2019年1月の地平線報告会レポート


●地平線通信478より
先月の報告会から

「冒険王、70代も猪突猛走!!」

賀曽利隆

2019年1月29日 榎町地域センター

■大集会含めると報告会30回目の登場、「地平線の顔」とも言える我らが冒険王・賀曽利隆さん。今宵の会場は、駐輪場に数台のバイクが並び、何か高揚感に包まれている。初めてお会いした時と変わらない誠実さと熱量のままで、冒頭「今年9月1日に72歳になる年男です!」と挨拶されて驚く。道理で私も年を取る訳だわ……なんて思ってしまった。実は、1月29日の報告者が賀曽利さんだと知った時、流石だなぁ、江本さん!と感じた。日本中、いや世界中を飛び回っている賀曽利さんもこの日なら必ず捕まえることが出来るからだ。

◆なぜか、を書く前に34年前の最初の出会いについてひとこと。神田練塀町にあった日本観光文化研究所(以下、観文研)で、所員だった賀曽利隆さんは37才、新人事務局員の私は20代半ばだったのだなぁ。観文研を創設した宮本常一先生ほど隈なく日本を歩いた民俗学者はいないのではないだろうか。旅に捧げた人生は、旅に愛された人生でもあった。1981年1月30日没。享年73歳。

◆以後、東京・国分寺の東福寺で水仙忌という先生を偲ぶ会が毎年命日の1月30日に行われている。先生の故郷、山口県周防大島でも同じ日、縁のある人々が、島で満開を迎える水仙の花を供えて先生を偲んで集まる。賀曽利さんも毎年欠かさず参加している。ちなみに私は昨年の水仙忌で会って以来の賀曽利さんだったが、今回の報告会で配られた70代編日本一周の資料で2018年1月30日の賀曽利さんの軌跡を確認すると小仏峠越えをして国分寺の東福寺に立ち寄ったのがわかった。

◆そして翌日には高麗峠を越えている。そうだったんだ、あの日は普段と変わらない賀曽利さんだったが、日本一周中だったことに今頃気が付いたのだった。今年は地平線報告会(29日)の翌日が命日で39回忌になる。

◆会場スクリーンには2017年9月1日の古希70歳の誕生日にいつもの旅の起点である東京日本橋で黄色いスズキVストローム250に跨る賀曽利隆さんの雄姿が映し出されている。次いで、2017年9月23日、日本最北端の宗谷岬、12月4日、沖縄本島最南端の喜屋武岬など最初の15分程でスライド写真を見せながらリズミカルにザッと紹介していく。中にはバイクの後ろに若き女性を乗せているショットもあり、Vストロームはめちゃめちゃタンデムし易いんですよ〜〜もうルンルン気分で走りましたよ!と。本当に古希なのだろうか……。

◆冒険王・賀曽利隆さんの視点には宮本常一先生の教えとまなざしを感じる。観文研時代に私は山地食文化研究をしている賀曽利さんのフィールドである山梨県西原に雑穀食を訪ねに同行したことがある。宮本常一先生は調査をするときに、[1]高いところに登り全体を見渡す。[2]聞く前に自分の目で見る。[3]同じ話を3人から聞く。そのうち1人はおばあさんにすること。と言われていたと教えてもらう。おそらく賀曽利さんは日本を走るときにも同じようにしていたのではないだろうか。

◆今回の報告会のための資料は、「70代編日本一周(データ1,2)」「日本一周一覧」と地平線通信477号(前号)の7〜10ページのコピーも用意された。この前号掲載の賀曽利さん自身が書いた「一体どんな旅をしてきたのか70代日本一周顛末記」を読んで頂くと、実は今回はレポートを書く必要がないくらいに詳細な旅の記録になっている。地平線WEBサイトからも読めるのでどうぞご覧下さい。

◆写真はおしまいにして会場を明るくして390日に及ぶ70代編日本一周旅を、資料に沿って話していく。旅立ちの数日前にスマホを入手し、70歳にして初めてツイッタ発信しながら旅をした。だから全国のカソリック信者(賀曽利隆の熱烈ファンをこう呼ぶ。もちろん私も!)がカソリ捕獲のために待ち構える。出会った数は300人を超えるらしい。そして今日の会場にもたくさん来ているようで、話の途中で会場に向かって何回も□□さんココで会ったよね!△△さんアソコまで一緒に走ったよね〜懐かしいですね〜〜と声をかける。固有名詞がスッと出てくる記憶力は賞賛に値する。実はツイッタにまだ手を出していない私はこのことを知らなかった。カソリックとしたことが不覚であった。

◆2017年9月1日から12月17日までの94日間を第1部としてまず東日本から走った。これは60代日本一周の時の教訓で北海道や東北の雪を避けるためである。詳細はデータを参照下さい。基本的には海岸線を走り、何本ものループのコースを作り、内陸部を回った。47都道府県の県庁所在地は全部走ったが、それだけでなく「五畿七道六十八ヵ国(古代律令制の広域地方行政区画)」を意識してルートを作った。国の境が面白いんですよね!と目を輝かせて話す賀曽利さん。平成の大合併で国境が分かりづらい中で走ってゆく。六十八ヵ国が分かると日本が面白くなる。境川があったら要注意。境川は日本中にあるが何の境なのかなんて考えると面白いですよ〜と。

◆第2部は2017年12月20日からすぐ始まった。2018年12月31日までの296日間で「テーマ編」である。峠越えや温泉めぐり(混浴温泉ツーリングまで?!)、半島や岬めぐり、宿場めぐりをしながら街道を行く、島めぐり、冬の富士山一周、林道走破行(20本の林道でダート走行160キロ以上)など様々なテーマで日本を駆け巡った。3月11日にはライフワークにもなっている「鵜ノ子岬→尻屋崎」の20回目を走る。東北太平洋岸の全域の変わっていく姿を見てきた。また、日本の幹線道路の国道1号から10号までの国道走破行も忘れがたい旅になった。極力、一気走りでほとんど寝ない旅だったそうだ。またもや本当に古希?

◆資料をみてもらうと1日の走行距離が出ているが、だいたい300キロ平均で賀曽利さんの旅の走行距離にしては短い。それは日本一周の場合は、「走る行程すべてが目的地」だから、いろいろ見たくなり寄り道するからなんだそうだ。バイクはそういう旅が出来る乗り物であると。歩きじゃ、後戻りしたり寄り道する余裕がないでしょ、歩くのに精いっぱいで。もちろんそれぞれの良さはあるが、ものを見るにはバイクなんですよ。なるほどなぁ……。

◆12月20日に出発した第2部では、365日毎日バイクに乗るぞ!と勢い込んでいたが、4月25日にヤビツ峠越えしたあたりで右足がパンパンに腫れ上がり、GWは一歩も歩くことさえ出来ずに365日乗ることは叶わなかった。抗えない「老い」を感じて辛かったそうだ。しかし資料によると5月7日からまた走り出している。若い時にはこんなことはなかったが、加齢により自分の身体の使い方を教えられた思いだったとも。

◆しかし、6月になると賀曽利さんが立ち上げたツーリングマップル東北実走取材があり、痛いなんて言っていられなくなる。やはり地図は紙ですよね!と賀曽利さん。スマホ地図がうまく見れない私は大きく頷く。賀曽利隆の「70代編日本一周」2017年9月1日〜2018年12月31日全走行距離 9万3391キロ走り終えて賀曽利隆のひとこと「70代最高!!」

◆「日本一周」一覧 の資料を見ながら今までの日本一周を振り返る。今回は10回目の日本一周だったが、10年ごとの日本一周はまさに人生の節目を見るかのようだ。20歳の「アフリカ一周」から始まり20代は世界を駆け回る。日本に目を向けたのは20代後半になってから。結婚して妻と生後10か月の赤ん坊を連れての「シベリア横断→サハラ縦断」。シベリア鉄道の列車内でおしめを洗った思い出。まだ紙オムツのない時代だ。

◆3人で旅立ったが、3.5人になって帰国。次は日本一周したいと決めていた賀曽利さんは無事な出産を見届けると、家にあった10万円をかき集めて旅の資金にした。妻には「悪いね、それでは日本一周に行ってくるよ」と言い残して旅立つ。良くできた妻は気を付けてと送り出してくれたと(ここら辺は是非取材させてもらいたい)。「30代編日本一周」バイクはスズキハスラー50。64日間全費用10万円。全泊野宿の思い出深いものになった。

◆「40代編日本一周」看護師である奥さんに勧められて受けた肺がん検診の結果が出発直前にわかる。胸に腫瘍が見つかった。すぐに手術をと医師に言われたが、「日本一周に行った後ではダメですかねぇ」と。良い先生で、帰ってきたらすぐ来て下さいよと許可してくれたそうだ。92日後に病院に行くと、なんと腫瘍が大きくなっていないと先生が驚く。そこをすかさず「先生、実は来年、世界一周に行くので帰ってきてからではダメですかねぇ……」

◆先生の驚いた顔が見えるようであるが、良い先生で許可してくれた。自分の命はせいぜいあと10年だという思いが前のめりに旅へと走らせた。バンコク在住だった我が家(注:筆者の高世泉さんはジャーナリストであるお連れ合いの仕事でアジア暮らしが長い)にインドシナ一周の途上でやって来たのもその頃である。エネルギッシュな賀曽利さんのそんな胸中を今頃知る。40代後半になって逃げられず手術をすることになったが、開胸ではなく内視鏡手術ができるようになっていたのでダメージが少なくて済んだ。病理検査の結果も良性だった。強運な賀曽利さんだったが、幸運は続かなかった。

◆「50代編日本一周」は突然の心臓発作に見舞われ出発を1年遅らせた。「よくこれで普通の生活が送れますね」と医師に言われたが、薬に殺されると思い薬をやめて、不整脈を抱えて旅立つ。日本橋を出発してから13日目、四国の四万十川沿いの道を走っている時に、不整脈がピタッと止まっているのに気付いたそうだ。この時のバイクが250CCの単気筒エンジンだったそうで、病院で治せなかった不整脈がバイクで治せたと。心臓に良いバイクは単気筒らしい以来20年間不整脈は一度も出ていないし、心臓発作の再発もないと言う。

◆おかげで50代では「島めぐり日本一周」「温泉めぐり日本一周」なども出来た。特に温泉は1年で3063湯に入った。この記録はギネスに登録されている。1日10湯以上、1番多く入った日は27湯で、服を着る暇がないのではと心配になる。このギネス記録を破れる人はいないだろうと賀曽利さんは自信を持っている。「まず1年間遊べる人がそうは居ない。」「また温泉はお金と体力が必要。」確かに……納得。

◆バイクで氷点下の中を走って熱い湯に浸かり、30分ルール(バイクを降りてから乗るまでの時間を30分とした。)でまた走り出すと身体の内側からバリバリと音がするそうだ。この血管トレーニングで更に健康になったとか。ハードすぎてなかなか真似できない健康法だが、「バイク療法」という本を書くといいのではなんて声も聞こえてきた。「60代編日本一周」は「還暦」の重圧で押しつぶされそうになるが、20歳の賀曽利さんの「アフリカ一周」の原点に還るんだと乗り越える。

◆そして「70代編日本一周」迫りくる老いとの戦いの連続であったそうだ。それを乗り越えたからこそ、これからの10年に自信がついた。60代までは妻からも健診に行ってと言われたが、もう行けとも言われなくなった。70代は自由で生きやすい年代だそうだ。そして、よーし、80代編日本一周もやってやるぞ!!と少年のようにガッツポーズを決める賀曽利さんなのであった。皆さま、お互いに無事で生きて10年後の報告会でお会いしましょう〜〜♪(カソリックの高世泉


報告者のひとこと

「スマホは絶対に持たない」と言っていたカソリなのに……

 昨年の12月31日に「70代編日本一周」を終了させましたが、その直後に報告会で報告させていただけたのはラッキーなことでした。みなさんに話すことによって、大きな区切りをつけることができました。自分自身が一段、ステップを上がり、新たな地平の風景を見ているような気分です。「これでやれる!」といった70代への自信をつかむこともできました。そして「80代編日本一周」が視野に入ってきました。

◆昨晩(1月29日)の報告会には、我が「70代編日本一周」で出会った多くのライダーのみなさんが駆けつけてきてくれました。みなさんとの再会はうれしいものでしたし、みなさんに会うことによって新たな力をもらいました。じつは今回の日本一周ではスマホを使い、ツイッターで旅の様子を発信しました。それを見た多くの方々が「カソリを捕獲しよう!」ということで、日本各地で待ち構えてくれていたのです。

◆「スマホは絶対に持たない」などといっていたカソリですが。今となってはスマホを持ってよかったと思っています。日本一周の第1部(94日)で出会ったライダーの数は全部で124人になりました。第2部(296日)では正確にはカウントしていませんが、おそらく300人は超えると思われます。昨晩、報告会に来てくれた何人かのライダーを紹介します。いわき市から来てくれた渡辺哲さんとは、いわきの四倉舞子温泉「よこ川荘」で出会うと3日間、一緒に走りました。奥会津をぐるりとまわり、新菊島温泉に泊まり、郡山からいわきに戻ったのです。四倉舞子温泉、新菊島温泉と連夜の酒宴でした。

◆古川(大崎市)から来てくれたtakedreamminさんとは古川から青森まで一緒に走りました。Akisanはただいま「世界一周」中。ウラジオストックからシベリアを横断し、ユーラシア大陸最西端のロカ岬に到達すると、バイクをいったんスペインのマドリッドに置いて帰国したのです。その最中に来てくれました。茅ヶ崎から来てくれた茅ヶ崎さんとは宇和島で出会いました。連休を利用して750キロ走ってカソリを捕獲したのです。それから3日間、四国を一緒になって駆けめぐりました。

◆藤岡から来てくれた女性ライダーの半蔵さんとの出会いは強烈でした。新潟から東京に向かったときのこと。ザーザー降りの雨の中、国道17号の三国峠のトンネル手前、新潟県側でぼくを待ち構えてくれていたのです。半蔵さんはずぶ濡れでした。そこから一緒に走りました。三国峠のトンネルを抜けて群馬県に入ると、猿ヶ京温泉の共同浴場の湯に入りました。高崎を過ぎると、中山道の倉賀野宿に行き、中山道と日光例幣使街道の追分に立ったのです。

◆やはり女性ライダーののりりんさんは、午前0時出発の日本橋に来てくれたのです。のりりんさんに見送られて、国道4号を夜通し走り、青森を目指したのでした。のりりんさんとはその後、楢葉の大楽院でおこなわれた焚火ミーティングで一緒になり、一夜を過ごしました。

◆戸塚から来てくれたtododesuさんとchobidesuさんのカップルは、我が「70代編日本一周」の最後を飾る「伊豆半島一周」に同行してくれました。12月30日の早朝、熱海駅前で落ち合うと川奈崎、稲取岬、爪木崎と東伊豆の岬をめぐり、伊豆半島最南端の石廊崎に立ちました。雲見温泉の民宿「三楽荘」に泊まったのですが、盛りだくさんの海鮮料理の夕食を食べたあとは二次会の開始。静岡限定生ビールの「静岡麦酒」や伊豆の地酒「花の舞」を飲みつくし、日付が変わったところで宴会はお開きになるのでした。

◆翌12月31日は黄金崎、恋人岬、旅人岬、御浜岬、出逢い岬と西伊豆の岬をめぐり大瀬崎へ。そこではまーすけさんが待ち構えてくれていました。報告会に三浦半島から来てくれたまーすけさんは大の「カソリ本」の読者で、20冊以上も持っているのです。伊豆半島一周を終えると、tododesuさんとchobidesuさんのカップル、まーすけさんと日本橋へ。21時15分、日本橋にゴールし、「70代編日本一周」を終えたのです。こうして地平線会議の報告会で日本一周中に出会ったみなさんに再会すると、愛おしさがこみあげ、胸がジーンとしてくるのでした。

◆報告会の後半はガラリと変えて江本さんとのトークショーになりました。江本さんは多くのライダーが愛用しているロードマップの『ツーリングマップル』を高く評価してくれました。というのはぼくはそのうちの『ツーリングマップル東北』を担当しているからです。地図に個性を! ということで、数多くのコメントを入れていますが、それらの大半は自分自身で実際に行って見聞きしたものなのです。夏には2019年版の実走取材や表紙撮影で1万3000キロを走りましたが、それも今回の我が「70代編日本一周」の第2部に含めています。

◆『ツーリングマップル関東』を担当している中村聡一郎さんと『ツーリングマップル九州』を担当している坂口まさえさんが報告会に来てくれたこともうれしいことでした。江本さんとのトークショーでは地平線会議発足時の話もずいぶんと出ました。四谷の喫茶店「オハラ」と「オハラ・パートII」で喧々諤々の議論をかわしたことや年報への熱い想い、報告会はカソリが担当することになったいきさつや記念すべき第1回目の報告者が三輪主彦さんだったこと、伊藤幸司さんの担当で地平線放送が開始されたことなどなど、過ぎ去った40年前を振り返ってみたのです。それにしても地平線会議、よくぞここまで続きましたよねえ〜、江本さん!(賀曽利隆)


賀曽利隆の「日本一周」一覧

先月号の通信でスペースの都合で載せきれなかった賀曽利隆さんの「これまでの日本一周」の記録を以下に再掲します。報告会では参加者全員に配布された資料。この鉄人の驚くべき行動力が伺える貴重な記録です。(E)

01=30代編日本一周
 1978年8月28日〜1978年11月16日(64日)
 「東日本編」、「西日本編」の2分割
 スズキTS50
 *18,981キロ

02=40代編日本一周
 1989年8月17日〜1989年11月16日(92日)
 スズキTS50
 *18,984キロ

03=50代編日本一周
  1999年4月1日〜1999年10月29日(122日)
  「西日本編」、「東日本編」の2分割
  スズキDJEBEL250GPSバージョン
 *38,571キロ

04=島めぐり日本一周
 2001年3月22日〜2002年4月22日(154日)
 「伊豆諸島・小笠原諸島編」、「本州東部編」、「北海道編」、「本州西部編」、「四国編」、「九州編」、「沖縄編」の8分割
 スズキSMX50、スズキバーディー90
 *23,692キロ

05=温泉めぐり日本一周
 2006年11月1日〜2007年10月31日(296日)
 「関東編」、「甲信編」、「本州西部編」、「四国編」、「九州編」、「本州東部編」、「北海道編」、「伊豆諸島編」の8分割
 スズキGSR400、スズキST250、スズキDJEBEL250XC、スズキスカイウェイブ400、スズキバンディット1250S、スズキDR−Z400S、スズキDR−Z400SM、スズキアドレスG125V
 *60,719キロ

06=60代編日本一周(第1部)
 2008年10月1日〜2008年12月27日(80日)
 「西日本編」、「東日本編」の2分割
 スズキ・アドレスV125G
 *19,961キロ

07=60代編日本一周(第2部)
 「四国八十八ヵ所・日本百観音霊場16,964キロ」スズキ・アドレスV125G
 「奥の細道8,642キロ」スズキST250
 「北海道遺産6,003キロ」スズキDR−Z400S
 *合計31,609キロ

08=林道日本一周
 2010年5月12日〜2010年9月10日(78日)
 「西日本編」、「東日本編」の2分割
 スズキDR−Z400S 15541キロ
 スズキ・ビッグボーイ 12,667キロ
 *合計28,208キロ

09=70代編日本一周(第1部)
 2017年9月1日〜2017年12月17日(93日)
 「東日本編」、「西日本編」の2分割
 スズキVストローム250 25,296キロ
 「日本一周プレラン」
 2017年8月1日〜2017年8月31日
 スズキVストローム250
 *4,174キロ

10=70代編日本一周(第2部)
 2017年12月20日〜2018年12月31日
 テーマ編の日本一周
 スズキVストローム250
 *63,648キロ

熱い感動を子どもたちに伝えてくれたカソリさん

マンガ「賀曽利隆」

■今回4コマ漫画を描かせて頂きました大堀智子と申します。私の賀曽利さんとの出会いは2011年の海外ツーリング、稚内〜サハリン〜極東ロシアの環日本海、そして翌年はマダガスカルを一緒に走りました。恥ずかしながら私はそれまで賀曽利さんを知りませんでした。

◆賀曽利さんの持ち物はカッパが入る程度の小さなリュックたった一つという軽装! 小物は米袋に入れる。「この米袋がね、ものを入れるのに丈夫でいいんですよ!絶対破れない!」。ボソボソの黒パンにニンジンのピクルスを挟みながら「この黒パンにこのピクルスを挟んで食べるのが最高に旨いんですよ!」。現地のものを喜んで食べ、「僕はねぇ、アムールのカソリって言われてるんですよ!」と訪ねた先々で名言が度々飛び出しました。

◆マダガスカルではクロコダイルがすむ川の水を汲んで沸かしたコーヒーを一緒に飲み、バオバブの森を縫うように走りました。ウラジオストックから日本への帰りの船に韓国の高校生が約30人乗っていました。あろうことか賀曽利さんはご自身で校長先生に話をつけて、彼らに自身の旅の話を披露すると言うのです。初めてアフリカ大陸を縦断したこと、旅への情熱その内容に私も興味津々! 時間を忘れて聞き入っていました。高校生達の驚く顔、嬉しそうな表情……。

◆その話を聴きながら、私の心の中にも抑えきれない熱い気持ちが湧き出しました。「この感動をもっと沢山の人と共有したい!」、そう思った私は勤務する小学校の子供たちにも是非お話をして欲しいとその場でお願いし、快諾を頂きました。旅から帰るとすぐさま職員会議でその意義と必要性を熱弁「夢を持ち、頑張れば叶えることができることの大切さを今の子供たちに知ってほしい! だって賀曽利さんは小4で大きな夢を抱いたのです」。

◆どうにか学校公開・地区公開講座として開催することになりました。当日、賀曽利さんは颯爽と黄色いスズキDR-Z400Sで来校。そして、そのバイクはなんと体育館の壇上へ。ライダーとバイクが登壇した授業など恐らく学校教育の歴史上初めてのことではないでしょうか? 賀曽利さんは子供たちの前でヘルメットと、あの小さなリュックを持ち、「みなさ〜ん、こんにちは! 僕が世界を走るときの持ち物はこれが全てです」初っ端からどよめき。2泊3日の林間学校だって荷物はこんなに小さくありませんから!

◆夢を追い続ければ必ずや実現できるという賀曽利さんの講話は、児童はもとより保護者・地域の方も興味津々に聞き入っていて、授業はあっという間……、大好評で幕を閉じました。子供たちは夢を持つことって大事なんだ、信じれば叶うのだということを学んだとたくさん感想に書いていました。すっかりカソリック教徒の私。私の心に熱い炎をつけてくれる、みんなの心にすごい風を吹かせてくれる、そんな賀曽利さんの魅力を伝えたくて漫画にしました。今回、その機会を頂けたことに感謝しています。(大堀智子 小学校図工担当)

「フェイスtoフェイス」 の素晴らしさ

■報告会への参加は1年半ぶりとなります。2019年スタートの報告会は“レジェンド賀曽利さん”との事で、是が非でも行かねば、と強風警報が発令される中、バイクで東京へ向かいました。・会場では今回の「70代編日本一周」を通じて知り合いになった方と多数お会いしました。これは今回の旅で特筆すべき「ツイッター」のお陰です。

◆賀曽利さんご自身も”超アナログ人間”とおっしゃっていますが、軽やかなスマホ操作で 旅の模様を事細かく配信され続けました。正直な所、初めて賀曽利さんがスマホを手にしている時はビックリしましたよ(笑)。訪れた場所をはじめ、出会った方々、食事、温泉、峠、岬、街道、休憩時の缶コーヒー等々……。その配信数の凄さにはビックリです。まさに一緒に旅をしているような気分でした。

◆ツイッターにより賀曽利さんの行動が逐一把握できるので、待ち伏せするファンが急増(私もその一人です)。これにより出会いの場面が急増し、旅が益々面白くなったそうです。私が初めて賀曽利さんの日本一周に立ち会ったのが、1999年の50代編の時です。出発時の日本橋でのお見送り。そしてゴール時も日本橋へお出迎えに行きました。確か30〜40人程のお出迎えの人で、日本橋がごった返していた事を思いまします。あれからもう20年経つのですね。

◆また、2006年の温泉巡り日本一周では福島県の浜通りエリアに同行させて頂きました。東日本大震災後、立ち入れなくなったエリアの温泉や廃業してしまった温泉等を巡れた事は今ではどれも貴重な経験です。賀曽利さんに同行すると、様々な事を身をもって教えて頂きます。常々「旅は記録」とお話されますが、東日本大震災以降の被災地域を巡る「鵜ノ子岬〜尻屋崎」では震災直後から被災地の状況を細かく記録し、また定点的に写真を撮り続け、それらを継続的に配信されています。これ程被災地全域を継続的に見続けている方は、賀曽利さん以外おられないのではないでしょうか。何度も走る、見続ける、そして記録する事の大切さを痛感します。

◆そして「テーマを持って走ること」も旅を面白くする秘訣ですね。60代編日本一周では「四国八十八箇所、奥の細道、北海道遺産巡り」等様々なテーマで走られましたが、一つの切り口に拘る事により、今まで見えてこなかった世界に出会える面白さがあります。私事ですが2016年に賀曽利さんの勧めで東北の「道の駅スタンプラリー」に挑戦しました。全146箇所(当時)を約半年掛けて周りましたが、「道の駅」巡りを通じて、今まで走ってないエリアを走ったり、どのように効率的にルートを組んで走るか等々、頭を駆使しながら面白く東北を旅する事が出来ました。

◆報告会で賀曽利さんの話をお聞きし、自分自身「もっともっと駆け回りたい〜!」という気持ちが沸き上がってきました。人に何かを伝える、伝えられるのは、やはり「フェイスtoフェイス」なのですね。久しぶりに報告会に参加し、この場が何と有意義であり貴重な場であるか、認識を再度新たにしました。

◆報告会からの帰路、深夜の常磐道は正に極寒の中の苦行でした。人気のないパーキングにバイクを止め、缶コーヒーで体を温めていると「この寒さに耐えながらバイクを走らせるのがいいんですよ〜!」いつものようにニカニカと笑いながら、そんな賀曽利さんの声が聞こえてくるような感じがしました。これしきの寒さに根を上げているようでは、まだまた修行が足りませんね〜。賀曽利さん、くれぐれもお体をお大事にして、今後も走り回って下さいね。これからもしぶとく跡を追って行きますので、師匠どうぞ宜しくお願い致します!!(渡辺哲 福島県いわき市)


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