倒な親はいない。極端に言えば「死ななきゃイイです」みたいな感じの親御さんが多い。そうすると子は親の鏡なんで、子ども達もみんな素直でイイ子ばかりとなる。そう、荻田さんは語る。

◆ここで、第1回からことしまでのルートを紹介しておこう。第1回「網走〜釧路 160km13日間」参加者:6年生3名(男1名 女2名)、第2回「東京駅〜富士山頂 165km11日間」参加者:たまたま5年生4名(男3名 女1名)、第3回「大阪港〜福井若狭湾160km10日間」参加者:6年生限定(ひとり中1)5名(男3名 女2名)、第4回「厳島神社〜出雲大社173km11日間」参加者:6名(男2名 女4名)、第5回「札幌〜大雪山旭岳190km11日間」参加者:7名(男6名 女1名)、第6回「別府温泉〜熊本城170km10日間」参加者:9名(男8名 女1名)、第7回(1)「新潟駅〜猪苗代湖170km11日間」参加者:7名(男1名 女6名)、第7回(2)「猪苗代湖〜日光170km11日間」参加者:7名(男4名 女3名)第8回(1)「岡山〜今治170km11日間」参加者:8名(男5名 女3名)第8回(2)「今治〜高知170km11日間」参加者:8名(男7名 女1名)、8回10ルートで、その時の男女比によって、そこに起きる社会現象も変わってくる。

◆初回の費用は子ども3人にスタッフ3人(女性1人)とサポートカー1台(テントや食材運び)で1人10万円頂いたが、赤字。子ども達は寝袋や衣類・食器などの身の回り品は背負って歩く。「アウトドア原理主義」ではないので、外食もする。飯は飯盒以外は許さん!みたいなことはなく、飯は食えればなんでもいい。普段はコンビニおにぎりとか、道端で冷やし中華をつくることも。野外でやっていても、キャンプは目的ではなく、ただの手段でしかない。旅をする中で、一緒にキャンプをする。一緒のご飯を食べる。一緒に寝る。一緒の生活をする。10日間という時間で一緒に旅をしたい。歩いて行く中で目にうつる風景、土地の食べ物、出会う人、トイレを借りた家のおばちゃんがくれたトマトとか、畑のきゅうりをもいでいきなというおじちゃんとか、そういう出会いがいっぱいある。それって旅だと思う。第6回から過去参加した子どもをスタッフとしていれた。いずれそうしたいなと考えていた。理想の中では「6年生で歩いた100マイルは、子どもたちにしてもらう経験の半分である50点かな」と。

◆そこから中学生の間は特にコンタクトもとらずに、何年か時をおいて、6年生から高1だと4年ぶりにもう一回旅をして、前は連れていかれる立場だったのに、今度は6年生の面倒をみなければいけなくなる。立場を変えて100マイルに帰って行くと、6年生の時に見えなかったものが見える。単純なところだと、裏方の大変さを知るわけで。毎日コインランドリーで洗濯してくれてたとか、テントの設営とか。移動生活なので、毎日、膨大な機材を朝に撤収して、夕方また設営しての繰り返しは結構大変。子どもたちも手伝うことはあるけど、基本は子どもたちは歩きに専念してもらうので、スタッフがやる。それを経験して、知ってたようで知らなかったことを知ってもらって、そこでやっと100点満点かなと思っている。

◆もうひとつ大事なのが「荻田の100マイル」じゃなく「100マイルの荻田」でなければいけない。「いずれ私は100マイルを手放さなきゃいけない。私がいなくても出来るようにしなきゃいけない。私がやってるかぎり、夏休み中にがんばって二回。1回あたり、8人が精いっぱい。それ以上になると目が届かなくなっちゃうし、ひとりひとりが薄くなっちゃう」と荻田さんは語る。8人と9人は全然違うのだそうだ。7と9なんて雲泥の差。子どもが9人いるとパッと見た瞬間に「アレッ全員いるかな?」ってわかんない。7人だと誰がどこにいるかってすぐわかる。

◆「今年は8人、そうなるとがんばっても16人しか入れられない。ありがたいことに行きたい人は増えている。そうなった時に一番力になってくれるのは過去参加したOBOGだと思う。だから私がいなくても100マイルであり続けるための準備をしているって感じですかね」予定調和の外側の教育機会なのかなと、プログラムを作らない。決まっているのは日程と歩くルートと宿泊場所だけ。今日は○○体験をしましょうとか一切、一つも入れない。歩きながら日々、何かしらどんどん生まれていくスタイルこそが大事なのだ。

[2部 北極圏を目指す冒険ウォーク2019]。

■後半は、北極の旅。この旅を考えたのは、もう2年位前になる。南極を一人で歩いている時に、さあ次何やろうかなと歩きながら考えていて、歩いている間って風景変わらないし、暇なんで。じゃあ次は若者たちを連れて北極を歩こうかなと。「私は一番最初に大場満郎さんに連れられて、北極に行ったけど、まあいつかその日が来るだろうなとはずっと思っていた。30代の頃はまだ早いなと思っていて、まあ南極歩いている間に、あっもういいかなと」。で日本に帰って来た時は「来年は若者たちとの北極をやろう」と決めていたから取材や講演会や報告会では「来年は若者たちと北極を歩こうと思っています」と話していた。

◆若者をどうやって集めたかというと、募集は一切かけず、南極が終わった後に、ほうぼうで「来年こういうことをやりますよ」とだけ言った。それをどっかで見て聞いて「すみません 行きたいんですけど」って連絡をしてきたメンバーを連れて行った。連れて行ってもらうのか、自分から能動的なアクションをして行くのかで結構大きな差になると思っているので、敢えて募集はかけなかった。でも結果12名集まった。

◆条件は一切不問。全員アウトドア経験なんかゼロのようなもの。女子大生も2人いた。来るものは拒まず、去るものは追わずっていう感じで、「あなたはちょっとごめんなさい」と断るようなことは誰にも言っていないし、行きたいやつは連れて行くよって、全員連れて行った。場所は、カナダ北極圏のバフィン島。本州の二倍強の広大な土地に1万人が住んでいて、数百kmおきにイヌイットの村が点在しているところ。

◆パングニタング村(人口1500人)から歩き始めて200km北上するとキキクタルジュアク村。ここから海氷上を400km歩いてクライドリバーまでトータル600km踏破しようと計画。真ん中がオーユイタック国立公園というきれいなところ。前から行ってみたいなと思っていたけれど、個人で遠征するには難易度は落ちる。今回は素人の若者たちを連れて行くからそんなに難しいところには行けないし、景色もきれいで、行きたかったところなので、今回はこのルートに決めた。

◆1年くらい準備をして、今年の2月に9日間、メンバーで北海道合宿を行った。みんながアウトドアど素人。寝袋で寝たことない人って聞いたら半分くらいが手を挙げた。テント立てたことない人って言ったらほとんどが手を挙げた。スキー履いて歩いたことある人って言ったらほとんど誰もいなかった。なので、テントの立て方、スキーの歩き方、ソリの引っ張り方、ガソリンコンロの使い方など基本的なことをやった。

◆メンバー12名の構成は大学生4人(女子2人含む)、フリーター4人、会社員(今回辞めて参加した人も含む)4人。3月25日に羽田を出発し、オタワで4日間、大量の買いだし&パッキング。補給の食糧をカーゴで途中のキキクタルジュアク村まで空輸してもらう。そしてイカルイットで1週間、現地トレーニング。風が強くマイナス30度くらい。きれいなオーロラが出たりして、十分に北極の環境。イカルイットからスタートのパングニタングまで300km。メンバー12名と荻田さんと柏倉陽介カメラマンの合計14名と食糧やソリなど大量の荷物を載せるため、飛行機をチャーターした。その方が安いし確実なのだ。

◆最初の200km、島を越えて行くところが国立公園なので、オリエンテーションを受けてから、4/7にパングリタングを出発。フィヨルドの奥を上がっていく。奥に山野井泰史さんが単独で登った巨大な一枚岩トール西壁があったり、安東浩正さんも昔ここを歩いていて、とにかくきれいなところ。夏は川で水がジャンジャン流れる。標高は450mくらいまであがるので、最初はずっと上り。結果的には200kmは10日で歩けたが14日分の食糧など40kgくらいをソリに積んだ。

◆みんな最初の海外旅行で、見るものすべて、わあスゲー!きれー!ってお客さん気分。荻田さんも大場さんに連れていってもらった北極が、初めての海外旅行だったので、気持はわかるけど、行きたいです!って能動的にアクション起こして来たのに、このあたりではまだ荻田さんに連れてってもらってるって感じ。隊列の先頭で荻田さんがナビゲーションして毎日8〜9時間、15〜20km歩いて、テントを張って、ご飯を食べて、寝て、翌日ソリに全部パッキングして、また歩く。

◆リーダーの荻田さんは海に出た後のルートはどうしようとか、毎日、テントで地図を広げて考えていた。みんなは明日に備えて早く寝ればいいのに、凍ったペプシをプシュッとやって、氷と分離した糖分だけを飲んで、甘〜いとか言って騒いでいる。どこかでこれをシメなくては。でも、まだここじゃないなと、この時は放置した。

◆10日目にキキクタルジュアクの村に着き、11日目は休養日で。午前中はオタワから送った補給の食糧を受け取ったり、その先の400kmの準備をして、午後から自由にした。そこで事件というか「シメる日」が来た。勝手に村のB&B(一晩$250)でシャワーを浴びたメンバーがいて、うわついて、フワフワしていることに、怒り心頭。荻田さんはブチンと切れた。頭を冷やしに、村を30分ふらついてみたりした。柏倉カメラマンが他のメンバーにもここから400km行くのに、もう少し気合い入れないとやばいんじゃないのと、気を引き締めるように話してくれた。ここまでの200kmは国立公園内で、困ったらレンジャーが助けに来る。シェルターもあって、無線機でSOSも出せるような管理されているところ。でもここからゴールまでの400kmは完全に海の上の無人地帯で、助けは無いし、熊もいっぱいいるかもしれないし、その年は海氷の結氷状態も危うかったから、リーダーはだいぶ気を張っていた。

◆もうちょっと地に足を付けてくれないと危ないので、ここでシメた。「帰れ! 俺はもう行きたくない! 馬鹿にされて裏切られて、命なんて張れねーよ! 他のやつらの命を守らなきゃいけないんだよ! 勝手にしろよ!一人で行けよ! 行けないんだろ!」とやって、一晩寝て起きて、キキクタルジュアクの村を出発した。荻田さんが先頭を歩いて、真白な中で小さい半島を10kmくらいトラバースして河口にピンポイントで出たら、メンバーから、何を見て歩いているのですか? と興味を持って来たので、これはナビゲーションをやらせてもいいなと思った。

◆ちょうど2週間経った頃に、地図とコンパスを預けた。風紋の見方、コンパスの見方、時間と太陽で東西南北をどう決めるかとか、ちょっとずつ教えるからと。彼らはやったことがないので難しい。地図に書いてある二次元情報と目に見える三次元情報をリンクさせる地図読みができない。ナビゲーションをやると、会話の質が変わって、進むために、どう効率的にいくかという話になっていく。この時点で、荻田さんは隊列の最後尾についた。

◆4月7日に歩きだして5月5日にゴールした。バフィン島も5月になると、日中0度くらいになって暑すぎるので、5月から昼夜逆転させて、夜の涼しい時間に歩いて、昼前には歩き終わって、暑い時間は寝る生活にした。

◆ゴール2日前。ナビゲーションをしているリーダーが前日の島越えで、自分の希望的観測で、何の確証もなしに、そっちに行ったら早いだろうと、メンバーを誘導した結果大変だった。翌日は視界が悪く、島越えを終えて、海に出て、あとはゴールの村に向けて歩いて行くだけ。村に近いので地元のイヌイットの人たちがスノーモービルで狩りに出たりするので、スノーモービルの轍がたくさんある。春になって、気温も上がってきて雪の固さがなくなってきていたり、足首を痛めているメンバーもいたので、行くべきルートを外れて、歩きやすい轍の上を歩き始めた。

◆隊を止めて、リーダーから地図とコンパスを取り上げ、「クビ!」と宣言して、荻田さんが先頭を歩いた。スノーモービルの轍の上を行くのは楽なんだけど、そこから外れてソリを引いてみて、試してみて、「確かにこれはやわらかくて、ソリを引いた感じも重いね。足首にも負担かかるよね。だったら轍の上を行こうよ」ってみんなで試して話し合った上で轍の上を行くならいいと思うよ。でもそうじゃない。誰一人轍を離れて試していない。試していないのに轍の上を行って、こっちの方が楽だというのは、昨日も話した希望的観測でしかない。そこの結論に至るまでの根拠があまりにも甘すぎる。なんで、こういう時に練習しないの? わかりやすいものを追いかけるんじゃなくて。練習しようという気持ちもない。だからクビ。危なくて任せていられないよ。次こそ頑張りますは無い世界なの。次の前に死んでるのよ。大体みんな。次が無いから死んでるの。

◆29日目に全員無事にゴールした時、荻田さん自身はたいしてうれしくなかった。みんなだいぶ物足りなかった。北極に行く前は600km北極を歩くって、アウトドアど素人で、うわーッ大変だなって、何が起きるんだろうってドキドキした気持ちもあったと思う。でもしっかりしたリーダーが付いていれば、やろうと思えば誰でもできる。高い壁に思えていたものが、やっているうちに、あれっそうでもない?って。終った瞬間に、あれっもっといけるよねと。余力を残して物足りなさで終わると、それが次への活力となって、もっと渇望してくる。

◆その渇望感がまたもう一回動き出すための原動力になる。「私の中では物足りなさで終ってくれたのは良かったなと思ってる。120%燃焼しましたって言われたらオイオイって。私がやったのは場をつくることであって、私が若者たちを成長させたんじゃなくて、私が作った場が成長させてくれたなら、100マイルも北極も変わらない。できなかったことができるようになったのは、場がそうさせてくれたのかな」と荻田さん。

◆今後の展望。「冒険研究所」を作りたいなと思っている。何をするかというと、装備開発をしたい。今回使ったソリとか。天然素材コットン100%ウエアは私個人的には極地を歩くにはこれ以上良いウエアは今は無いと思っている。あと、やり残した北極点をもう一回やりたい。最後に司会の丸山さんから荻田さんの著書『考える脚』が受付で早いもの順(笑)で購入できる旨のアナウンス。今日は北京の二次会はありません。手は差し伸べてくれません(笑)ので、荻田君の手を自らとって押しかけ二次会でくらいついて下さいと。

◆昨年100マイルに私の熱量(笑)で参加した娘が、今年は大木ハカセさんのリヤカー東海道53次に行くと言って、日本橋を出発し三条大橋を目指した三日後、メンバーと家族になるべく、まさに心臓破りの箱根越えをしているその時に、江本さんと丸山さんの電話会議がなぜか混線して、私のスマホに繋がった。私はスマホに触れてもいなかったので、これは地平線ミラクルだなと……この時から、今日の原稿は決まっていたと思えてならない(笑)。女5人でサハラを目指して、バイクでマルセイユからアルジェに渡った時も、鉄人カソリさんとカイラスを目指してチベットを激走した時も、知らない世界に自分を置いて、予定調和の外側で「旅すること」「進むこと」だけを考えていた日々を思い出した。そして、我が娘は次の旅を渇望している。(青木明美


報告者のひとこと

彼らを育てるのは、自身の内側から湧いてくる好奇心や冒険心

■いつもよりも1時間ほど長く、3時間強を頂いたものの最後は駆け足に押し込んだような形となり、結果的には時間が足りませんでした。特に、100マイルアドベンチャーに関しては初めて全ての旅を振り返って話をする場となり、8年間の旅を振り返ってみると次々にエピソードが思い起こされ、いくら時間があっても足りません。小学6年生たちとの夏休みの100マイルアドベンチャーと、今春の若者たちとのカナダ北極圏600km徒歩冒険行。いずれも私としては、どうやって「場」を作るかということを考えた結果です。

◆私が行うのは、子供たちや若者たちが新しい世界を体験し、能動的に主体的に「考える場」をどう提供するかです。私が子供達や若者たちを育てるなんてことは考えていません。彼らを育てるのは、彼ら自身の内側から湧いてくる好奇心や冒険心であり、そのきっかけとして私が何かの役に立てればという思いです。お知らせですが、10月15日の19時から、NHKのBS1で春の北極冒険行の番組が放送されます。ぜひ、若者たちと私の1か月に渡る苦闘の旅を見ていただければ嬉しいです。

■いつもよりも1時間ほど長く、3時間強を頂いたものの最後は駆け足に押し込んだような形となり、結果的には時間が足りませんでした。特に、100マイルアドベンチャーに関しては初めて全ての旅を振り返って話をする場となり、8年間の旅を振り返ってみると次々にエピソードが思い起こされ、いくら時間があっても足りません。小学6年生たちとの夏休みの100マイルアドベンチャーと、今春の若者たちとのカナダ北極圏600km徒歩冒険行。いずれも私としては、どうやって「場」を作るかということを考えた結果です。

◆私が行うのは、子供たちや若者たちが新しい世界を体験し、能動的に主体的に「考える場」をどう提供するかです。私が子供達や若者たちを育てるなんてことは考えていません。彼らを育てるのは、彼ら自身の内側から湧いてくる好奇心や冒険心であり、そのきっかけとして私が何かの役に立てればという思いです。お知らせですが、10月15日の19時から、NHKのBS1で春の北極冒険行の番組が放送されます。ぜひ、若者たちと私の1か月に渡る苦闘の旅を見ていただければ嬉しいです。(荻田泰永


冒険のなかの「伝える」と「伝わる」

 「伝える」と「伝わる」。文字にするとたった1文字の違いだが、その間には南極と北極ほどの開きがある。極地遠征では、仲間に意志や情報が伝達されないことは、荻田さんが若者に繰り返し語っていたように、すなわち死に近づくことを意味する。上手く「伝わる」とは、相手に関心を持ち巧みに誘導していくことでもある。しかし荻田さんは常々言う。「俺は他人には一切興味は無い」荻田さんは「伝わる」努力を一切放棄したドライなマシーンなのだ。だからこそ、若者にとって「荻田泰永」ではなく「場」の一部になれる。北極こそが荻田さん以上にドライで、あらゆる油断が死に直結するマシーンに他ならない。

 ではなぜ、荻田さんの言葉はきちんと若者に伝達されるのか? 荻田さんの「伝わる」手法は、超合理的で超原始的。黙って「機を伺う」ことと、反対にとっとと帰れ、お前はクビだと一方的に罵声を浴びせ、殴る蹴ることさえ厭わない「マウンティング」なのだが、答えはそこではない。荻田さんの圧倒的な経験に基づく「伝える」情報の蓄積量と、細部に及ぶ正確性や合理性こそが本質だ。

 逆に若者たちにはその蓄積が一切なかった。彼らは遠征の後半になってようやく、ナビゲーションに興味を持ち始め、必死に吸収しようと考え続けるものの、やはりそのディテールで荻田さんに敵う筈がない。だから地図とコンパスを奪われた彼らに出来ることといえば、荻田さんに頼み込んだり羽交い締めにしたり、情に頼ってでも何とか「伝わる」よう努力をする他なかったのだ。

 そんな若者の健気な努力が報われたから、荻田さんも最後に情に折れて、一度クビを宣告した後に再び先頭を若者に託したのかといえば、本人に聞いてみないと真相は分からないが、僕はそうではないような気がする。その日の遠征行動の残り時間や位置とを天秤にかけて、いま彼らと言い争うのは無駄だと、どこまでもドライに荻田さんはそう判断を下しただけではないだろうか。

 最後に少しだけ、僕自身の近況をご報告したい。15年にわたって続けてきた、南極越冬やヒマラヤ遠征、海外の模擬火星生活実験などの計千日の極地生活の踏査経験を経て、昨年秋に特定非営利活動法人「フィールドアシスタント」を立ち上げた。

「極地から学ぶ、宇宙から考える。」をテーマに、宇宙を統べるのではなく、周囲の世界との繋がりを通して宇宙に足をつけた「暮らし」を考える団体だ。早春の頃には「宇宙時代の職業を考える」シンポジウムを企画している。やがて宇宙飛行士という言葉がなくなり、宇宙は僕らの職場になる。僕は、個の力ではなく、職能によって極地と向き合うことを考えたいのだ。それは荻田さんのように「場」になることではなくて、職人という「人格」になること。あるいは屋根の下に冒険をつくり、「伝わる」を磨く試みなのかも知れない。(村上祐資 極地建築家 2016年6月「火星のジョーモン人」報告者)

冒険旅企画に参加した子ども達は、一体どんな成長を?

■今回の報告会では、北極冒険家、荻田泰永がいつも話し慣れてる北極遠征話ではなく、彼が毎年夏に小学生を対象に実施している冒険旅企画100マイルアドベンチャーについて話をするということで、とても楽しみに会場へ足を運んだ。私(大木ハカセ)と荻田泰永は2011年末頃にN.A.P.(Northpole Adventure Project)という法人を立ち上げ、以降の数年間(2015年末まで)互いの拠点を一つにして活動をしていた。勿論、此度の報告会で主題となった100マイルアドベンチャーについても一緒に立上げをおこなっている。

◆当時の100マイルアドベンチャーは、小学6年生数名を引き連れての歩行を担当する荻田と、歩行以外のキャンプや食事などの生活部分を担当する大木とで2人の役割を分担していた。その為に生じる私の見えていない部分がある。今回は、そんな私の知り得ない角度の、荻田泰永目線での子ども達に対する深い部分や、彼の思いをじっくり聞けることにワクワクした。

◆100マイルアドベンチャー実施中に起きる出来事や、都度の対応に関しては互いに深く話し合うものの、互いの心理や感情に肉薄した部分などは、男2人向き合っては中々話さないものである。余談ではあるが、私がまだ荻田泰永の遠征事務局長をしていた頃、彼が挑戦した2014年の北極点無補給単独徒歩行にて撤退後のピックアップに私が現地へ向かった際、北極の地で2か月ぶりの再会を果たした時も、互いに交わした言葉は「お疲れ」の一言だけであった。男同士の会話なんていうのは大体そんなものだ。

◆報告会の最中、荻田泰永の話が子ども達との微笑ましい過去画像と共に進むにつれ、これまでの様々な状況が私の頭に鮮明に蘇ってきた。荻田泰永が「ハカセ、子供達を連れて歩く旅をやりたいんだよなぁ」と夜中にA4ペラ1枚の企画を見せてきた時のこと。初開催当時、スポンサー探しの際に「危険だよ。君たちが大丈夫なのはわかるけど、子供達の安全は保証できるの?」とアウトドア関連の多くの企業から非難を受け、それでも実施に踏み切ったこと。そんなこんなで結局最初の2年間は協力企業すら集まらず、自分たちで大赤字を抱えながらの実施だったこと。様々なことがいっぺんに思い出された。報告会の終わる頃には「そうだったか。あの夜中のA4ペラ1枚が今の活動を形作る源だったのかもしれないな」その様にも思えてきた。

◆5年程前から、私は私で自身の旅以外の活動として、100マイルアドベンチャーとは別の子ども達との冒険旅を実施している。中学生達との冒険旅企画である。タイトルはいたってシンプル「リヤカー東海道五十三次」。やることはタイトルのまま。全国から中学生を4名募って夏休み時期に実施(今年は往路隊4名と復路隊4名に分けて2連続実施)。東京日本橋をスタートして、目指すは500km先の京都三条大橋。アスファルト道、箱根などの峠道、石畳、山道、様々な環境を16日かけて旅をする。

◆宿泊はその時々によって違うが、基本は公園や河川敷などにソロテントを5張並べて寝る。伴走車も無ければサポートのスタッフもいない。私を含めた5名分のテントや装備、着替え等を積み込んだ1台のリヤカーは、100kgを優に超える。それを5名だけで力を合わせて引いたり押したりしながらひたすら進めて行くのだ。24時間の共同作業である。

◆私が実施する中学生達との冒険旅がこのスタイルになったのには意味がある。ある年、100マイルアドベンチャーを実施しながら考えていた。小学生にとって、自身の荷物を肩に背負い、初めての仲間達と共にその足で歩き続ける。これは彼らにとってはきっと大冒険であろう。自身の経験のその先にある、まだ見ぬ世界そのものだ。では、これを経験した子ども達が中学生になったら、一体何ができるだろうか。そのまま背負う荷物を重くするのか? 距離を伸ばすのか?

◆いろいろ悩み思考錯誤した結果、1台のリヤカーを全員で押し進める所に行き着いた。共同作業である。「これは小学生には到底できないが、中学生であればギリギリのところでできるかもしれない」そう考えた。長い長い共同作業の中で、これまで気がつかなかった自分達の内面に出会い、まだ知らぬ土地を歩き、会ったこともない人々との出会いを重ねながら旅をする。

◆私は「旅の目的は終着点に到達することではなく、その行為自体にある」と常に考えている。ゴールすることは勿論大切だが、それが絶対的な目的ではない。むしろ旅の最後の瞬間に、参加した子ども達のそれぞれの目に何が映り、彼らが何を感じとるのかを終着地点としている。それはきっと、荻田泰永が毎年続けて実施している100マイルアドベンチャーにおいてもきっと同様なのだろう。報告会の彼の言葉の端々から、そんなことを感じた。

◆私たちが実施している子ども達との冒険旅企画に参加した子ども達は、一体どんな成長を遂げているのか。その本当のところは今すぐわかるようなことではなく、彼らが20歳、30歳、40歳と大人になった時に少しずつ滲み出てくるようなものなのかもしれない。(大木ハカセ

北極で撮った写真が国際写真コンテストに入選

■北極に行くにあたり、僕は仕事を辞めた。裸一貫で挑んだ真っ白な世界。冒険の前半、360度どこを見ても白しかないあの世界を、僕はただ「綺麗だ」としか思っていなかった。まだそのころは僕が「ツアー参加者」だったからだろう。しかし冒険後半、若者達だけで地図を読み、地形を読み、進む方向を決めるようになり、綺麗だったあの景色は進む方向を決めるための重要なヒントも持つようになった。

◆僕がこの冒険を終えて感じたのは、何事も出来るか出来ないかではなく、“やってみるかどうか”であること。写真に興味があったものの、自分にはどうせ出来ないと決めつけて、なんの勉強もしなかった僕。北極で写真を撮ることの面白さに気づき夢中でシャッターを切り続けた。仕事も金も無い、今の自分は失うものなど無い。やれるだけやってみよう。こう思えたのは、挑戦を続ける荻田さんの姿を間近で見続けたからだろうか。

◆冒険が終わり、北極で撮った写真を国際写真コンテストに応募してみた。焦点距離も、望遠の意味もよくわかっていなかったが入選した。まぐれかもしれないが、やってみた結果である。今は写真の仕事がしたい。地球温暖化の影響を真っ先に受け、壊れゆく北極周辺の自然を壊れる前に見てみたい、撮りたい。次は冬のアイスランド内陸部に行って写真を撮りたいな、と思う。僕たち14人の冒険は終わったけれど、僕の冒険は始まったばかりだ。やってやる。(長野県下諏訪町 花岡凌

北極圏を目指す冒険ウォーク2019に参加して……

■北極という全てが剥き出しな空間で過ごした新鮮で刺激的な毎日は、僕たちに大きな影響を与えた。複数のメンバーが来年もまた北極圏の冒険を行うことを決めたし、北極で写真を撮る面白さを発見しプロカメラマンを目指すことを決めた人もいる。参加したメンバーの何人かは、この旅をきっかけに人生の軌道を大きく変えた……と思う。かく言う僕は、会社に休みをもらって参加したので、旅に出る前と今の日常はさほど変わりない。同じ会社で、同じように忙しなく働き、毎晩「もうダメ……」なんて言いながら、日々を過ごしている。

◆旅を終えて、「なにか変わったか」とよく聞かれるが、いつも「いや〜、なんですかね。あっ! 5キロくらい痩せましたよ」と冗談を言って誤魔化してきた。旅に行く前、父に「将来に役立つわけでもないし、リスクがあるだけじゃないか」と言われたのを鮮明に覚えているが、確かに、今のところ旅の経験が日常に“役に立った”と思えた瞬間はない。

◆人生の軌道は多分大きく変わっていないし、この経験が明確に何かの役に立ったわけでもなく、周囲の人へ伝えやすい“変化”があったわけでもない。けれど最初に書いたように、僕も「旅を通して影響を受けた」と思っている。それは冒険中に考えたことや、手に入れた新しい物事の見方が、日常生活の中でヒョコっと顔を出すことがあるからだ。日本では当たり前のように使っている携帯やパソコンそのほか娯楽も当然ない、不自由で厳しい環境は僕に「自己と他者について」考える時間を与えてくれた。地味かもしれない。でも、自分が変わっているという、強い実感がある。

◆日本に帰ってきた日、羽田空港で荻田さんは「この旅に“意味”をすぐに持たせる必要はない。それが死ぬ前なのか分からないけど、必ず意味に気付く日がくるから」と話してくれた。僕はまだ、北極で見つけた思考のタネを育てている途中だ。タネが開花する時、僕も本当の“旅の意味”に気付くのかもしれない。(市川貴啓 28才)

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