2018年7月の地平線報告会レポート


●地平線通信472より
先月の報告会から

光と影のミッション

阿部幹雄

2018年7月27日 新宿区スポーツセンター

■中国三大霊山峨眉山の頂から望む秀峰、横断山脈の最高峰ミニャ・コンガ(7556m)。ミニャ国の白い山、中国名貢嗄山。この山を目指した北海道山岳連盟隊の遭難(8名が犠牲)での生還者が今回の報告者、阿部幹雄さんである。最初に樋口和生さん(457回報告者)から阿部さんの紹介があった。樋口さんは北大山岳部出身の山岳ガイド、57次の南極観測隊の越冬隊長を務められた方である。地平線会議おなじみの「ランタンプラン」創設時に、現地で八面六臂の活躍をされた。阿部さんとは北大の先輩と後輩、自ら設立した雪崩事故防止研究会などで苦楽を共にしてきた盟友なのだそうだ。

 故郷の山・石槌

■阿部さんのお話は自己紹介を兼ねて生い立ちから始まった。生まれは愛媛県松山市。昆虫少年のお兄さんに連れられて裏山を駆け巡っていたそうだ。時はマナスル登頂で沸く登山ブーム始まりの頃だ。加藤喜一郎氏の著書『山に憑かれて』が大切な一冊となったそうだ。山に目覚めたご当人は全く虫には興味が無く、ただ山へ行くことが嬉しかった(お兄さんは蝶に魅せられていたようだ)。裏山から遥か望む中国山地の雪をいただいた白き峰、海の向こうにほのかな憧れが芽生えたのもこの頃だ。

◆振り返れば四国の最高峰石槌山も見える。お兄さんが大学1年、阿部さんはまだ小学生の時初めて石槌山に登った。この山はその後阿部さんの母なるふるさとの山となる。中学時代にはすでに、「僕は将来必ず8000m峰に登る、南極・北極にも行くんだ」と決意していたのだそうだ。高校生になるとラグビー部の門をくぐり、3年間楕円のボールを追い求め憧れの花園出場も果たす。あら?と思ったが、山岳部は実力的に魅力がなかったので遠慮したらしい。その代わりにラグビーと週末登山を3年間並行して続けた。並みの体力ではないことがうかがえる。

◆高校は受験校(松山東高等学校・幾多の文人墨客を輩出)だが、一方で自由な雰囲気も併せ持っていた。四国の名湯、道後温泉は歩いて行ける距離。朝風呂が大好き、登校前にひとっ風呂浴びていたそうだ。「先生、道後温泉に行きましょう!」「そうしよう」という感じで授業が温泉行きになる事も。湯気の向こうにクラスメートや先生の顔が浮かんで見える。いいもんだなあ。

◆この頃しきりにカメラが欲しくなり、修学旅行の積立金36000円を購入資金にする。買ったのはペトリのカメラ。「積立金はあなたのものだから好きになさい」といったお母さまも立派、修学旅行を一人取りやめた息子も自主独立でかっこいい。やがて大学受験の時となり、晴れて北大合格。海の向こうどころか遥か北を目指す事となった。卒業を前に一人雪の石槌山へ向かった。積雪1m〜1m50cm、アイゼン・ピッケルなしのかなり無謀な登山であった。これからの人生夢を実現できるようにやっていけるのだろうか、未知なるものを求めて北へ飛び立つのだからしっかりしなくては……。忘れがたい故郷の山での一夜となった。

 北の大自然で

◆さて北大工学部入学後、阿部青年はさっそく山スキー部員となる。かの三浦雄一郎氏が先輩だ。将来8000m峰を登って、頂からスキーで滑降することが目標なのだからと、もっぱら誰も滑っていない斜面を求めて研鑽を積んだ。日高山脈をとりわけ好みの山域としていた。卒論の心配をしないといけない頃、部の仲間とネパール行きを敢行。指導教授には、2か月ほどネパールへ行くので後の事はよろしくと言い残したそうだ。向かった先はアンナプルナサウス氷河。ここは京都大学学士山岳会が登った場所。冒頭の樋口さんの父上、樋口明生さんが隊長を務められた。

◆ヒウンチュリの下の斜面にシュプールを残して帰国。研究室に顔を出すと「君の研究テーマを決めておいたからね。」と鷹揚な先生から告げられた。大学は人を育てるところだから君のような学生が一人ぐらいはいてもいいよと仰って頂いた。年間の山行日数は100日を優に超えていた。当然の帰結、卒業には6年かかった。はてさて卒業したはいいが何の当手どころもない。思いついたのは研究室に居候することだった。お優しい先生から快諾いただく。測候所まで使って良いことになった。

◆かれこれ一年居候生活を続けた後、カメラマンとして独り立ちしたが、当然食べていけるあてはない。時間だけがたっぷりあったそんな頃、中国の開放政策で北海道山岳連盟にミニャ・コンガの登山許可が届く。隊に応募した阿部さんはメンバーに選ばれ、偵察を命じられて秋に現地へと向かった。50年間の外国人禁断の地への偵察行は探検的要素の強い、実に楽しいものとなった。1980年の事である。

◆成都から川蔵公路を西へと二郎山峠(標高3000m)を超え、長江支流の大渡河峡谷にかかる橋を渡り、さらに徒歩でやっと1500mの台地にある磨西(モーシー)村に着く。村に入った日は、50年ぶりの外国人来訪ということで、子どもたちは恐怖のあまり逃げ回り、大人たちの目、目……。この日が磨西村をトラックが走った初めての日となった(橋を渡るためトラックは一旦分解されたのだ)。

◆この村を拠点に目指す北東陵に至るルート偵察に出た。二つある氷河のうちまず、海螺溝氷河をさかのぼる。巨大なセラックのあるアイスフォールを試登、すぐにこれは無理危険すぎると判断、即座に撤退。次に燕子溝氷河を試登、なかなかに手強いものの4600m付近まで到達、こちらに活路を見出して下山。ここで阿部さんから思いがけずアーノルド・ハイムの名前が。彼はスイス人地質学者。彼が空撮したダウラギリとアンナプルナの写真を頼りに、フランス隊のモーリス・エルゾーク等は人類初の8000m登頂を成し遂げたのだ。

◆ミニャ・コンガにも足跡を残していた事を知り感激。トニー・ハーゲン(『ネパール』の著者。彼も地質学者)といい泥臭く足で稼ぐ研究スタイルに共感、郷愁を感じる。磨西村の住人はイ族。狩猟と薬草の採集を生業としている。阿部さんたちの翌年、ミニャ・コンガで同じく九死に一生を得た松田宏也さんを救出してくれたのがこのイ族の方々である。

◆そしてまたこのイ族の人々は毛沢東率いる紅軍を道案内し、国民党との闘いに一役買ったのだ。この一帯は歴史の舞台でもあったのだ。ああそうだと思い出したのが中村保さんの『ヒマラヤの東』。「横断山脈の東端の通過に際しては多くの劇的なエピソードを生んだ。毛沢東・周恩来・朱徳等々革命第一世代のオールキャストが顔をそろえている」と書かれてあった。(172ページから引用)

 運命のミニャ・コンガ

◆ここで話は核心の81年の遠征に進む。出発前故郷のお母さまと山口大学に奉職していたお兄さんに元気な顔を見せに行く。お兄さんの同僚が上田(あげた)豊先生。中公新書『残照のヤルンカン』に胸を熱くされた方も多いだろう。その上田先生に「ええか、どんなに格好悪うても生きて帰ってこんとあかん」と手を握りしめながら言い渡された。後々まで深く胸に残る言葉となった。

◆名古屋大学の水圏科学研究所には北大山岳部OBの研究者が何人も在籍していた。そのよしみで当時樋口敬二先生の研究室にいた上田先生から、遠征に必要な地図、資料、写真などを頂き、かつレクチャーを受けていた。学部生時代から何度も出入りして懇意にしていただいていたのだ。北海道から足を運ぶ情熱も、伸びやかな研究室の雰囲気もいいなあ。

◆北海道連盟隊の編成は総勢26名。川越昭夫総隊長以下隊長、報道、隊員で構成される。隊は思い返せば最初から高所登山の実力が未熟であった。先発していた阿部さんは、遅れてベース(海子函)入りした隊員を見てぎょっとしたそうだ。隊長の方針で、ポーターと同じ重量(30kg)の荷を担いでの入山で精魂尽き果てた顔をしていたのだ。

◆タクティクスの組み方も疑問だらけだ。出発前に隊員有志で学んできた高所登山のノウハウとはまるで裏腹の、セオリーを無視した体力勝負一辺倒の登頂計画であった。本来は四人編成のチームで体調、天候等を考慮し、またしっかりサポート隊も編成して、徐々に高度順化を行い、五月雨式に頂上に立つのが妥当と考えていた。雨季も近づいて来ていた。しかし急転直下川越隊長が、隊を12人ずつ一次、二次に分けて全員登頂を目指すと言い出したのだ。隊員の選別はしないという。なお、固有名詞など詳細についてはご著書『生と死のミニャ・コンガ』(山と溪谷社刊)を参考にさせていただいている。

◆阿部さんは一次隊になった。メンバーは副隊長奈良憲司をリーダーに中嶋正博、工藤典美、佐々木茂、浦光夫、藤原裕二、島田昌明、神原正紀、小島均、小野寺忠一、松永浩そして阿部さん。阿部さんは最初から総隊長と対立していた。高所登山の知識を持ち合わせていればあり得ない、「体調が悪ければどんぶり一杯の薬を飲め」発言にはたまげた。最後まで隊長に反旗を翻さず、一次隊として行動したことを後々悔やんだ。こうして二隊に分かれて頂上アタックが開始された。

 滑落

◆9時間の悪戦苦闘の末、頂上直下100mで藤原さんが滑落。3時12分、ピッケルがカランカランと岩に当たる音を残して2500mの落差のある北壁に消えていった。浦さんがザイルを出し捜索を行うも手掛かりさえ掴めなかった。阿部さんの上部には8人がいた。阿部さんの下方には体調を崩した2隊員に付き添っている奈良副隊長がいた。思いを残し撤退を決断、恐怖でひきつっている上の7人が一本のザイルにカラビナを通して連なった。え、カラビナ? 7人一緒?

◆上と下で腰がらみにより確保をする。確保といえない確保だ。下部を担っていたのは中嶋隊員。もうこれは狂気の沙汰だ。阿部さんはハーネスからユマールを外してザイルにセットしようとしたが、その前に腰にハーネスとは別につけていたベルトにぶら下げていたフィルムケース等の小物とシュリンゲが絡まっていた。これを直していたためワンテンポ隊列に乗り遅れた。これが運命の別れ道だった。

◆最初のスリップは事なきを得た。その直後だ、数人が滑落していく。落ちていく仲間の恐怖の目を阿部さんは一部始終見届ける事になった。確保していた中嶋隊員に「止めてくれー」とあらん限りの声で叫んだが、その中嶋隊員もブンと跳ね飛ばされ、7名が奈落の底へ。一人残された阿部さんの決死の下山が始まる。ザイルはないのだ。クレバスを渡らない限り生きて帰れない。ついにクレバスに落ちた。体が挟まるくらいの幅だったので、かろうじて止まった。

◆落ちれば南壁の底まで運ばれてお終いだ。死ぬのが怖く叫んだが、やがて不可能を悟り、死を覚悟すると突然穏やかな安寧の境地が開けた。そんな中脆い雪をものともせず下にいた奈良さんが救出に現れた。彼まで死に引きずり込むわけにはいかないので必死で制止したが、彼はものともせず腹ばいになって接近、引きずり上げてくれた。助かった。その瞬間轟いていた雷鳴がピタッと止み、あたりを静寂が包んだ。

◆気温マイナス50度、風速20mの中、北海道での登山と同じ装備で生き延びた。この時絶対生きて帰るぞとの決意が体にみなぎってきた。その後の4人での下山も過酷を極めたが、ともかくも生き延びた。下山の途中で不思議な体験をした。4人以外に誰かが一緒にいるのだ。もしかしたら仲間は生きているんじゃなかろうかと何度も思わされた。北壁基部に戻った15人で遺体捜索を行うが、見つけたのは佐々木隊員のみ。身に着けていた手袋・帽子などがあたりに散乱していた。結局佐々木隊員の遺体収容もできないまま現地に別れを告げた。

◆生き延びた隊員たちが帰国後受けたであろう非難、糾弾の嵐は想像するに余りある。しかも一番矢面に立ったのは必ずしも総隊長ではなかったようだ。真のリーダーとは? リーダーの資質とは? 考えさせられる命題だ。悪夢が冷めやらぬうちに翌82年、同じミニャ・コンガで市川山岳会の遭難が起きた。菅原隊員の遭難と松田宏也隊員の奇跡の生還。ベースキャンプには誰一人おらず、助けてくれたのはイ族の村人たちだった。やはりミニャ・コンガは魔の山だ。

 生き残った意味

■その後の阿部さんの事故の後始末、残されたご家族への寄り添う姿は誠実そのものだ。何年にもわたり燕子溝氷河へ遺体収容に出向いた。もう新しい人生の一歩を踏み出そうとしても、ミニャ・コンガにまた呼び戻されるのだ。「なぜ阿部さんだけが死ななかったのですか?」このご遺族の問いかけに最初は答えが見つからず、苦悩した。しかし何度も仲間の元に出かけ、ご家族にお骨をお返し出来た時、自分の役回りを実感する事が出来た。

◆奈良さんと二人だけで見つめた黄金色の残照に輝くミニャ・コンガは生涯忘れない景色だ。イ族の言い伝えにある鳥が氷河上のテントにやってきた。隊員の身代わり(鳥になって)お別れに来てくれたのだ。この出来事を阿部さんは信じたいと仰る。ご家族を山の近くまで案内、文殊院で供養も行った。写真にうつっている当時の服装などで身元の特定が出来た。カメラマンになった意味も分かった。生きていたのだからこれからは生きている意味を問うて生きていこうと思えるようになった。

◆84年、藤原隊員の愛娘由希ちゃん・早希ちゃん、中嶋隊員の愛娘美峰ちゃんを連れて現地に行った。荼毘に付すところは見せたくないと思い、お花摘みをお願いしたのだが、いつの間にか現場を見つめていた。子どもなりに語り部となるべく現地に来ていたのだ。奈良さんの胸の内、いつも待つ身だったお母さんの心情も理解できる子どもに大きく成長していた。

 北の野生

◆その後阿部さんは、カメラマン・ビデオジャーナリストとして精力的に仕事をこなしてきた。『フォーカス』誌の専属カメラマンとして20年間写真と健筆をふるった。例えば「樹齢探検」。撮影行はいつも一人だ。静かに対象と向き合うのがお好きなのだろう。屋久島の縄文杉・ふるさとの石槌山も写し出された。「ヒグマ」もライフワーク。おもに知床に通う。ヒグマは1年で体重が100kg増えるのだ。最近はエゾシカを餌にし、定置網にかかったサケも食べる。

◆報告会場にはオオワシ、オジロワシと北海道ならではの猛禽類が登場。幻の魚、イトウの婚姻色の赤は何とも美しい。偶然出会ったオオワシの幼鳥が海に落ちてじたばたしている光景が写し出される。餌を求めている最中に落ちたらしい。彼らは世界に5000羽しかいない。そのうち1300羽が北海道に戻ってくる。各所に届け出、その日のうちにロガーを取りつける。カムチャツカへ予想外のルートを辿っていることを、データとして初めて明らかにする事が出来た。ソ連邦崩壊の直前にはモスクワに長期滞在、二つの連載をこなした。クレムリンでゴルバチョフとエリツィンがそろい踏みで写っていた。

 北千島行きの船を“ヒッチハイク”して

◆北海道に住んでいれば誰しも北へ北へと思いが募る。という訳で後輩を誘って国後島の爺々岳を狙う事になった。この計画は新聞にスッパ抜かれオジャンに。カムチャツカの最高峰クリュチェフスカヤも一緒に計画していたが、これも後回しに。ならばと領有権を放棄している北千島に狙いを定める。阿頼度(アライド)島・幌筵(パラムシル)島が目的地だ。こちらは札幌の領事館頼り。しかし先方に受け入れ先が無くてはどうにもならず、一年の月日が流れた。

◆ビザが発給されても目と鼻の先を訪ねるのにハバロフスクを経由しなければならない。どうも癪だ。それに学生にはお金がない。妙案が浮かんだ。知り合いの代理店に頼みこみ来日中のサハリンの船舶公団に直談判してもらったのだ。結果オーライ。勇躍学生と船に乗り込んだのは1990年5月の事。渡航費の14万円が5000円で済んだ。サハリンで北千島行きの船をヒッチハイクするのは容易ではない。幌筵島を経由、ようやく阿頼度島到着。上陸してみればそこは無人島であった。チリ津波を受けたらしい。阿頼度山は標高差2000m。この標高差を気持ちよく大滑降。最高だった。

◆頂上にミニャ・コンガの8人の写真を埋めた。ここから新しいスタートを切ろうと阿部さんは考えていた。さようなら。この島では難破船を発見。「無念の遭難」と書かれた板切れを持ち帰る。富山県の漁船で、仲間に助けられ皆さん生存されていた。この顛末は阿部さんの仕事先のテレビ局で特集されたそうだ。千島列島には動物のみならずアイヌの人々が行き来していた痕跡が多数あるという。十勝石の矢じりも発見されるそうだ。人も動物もダイナミックな移動をしているのだ。私の祖先もバイカル湖周辺からこのあたりを通過して、日本に到達していたらいいのにと、勝手にあこがれているルーツだ。

◆92年には小樽からシーカヤック持参で念願の国後へ。今回ももちろんソ連の船でだ。古釜布(フルカマップ)から一泊二日で太平洋を漕いで、爺々岳へ。ベースにしていた小屋に、留守の間に国境警備兵がやってきたらしい。大変だ、いなくてよかったと思っていたら、置手紙が。そこには「君たちは真の海の友人だ、また遊びに来たまえ」と書いてあった。バイダルカ(シーカヤックのロシア語)を乗りこなす彼らから仲間に迎えいれられたのだ。

◆国後では通信手段を断って行動した。政府に傍受される距離だから。占守島の事を忘れていた。この島は1945年8月17日に日本とソ連で戦闘があった。日本側800人、ソ連側3000人。8月15日を過ぎているというのに痛ましい事だ。またこの島には南極へ行った白瀬矗も滞在し、総勢7人のうち4人が懐血病で亡くなっている。占守島と南極の両方に行ったのは白瀬矗と阿部さんだけだそうだ。

 再びミニャ・コンガへ

◆94年、さようならと言ったはずのミニャ・コンガにまた呼び戻される。ヒマラヤ協会隊が遭難、雪崩研究会の大切な仲間、福沢卓也(編注:14ページ「地平線の森」で遺稿集を紹介)ら4人が帰らぬ人となった。隊長はご病気の事もありベースキャンプで常に指揮を執っていた。この遭難は雪崩によるものと報告された。が、しかし仲間をあらん限りの手を尽くして捜した形跡は皆無、なぜ雪崩と断定したのかも根拠がない。阿部さんは事故報告会に出るため、東京へ向かった。隊長の報告はどこかつるっとしていて、妙なほど理路整然・滑らかな語り口に終始した。仲間を見殺しにしたのではないか、私は彼を許せないと仰った。この話を聞いてショックだった。この隊長はヒマラヤ研究をライフワークとし、日本の登山界に対し率直にものを言う方だと思っていた。副隊長も山の猛者だ。慕っている人も多いはず。

 南極行

◆思いがけない話が舞い込んできた。南極観測隊に応募しないかとの話。胸が高鳴った。飛行機を乗り継ぎ、昭和基地には直接目的の観測エリアに飛行機で降り立つ、初の試み。おまけに3か月のテント暮らし。阿部さんが要請された任務はフィールドアシスタント。隊員を一人も怪我させる事なく、一人も欠ける事なく日本に連れ帰る事だ。科学のフロンティア、新しい発見・研究成果を携えて帰国しなければならない。正式に辞令を受け取り、晴れて南極の地を踏んだ時、「夢はあきらめなければ必ず実現する」と確信した。

◆49次・50次・51次と三年連続で参加したのは、「セール・ロンダーネ地学調査隊」。5億年前のゴンドワナ超大陸の生成過程に迫るのだ。任務を果たすには、装備・食料すべて余りにも旧態依然としていた。樋口さんと3か月の限られた時間の中で思い切った改革を断行した。ウエアは3社をテスト、かつてない使い心地、着心地のものを採用する事に成功。食料は飛行機への荷物の搭載量という課題があり、これまた大胆にフリーズドライを試作。最終的に品数なんと120。ローテーションが組める数だ。

◆食事に満足出来れば、皆の顔がほころびチームワークに一役買う。食が安全を担保する訳だ。なるほどと思った。ブリザード吹き荒れる中でのテント暮らし、ノースフェースのメステントが何度もぺしゃんこに。一撃を食らってこのありさまなのだとか。生きた心地がしない。毎日20mの風が吹きすさぶ中での調査だ。スノーモービルの事故、ヒドンクレバス、事故のリスクは無数だ。テントに帰れば研究者に余計な気を遣わせないよう日々の生活上での様々な事に神経を張り巡らせる。帰国すると7kgは体重が落ちるのだそうだ。

◆何やら阿部さんのテントの前に郵便ポストが。手紙と朝日新聞が届いている。これは阿部さんの精神の安定を保つための苦肉の策なのだ。阿部さんたちの現場、セール・ロンダーネ調査のパイオニアは上田さんだ。ここでも阿部さんは不思議なご縁を感じる。上田さんが辿った調査ルートを阿部さんたちは逆方向から辿る事となった。生きて帰ってこなあかんよと言ってくれた上田さんと同じ景色を見つめている事に、心が震えた。涙が出た。

◆南極に広がる光景は未知の世界だった。宇宙を生きている事を実感させられるそんな大地が南極だった。隕石探査の事を楽しそうにお話くださった。コンドライトも鉄隕石も火星・月からの隕石も南極では見つかっている。阿部さんも隕石探査に大いに魅せられたようだ。ヒマラヤの東から南極まで過酷だが、壮大なお話を聞かせていただいて有難うございました。最近地平線会議には北海道の風が吹いている。樋口さん、澤柿先生が繋いで下さったご縁だ。その事を嬉しく思う。(中嶋敦子 親の介護で30年封印してきた登山を再開したアラインゲンガー《単独行者》)


このところ、法政大学の澤柿教伸(たかのぶ)ゼミの学生たちが熱心に地平線報告会に参加している。その都度感想も書く。内容的に報告会レポートと重なる部分もあるが、青年たちの挑戦は評価したい。(E)

「知りたい」というアンテナをたてて――笠井亮佑

■カメラマンでビデオジャーナリスト、そして株式会社極食代表取締役である阿部幹雄さんの話を聞くことができた。阿部さんは学生の頃からカメラが好きで、修学旅行に行かない代わりにカメラを手に入れることができたそうだ。私もカメラが好きで、バイトができるようになり、お金が貯まるまでは我慢したが、阿部さんのカメラへの思いは、そこまで待つことはできなかったようだ。そんな阿部さんは、生態系の頂点である動物を撮ることが多いという。絶対的な自信があるというところが似ているのではないだろうか。少なくとも、私はそのように感じた。

◆その自信は傲慢ではなく、それまでの経験や実績があるからこそのもので、常にアンテナをはっているからだろう。アンテナといっても様々なものがあると思うが、阿部さんのそれは、危険へのアンテナである。報告会後の二次会で阿部さんは、「南極に行くと、感じるメーターがハイになる」と話していた。その状態では、テントの外の気配なども分かるし、死者の魂も感じることができるそうだ。「君たちが感じるものと、私や澤柿さんが感じるものは違う」とおっしゃっていて、悔しいと思いながらも、そうなのだろうと、納得した。

◆ではどのようにすれば、その状態になれるのだろうか。阿部さんの話を聞いていると、一つの事に集中する「ゾーン」とは違うようだ。逆に、全てのものを感じる、というようなものだ。考えた結果、都会でスマホのマップやSNSを見ながらのんきに歩いているようでは、その状態にはなれないようだ。阿部さんがおっしゃていた「都会では感じることができない」というのは、そういうことなのだろうと私は解釈した。

◆以前ゼミで行った巡検のように、今、自分がどこにいて、どの方向を向いているのかくらい分かるようにしなければならないと感じた。そう考えていくと、以前の報告会の二次会でお話させてもらった、船で地図などを見ずに島から島に行っているというあの方もアンテナを常にはっていて、自分の位置や方角を探るなにか(星や鳥など)を見つけ出しているのだろう。

◆まだ数回しか報告会に参加していないし、二次会に行けなかった回もあったが、地平線会議に参加している方々は、「様々な分野の専門の方の話を聞きたい」という知的欲求のままに来ており、そういった意味では「知りたい」というアンテナをたててきている。もしくは、もとからそのアンテナをはっているから、地平線会議に辿り着いたのだろう。そして、話を聞いて終わりではなく、何らかの形で、自分の研究や趣味に活かしているのだろう。

◆では、私たちゼミ生は、なにか小さなことにでも活かすことができているのだろうか。下川知恵さんの話を聞いて、写真や文章だけでは得られないものを求め、居候を通して、その村の人や文化を感じたいと思い、行動に移せたか。青木麻耶さんの話を聞いて、嫌なことから一旦は逃げて、興味のあることを突き詰めていけたか、星泉さんの話を聞いて、「言葉の背景」を探ろうとしたか。どれも中途半端に終わっている気がする。

◆報告者と同じことはできないが、まねごとなら私たちにもできる気がする。例えば、青木さんは琵琶湖をママチャリで一周から始まったわけで、最初はまねごとでも、なにか行動してみることで、自分のやりたいことが見つかってくるのではないかと私は考えた。今回、阿部さんの話を聞いて、アンテナをはって、探検をしてみたいと思った。なれしたんだ登山なら取り入れやすいので、この夏休みで、スマホを使わない登山計画を実践したい。

◆このように、自分に取り入れられるものが、地平線会議には多くある。それは、報告者の話だけでなく二次会での会話の中にもある。地平線会議でも質問の場はあるが、実際、とても良い質問が浮かばない限り質問することはできない。会話の中で、自分の知りたいことや聞きたいことが自然とでてくるのが二次会のメリットの一つとして挙げられる。二次会での私は、まだ聞き手としての自分が抜けきれておらず、「会話」と呼べるか微妙な、質問攻めか、頷く機械になってしまっている。上手く、冒険家から吸収できるように、会話し、繋がりを持てるようにすることを後期の目標としたい。

◆最後に、私のこれまでのレポートは、報告者の話していたことの流れをざっくりとまとめ、気になったことをピックアップし、それに対しての意見を少し書く、というものだった。しかし、地平線通信を読むと、報告の流れはもちろん、その方の性格や大事にしていることが良く分かるように書かれている。今回は、そんな「人」がみえてくるような内容を意識して書いてみたが、報告の内容が薄れてしまった。そのバランスがつかめてくれば、地平線通信のような、読者を引き込む文章ができるのではないだろうか。

経験が経験を呼ぶ――大森琴子

■7月の報告会では、阿部幹雄さんの講演を拝聴した。阿部さんは極食の代表取締役やビデオジャーナリスト、カメラマンとして、山やヒグマ、イトウなどの生物を撮ったり、報道カメラマンとしてゴルバチョフさんもカメラに収めている方だ。お話の中で一番印象に残ったのは、ミニャ・コンガ登山についてだ。ミニャ・コンガはチベット高原にある山で、標高7556m、東シナ海からくる湿った風が山脈にぶつかり多量の雪が積もるという厳しい雪山だ。

◆「目の前で人が恐怖を感じながら落ちていく」。目の前で人の死を体感するというのはどのようなものか想像ができない。衝撃は計り知れないだろうし、きっと阿部さんにしかわからないものなのだ。思い出したくもないトラウマになってしまうかもしれない。もし私が同じ状況に立っていたらと考えると心が苦しくなってくる。自然の猛威の中では死が隣り合わせだということを改めて思い知らされた。

◆阿部さんは、遺体には魂があると考え、遺体捜索に出るため、またミニャ・コンガと対面することになった。見つけた遺体は荼毘に付したと話す阿部さん。魂を解放するまで、どう責任を取ればいいか、なんで自分は生き残ったのかを考え続けた。捜索に出てから、気付いたことがあった。写真を撮っていたことで遺体の身元が特定できたのだ。生き物、社会のために生きる使命がある。自分には写真を撮るという使命があるのだ。そのように真っ直ぐに話す阿部さんを見て、素直にかっこいいと思ったし、尊敬の気持ちを抱いた。重く辛い経験をしながらも信念を強く持って生きる姿はとても輝いている。

◆今までも澤柿ゼミに入ってから地平線報告会を通して、いろんな方の生きた軌跡を拝聴してきたように思う。青木麻耶さん、星泉さん、阿部幹雄さん。それぞれが信念を持って活動をしていて、輝いている。地平線報告会の場にいると貴重な話を聞くことができてとても面白い。自転車旅の、寄り道して経験を得たものが活かされたという話、言葉があると世界がクリアに見えるという話、生きる使命についての話。いろいろな体験談を聞くことで、今まで頭をかすめることすらなかった自分自身の「生き様」について考えるようになった。

◆大学を卒業してからどうするか、何を目標に進んでいくのか、なぜ生きたいのか、何が自分にとっての幸せなのか。触発される。でもただ考えているだけで日常を過ごしているだけ。本を読んだり感銘を受けたりするが未だ行動に移せていない。というか考えれば考えるほど何をしたらいいのかわからなくなる。そんなとき思い出したのが、青木さんの経験が経験を呼ぶという話だ。自分の経験を振り返って考えてみることにした。

◆5月に澤柿先生の誘いで北海道の手稲山で行われた北大の野外実習に参加した。その時は、初めて登山靴を履き、雪の積もった山を歩いた。登山と言えるものではなかったが、自然に囲まれて筋肉を動かすというのは心地よいことを知った。この体験から次に繋げていきたいと思った。自然に触れることは自分にとって幸せだと感じることの一つだと確信した。そのため、「行動に移すことその1」に登山を設定することにした。

◆夏休み中に予定していた富士山は天候が悪いため延期になったが、他の日程を調節して何かしらの山には登ると決めた。自分の中で目標を決めることは、地平線報告会に行ったからこそ出来たことであると思う。私は自分自身を見つめ直して目標を見つけるというところに、地平線報告会に参加する意義を見出した。

◆7月までの私の地平線報告会のポジションは、ただの拝聴者であったと思う。報告者のおかげで聞くだけでもとても有意義なものとなっていたが、受け身に徹していては成長なんてできない。自分自身の成長のためにも、秋からは積極性を加味していきたい。土曜の朝に予定を入れずにできる限り二次会に参加する。特に、水と山と森林に根深い方の報告の時は意識して行く。これを「行動に移すことその2」に設定する。

◆最後に、自分たちゼミ生が地平線通信に書く文章は、澤柿先生の調節を経て寄稿しているためなんとか掲載できるものになってはいるが、まだまだ未熟で稚拙な文である。私たちに比べ、地平線通信の表紙を飾る江本さんの文章は、新聞のコラムのように読みやすく、読むと考えさせられるなと思うような文章だ。出だしには、話題になったニュースや社会情勢、政治についてなどの誰もが耳にしたことのあるテーマを持ってきて、前のテーマのキーワードと関連のある話題へ転換していく流れがあった。“◆”で区切られる文は簡潔だが情景が浮かぶ表現が用いられたりするので読み応えがある。

◆少し真似をしてみたところで、江本さんのような文章が書けるようにはならないが、社会学部生として、社会の話題につなげることは真似すべきなのではないか。難しいかもしれないが少しずつでも成長していきたい。

毎回得るものがたくさんある――長島優衣

■7月の地平線報告会で阿部幹雄さんの話を聞いた。阿部さんは主に、自分が経験してきた出来事や取り組んできたことについて話してくれた。中でも最も印象に残ったのは共に登山をしていた7人が滑落し亡くなってしまった話である。この事故以来、毎年必ず遺体を探しに行き、見つかった遺骨や遺品を遺族に届け、それが生き残ったものの務めであると考えたそうだ。事故から何年も経ち、“なぜ自分だけ死ななかったのだろうか”と考えるのではなく、“自分は生きているのだから生きている理由を見つけよう”と前向きに考えるようになったと仰っていた。

◆初めは自分だけが生き残ってしまい、責任を感じてしまっていた阿部さんであったが、事故から何年か経ち、自分の使命を全うすることが亡くなってしまった方たちが望んでいることなのではないか、と前向きに考えるようになったと仰っていた。この言葉を聞き、どんなに辛いことがあっても前向きに自分の人生を生きることで新たな目標や、夢が見えてくるのではないかと感じた。

◆自分の目の前で仲間が亡くなってしまうほどの辛い経験をした阿部さんだが、阿部さんだけでなく、これまでに聞いた報告には、何度も死にかけたり危険な目にあったりした話があった。それにもかかわらず山に登り続けたり旅を続けたりするのはなぜだろうか、と疑問に思った。それは自然が好きで、危険な目にあってでも見たい景色があり、自分が見た景色を人々に伝えたいからなのではないか、と色々な方の話を聞いて思うようになった。

◆世界中を旅している方々は、旅の仕方は自転車や登山など様々であるが、その国の文化や慣習などを受け入れ、それを私たちに伝えてくれる。地平線報告会で話を聞くことで私たちが実際には到底経験できないことをたくさん知ることができ、「世界にはこんな文化や考え方があるのだ」と少しだが視野を広げることができているように感じる。

◆報告会が行われた後、毎月「地平線通信」が刊行される。私たちゼミ生の感想ものせていただいているのだが、他の方の感想と比べると自分たちの文章はまだまだであると実感させられる。江本さんをはじめ、出席者の大半は自らも世界の様々なところへ旅をしている方々である。その感想には自分自身の経験も書かれており、知識の豊富さに毎月驚かされる。知識が浅い私たちがそのような方々と同じような感想を書くことは不可能であると考えるが、無知なりに報告者の方やその方と関わりの深い地域について事前に調べたり、学生目線で他の方とは違う視点で考えるなど、できることは沢山あると思う。

◆今後は報告者だけでなく、出席者の方や自分以外のゼミ生の意見や感想も意識し、良い部分は自分なりに吸収していきたい。私たちはまだ数回しか報告会に出席できていないが、毎回得るものがたくさんある。報告者の方の話に共通していたのは、「夢があるのなら諦めてはいけない」ということである。阿部さんは子供の頃から南極観測隊員になりたいという夢を持っていたが、「自分はもう50歳を超えているから観測隊員になれない」と諦めかけていた時にチャンスが巡ってきて、夢を諦めていた自分を恥じた、と仰っていた。まだ学生である私たちには、これから“挑戦する機会”がたくさん巡ってくると思う。

◆その機会を自分のために有効に使いチャンスを掴むか、どうせ無理だとやる前から諦めるのかは自分次第である。報告会を通して、夢を諦めてしまうのはとてももったいないことであると感じた。周りの目や意見を気にするのではなく、自分のやりたいことがあるのならば、まずはやって見てそれを最後までやり通そうと思った。

◆地平線会議を運営している江本さんをはじめ、関わっている方々はとても経験が豊富な方々である。多くの報告者の方から、私たちのゼミの教員である澤柿先生の名前が挙がることがしばしばあり、先生も報告者の方々と同じような様々な経験をしていらっしゃるのだと改めて実感する。先生が南極観測隊員であったことは以前から知っていたが、振り返ってみるとその経験について詳しく聞いたことはなかった。経験豊富な先生の元で学べるということも貴重な機会であるので、地平線報告会への参加はもちろん、今まで以上に普段のゼミの活動を大切にしていきたい。

◆ゼミ生として、地平線会議に参加する意義とは、視野を広げると共に様々な人の経験を聞くことで、新たなことに挑戦する手助けとなることであると思う。私は8月にカナダへ語学研修にいく。1ヶ月という短い期間ではあるが、現地の文化を学ぶことや人々と関わることで多くのことを得られるような期間にしたい。この経験は人生の中でもとても貴重な経験になると思うのでこの機会を無駄にせず頑張りたい。


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