2018年9月の地平線報告会レポート


●地平線通信474より
先月の報告会から

オキのサキと飛べ!!

今井友樹

2018年9月28日 新宿区スポーツセンター

■暗号のようなタイトルで予告された地平線報告会・第473回の報告者は、新進ドキュメンタリー映画監督の今井友樹さん、38歳。当日の28日は、なんと地平線会議の第1回の報告会が開かれた記念すべき日であった。「そして今井さんは、その年、1979年の生まれ。誕生日は11月だそうですが、まさに地平線会議の40年(正確には39年)とともに生きてきた方を迎えられたんですね」と、進行役の丸山純さん。地平線創生期から裏方として奮闘してきた丸山さんにとっては、ことさら感慨深い巡り合わせだろう。

◆この日は報告会の前に、2014年公開の今井さんのデビュー作が同会場で上映されていた。『鳥の道を越えて』。岐阜県東濃地方でかつてさかんに行われていたというカスミ網猟の歴史を、人びとの記憶の中に訪ねる長編ドキュメンタリーだ。舞台は今井さんの故郷である。「僕がまだ小学生の頃、祖父は子供時代に体験した鳥猟の話を語ってくれました」……映画の冒頭に入るナレーションだ。今井さんの祖父・照夫さんは昭和2(1927)年生まれというから、昭和10年前後の頃だろうか。家の畑から見える山並みの向こうに、秋のある時期になると近隣の人びとがカスミ網を張り、渡り鳥の群れを捕獲した場所があったという。

◆子供だった照夫さんも、よくそこへ遊びにいき、“おじさん”たちに獲物をもらったりしたそうだ。しかし、それがどこなのか、具体的にどんな情景なのか、孫には想像もつかない。ただ、「あの山の向こうに鳥の道があった」との照夫さんの言葉は今井さんの心に染みつき、やがて作品のテーマに育っていったのだ。

◆私は今年5月に栃木県で開かれた上映会でこの作品を観た。以前、仲間内の飲み会だったかで「おもしろい映画だから、機会があったらぜひ」と私に勧めてくれたのは、多摩丘陵の麓にある出身小中学校の1学年先輩にあたる本所稚佳江さん。ご存じ、関野吉晴さんとモンゴルの少女との交流を描いた映画『プージェー』のプロデューサーだ。

◆“機会”はそれから2年ほどしてようやく訪れた。栃木は少し遠いが、子供時代からの親友が移り住んでいるので、彼女を訪ねがてら、一緒に観ることにした。事前の電話でカスミ網猟の映画だと説明する私に、「なにそれ?」と不思議がる相手。「ほら、中学のときD山(地区の裏山的な場所)で、Kちゃんが網に引っ掛かってる鳥を見つけて、ぷんぷん怒りながら鉛筆削り用のカッターで切って、逃がしたことがあったじゃない」と私が言うと、受話器の向こうで、ふむふむふむ……と遠い記憶を探っている姿が見えるのだった。

◆「カスミ網って戦後は法律で禁止されていたから、Kちゃんはあんなことをしたんだけど。彼女、野鳥好きだったしね」。そうだ、あのとき私はKちゃんの感情に同調したのだ。カスミ網なんて犯罪じゃないかと。ちなみに、最初に映画のことを教えてくれた本所さんは、「東京のこの辺でも昔は野鳥を捕って食べていたんだって。多摩丘陵にも、焼いて食べさせる店があったんだって」と、うれしそうに言っていた。そういう昔ながらの、特に食にまつわる風俗が大好きな人なのだ(私の価値観も、オトナになった今はそっちに傾いている)。……とまあ、そんなわけで、私は遠方での上映会に参加し、会場でプロジェクタを扱っていた今井さんとも、少しだけ話すことができたのだった。

◆さてさて、今井さんの報告会は、岐阜県東白川村で生まれ育った彼が青春期を迎えて進路に悩むところから、丁寧に語られ始めた。今井家に養子に来た父は大工。黙々と仕事をこなす父の背中を見てきた今井さんも、漠然と将来は大工になりたいと思っていた。だが、父は「ここにいちゃいけない」と言う。もっと自由に自分の将来を考えていいよ、という親心だろうか。だったら、自分は何になればいいのだ?……「映画を作る人になりたい」という答えが見えてきたのは、高校生になって町で下宿生活を送っていた頃だ。

◆心がざわついて学業がほとんど手につかない日々、週末に家族の元へ帰るときに映画のビデオをたくさんレンタルしていき、家でそれを観ていると夢中になれた。だが、いったいどうしたら映画を作れるのか、まるでわからない。とりあえずは働いて、お金を貯めながら考えよう……と、高校卒業後は名古屋の大学の夜間部に入り、アルバイトをしまくった。そんななかで横浜に映画学校というものがあることを知り、大学を中退して、ようやくそこへたどり着いたのだ。21歳のときだった。

◆日本映画学校(現・日本映画大学)は日本映画界の巨匠・今村昌平監督が開いた3年制の専門学校。入学してすぐに受けた「人間総合研究」という授業が、今井さんの道を決めることになる(そして現在、彼は母校でこの授業を教える身でもある)。映画を撮るなら人間を知らなければならない、という今村監督の理念を受け継ぎ、「撮る側の自我を徹底的に壊していく」(『プージェー』監督・同校講師の山田和也氏)、おそろしいほどの授業だそうだ。

◆今井さんは課題のテーマに祖父母のことを選び、帰郷のたびに二人に対面取材した(まだカメラはない)。同郷の二人は思春期のころに満州分村計画によって大陸へ移住し、後に現地で結婚。日本の敗戦後は八路軍に抑留され、鶴崗炭鉱(黒竜江省)で8年間、働きながら暮らしていたという。「(二人にそんな過去があったことを)授業を通して初めて知りました。自分のおじいちゃん、おばあちゃんなのに。悔しくもありました」。

◆よく知っていると思っていた身内の、知らなかった歴史を引っぱり出す、ドキュメンタリーの方法。担当教師の小池征人氏が言う「記録映画というものは落穂拾い。我々は、大きな歴史から零れ落ちたものを見つめていく」という言葉の真意を、身をもって知る経験になった。

◆日本各地(一部の海外も)の消えゆく民俗を映像作品として記録してきた「民族文化映像研究所」(民映研)を知ったのも、宮本常一『民俗学の旅』を紹介してくれた小池先生の導きと言っていいだろう。書物の中に出てくる民映研作品『周防猿まわし』の記述に、「民俗学を映像でやっている、すごいところ」と直感した今井さんは、所長の姫田忠義氏の所在をインターネットで突き止め、ある日、意を決して訪ねていく。

◆かつては東京新宿に事務所を構えていた民映研だが、2000年代初頭のその頃には規模を縮小し、鶴川のマンションの一室に拠点を移していた。そこへ通され、「君が何者であるのかを、まずは教えてくれ」と問われた。己の来し道を2時間も訥々と語っていく青年を、老師はただ真っすぐ見つめていた。青年は「こんな大人に、これまで出会ったことがない」と思ったそうだ。次に「大工の父は中学を出て師匠につきました。自分もそんな師匠が欲しいです」と言っていた。願いは後に「うちへ来ないか」と、受け入れられることになる。

◆姫田忠義氏は昭和3(1928)年生まれで、今井さんの祖父とほぼ同年代。戦後、演劇演出家やシナリオライターなどをしながら宮本常一に師事し、各地の伝統的な行事や暮らしの様子を映像化していった。1976年には民族文化映像研究所を設立、やがて映像民俗学の第一人者となっていく。今井さんは、そんな姫田氏が晩年に得た「最後の弟子」と言っていいだろう。民映研スタッフとなった今井さんは、それから8年間を姫田氏とともに過ごした。

◆姫田氏最後の新作となる『粥川風土記』(2005年)の製作も手伝った。家が近かったこともあり、朝から車で師を迎えに行き、取材や撮影に同行する。旧作のビデオ化にあたっての再編集も任された。「今井くん、(民映研での活動は)仕事だと思ってやってはいけない。自分のこととして、やってほしい」師の言葉は、プロの映画人になるための「修業」を意味する以上に、ドキュメンタリーを撮る人間としての「修行」を示唆していたのかもしれない。

◆以下は、おそらく自分が映画で何を為すべきか、悩める弟子が師匠に問いかけた日のエピソードだと思う。映画学校で授業を受けた原一男監督(『ゆきゆきて、神軍』)が「ドキュメンタリーは人間の欲望を撮るんだ」と言っていた、と話したとき、姫田氏は「その欲望という言葉は使わないでほしい。願望と言い換えてほしい」と答えたという。弟子は「この言葉を信じて生きていたい」と胸に刻む。「姫田さんは、民映研は何をするべきかを、常に考えていました」。それは現代の社会にあって、ということだろう。「民映研の映画は個人を撮ることはない。その人の営みを通して、その土地に染みついた生き方を描く」と姫田氏はいつも言った。今井さんは師匠との8年間の中で、その言葉を自身の映画の核となるものとして捉え、根付かせていったのだ。

◆デビュー作の取材を始めたのは2006年から。ちょうどそのころ、自分のカメラを買った。民映研の仕事のかたわら、休みのたびに東白川村に帰り、子供の頃から気になっていた「鳥の道」についての話を聞いて回った。カスミ網猟とはいったいどういうものだったのか。最初のうちはカメラを回さず、祖父照夫さんが「この人なら知っているよ」「あの人も知っているかも」と言う相手を訪ねて、ひたすら話を聞いた。

◆またその人に別の人を紹介してもらう。様々な角度から記憶が引き出されることで、「鳥の道」を見たことのない今井さんの前にも、少しずつその姿が現われてきたようだ。一方で、帰省のたびにカスミ網の話を聞いて回る息子に、両親が「そんな話を聞いてはいけない」と言うようになった。心配する背景には、戦後GHQによってカスミ網猟が禁止されてからも郷里周辺では密猟が行われていて、暴力団の資金源になってもいた、ということがあったらしい。

◆「そんな危ない話に関わってはいけない」、あるいは「そんな話を蒸し返すことで迷惑がかかる人もいる」ということか。昔は生活文化として行われていた鳥猟と、戦後に法律で禁じられてからの密猟という問題。その狭間でどうしたらいいのか、足がすくんでしまった今井さんは、師の姫田氏に相談する。すると、こんな答えが返ってきたそうだ。「空を飛べない人間は、鳥にはかなわない。だから憧れを抱く。でも、憧れだけでは人は食べていけないから、命をいただく術を見つける」。

◆それこそが、人が糧を得るために伝承してきた技の文化。姫田氏は弟子を応援する意味で、それから東濃でのカスミ網勉強会に駆けつけ、その話術で地元の人たちを魅了し、貴重な記憶を引き出してもくれた。このことがきっかけで、今井さんはまた取材に邁進することができるようになったという。

◆『鳥の道を越えて』の製作中、今井さんは在籍8年の民映研を辞めた。映画がなかなか完成しないというあせりもあった。傍で見ていて業を煮やしたのか、姫田氏が「この作品は俺が撮る」と言い出し、心が揺れた。大工の父は「3年修業して、6年恩返しする(のが職人の道)」と言っていた。しかし、自分はこのままで姫田さんに「恩返し」できるのか。この映画を完成させて姫田さんに見てもらうことこそが、恩返しなのではないか……。

◆2014年、長編映画『鳥の道を越えて』はついに完成、日の目を見ることになった。しかし、見せて、その感想を聞きたい師匠はもうこの世にはいなかった。姫田忠義氏は前年2013年7月、逝去。亡くなる少し前に子息に今井さんへのメッセージが託されていた。「今井君に渡してください。」の後に「オキの先」と書かれた小さな紙切れだ。それを見て今井さんがふと思い出したのは、かつて師と話した「アイスマン」のことだった。

◆1990年代初めにヨーロッパで発見された、5300年前の人とされるミイラ。この人は皮の袋を持っていたのだが、その中身は何だったのか……師弟で想像をめぐらせたことがあった。後日、姫田さんが、思いついたとばかりに、こんなことを話した。「今井くん、あれはオキを入れていたんだよ。彼は旅人だから、火が大切。どこでもすぐに火を熾せるように、熾炭を入れていたにちがいない」。

◆「オキの先」という言葉を見て、今井さんの頭の中には、暗闇を、小さな熾き火を頼りに進む旅人の姿が浮かび上がったそうだ。心細いけれど、なんとか歩を進めることはできる。それは、その半年ほど前に今井さんのつれあい千洋さんが思いがけない死を選んでしまったとき、「身も心もボロボロ」になった自分に寄り添ってくれた姫田氏の温かさと重なった。すでに重い病に冒されていた師だが、慈しみをたたえた表情で「お先真っ暗な二人だな」とつぶやいたという。行く手は暗闇。でも、歩み続けることができる程度の光はある。それが人生ではないかと。

◆完成した映画は、祖父母に観てもらえた。製作中に、祖父が見たという「空が真っ黒になるぐらいの」鳥の道は結局見られなかったが、カスミ網を利用して野鳥の生態調査をしている環境省の織田山ステーションで、それに近いと感じる光景に出会えたことはあった。時代を経て見られなくなった、祖父の記憶に残る光景。今井さんは言及しなかったが、そこには、満州移住で郷里を離れたことで失われた祖父照夫さんの「時間」も挟まっている。

◆照夫さんが満州へ渡ったのは14歳のときだというから、昭和16〜17年か。その後、照夫さん夫妻は28年までの12年間、帰郷できていない。少年から大人へと成長する過程で切り取られた記憶の光景は、ずっと同じ土地にいて空を見上げていた人たちより澄んでいるのではないか。食べた鳥の味よりも、鮮明なものとして。

◆今井さんは第2作として、祖父母の鶴崗炭鉱での抑留生活の記憶をたどろうとしていたそうだ。しかし、『鳥の道を越えて』完成の翌年、二人は相次いで他界された。記憶という見えないものを手探りで追い求める監督の旅は、時に不本意に曲がりくねったりしながらも、続いていく。監督の現在地は、どうやら「ツチノコ」に在るらしいと聞いた。どんな旅になっていくのだろう。ぜひ、また拝見したいものだ。

※報告会では、かつて行われていたカスミ網猟の方法についてもたくさん語ってもらったが、ここでは割愛した。ぜひ、映画『鳥の道を越えて』を観てください。近場で上映会がなかなかない、という人は、自分で開催するという手もあります。また、私のように、SNSで網を張って、「ここだ!」と思った場所へ旅していってみてください。(熊沢正子/90年代半ばにインタビューでお目にかかった姫田さんの「秘境とは、なんというひどい表現でしょう!」の言葉が忘れられない、隅っこ好きの旅人)


報告者のひとこと

こんどは、ツチノコ……

 「同じ旅仲間に、焚き火を囲んで話すようなつもりで話していただければ」と、丸山純さんから報告を打診された時、おそれ多く、いったい何を話せばいいんだ!?と悩んでしまいました。結局、悩んだまま報告会を迎え、しどろもどろな滑り出しで話をしてしまいました。しかし、皆さんが真剣に耳を傾けてくださったおかげで、最後は精一杯の気持ちを解放することができました。また報告会に先立ち上映会までしていただいたこと、ありがとうございました。

 最後にお話しようと思いながらも時間が押してしまい、叶わなかかったことをここで報告させていただきます。

 拙作「鳥の道を越えて」は、祖父が見た“鳥の道”を探し求める旅でした。そしていま、僕は新たな記録映画を制作しています。なんと今回は、“ツチノコ”を探し求める旅です。

 「ツチノコは、いる?いない?」。そう聞くと、毎回ほとんどの人がニヤニヤした顔つきに変わります。そして「いない」と答える方が大半です。

 実は私の故郷・東白川村は、ツチノコの目撃例が一番多い場所です。毎年春にはツチノコ捕獲大作戦が行われ、30年前から続けられています(捕獲したら懸賞金100万円。しかも毎年1万円ずつ上がり、今年は129万円。ゆるキャラも登場)。当時、小学生だった僕は、惑うことなくツチノコの存在を信じていました。実際、祖母の兄はツチノコを目撃した一人でしたし、多くの大人もその存在を信じていました。

 しかし、16歳で村を離れ、友人達に出身地を説明する度に「あのツチノコの村でしょ」と毎回笑われてしまう。いつしか故郷の話は自分から遠ざけていました。ツチノコは、UFOやネッシーと同じで、非科学的で「いない」と理解するようになりました。30年経ってみると、ツチノコで村おこしをする故郷を疎ましくさえ思うようになっていたのです。

 「いる」と信じていたのに、今は「いない」と冷めている自分がいる……結局、あれはいったい何だったのだろう? そんな疑問から、ツチノコを探す旅が始まりました。

 調べてみると、祖父母世代の頃まで、ツチノコは見ても人には言ってはいけない“不吉な存在”として捉えられていました。できれば出会いたくない。仮に見ても、「こんな忌々しいものが、まだいたのか!」と畏れられていたのです。しかし現在は、「いない」ことが前提で展開されているのです。

 取材をしていると、ツチノコ目撃者に話を聞く機会ができてきます。そんな時、「まさかいないでしょう」と思いながら話を聞けば、相手は話してくれません。逆に「いる」と信じて話を聞くのも素直ではありません。どういうスタンスで話を聞けば良いのか正直悩みます。ただ聞いていて毎回感心するのは、ツチノコが「いる」と思う人の心象は、「いない」と思う人よりずっと豊かに展開されていることです。

 なぜ人はツチノコを信じなくなったのか。忌々しい存在がゆるキャラ化してしまうこの変容は、いったい何をもたらしたのか。そんな疑問を一つ一つ掘り下げながら、現在取材を続けています。(今井友樹


なぜ、禁止されている中で語り継ぐ必要があるのか

■ソマリアの情報を日本語話者向けに伝えるソマリア市民研究所なるものを主催する者です。本業はピースボートで働いています。以前から地平線会議の存在を教えていただいていたのですが、都合が合わず、今回初めて(台風の為、鹿児島行きがキャンセルとなり)参加することができました。

◆今井友樹さんの報告会では、映画「鳥の道を越えて」上映には残念ながら間に合わなかったのですが、映像を交えてかすみ網猟についてお話を聞くことができました。私にとってのかすみ網猟は、中学受験の際に国語の練習問題の物語に出てきた覚えがあります。今回のお話で一番強く印象に残ったのは、今井さんの祖父の「かつて故郷の空が渡り鳥の大群で埋め尽くされた」という言葉でした。

◆以前、中沢新一さんが『純粋な自然の贈与』の中で、捕鯨について“海中からなにかの力が捕獲され、その力は海面にひきあげられた瞬間から、こんどはこの世を豊かにする莫大な物質的な富に、変貌する。捕鯨は、その移行を実現させるためにおこなわれる「世界の境界面」上の技術なのだ”と語っていますが、まさに渡り鳥の大群により空が埋め尽くされた状況は、空に巨大な鯨が現れたかのような強い心象を受けました。

◆またお話を聞いている中で、かすみ網猟ではその都度獲りすぎないようにする暗黙のルールがあるのかも気になりました。アイヌ神話は熊を獲りすぎないよう、人間が動物と共生していくための知恵を語りかけています。そして、今は禁止されているかすみ網猟ですが、今回のドキュメンタリーは文化の継承という視点からもとても重要だと思いました。なぜ禁止されている中で語り継いでいく必要があるのか。止めることのできない科学技術が発展する中、原始的な炎を絶やさないことは何か私たち人類が地に足をつけて生きていくために、私たちが常にどこから生まれてきているのかということを問い続けるために必要なことだと思います。

◆文化を残すことで何が残るのか、それについては表面化されてこないのが難点でもあると思いますが、今井さんは祖父の言葉から、かつてのかすみ網猟を取材するためにカメラを手にされました。文化、営みを継承することの意味は、これからも今井さんの映像を多くの人が見続けることにより、生き続けていくと感じています。そのような事柄を、今井さんの報告から自分自身に問うことになりました。貴重なご報告、ありがとうございました。(越智信一朗


今井友樹監督と日本映画学校『人間研究』

今井友樹監督作品『鳥の道を越えて』は、監督が日本映画学校(現日本映画大学)の学生だった頃、初めてのドキュメンタリー実習『人間研究』で祖父の今井照夫さんが行っていたカスミ網猟を取りあげたことが原点だったそうです。初めてのドキュメンタリー制作だったため、優しかった祖父と密猟という烙印を押されているカスミ網のギャップを埋めることができず、その悔しさが、後年、映画『鳥の道を越えて』制作を決断させたと、監督は語ってくれました。『鳥の道を越えて』については、通信で詳しく書いていただけると思いますので、創作の原点になった『人間研究』について書いてみようと思います(ちなみに、今井監督も私も『人間研究』の講師を担当しています)。

 『人間研究』は、『楢山節考』と『うなぎ』で2度カンヌ映画祭のパルム・ドール(グランプリ)に輝いた今村昌平さんが開いた日本映画学校の建学の理念が基になっています。その言葉が、『鳥の道を越えて』を制作している間、今井監督の念頭にあったのではないかと思います。それは、

「日本映画学校は、人間の尊厳、公平、自由と個性を尊重する。
 個々の人間に相対し、人間とはかくも汚濁にまみれているものか、
 人間とはかくもピュアなるものか、
 何とうさんくさいものか、
 何と助平なものか、
 何と優しいものか、
 何と弱々しいものか、
 人間とは何と滑稽なものなのかを、真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。
 そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。
 個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある。」

 人間がいかに多面的であるかを知り、そこに映像表現の焦点を当てろという教えだと思います。戦後、GHQが持ち込んだ動物保護という観点から禁止されたカスミ網猟のことは、私自身も子供の頃に「密猟」という恐ろしげな言葉とともに、反社会的なものだという印象を強く植え付けられたものです。野鳥を一網打尽にしてしまう野蛮な猟。しかし、そういうカスミ網猟の悪いイメージの裏に隠されている、山に暮らしてきた人びとの叡智を今井監督は見逃しませんでした。「山の向こうに鳥の道があった」という祖父の言葉が意味するものを8年の歳月をかけて解き明かしていくうちに、今井監督は、山に暮らす人びとが代々磨いてきた自然を観察する力を知り、命をいただいた獲物へのリスペクトと愛情に出会っていきます。例えば、数種類の囮を使って渡り鳥を網に誘引する仕組みを見るだけでも、カスミ網の実態は一網打尽の真反対、一部の鳥だけを捕らえる選択的な猟だったことが分かります。それは、博物学な自然観察によってのみ可能な高度な技術です。野蛮な猟だと決めつけられ、社会から葬りさられたカスミ網猟の背後には、年に一度だけ手に入る美味しい肉に対する執念、短いチャンスを逃さないために知恵と経験を総動員させる探究心。そして、命をいただくことへの畏怖と深い感謝の念が潜んでいました。

 今村昌平監督が言う、汚濁にまみれ、ピュアで、うさんくさく、助平で、優しく、弱々しく、滑稽なものこそ、人間の文化なのだと、今井監督映画は雄弁に語っています。(山田和也 記録映画監督/TVディレクター)


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