■この話をいったいどうまとめればいいのだろうか。荻田泰永さんの話を聞きながら思いをめぐらす。ALEという南極ツアー会社のサポートのもととはいえ、荻田さんの単独無補給南極点到達は完璧な50日間の遠征だった。気象条件も予想通りで装備のトラブルもない。うっかりミスもない。それは17年にわたる北極圏での活動の経験とそれにもとづく装備ゆえなのだがそれだけ荻田さんの能力が高いということでもある。
◆報告の最初に流した5分の紹介動画でそれは十分にわかる。ほぼフラットな雪原を淡々と歩き続けたら何事もなく着きましたという話なのだ。つまり北極を活動の中心にしてきた荻田さんには夏季の単独無補給南極点到達はたやすかったということだ。そしてお金と体力さえあれば南極は観光旅行できる現実にも拍子抜けしてしまう。これはどうしたものかと。
◆2017年11月10日に火星移住計画でおなじみの極地建築家の村上祐資氏とチリのプンタアレーナスまで飛ぶ。100キロを超える荷物なので二人で分担してオーバーチャージを払う方が安いということか。日本を出発してカナダのトロント経由でチリのサンチャゴへ。そこからパタゴニアのプンタアレナスまで36時間の旅。プンタアレナスは南極への玄関口でもあり南極探検および観光のサポートとコーディネートをする会社のALE(Antarctic Logistics & Expeditions)がある。
◆今回、荻田さんは形式的にはALEのツアーの参加者として南極点をめざすことになる。単独行ではあるものの毎日ALEと衛星携帯電話で連絡を取り毎週1度ユニオングレーシアの医師の問診を受ける。そして荻田さんはGPS発信機を携帯しALEからモニタリングされる。報告会のあと、そんなんでもよかったんですか?と荻田さんに聞いてみたところ初めての南極だし自分はビビリなのでそれを承知の上でなんにも問題はないとのこと。
◆1980年代、植村直己さんが南極大陸遠征を犬ぞりで計画していた頃はアルゼンチン空軍に輸送を頼んでいた時代。フォークランド紛争が勃発するとアルゼンチン空軍は計画に協力ができなくなりあえなく遠征が中止になった。時代はかわって現代ではALEなどの民間の企業が冒険としての南極遠征のサポートだけでなく南極への観光客も受け入れるツアーを催行するようになった。南極はもはや観光地になっている。
◆11月15日、ソ連時代の4発の大型輸送機のイリューシンでプンタアレナスから南極大陸のユニオングレーシアまで4時間のフライトで移動。機体前部が乗客、後部が荷物。雪原に着陸し、車輌で8キロ離れた大型テントのあるキャンプ地に移動する。11月17日、ツインオッター機でヘラクレスインレットへ移動。20分ほどのフライト。機体内に固定された60日分の食糧と燃料を積み込んだソリの重さは約100キロ。初めての南極なので余裕をもたせている。荻田さんとソリを降ろしたツインオッターが離陸するのをみて、ああ、始まるなという思いがわいたという。
◆ヘラクレスインレットから南極点までは1130キロ。南極大陸のフチに位置するも氷に覆われていて標高は200mある。そこから徐々に標高を上げていき2800mの南極点に向かう。1130キロで2600m。アップダウンはあるもののなだらかな登り基調。はじめの30キロで一気に1000mあがる。南極大陸の海岸線からの傾斜はきつい。南極は北極と比べてフラットな雪原で恐怖感はない。
◆歩き始めると毎日同じ繰り返し。南極点から吹き降ろすカタバ風の強弱と風向きが地形や気象条件によって変化するものの天気はよく内陸に入るほど晴れの日が多い。風速は15メートルくらいがせいぜい。北極圏の3日間続く風速30メートルの立つこともままならないブリザードに比べれば楽。ただ北極は無風のこともある。ホッキョクグマもいないし氷が流されることもないので安心して熟睡できる。氷の状況で位置や風景が変る恐ろしい北極のようなことはない。南極には当然せりあがる氷の壁もなく乱氷も無いが時折、大きなクレバスはある。しかし見えるスケールなので巻いていけば問題はない。曳くソリの重さはスタート時に100キロあるも燃料と食糧を消費するので日々その重さは減っていく。
◆30日目で500キロの中間点に到達。そこからは3週間で南極点に到達の見込みがたつ。10日分の食糧があまることから5日分は余計なので積極的に食べるも食べ過ぎて腹痛に。摂取カロリーは5000キロカロリーから徐々に増やし最大5200キロカロリーにする。500キロ地点には滑走路がありドラム缶に入った燃料をデポしてある。赤いテントがありそこでロバート・スワンさんに思いがけず会う。スワンさんは80年代に初めて北極点と南極点に徒歩で到達した探検家で「北極を歩く」という著作もある。1989年に明大OBの登山家の大西宏さんらとアイス・ウォークで北極点に到達。その後、南極点に向かう直前の1991年、ナムチャバルワで大西さんは遭難死する。亡くなった大西さんを想って南極点に行ってくれとスワンさんに言われてジンとする。
◆12月25日のクリスマスはトナカイの角を頭につけネットの読者からは、「せんとくん」と言われる。1月1日はパック入りの鏡餅でお正月を祝う。小さく小分けされた餅でおしるこにする。1月2日、47日目。南極点まで残り68キロ。夏の南極は気温が下がっても−23度くらい。冬の南極は−80度になり南極点には物理的に夏しかいけない。太陽の光の力で気温は低くてもポカポカしてテントの中がものすごく暖かく鍋の水が凍らないことも。
◆1月5日。50日目。南極点のALEのキャンプの人らの出迎えを受けつつ南極点に到着。もう終わるなという安心感と寂しさ。南極点の銀色の玉のモニュメントには1959年に調印された南極条約に署名した日本・アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・チリ・ニュージーランド・ノルウェー・南アフリカの12カ国の旗が立つ。実際の南極点は南極の氷が毎年移動するため少し離れたところにある。その記念碑のオブジェは毎年新しいものに交換され過去のものはアムンゼンスコット基地の中に保管展示されている。北極に比べれば楽だった南極点到達とはいえ体重は10キロ落ちてた。
◆南極点に到達したところで前半の報告は終わり後半は装備の話に。今回着用したポールワーズのウェア上下は高密度で織ったコットン100%の素材のベンタイル。ベンタイルは第二次大戦でパイロット服の素材として採用されたもの。防風性がありながら吸湿性と透湿性があり低温で乾燥した南極に非常に適している。ゴアテックスのような防水透湿素材は極地の低温では透湿フィルムの内側が結露凍結してしまうので南極では使えない。
◆ウェアの色が最初は濃いオリーブグリーンだったものが50日後には淡い色に変化している。紫外線による退色もあるが全体に白っぽく見えるのは蒸散した汗の塩分が付着しているとのこと。極地のウェアについては汗の処理、汗の挙動が大事で肌に触れるアンダーウェアは常にドライにさせなければならない。紹介された写真は染み出た汗でベンタイルのジャケットの袖が全体的に濡れていたがそれでいいとのこと。乾燥した南極では太陽光の強さもあり濡れていてもどんどん蒸発し乾く。
◆北極では4枚のレイヤリングうち一番外と次の3枚目と4枚目の層であえて凍結させて対応する。ウェアは環境によって適したものが変ってくる。アウトドアにコットン素材が必ずしもダメということではないのだ。コットンの素材のよさが生かせる環境もある。
◆ソリはロケット開発をしてる北海道の植松電機で作ってもらう。素材の選択から製作、耐寒衝撃テストに立ち会っている。携行食のチョコバーは森永製菓の研究所でクランベリーなどのドライフルーツ・ナッツを混ぜたミルク・抹茶・ホワイトチョコの3種をオーダー。油脂を多めにいれ低温でも硬くならないよう工夫がされている。
◆このように装備を自分で作る意味とは3つある。装備とは自分の試行錯誤と工夫の結晶であること。自分で作るとトラブルが起きたときにどう対処していいかわかること。そしてなによりノウハウのフィードバックを生かせるのが面白いという。
◆今回南極点まで同時期に歩いたチームは2つあり、イギリス人の単独と中国人の普通の女の子のジン。荻田さんの1日前にスタートしている。彼女は一人では無理なので何度も南極点までいってるポール・ランドリーにガイドしてもらっている。彼女は3年前に南極に歩いて行けるという事実を知り私にも出来る!と思い立ち、歩いていた。荻田さんが500キロの中間点で追い抜いた3日後、54日で無事ゴールしている。途中、彼女らは3回補給を受けている。今回の荻田さんの予算がざっと2000万円とのことなので彼女はそれ以上の予算がかかっているのではないかとのこと。
◆南極点にあるアメリカのアムンゼンスコット基地は100〜200人の常駐で冬季でも100人ほどいる。中は暖かくTシャツ。広い事務所と体育館や音楽スタジオまである。高床式の構造で雪の量によって高さを変えられる。ALEのキャンプ地はそこから1キロほど離れたところにあり観測の妨げとならないように観測地の風上にあたる場所は立ち入り禁止になっている。基地の巨大な電波望遠鏡はピカピカ光ってるので数キロ先から見え南極点を目指す際のいい目印になる。
◆後半の最後はまとめになる。2000年22歳で北極圏に行って17年。北極で起こることはほぼ想像できるようになった。写真や地図、地形などから氷の流れもわかる。カナダのスミス海峡の状況も自分のシュミレーションから外れることはなくなり未知なることが減りやってみたらその通りになってきた。そして気候変動からか北極圏のコンディションが難しくなってきたのと40歳になったことだし北極圏に行きはじめた22歳のころのワクワク感を再び味わいたかったり、知識として知っているカタバ風を体験したみたかったり、地球のもう一つの極地の南極を体験してみたかったり、南極にはもっと面白いルートがあるのではないかと思ったりと、まずは一度南極に行ってみたいと今回の遠征になったとのこと。
◆南極ではゆっくり55分歩いては5分の休憩の繰り返し。10時間ほどの活動時間。北極では12時間から15時間は活動する。南極では活動中はGPSをほぼ使うことなく太陽の位置から緯度を把握。50メートルの誤差で進める。200メートルずれることはまずない。
今後は1ヶ月で600kmくらい若者を連れて北極圏を歩いてみたい。流される氷、絶えず変る風景、ホッキョクグマ、3日間ブリザードに吹かれるともとの場所にあえなく戻されるという困難な要素のある北極と比べて南極は進んだだけ進むが北極はそうはいかない。北極点への3度目の無補給単独行の挑戦をしたい。そしてハワイに行きたいと。最後に、北極の映像、ホッキョクグマに炸裂弾を撃つ動画や氷が薄くなってドライスーツを着こんでカヤックを牽引しながら突破する様子を写したのち報告会は終了した。
■ここで私自身のことを少し。5年ほど前からブルベというフランス生まれの超長距離自転車競技に参加するようになった。先週は自分たちで設定した360kmのコースを4人で24時間で走った。鹿島神宮をスタートして房総半島の燈台をつないで最後は東大の安田講堂がゴールというルート。200kmを越える長距離走はどうしても途中で飽きが来て居眠りをしてしまう。今回は久しぶりに居眠りで落車した。幸い千葉の沿岸の砂の堆積した路肩だったので無傷だったのだが普通の場所であれば救急車だっただろう。
◆来年は100年以上続くパリ・ブレスト・パリ(PBP)1200kmが開催される。初参加の3年前は時間内にゴールできず無念の涙を。来年こそは規定時間内に完走してこんな無茶苦茶な競技を卒業したいと思う。そういえば荻田さんは80日で南極点まで1126km、PBPはパリとブレスト往復1200kmを90時間。ほぼ同じ距離をまったく違う時間で移動する面白さだなと荻田さんの報告を聞きながら思いました。(小原直史)
■南極点無補給単独徒歩は自分にとっては特に難しい課題でもなく、新しい世界を見に行くきっかけのお試し版のような遠征でした。報告の最後に少しだけお話しした北極海は、全く別の世界です。自分にとってはそちらこそが本懐であり、最も難しい挑戦が北極点無補給単独徒歩です。
◆はじめからできると思いながら南極点を実行し、実際にできたというのはまったく冒険的でもありません。ただ、これで一度南極大陸を体験したので、今後またあらたな計画を思いつけば南極を歩くかもしれません。いまから18年前に北極に初めて訪れ、それから一人で通い続けた日々は、簡単な課題から徐々に難しくステップアップしていきました。南極でもそのステップを踏み始めたのかもしれません。
◆本来ビビリな私は、知らない場所でいきなり想像の範疇を超えた行動をできない気性があります。少しずつ自分のできる範囲を広げていって、やがて誰もできないことをやってみたい、それが私の望む道です。3度目の北極点無補給単独徒歩への挑戦を視野に入れつつ、来年は素人の若者たちを連れて北極圏の海の上を500kmほど歩きたいと思っています。(荻田泰永)
■3月23日、折しも南極観測隊が長い任務を終えて成田に到着したその日、ニコニコ顔で到着ロビーに姿を現した隊員たちの出迎えを終えて、新宿スポーツセンターに向かった。帰国後荻田さんがあちこちで講演会を行っているのは知っていたが、なかなか都合がつかず、地平線会議で報告会をするというのでようやく話を聞けると楽しみに出かけた。
◆講演が始まって最初の5分、出発から南極点到着のダイジェスト映像が流された。「今日お話ししたいことはこれですべてです」という荻田さんの言葉に会場から笑いが起こる。荻田さんの言わんとすることは理解できた。北極を舞台に18年活動し、死の世界と隣り合わせに生きてきた荻田さんにとって、今回のルートを歩くこと自体はそれほど難度の高い課題ではないだろうということは、出発前から私にも想像できた。
◆南極へのアプローチとピックアップを Antarctic Logistics & Expeditions(ALE)社が担い、非常時に備えて現在地を示す信号を発信し続けるビーコンを携帯し、衛星携帯電話でALE社と毎日連絡を取り、週に1度電話で医師の問診を受けながら南極点を目指す。「ALE社の管理下に入った状態」での徒歩旅行は、寒さや海氷、シロクマに怯えながら歩を進める北極での活動から比べると「想定内」の範囲で進めることができたという。
◆「想定内」の行動だったとはいえ、行動する環境に合わせて 試行錯誤を重ねた装備の開発や食料の工夫など、決して手を抜かず、最悪の事態を思い描きながらの準備はさすがで、そういった準備があって初めて「想定内」に抑えることができたのだろう。ソリを引いてサスツルギを超える映像を見た時、すぐ横を歩けばもっと楽に行けるのにと思っていたら、案の定「これは絵にするためにわざわざ越えた」との説明があり、荻田さんの飾らなさや実直さを改めて感じることができた。そういった人柄に周囲が巻き込まれて多くのサポートを受けることができたのではないだろうか。
◆気負わず、現場で感じたことや考えたことを素直に話す荻田さんの言葉を聞いていると、ただ50日間歩いただけなのかとつい思ってしまいがちだが、その言葉の裏側や行間には、これまでの経験やそれに裏打ちされた慎重さ、用意周到さ、粘り強さ、したたかさ、そして圧倒的な行動力があることを忘れてはいけない。そういう意味では、聞いている側の想像力や理解力が試される良い講演会だったと思う。(第57次南極越冬隊長 樋口和生)
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