■2017年、東京都写真美術館で「フォトジャーナリスト長倉洋海の眼地を這い、未来へ駆ける」が開催された。巨大なブズカシ(注)にしばし目を奪われたのち、会場に足を一歩踏み入れるとそこは長倉洋海さんの写真家人生の集大成の場、まさしく晴れ舞台だった。草の上に寝ころび読書する(あの写真)をバックに、うっすらと目を潤ませながらマスードを語る長倉さん。ギャラリートークの来場者皆、長倉さんの虜になった。
注)ブズカシ:馬上から山羊を奪い合う、アフガニスタンの伝統的スポーツ、敗者を尊敬するのが美徳
◆あれから2年、待ち焦がれた長倉さんが地平線報告会に登場。なんと1989年以来との事。今回は前半をマスードとの関わりを中心に、後半はフリーランスに転じてから今日までを駆け足で辿る。用意して下さった写真は240枚。話の流れからどれも外せないからとの事。
◆長倉さんは同志社大学探検部出身。在学中アフガニスタン遊牧民調査へ。それが彼の地とのご縁の始まり。卒業後、通信社に就職。在職中にボーナスをためて、撮影機材を購入。3年後の1980年、「戦場カメラマンになる」ため退社。若き長倉青年の思い詰めた姿が目に浮かぶようだ。フリーランスになって最初に向かった先はローデシア(現ジンバブエ)。厳しい人種差別政策で世界に悪名を轟かせていた。
◆黒人による抵抗が激化、初の選挙が行われても、大方のジャーナリズムの読みは戦争になるだろうというものだった。長倉さんも劇的瞬間を撮るぞと現地へ乗り込んだ。しかし意外にも政府と反政府ゲリラが協定に調印、平和裏に共和制に移行。世界的ニュースを撮り、世間の耳目を集めるどころかローカルニュースになってしまった。仕方なく次なる現場へ。200万の難民を生んだソマリア、そして、エチオピア領オガデンの西ソマリア解放戦線に従軍。イギリスのテレビクルーも一緒だった。
◆14歳のゲリラ少年兵の射ぬくような眼差しが心に突き刺さった。言葉もままならないため、何故兵士になったのかを聞くことも出来ない。ここで「自分は目の前の物を撮るしかないんだ」と思い知った。その後はベイルートへ。パレスチナ難民を取材するのだ。当時ソ連からかなりの援助を受けていたアラファト議長率いるPLOは、キリスト教徒からもシーア派の民兵からもかなりの反感を買っていた。結局ベイルートからの撤退を余儀なくされた。
◆その後長倉さんが遭遇したのは、キリスト教右派によるジェノサイドだった。キャンプまで4時間ほどと聞き、車に飛び乗った。キャンプはすでに包囲されていた。翌朝不気味なほど静寂に包まれているキャンプにやっとこ入りこんだ。泣き叫ぶ女性、100体近い遺体、レバノンの赤十字社がすさまじい臭いを放ち、膨らんだ体に消毒液を吹きかける。「写真を撮れ」「伝えてくれ」と訴える目がそこにはあった。デマが流されると生き残った人々が逃げ惑うのだった。
◆1982年、戦場ばかり求めて、ここでもない、ああここでもないと旅を続けていた長倉さんに転機が訪れた。自分にしか撮れない写真を撮りたい、一箇所に腰を据えて撮影したい。向かった先は、ファラブンドマルティ民族解放戦線とアメリカが支援する政府軍が戦闘を交える中米エルサルバドル。内戦下のこの国に五か月滞在した。ペドロという男と出会った。彼から勧められた人権擁護委員会の粗末なオフィスを訪ねた。そこには「死体のアルバム」が用意されていた。
◆政治犯・行方不明者の死体が細部まで克明に記録されていた。海辺の町ラ・リベルタでは太平洋をさまよった挙句、海岸に打ち上げられた死体を目撃。ひとつで繋がっている海の向こう側で起きている現実。この事に言葉にならないものを感じた。薬莢と血の海、普通の神経では生きてゆけない。マスードに次いで長倉さんの被写体として知られる少女、ヘスースと出会ったのはサンサルバドルから数十分離れた難民キャンプ。長倉さんは彼女を20年取り続けた。支援は最初だけ。難民は次第に忘れ去られていき、それにつれてキャンプはスラム化していく。しかし彼女にとってこの地は人生の宝石箱。思い出が詰まった大切な場所。長倉さんは与えられた場所で懸命に生きる人々の暮らしの変遷を撮ることをライフワークとしたいと願うようになった。見逃していたことの何と多い事よ。エルサルバドルが長倉さんの原点となった。
◆エルサルバドルから帰国した翌1983年春、アフガニスタンへ。パキスタンのペシャワールでつてを求め右往左往してみたが埒があかない。パンシールエージェンシーで出会った、足を戦闘で失った義足の戦士の誘いに乗り、帰郷する彼らについてペシャワールを後にする。12日間かけてヒンドゥークシュ山中の岩小屋に泊まり、4800mの峠を5つ越え、やっとの思いでパンシール峡谷の入り口ショタルの町に辿りついた。
◆ジョン・リードの『反乱するメキシコ』に登場するメキシコ革命の指導者フランシスコ・パンチョ・ビリャを知り、人の心に迫るものを撮りたいと渇望していた。1980年の取材では、首都カブールの目前まで行ったが思うような写真は撮れずじまいだった。他のジャーナリストに水をあける事ばかりにとらわれていた。今回何を隠そう、英雄の誉高いアフマド・シャー・マスードに会いに行くのだ。
◆コネなど皆無だが、当たって砕けろでここまでやって来たのだ。彼に肉迫するべく、インタビューを試みた海外のジャーナリストは幾らもいたが、長倉さんは違う。インタビューしただけでは知れている。同い年の若者としてあなたを撮りたい。あなたから見た戦争を伝えたい。その事を通じて日本に届くことがあるだろう。やっとマスードに会えた時、その事を必死で伝えた。一緒に暮らしたいとも。
◆彼から「申し出有難う」の言葉をもらったのは、日本を出てから47日目バザラックの町でだった。その年は100日間行動を共にし、以来彼が亡くなるまで17年もの間親交を深め、過ごした日数は500日を超えた。マスード曰くアフガニスタンは「孔雀のような国」。美しい羽根をもっているが故に多数の侵略者がやってくる。シルクロードの十字路であるこの国を制するものは、中東・アジア・ユーラシア延いては世界を制する。
◆地政学的にロシア・中国・イラン・サウジアラビアとバックヤードにいくらでも睨みをきかせることが出来る場所なのだ。それ故大国の介入が続き、金と武器の投入により祖国は破壊尽くされた。長倉さんと出会ったとき、マスードは若干29歳、一万人以上のイスラム兵士を率いて、何度もソ連の軍を破っていた。2つの州の行政責任者でもあり、まさしく「国民的英雄」。当時、イスラム戦士側には9つのグループがあったが、彼の元には、多くの戦士がゲリラ戦を学ぼうとやってきていた。
◆後にマスード暗殺を企てたヘクマチャールは大学の先輩で、彼を含むリーダーは皆国外にいて、国内で戦うマスードは人々の信頼も厚かった。農民はザバルディー(郷土防衛隊)とマターリック(遊撃隊)に分けられていた。ラジオ局も開局していた。軍の中枢にもエージェントを多数送りこんでいた。マスードが慕われている一例をご披露。例えば老人が道端で手を挙げて頼み事があるといえば、直ちにジープを止めて話を聞く。マスードは年寄りを大切にする。
◆ジープはソ連から分捕ったボロボロなもの。エンジンは良さそうだが、乗り心地は最悪、道はボコボコ。今日はどこへ行くとは決して言わない。いつも助手席にさっと乗り、初めて行く先を告げる。ハビブとアモン二人のボディガードがもたもたしていると、さっさと出発してしまう。そして二人の腹心と120kmあるパンシールの5か所の執務室を回るのだ。夜皆が寝鎮まった後、一人で作戦を練る事もしばしばだった。
◆本の好きなマスードが読書に耽るのもこんな時間。詩を好み、チャーチル、ビクトル・ユゴー等々。こんな時マスード家の執事が、手招きして部屋へ入れと言う。すいませんと言ってもマスードは意に介していない様子。こんなに懐深く入り込む事が出来たのは驚きだ。毎度ほとんどカメラを意識しないマスード、恐るべき集中力の持ち主だ。写真を撮り終えて有難うと言って部屋を出る。こうしてマスードの素顔に迫る貴重な作品が生まれたのだ。
◆長倉さんもマスードの部下たちに慕われていて、良い関係を築いていたことが窺える。同じもの食って、口開けて笑って、泣いたからなあ。そういえば長倉さんのあだ名はオマル。「アラビアのロレンス」のベドウィン部族長アリ役を務めたエジプト出身の俳優、オマル・シャリフだ。アレクサンドリアのヴィクトリア・カレッジ時代のクラスメートがエドワード・サイードだ。
◆この大峡谷をソ連軍が制するのは容易なことではない。陸戦がだめならと空戦、ヘリボーン作戦に出る。お互い3か月、6か月、1年と我慢比べ、消耗戦になった。双方とも疲弊していた。こんな事をしていたら父祖の地が完全に破壊尽くされて、いずれ戦いに勝利する日が来たとしても住民が暮らせなくなる。ソ連と休戦協定を結んだ時には非難の声も大きかったが、マスードには未来を見据える目と頭脳があったのだ。
◆長倉さんがマスードと行動を共にすることになった初日、馬に乗ったベストショットを撮らせてくれた。これはドイツの写真ニュース誌「シュテルン」の表紙を飾った。軍服工場へも案内してくれた。これはいいぞ、じゃんじゃんいい写真が撮れるぞ、とぬか喜びしたのも束の間、翌日からはマスードを逃すまいと追いかけるのが精いっぱい。忙しいので他人をかまっている暇などないのだ。
◆こんな忙しいマスードだが、実は洒落もの。長倉さん曰く、スカーフの巻き方がなんか決まっているんだよなあ。アフガン帽、パコールもちょっと斜に被っているのもそう。こういう話を聞くと救われる思いがする。逆に、マスードは長倉さんをどう思っていたのだろうか。同い年ですから。マスードは敬虔なイスラム教徒、パンシール川で身を清め、仲間との礼拝の後、ひとりでの礼拝をおこなう事も多い。規定の礼拝後の祈りは自分の気持ちを神に伝える事が出来るのだそうだ。
◆良きイスラム教徒、神からの贈り物、良き世界人。これみなマスードを指している。選挙を行い、国民の声をしっかり聞く、マスードの政治モットーだ。優れた指導者であるマスードは、好奇心旺盛な人物でもあった。あるとき豚肉の味はどんなだ?酒を飲むとどうなるとのか?と質問が飛んできた。豚は安いです、牛は高いけどうまいですと必死に煙に巻いた。豚を食べていることも酒をのんでいることもわかっていて、帰れとは言わない。優れた司令官としての資質なのだろう。
◆月日は流れ、1992年アフガン情勢が大きく動き(マザーリシャリーフ無血陥落)、長倉さんは4月パキスタンに向かった。さらに情勢は急展開、「マスードのカブール入り」が迫っていることを知って、貨物便に無理やり乗り込ませてもらい、カブールに降り立った。そして4月29日、3000人の兵士を率いてカブール入城を果たすマスードの姿をカメラに無事収めた。マスードとの再会は、戦士の運転手が乗って待っていなさいと言われた車の中。あの写真がモノクロなのは、直前にフィルム泥棒にあったから。勝ち馬に乗じた輩も多数カブール入りし、中にはフィルムを抜き取る輩もいたのだ。
◆いつもアフガニスタンを離れるとき、マスードとはこれが最後だろうかというセンチメンタルな気持ちになった。しかし本当に亡くなるとは思っていなかった。用心はするけれど、命を守る事に汲々としてはいなかった。2001年9月9日、マスードは暗殺されてしまった。多分アルカイダの手によるものと、長倉さんは踏んでいる。山本美香さんのおつれあい、フリージャーナリスト佐藤和孝氏からの電話でマスードのことを知らされた。テレビのインタビューに答える長倉さんは見るに忍びなかった。マスードと長倉さんの邂逅。運命の出会い? 親友? 惚れてしまった? 民族自決が何より大切ということ、大国の介入を受けない自由な国の建設を目指すマスードへの限りない尊敬の念。なんと二人の関係を表現したらよいものか。人との出会いとは何なのか。自分の周りで何かを感じ、今を人間として正しく生きていきたい。これからも多くの人との出会いを通じて、写真を撮り続けていきたいとおっしゃる長倉さんだった。
◆後編は駆け足でのスライドショー。長倉さんの原点、エルサルバドルで出会ったヘスース、マリのグランドモスクと市場、今冬訪れたシベリアのネネツ族(3家族で1000頭のトナカイを飼っている。長倉さん寒そうだった)、カンボジアのアンコールトム、アンドレ・マルローが国外持ち出しを図り逮捕され、ニュースになったレリーフ、クメールルージュ、タクラマカン砂漠、中央アジアの宝石サマルカンド(マスードの祖先ゆかりの地、長倉さんはマスードの背中を追いかけているのか、ご本人の表現では新しい発見、出会いを求めている)、ウズベキスタンのタシケント(ヘレニズム文化に触れる旅)、タジキスタン側からのアムダリア(アフガン側とタジキスタン側に間違いなく同じ風が吹いていた、シルクロードで繋がっている同じ民、国境とはなんだ)などなど。時間が足りなくて勿体無かった。
◆今春、長倉さんはパンシール渓谷を訪ねた。「山の学校」訪問、アブドラー、マスードの忘れ形見アハマッドとの再会。イギリスから戻ったアハマッドが「マスード財団」を切り盛りしているという。マスードが最後の一年を過ごした自宅を訪ねた。長倉さんの「地を駆ける」がこちらを向いて書棚に納められていた。ジーンときた。マスード廟の隣にはカフェができていた。若い人の感覚でいろいろやればよいのかもと長倉さんは言った。マスードの思いをかたちに出来れば嬉しい。子どもたち、アハマッドを見守る長倉さんは間違いなくお父さんの顔だった。
◆報告会の二日後、小松由佳さんの写真展を訪ねた。彼女が駆け出しの頃、長倉さんから贈られた言葉を教えてもらった。「一生貧乏でいい。一生撮り続ける」。何だか清々しい。(中嶋敦子)
アフガニスタンに10万のソ連軍が侵攻したのは1979年12月24日。その精強なソ連軍をついには撤退に追い込んだ中心人物がアハマッド・シャー・マスードだった。「パンシールのライオン」と呼ばれる、その英雄が29歳だと知った時、心は決まった。同年齢のマスードが「生きること、そして、死ぬこと」をどう思っているのか。彼の心に迫った写真が撮りたいと彼の拠点パンシールに向かったのは1983年だった。以来、17年間に渡り、500日を共に過ごした。
私が惹き付けられたのは彼の人間性。戦いだけでなく、病院と学校作りに尽力した。ジープで移動中、老人が手を挙げると必ず車を止め用件を聞いた。少年が戦士に志願してくると、「学校に行け」と応じなかった。夫を殺された仇を取って欲しいという母子がジープの前に現れた時には「報復からは何も生まれない」と懇々と説いた。グループ間の対立で死者が出ている地方に乗り込み、相手の司令官を説得したこともあった。ロケット弾を腰に差し込んだ山賊のような男が徹夜の会談を終えて表に出て来た時には、マスードの肩に手を回し、笑顔だった。
民族間の対立を乗り越え、大国や周辺国の介入を排し、国土の再建を目指したマスードだったが、2001年9月9日、米国での同時多発テロの2日前、アラブ人の自爆テロに倒れた。「彼には神の加護がある」と思っていたから信じられなかった。辛く悲しかったが、彼の「私が死ぬ時、それは神の意思だろう。ただ、それまでを懸命に生きたい」という彼の言葉を自分に言い聞かせた。
目の前の現実に心奪われるのではなく、いつも先を見据えていたマスード。彼に「あなたにとっての勝利とは何ですか」と尋ねたことがある。その問いに「各勢力が戦争では解決しないと知り、皆で話し、平和を作り、国民が選挙によって将来を決める。それが私にとっても最大の勝利です」と答えてくれた。
そんな彼の姿や生き方は、私に大きな影響を与えた。2004年から4年をかけシルクロードの旅に出たのも、マスードの後ろ姿を追ってのことだった。彼がどうして私を受け入れてくれたのか。その本当の理由はわからないままだったが、シルクロードを旅すればわかるかもしれないと思った。
アフガニスタンとウズベキスタンとの国境を流れるアムダリアの河畔では、国境を超えて吹き抜ける風に、マスードが感じていたであろう「中央アジア」を想った。マスードの祖先の地である「サマルカンド」は「青の都」とも呼ばれるが、青タイルのモスクと空がまっすぐに宇宙と連なっていると感じた。タシュケントの博物館ではグレコローマン風のガンダーラ仏像はマスードによく似ていた。
マスードが亡くなって今年ではや19年が経つ。今もマスードの写真を貼った車が走るカブールの街で、16年ぶりにマスードの息子アハマッドと会った。勉強していたロンドンから戻り、マスード財団のリーダーとして活動を始めたのだ。父親にそっくりのアハマッドと話していると、若い頃のマスードかと錯覚しそうだった。「アフガニスタンの若い人々に父の言葉や思いを伝えたい。是非、協力して欲しいと」と彼は話した。自分の欲ではなく、真摯に国の未来を想ったマスード。彼の生き方は、アフガニスタンの人々への大きな財産であり、将来への道標になるに違いない。私がこれから成すべきことが、アハマッドと会うことで見えて来たような気がする。(長倉洋海)
■長倉洋海さんの話は、上京して地平線報告会に通うようになってから聞いた中でも数本の指の一つにあげられるほど秀逸な回でした。お話しの主題は、アフガンのチェとも呼ばれるマスードとの交流を大量の写真とともに語る、というもの。通信最終ページのイラスト予告に書いてあった「今もマスードと新しい交流が続いているんです」の真相が最後に明かされたのには鳥肌が立ちました。9.11の直前に殺害されたマスードは幼い息子を遺し、若き日のマスードそっくりに育った彼の最近の写真が、そのすべてを物語っていたのです。
◆毎回、学生たちと予習ゼミをして報告会に臨むようにしています。ゼミ生たちはピュリッツァー賞もロバート・キャパも土門拳も、知らない、といいます。私は「ちょっとピンボケ」に感化された田舎のマセ・キャパ小僧でしたけれど、さすがにこれはヤバイと思ったので、フォトジャーナリストのことを理解する周辺情報としてゼミ生たちに念押ししておきました。
◆報告会の会場で買い求めた写真集「長倉洋海の眼」の巻末に、駆け出しの頃はピュリッツァー賞やキャパ賞をとって一気に世界の頂上に駆け上がることを夢見ていた、というふうな回想が書かれているのをみつけて、そうか!とも思いましたが、話を聞いてしまってからは、もうそれ充分でしょう、と言いたくなりました。
◆予告が載った地平線通信には、偶然か必然か、小松由佳さんの写真展の案内も掲載されていました。「これも注目!」とゼミ生にお勧めしたのはいうまでもありません。小松さんが師と仰ぐのが長倉洋海氏だと聞きます。当夜は彼女の写真展オープニングパーティーと重なったため、師弟同席が叶わず残念でした。岡村隆さんの情報によると、小松さんから長倉さんへの「ラブレターを預かってきた」ということも当日にはあったらしいです。
◆アンセル・アダムスのような風景写真とちがって、ジャーナリズムの写真は、そのストーリーと一緒に見るとその真価に触れられるもののような気がします。今回上映された写真は、「長倉洋海の眼」に納められたものが多く、ページをめくるたびに今回の話の余韻に浸ることができそうです。
◆江本さんが最後に「こんな話は普通じゃなかなか聞けませんよ」とコメントされていました。そういう言葉をちゃんと受け取ることができるようなゼミ生を育てるのが今の自分の役目なんだろうな、と思っています。ゼミでは「カリスマの懐に飛び込んでいって日常を撮らせてもらうようになるには、その写真家の人間性も重要、そこも実際に本人をみて感じるように」とたいそうなことを指導していたのですが、同様のことを江本さんもコメントされていたので、ちょっとホッとしたのもお恥ずかしい事実ではあります。(澤柿教伸)
■昨日は貴重な報告会に参加させていただき、ありがとうございました。長倉さんのお話が終わった後は、本当に胸がいっぱいになりました。たくさんの素晴らしい写真、それにまつわるエピソード。その一枚一枚の長倉さんの丁寧なコメントにより、見た事のない色んな世界にどんどん引き込まれていきました。実は高校生の頃ムジャーヒディーンに憧れていたという過去もあり、それから全く別の道へと進んでしまい今に至るため、今回やっとあの戦士たちと生活を共にしたと言う長倉さんの生のお話が聞け、読みかけの本のページをやっとめくったような貴重な時間でした。
◆長倉さんの最後のお話も良かったです。マスード司令官もヴィクトル・ユゴーを読んでいたのを帰宅してから知り、今ちょうど読んでいる『九十三年』という小説に出てくる乞食テルマルクの言葉として「貧乏人とお金持ちがあるってことが、やっかいのもとでございますよ。こいつが、いろんなやっかいを生むのでございます。少なくとも、わたしめにゃ、そんな気がいたしますので。貧乏人はお金持ちになりたがるのに、お金持ちは貧乏人になりたがらない。そこが、いちばん肝心な要だと思います」と書かれており、「富の平等よりも、魂の平等を」が深く心に残りました。
◆こうしてみると世界中に真の人格者という人は散らばっており、良い思想は空(くう)を飛び、それをその人格者たちはキャッチしその地に伝承していくものなんだと思いました。なぜなら、自分自身の出会いの中にも、人望の厚い素敵な人は度々存在していて、だいたいみんなチャーミングです。高校生の時に、長倉商店塾に行きたかったなぁと憧れつつ、もっとお話も聞きたかったです。またいつかの楽しみにしております。ありがとうございました。(モリサチコ 尺八奏者)
■僕が長倉さんの写真に初めて触れたのは、大学院修了間際の冬だったと思う。それは宮城県立美術館で開催されていたマスードの写真展だった。厳しい表情を浮かべながらも、どこか優しい雰囲気の漂ってくるマスードの写真達。僕は長倉さんの写真に魅せられ、何度も写真展に足を運んだ。そんな16年前の出来事を思い出しながら、僕は投影されるマスードの姿を眺めていた。スライドを繰りながらマスードとの思い出を語る長倉さんは、戦場の悲惨さではなく、そこに生きる人間の物語を切り取るような写真を撮りたいと彼と生活を共にしたという。
◆僕は流れるアフガニスタンの写真を見つめながら、いつ終わるとも知れない戦火の最中にいたマスードに想いを巡らした。厳しい表情をしたマスードの眼差しの奥に安らぎのようなものを感じたのは、僕だけだろうか。長倉さんは彼を「壁をつくらない人だった」と評した。僕のサタワル島出身の友人も壁をつくらない人達だ。周りを峻険な山々や大地に囲まれたアフガニスタンとミクロネシアの離島に生まれ育った者達の気質が似ているのはなぜなのだろう。マスードは生前「死はいつ来るか分からない。ただそれまでに懸命に生きれば神も喜ぶ」と語っていたという。「大切なのはどう生きるかだ」とも。
◆マスードの死から時が経った今、長倉さんはマスードの息子とアフガニスタンの孤児達を支援する活動をしている。マスードの眠る墓標の側にカフェを営む息子の表情は柔らかい。僕は彼の瞳の中に「マスードという生き方がアフガニスタンには確かにあった」ということを見出すことができる気がした。そんな今回の報告会は、ひとつの時代だけでなく、次の世代を撮り続けること、関り続けることで見えてくるものがあると感じさせてくれるものだった。2次会の北京で僕は長倉さんに挨拶し、16年前の展覧会の思い出を話した。
◆こうして写真の持つ可能性を教えてくれた本人から旅の軌跡を聞く機会を持てたことをとても嬉しく思う。帰りの電車の中で、僕は早速釧路で開催される長倉商店塾の夏期講習に申し込んだ。いつか長倉さんのような物語性を感じられる写真を撮ってみたい。(光菅修)
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