2019年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信483より
先月の報告会から

地雷の向うの精霊の山

五十嵐宥樹

2019年6月28日 新宿区スポーツセンター

■報告の直前、久しぶりに五十嵐さんと会った。とても緊張しておられ、続々と集まる地平線メンバーに丁寧に挨拶をする姿を見て、そういえば五十嵐さんはそういう方だったと思い出した。初めて五十嵐さんと会ったのは、探検の準備のために東京在住のミャンマー人に聞き込みをすべく、東京に滞在していたある日、早稲田の探検部員の家に上がり込んでいた時だった。当時1年生だった私にも腰が低く、静かな口調で、しかし胸中の熱い思いが見え隠れするような話をしてくださった。今回の報告会でもそんな五十嵐スタイルで、北大探検部の活動として、そして五十嵐さん個人として追い続けている神の山「トティコ(Thaw-thi-kho)」について語って頂いた。

◆五十嵐さんは現在北海道大学の大学院2年生。出身は福島県郡山市で高校ではラグビー部で活動し、特に探検記などは読んだことがなく、探検部のことも知らなかった。高校での友人は、東京か仙台の大学に行きたがっていた。大学ではこれまでと違った人間関係の中で生活してみたいと考えていた五十嵐さんは、雄大な自然に憧れ、北海道大学への進学を希望する。晴れて北海道大学に進学し、北大のバンカラな校風に期待するも、そんな校風はもはや存在せず、有名な恵迪寮(けいてきりょう)はタコツボ化している印象を受けた。理想と現実のギャップにショックを受け半年ほどくよくよしていた五十嵐さんの目に飛び込んだものが、探検部と掲げられたボロボロの家、「デューク東郷」である。

◆北大探検部は過去の事故以降大学からの締め付けが強くなり、1990年に大学公認の部を取り下げ、非公認のサークルとして活動している。その頃から部室に変わる手段として大学近くの一軒家を借り上げ、部員何名かで住んでいる。札幌市北区の水洗トイレ普及率100%を阻害していたとも言われるボロく、汚いその空間に惚れ込み探検部への入部を決める。

◆下級生の頃は、先輩に連れられて、レジャー的な活動に参加していた。どの大学の探検部も同じような感じだが、外部に報告できるような探検と呼べる活動はなかった。二年生の時には、自転車で日本縦断を行い、各地の大学探検部を尋ねる。この頃から徐々に、探検部であるならば、探検を、そしてできるなら外部に報告をすることができる大きな計画を目指すべきだと考えるようになる。そこで五十嵐さんは北大探検部にプロジェクト制度を導入する。部員が大きな目標を持ち、それに向けて部員同士で勉強会や文献調査を行い活動へと結びつけていく制度である。

◆五十嵐さんが、カレン族(スゴーカレン族)について知ったのは、教授から渡された『ゾミア』を読んだ時。カレン族についてもっと知りたいと考え、吉松久美子さんの著書『移動するカレンの民族誌』(2016)を読む。その本の巻末の付録の中で、カレン族の起源について語られた、トメパ神話についての記述を見つける。そのトメパ神話には、「中国人」や「ティセメユワ川」など謎多き単語が登場する。また、19世紀半ばから20世紀初頭にかけてカレン族に接触していたキリスト教の宣教師達の間で、この神話に出てくる「中国人」とは誰のことをさすのか、「ティセメユワ川」とはなんのことか、と論争があったことも付録の中に書かれていた。

◆「ティセメユワ川」について、それは黄河のことだと主張する宣教師もいれば、ゴビ砂漠のことだと主張する宣教師もいる状態で結論が出ていない模様。そこに目をつけた五十嵐さんら北大探検部員は、この宣教師たちの論争について文献を探すことに。しかし、神話の登場する地名や人物の名前があまりに抽象的で、かつての宣教師達以上の推論は難しいと諦めかけたその時、ある文献を見つける。その文献は、「ティセメユワ川」を黄河だと主張していたマーシャルという宣教師が1922年に残した文献で、「カレンの民話はトティから作られたものが多い」と書かれていた。これが五十嵐さんとトティコとの出会いだった。

◆19世紀半ば、タウングー(Taungoo)地方に宣教師達がやってきた頃、トティのそばに暮らす人々は、様々な儀式を行なっていた。村のリーダーや預言者が神のお告げを解釈して、トティコの山頂へ巡礼を行う時期を毎年決めていた。山頂に行くと、豚や水牛を捧げ、石のケルン(石を積み上げた印のようなもの)を作る。今でもケルンや供物として捧げられた壺や器のかけらを見ることができる。とマーシャルは記述している。

◆マーシャル自身が山頂に行ったかは記述されていないが、文献の最後に、今ではトティコへの道は植生に覆われ、長い間儀式は行われていない、数人の老人が記憶にとどめるのみであると書かれていた。その文献の中でマーシャルは、トティコとはナッタン(Nattanng)のことであると記述している。そこで今度は、他の宣教師はトティコについてどのような記述をしているのかを調べてみることに。するとトティコに関しても様々な報告があがっていた。スゴーカレン語の辞書を最初に作った人物は「想像上の山でしかない」と書いていたり、別の宣教師は「想像上の山ではなく実在している」と書いていたり、また別の宣教師は、タウングーに住むカレン人に「あの山がトティコだ」と指し示されたと書いていたり。

◆しかしタウングーから東の山々の中で、どれがトティコかはわからない。そんな中、イギリス人の役人だったマクマホンという人物がトティコに登った報告をしているのを見つける。このマクマホンもトティコのことをナッタンであると記述していた。一方これらの文献の中に、トティコと対になって紹介されるポゴコ(Pghaw-ghaw-kho)という山が存在する。ポゴコはトティコといわば夫婦のような関係の山で、トティコの北側4マイルの位置に存在するとマーシャルは記述していた。一体これらの山はどこに位置するのだろうか。文献調査を共に行ってきた人たちも五十嵐さん自身も学年が上がり、4年目に差し掛かっていた。そこで、実際に登りに行こうと考えていた時、探検部の後輩から言われる。「五十嵐さんたちが行こうとしているところ、地雷原ですよ」

◆ミャンマーの観光会社にナッタンに登れないかと相談をする。そのうち一社がトティコやナッタン、入域について相談に乗ってくれた。しかし得たい情報は手に入らず、要領を得ない。言われるのはその地域は治安が悪いので考え直した方がいいといった内容。現場の肌感覚を得、現地の人に聞き込み調査を行う為に、予備調査としてとりあえずミャンマーに向かうことにする。行き先はナッタンの西側に位置する街のタウングー(宣教師たちの拠点だった場所)。メンバーは五十嵐さん、岡田さん、笠原さんの3人。実は五十嵐さんは初の海外だった。

◆タウングーのホテルのオーナーにトティコやナッタン周辺について聞いてみたところ、ナッタン周辺の入域なら、カレン州都のパアンのイミグレーションオフィスに行けば許可がもらえるかもしれない。トティコについては、知らないが、カレン人の伝説の舞台となる山は他にも存在する。その山(ThanDaungGyi)なら外国人でも許可なしに登れると言われ、登りに行ってみることに。山頂にはすでにキリスト教の十字架が建てられており、セレモニーなどができるような広場がコンクリートで作られていた。ガイドに聞いたところ、もともとカレン族の信仰の山だったが、今はキリスト教の山として崇拝されているとのこと。

◆このガイドに地図を買いたいと言うが、山岳地図は軍が管理しているため、入手はできないと言われる。タウングーにいても得られる情報が少ないため、12時間ほど高速バスに揺られ、カレン州の州都であるパアンに行くことに。しかしイミグレーションオフィスに行くも、やはりナッタン周辺への入域許可はおりない。そこで、パアンで泊まったホテルのオーナーにトティコについて聞いてみる。するとカレン人の学生を紹介してくれるとのこと。

◆しかし会ってみると彼はポー・カレン族。ポー・カレン族とスゴー・カレン族は言語も異なり、信仰も異なる。トティコについてはわからない、ポー・カレン族にとっての信仰の山は近くにあるゾエガピン山が有名であるとのこと。やることもなくなってきた五十嵐さんらは、神の山として名高いゾエガピン山に登ることに。すると登山口で降りて来た、スゴー・カレン族とポー・カレン族のカップルに出会う。そこで登山をやめてゲリラ的に聞き込みを行うことにした。

◆しかし、やはりトティコについては知らないとのこと。またナッタンのあたりに行きたいという話をすると、その地域は複数のゲリラグループが混在しており、地雷もあり、無許可で入域すると撃たれる可能性があるから、絶対に行ってはいけないと言われる。また、民族紛争についても教えてもらう。ちなみに五十嵐さんはこの家族とは今でも仲良くしており、その後の調査でミャンマーに行く度に立ち寄っているらしい。

◆結局入域についても、トティコについても有益な情報を得ることができないまま帰国の日が近づいてしまう。最後にヤンゴンに戻る前に、問い合わせに答えてくれた観光会社の人が、一度会って話してみないかと連絡をくれる。会いに行くと、現地で長年写真を撮り続けてきた写真家の人を連れて来てくれていた。改めて入域禁止の地域で山登りがしたいと話してみると、てっきり止められるものだと思ったが、その写真家の人が「僕の友人に現地人のふりをして面白いことをしている人がいる」と言われる。

◆ナッタンの東側の地域はタイと繋がっているドリアンの一大生産地で、密輸業者がたくさんいるから、君もドリアン業者に扮して輸送トラックに乗せてもらってこっそり入っちゃえばいいんじゃないの?とそそのかされる。なんか聞いたことある話だなと思ったら、やはりこの写真家は高野秀行さんの友人の方だった。そこで話が盛り上がり、まずは日本に住んでいるカレン人と仲良くなって、色々情報を集めてから再び来たらいいのではとアドバイスをもらう。さらにカレン人で東京に住んでいるPさんという女性を紹介してもらう。

◆このような形で2016年に行われた1回目の予備調査は終わる。結果としてナッタンとその周辺に入ることは予想以上に絶望的であるということがわかったのと同時に、この計画を成功させれば面白い活動になるに違いないというある種の手応えを感じていた。ここで、北大探検部としての隊は解散し、今後は五十嵐さん個人としての活動になっていく。

◆ここからは五十嵐さんの日本での、主に東京での聞き込み調査が続く。写真家に紹介してもらった日本在住のカレン族であるPさんに連絡を取ってみると、トティコについて知っているカヤー州出身のTさんという方を紹介してもらえることに。しかし、いきなりトティコについて教えて欲しいと迫ったが為か、資源狙いかと聞かれ、非常に印象が悪くなってしまった。後で調べてみると、ナッタンの辺りは、スズやタングステンが取れる地域。その為ビルマ政府も日本などの企業もその地域を開発したがり、カヤーの人たちは山々を守ったという過去があった。

◆その頃、五十嵐さんは卒業研究にも取り組んでいた。五十嵐さんの所属するゼミはフィールドワークのゼミで、まさにこのトティコをテーマに卒業論文を書く予定だったが、入域することが厳しく、現地で調査ができなかったため、テーマを少し変え、第三国定住制度で日本へとやってきたカレン族難民の人たちの抱える問題を調査することに。そこで1か月東京にきて、早稲田の探検部の同輩の家に半ば強引に住み込み、東京在住のカレン族に聞き込みをすると同時にトティコ、ポゴコについても聞いて回る。

◆多くの人に聞き込みをする中で、タイの難民キャンプに行くときにトティコを通過したことがあるというKNU(Karen National Union,カレン人による民族組織)の元兵士の人に会うことができトティコ周辺の話も聞くこともできた。トティコの存在を確信した五十嵐さんはさらに調査を進め、タイの難民キャンプに潜入したジャーナリストの存在を知る。このジャーナリストがタイの難民キャンプへ行く際に手引きをした人物の連絡先を手に入れた五十嵐さんは新大久保に会いに行く。すると、トティコについては知らないけれど、KNUの日本のリーダーを紹介することはできると言われる。

◆そのような経緯でKNUジャパンのリーダーとの接触に成功。このように、少しずつ少しずつ人脈が広がり、最初は雲を掴むような話だったのが、だんだん雲というか霧の先に山が見えて来るような感じがしたと五十嵐さんは語る。東京での調査結果をまとめると次のようになる。トティコは現在カレンではなく、隣のカヤー州の民族軍の支配地域であること。そのため、カヤー人とのコネクションが必要かもしれないということ。トティコ周辺はやはり危険で、地雷がある。ただどのエリアから危険で、どの地域から地雷があるのかその詳細はわからなかった。トティコは資源を有する山で、ビルマ政府や国外の企業が狙っている。この地域は軍に守られていて、カレン人でもカヤー人でも口の固い人しか入れない。そしてトティコについて知っている人は複数人いたが、トティコと対になる山であるポゴコについては誰も知らなかった。

◆ここで、改めて現地での調査を行おうと考え、笠原さんを誘い、2017年に再びミャンマーへ。KNUジャパンのリーダーに、トティコに入れるように手配してもらい、今度こそ行けるのではないかと期待してKNUジャパンのリーダーのお父さんの家に行くが、全く話が通っておらず、出だしから失敗してしまう。しかしここで諦めずに交渉すると、タウングー地方に住むグウェリーさんを紹介してもらう。グウェリーさんは、かつて日本で10年ほど住んでいたことがあり、日本語も達者。当時は、KNUのボランティアとして活動していた。

◆トティコについて知っている人を探すのを彼に手伝ってもらい、KNUのオフィスにも案内してもらう。五十嵐さんも最初は勘違いしていたが、KNUといっても彼ら全てがゲリラというわけではないのだ。難民支援を担当する民間人も多くいる。ナッタンを含む山域がすぐ近くに見えるところまでいったり、トティコにいったことがある兵士とあったり、前回と比べるとものすごく近いところまで来ているという実感を得る。

◆また、タウングーでミルタンさんという女性を紹介してもらう。この人は在野の歴史家で、個人的にカレン語の本を英語に翻訳したり、カレン語の方言について調べたりしている人。この人から、2013年に書かれたトティコについての記述がある本のコピーをもらう。このタイミングで東京のPさんから、Tさんが現在カヤー州に帰省していると連絡が入る。早速Tさんに電話するとカヤー州の州都のロイコーで会えることに。さらにトティコの山頂に登ったことのあるお爺さんも連れて来てくれるとのこと。バスに乗り、タウングーからロイコーへ。このお爺さんは、かつて教師をされており、KNUで働いていたこともあるらしい。

◆「昔はトティコは有名な山だったけどね、今は有名じゃなくなって若い人たちはあまり知らないんだよね、山までの交通の便も悪いし、紛争地だからね」と語り始めた。トティコに登ったのは2013年の4月。当時は内戦が激しく、トティコ周辺の神聖な17の村々の一つレキ村のハンターにガイドを頼んだ。周辺の村はキリスト教徒が多いが、ピヤモソーというカレン独自の宗教を信仰している人もいる。トティコ山頂の植生は、自然に生えているのに手入れされているように整っていて、トマトや唐辛子が自生している。また、他にも珍しい植物が存在する。

◆このように、トティコにしかない植物があり、不思議なことがあるから、ビルマ人はナッタン(精霊の山)と呼ぶらしい。頂上の様子を聞いていると、頂上はかなり広く、トティコとポゴコがある。トティコの方が少し高い。という発言が。ここで初めてポゴコの名前を知る人に出会い、五十嵐さんは興奮して、さらにポゴコについて聞いてみると、トティコとポゴコは地続きで、歩いて30分ほどだという。四方が見渡せるこの山は軍事的要衝で、1/3はKNUが支配し、残りはKNPP(カヤー州の民族組織)が支配している。

◆2時間半近く聞き込みをさせてもらい、ポゴコとトティコの関係についても知ることができた五十嵐さんは大満足で旅を終える。日本に住むPさんに協力してもらって、ミルタンさんにもらった文章を翻訳すると、お爺さんが言った作物の話も書かれており、トマトや唐辛子の他に山頂にはカシューナッツや不思議な苦い薬草も生えているらしい。また、トティコ誕生の神話も書かれており、トティコは双耳峰となったという記述も。これらの調査から、五十嵐さんは、現在地図に書かれているナッタンではなく、その南に位置する双耳峰となっている山がトティコとポゴコのピークなのではないかと考える。

◆現在、五十嵐さんはカヤー州側からアプローチしてトティコに登頂できないかと考えている。そして、登頂を果たし、トティコとポゴコの位置を地図に表現し直すこと、今のカレン、カヤー人にとってトティコがどのような山なのか聞いてくること、これらを通じ、100年前、第二次世界大戦中、現在の三本柱で、「トティコ」という山を描き直すこと、この三つを次なる目標としている。

◆これまでの準備と活動を通じて一番面白かったのは、いろいろな人のつてを使って、多くの人に会いながら、少しずつ目指すものが見えてくる過程。今回報告するにあたって記憶を整理してみると、誰と会ってここまでたどり着いたのかということが、葉脈のように見えてくる、この軌跡がとても面白い。そう五十嵐さんは振り返る。

◆最後に五十嵐さんは、大学探検部員に向けてある言葉を送ってくれた。その言葉とは、和田城志さんの「大学山岳部員は軟弱とはいえアルピニストの末席にいることを忘れてはならない。」という言葉をもじったもので、五十嵐さんがくじけそうな時に思い出していた言葉である。「大学探検部員は軟弱とはいえ探検家の末席にいることを忘れてはならない。」(走出隆成 早大探検部4年)


報告者のひとこと

探検部が探検をしなくなったら終わりです

■話し始めて小一時間、報告の前半が終了。気が付くと、張りつめていた緊張の糸は切れ、残りは無我夢中だった。いつの間にか報告は終わり、会場が拍手で私を労ってくれていた。二次会の「北京」でも、自分が報告者として席についていることに現実感がなく、まだ夢のなかにいるような気分だった。

◆今から6年前、憧れだった北大に入学はしたものの、理想と現実の差に戸惑い、失意のうちに半年を過ごした秋、北大探検部という「アジール」に辿り着いた。平成という時代には凡そ似つかわしくない、築年数90年を超えた木造平屋の部室兼住居。今は無き「デューク東郷(注:屋号)」には、自分の求めていたものがある気がして、1年目の私は迷わずトタンの門を叩いた。

◆黴臭さと小便臭さが充満した廃墟のような空間に、薄汚い格好でたむろをする「上の年目(北大では「先輩」と呼ぶよりも一般的だ)」の世間ずれした雰囲気に魅せられ、改めて「ここだ」と確信した。それからというもの、部室に通っては酒を飲んだ。若さにまかせて安いアルコールを体内に流し込んでは、シミだらけのこたつ布団から夢の中へと滑り落ちた。寝ても覚めても酔いは醒めず、夢か現実か、わからないような毎日を過ごした。早く仲間になりたいという一心で、未知を探るための姿勢も見せず、履き違えたアピールに明け暮れていた。

◆ただ、部室で目が覚めていつもしていたのは部内の資料、活動記録の物色だった。重い瞼をこじ開け頭上を見上げると、今度は色褪せた冊子が詰まった本棚が私を見下ろすので、仕方なくこたつから手をのばしてその中からなにか適当に一冊をつまみ出しては、先人の記録に目を通すことが日課のようになっていたのだ。日焼けで黄ばんだページを繰っては、昔日の探検活動に思いを馳せ、自分が所属する団体が「探検部」であることを改めて自覚させられた。恥ずかしい話である。

◆その頃の探検部の活動はといえば、既存の記録をトレースするだけの川下りや山登りに代表される単なるレジャー活動が多数を占めており、剰え真剣に「探検」について唱える人間を疎んじるような倒錯状態があったように記憶している。冒険の世界とは縁遠い、馴れ合いの諧調に満ちた揺籃の中、夢見心地でいた私は、平仮名の「たんけん」部員でしかなかったのかもしれない。そんな私の酔いを醒ましてくれたのは、北大探検部がかつて発行していた部誌にある、こんな一節だった。

 《探検部が探検をしなくなったら終わりです》

◆20年以上前の現役部員に「そろそろお前も探検部員になれよ」と横面をはたかれたような気持ちがして、その頃から、探検部とはどういう場なのか、自分なりの答えを探りはじめた。「探検とは何か」。埃のかぶった議題を仲間の前に取り出して、恐る恐る問答をはじめた。入部から数年後の、遅すぎる通過儀礼だった。

◆そうして、いつのまにやら(だからこそ私は面白いと思っているのだが)、誰が興味を持つのかわからない「神の山」に登ろうと躍起になっていた。一方で、すぐには変わらない探検部の雰囲気や方向性とのギャップに相変わらず苦しみ、悩み続けた。部の中核を担うようになっていた私に、その責任があることもわかっていた。

◆今回、地平線会議で報告することが決まってから、目的が達成できていない現状での「未熟な」報告に対する不安が頭をもたげていた。もちろん、地平線会議の報告者、という憧れの席に座ることへの純粋な緊張もあった。しかし、「俺が(報告して)良いと言ってるんだから」という江本さんの言葉を信じ、胸を借りるつもりで報告の舞台に飛び出した。早稲田の後輩たちに「先を越されていた」こともあり、ここで遠慮や気後れをしている場合でもなかった。

◆そして、今回も周囲のサポートのおかげでなんとか、報告を終えることができた。実際の発表については、反省点でいっぱいだ。あれも、これも、言い忘れたし、あれは、余計だったかもしれない、と。些か自分語りに過ぎる自己紹介に辟易された方もいたかもしれない。しかしながら、いろんな思いがないまぜになったこの活動に出会った経緯は省きたくなかった。

◆結果的にずいぶんと荒削りな発表になってしまったが、報告後に「面白かったよ」と言ってくれた方々の一言一言に、これまでのモヤモヤとした思いが昇華されていく感じがした。こんなことを言うと歴代の探検部の先輩諸氏に呆れられそうだが、私は、とにかく「探検」部員になりたかったのかもしれない。そのことを通じて、自分の所属する団体を、本来の「漢字の状態」に少しでも戻したかったのかもしれない。「たんけん」部ではなく「探検」部へ、と。私もまだ、現役部員だ。これからも、模索は続く。

◆ただ、そのことだけを目的とするためではなく、純粋に私の探求心を刺激し続けてくれている「トティコ」には、いつか詣でて直接礼を言わねばなるまい。ユワ(神)が私に微笑んでくれる日は来るだろうか。その前に、お礼を言いたい人たちがいる。まずは今回の報告の機会を設けてくださった江本さん、並びに地平線スタッフの皆さん、お忙しいなか来場してくださった皆様に、心からお礼を申し上げます。今回の報告会でまた新たな出会いがあり、いつも以上の刺激と活力をいただきました。本当にありがとうございました。そして、報告直前までサポートしてくれた笠原、今回もどうもありがとう。(五十嵐宥樹


五十嵐さん、地平線会議のみなさん、ありがとう!

■法政大学探検部に所属している、辻拓朗と申します。先日の地平線報告会での五十嵐さんの話を聞いて、まず、トティコを見つけるまでの過程として、探検部への入部の経緯、探検部に入る前の五十嵐さんのことについて語っていたことが、印象的でした。五十嵐さんの現在行っている探検は、五十嵐さんがトティコの存在を知るずっと前から始まっていたのだなあと思いました。そのように思うと、五十嵐さんのやっているトティコの探検は五十嵐さんにしかできないことなのだということを感じました。そして、自分にしかできないことがあることを羨ましく思いました。

◆また、五十嵐さんの話を聞いて、探検部員の理想形の一つだと思いました。私は現在、関東学生探検連盟で会長を務めさせていただいております。その立場上、他大学の探検部員と関わる機会が多いのですが、五十嵐さんのように、3年間という学生探検部としては長い期間をかけて、一つのテーマに取り組み続けている現役探検部員にはほとんど会ったことがありません(私の直属の先輩である岡村隆さんは50年近くやっておりますが……)。現役探検部員の多くは4年間でそれなりの事をして卒業しようと思っているように感じます。

◆五十嵐さんは「探検部員は軟弱とはいえ、探検家の末席にいることを忘れてはならない」とおっしゃっていました。心に刺さりました。探検家の末席にいるとはどのようなことか。私は、情熱をもって未知なる対象と真摯に向き合うことではないかと思いました。そして、それを五十嵐さんは体現しているように見えました。このような現役探検部員が存在することを、同じ現役探検部員として非常に嬉しく思い、私もそうでありたいと思いました。

◆私は仙人に興味を持ち、仙人伝説の舞台になっている道教の聖地「洞天福地」の調査を、計画中です。仙人は道教の理想の人物像のようなもので、洞天福地は仙人伝説の舞台になっている洞窟です。中国の古典に話が載っているのですが、その多くは現状どうなっているのかわかっていません。伝説の中で登場する洞天福地を現地に行って確かめることで、伝説の元となった現実や仙人の実像を垣間見ることができるのではないかと思っています。

◆こんなことを言うのはおこがましいですが、五十嵐さんのトティコのお話は私のやろうとしていることと似た物を感じました。どちらも自然を対象とした調査ではありますが、その対象はどちらも人に崇められ、人と深く関わってきたものです。そして、神話や伝説と現実の間に存在しているその対象の実像に迫ろうとしています。

◆更に、今回の五十嵐さんのお話では、カレン族の起源に関する話の中に、カレン族は中国から来た説があったり、イノシシの化け物の角で作った櫛には人を不老不死にする力があったり(不老不死は道教で重要な概念の一つ)といった道教と関係ありそうな話がありました。これを五十嵐さんに話したところ、ロイコーでトティコやポゴコの話をしてくれたお爺さんは、トティコの麓の17の村で信仰されている宗教は道教なんじゃないかと思うと言っていたという話をしてくれました。

◆もしかしたら、五十嵐さんの探検と道教はつながっているのかもしれないと思い、非常に嬉しく思いました。また、道教の影響力の強さに驚きました。道教がビルマまで伝わっていたのかはわからないので、道教の東南アジアへの伝播について少し調べてみようかと思います。「探検部員は軟弱とはいえ、探検家の末席にいることを忘れてはならない」。私もこの言葉を忘れず精進していきます。最後に、今回このような面白い話を、私が現役探検部員である今、現役探検部員である五十嵐さんから聞く事ができて非常に良かったと思います。今後の五十嵐さんの探検に期待しています。五十嵐さん、今回の場を用意してくださった地平線会議の皆さん、本当にありがとうございました。(法政大学探検部第55期 辻拓朗

探検や冒険といったテーマで記録を発表できる場所は本当に少ない

■五十嵐宥樹君。2013年夏に北大探検部に入部。自分は当時彼の一年上の部員だった。入部当初はただ大学をサボって部室に入り浸りギターを弾いているような準不良学生で、野外へは積極的に出ていなかった記憶がある。彼が本格的に探検に収束し始めたのは2年目の春、根室半島沖の無人島への上陸を目指して活動を始めてからだった。何で火がついたのかわからないが、その頃の彼は毎回会うたびに取り憑かれたように島の話を逐一報告して来たため、なぜこんなに頻繁に話す機会があるのに毎回違う新情報を仕入れてくるのか、と純粋に驚いた。

◆当時の北大探検部は外部に発表できるような報告を出せない時期が長く続き、行き詰まっていた。2015年から「各部員が中長期的なテーマを持ち寄り、メンバーを募集して外部に発表できるような活動をしよう」という動きが始まり、その第1号が今回の発表に繋がっている。彼はとにかく「俺は現役時代にこれをやったんだ」と言える活動をやりたいと常々口にしており、トティコ探検はまさにそれに値するテーマだった。

◆当時の印象的な会話を最近よく思い出す。彼がトティコ探検を始めた頃に私もサハ族の神話に登場する鍋型の構造物についての探検を計画しており、彼にこう言っていた。「自分はこのテーマに5年でも10年でもかけて良い」対して五十嵐君は「ひぇ、まじすか、鍋に?」と反応。結局自分は1年で行き詰まってしまったが、彼は足掛け4年、このテーマに本当に真摯に向き合っている。自分のテーマ・土地・人間に対して並外れた真摯さと責任感を持って活動を続けている点が、五十嵐君の探検の一番素敵なところだと思っている。今回の発表を聞いて、改めてそれを実感した。

◆そして、現役の大学探検部員として、計画段階の今、地平線会議で報告をしたことは彼の探検にとって1つの突破点になったと確信している。それは大学探検部というムラから外の世界へ出るための門であり、また個人的な記憶と感傷を文字記録として一旦確定するための装置として機能する。純粋な学術研究であれば論文を発表し記録として残す機会はいくらでもあるが、探検や冒険といったテーマでそれができる場所は本当に少ない。

◆最後に、彼の活動を間近で見て来た同輩として感想を記します。「ただ純粋に悔しい」。本人が活動の中のいたる所で苦しんでいることは想像できるが、今でも会うたびに「この間あそこで〜〜してきたらこんなことがわかったんですよ、へへっ」と逐一報告してくるのを聞く度に悶々とさせられています。この先ももっと悶々とさせてくれることを期待しています。(岡田 原 五十嵐宥樹君の先輩)

ミャンマー人の優しい人柄と強い信仰心

■僕が五十嵐さんに初めてあったのは今年2月の地平線報告会である。北大の探検部であり、ミャンマーの少数民族をテーマにしているという。初対面である自分にも丁寧で、また北海道より遥々来て、少しでも多くのものを吸収しようと奮闘している姿に少なからず憧れを抱いた。その1か月後、僕はミャンマーへ旅行に行こうと思い、カレン州について御教授願おうと、その時頂いた名刺に書いてあったアドレスに連絡をしてみた。メールには僕のような浅学非才のものにも真摯に対応する五十嵐さんの人柄が表れていた。

◆そして、今回の報告会。その軽妙洒脱な話の中に、嬉々として未知のものと向き合う探検部員としての矜持を感じた。文献を熟読し、東京や現地での調査でも少しずつ実感を得ている。僕は3月の旅行が終わり、魅力的なこの国をこれから自分なりにみていきたいと思った。今はその準備段階にある。僕がこの旅行の中で感銘を受けたのは、ミャンマー人の優しい人柄と強い信仰心だ。五十嵐さんはまさに、この探検の中で多くの未知や人との邂逅があり、またそれを繋ぎながら「聖なる山」へ挑んでいる。観光ではみることのできないミャンマーの新たな側面を五十嵐さんの活動を通してみられることを願っている。(濱口諒

「葉脈」という言葉 

■五十嵐さんの報告の中で印象的だったのは、「葉脈」という言葉だ。出会いの葉脈と言えばいいのだろうか。人と人が出会うとき、それまで点の存在でしかなかったものが線となり、そこを起点にしてまた新たな線が伸びていく。その軌跡を振り返ったときに見えてくるのが、出会いの葉脈だ。「ここに辿り着くまでにいろんな出会いがあり、どの出会いが誰を導いてくれたかをしっかりと覚えている」と嬉しそうに語られた報告は、言葉の向こうに彼の出会いの葉脈が垣間見える素晴らしいものだったと思う。

◆報告後の「この(探検の)後は何を探求していくつもりなのか?」という質問に対する「今はトティコに集中しているので、次のことは考えていない」という言葉も潔く、彼の探検に対する誠実さが伝わるものだった。そんな彼の報告を聞きながら僕の脳裏をよぎっていたのは、「手段としての探検ではなく、目的としての探検」という言葉だ。彼の旅は誰かに見せることを前提としているものではなく、自分が知りたいことを探求するための旅。誰に見られなくたって、知られなくたって、自分のやりたいことをやればいいのだ。それこそがいつか世界に穴を穿つものになるのだと僕は信じている。(光菅修

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