■1969年、東京・本郷では安田講堂が落城し学生運動が沈静化してきたころ、当時法政大学探検部の3年生であった岡村さんは、2人の仲間とともにスリランカのコロンボにいた。イギリスから独立したばかりで鎖国状態だったインド洋モルディブ諸島への民間人初入国を狙って玄関先で入国交渉をするためだった。モルディブへの入国許可を待っている間に、スリランカで何か探検ができないかと思い調べると、スリランカで一番大きな川・マハウェリ川の周辺には未知の遺跡がたくさん眠っているということを知った。
◆ジャングルの中を滔々と流れる大きな川、何百年もの間。人知れず眠っている密林の遺跡を想像した。探検部員としての血が騒いだ。モルディブ探検行の交渉中でもあったが、一行は日本から持ってきたゴムボートを浮かべ偵察に繰り出す。ボートは上流の激流で転覆し、岩にへばりついて命からがら助かったが、装備は全部流された。偵察は失敗に終わったものの、密林のイメージは頭から消えなかったそうだ。
◆それから4年後の1973年、最初のスリランカ遺跡調査探検として7人の隊員で遠征を行った。4か月間のジャングルでの調査で31箇所の仏教遺跡を発見した。この地域のジャングルには無数に遺跡が存在するが、現地政府や大学には調査のための予算も人員も無いために放置され、村の人たちによって盗掘や破壊が進んでいた。貴重な文化財が失われていく現状を目の当たりにし、誰かが何とかしなければいけない、また、学術調査の前段階である遺跡を発見し探査するという行為は専門家ではなく多くのアマチュアがやるべきだと岡村さんたちは思った。
◆その後の法政大の探検活動で1973年から2003年の間に7回、探検部員の減少と探検活動のレベル低下を危惧し、スリランカ遺跡調査の永続化のためにNPO法人を作ってからは2009年から2018年の間に6回、遠征をおこなってきた。最初の活動から45年間もの長い間スリランカ密林での遺跡調査が続いている一番の理由は、この現代において古典的な探検ができる喜びがあるからだと岡村さんは言う。
◆未知の地域へ赴いてそこを調べ、何かを探し出したり明らかにすること。辞書で調べたときに出る「探検」という言葉の意味だ。この言葉通りの探検をすることのいかに難しいことか。2018年、8月。今夏の探検の目的は、スリランカ南東部のヤラ自然保護区にあるタラグルヘラ山仏教遺跡と、その周辺の未知の遺跡の発見、調査であった。ヤラ自然保護区は13世紀までは古代シンハラ文明が栄え、その後は無人となった地域である。英国の統治時代に英人測量隊が見つけ、地図に残して以来、未確認のままになっていた遺跡だ。
◆タラグルヘラ山仏教遺跡の探査計画は2年前にも行われた。2016年、日本人19人、スリランカ人14人の30人を超える大所帯で行った遠征は、タラグルへラ山への到達もかなわず、周辺の遺跡を一つ調査しただけで終わった。失敗の原因は、ジャングルに広がる鉄条網のような有刺植物の下生え、村人ガイドの大迂回による時間の空費、学生たちのスキル不足等々であった。
◆リーダー層の経験者である社会人参加者は時間を空費している間に有給休暇のリミットが来てしまい途中帰国、残されたのは岡村さんと15人の学生だったが、学生たちは登山などの野外活動に慣れないビギナーが多かったため、安全優先の行動が求められ、機動力と士気の低下が隊全体に生じた。実は今年、2018年隊の学生参加者は1人を除き全員が前回の隊員である。
◆学生たちは各校の探検部で登山や野外技術を学び、遠征の前年、2018年の3月から毎月勉強会を開きスリランカの歴史、仏教、遺跡探査等を学んできた。勉強会では前回の収集情報と失敗体験をもとに作戦を立てていった。報告会のあとの二次会で岡村さんが学生隊員について「男子三日会わざれば刮目してこれを見よ、というけれど、彼らの成長は本物だった」と力強く仰っていたのを思い出す。
◆満を持して臨んだ今夏の探検であったが、今年もいざ、フィールドへ!というときに、思いがけない横槍が入った。自然保護局から突然新たな入域条件が出たのだ。安全と緊急時対応のためベースキャンプにはトラクター2台を常駐させ、移動も同時にせよ。移動には常にレンジャーを2名同行させ、1人ずつが同行する分隊行動は厳禁。
◆許可問題は探検活動に付きまとう最大の敵だ。自然保護局から出された以上の条件から、有給休暇を取って探査に来ていた社会人のベテラン3名は入域を断念、密林を目前にして引き返すことになった。残る隊員は学生5人と岡村さん、それとスリランカ考古局の4人、ポーター9人になってしまった。前回と同じ構図に岡村さんは戸惑ったが、今回の学生は経験量と団結力が違う。気を取り直し出発し、道なき道をトラクターで進んだ。5時間かけて水が手に入る河岸の中でもっともタラグルヘラ山に近い場所にベースキャンプを設営。
◆BCでは、作戦会議とドローン操縦の確認をした。野生の動物対策に火は絶やさずに焚き、装備も管理した。BCからタラグルヘラ山へは7キロ。歩き始めてみるとジャングルの地理的な特徴として小さな岩の丘が散在し、大きな山は少ないが、樹林の下にも日光が当たる場所にも五寸釘が生えたような細枝と鉄条網をぐるぐるまとめたようなブッシュが行く手をふさぎ、歩けたものではない。そのため薄い藪とゾウが作った獣道を選んで歩いた。
◆道なきルートを、ポーターは20キロ、隊員たちは10キロの荷持を背負い、行く手を阻む有刺低木のブッシュを避け獣道や藪の薄いルートを辿るため、直線では歩けずジグザグに歩くことになり、常にGPSで進路を確認しながら進んだ。BCからを歩き始めて1日目、古代の出家僧たちが住居や修行の場とした岩陰遺跡と、沐浴などに使った貯水池遺跡を発見。その後また岩陰遺跡、仏堂跡を発見した。遺跡を見つけると毎回、測量をして図面にとり記録として残した。この日はタラグルへラ山が岩丘から見える地点、近くの露岩でビバークした。次々と露岩の近くで遺跡を発見したのだが、ほとんどが崩壊していた。
◆2日目、密林をかき分けタラグルへラ山の山頂の巨岩に到着して調査すると、そのふもとには大規模な岩陰遺跡があった。床の組石や外壁煉瓦は崩壊している状態だった。岩陰から岩のふもとを南に回ると、頂上へ続く階段を発見。岩盤斜面を彫りこんで作った階段が全部で75段頂上に続いていた。頂上には仏塔の跡と、刻文があった。刻文は目で拾って写し解析すると、初期のブラーフミー文字であることが分かった。この文字は南アジアや東南アジアの諸言語文字の原型であり、書体からは使われていたのが紀元前3世紀から紀元1世紀のものだということも分かった。このことによって寺院建立の時代が特定できたのだ。
◆タラグルヘラ山仏教遺跡は東西250メートル、南北700メートルの大規模な範囲で広がっており、今回の探査では未踏査のまま残した区域も多いという。遺跡の全体像を解明するには日数をかけた寺域内の未踏部分の遺跡調査が必要であり、そのためには許可と水の問題が深刻になってくる。当初、隊員交代で第2次調査を予定していたため、学生は2人BCキーパーとして残り、3人が調査に赴いたが、1次隊が帰ってきた時点で考古局とレンジャーがポーターの体力不足、士気低下、水不足等で第2次隊の発足を反対。岡村さんは学生全員を連れて行こうと考古局側やポーターを説得したが結果は覆らず、隊員2名はタラグルへラ山には行けなかった。
◆一泊ビバークでの調査では成果が限られることや、水不足も考慮し、今回は発見と概況把握をもって良しとし、来年雨期明けの水の乏しくない時期に現場にベースキャンプを置いて調査しようということになった。留守番役を引き受けた2人は貴重な現場を見ることもできず、悔しくなかったのだろうか。2次会で2人に聞いたところ、現場で測量し調査をするのと同じくらいBCで荷物を見張ったり川水を沸かして大量の飲料水を作ったりするのも大事な仕事だから、悔しくはない。前回の失敗があるので我儘を言って隊の秩序は乱せないと言うのを聞いて衝撃を受けた。私はそんなふうに考えられるだろうか。
◆帰りに寄ったマルワーリヤ岩丘遺跡では、ジャングルで狩猟採集をして暮らすスリランカの先住民族、ヴェッダ族の岩絵のある岩陰を発見し、それによりヴェッダ族の活動範囲が南東部のヤラ地方にも広がっていたことや、これまで発見されていない絵柄もあることが分かった。これにはスリランカ考古局も大興奮だった模様だ。
■岡村さんは考古学者でもなんでもなく大学時代に見つけた探検のロマンを追ってきただけだ。今でこそ遺跡や考古学の知識はすごいが、探検をするという行為が先にあって、知識がついてきたのだ。その行為の大変さを考えると、胸が詰まる思いになる。
◆私が大学に入って探検部員になってもう少しで3年が経つ。探検部員になって、地平線会議と関わるようになってからすごい勢いで自分の人生が動いているのを感じる。大した理由もなく入ったはずなのに、「自分の探検活動を探すために頑張っている」自分がいる。去年の夏にカムチャツカ未踏峰遠征に行ってからはさらに自分の人生が変わってきたのを感じている。
◆帰って地平線報告会で報告をさせてもらったり、そのおかげで色々な人と話して探検のアイデアをもらう機会が増えたり、今はこうやって恐れ多くも報告会レポートを書かせてもらっている(レポートを書くに当たって何人かに「レポートを書くときに手が震える」など脅され、プレッシャーを感じた)。私はいまだに自分の探検活動ができていないが、探検をあきらめたくないと思っている。岡村さんが密林をイメージしたときに血が騒いだようなそんなフィールドを見つけたいし、45年間も続け、不思議と知識がついてくるような、人生を狂わせられちゃうような探検のテーマを見つけたいと思っている。今回の報告と自分の3年間を考えたときに、探検という行為は、人を長い時間、引きずり込み、延々と続いていくんだなぁと感じた。(野田正奈 明治大学3年 早稲田大学探検部員)
■私は、自分たちが45年もの間続けているスリランカでの活動を「探検」であると信じている。ジャングルの中をゾウやヒョウやクマに怯えながら歩いているが、その行為自体を目的とする「冒険」ではない。遺跡を見つけて測量したり、写真や拓本を持ち帰って分析したりもしているが、結果だけを求める「学術調査」でもない。考古学者ならぬ一介の臆病者がビクビクしながらジャングルを歩き、遺跡を探しては、その結果を持ち帰り、律儀に報告するのだが、探す遺跡が「未知」のものであることと、必ず後世にも残る形で報告するところがミソで、それゆえにこそ「探検」だと信じているのだ。
◆とはいえ、私たちが発見する遺跡は、部外者から見れば大半がとるに足らない小さな遺跡だ。映画『インディー・ジョーンズ』のような活劇もなく、アンコールワットのような巨大遺跡の発見があるわけでもない地味な探検は、それを続けることにどんな意味や面白さがあるのかと、不思議にも思われるだろう。しかし、私にとってそれはあるのだ。どんなに小さな、見栄えのしない遺跡でも、そのひとつひとつの調査の積み重ね、地道な作業の継続にこそ、自分にも結果の分からぬ「意味」があり、未知の対象への邁進という一点にこそ、何物にも勝る「面白さ」がある
◆今回の報告会で私が本当に伝えたかったのは、「探検とはそんなものだ」という思いであり、大発見とも言えぬ程度の遺跡の内容報告ではなかったはずなのだが、それが果たして伝わったかどうか……。「大発見への一里塚」という表題の「大発見」とは、私にとっては「未知」と同義の、追い求めるべき理念というか抽象概念であり、現場の地道な作業の前では謳い文句にすぎないのだが、それがなければ続かないのが探検であり、たとえ本当に大発見があったとしても、翌日からはまた地味な作業を続けるのが私の探検だということなども申し上げたかった。学生時代から思っているが、「探検」を語るのは、人生を語るのと同様、なかなか厄介である。
◆さて、何はともあれ、そんな中途半端な思いを残して、報告会は終わった。5回目の登場だというのに、さしたるストーリーもなく深い掘り下げもない平板な語り口に、退屈さや眠気を感じた人もあったかもしれないが、ごめんなさい。探検はまだ続くので、次に語らせてもらう機会がもしあれば、焦点を絞った、起承転結のはっきりとした話をしなければと、改めて当日の会場の様子を反芻している次第です。話を聞いてくださった皆さま、ありがとうございました。(岡村 隆)
10月10日四国88か所巡礼を大窪寺で終えた。夫婦とも70歳になった御礼に四国遍路を歩き始めた。1200kmの長丁場を4年半かけてコマ切れで歩いた。弘法大師空海ゆかりの88寺の大師堂が札所である。私の感じでは空海の色濃い寺とそれほどでもない寺もあった。「空海」を一番強く感じたのは室戸岬の御厨人窟(みくろど)だった。阿波国の23番薬王寺から3日かけて80km歩いたところでやっと室戸岬が見えた。岬の崖に空海が修行した洞窟がある。窟の中からみえる景色は上半分が空、残りの半分が海。それ以外は何もない。この洞窟で真魚(幼名)は空海となったと言われる。
空海は留学生として遣唐使について行き唐の都長安で学んだ。四国での修行の間に天才的能力ですでに密教を学んでいた。空海は長安の青龍寺で、当時最高の僧であった恵果から密教の奥義をすべて授かった。恵果に出会った時に空海はすでに密教の高い段階に達していた。だからわずか数か月で数ある弟子たちをさしおいて恵果の後継者になれたのだ。
青龍寺で恵果と空海が出会ったのは唐の玄宗皇帝・楊貴妃の少し後の時代。唐の時代は隆盛だった仏教はだんだんすたれ、青龍寺も跡かたがなくなった。今回西安の青龍寺に行ってきたが、昔日の青龍寺ではない。千年の都だった長安は西安と名を変えた。旧青龍寺遺跡は発掘されて新しく堂宇が再建されている。現青龍寺にお参りするのは80%以上が日本人だ。四国四県が贈った桜の林のなかに四国ゼロ番札所のモニュメントがあり、空海の記念塔が作られている。
Facebookで西安に行くことを呟いたら、岡村さんから「恵果の師、不空三蔵の足跡を探してくれないか!」とのツイートがあった。空海の師である恵果の名前は知っていたが、その師の不空という名前は初めて聞いた。岡村さんの指令に従い、地下鉄に乗って「不空三蔵」の寺「大興善寺」を訪れた。青龍寺は日本人の寺だが、大興善寺には大勢の中国人参詣者が訪れていた。中国で仏教はいったん途絶えたが、近年かなりの勢いを増している。不空・恵果の時代とは異なり金ぴかのお金持ち寺に見えた。
境内の案内板に「不空」の名前があった。簡体字だが、不空が南インドの僧で、玄宗皇帝に好まれた高位の僧だったことは理解できた。日本に帰ってから司馬遼太郎「空海の風景」を読みなおした。不空のことがかなり詳しく記されていた。
恵果は多くの弟子を飛び越えてインド僧の不空から金剛頂経の密教体系をすべて受け継いだ。そのあと恵果はすべての弟子をさしおいて日本人の空海に密教体系を譲り渡した。インドからもたらされた密教だが本国では既にすたれている。インド起源の密教が中国から日本に行くことに対して恵果はこだわらなかった。実際に恵果の没後、中国の密教はすたれていく。不空も恵果も、世界のどこかで密教が続いていけばそれでよいという壮大な世界観を持っていた。
地平線会議で岡村さんの話を拝聴して、彼が「不空三蔵」にこだわった理由が分かった。スリランカのジャングルを探検し、多くの仏教遺跡を発見した話だった。詳しくはレポートにある通りだが、私はその中で1985年の釈迦三尊の摩崖仏の発見に注目した。現在のスリランカはいわゆる小乗仏教の国。しかし彼らが発見したのは古代シンハラ人が信仰した「大乗仏教」の遺跡である。歴史的にも貴重な発見でスリランカ政府も遺跡の保存に乗り出した。しかし8年後に彼が訪れた時、内戦によって仏像は破壊されていた。
岡村さんは、空海の大師匠である不空はスリランカ僧と考えている。大興善寺には南インドの僧と書いてあったがスリランカも含まれている。不空の時代、南インドに仏教の拠点があったことは知られている。南伝仏教の拠点だった。
空海以前に日本に伝来した仏教は、鳩摩羅什などの僧がインドやチベットから西域の砂漠を越え中国にもたらした(北伝仏教)ものだ。近代になって日本仏教の源流を求めて日本人僧侶たちは西域チベットを探検した。しかしある時期仏教の拠点であった南インドスリランカの仏教遺跡を探検した日本人は少ない。南インドは南伝仏教、いわゆる小乗仏教の出発点だったので、大乗仏教の日本人僧は興味を示さなかったのかもしれない。
現代日本では、真言宗はもちろんかなりの宗派は空海・最澄から始まったといってもいい。ちなみに最澄も空海と同じ時期に中国にわたり、不空の弟子の順暁から密教の一部を学んでおり、南インドスリランカ系統である。
日本仏教との関係を考えたとき伝播ルートは、スリランカルートが重要な意味を持っていることを岡村さんは言いたかったのだ。スリランカで日本仏教の源流を探りその遺跡を発見した探検家はほとんどない。この探検は日本仏教史だけではなく世界的探検史にも残るほど意義深い。
西域のシルクロード遺跡探検はリヒトホーヘンから始まってヘディン、スタインにつながった。スリランカの仏教遺跡探検は、いま岡村隆から始まった。彼は多くの若者を参加させている。この中からヘディン、スタインに匹敵する探検家が輩出してくれるかもしれない。
「空海」という名は御厨人窟から見た空と海ではなく、不空の「空」に由来するのではないか、と我が家の奥様は強く主張する。岡村さんの話を聞いて、私も奥様の説に追従している。(三輪主彦)
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