2019年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信485より
先月の報告会から

山は裏切らない

三宅 修

2019年8月23日 新宿区スポーツセンター

■地平線発足40年の節目、484回目の報告は山岳写真家で東京外国語大学山岳部の創立にも関わった三宅修さん(87才)。通信の予告では「山は裏切らない」というテーマで、学徒動員での戦争体験から、山岳芸術誌『アルプ』の創刊、山の写真家としての人生などを、お話いただけるとのことであった。私的には、湯の花トンネルで起こった列車銃撃事件の話を一番聞いてみたかった。私は戦時下の登山者の思いに関心を持って勉強していたこともあり、浅川地下壕のことや、この客車への機銃掃射を知り、知人と高尾山に登る際など、今も悲惨な銃撃痕が当時のままに保存されているJR高尾駅1番線ホームまで案内し、紹介するのが常であったから……。

◆登山雑誌の編集部にいたころから、三宅さんには長くお世話になって来たが、まさか、この時、現場にいらした、そしてこんな壮絶な体験をなさっていたとは知らなかった。戦争体験を語るというテーマのせいか、会場には三宅さんに近い世代の方々が目立ったような気がする。前方に映し出された「わが心の山」という情感あふれるスライドタイトルを見つめながら、話が始まるのを心待ちにした。

◆「こんばんは」という挨拶からお話は始まった。いつもどおりの優しく丁寧で、落ち着いた口調だ。「まずは中学時代の思い出から。でも、わんぱく時代の楽しい話ではなく、戦争中の思い出です。生涯を振り返ると、よくもまあ、ここまで生きて来たなあ」と述懐。「戦争の話をすると胸が痛くなるが、痛くなるとも言っていられない」という言葉が、重く私の心に響いた。

◆中学以降は「飢えを凌ぐための人生だった」という。三宅さんが生まれたのは昭和7年。日本は軍国主義で彩られ、右へ右へと進んでいった時代だ。小学校5年生ぐらいから敗戦色が濃くなり、日本という国がだんだん傾きかけてきた。今でも自分を励ましたいときに、口から出て来るのは「予科練の歌」「空の神兵」「轟沈」といった軍歌だという。もちろん戦争は反対だが、軍歌が小学校の唱歌に取り入れられており、頭に染み込んで今でも鮮明に蘇る。しかし、同年代の人がみんなかというと、そうではない。頭から戦争のことを、いっさい跳ね除けている人もおり、全く異質だという。「飢え」の記憶も東京に住んでいたか、地方に住んでいたかですべて違う。

◆三宅さんの青春前期の時代、小学5年の時、通っていた渋谷区立笹塚小学校は、笹塚国民学校と名前が変わった。「未来の子供たちは殺さずに生かそう」と、多くの子供たちが学童疎開で地方のお寺などに移された。けれど、東京に残された三宅さんらは、子供ながらに「俺は死ぬんだ」と思ったという。中学は光生学園中学(のちに光生高校)だったが、卒業した時は光生学園高校と名前が変わっていた。入ったのは中学、出る時は高校。中学4年のとき新制高校が生まれた。だから履歴書には「移行」と書く。「こんな状況だから、ろくな勉強はしていなかったし、するような環境ではなかった」。

◆昭和19年、東京大空襲では学校も燃え、中学2年の時には授業そのものもなくなった。「中島飛行機の地下工場の建設に高尾に行け」という命令で、異例の中学2年(普通は3年から)で学徒動員。多分3月から出かけて、8月15日まで毎日通った。京王線の笹塚から新宿経由、中央線で高尾へ。当時の服装も何を履いて行ったのかも、今はだれも覚えていない。ちびたゲタだったか、ぞうりか、わらじか……。みんな、てんでんばらばらの記憶。70年という年月のうちに、どんどん忘れてしまうもの。交通費や日当も、国から支給されたのかどうかも、まったく記憶にないが、「東京に残った俺たちは死ぬなあ」との思いは、確かにあったという。空襲警報があると飛び降りて防空壕へ。もう世の中が末だった。

◆8月5日、いつもの朝のように高尾駅(当時の浅川駅)北口駅前に大学生から中学生までが集まった。大学生の隊長が「お国のためにがんばれ」と号令。いつもの自分の持ち場に移ろうとしたら、三宅さんたち第五小隊は、八王子の空襲で焼けた軍隊の倉庫から、缶詰を農家の納屋にトラックで運ぶことを命ぜられた。缶詰を山積みにして甲州街道を走り。湯の花峠の峰尾さんという農家の納屋まで運んだ。途中、缶詰が転がって路上に落ちると、みんな目の色を変えて拾いに来る。わざと足で蹴とばして落としたりもした。

◆午前中で終わって昼ごはん。おにぎり二つと缶詰がひとつ。小仏川の河原に降りて、沢水を飲みながら食べた。当時は白米から、やがて麦が混ざるようになり、うどんが入り、切り干しが入りと、おにぎりも変わっていったが、食べられることがうれしい。「ひとつは自分で食べて、ひとつは妹に」という仲間もいた。「美味しい鮭缶を腹いっぱい食べてほっとしていたら、突然、列車の汽笛が聞こえたんです」。空襲警報が出ている時は、列車は駅からいっさい動いてはいけないのに、なぜか動いてしまった。「あれ、おかしい」。その時、空冷エンジンの金属音の爆音とともにP51戦闘機が目の前に現れた。

◆P51は機銃掃射をしながら列車を追い抜いていった。最初に機関士がやられて、トンネルを出たあたりで止まった。後ろには数台の客車が。阿鼻叫喚だった。急ブレーキの音、機銃の音、悲鳴、うめき声が山間の狭い谷間にこだまする。「トラウマになりました。それまでは山が好きだったのに……」。中一のとき、当時唯一残っていた山岳部に入った。景信山から陣馬山の顔合わせ山行。与瀬、今の相模湖まで、最後は藪を漕いで下った。昭和19年の思い出である。5月には軽井沢で一週間の軍事演習があった。木銃で柔剣道の訓練をしたが、離山にも登り、きのこや木の実を拾ったことも懐かしい。

◆東京に帰って来ると、空襲の悲惨な光景が広がっていた。笹塚も5月25日の大空襲でやられたが、三宅さんの家は焼け残った。B29が来ても、もう爆弾を落とす場所がない。庭に出て飛んで来るのを眺めていたが、その頃は、焼夷弾が頭の上を越えていって落ちても怖さはなかった。「どうなったって同じじゃないか、一発で死んだほうがいい」と、生死を超越した気持ちだった。

◆しかし、この8月5日、「死ぬのが恐ろしい」と思った。列車に乗っていた人の半分近くが死んだり大けがをした。農家から戸板をはずして来て、負傷した人を載せて4人で運んだ。「下まで降りましょう」と声をかけると、「(自分より重症の)あの人を先に下ろしてやってくれ」と。農家の庭まで運ぶのだが、運んでいるうちに死んでしまう。戻ると「あの人を先に」と言った人が、こと切れている……。戸板の四隅のうち、体が小さい三宅さんのところが一番低くなるので、流れ出た血潮や失禁した尿が、全部自分のほうに流れて来てしまう。「あの生ぬるい感じ、臭い…。死は恐ろしいと感じた」。

◆「P51を操縦していたアメリカ兵を、にくい奴だと思った。銃があれば打ち込んでやりたかった」と語りは続く。「私は軍国少年だった。完全に洗脳されていた。あいつらはひとり残さずやってやりたい……」。10日後の8月15日、「重大な放送があるから必ず聞け」という命令があり、自分の家のラジオで聞いた。記憶は定かではないが、多分、母と姉の三人。雑音が多すぎて分からなかったが、「耐え難きを耐え」だけは聞こえた。母親が「悔しいねえ」と言った。

◆焼け跡の畑に行って、とって来たかぼちゃひとつをみんなで食べた。当時は「かぼちゃの熟れたのがあれば、人間は生きていける」と思っていたが、あと10日経てば食べられるという頃、いつも、どろぼうが持って行ってしまう。「熟れたかぼちゃを食べてみたい」という夢は、その後も強く残り、後にグルメ雑誌で原稿を頼まれた時、「かぼちゃ賛歌」という題でこの気持ちを書いた。当時の「飢え」というのは「腹が減った。昨日の朝から食べていないが、明日の夜には食べられる」ではなく、「いつ食べたかも分からない、今度いつ食べられるかも分からない」というものだという。

◆「戦中、戦後の時代背景は、どんなに説明してもわからないだろう」という三宅さんの言葉。私も人々の戦争の記憶がまだまだ鮮明な頃に霞ヶ浦の近くに生まれ、祖母の背中に負われて聞かされた子守唄も「予科練の歌」であったが、やはり直接体験された人の話は心に深くささった。「人が死ぬ無残さ残忍さ」に絶望し、8月15日終戦。さんざん殴られた軍事教官や体育教師もみんな消えていった。「お前たちのせいだ」という恨みつらみから、校長も追い出したという。

◆「僕ら自身も大いに荒れた。学園が、人の心がすべてが荒れました」。新宿の紀伊国屋に本を買いに行ったときも、チンピラがお金を巻き上げようと右往左往しているので、裏道をたどって行く。「なにかされたら突いて逃げる」。ポケットには肥後守が必ず入っていた。そこまで荒れていた。高校は何も勉強せずに卒業。宮内省に勤めていた三宅さんの父親(建築家で山縣有朋の箱根の別荘や、葉山や那須の御用邸、赤坂の迎賓館なども手掛けたという)も仕事を失い、20年ぐらいはなんとか過ごせるはずだった退職金も、べらぼうなインフレで、ほとんど数か月でからっけつに。

◆食っていくために、中学3年から池袋駅前で手配師が斡旋するニコヨン(1日の賃金が240円だったのでこう呼ばれた)の仕事をした。中学生で背も小さいとあっては、ろくな仕事もない。成増の田んぼに落ちたB29を掘り出す作業や、横浜の埠頭で石油の入ったドラム缶を、船から降ろして並べる仕事を。高校時代は銀座で事務所を回ってアイスクリームを売ったりもした。行くべき高校もなくなってしまった。みんなは大学に行ったが、母親が体を壊してしまい、掃除も洗濯も、一家6人分の世話もしなければならない。

◆そうしているうちに、父親が就職できたので、東京外国語大学の受験に行くことができた。受けたのはタイ語。山田長政のことぐらいは知っていたが、「タイではお米を作っている。タイに行けば飯が食える。飢えることがない」という、それだけの理由だった。それをカバーできるのはタイ語だ。20人募集のところ300人ぐらい希望者がいた。「どうせだめだ。勝手にしやがれ」と思ったが、合格発表に行くと、なぜか自分の名前だけが出ていた。後の19人はいない。

◆その場ですぐにお金を払って、外語の学生になったが、先生が5人で学生が1人。「自分でもぞっとした」という。神田の古本屋で買った「タイ語文典」で、半年かかって字を覚え、発音も覚えた。翌年も20人募集だったが、入学したのは2人だけ。二学年でたった3人しかいない。「どうしたことだ。これはやっちゃいられない」と言う後輩二人は、松本深志高校と須坂高校の出身。「山岳部でも作りましょうよ」と持ちかけられたが、山と聞いて思い出すのは、あの阿鼻叫喚、血潮と尿の匂い……。「山を見るのもいやだ」という状態だった。

◆10何人集めたので「名前だけでも」と懇願され、「俺は山には行かない」という条件で。それが外語の山岳部発足の最初だという。学校関係者が部長になれば、文部省が援助してくれるという。「それがあれば一杯飲める」。みんな飢えていて、飲めるいう言葉には敏感だった。タイ語の助教授から「一般教養で倫理学やフランス哲学を教えている串田孫一先生が昔、山登りをしていた」と聞いて、お願いに行った。串田さんは「出席すれば黙って優をくれる」と有名だったが、どういう人なのかは知らなかった。「山岳部を作ろうと思うんです」とお願いすると、気軽に「ああ、いいですよ」との返事。

◆翌年5月、谷川岳で第1回目の合宿をやった。夜行列車で土合の駅へ。当時はプラットホームもなく、飛び降りて線路をまたいで上ったところにある土合山の家で、明るくなるまで一休み。串田先生が、山の家の主人、中島喜代志さんと「お久しぶり」なんて会話している様子を見て、「これは大変なことだ。ただの人ではない」と思ったという。東京高校山岳部の出身、谷川岳の岩場の初登攀記録もあり、当時、一流の登山家だったのだ。

◆旧道を歩いて、ふと見上げると、そこに朝陽に輝くマチガ沢があった。新緑と残雪……。ここで三宅さんの心は変わる。「なぜか、ヤシの実がぱかっと割れたように、いやだという思いが消えた。山に戻っちゃった」。雪渓で登り方、下り方、滑り方などの練習をしながら、ひたすら浮かれていた。なぜか、仲間と二人でシンセン尾根を登っていってしまうが、身が軽いからスイスイ。「よいしょ」と稜線に這い上がって覗き込んだら、目の前には黒々とした一ノ倉沢の姿が。「これはすごい」としばらく呆然と見ていたが、下でみんなが呼ぶ声に我にかえった。

◆不思議だった。「なんでお前は山に戻った。なぜ恐ろしい所に、恐ろしい山に」。その答えは今も出て来ないという。「山の写真を撮ること、山とは何か」「どうして山に人生をかけたか」という答えも出したいが、それも未完とのこと。ただ言えるのは、「山は人間を裏切らない。人間は変遷するが、山は決して裏切らない」ということ。食べる手段は何もなかったが、「山で生きたい」と思った。山小屋のおやじ、手伝い、歩荷……。家庭を作るなど全く考えなかったし、「どうやったら山と離れないで生きていけるだろう」と考えた。

◆タイ語を活かせる企業は少ないが、明治生命に本社員としての採用があり入社。出社1日目、新人は1000人以上いた。机にパンフレットが置いてあり、その表紙が山の写真、燕岳だった。「いい写真だなあ」と感じて、どうして表紙が山なのかと、上になる人に聞いてみると、内田耕作さん(日本山岳写真協会の創設者の一人)という嘱託の人が撮った写真だという。「今どこにいますか」と、さっそく席を訪ねると、「君、山岳部に入らないか」と誘われる。これが本物の山岳写真との出会いで、内田さんを補佐しながら写真の勉強も続けた。

◆1年経った頃、仕事で信条に反することを強制され、会社を辞めることにした。「青い正義感もあった」と当時を振り返る。世話になった人たちに挨拶に行くと、「君、これからどうする」と聞かれ、「これから考えます」と応えた。「僕と一緒に山の映画をとらないか」。橋本たけおさんから、そう声をかけていただき、「それじゃ、よろしくお願いします」ということに。

◆お金はポケットマネーから毎月くれる。16mmの山岳映画で「春山は楽し」「喜ばしき登攀」などの作品を撮った。動く画面を撮ることは、写真のいい勉強にもなったし、コダックのカラーフィルムを使えたのも、とても手が出せない時代の貴重な経験だった。アメリカ兵の機銃掃射以来、いやだと思った「人間」のおかげで、自分が一歩、階段をあげさせてもらった。いつのまにか、上昇気流に乗っている。「三宅君、山の雑誌をやりたいという出版社があるんだが」と声をかけられたという話まで進んだところで、お話は尽きないが休憩をとっていただく。

◆休憩後は三宅さんも席を移り、会場の人々と一緒にスライドを見ながらのお話が続く。テーマはもちろん『アルプ』の創刊からの話題だ。誌名は山を愛した詩人の尾崎喜八さんと串田孫一さんと、三宅さんの三人で持ち寄った案を、せいので出して決まったという。「雪の峰を前に仰ぐ高原」、「憩いながら山を想いだそう」という意味だ。

◆質素だが気品のある『アルプ』の表紙が、初期の号から順に、一点一転映し出されるのを見ながら話は進む。表紙は串田さんと、やはり外語大山岳部出身の大谷一良さんが、交互に絵と版画で担当したが、編集の三宅さんが失敗をしてしまったというエピソードも。「大谷君の版画が省略が多すぎてね。丸いおはぎに小豆の粒が付いたような版画で、天地を180度逆さまにして載せてしまった」こともあるという。当時、大谷さんは商社、兼松江商の新入社員だったが、海外に赴任しても「2号に1回は版画を送って来なさい」という依頼は大変だったろうと振り返る。

◆『アルプ』は一切コマーシャリズムを排し、「広告は一切入れない雑誌でいこう」と始まった。山の雑誌というと紀行、技術、案内が主だったが、『アルプ』は随想や随筆が主。創刊号は3回まで増刷した。単行本と同じように紙型を作ってあったので、初版10,000部が売り切れた後も印刷できたのだ。「どうせ3号雑誌だ」と言われながらも300号まで四半世紀、25年間続いた。25歳から50歳まで、『アルプ』には、まさに三宅さんの「青春のすべてがつぎこんである」という。

◆最初はよかったが、版元の創文社は、そもそも社会科学系の学術専門の出版社。お金が充分でなく、串田さんが原稿料をポケットマネーから出していたこともあったという。事情を知らず、「俺たちはわずかしかもらえない」と言い出す執筆者もいて、おおげんかになったこともある。「冗談じゃない」と、三宅さんはよく尻をまくってしまったという。

◆尾崎喜八、辻まことなどの執筆者が亡くなったときには特集号も出せたが、2005年には串田先生も亡くなってしまう。1年間は何も考えられなかったが、一周忌でお線香をあげながら想った。「雑誌はもうないし、単行本を出して追悼したい」。『アルプ』と同じ表紙のデザインで、串田孫一特集の単行本を作れたときは本当にうれしかった。串田さんはモンテーニュの学者だったが、外語を辞める時に「先生何を専門になさいますか。文学者、詩人、絵を描く、それとも山登りですか」と聞いたら、「文学だね」と言う答えが返ってきたことがある。昔の仲間の話から今まで、まさに串田文学の醸成だった。

◆その後も三宅さんのお話は、『北八ツ彷徨』などで知られる随筆家の山口燿久、山をテーマの多くの画文集を残した辻まこと他、『アルプ』から出た沢山の著者たちの思い出が次々と語られ、尽きることはなかったが、ひき続いて、三宅さんが撮影した数々の山岳写真の投影に移った。

◆先ずは常念岳の荘厳な朝陽の写真。笠ヶ岳から見た槍ヶ岳は、ケルンの向こうに朝の太陽光が煌めいている印象深い写真だ。ひとつひとつ丁寧に説明しながら三宅さんは語る。「山は偉大だ。山にはかなわない。人間はいつ反転するか、あてにならない」と。そんな思いから、山の写真を撮るときには、人をできるだけ排除して来たというが、今回はその貴重な「人物入り」の作品も見せてくれた。双六の池から見たもの、涸沢岳頂上、マチガ沢のつめ、いずれも添景人物が効果を見せている。

◆画像は白馬岳のお花畑、太郎兵衛平のコバイケイソウ群落などと続き、6月に手術をした直後、この8月に出かけて撮影したという中央アルプス千畳敷カールの作品や、昨秋、秋田駒ヶ岳近くの雨の千沼ヶ原で撮った写真も披露。常念からの夕暮れの槍ヶ岳、一月の穂高、裏劔……、最後の車山湿原での「高原の夕暮れ」まで、22点の作品を念入りに解説してくれる。「大きな山をさらに大きく見せるためには前景が大切」。これが三宅さんが山の写真を教える際の口ぐせだという。

◆時間はもう終了予定時刻の21時を回ってしまった。しかし、肝心の串田先生のスライドがまだこれからだ。「僕の一番弟子は遠藤周作」と話していた串田さんだが、三宅さんらを「若い友人たち」と言ってくれていたことで充分だという。串田さんはいつでもスケッチをしていた。汽車の窓からも移り変わる景色をどんどんスケッチする。雨飾山頂上での「マインベルグの仲間たち」という、石仏の間からみんなが顔を出しているユニークな写真や、秋山郷で熊の子を抱いた写真、スキーでジャンプストップで回転しようとする一枚……。串田さんが、地形図を丹念に探して見つけた信越国境近くの奥深い鳥甲山に初めて登った際には、「とうとう来たね。できたね」と喜んでいたという。

◆鳥の鳴き声のことが原因で、けんか状態にあった河田木貞(みき)さんと尾崎喜八さんを仲直りさせるべく、青梅の山にひっぱりだした時の写真……。どれもこれも、三宅さんの串田さんへの愛情がたっぷり注ぎ込まれた解説が続く。私自身は残念ながら生前の串田さんに、直接お目にかかる機会は逸してしまったが。お人柄が偲ばれる写真ばかりであった。

◆若手のプロの作家たちを集めて、日本山岳写真集団を設立したこと。『我が心の山』という作品集も刊行できたこと。外語大山岳部でモンゴルの山に行くときも、「知らん顔してはいられない、俺はどうしても行かなくちゃならない」という気持ちで出かけた話等々。もうとっくに終了予定時刻を過ぎてしまったが、三宅さんの話は一向に終わらない。話していくうちに、さらに話しておきたいことが、次々と思い浮かんで来てしまうのだろう。

◆「決してあの戦争の時代に戻っちゃいけない。人が人を殺すなんて言っては、考えてはいけない」。「人が人を助け、生きていかなければならない。今はいやな時代だが、絶対に元にもどさないようにしなければ」。「平和、自由。一人一人の生き方が明るいものでなくてはいけない。戦争をするのが職業なんて、兵隊をなくさなくてはいけない」と語調もやや強くなる。

◆「88歳で、父親の年を超える。さらに1年で串田さんが亡くなった年も」。「もうちょっと生きてみたいなあ。自分の人生を100%謳歌して行きたい」。これが三宅さんから会場に、そして次の世代に投げかけられた結びの言葉であった。(久保田賢次 『山と渓谷』元編集長)


報告者のひとこと

序章だけで終わってしまった話

 戦前、戦中、戦後の昭和世代の我が人生・87年を振り返ってみると小さな人生なのに思いがけないほどの起伏があったことに気づく。戦前の幼年時代、戦中の少年時代それぞれに現代とは全く異質の時代だけに、その違いをどう表現したらいいのか、迷いながら夢中になって話すうちに、なんと本題に入る前に時間切れになってしまい、折角お集まり下さった方々にお詫びのしようもない。

 本題は戦後の荒廃し虚脱した青年期からの脱出以後の人生にある。串田孫一先生との出会いが総てと言っていい。終戦後の人の変節に不信感を強めていた私の座標に「山/大自然」に触れ、同化する悦びを教えて下さったのである。

 この串田先生について話そうと思うと、語彙の乏しい私は絶句し、たぶん立往生するに違いない。黙ってそばにいるだけで、その雰囲気だけで暖かな何かに触れているような穏やかで静かな心になる……。そんな大きな人格を感じるというのが私の山仲間の共通した想いなのである。

 その串田先生を中心に発刊された山の芸術誌『アルプ』の編集者となり多くの山の先達方に出会えたこと、同年配の山岳写真家達との「日本山岳写真集団」の創立と小さな歴史が刻まれて、山を通じて、人も満更捨てたもんじゃない、と思うようになっていく。ほんとに小さな、長い話だ。私はそんな挫折の瀬戸際で口笛を吹いたものだ。さだまさしの「主人公」のラストのフレーズ、「小さな物語でも自分の人生の中では誰もがみな主人公」。

 そんな主題に辿り着くこともなく終わってしまった不手際をふかく反省をしながら、話し下手の私は改めて自分史を書き留めてみようかと思っている。折角火をつけて下さった地平線会議の皆さんへのお詫びとお礼の心をこめてもう一度87年間の長く細い道を辿り直してみるつもりだ。 (三宅修


東京外語山岳部の大先輩・三宅修氏の報告をきいて

 私は外語山岳部を2年で落ちこぼれた英米科出身の77歳のおばあさんです。

 人間の一生の中のある時期に自分の生きていく道が決まる、その瞬間が三宅さんの場合は、小学生の時、勤労動員でかり出されてまきこまれた高尾の旅客鉄道銃撃事件であり、飢えとは何かをからだに刻み込んだ戦争であり、串田孫一先生と出会い、外語山岳部創設に関わることになったころと思われます。「熟れたカボチャを食べたい」という燃える思いの挿話も心をうちました。

 以前ピューリッツァー賞を受賞したフィクション『All the Light We Cannot See』(翻訳されておりません)があります。第二次世界大戦中のドイツ、フランスを舞台にしたこの小説のなかに、目が見えないフランスの少女と、ドイツ少年兵がサン・マロ(フランス)でほんの2、3時間で出会い、少女の隠れ家で、ともにモモの一缶を分け合う、美しいシーンがあります。やがて少年は連合軍の捕虜となり、かつてドイツ軍の埋めた地雷の犠牲になるのですが。

 雪の残る谷川岳の私の最初の新人合宿、マチガ沢、息をのんだ一ノ倉沢の絶壁、こんな岩をよじ登るなんて人間じゃない、とぶつぶついいながら眺めたものです。ダンディーな串田先生のお姿を今更ながら凝視しました。「出席すれば黙って優をくださる」は多分真実との巷のうわさでした。

 『アルプ』創刊、続く四半世紀にわたる編集活動での三宅さんの粘り強さ、強靱さは人間業とは思えませんがここでは口をつぐみます。「山は人を裏切らない」、三宅さんの一生のモットーの重みは落ちこぼれの私に容赦なく迫ってきます。たった一人で重い装具を一身に負い、厳しい大自然に対峙なさるお姿がしのばれます。ケルン、旭光、千畳敷カール、人影の見えるアルプス、いずれもいずれも、三宅さんのプロの目と、自然、人間へのひたぶるごころがあふれ出る写真の数々でした。そして穏やかな里山の写真には ほほえみを禁じ得ませんでした。 

 William Tyndale は近世初期の若きイギリス人聖職者でしたが、当時カトリック教会は現地語への聖書の翻訳を禁じていました。彼の願いは聖書を英語に翻訳することでした。そのためティンダルはついに火刑に処されますが、彼の翻訳聖書は、後年の欽定訳聖書他に多大の影響を与えました。私にとり、三宅さんの山岳讃歌は、山のすべてをティンダルのように翻訳してくださったことです。英語ですと、immediacy、 cadence「直裁、静寂をも含む律動」というところでしょうか、ティンダルの英訳聖書の特徴が、私にはかいまみえるのです。今一度、地べたから山を見上げてみます。(新堂睦子

祖父が犠牲になった、もう一つの機銃掃射

■先日の三宅さんの報告会、とても興味深い話で勉強になりました。ありがとうございました。三宅さんの列車銃撃経験の話は知ってはいましたが、本人から聞けてよかったです。本当の「飢え」の事、生死を超越したという心境、その頃の人々の状況、ポケットにしのばす肥後の守、カボチャ泥棒、などとてもリアルで臨場感にあふれており、拙い想像力を駆使しながらの貴重な時間でした。戦争体験の話、これを本人に聞けるのは本当に貴重ですね。先月の地平線通信の江本さんの記事も、私たちにとっては全く未知な体験ですのでもっと詳しく聞きたいくらいです。

◆実は私の祖父も、列車機銃掃射の犠牲者です。ただし、高尾ではなく三重県亀山市での。父本人は幼かったので詳しいことは知りませんでした。それが今年の夏、8月にNHKで放送された番組を父が見て初めて詳しく知りました。知らないまま今日に至っていて、もっと色んな人に聞いておけば良かったと本人はつぶやいておりました。「埋もれた『列車銃撃』74年後の記念碑」という番組で、終戦直前の1945年8月2日正午過ぎ、三重県亀山市を走る蒸気機関車を米軍戦闘機が銃撃、40人が犠牲になるという悲劇を伝えるドキュメンタリーでした。三宅修さんが目撃した高尾の銃撃事件の5日前ですね。

◆父の実家は三重県四日市市で、祖父は兵隊さんとして電車で移動中に銃撃にあったと聞きました。戦闘機に取り付けられたガンカメラの映像には、あらゆるものを対象にして行われた機銃掃射の様子が残されています。中でも特に多くの人の命を奪ったのが、列車への銃撃です。民間人を乗せた列車が容赦なく襲われ、各地で甚大な被害を出していました。

◆ガンカメラの記録を一体どうやって入手したのか、よく残っているなと思いますが、その先に私の祖父がいると思うと冷静に見ることはできません。祖母は幼い子供を背負い、三宅さんの言う阿鼻叫喚のただ中に駆けつけたと思うと胸が張り裂けます。

◆一家の柱を失った父親の家族はその後、祖父の弟が代わりに柱となり、私はその人がずっと本物の祖父だと思って育ち、大人になるまで知りませんでした。祖父が戦争で亡くなっていたのを知ったのは、新しい祖父が失踪してからです。本当の祖父が亡くなってさえいなければ、こんなことにはならなかったのに、という不幸が起き、父親達は育ての父親の死に目にも合うことができませんでした。

◆私事でしたが、埋もれてしまう前に、語り継がなくてはいけませんね。私の世代が、戦争を体験した人を直接知っているという最後の世代かもしれません。それにしても、三宅さんの写真の美しさや本人のパワーには感動しました。まだまだ、時間が足りないくらいでしたね。質問時間がなかったのも残念です。いつかまたぜひともお会いしたいなぁと切に願います。報告会のお礼も兼ねて、丁度祖父の事件も詳しく知ったので個人的な感想を綴りました。残暑厳しいですね、お体には気を付けてお過ごしください。(モリサチコ 尺八奏者)

胸に迫るもの

■8月に戦争体験のお話を若者に聞いてほしい、この事を江本さんがだいぶ前から温めておられるのを薄々感じていた。私の両親は青春の只中が戦争一色だった世代だ。だから私も橋渡しの責任がある世代だとの自覚は持っている。しかし今回三宅さんがお話下さった事は初めて聞くことばかりだった。湯の花トンネル列車銃撃事件、近くに住んでいながら迂闊だった。知らずにいた事が恥ずかしい。必ず現場に足を運んで手を合わせたい。旧制中学の生徒まで勤労動員に駆り出されていた事実を今回初めて知った。もっと若い世代に聞いてほしかった。三宅さんよくぞお話下さいました。

 小学校4年生で山に目覚めて以来、山岳雑誌は身近な存在だった。山岳写真を講評をするページが後ろの方に必ずあり(今も連綿と続いている)、そこに選者としていつも三宅修さんのお名前があった。大判カメラの広告をうっとり眺めて私も大きくなってお金を稼ぐようになったらマミヤとかリンホフテヒニカとかを手に入れて、山の写真を撮ろう……と憧れを抱いていた私。まさしくその頃(1967年に)9名の同人によって設立された「日本山岳写真集団」が半世紀もの長きにわたりプロの写真家の地位・技術の向上を牽引してきた。三宅さんは山岳写真界のパイオニアなのだ。串田孫一さんのお名前に出会ったのも多分同じ頃。『アルプ』を教えてくれたのは母だったかもしれない。山を逍遥しながら巡らせた思索を綴った言葉の世界にあの時代、多くの人が魅せられた。装丁も精興社の活版印刷も味わい深かった。『アルプ』の執筆者は実に多彩、600名を超えた。敬愛する串田孫一先生のもと創刊から終刊300号まで編集に関わり続け、かたや山岳写真家として山に篭る日々、両立させるには人知れぬご苦労があった事だろう。同時代に三宅さんの山岳写真にも、『アルプ』にも出会う事が出来た私は幸せだ。

 三宅さんは今回、手術後の体調を押して報告会に来て下さったと伺った。千畳敷で撮られた写真が写しだされた時、はっと胸を突かれた。入院中病院の天井を見つめながら、一日も早く山に戻りたい、どうやって復帰しようかと考えておられたのに違いない。帰りの道すがらご一緒した電車の中で、思わず伺ってしまった。「矢も楯もたまらずお出かけになったのですか」と。お答えはやはりそうでした。山を愛するとはこういう事かと胸に迫るものがありました。薄紙を剥がすように少しずつ食欲を取り戻されて、また山にいつもどおり向かわれる日々が近い事を願っております。(中嶋敦子

三宅さんの山

■87才の現役山岳写真家の話だからと向後元彦に誘われて三宅修さんの話を聞きにいった。87才といえば私より6歳も年上である。話は中学生の頃、中央線の高尾と小仏の間の短い湯の花(猪の端)トンネル入口で起こった米軍機による列車襲撃事件を自らも機銃掃射を避けながら目の前で目撃する話からはじまった。

◆その場所は私が高尾山や城山、あるいは景信山や堂所山に北側から登るのにちょいちょいバスで通りすぎている場所らしい。いままで何かで読んだり、テレビの番組で見たことはあっても、単なる歴史的な情報としてうっすらと知っているだけだったし、そのあたりは道路が鉄道から少し離れて山端を迂回する場所なので、慰霊碑に出会うこともなかった。

◆それが少年の目を通して時間とともに動いていく地獄絵としてとつとつと語られた。奥高尾の上で反転を繰り返しながら低空で襲いかかりつづけるP-51。逃げまどう人々をタンタンタンタンと叩きつぶしていく機銃掃射。真正面で目の合うパイロットの狂気の目。私にも子供の頃それよりは安全な場所からではあったが似た襲撃を見た記憶があり、ありありと想像できた。

◆やがて話は外語大で山岳部づくりに巻き込まれ、おしゃれの権化のような登山家にして哲学者、詩人にして画家の串田孫一さんに出会う。そして谷川岳のマチガ沢が三宅さんをあの惨劇のトラウマから開放する。のめり込んでいき、山を撮る写真家となり、『アルプ』の創刊、編集へとつづく話になる。あの時期に山岳部を作った人たちは皆凄味を持っている。だから話も、そうだよね、なるほど、ああそうだったの、と興味深かった。

◆しかし何より感服したのは三宅さん自身の登山力だ。そう、年取ってからの。山にいることが好きだから、その中で気の済むように探し歩いて山の気を見つけたいから、自ずと山は時間無制限・季節・天候無制限の単独行となる。それを雪の高山を含めていまも続けている、というかやってしまう。文句なしに感服した。これも、6才も年下のくせに、そして道や踏み跡のある低山しか歩いていないとはいえ、我が身の経験があるからの感想だ。三宅さんの登っている山は「未踏」にして「高い」。(宮本千晴

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