■「今回の報告会は私の大好きなボルネオでの滞在のお話です」と少し日焼けをした顔で報告を始めたのは、下川知恵さん。今年の1月に成人式を迎えたばかりの早稲田大学探検部3年生だ。初めての報告会で緊張しているのか、声が少し震えている。旅の舞台であるボルネオへは1年前から通い始め、渡航歴は3回。滞在期間は計4か月。「もしかしたら『たったの4か月?』と思われる方もいるかもしれません。旅の超ビギナーである私がこの場で話をさせてもらうことは地平線にとってはイレギュラーなことだと思います。旅の概念すら固まっていない私ですが、なぜボルネオに惹かれたのか、何が私をそこに引き込んだのか、なぜ没頭できたのかを上手くお話できればと思っています」。
◆ボルネオとの出会いは探検部から始まった。箱入り娘として育ち、探検や旅とは無縁の生活を送っていたが、「本当に好きなことを見つけたい」と思うようになった彼女は大学で探検部の「巨大アナコンダを探せ!!」というビラに出会う。それに衝撃を受け、探検部の部室に足を運んでみると、そこには山積みの過去の計画書や報告書が待っていた。それから「探検」を真剣に考える日々が始まる。しかし、煮詰まり過ぎた結果、「道具と手段の創出」という行為に至った初めての探検は大学1年の夏休みを使い果たし、道頓堀川をコラクルというお椀の舟でクルクルと回りながら5時間かけて3キロ遡上することで終わった。
◆そんな夏の探検を必要な通過点だったと語る彼女の視線は次第に海外に向き始める。そして、暮れも押し迫った11月下旬、関野吉晴さんの映画「僕らのカヌーができるまで」に出会う。「僕らのカヌーができるまで」は日本での道具の製作からはじまり、インドネシアの森で縄文号というカヌーをつくるまでを追ったドキュメンタリーだ。それを観て、「舟をつくるのは、日本じゃなくてもいいじゃないか」という思いに至る。
◆思えば僕が彼女に出会ったのはその頃だった。高野秀行さんとのトークバトルの2次会の席で出会った彼女は真剣に「探検」について語っていた。具体的にどんな会話を交わしたのかは覚えていない。その夏の探検の話だったと思う。ただ一般的な視点からすれば意味のないと思えるようなことを熱く切々と語る彼女を面白く感じたし、その雰囲気に気圧されもした。そして、それ以上に「探検」と真摯に向き合っている彼女を羨ましく思ったことを覚えている。
◆「見たこともない大河を下りたい」という想いの中、「寒くなくて、急流がなく、日本人の記録がない、自然の多いところにある大河」が次の舞台の条件になった彼女の目に飛び込んできたのが、ボルネオのジャングルだった。彼女は6本の予防注射を打ち、ボルネオ島のインドネシア領カリマンタンに川下りのための偵察に向かった。
◆ボルネオはインドネシア、ブルネイ、マレーシアに跨る赤道直下にある島。面積は日本の2倍あり、世界で3番目に大きな島だ。森の賢人オランウータンが住み、たくさんの森を蓄え、その島は、現在森林伐採が進み、アブラヤシ農園の開発が拡大している状況にある。そんなボルネオの中心部、「Heart of Borneo」と呼ばれ、原生林が残り、大河の上流部にある地帯を彼女は目指した。目指す場所はロング・スレ村。近郊のマリナウという村からセスナを使えば1時間半だが、陸路で行く場合は、車で2日間走った後、森の中を5日間歩き、ボートで半日川を上る必要がある。「川をゆったり上るのは、すごい気持ちがいいです」と話す彼女の顔から笑みがこぼれる。
◆村に住んでいるのは、ダヤック族。大昔からボルネオの熱帯雨林と暮らしてきた先住民だ。ダヤックは特定の人々を指す言葉ではなく、太古から続く焼き畑で陸稲を栽培する農耕民で、数えきれないほどの部族がいる先住民の総称だ。イスラム教ではなく、そのほとんどがキリスト教を信奉している。混血も進んでいるが、村が違えば顔つきも違い、そして、言葉も違う。
◆かつて大陸から移動してきたと言われる先住民は日本人に顔つきが似ており、肌の白い人が多い印象だ。「村に滞在することで、ダヤックの人々が私の関心の中心になりました。一緒にいる時間が楽しくてしかたなかった。だから、川下りの計画は止めにしました。大河を下るよりもダヤックの人々の生活を知りたい。そう思うようになりました」。
◆そんなロング・スレ村は、ボルネオ先住民族の中でも、動植物の狩猟採集によって生活してきたプナンという人々で構成されている。プナンはかつて森を移動する生活をしていたが、現在は政策によって定住化されている。20数年前、森林伐採問題の象徴としてプナンが日本でも注目された時があった。「オランウータンは知っていても、プナンのことは知りませんでした。私は社会的主張の裏側に隠されたプナンのありのままの生活を伝えたい」。
◆村に宿はなく、知恵さんが家族と呼び、今では彼女を我が子のように可愛がる45歳のお母さん(アウェ)と同い年のお父さん(ヘルマン)の家に泊めてもらうことになる。お母さんはお菓子作りが得意で、熱いお茶と一緒に食べるドーナツを、毎日いっぱい作ってくれる。歌うことが好きな彼女の日常は歌で溢れている。ときには遠慮せずにしかってくれるお母さんだが、感謝の気持ちを表すときに使うのは片言の日本語「アリガトッ」。一方、お父さんは狩猟が大好きで、今も森の中で獲物を追っている。
◆ボルネオの家族の話をするときの彼女はとても楽しそうで、たくさんの「大好き」に囲まれているんだと想像できる。「これまで1か月半滞在させてもらっていますが、前から知っていたんじゃないかなと思うくらい。私にとってそこは気兼ねなくいられる大事な場所です。帰る家であって、そういう場所が当たり前にあることを幸せに感じています」
◆慣れない森を抜け、初めて村に辿り着いたとき、彼女の足はピンクのぶつぶつがたくさんできていた。痒く、見た目もひどかったのだが、それを見かねたお母さんが落花生を潰して薬をつくり、有無を言わさずたっぷり患部に朝晩塗りこんでくれ、数日後にはすっかり治ったのだという。「それからとてもお母さんのことが好きになりました。コミュニケーションする度に嬉しくて、いつもお母さんの傍をうろうろしていました」。
◆しかし、当然しゃべる言葉には全くついていくことはできず、「テリマカシー(ありがとう)」しか伝えられなかった。「村を去らねばという頃に、お母さんから『次はいつ戻ってくるんだ?』と聞かれました。聞き取ることはできましたが、それを伝えることができませんでした。それが悔しかった。この村に戻ろうという気持ちを伝えられない。むしろ困ったような顔をしてしまいました。それが悔しかった」。
◆帰国してから半年、電話をしても意思疎通ができない日々が続く。それがある日お母さんから「流暢になったね」という言葉が届いた。「すごく嬉しかったです。自分の頭と言葉を介して伝えることができているんだって。言葉ってすごい。言葉を交わすことで自分と相手の距離感が掴める。何かを言って、同時に笑う。同じ感情を共有する。すごく当たり前のことですが、他の国の人も笑うんだって。同じことに対して笑っている。それが嬉しかった。同じことに感動している、理解しているという感覚。言葉というツールってすごいんだなって」。そんな彼女はこの春からプナンの言葉も勉強し始めた。「プナン語を話せれば、村のおじいちゃん、おばあちゃんとも話しができるんです」。
◆どこまでも青い空の下、赤茶けたトタン屋根の家屋が並んでいるロング・スレ村での生活に水の存在は欠かせない。あらゆる場面でそれは使われる。水浴び、洗濯、食器洗い、煮炊き。川には食料となる魚がいて、森や畑に繋がる道の役割を果たしている。「私はそれぞれの村の人達がひとつの川で一緒に暮らしているということに大切さを感じます。同じ釜の飯という言葉がありますが、同じ川の水で生きている。村と村を直接繋ぐ吊り橋のようなものよりも川のことをより大事なものと感じています」。
◆そんな村の人達は日々を村の畑や森で過ごしている。森の中では猪や猿、鹿を狩り、林産物、砂金を採集する。仕事はみんなで行い、中でも米作りはそれがないと生きていけないくらい大切なものだ。米は焼き畑で育てる陸稲だが、数年すると土地が痩せてくるので、別の場所でまた焼き畑を始めることになる。その間、それまで陸稲を育てていた場所は放置され、再び森に還っていく。そんな焼き畑が森林消失の原因というイメージもあるのだが、木材としての森林の伐採や農園開発が入る前からずっとそうした伝統的な焼き畑農法は続いていた。
◆一方で川の中流部では人口増加により土地が足りないという現象が起き始めている。その結果、回復途上の場所で焼き畑が行われるため、大地がダメージを受け、土地が死んでいく。だから、一概に焼き畑が森林消失と関わりがないわけでもない。そんなダヤックの伝統的な農法も少しずつ変化の兆しを見せている。もともと狩猟採集民だったプナンの住むロング・スレ村で水田が流行りつつあるのだ。水田は焼き畑と違い場所を移動させなくていいというのが、その理由だという。
◆一方、タンパク源は森や川から男達の手によって調達される。森で過ごす時間は仕事ではあるが、娯楽に近く、何週間も続く森での生活は、まるで友人同士で行くキャンプのようだ。狩りには猟犬と槍を持っていく場合もあるし、鉄砲や吹き矢のときもある。例えば猿の狩猟は吹き矢を使う。毒の付いた矢が当たった猿はやがて筋肉が弛緩し、樹上から地面に落ちる。そこを捕まえるのだ。
◆そんな男の仕事が森の時間の流れに密接に関係しているとするならば、女の仕事は村の時間の流れに密接に関係している。村の日々のタイムラインは東の空が白む頃、朝を告げる鶏の鳴き声と共にはじまる。6時前、お母さんがお湯を沸かすためにかまどに火を点ける。しばらくするとドーナツを揚げるジュッという音が聞こえてくる。お父さんが起き出してくる頃には朝食前のおやつであるドーナツができあがっている。お母さんの愛情がいっぱい詰まったドーナツだ。
◆沸かしたお湯をポットに移し替え、朝食のおかずを温める。まだまだ眠い時間帯。そこからコメを炊きながら、カボチャのココナッツスープを温める。甘くて優しい味のスープ。やがてご飯が炊きあがる。朝ごはんのおかずはイノシシとパパイヤのココナッツ煮だ。10時過ぎに学校の事務仕事から帰ってきたお母さんが洗濯を始める。洗濯には洗濯板は使わない。
◆11時になると工芸品ラタン(籐)を作りにシディム家に向かい、そのままシディム家の人々と焼き畑へ。農作業をするか、焼き畑の傍にある小屋でラタンを編んで時を過ごす。時折焼き畑を風が吹き抜けていく。昼過ぎに昼支度がはじまる。おかずは畑で採れたものだ。茄子ときゅうりのスープは、ネギやにんにくを鍋で炒め、そこに水を張り、沸騰させ、塩と味の素で味付けしたものだ。ミョウガに似た植物は周りの皮をむき、手とナイフで切り分け、サラダ油で炒める。まな板は使わない。
◆味付けはこれも塩と味の素。サラダ油がなくなれば、イノシシの油を使うこともある。バナナの葉がお皿代わりだ。夕方になり焼き畑から村に帰ると彼女の帰りを待ち構えていたお母さんとのおしゃべりがはじまる。そんなおしゃべりの合間にお母さんの淹れてくれたお茶を飲む。砂糖は大きなスプーン2杯分。とても美味しい。だんだん辺りが暗くなってくるが、家の外ではまだ近所の子供達がチャンバラごっこをしている。19時前に日が沈み、空の色が夜の色へと変わっていく。その時間になるといつもロング・スレ村のあの空のことを日本から想う。
◆そろそろ子供達の集会も終わる時間だ。給電がうまくいく日には村に電気がやってくる。そんな日はテレビのある家にみんなが集まる。21時頃、お父さんが切り株の上で猪の肉を切り分ける。味付けはナツメグやウコン、コショウなどの香辛料だ。香辛料と混ぜた猪の肉に甘いケチャップを加え、煮込む。これを朝にもう一度煮て食べる。23時になり、お母さんが明日のおやつの下ごしらえを始める。下ごしらえが終わるとようやく就寝だ。「スラマッ・トゥルイ(おやすみ)」。
◆「村に戻りたいと思うのは、お母さんへの憧れがあるからです。たくさんの生活の知恵を持っていて、何事もテキパキとこなしていくお母さん。見ず知らずの私にも惜しみなく愛情をかけてくれます。それはきっとお母さんであることの誇りからきているんだと思います。私はお母さん達がつくってくれている村の空気が大好きです。私はまだお母さんの手つきでは洗濯物を洗えません。お母さんは誇らしげに「日本に帰ったら機械で洗濯するんでしょ? ここには笑ったり、泣いたり、怒ったりする優秀な洗濯機があるのよ」と言います。ボルネオでは家事がとても素敵なことに見えます。いつか同じ手つきで洗えるようになりたい。そして、そんないつかを想像するのが楽しい」。
◆村に滞在する間にラタンの伝統手工業を学び始めた。ラタンの工芸品はまず籐のいらない外皮を落とし、しっかりと乾燥させることから始まる。その後、節についた皮をナイフで落とし、籐に切れ目を入れ、4等分にし、割いていく。割き終ると芯の部分を取り除き、更に4等分していく。そして、透けて光が差し込むくらいうすく削っていき、幅も均一にしていく。次に染料である土を使って、籐を染めていく。染め上りは深い黒。これと染めていないものを使って複雑な模様を編み込んでいくのだ。こうした工芸品はいつ採れるか分からない林産物とは違って、安定的な現金収入源となる。
◆ここで時計の針が21時を告げる。報告会はそろそろ終わりだ。彼女は名残惜しそうな表情で、たくさんの想いを編み込むように結びの言葉を繋げた。「私はロング・スレ村のありのままの姿をこのままちゃんと見ていきたいと思っています。現在の彼らを肯定し続ける一人の日本人でありたい。森の移動生活を止めた彼らはもはや狩猟採集民ではないのかもしれません。もう少し前に生まれて、彼ら本来の姿を知ることができなかったことにちょっとだけ寂しい気持ちもあります。でも、私が惹かれたのは活き活きと暮らす今の人々です。
◆「探検」で埋め尽くされていた頃の私はプリミティブなものの方が魅力的だと思っていました。でも、実際に彼らと出会って考えが変わりました。民族としての誇りを失わず、時代の流れを受け止め、そして、受け入れている。そのことに心を動かされました。これからも自分達の理に適った生き方をしてほしい。同じ日常を生きている村の人達ですが、いつか気付いたら舗装した道が村の所まで伸びてきて、森を歩き続ける生活は必要ないものに変わっているかもしれません。それでも彼らにとって大事なものは守っていってほしいなと思います。
◆時代の流れと折り合いをつけながら、プナンらしく生活を続けていってほしいと願っています。私はこの2年間、旅、探検、研究という未知の世界への様々な向き合い方を知りながら、自分にできることは何かを考え続けてきました。近い将来、私は何者かにならないといけません。そのときには今よりもきっと制限されることもあると思います。それを思い、大人になるということに怖気づく自分もいます。でも、彼らとの出会いはこれからもずっと大切にしていきたいものです。
◆「これからもよろしくね」と言い続けられるように、彼らにとって意味のある人間になりたい。私は彼らには気付くことのできない、私が大好きな当たり前で何でもないことを、スナップ写真を撮るように残していく存在でありたい。日常を撮り留めていく中で、後で見返したときに大事なことが分かる気がしています。今の彼らの姿を切る取ることは、いつか彼らの財産になると思っています。それはプナンじゃなくて、外側の人間だからできることだと思います。そして、そのことを言葉を尽くして自分以外の誰かに伝えることに今後も挑戦していきたい。それが大好きなロング・スレの村の人々に対する感謝であり、愛情表現になると思っています」。
◆報告が終わり、29年前からボルネオに通い続けている樫田秀樹さんからは「この地域に入っていくのは99%、NGOの職員か研究者です。こうして家族として入っていく人間はいない」という言葉が送られる。そして、28年前に森林破壊に抗議するプナンの映像を撮りに行った高世仁さんはあの頃を思い出し、「当時『日本のサラリーマンは仕事を終えて、みんなで焚火を囲みながら楽しんでいるのか?』と聞かれ、自分達の生活を振り返させられたんだよね」と時代の変化と共に暮らしていく彼らの生活を見て、嬉しそうに語っていた。
◆最後に地平線通信468号のタイトルの話を。タイトルの文字は、「BATAQ(伝言)SOQ(の)SEFAQ DI(下流の彼方)」というプナン語から来ている。プナンにとって下流へと続く森の向こう側は未知の世界、地平線なのだ。彼女はこれからどんな言葉を森の向こう側から届けてくれるのだろうか。(光菅修)
「地平線会議」──今ではもうすっかり、毎月恒例の楽しみである。地球のどこかを歩くことが大好きなおとなたちが集まる場所。月末金曜日の報告会、そして、中旬水曜日の通信発送作業。そこに行けばいつだって浴びるように聴くことができる、世界中・日本中のお土産話や思い出話。
月に一度の報告会、熱い語りに心いっぱいになったあとは、それを消化する間も無く、中華料理屋「北京」での賑やかな二次会が始まる。
最初こそ感想を口にし合うけれど、あまりにみんなの話の引き出しがひっきりなしに開くから、話のはあっちへいったりこっちへいったり、纏まることはまずないし、1つの円卓で話題が4つくらい同時進行しているのが平常運転だ。
その勢いは、ぽんぽん弾けるポップコーンみたいだ。たまに議論がありながらも、大体はみんな好き勝手、言いたいことをばらまいてゆく。それをじぶんで拾い集めるのがすごく楽しくて、そのワクワク感は、この場所に出会ったときから変わることがない。そうしていつの間にかお開きの時間がやってきて、物足りないくらいの気持ちでいつも帰路につく。
探検部駆け出しという頃に、初めて足を運んだ地平線。それ以来、だいすきなボルネオのことは小出し小出しに聞いてもらうくらいで、それよりも、弾けたポップコーンを回収するのにとても忙しかった。
そんなわたしが今回、「報告者」をすることに……。報告会直前までの一月間、そのプレッシャーはずっしりと重く、あたまを抱え続けた。専門家でもなければ、輝かしい旅の功績や、話の華になるようなドラマチックな展開をまだなにも得ていないわたしが何を語れるだろうか。聴きにきてくれる人を退屈にさせやしないだろうか、いやいや、いったい誰がわたしの話を聴きに来るというのか。「わたしには早すぎる」と思った。
けれど、報告会への準備を闇雲ながらも進めていると、いつしかあれもこれもと、全部伝えたい欲張りな気持ちが出てくるようになった。日本にいる間に恋しくなる、もうすっかり耳に馴染んだお父さん・お母さんの話し声だったり、ふとした会話の回想だったり、村人の表情や村の景色、熱帯の直射日光、スコールの前の空の色、焼畑を吹き抜ける風。ロング・スレ村のなんでもない毎日の中にあるものこそ、わたしをときめかせているもの。東京ではぜったいに見つけられなかったもの。わたしが話したいことの全てだった。しまいには、2時間と30分じゃとても語りきれず、何度かのショートカットも避けきれず、駆け足に報告会は終わった。自分でも驚くほどの束の間だった。
地平線報告者になって、何よりもわたしが感動したのは、あんなにたくさんの人たちが、真剣にわたしの関心に耳を傾けてくれたことだった。これまで話を「聴きに」足を運んで来た私にとっては、それがとても新鮮だったのだ。なんだかボルネオの毎日が、自分だけのものじゃなくなったような感じがして嬉しい。
お洗濯しながら、籐を編みながら、「日本のみんなに教えてあげるのよ」と誇らしげに言っていたボルネオのお母さんたちに、少しでもはやく伝えたい、とっておきの土産話ができた。熱いお茶とお手製のお砂糖ドーナツをいっしょにつまむ昼下がりに。お母さんは、どんな顔をして聞いてくれるだろうか。(下川知恵)
■下川さんの第468回地平線報告会、私にとってまさに共感と驚嘆が何度も押し寄せてくるような2時間半でした。共感というのは、まず私と同じ住み込み(定住)型の旅だったこと。事前に情報を容易に集められる時代になったせいか、最近は短い日数の旅でも驚くほど密度の濃い体験をしてくる人が多いし、現地の側もお客慣れして、どうすれば外国人が喜ぶのかを心得ています。でも、そうやって「おいしいとこどり」をしている人にはけっして見えない世界が、私たちには見えてくる。下川さんの話のそこかしこに、うんうん、そうだよねとうなずく自分がいました。
◆もうひとつの共感は、地平線報告会という場に登場することへのプレッシャーです。何を隠そう(誰も聞いてくれないから話さないだけだけど)、私はいまから38年前の第5回の報告者です。当時は下川さんと同じ早稲田の学生で(6年生だったけど)、カラーシャの村に滞在したのは正味3ヵ月弱。そんな情けない自分が、居並ぶお歴々(つまり地平線会議の創設メンバーたち)を前に「報告」をすることになるなんて、どうしよう!
◆中学時代から洞窟探検にのめり込んだ私は、山と溪谷社から出ていた季刊誌『現代の探検』を毎号なめるように読み、大学探検部や観文研(日本観光文化研究所)で活躍してきた地平線の創設メンバーたちにミーハー的な憧れをいだいていました。この人たちに仲間として認めてもらえるかどうか、ここは一世一代の大勝負だぞと、ぎんぎんに緊張していたのを思い出します。
◆だから、夢中になってしゃべったあと、怖れ多い先輩たちから口々にかけてもらった温かい言葉に感無量でした。そして、自分が何をやってきたのか、何をやりたかったのかが、報告会の2時間半のあいだにすっとわかってきたんです。得がたい体験でした。これが私にとって、まさしく人生の「通過儀礼」だったと思います。これまでも下川さんはあちこちで存在感を示してきましたが、この報告会によって、地平線会議のなかに忘れ得ぬ足跡を刻みましたね。
◆驚嘆のほうは、まず構成の見事さ、表現のうまさです。住み込み型の旅をしてくると、彼らのこんなところを紹介したい、ここも知ってほしいとついつい欲が出て収拾がつかなくなってしまうのに、必要最低限に絞りきれている。ときおりはさまれる動画もとても効果的で、現地の空気感がリアルに伝わってきました。とくに「お母さん」の一日を時間軸で追いかけたコーナーは出色の出来。こうしたなにげない日常の積み重ねでしか表現できない世界こそ、宝物だと思います。デジタル世代はさすがに映像を使ったプレゼンテーションがうまいと、感心させられました。
◆観察のきめ細かさも特筆すべきですね。生活している人たちの手元をじつによく見ている。言葉がまだあまりしゃべれなかった時期だったし、下川さんがイラストを描く人だからなのかも。複雑なラタン編みの各工程をあれだけ手際よく説明できるのは、やっぱり観察力の賜物でしょう。「自分は、お母さんたちと同じ手つきでは洗濯物を洗えない」というセリフには、しびれました!
◆そして何よりも驚いたのは、まだ20歳なのになぜあんなにモノゴトがよく見えているんだろうという点です。ただ観察するだけではなく、それをプナン人の文化のなかに位置づけて、自分の言葉で語ることができる。村人たちの生業を語る冒頭で「女は村、男は森、焼畑の畑は老若男女の世界」などとずばり言い切ったり、橋と川の写真を見せながら、川が二つの村を隔てるものでもありながら人々をつなぐものでもあることをさらっと示したり。
◆なぜ下川さんがまださほど長くない滞在で、これほどまでの成果をあげることができたのか。もちろん、人なつっこい笑顔や素直さ、真摯さなども大きいだろうけど、ひとつには、すんなり村入りできたこともあるのでしょう。現地でフィールドワークをしている先輩の手引きと聞きましたが、おかげで時間を無駄にすることなく、ベストな家族とめぐり逢え、自然に受け入れてもらえた。その先輩にはいくら感謝しても足りませんが、でも彼にはこうなることがあらかじめ見えていたのかもしれませんね。
◆最後のまとめも圧巻でした。プナンの人たちの置かれている状況も、外部の人間である自分の立ち位置もよくわかっている。20歳の学生がこんな深い言葉を語れるなんて、信じられません。旅によって鍛えられたからなのでしょうか。38年前の自分はこんなレベルまでとうてい到達できていなかったなと、恥ずかしくなりました。最後に、「今日の報告会は、大好きな場所への愛情の、みなさまへのお裾分けです」と言い切りましたが、ああ、いい旅をしているなぁ、お見事!と、心のなかで快哉を叫びました。
◆狩猟採集から定住へと大きな変革を経験したプナン社会ですが、ケータイで世界とつながるようになって、さらに変化は続いていくことでしょう。そして、下川さん自身も変わっていきます。これから言葉がわかるようになると、家族たちの心のなかにもっと踏み込むことも多くなるはず。そうすると、村のなかのやっかいな人間関係に巻き込まれてしまうこともあるかもしれません。でも、いまのみずみずしい感動はきっと原点として残ります。そう、一度惚れちゃったら仕方がない、なんです。次の報告会ではぜひ、住み込み型の旅人しか語れない、人間ドラマも聞かせてください。(丸山純)
■地平線通信468号の次回報告会予告のキャッチコピー「森のおかあさんになりたい!!」に「もしかしたら」と思い報告会に参加したが、大当たりだった。私は、同じボルネオ島でも北部のマレーシア領サラワク州の熱帯雨林に住む先住民族の元に1989年から29年間、かれこれ30回ほどの訪問を重ねている。合計滞在期間は約2年。
◆1989年、無職だった私は「居候」としてボルネオの熱帯林の先住民族の村に住み込んだ。そのときの滞在でボルネオにはまり、そこで得た情報を雑誌に書いたことでジャーナリストデビューする。だがそれ以降のボルネオ訪問でも私はジャーナリストと名乗って滞在したことがない。なぜなら、居候こそが最高の関わり方だからだ。
◆居候をする。それはある家の「家族」になることを意味する。毎年のように滞在を重ねると、揺るぎない信頼関係が築かれ、こちらが質問をしなくても、彼らの日常、困っていること、本音などが判るようになる。一緒に行動すれば、彼らを取り巻く環境問題や社会問題も把握できる。
◆ところがサラワクに限って見てみると、この29年間、先住民の村を訪問する日本人の99%は、観光客を除けば、NGO職員、研究者、ジャーナリストなど、いい悪いは別にして、「調査の対象」として先住民族と関わる人たちだ。おそらく、インドネシア側でもそうなのかもしれない。
◆かくいう私もNGOなどに依頼されて先住民族の抱える問題(森林伐採やプランテーション開発での環境破壊など)について合同調査したことがあるが、やはり「調査する」側と「調査される」側との関係性は肌に合わず、ここ何年間かは調査から遠ざかっている。
◆私がサラワクに行ってまずやらねばならないのは墓参りだ。29年も関わっていれば、滞在当初お世話になったおじいちゃん、おばあちゃんは亡くなっている。その一人一人の墓に花を手向けるため、町の花屋で小さな花束を何十束と買う。調査者でこれをやる人はほとんどいない。
◆私が「森のおかあさんになりたい!!」のコピーでピンときたのは、下川さんは「居候」として「家族」としてプナン人と関わっているのではないかということだった。果たして、その通りだった。村にはお母さんもいるしお父さんもいる。女性陣と一緒に籐(とう)カゴを作り、一緒にご飯を食べる。是非、この関わりを続けてほしい。
◆サラワクには約30の先住民族がいるが、私と関わりの深いカヤン人はじつに穏やか。居候を続けていると、平凡な毎日でも心が充たされ、本気で「こんなに幸せなら、オレもう明日死んでもいいや」と思ったこともある。その理由の一つは、彼らが心優しいというだけではなく、こんなしょーもない男を大切な仲間だと心から「肯定」してくれるからだ。下川さんがその滞在にはまったのも、おそらくそれを感じ取ったからだと推測する。
◆ところで、ボルネオ島のインドネシア側のプナン人のことは本では読んだことはあるが、実際の写真や映像に触れたのは初めてだった。サラワクのプナン人と同じところや違うところの比較ができたのは面白かった。やはり同じなのは、籐製品の作り方やその紋様、吹き矢、そして川を基盤に共同体で生きることだ。
◆ちなみにインドネシアでもサラワクでも村の名前には「ロング」が多用されるが、これは「川と川とが出合う場所」、つまり合流地点という意味である。若干の違和感を覚えたのが、インドネシア側では、せっかくの獲物を全世帯に配分するのを嫌がる人がいるとの話。うーん、サラワクのプナン人ではそういう事例はまだない。こちらがお土産でもちこんだお菓子でも、小指の先くらいにしかならなくても、そこにいる全員に均等に配分する。「分かち合い」の社会が変貌する過渡期なのか。続報を聞きたい。
◆下川さんがあそこまで村に受け入れてもらっているのはやはりその素直さにあるんだろうな。「居候」を続ければプナン語もマスターし、ますますはまっていくのが目に見えるようだ。本当に「お母さん」になる日が来てもおかしくはない?! ただ、これからも滞在を重ねると、変わりゆく先住民族の生活にいつかは「居候」に加え、日本社会にメッセンジャーとして彼らの問題を伝えなければならない日も来るかもしれない。
◆私はそれもアリだと思う。ジャーナリストならそれを「ネタ」として扱うが、「居候」は愛すべき家族を「守る」ために声をあげるからだ。居候ほど互いに強いパワーを交換できる手段はない。下川さん、ボルネオを楽しんでください。(樫田秀樹 2017年10月、岩波ブックレット「リニア新幹線が不可能な7つの理由」を上梓)
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