■7月27日の報告会で開催を発表、募集を開始した「第1回地平線3分映画フェスティバル」。当初はエントリーがほとんどない状況が続き、一時は開催が危ぶまれたが、9月27日の締め切り直前に立て続けにエントリーがあり、関係者は胸をなでおろした。しかしエントリーはしたものの、フェスティバル開催1週間前にまだ撮影をしている作品や、編集者が悪天候で下山できずになかなか仕上げられない作品などもあって、最後の作品は開催当日、会場に届いてギリギリ間に合った。以下13作品、上映は作品が届いた順番に行われた。
会場参加者の全員投票で選ばれる「グランプリ」は、たがを監督の「しゃあまんのいちにち海編」が53票を集めて受賞した。報告会2次会参加費が1年間無料になる「北京杯」は瀧本千穂子監督「モンゴル大草原遊牧民生活2018」に贈られた。また、参加者全員がそれぞれのイチオシを「審査員特別賞」として選んだ。江本嘉伸審査員による「審査員特別江本賞」はみなちん監督の「『地平線を止めるな!パンケーキ』を焼く」が受賞した。副賞は「エモカレー」ご招待だという。おめでとうございます!(落合大祐)
■主催者特別上映「ダイナミック琉球への道」の横で踊らせていただき、ありがとうございました。踊りは身体が重くってイメージ通りじゃなかったけど、とても楽しかったです。実はこの企画はテンカラ食堂での酒の席(with ねこさん、かこさん、りえさん)で生まれました。大集会で何かしたいね→前はみんなで踊って楽しかったね→そういえば伊豆でダンス合宿したね→淳子さんと一緒に酔っ払いながら踊ったね→今回も踊りたいね→よっしゃ、そしたら「淳子さんと一緒にダイナミックパーティだ!」と盛り上がり、そんな企画をぶつけられた落合さんが素敵な映像を作ってくれて実現しました。
◆長野亮之介さんや坪井敬子さんや加藤ちあきちゃんにも盛り上げ隊をお願いしました。ちあきちゃんが着ていたのは、淳子さんが着ていた衣装です。会場にいた人達が淳子さんと一緒に、ダンスを観て笑顔になってくれていたら嬉しいです。さあ、次の大集会も踊るぞー! 踊りたくてウズウズしている皆さん、今から少しずつ自主練していてくださいね。今度は一緒に盛り上がりましょう。(岸本実千代 大阪)
■地平線会議40年祭の前夜祭は「第1回地平線3分映画フェスティバル」。締切前日の応募はわずか4作品しかなく開催が心配されたが、駆け込み応募が相次ぎ最終的には13本の個性的な作品が集まった。
◆『鹿笛猟奥秩父』は服部文祥さんが笛で鹿をおびき寄せる狩猟を描いた緊張感あふれる映像。猟を撮影する(される)余裕があったのはさすが。『幸田文が綴る富士山「大沢崩れ」』は花岡正明さんが富士砂防事務所時代に企画した映像を再編集したもので、豪雨による土石流のすさまじい破壊力に圧倒される。
◆『Voice from the Arctic Ocean』は高沢進吾さんも参加したアラスカのクジラ猟の記録。自作の水中マイクで録音した地元の人も聞いたことがないというクジラの鳴き声に耳をすませ水面下の世界を想像した。『モンゴル大草原 遊牧民生活2018』は毎年通っているという瀧本千穂子・柚妃親子のモンゴル旅日記。しっかりした構成で遊牧民の暮らしをわかりやすく伝える。
◆『地平線を止めるな!パンケーキを焼く』は「みなちん」こと掛須美奈子さんによる地平線流3分クッキング。パンケーキの作り手はもちろん久島弘さん。『しゃあまんのいちにち 海編』はドキュメンタリーが多いなか、注文の多い(と思われる)たがを監督が脚色・演出したドラマ。しゃあまんを演ずる坪井伸吾さんの真剣な表情に会場は抱腹絶倒、かとうちあきさんの妖艶な演技も魅力的で続編が待たれる。
◆『SECOND SEASON』は今年6月に光菅修さんが参加したパラオからヤップ島までの航海の記録。詩情あふれる映像はできれば長編で観たいと思わせる。
◆『サバ』は関野吉晴さんがモンゴルで出会った少女プージェの祖母・スレンさんを訪ねた大西夏奈子さんの作品。御年96歳?(実際は87歳?)というスレンさんのはにかんだ笑顔が何ともすてき。『常念より愛をこめて』は強風が吹き荒れる常念岳の稜線で小原直史さんがカメラに向かってひたすら叫ぶ作品。マイクは風の音だけを拾い本人の声はまったく聞こえないのが惜しい。
◆野宿野郎さんの『シン・シュラフマン〈予告編〉』は植村直己冒険賞受賞者2人を含む5人のシュラフマンが身体を張って作った反五輪?映画。2020年の東京オリンピックに向けて撮影が進んでいる(と思われる)本編に期待が高まる。
◆『ZEROtoSUMMIT』は海から川の流れに沿って山頂まで走る二神浩晃さんの「ZtS(国内篇)」の紹介。ドローンによる空撮を多用した立体的な映像がすばらしい。『永遠の蒼(そら)』は数年前に熱気球で日本アルプス越えを敢行した安東浩正さんの貴重な映像で、今はもう飛行が許可されず挑む者もいないという空の冒険は迫力と美しさを兼ね備えていた。
◆『犬ぞりレースに挑む【マッシャー】本多有香の生活とは?』は加用裕紀さんがテレビ番組用に撮影したもの。極北の地で犬とともに暮らす本多有香さんの生き方がいつもより雄弁な彼女自身の言葉で伝わってくる。最後に、主催者特別作品の『ダイナミック琉球への道』を上映。スクリーンの前で長野亮之介さん、岸本実千代さん、中島ねこさん、村松直美さんが映像から飛び出てきたように躍動的に踊る姿がやけにまぶしかった。
◆参加者一人6票(1作品に複数入れるのも可)の投票で選ばれる「グランプリ」は、1票差でたがを(緒方敏明)監督の『しゃあまんのいちにち 海編』に決定したが、副賞の記念品はなんと緒方さん作。じつは上映前に、得票数が同数の場合と緒方さんが受賞した時の椿事を心配したのだが、まさか本当にそんなことになるとは……。結局、僅差だった二神浩晃監督の『ZEROtoSUMMIT』と、高沢進吾監督の『Voice from the Arctic Ocean』を「準グランプリ」とし、記念品は二人へ。
◆「審査員特別江本賞」はみなちん監督の『地平線を止めるな!パンケーキ」を焼く』、「北京杯」(不肖わたくしが選定)は瀧本千穂子監督の「モンゴル大草原 遊牧民生活2018」がそれぞれ受賞した。誰もが気軽に動画を撮れる時代というが、これほど多様で興味深い映像が集まったのも地平線会議ならでは。早くも次回(っていつ?)が楽しみである。(突然審査員に指名された 飯野昭司 山形 「山形国際ドキュメンタリー映画祭」インターナショナル・コンペティション部門選考委員)
【はみ出し情報】60年前にスタンダードカクテル「雪国」を創作した92歳の現役バーテンダーを描いた『YUKIGUNI』が2019年正月にポレポレ東中野とUPLINK渋谷で公開決定。そして、あの淀川長治さんに世界一と言わしめた伝説の劇場「グリーン・ハウス」の魅力を伝える『世界一と言われた映画館』が2019年1月5日から有楽町スバル座で公開決定。山形県酒田市発の映画が2本同時期に東京で公開されるのは前代未聞。ぜひご覧ください。
ああ、今回は、ぼくは変な映画、創ってしまいました〜。すいません。視てくださって、ありがとうございます! 楽しんで観てくださったかたが、いらっしゃったので、とても嬉しかったです。完成さくひんは、たしかに「3分」ですが。創作の経緯には、なかなか、いろいろ、有りました。それは、おもしろくて楽しい事ばかり、です♪
ぼくら、撮影前も 撮影中も 編集も わりと話し合いました。話し合うというか、「いつもの感じ」というか。まあ、全員、ほぼ毎月、会ってる仲なので。いつのまにか、「お互い」を知り合ってた ってことかも。なんとなく それぞれの人が感じてる「ニュアンス」みたいのが、その現場のときどきに解るというか〜。
だから、それぞれのひとの魅力みたいのが、映像「さくひん」の中に自然に際立ったのだとおもいます。「遊ぶ」こと ほんとに好きなひとたちだし。
3分映画祭グランプリ賞は、素直に嬉しいです。ありがとうございました。さくひん創作関係者全員、喜んでます。なにが嬉しいかというと、作品を視てくださったみなさまが、楽しんでくださったことです。作品が愛されることが、創った者たちとしては、いちばん嬉しいし、そのことそのものが最高の賞だとおもいます。
今回のさくひんは、視るひとの価値感によって、それぞれにさまざま解釈できるように描きたかったです。いろいろな感想意見をいただいてます。たとえば、関野吉晴さんが、「冥途のイメージ」と評価してくださって、とても嬉しかったです。主演の坪井さんは、強風寒冷の中、かなり過酷だったとおもいます。なので今回の受賞は「主演男優賞」みたいなものだと想います。
なにもかも、「しゃあまん」の御利益だとおもいます。坪井さんをふつーに撮ったら「しゃあまん」が映ってた、って感じです。坪井さん本人自身が「しゃあまん」だということに気づいて無いからなあ〜。だからなおのこと、坪井さんって、いつも輝いてるんですよね〜♪
ぼく的には、妄想から創作から 合宿もロケも 私的に「すべてが楽しかった」おもしろかったです。坪井伸吾さん、かとうちあきさん、長野亮之介さん(撮影)、さかでひでとしさん(編集)、この個性的な四氏の、だれひとりが欠けても さくひんはリアルに生まれなかったと おもいます。みんな、モチベーション高かったです。おもしろくて すごくノリがいいチームワークだとおもいます。
ぼくの幼稚な「妄想」の具現を、いろいろ提案工夫してくれて、ほんとうに ほんとうに感謝であります。(緒方敏明 「しゃあまんのいちにち」監督)
■はじめまして、水流ランをやっている二神(ふたがみ)と申します。この度の映画フェスに『ZERO to SUMMIT』(以下、「ZtS」)を出品させていただき、栄えある準グランプリをいただきました。高い評価をいただき、深く御礼申し上げます。
◆「水流ラン」はわたしの造語で、川ぞいを走ること全般をそう名付けています。そのなかでも、河口から山のてっぺんまでずぅーーーっとひとつの水流をたどりつづけて走ることをZtS、国内四十七都道府県の最高峰をめざして同様に走ることをZtS47と呼び、2016年に活動を開始。地形を読み解き、なおかつその地域の歴史と文化に照合してもっともふさわしい一本の流れを選び、走っています。
◆国内では現在十座を実施済みですが、ZtSは世界の山と川も見据えています。地中海からローヌ川をたどりつづけ、シャモニーから氷河を登ってモンブランへ──そんな光景を想像するだけで心が躍るのです。この海外篇実施を模索するなか、学生時代から憧れている関野吉晴さんのグレートジャーニーが武蔵美で上映されると知り、ここにヒントがあると信じて通いつづけました。
◆そこで出会った坪井伸吾さんに導かれて出席した地平線報告会で映画フェス開催を知り、ZtSアピールの絶好の機会だと直感。新参者であるにもかかわらず、無謀にも初代グランプリの獲得をめざしてエントリーした次第です。グランプリは逃したものの、作品に見入る観衆の横顔にはこみ上げるものがありましたし、今回自己紹介までさせていただき、不思議な縁に感謝いたします。
◆一種の地理的探求であり、地域文化の再発見とまったく新しいアソビの創出もひそかに狙っているZtS。ランニングでも登山でもない、どの既存分野にも属さないこの活動は一体なんなのか、評価に値するものなのか、自分でもよくわかりません(アートかなと思っています)。二神、そしてZtSとは何ものか、地平線会議でお諮りいただければ幸いです。(二神浩晃)
追記:1972年生まれ。愛知・岐阜・長野育ち、世田谷区在住の会社員(建築検査機関)。小中高で野球、日本大学ワンゲル部と社会人山岳会で登山全般、その他ツーリングカヌー、トレイルランニング等を経て、40歳からはランニングに一本化。最初で最後のフルマラソンでサブスリー(2:48”50’)達成後は独自の水流ランに特化し、現在に至る。妻、8歳の娘、4歳の息子の四人家族。
■3分映画! その告知を見たとき理由はわからないがワクワクした。内容は何でもアリなので何か出品できたらいいな〜と思っていたら開催危うしの続報が。中止はつまらない。本気でエントリーすることにした。さて題材は? 朝の日課、たくさんの調理道具を使う夫のパンケーキ作りを記録しておきたい。ただそれだけでは面白くないな〜こうしたら?と内容が固まった。
◆構想1カ月撮影2日編集1日。タブレットで撮影し無料ソフトで編集した自画自賛の出来映え、助手に感謝。当日の13本+αはそれぞれの世界が詰まっていてまた観たい作品が多かった。そんな力作揃いの中、「審査員特別賞」をありがとうございました! 今度パンケーキご馳走しますね江本さん。そして次回開催を楽しみにしています。(夜空を南へ渡る白鳥の声を聞きながら 掛須美奈子 千歳市)
■東京の滞在時間2時間ちょっと。普通に考えればもったいないかもしれない。でも、思い切って行って良かったです。地平線3分映画フェスティバルの作品は、「本気で生きている」人たちの作品。1番目の服部文祥さんからドキドキがとまりませんでした。落ち葉のこすれる音、鹿笛の音色、森に響く銃声、命あるものの最期。会場の全員が、目をこらし、耳を澄ましていました。普段の生活では感じられない、自然の豊かさや、生き物たちの声、そこに住むひとたちの暮らし。本当にお得な(1?)2時間でした。固まっていた心がほぐれた気がしました。
◆「サバ」のスレンおばあちゃんは、何回見ても笑顔になれそうです。仕事があって、なかなか時間が作れないことであきらめていたけれど、これからも地平線会議に行ってエネルギーを充電しよう! と思いました。ありがとうございました。(前夜祭の3分映画祭のみ参加 クエこと杉本郁枝 静岡)
3分映画フェスティバルが行われた榎町地域センターからオークション会場の「北京」までは歩いて7、8分。美味しい餃子が安く食える、と人気の店だが、この日は貸切にしてくれた。1時間近く飲食して盛り上がったあと、いよいよ本番へー。
■「さあさあ、地平線オークションがはじまるよ〜」大集会恒例のオークション。会場の「北京」では、とっておきの「お宝」を見るため、そして手に入れるため、期待でみんなざわついていた。祭の衣装で準備万端の競り担当の長野亮之介さんと大西夏奈子さん。落札者には、関野さんの写真も特別にプレゼントされるとの嬉しいお知らせ。
◆下川千恵さん提供のインドネシアの村のラタン製品。家族ごとに異なるデザインで編んであるとのこと。素敵〜。「これをかぶって遊びに来てね」とコメントの付いたとんがり帽子は瀧本柚妃ちゃんの手に。かとうちあきちゃん敗れる……。ランタン谷のチベット絞り染めのマフラーは貞兼綾子さんから。布好きとしては、前のめりになる。競りの時、怖い顔していたかも……私、ゲット!
◆7月に亡くなられた原典子さんのご家族からは、貴重な「手塚治虫の原画」! ざわつきが一段と大きくなる。そして、価格も一気に上がる。高世仁さんがどんどん値をつり上げ,今回の最高価格に。長野画伯の個展で展示してあった猫の墨絵掛け軸はちあきちゃんが入手。
◆恵谷治さんが海外で集めた装身具や民族衣装、不思議な旗やペナント等が登場。やはりここは、岡村隆さんに一言をお願いする。「これが、いったい何であるのかさっぱりわかりません。恵谷にはそういう趣味があったのです」と紹介していただく。モロッコのマントは久島弘さんとの競り合いの末、兵頭渉さんのものに。突然、「熱気が足りない!」と大将こと丸山寛さんが現れて、「いいのか、いいのか!ほかにはいないか!」と煽り始める。恵谷さんがいない寂しさを実感……。金のアクセサリーは、またもやちあきちゃんが。翌日の大集会で早速身に着けていた。さすが!
◆最後は白根全さん提供の南米グッズ。女性達が群がる! 私もまた、前のめり状態に。アルパカ製の帽子は、みんながかぶってみたくて引っ張りだこ。光菅修さんは柚妃ちゃんへの贈り物として落札。あれよあれよと3点が売れてしまった〜。アマゾンスリーポ族の泥染布は、じっくりと獲物を狙っていた松原幸子さんの元へ。時間が迫って、最後は一気に駆け上がり終了。
◆書き切れないたくさんのことがありました。参加者みんなが本気で狙った「お宝」。出品してくださった方々に大感謝のオークションでした。(飛騨から参加 中畑朋子)
■下川知恵……藤のハンドメイドのカバン(ロングスレ村の母さん手づくり)/トゲトゲハット(ロングスレ村にこれをかぶって来て下さい)
■貞兼綾子……ランタン村の伝統的女性用手織り帯
■原健次……手塚治虫「きわめつけ1000ページ」セット箱(ピンバッヂと原画も)
■関野吉晴……アラスカの写真パネル(アラスカ・罠猟師)
■関野吉晴……アラスカの写真パネル(アラスカ・ダイアモンドダスト)
■関野吉晴……アマゾン写真パネル(アマゾン・マチゲンガの女の子)
■本多有香……ナンバープレート(ユーコン州の現物)
■長野亮之介……絵(墨絵の掛け軸。2017年秋「一氣一遊展」展示作品)/フリースと財布
■白根全……アルパカクッション(ペルー。ナスカの地上絵の土産付)/アマゾンスリーボ族泥染の布/チチカカ湖の帽子/チチカカ湖の帽子/手袋(子供用)/テーブルセンター/ペルーの帽子1/ペルーの帽子2
■植村直己冒険館……バッグ(豊岡の革製品)ビジネスバッグ/2Wayバッグ/ボストンバッグ/デイパック/ショルダーバッグ
■惠谷治……アクセサリー2種(中国のブレスレット(龍の彫刻)/ペンダントヘッド)/著書3冊(北朝鮮3冊セット。蔵書印あり)/布(テーブルクロスのようなもの。タージマハル?)/クルタ(サイズ表示:56)/旗・ペナントセット(バスク州旗/レーニン「社会主義競争に勝利せよ」)/テーブルクロス(インドの壁掛け?)/マント(モロッコのシュラパ。ウール)/空母いぶき(幼なじみの漫画家かわぐちかいじ作惠谷治監修のマンガ)セット(スコッチウィスキーとプラモデル)
★合計130,500円となりました。地平線会議の活動資金に活かします。すでに天に旅立たれた仲間のご遺族はじめ、皆さん、ご協力ほんとうにありがとうございました。
地平線会議、東京ウィメンズプラザでの20年ぶりの大集会は小雨の中だった。受付には『地平線風趣狩伝』とゾモ「鯉」コラボTシャツが積まれ、ホールに続々とやってくる参加者たち。
一方でステージの準備が遅れ、品行方正楽団のリハーサルが直前まで続いて、時間通りにスタートできるか冷や汗が出る。
そして司会は誰かやるだろうと決めずにいたら、結局落合が自分でやるしかなくなってしまった。こうなればヤケッパチだ!こうして「40年祭」は3分映画フェスで昨夜グランプリを受賞した「しゃあまんのいちにち 海編」上映から、5分遅れで始まった。(落合大祐)
■第一部が始まる前に、前日の地平線3分映画フェスティバルでの大賞を受賞した「しゃあまんのいちにち海編」が上映された。ナンセンスな受け狙いともとれるが不思議な精神世界を映し出しているようにも見える。第一部のナビゲーター関野さんの発言は、この映画へのコメントから始まった。
◆世界中を旅していて、次はどこに旅に出ようかと考えたとき、精神世界の「あの世」への旅を思いついたが、帰ってくるあの世への旅はどうすればいいのだろう。この映画に現れたような、あの世とこの世をつなぐ精神風景は、多くの臨死体験者の体験談にも表れていると。うわー、受け狙いの映画が哲学的な意味を持ってきた。おがたがを監督の今後に期待しよう。
◆さて、第一部の最初のゲストは樫田秀樹さん。ボルネオ島サラワクの原生林が破壊され、アブラヤシ(パーム油)のプランテーションにどんどん浸食されていて、オランウータンやピグミー象などの希少動物が絶滅の危機に直面しているという。日本では石鹸の原料にパーム油が使われエコと称されるが、その裏ではこのような大規模環境破壊がされている。今回樫田さんはプナン族の生き方について多くを話してくれた。
◆プナン人は定住しないで森の中で移動しながら生活する。狩りは真夜中に行い、真っ暗な森の中を昼間と同じ速さで歩くことができる。取れた獲物は集団内に均等に分配する。でんぷん質はサゴヤシという木を砕いて汁を出し、その汁を搾って取り出す。サラワクの原生林の中で自然の食う食われるの一部として組み込まれたプナン人は原生林の生態系の一部になっていると感じた。
◆プナン以外の民族では鉄砲で狩猟する民族や焼き畑をしているものもあるという。焼き畑は10年周期くらいで焼き畑を行う区域を循環しているという。こちらも持続可能循環社会であるではないか。関野さんのコメントに、プナン人は持っている技術は出し惜しみしない社会で集団が一体となって生きているという。そのため、「ありがとう」という言葉がないそうだ。何かを人のためにやることは当たり前という相互関係だ。
◆私には集団として一つの生命体のようにも思えた。樫田さんは、ボルネオで生きる人たちが森は銀行とおなじと言っていることも紹介した。森で生きるプナンの人も、また森で焼き畑農業をする人も、何百年か分からないが同じ生活を送ってきたのだろうと想像する。このような人たちを支える森をアブラヤシのプランテーションにしてしまっては、希少動物どころかサラワクの少数民族の絶滅を招いてしまう恐れがあると感じた。
◆絶滅危惧種は動物だけではなく、人類の多種多様な生き方をしてきた民族も同様であろう。いや、人間の営みなので世界文化遺産とでもすべきであろう。動物の環境適合と違い、人間だから、別の方法でも生きられるという価値観を押しつけて森を奪うことは、やはり重要な地球上の生命を奪うに等しいことに他ならないと思えた。
◆二人目のゲストは糞土師こと伊沢正名さん。まず初めに関野さんから「うんこを埋めて時間がたつといい匂いになるので、うんこの匂い成分のスカトールは香水の成分にも使われているんですよね。うんことどこが違うんですか」、伊沢さん「匂いは同じですけど濃度が違うだけです。薄めると香水になるんです」。ウゲー、なにか異臭と芳香の混乱状態になった。
◆伊沢さんは元々コケやキノコなどの写真家でじっくり時間をかけて撮るような写真が得意とか。レンズの目線が超低いところにあり、普段上からしか見えないキノコなども下から見ると違ったように見えるという。そして、なぜ糞土師になったか。「生き物は動物も植物も区別しない。菌もおなじ。そうした中で、生き物は別の生きものが生産した(又は排泄した)ものを食して生きているという。うんこも菌のえさとして与える必要があると考えた。
◆そうして、一度野糞をしてしまうと楽しくてしょうがない。そんなわけで最長13年間野糞をしてきた記録がある。食物連鎖というなかで、奪った命は返すという考え方に基づき、うんこも自然に返さねばならないという。これは御馳走をいただいた人間の責任であり、御馳走の変わった姿を自然に還元しなければならないという。
◆私はこれまで食物連鎖の頂点の動物は奪うだけと考えていた。還元するとすれば死んだときの遺体だ。もちろん遺体は土に還る。しかし、うんこも還元の重要なものという伊沢さんの考え方は現代人のきれいなトイレを考え直させる。考えれば、昭和の初期まではお百姓は人糞を野菜の肥料としていたわけだし、江戸時代から都市のうんこは専用の業者が取引をして、都市の衛生と住民の食料生産を守っていたということに気づかされる。
◆プラスティックや紙、金属などエコと称して再利用、再処理加工などが厳しく言われる世の中になっているが、逆に見れば使い捨てが当たり前になりすぎて、どこまでが元に戻せるかをためしているような変な商品経済になってしまっているということだと思う。ストローをプラスチックではなくするのも良いが、うんこの再利用をするほうが優先順位が高いのではないかと思えてきた。
◆関野さんのナビゲートで、お二人が現代の問題を語りながらもずーっと昔の人間の営みと現代の営みの大きな変化を見せてくれているようであった。エコとは何だろう。政府や企業の言う「エコ」とは「エゴ」の間違いじゃないかと思えてくる。今の世の中を生きている私たちが、どこまで振り返ればよいのか、またどこまで振り返ることができるのか問われているような、出口を見つけるのが困難な迷路に放り出されたような複雑な気持ちが余韻として残った第一部だった。(北川文夫 岡山)
■昼食休憩のあと、にぎやかに太鼓が響いた。300回記念集会をきっかけに結成された「品行方正楽団」の面々の久々の登場だ。ことし6月に逝去した団員の長野淳子さん(三線担当)を偲んでの選曲。「ステージの背景として演奏する淳子さん、ただ幼く可愛かった長岡祥太郎君の愛らしい姿の写真(いずれも白根全撮影)が」。メンバーは、長岡竜介(ケーナ・ギター)、長岡のり子(ピアノ)、長岡祥太郎(ピアノ・コンガ)、長野亮之介(和太鼓)、白根全(パーカッション)、車谷建太(津軽三味線)、張替鷹介(ヴァイオリン)、大西夏奈子(和太鼓)といった顔ぶれ。
◆寄せ太鼓のあと、淳子さんが好きだった中島みゆきの「糸」を団員たちが演奏しながら歌い、「 アンデスのお祭り」「 満月の夕」とつなげていった。じっと聴き入るとなんだか涙がにじんでくる舞台だった。はじめて聴いた客の中には「ほんとうに感動した。こんな素晴らしい演奏グループが地平線にいたのですかあ!」と心底驚いていた。(E)
先ず初めに40年祭 恋する地平線にて品行方正楽団の演奏をさせていただけました事、またリハーサルよりサポートして下さいました実行委員、スタッフの皆様に楽団一同心より感謝申し上げます。
楽団の歴史をちょっとだけおさらいすると、300か月記念フォーラムのオープニングを飾るべく、長野亮之介(太鼓)、白根全(パーカッション)、大西夏奈子(太鼓)、長岡竜介(ケーナ)の4名で結成されたのが品行方正楽団の始まりです。そこに長野淳子(三線)、車谷建太(津軽三味線)、張替鷹介(ヴァイオリン)、私、長岡のり子(ピアノ)と息子の祥太郎が加わり現在の9名編成になったのが、30周年の時でありました。
当時は仕事を終えて、夕方から我が家のスタジオに集まって練習を重ねたわけですが、練習が終わる頃には全員おなかもぺこぺこに。そこで軽く夕食でおもてなししたのがきっかけで、練習の後にはみんなで食卓を囲むスタイルが楽団の定番となっていきました。
30周年の本番が終わってからも、私の夕食に味をしめたメンバー達は、クリスマス会、忘年会、新年会、誕生日会と口実をつくっては集まり宴を催すこと10年。そうです、この度の楽団紹介で夏奈子さんの告白に衝撃を受けた方がいたと聞きましたが、私達はひたすらに宴会をし続けてきたのです。
ちくわぶに群がったおでん、出汁をひいて作ったキムチ鍋、馬肉のすき焼き、生地から手作りしたピザやタコス、ローストビーフ、韓国薬膳の参鶏湯etc.。宴会料理は「のり子飯」と名付けられ、それぞれに思い出がよみがえります。でも、実は楽団の男性陣もみんな料理上手なのですよ。
楽団の宴会ルールはただ1つ。全員集合すること。食べて飲んで、最後はボードゲームで大いに笑う。練習はいずこへ。昨年淳子さんの病気がわかってからも、変わりなくずっとずっと続けてきたことでした。そんな楽団に転機が訪れたのが今年の6月、私達の大切な家族の淳子さんを失ったときでした。「淳子さん、もっと練習してうまくなりたいって言ってたね」。誰からともなく「40年祭で演奏しようよ」。私達の心が決まるのに、時間も多くの言葉も必要ありませんでした。
「チャンプルー♪ミュージックに恋して」と題したステージでは、結成時からの楽団の代名詞でもある「寄せ太鼓」(太鼓、チャンチキ、津軽三味線のアドリブ〜ヴァイオリンとピアノの情熱大陸〜津軽三味線とケーナのコラボ/40周年スペシャルバージョン)、淳子さんの好きだった言葉の力を感じる2曲「糸」と「満月の夕」、南米の名曲より会場参加型の「アンデスのお祭り」の4曲を演奏しました。
演奏中のスライドは我らが楽団の写真家、全さんが10年間撮りためていたものを鷹介くんの編集でおとどけしました。30周年の時は3才でステージ上をチョロチョロし寝てしまった祥太郎も中1になり、ボンゴ、ピアノ、ボーカルを担当し、楽団にはなくてはならない存在に成長しました。メンバーが抱えていた大変なコンディション、短い練習期間にもかかわらず、この数ヶ月とても濃密な時間を共にし、楽団員の力を結集したステージにすることができたと感じています。私達の伝えたかった「淳子さんと共に音楽を通しての家族感」それがすこしでも皆さんに伝えることができたならば幸いです。
そして、反省会という名の宴会を既に催したことはいうまでもありません。(長岡のり子)
■11月で2歳になる双子。そのひとりを背負って地平線40年祭に参加した。関野さんに抱っこしてもらうと、なぜか大泣き。その後、品行方正楽団の演奏では静かに聞き入っていた息子。生演奏の音楽は、こんなに小さな人にも伝わるんだな、と思いながら、第2部へ。「自分の可能性に恋して」のパートが始まると、どうにも静かにしていられなくなった息子。彼を背負って、立って、聞くことにした。
◆サバイバル登山の服部文祥さん、北米大陸単独横断ランニングの坪井伸吾さん、第一回地平線報告者にして超長距離ランナーの三輪主彦さん、がステージに上がる。まずは3人の行動を紹介。服部さんに促されて、坪井さんが走り始めた経緯を説明した。坪井さんの走り旅は、肩肘張らない自然体。2005年、4ヶ月かけて北米大陸を5400km走って横断。
◆それ以降は24時間走とか、ここ数年は河口湖のマラソン大会に毎年出場する程度。無理していないから、特に怪我はないという。それに対して、服部さんはここ2年ほど膝が痛くて苦労しているそうだ。つづいて三輪さんの走りの経歴へ。三輪さんが第一回地平線会議で報告した頃には、すでに日常的に走っていた。トルコに滞在していたときのこと。街中で走ると地元の人に警戒されて走りにくく、郊外なら大丈夫かと思って、都市部を離れて走っていたら、野良犬に追いかけられて走りにくかった。
◆坪井さんもアメリカ走り旅ではこっそりテントを張っていても犬に気付かれてしまうから嫌だったと。野良犬はランナーにとって宿敵なのか、と感じながら聞いていたら、服部さんがぼそっと一言、「叩いて食ってしまえばいいんですけどね」。「犬は食ったことないけど、狐はうまいから犬もきっとうまいですよ」と。一人ひとりの強烈な体験がさらっと触れ合う。
◆服部さんは山登りの延長線上で釣りや狩猟をやっている。若い頃からアスリートレベルの高い活動をしたいと思っていた。陸上競技で求めているのは、強さと速さ。距離の長さではない。 専門は中距離走の400m、800m、1500m。それに加えて3000m、5000mに取り組んでいる。人間の身体がどこまでやれるのか、自分自身で表現したいと考えていた。
◆しかし、それができたのは40歳過ぎぐらいまで。42〜43歳の頃に自己ベストが永遠に出ないだろうな、と実感したあたりから、「自分がゆっくりと、死んでいっているような気持ちがしている」。それ以降は良くて平行線、微妙に下がっている。せっかく積み上げていたものを失うのが嫌で、一生懸命アンチエイジングでトレーニングをしている、というのが現状だそうだ。
◆服部さんから「どうです? そういうこと、します?」という話のバトンを受けて、坪井さんの走り歴に。「そんな哲学ないんですよね」と坪井さん。走るスタンスが根本的に違うようだ。はっきり言ってそんなに努力していないと。学生時代にぶっつけ本番で完走した、初めてのフルマラソンは感動した。しかし、翌年練習して1時間もタイムを縮めたのに、その時は感動しなかった
◆その後、走るのを中断していた40歳くらいの頃、原稿ばかり書いて運動をあまりしていなかったところ、家の階段の昇り降りで膝が痛くなってしまったそうだ。それで少し運動をしようと思い、ランニングシューズを買って、走りを再開。100kmマラソンの存在を知り、どこまで行けるのか、と参加してみると完走できてしまった。100kmの先、どこまで行けるのか知りたいという思いが、アメリカ大陸横断ランニングに繋がっていった。「だからそんなに努力してないんです」と。
◆服部さんからの「坪井さんが求めるものはタイムではなく距離なんですね」との問いに「距離というよりも面白ければいいな」という思いで行動していると。北米大陸横断の時は、毎日が自己記録の更新で、同じ日は一度もなかった。ゴールの時は、感動よりも走り終わって寂しいな、という思いの方が強かったそうだ。
◆続いて、三輪さんが中距離走に取り組んでいた頃の話に。「今はっきり覚えていないけれど、1500mを4分20秒台で走っていたはずなんですよ」と三輪さんがいうと、間髪入れず服部さんが「速いじゃないですか、僕1500m4分25秒台で45歳以上の横浜市記録持ってるんです」と。そのスピードにもかかわらず、三輪さんが朝霞市民運動会で3000m走に出た時は、9人中最下位。大東文化大学の連中が速くて、「町内会で1位になるのは大変だなと思ったんです」という言葉に、会場からは笑いが。
◆ハセツネカップでも50歳の部で6位になり、総合でも30台の順位。シルクロード走り旅の中山嘉太郎さんよりも速かったそうだ。高校の先生をやっていた三輪さんは、高校生に競争を挑まれても最初は負けなかった。しかし、45歳頃を境に負けると悔しいからやらなくなった。その頃から、超長距離を走るようになったそうだ。三輪さんが「江本さんも速くて5000mを17分で走るんです」というと、服部さんはここでも間髪入れず、「『走った』んですね、そこ重要ですからね」と。
◆話は、身体測定の数値と山走りのタイムについてへ。ある時、鹿屋体育大学の山本先生の研究の一環で、三輪さんと江本さん、そして若者の身体を測定して比較したそうだ。組織や身体能力の数値では、若者の方が明らかに優れているのに、山走りでは三輪さんの方が断トツ速かった。無理して頑張ったわけでもないのに、タイムは1時間以上の差がついた。結局、科学的な説明はつかず、わからないけど年寄りには山が合っているのだろう、という話になったそうだ。
◆坪井さんの走りのコツは、悩まないこと。「疲れてきたら、何のためにやっているんだろうとか考えてしまうんだけど、考えなければいい」という坪井さんの言葉に対して、「僕、行動の意味を考えて言葉にして売っているんで」と服部さん。行動に対する根本的な違いがここにも現れている。服部さんの「ゆっくりと死んでいるかもしれない説」は間違っているのか? 三輪さんから、「ゆっくり死んでいるんだよ、それはしかたないんだけど」と。先日、お遍路さんの道をたどった1200kmでも身体の衰えを感じた。でも、坪井さんの説で言うところの「あぁ衰えてるな、と思うだけで、悩まないんですよ」。
◆服部さんは40歳の時、800mで40歳以上の部で日本一になった。45歳の部では日本一になれなかったので、50歳の部では再び日本一になりたい。できれば日本記録も出したいそうだ。本気でトレーニングしてスポーツを続けていると、いつかは身体が壊れていく。坪井さんのように、悩まず無理しないのが、長く走り続けるコツなのか。「はっきり言ってトレーニングはしていないです」と坪井さん。結局、アメリカ大陸横断では、走る力よりも、必要なのは人に対するサバイバル能力だった。
◆目標を定めてトレーニングし、身体の衰えに抗う服部さん。その場、その時に順応していき、なんとかなるよと北米大陸を走りきった坪井さん。中長距離で強く速い走りから、ゆっくり超長距離へ、悩まない走りに至った三輪さん。行動のスタンスが根本的に違う、服部さんと坪井さん。そのあいだを三輪さんがつなぎ役となって、時間とともに鼎談の場がほぐれていき、本音が交わっていったように感じた。
◆残り10分、江本さんからの呼びかけで田中幹也さんがステージにあがる。ここ数年、気がつくと台風という厳しい自然条件の山を経験している、ような状況。「地平線で報告者にもなった山岳天気予報の猪熊さん、彼は彼でいいんだけど、彼が大雨強風の予報を出すと、みんなが下山しちゃう。そういうのって、なんかつまんない」。幹也さんが台風の時にテントを張る場所は、基本的に森林限界の上で、尚かつ風当たりが強いところだそうだ。
◆「登山は道のないところを登るものなのに、日本では登山道を外れると怒られる。本来、登山道を登るのって、ただのレクリエーションであって、登山って言わないんですよね」と服部さんがいうと、すかさず「登山道は走るもの」と三輪さん。そして幹也さんは「台風のときも、夏の登山道は登山と言えるんじゃないですかね」と。この掛け合いが面白くて、会場の笑いを誘っていた。
◆しかし、世間の常識ではなく、自分自身の価値観で行動を捉えている人同士が、本音で語っている言葉だと感じた。「道をたどるのは登山とは言いません」と服部さんが締めくくった。幹也さんも「ズバリそう思う」。服部さん、坪井さん、三輪さん、幹也さん、これだけのキャストが一つの場で語り合った約53分間。会場に居られることをとても幸せに思いながら、話の展開に聞き入っているうちに、あっという間に第2部は終わってしまった。(いまは3児の父 山本豊人)
「地平線トリビア」は〇×クイズ形式で、地平線会議の40年のあれやこれやを振り返る、ヤケッパチのお祭り企画でした。会場に座っている全員(が強制)参加で、地平線にまつわるマニアでカルトな22問に挑戦。配布された解答用紙に〇か×を記入、加えて〇か×の用紙を掲げ、答えが出たところで解答用紙に回答を自己採点してゆくという、けっこう大変な作業を繰り返しました。
司会は丸山純さんで、アシスタントに加藤千晶。舞台上では、有識回答者に指名された岡村隆さんと菊地由美子さんが〇と×を回答。問題は地平線の創設期、中期、現在に分かれており、1問目からして、なんだかいじわる。意外と初期の問題を間違えたりする岡村さん(わざとかも)と、勘よく正解する菊地さん。問題にちなんで、会場にいる花岡正明さんや岸本佳則さんなどにマイクが運ばれ、少しずつ当時のエピソードなどを聞きながら進みました。
〇×だけでは簡単すぎでは?と途中で「三択クイズ」も登場。問題はかなりマニアックで、このあと正解数の多かった10人が前に出ての勝負に。ここには三輪主彦さんや久保田賢次さん、西牟田靖さん、多胡歩未さんのお子さんの天俐(あまり)さんの姿も。最後は岡村さんだけが答えを知っているドッキリ問題で、会場で答えが明かされました。結果、20問の正解で江本嘉伸さんが優勝、「地平線トリビア王」になるという、当然といえば当然の結果に。これには江本さんも「え、いいの」という反応でしたが、江本さん以上に地平線愛にあふれた人間はいない。むしろ、江本さんがならなくてどうする!
とかいうわけで、菊地さんからトリビア帽と賞状の授与が。トリビア帽は長野さんが<卒業式の授与式の帽子>をイメージしてつくってくださった素敵なもので、文面のかっこいい賞状は久島弘さんの作品でした。
この通信に全問題がどーんと載っておりますので、ぜひ江本トリビア王に挑戦を! 打倒、エモジョンイル〜! ちなみに回収された解答用紙の中で、次点の成績優秀者は17問正解の埜口保男さんと飯野昭司さんでした。すごいぞっ!(加藤千晶)
第1問
地平線会議誕生の頃、創設メンバーたちが集った四谷一丁目にある喫茶店の名前は「オハラ」である。
第2問
地平線会議は創設当時「放送局」を持っていて、“番組”を「全国に向けて放送」していた。
第3問
地平線会議の柱だった探検年報『地平線から』の刊行。『1979』から『第八巻』まで、「森田靖郎さん」が「編集長」を務めた。
第4問
創設当時の地平線会議、「代表世話人」は「江本嘉伸さん」と「宮本千晴さん」の二人体制だった。
第5問
1979年9月の「第1回地平線報告会」(三輪主彦さん)の参加費も、今と同じ「1人500円」だった。
第6問
皇居一周など、1989年から19回続いた「地平線マラソン」。その最多優勝者は「三輪主彦さん」である。
第7問
ますます味が奥深くなったと大評判。江本嘉伸さんの得意料理「エモカレー」に 絶対欠かせない野菜は「ジャガイモ」である。
第8問
報告会二次会でおなじみ、中華料理「北京」のご店主(ママ)。彼女の一番好きなメニューは、もちろん「あの餃子」である。
第9問
「初めて東京を離れて」開催された地平線報告会は、阪神・淡路大震災を経ての「拡大大阪集会」(1996年8月)である。
第10問
これまでの地平線報告会のなかで「最年長報告者」は、傘寿の80歳で報告した「金井重さん」である。
第11問
「最年少報告者」は2018年4月の報告会に登場した「下川知恵さん」である。
第12問
地平線の「関西メンバーご用達」の食堂の名前は「カンテラ食堂」である。
第13問
2004年12月以降の全地平線通信のフロントを収録した「風趣狩伝」。江本嘉伸さん以外で執筆したのは何人?
1)1人/2)5人/3)16人
第14問
スリランカの密林遺跡調査隊の隊長の岡村隆さんが「現地で愛用」している服の「ブランド」は?
1)ノースフェイス 2)モンベル 3)山本寛斎
第15問
地平線会議の初期、ある「有名雑誌」で毎号、地平線関係の「記事を連載」していたことがある。その雑誌の名前は?
1)BE-PAL 2)Number 3)山と溪谷
第16問
地平線会議の前身は、民俗学者・宮本常一さん主宰の「観文研」(日本観光文化研究所)である。
第17問
報告会の予告イラストで似顔絵を毎月描く長野亮之介画伯。何度もXXXXX丸出しのすっぽんぽんで描かれるのは、「服部文祥さん」である。
第18問
地平線報告会で一番最初に楽器を演奏したのは第122回(1989.12.22)の「長岡竜介さん」である。
第19問
発足後、毎月欠かさず発行されてきた「地平線通信」(祝!474号)。じつは歴代の編集長の中に「女性」がいた。
第20問
高世夫妻、難波夫妻、多胡夫妻、丸山夫妻……数々の出会いと恋が生まれた地平線報告会や記念大集会。久島弘さんと掛須美奈子さんが最初に出会ったのは、日高町(当時)の「植村直己冒険館」である。
第21問
かつては二次会がなく、報告会終了後はあちこちの居酒屋に流れた。沿線の名前を取って、これを「山手線会議」と呼ぶ。
第22問
編集者だった岡村隆さんは、冒険小説の「作家」となったが、奥様に「あなたは『ラブシーン』の書き方が下手ね」と言われて、2冊出しただけで「断念」した。
地平線40周年、おめでとうございます。
私が地平線会議と最初に関わったのは、たしか1988年か1989年頃。現在は沖縄にいる、ライダー仲間のはるみちゃん、Aくんの3人で「賀曽利さんに会えるかも」と報告会に参加したのがきっかけです。たしか、吉田敏浩氏のミャンマー・カチン族の話でした。うわあ、もう30年前になるんですね! それ以後、私も旅の報告を何度かさせていただいたり、最近では福島のことを発言させてもらったり、いろいろとお世話になっています。ありがとうございます。
ここのところはご無沙汰しているものの、私にとって古巣のような地平線会議。その40年記念集会となれば顔を出さないないわけにはいきません。万障繰り合わせて、午後から御邪魔させていただきました。隣席は岐阜県高山市から参加、地平線同期の中畑朋子さん、その隣は高世泉さん。逆側には久島夫妻という、やはり古くからの面々が。壇上では、服部文祥さん、坪井伸吾さん、三輪先生がトークを繰り広げているところで、そのうち田中幹也さんが乱入し何をしでかすかハラハラしつつも、なんとか無事に終わってホッ。
その後、満を持して始まったのが「地平線トリビア ヤケッパチだヨ 大クイズ大会」。会場に居る全員が参加できる企画で、けっこう盛り上がりましたね〜(ちなみに、「トリビア」とは雑学的な知識、豆知識のことです<wikipediaより>。最近やたらと横文字言葉が横行しているとお嘆きの方々、そういうことですので)。
それぞれの問題に各人に配られた青○か赤×かのカードを上げて答えるやり方でわかりやすかったし、各質問の答えのあとに詳しく解説が入ったり、会場からいろいろな人が引っ張り出されてエンターテインメントとしても楽しめました。
それにしても、今更ながら知った新たな事実がいっぱいでした。
地平線会議って、「観光文化研究所」が前身じゃなくて大学探検部による「全国学生探検報告会」から発展したんですか! えっ? 地平線通信に女性編集長がいたの? しかもすぐ隣に座っている中畑さん! 全然知らなかったよ。岡村さんがスリランカ密林遺跡調査で愛用しているブランドが、まさかの「山本寛斎」! 有名雑誌の「Number」に地平線会議のコーナーがあったとは! 長野亮之介画伯が関野さんを毎回、裸の猿の姿で描く理由や、報告会の最年少発表者が17歳(18歳?)で最高齢が93歳などなど、興味深いことだらけ。地平線テレフォンサービスはぜひ聞いてみたかったなあ。
一方、懐かしい思い出もいくつか登場。地平線マラソンの問題では、「第一回地平線マラソン」の順位リストが大きく映し出され、その中に私の名前を見つけたときは、あの時代がいきなりフラッシュバック! まだ東京の実家に居候していた頃なので、地平線のイベントにもけっこう参加していたんですね。このときは女性トップだったけれど、その次の回で、三輪先生の奥様にゴール直前で抜かされて女性2位になってしまって悔しかったんだっけ。地平線マラソン、一時は盛り上がったのに、最後の19回目の参加者がたった2人というさみしい終わり方だったとは、悲しいです。
年報「地平線から」の問題では、白根全編集長が登場。先輩諸氏から編集長を押し付けられた経緯を語っていましたが、そんなことより、Vo.9のほうは一体、どうなっているんでしょうか。Vol.8が出たすぐ後、編集長の命令で新聞記事を切り抜いたりいろいろやった覚えがあるんですけどー。インターネットなどない時代なのでけっこう大変だったんですけど。同じく苦労したと主張していた熊沢さんが「最新号いかがですかあ〜」と、「地平線から Vol・8」をヤケッパチ気味で売り歩いてましたが、在庫はまだまだあるんでしょうか。
という感じで、楽しく盛り上がりながらトリビア終了〜。
司会の丸山さん、ちょっととぼけた感じの加藤ちあきちゃんのコンビもよかったです。ちあきちゃんが読めなかった三輪先生の名前、「主彦(かずひこ)」もトリビアになったかも? 創設期メンバーの岡村さんと新しい世代の菊地由美子さんの凸凹コンビをゲスト回答者として壇上に上げたのも、いいアイデアだったと思います。ちなみに、お2人とも正解14〜15問と好成績。トリビア王は20問正解の江本さん。予想通りで面白くないですが、どの問題を間違ったのかが気になるところです。私はといえば、22 問中正解11問。あてずっぽうで答えた問題もあったから、実際は3割くらいしかわからなかったということになります。30年も関わっているんだから、けっこうイケると思ったのに〜。中畑さんは15問正解。一番成績悪いじゃん、ワタシ。
というわけで、出来が悪かった私の解答用紙は提出せずに、持ち帰ってしまいました。悪しからず。(滝野沢優子)
第1問 →×
正解は「オハラII」。オハラとオハラIIがあって、間違える人もいた。オハラIIの奥は大きなテーブルがある個室になっていた。
第2問 →○
当時まだ珍しかった留守番電話を使った150秒のテレフォンサービス「地平線報告会」で、報告会の予告や実況、旅から帰った人のインタビューなどを流していた。1年半ほどのあいだに全部で112本の「番組」が制作され、それをテープ起こしした『地平線放送だより』も刊行。放送やインタビューをカセットテープにまとめた「地平線放送テープ」も販売された。番組一覧が地平線のウェブサイトに掲載されている。
第3問 →×
『地平線から・1979』から『1983』までの5冊は森田靖郎さんが編集長だったが、『vol.6』から『第八巻』までの3冊は白根全さんが編集長を務めた。
第4問 →×
代表世話人は二人体制で、そのうちの一人が交替する(つまり任期は2年)。初年度は宮本千晴さんと三輪主彦さん。2年目が三輪さんと江本嘉伸さん、3年目が江本さんと惠谷治さん……というように代わっていった。
第5問 →○
一切値上げなしの500円でやってきた。
第6問 →×
第1回は花岡正明さんがぶっちぎりで優勝。以後も花岡さんが11回優勝、江本嘉伸さん、三輪主彦さん、樫田秀樹さん、岸本佳則さんが1回ずつ。乳母車部門、ジーパン部門などユニークな部門が続々誕生。最後となった「第19回」は「地平線神谷氏御成婚記念マラソン」で、参加者が2人! 『地平線データブック・DAS』のiv-33ページ以降に地平線マラソンの全記録と走者のコメントが収録されている。拡大神戸集会では松田仁志さんが優勝。
第7問 →×
ジャガイモは入らない。とくにゴーヤ、オクラをたっぷり入れるのが特徴。
第8問 →×
餃子ではなく、以下の4品。きくらげ玉子、なす味噌、海鮮焼きそば、ジャージャー麺。
第9問 →×
「阪神・淡路大震災を経て」なので、当然「拡大神戸集会」。1996年8月24日の第201回。会場は神戸市青少年会館。岸本佳則さんの熱意で、初めて東京を飛び出した。
第10問 →×
野元甚蔵さんが2010年5月に「ノムタイの宇宙――70年前のチベットから日本へ」と題して、93歳で報告している。金井重さんは80歳(2007年9月20日=重さんの80歳のお誕生日)で、「祝傘寿猶在旅途上――シゲ旅の現在・過去・未来」として登場。
第11問 →×
平田オリザさん(1981年3月・第18回「530日間世界一周」)と田口真樹子さん(1988年8月・第106回「旅は風来坊のように」)が18歳で登場しているが、田口さんの生年月日がわからず、どちらが最年少かは判断できなかった。
第12問 →×
「テンカラ食堂」が正解。「天から」が由来。
第13問 →3)16人
関野吉晴さん、三輪主彦さん、河田真智子さん、丸山純さん、角幡唯介さんら、16人(のべ)。
第14問 →3)山本寛斎
山本寛斎の「ワークマン」というシリーズ。
第15問 →2)Number
Numberの創刊準備号(0号)から「Advernture」というページを持っていた。主に岡村隆さんと惠谷治さんが執筆。創刊号(1号)には、地平線会議発足の記事も。
第16問 →×
渡邉久樹さん(日大)、山田高司さん(農大)、河村安彦さん(獨協)、浅野哲哉(法政)らの大学探検部の現役や若手OBが呼びかけ人となって、1978年12月2〜4日、「全国学生探検報告会」が開かれた。これにオブザーバーとして参加した江本嘉伸さんと宮本千晴さん、岡村隆さんらが、探検情報の集積や人的ネットワーク充実の必要性を痛感。79年8月17日に山岳部・探検部OBたちが江本家に集まり、そこに観文研のメンバーたちも合流して、地平線会議の設立となった。
第17問 →×
服部文祥さんのイラスト(2009年1月の「シアワセへのサバイバル」)が強烈なイメージとなっているが、じつは関野吉晴さんは何度もすっぽんぽんで描かれている。一度そのイメージが浮かんでしまうと、長野画伯はどうしても繰り返し脳裏に浮かんできてついつい描いてしまうという。
第18問 →×
第5回地平線報告会(1980年1月)で、当時まだ学生だった丸山純さんがカラーシャ族の斜め笛で結婚式の旋律を披露。さらに同じ笛で「コンドルは飛んでいく」も演奏した。
第19問 →○
中畑朋子さんが編集長を務めた時期がある。当時は、武田力さんがレイアウトを担当していた。
第20問 →○
ご両人ともはっきり記憶してないそうだが、出会いが「植村直己冒険館」であることは間違いないという。
第21問 →×
アジア会館からまず新宿西口のションベン横丁(現・思い出横丁)に流れ、さらに高円寺や荻窪などで三次会をやっていたので、「中央線会議」と呼ばれた。
第22問 →○
当日、この瞬間まで出題側の誰も正解を知らなかったファイナル・クエスチョン。いきなり飛び出した質問に苦笑しながら岡村さんが出してくれた答えは「○」。それだけじゃないけど、そういう要素もたしかにある、とのこと。
「地平線トリビア」は当日までの裏っかわが、ヤケッパチの祭り状態でした。案が出たのは、江本さんのお宅(この場所で、どれだけの人と人との交流があって、色々なものが生まれていったのか)。江本さん、丸山さん、長野さん、武田力さん、落合大祐さんという、長い間、そしていまの地平線会議をひっぱってきた方々が揃って、40年祭りの話をされていた時でした。
美味しい「エモ料理」の数々(この日のメインはエモカレーではなくエモハンバーグシチュー)と本物のビールにわたしは楽しく酔っ払い、祭りだったら大宴会したいとか盆踊りしたいとか、好き勝手なことを言った。そのうち「地平線トリビア」(丸山さん命名)が出てきたのでした。すると「これは問題になるんじゃない?」なんて話になり、どうして江本さんはあのカオスな状態の部屋からぱっと見つけられるのか。地平線会議発足時に作った趣意書やそのメモ書き、最初のはがき通信などお宝資料がどんどん机の前に。誕生前夜の話、江本さん不在時代の持ち回りで報告会をコーディネートしていた時の話など。どのお話もいまなお色鮮やかで、本当だったらそういう話を、わたしは楽しく呑みながらへえーっと聞いていたいのです。
「トリビアは酒の席の話だと思ってた」(by落合さん)はずなのに、紆余曲折あってプログラムの中に滑り込むことに。ひやー、どうしよう……。時間がない中「100問、候補を作るべし!」とはっぱをかけてくださったのはスパルタ武田さん。中島ねこさん、岸本実千代さん、中畑朋子さん、大西夏奈子さんらと「トリビア問題」チームを結成。問題制作のため『地平線データブック・DAS』などを読んで、あらためて感じたのは、当時の方々の恐ろしいほどの行動力や、さらにそれを記録として残すという熱意でした。なんなんだ、この人たちは。大集会や祭りみたいなことを年に何回もやっているじゃないか。超人過ぎる……。
こっちはそんなことできないよ〜。とか思っているうちに、気づけばもう本番数日前。ヤケッパチになっていたところ、やさしい光菅修さん(影のMVP!)がスライド制作を、前夜祭の前日には見るに見かねて救世主現る! 丸山さんが司会を引き受けてくださることに。ここから、問題のシェイプアップや問題用紙作成、進行など、頭も身体もフル稼働の丸山さん。窮地にこそ、輝いて見える丸山さん……(どうかどうか、長生きしてください)。
3分映画祭のあとに〇×の紙を印刷したり、二次会が終わってから前田庄司さん(二日にわたってずっとスライド操作。たいへん)も含めて打ち合わせしたり。深夜には泥酔のわたしの代わりに野宿党の仲間たちが〇×用紙の袋詰めをしてくれるわ、当日も光菅さんは照明を担当しながらスライドを直しているわ。地平線は「ブラック企業のようなもの」とこっそり思っていたのですが、いやもうはっきりとそう思った次第です(今回は、自分がみなさまに多大なご負担を……)。でも(だからか?)祭りの後のビールは、めちゃくちゃ美味しかった!
(第13問目の人数を数え間違えちゃったような。『風趣狩伝』を買って、確認してください〜。 加藤千晶)
■今回は全体をちゃんと聞けなかったので、感想を言う資格はありません。40年も報告会をやってきたってすごいです。安心感があります。でも、破綻や場外乱闘があってもいいじゃないかとも思いました。
◆会場を見渡すと見知った顔ばかりでした。私が地平線会議に顔を出し始めた頃、参加者の中でほぼ最年少だったと思います。それから20年近く経っているのですが、小学生を除けば、この日も壇上・客席を含めて最年少の部類でした。みんな大人だからケンカも起きません。
◆「よそ者、若者、ばか者」が地方を救うなどと言われます。もちろん、その考え自体にも疑う余地があるかもしれません。ただ、少なくとも創成期を知っている長老だけでなく、今日初めて来たような若者の話も聞いてみたいなあと思うのです。(菊地由美子)
■第3部「森と川に恋して」は、江本さんの進行のもと、四万十の主、山田高司さんの南米、アフリカでの探検の軌跡を聞きつつ、後半は山仕事グループ「五反舎」を率いる長野亮之介さんを交えて、なぜ山仕事に打ち込むのかが語られた。京都から来場した木のおもちゃ作家、多胡歩未さんも飛び入り参加し共感の拍手を浴びた。
◆「中にどっぷりというよりは、外に出たりしながらずっと地平線会議を見続けていた彼だから出てもらいたかった」と江本さん。東京農大探検部の山田さんが地平線会議と関わりを持ったのは二十歳のとき。「先輩がいなかったので2年の僕がリーダーでした。報告会をやりたいという主旨で来るようにと、やわらかかったけど、行かないとまずいような感じで呼ばれた記憶があります。江本さんが主旨を話されるのですが、アフリカの話や南極の話など、熱いんですが、みんな勝手に自分のことを話していて」と、なんだか情景が想像できそうな山田さんの軽妙な語りに、会場は初っ端から笑いに包まれた。
◆「トリニダード・トバコからゴールはブエノスアイレス。ラプラタ川の河口、天然の運河を抜けてアマゾンに出て、また支流を上りラプラタ川の源流に出てと約1万キロを行くルートでした」と、南米三大河川の話にわくわく感も高まる。だが、そこで強盗にやられてしまう。「情けない話で。オリノコ川の河口にカヌーを買いにいったんですが、強盗の巣窟だったらしいです。そこにのこのこカヌーを売ってくれないかなあって。服もとられパンツ一丁に」。警察へ行ったら「お前ら日本人だろう。なんで空手でやっつけなかったんだ」って言われたとの話にさらに大きな笑いが。帰ってすぐアフリカへ。
◆「川をつないで世界を一周する計画を立てていたんです。アフリカを手始めに5年から10年ぐらいやって、その先はまた考えようということで。南米が終わったのが82年。大学を出て嬬恋村のキャベツ畑や新宿の青果市場で働いたりと、お金を貯めて出かけたのが85年」と当時を振り返る。アフリカの五大河川を結んで行く計画だったが、300万とか400万の数の餓死者が出ている頃で、「なんでのこのこ川下りに行くんだ」と非難も受けた。
◆治安が悪かったりで国境が閉鎖していると、パリとかロンドンに行ってアルバイトをして、国境が開いたらまた行くという繰り返し。ナイル源流近くまで行っていたが、源流のスーダンにはどうやったら行けるかと調べて、砂漠化防止の植林NGOの活動を知ったのが植林との縁となる。「今日、山田さんを引っ張り出した理由は、川よ森よ地球よというタイトルの原稿をくれたことがあるから」と江本さんがふり、森の話題に。
◆「木を植え、林を育て、森を愛で、川に託し、海に恋し、星を思うといったサブタイトルで結構読みごたえがあり、若い人に向けて少年時代の話をしてもらいたいと思ったんです。こういう生き方は日本の宝だなという気がしている」と江本さん。「2000年かな」と、山田さんは地元、四万十の村の成人式で話をした思い出をふり返る。「青い星の川を旅して、木を植えてという題で、20歳になった子どもたちに、川を旅して木を植えた20年分の話をしたら、荒れる成人式の時代だったのですが熱心に聞いてくれた」という。
◆「お宮が一つあって横によろず屋があったんですが、小遣いをもらっても買うようなものはなかった。ただ、飛んでるもの、走ってるもの、泳いでるもの、生えてるものがそこいらじゅうにあり、調べて食えるものは全部さばいて食い始めたのが物心ついてから。先輩を見習ってやってましたね。縄文の人たちが狩猟、採取を年上の人から習うように」という山田さんの子どもの頃のエピソードに、「ローカルで生き抜いてきた人がうらやましい。出てくる知恵というか思想というか判断力というか」と江本さんも羨望の声を。
◆90年代初頭はアフリカで植林をやっていた山田さんだが、「機械とか化学物質が入ってくる前の日本の農業、林業のことも勉強しておかなきゃ」と、四万十に帰って生活するうちに、だんだん少年時代のことを思い出した。南米とかアフリカの写真をおじいさん、おばあさんたちに見せると、「わしらも昔はこんなもんやったな」といった会話に。そんな所に育ったことが財産だという。
◆「飢えるアフリカ」を川から見たとき、砂漠化と森林破壊のすごさを感じた。森が砂漠になって飢えて死んでいく子どもたちをいっぱい見た。木を植えることをやっていくうちに、それが仕事にもなった。現在は長野亮之介さんの紹介で、奥多摩の山の調査の仕事をやっているそうだ。
◆「画伯、出てきてくれますか」との江本さんの声で長野さんが登壇。話はまず長野さんが活動している森林ボランティアグループ「五反舎」の意味から。1ヘクタールの半分が大体五反。年に五反ぐらい山の手入れをしたいということから名づけられ、もう20年ぐらいやっている。北大で森林学を専攻し、バイオマスのことでドイツにも行ったことがあるという長野さんは、こう語り始めた。
◆「皆さんご存知かと思うのですが、今、日本の森林の蓄積、木の量がたぶん過去で一番多いんです。戦後は丸裸だったし、日本の山は裸の山のときが多かった。なぜ木が増えているのかというと、木の家を作らなくなった、というか木を使わなくなった」。それに山田さんが応える。「僕が林業に入った20年ぐらい前は、山仕事をやる人の平均が55歳から60歳でした。今は温暖化が人為的なものだと認知されて、防止するには二酸化炭素を吸う森をということで、緑の雇用制度もでき、若い子たちが山仕事に入ってくるようになりましたが、材価はまったく安いまんまです」。
◆続いて会場に座っていた多胡歩未さんも登壇。「私はすごい木が好きだなあ。木材フェチなんです」と楽しそうに語る多胡さんの明るい雰囲気も加わり、壇上はさらににぎやかに(詳しくは多胡さんご本人によるレポートをご覧ください)。
◆話は盛り上がるいっぽうだが残念ながら時間に。最後に三人がそれぞれ思いを語った。まず山田さんは「苗と土地を用意してもらえば木を植えるのは簡単ですが、いい林になるにはたぶん100年。伐ったものを返そうとすれば200年。江戸時代末期に伐って原生林とほとんど変わらないぐらいになっている森が四万十にあるんですが、アメリカの先住民の人が、7世代先を考えて生きろと言っていたのはそういうことかな」と。
◆続いて長野さんは、原発事故が起きた福島に地平線会議で行ったとき、畑だった所が1年ぐらい後にはもう林になり始めていたことを語った。「本当に大きな森になっていくのには100年、200年の単位になるんですが、一方で人間側の森というか、人が景観を作ってきたというのも確かで、例えばアマゾン川って原始の森だと思っていますが、3分の2ぐらいは人間が作っていった風景だという話もある。森を使うということがすごく大事なんだろうなと思います」と。
◆多胡さんも「子どもたちに人間として生きていく力を身につけてほしい、そういう環境がいろんな所にあったらいいなと思っています」と結んだ。江本さんが冒頭で言っていた「外に出たりしながらずっと見続けていた山田さんだから出てもらいたかった」という言葉の意味を改めて感じながら、私も盛大に拍手をしていた。(久保田賢次)
■久々の地平線祭に子連れで馳せ参じました。弾丸スケジュールすぎて、挨拶をしに行っただけみたいなものでしたが、期せずして飛び入りトークをする事になり、言いたい事を言わせていただいてありがとうございました。もっといろんな人と話をしたかったのですが、今回は、顔を出す事(と江本さんに娘を会わせる)が目的だったので、任務完了です。
◆最近の私の活動は、「木のおもちゃを作っている人」の域からはみ出て、森と関わりたくてしょうがない人になっています。「子ども」とか「遊び」とかずっと向き合っているテーマに「森」を追加して、私の想いを乗せて伝えることをしています。子ども達と接していて違和感を感じるのは、好きにしていいよ。と言われて固まってしまう子の多さ。
◆言われた事だけをやっていても生きていける世の中です。特に子どもを取り巻く環境では、自分で考えて行動する機会がなくなってきています。私は、自分で考えて行動するには、想像力が必要だと思っていて、それをいかに引き出すか、育むか、が今やるべき事なのだと思っています。そのツールとして、「木のおもちゃ」や「森」が必要なのです。
◆最近、子ども達を森へ連れて行って、自分たちで好きな事をさせるという活動をしています。材料を集めて焚き火をするのも、食事の用意も子ども達だけでやります。カニをとったり、鬼ごっこしたり、竹を伐ったり、隣のボランティアのおっちゃん達に交渉して道具も借りてくるし、やり方を教えてもらうし、時には食材をもらってきたり。全部自分達でやっています。
◆そろそろイノシシがかかる時期なので、子ども達、どうするんだろ……とか密かに思っています。想像力は本来子どもがふんだんに持ち合わせている能力なので、それを使える環境を整えてあげるとあっという間に開花します。
◆今、私は森を作りたいというビジョンに向かっています。私の描いている森は、学ぶ場や遊ぶ場、仕事場がちゃんとあって、人と経済とエネルギーが循環している森です。これらが揃っていれば、人々は街に依存することなく、森の中でも過ごせると思うのです。今、それが街にあるから、人は街へ行かざるを得ないのでは?という発想です。自然と共に生きること。人間も大いなる自然の一部でしかない事を思い出してほしい。そんな環境にいれば、想像力なんて勝手に膨張するし、それが今の子ども達には何よりも必要なのではないかと思っています。
◆久しぶりに地平線の皆さんにお会いして思った事は、相変わらずとても大事なことに勝手に気づかせてもらえる場であるということ。原点なのだなぁと改めて思いました。それに、自分ではめっちゃオトナになったぜぃっ! と思っていたのに、結局20年前と変わらないパッションで生きているのだという事も。(多胡歩未 京都府)
僕はたまたま岡村隆君たちや、学生探険報告会に集まった学生さんたちよりも年上だったから、その分余計な経験があったんです。その余計な分、地平線会議につながるいわば前史をごく私的な視点でお話しさせてください。
振り返ってみると、やっぱり一番大きかったのは、向後元彦かなという気がします。地平線会議設立のときには日本にいなかったから関わってはいないんですが、前史の中では大きい。向後は学生時代にヒマラヤを登山隊としても登っているし、たったひとりで、探検的なルートをいくつも辿って、トウモロコシとじゃがいもだけ、ポーターひとりだけという格好で歩きまわってもいたんです。これは僕らも含めヒマラヤの第三世代だなあと当時みんな認識していました。第一世代は、槇有恒さんを隊長として京大のOBたちだとか、戦前からヒマラヤへ行きたかったような人たちが出かけていって、なんとか大きな山に登った。
そのあと、薫陶は受けていたけれども連れていってはもらえなかった本多勝一さんや元気のよかった先輩たちが、自分たちで活路を開いた。我々はその下、第三世代、その他大勢の先っぱしりです。1961年から63年くらいに出かけた連中ですか。日本の盛り上がりの中でちょうどそういうことをやりたがる年代、世代にいたわけです。まだ外貨を得るためには五省庁からなる審議会を通らねばならなかったので、学術を名乗ったり、派遣組織をでっちあげたりという経験もした。それがまもなく始まる、外貨を1000ドルだけもって一人でも出かけられる多彩な第四世代との違いかと思います。
出かけたのは多くがヒマラヤですが、帰ってきて、何かうずうずしてしょうがないわけですよ。で集まってガチャガチャ、こういう(世界や自身についての)発見と思考にみちた面白さをもっとみんなに広げられないか、もっと世界に伍せるようなレベルに行けないのかって。とくによくしゃべってたのは農大の向後と東海大の星野紀夫だったでしょう。上に恐い先輩たちが一杯いる京都の連中と違って、恐いもの知らずです。
で、勢いあまって日本探検協会なるものを作ってしまった。発起人にとか賛同とかは、今西錦司、西堀栄三郎、川喜田二郎、梅棹忠夫などビックネームがずらずら並んで、早稲田の大隈講堂だったかを借りて2日か3日かけて何かやったんです。やったけれども、それで息が切れた。
では何をやるか。向後が誰かとの話の中で、南極のビンソンマシフは七大陸の最高峰でまだ登られていない山だと気がついた。あれに登ろうよ、と、声を掛けたら卒業してほどない若造ばっかり、北大から九大、韓国まで9つの大学のOB11人が集まりました。デンマークの砕氷船をチャーターする見積を取ったり、すでにパイロットになっていた山本恵志郎に飛ばせて自力でアルゼンチンからアプローチする検討をしたり、アメリカの南極探検家フィン・ロネを招いてコーチを受けたり。リーダーを引き受けてもらおうと学習院の木下是雄先生を一生懸命口説いたり……。ですが肝心の金の話が進まない。最後には西堀先生が東大総長の茅誠司先生を口説いてアメリカの南極探険の元締めNSFあてに援助の要請を出してくださった。アメリカの南極基地に通う飛行機に途中まで便乗させてもらえないかという話です。結局、協力してやってもいいよという返事が来たんですが、それはビンソンをねらっていたアメリカのいくつかのグループが合同でチームを作り、最初に登っちゃった後のことでした。がっくり来て、やめちゃった。
そういう流れがあって、苦い反省を胸に抱えて、11人の多くはそれぞれいろんな道を模索することになりました。向後は探検の本場イギリスへ行って勉強してこなければだめだと言って、ロンドンへ行った。奥さんと一緒に。そこで赤んぼをこしらえて。
僕はあまりに地力が足りないと反省していましたから、東海大学極地研究会の街道憲久君や礒野哲志君らからカナダの北極圏に行く相談を受けたとき、この新しい若い仲間たちと5年くらいかけて極地の探険を基本から身につけていきたいなと思った。で、勤め先(後で述べる観文研)を休職して、一次隊の現地隊長として参加し、晩夏から厳冬の2月まで互いに数百〜千キロも離れた土地でひとりひとり極地の冬で修行することになるわけです。そして厳冬期も魚を捕りながら自分と犬を養う力を身につけた礒野が引き続き二次隊に加わります。
二次隊の隊長はビンソンの仲間だった京大AACKの宮木靖雅。三次隊の隊長は同じくビンソン仲間で都立大先輩の伊藤尤士さん。二次隊は氷雪の春の間はめざましい活動ぶりでした。しかし夏の氷海で隊長と礒野と中庭和之君が姿を消します。またも地力不足でした。
話を少し戻します。日本探険協会だのビンソンだのにうつつを抜かしている間も、私には結婚したい人がいたもんですから、食えるようになることが課題でした。大学院に席をおいてセールスやらなにやらもがいていましたら、ちょうど父が近畿日本ツーリストに頼まれて、資料室というささやかな場(のちの観文研=日本観光文化研究所)を作ることになり、俺はほとんど行けないからおまえ支度しろといわれました。見かねたのでしょう。
旅行に新しい地平を開きたい。父には父の構想があったのでしょうが、僕にも僕の考えがある。いずれにせよゼロから立ち上げる話です。頼りは自分の体験と思考。自分のヒマラヤ登山やネパールの僻地の探査行で経験した、体験し、発見し、考えることの面白さです。いや、その前の山や山岳部の体験も大きいですね。みなと山に登ったり、雪氷の岩壁から落ちて死にそこなったり、体を動かすことで知った人間の感性と死のこと。もっと大きかったのはさまざまに違う仲間のかけがえのなさですか。優劣ではない、その人がその人として存在していることの価値。
結果として17年間、集まった人たちともども食うや食わずの境あたりで苦闘をつづけるはめになります。見返りに多くの若い仲間を得るという幸運に恵まれました。
金のないところでしたから、非常に難しかったんです。しかし次第に少しはみ出してしまった若い人たちが、自分で面白がり、こだわり、大事だと思い、追求しつづけようとする感性と力を当てにすることができるようになりました。すると次々と若い人が集まってきて、旅費付きの大学院だという言い方さえできるようになった。
会社の要求で『あるくみるきく』という雑誌も始めました。薄いけれども新書という方が近いつくりで、書くのも写すのも編集するのも基本的に素人(ないしまだ素人と自認するもの)という構えです。おのずと編集の場は延々とつづく筆者との格闘の場。会社の期待からは90度くらいずれているし、誤植は多いし、定期刊行はできてない。めちゃくちゃです。
それでも不思議に評判のいい部分があり、この読者をベースにして、友の会のようなものをつくれないかと会社のほうから出てきました。会社の期待の中ではたして旅の地平を開くようなことができるのか。やれる人がいるとしたら、ロンドンにいる向後君しかいない。帰って来てもらって、一切口を出さないから好きなようにということでやってもらうことになります。当然向後はさまざまに模索をする。その間に全国あちこちの大学を訪ねて、探検部の学生やOBたちと話をし合ってつないでいった。もう一回一緒にネットワークをつくれないかとなって、たしか法政の平靖夫君の世話で白馬の法政大学山荘に集まり「たんけん会議」が開かれた。
そのなかで観文研にベースをもつ向後を中心とするつながりと場を「AMKAS」(あるきみるきくアメーバー集団=アムカス、のちに、あむかす)と名付けて、メディアに出た探検・冒険の情報を集めてファイリングするような作業を担当することになります。それをアルバイトとして平君や岡村君がやっていた。『地平線から』の前史でした。
観文研には、破れた、スプリングがはみ出しているようなソファがありまして、そこへたくさん、入れ代わり立ち代わり研究畑ではない人たちがよく遊びに来てくれて……関野君もまだ一橋大学の1年生だったと思いますが来てくれたし、賀曽利隆も最初のアフリカから帰ってまだ間もなくの頃だったと思いますが来ていて、恵谷治も来ていた。いろんな連中がきて延々と話をするわけです。ある年所員と見なしてもよい人たちの数を数えたら78人になっていました。
一方でそういう流れはありましたが、観文研とはまったく別のところで78年の法政大学の探検報告会が開かれます。興味はもちろんもちましたが、この先この動きがどうなるかってことも読めていた。みんな就職しなきゃいけませんからね。探検的な行為ができる職業を選んだとしても、その仕事や職業の目的や価値の中心はどうしても個人的なそれとはずれてしまい、そっちのプロにならなければならなくなる。プロの仕事というのは、とてもかなわない立派な尊敬すべき仕事になっていくんだけれども、やっぱりつまらなさがあるんですよ。何か枠がはまってしまう。素人がうぶな感覚でやることの大切さということが、プロの仕事とは別にあるんじゃないかという印象を強くもっていました。
エベレストでもそうですけれど、不思議なことに、人間、他の奴がやるとやれるようになる。自分が強くなったわけではないんだけれど。江本のような優秀な新聞記者がやってきたこと、見てきたことは知識としては入るんですけれど、実感には欠ける。でも身近な友人や仲間がやってきたことは、自分の体験に似た切実さでわかる。それを大事にすべきではないかと、その先人たちの感覚をどうやったらみんなで共有できるのか、あるいは追体験してもらえるのか、という問題意識がずっとありました。
そこへ学生探険報告会です。大変失礼だけれども、任せておいては先が見えてる。昔の僕らと同じです。だからここは観文研というより、完全に主体性を持っている「あむかす」がボランティアベースでやれることをやるしかないね、と。というわけで今までずっと続くことになった地平線報告会や地平線通信だのを、賀曽利隆や伊藤幸司や丸山純、青柳正一、三輪主彦君らが考え出して、1年間だけならなんとかやれるだろうとはじめたわけです。
一方、森田靖郎君や白根全さんなんかはまだ元気一杯だったから、大変苦労の多い、いい仕事を残してくれました。また当時はまだ新聞記者だということで遠慮していたお隣の男(江本嘉伸さん)のように、天職といえるような人がいて推進役・まとめ役になり、そしてそれをサポートする人たちが自分を励まし励まし続けて、これまたずいぶんしつこくサポートし続けてくれた。
それが40年。僕にはそんなことはまったく読めなかったし、そんな馬力もなかった。だから今回だって出る幕じゃない。みんな偉いなあ、本当にご苦労さまでした、という感じなんです。
台風も真ん中の目がなくなるとダメだから、地平線会議はやっぱり必要なんですよ。でも報告会だけじゃあない。使い方によっては若い世代が非常に簡単に手を伸ばしたい方向の先輩にタッチできる仕組みだということも活かしてほしい。地平線会議の誰かに頼めば、もっとその先にいるすごい人たちに会うことができ、話を聞いてもらうこともできる。同類なのですから。(宮本千晴 テープ起こし:日野和子)
★これ以外にも40年祭関連の記事があります。地平線通信475号を御覧ください。
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