2017年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信463より
先月の報告会から

祈りとワクチン

〜生老病死を巡る旅〜

神尾重則

2017年10月27日 新宿区スポーツセンター

■小池旋風失速に始まった10月第4週の終わり、神戸鋼のデータ不正、日産自動車の検査不正に続き、SUBARUおまえもかと驚きの金曜日は、2つの台風に挟まれて好天に恵まれた。夜の報告会には医師の神尾重則さんがネパール西部のドルポからさわやかな風を運んできた。

◆通信461号に神尾さんは『医療ボランティアで訪れた聖地ドルポの現実』と題して、8月のドルポ行きが予想外の冒険行になった顛末を書いている。「この祈りと自然に満ちた聖地にも中国からの物質文明と市場経済が本流のように押し寄せ、浸食されつつあることを実感しました。ドルポはどのように転生してゆくのでしょうか」……10月の共産党大会で2期目の習近平体制がスタートし、「我が世の春」を謳歌する中国の勢いに圧倒されるチベット、ネパールの人々が何を見つめているのか、神尾さん(以下ドクター)の言葉から発見できれば、と思った。

◆今夜のキーワードは「生老病死」。ゴーギャンの有名な油絵、『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか』にこの4文字の言葉が表されている。「老いをどう生き抜くか」「病をどう受け入れるか」「死をどう迎えるか」地平線の旅人たちにとって、いやすべての人にとって悩ましい問題であり、それを探求することが、生きる目的なのではないか。

◆神尾ドクターは1980年、ダウラギリ主峰に連なるツクチェ・ピーク(6920メートル)に南西陵から登頂した。山頂からは北西に広がるカリガンダキ峡谷が見渡せた。1900年、日本人として初めてチベット入りした河口慧海師もこの谷を経由している。2004年に見つかった慧海の日記からは、彼はヤンツェルゴンパからクン・コーラを遡ってヒマラヤを越えたことがわかった。

◆ドクターはその足跡をたどり、2005年にツァルカからティンギュー村に入り、パンザンコーラ沿いの村々を旅した。そして慧海も目指しただろう6024メートルのイエメンカンの肩、ネパールとチベットとを隔る5411メートルのクン・ラに到達した。ドクターはチベット潜入後の慧海の「医師」としての活躍にも注目する。『西蔵旅行記』によれば、慧海は張介賓の「景岳全書」を借り、それをバイブルに薬草の知識も身につけ、病人を診ることができるようになったという。冒険家であり、医師でもあった慧海の姿に、ドクターの貌が重なって見える。

◆縁を感じたティンギュー村の人々のためにドクターが仲間たちと始めたのが「ドルポ基金」。「村の役に立つ村の人間を育てる」ことを目標に、教育や医療の支援をしている。2002年に開設された医療センターの所長には、奨学生の第一期卒業生のソナム・サンモさんが就任し、いまも腕をふるっている。基金の目的をドクターは「個人から村へ横糸と縦糸を紡ぐ」ことと表現する。点でしかない個人的なつながりを、ドルポの縦横に広げることによってネパール政府の助成が行き届かない地域全体への面的な成果を挙げようとしているのだ。

◆話は本題、「生老病死」の「生」に入っていく。曰く、8世紀に書かれたチベット医学のバイブル「四部医典」に描かれた出産の生理学は現代医学とほぼ相違ないこと。曰く、ノーベル医学賞を受賞した大隈良典教授が発見したオートファジーの仕組み。曰く、ミトコンドリアDNAが母系だけからしか受け継がれない不思議。曰く、ヒトにとって生殖は遺伝子のシャッフルと過去の記憶を受け継ぐためのシステムである一方、ヒトは死によって遺伝子への変異蓄積を回避していること、などなど。

◆ドクターの話はタテにつながっているように見えて、実は横にドルポを始めとするドクターの巡礼遍歴にもつながっているから、頭をフル回転させないとついていけない。例えばドクターは自分のミトコンドリアDNAを解析し、3万年前のロシアのバイカル湖周辺が起源だと特定した。ドクターの祖母の祖母の祖母のまた祖母はマンモスハンターだったのかもしれないのだ。またヒンズー教の世界では創造の神ブラフマンと破壊神シバが、秩序を象徴するヴィシュヌとともに崇められる。これは合成と分解を繰り返して異常の蓄積を防ぐDNAの仕組みそのものではないかと神尾ドクターは指摘する。

◆キーワードの次は「死」だ。死はいきなり訪れることもある。2008年にはティンギュー村に向かう途中でメンバーの一人が倒れ、心蘇生を試みたが帰らぬ人になった。現地でヘリを3日待って、トリプパン大学医学部病理学教室で解剖したところ、死因は急性心筋梗塞・心室細動とわかった。そしてカトマンズの寺院で法要が行われ、荼毘に付されて彼は「千の風」になった。

◆分子レベルでみると人体の65%は水分が占め、火葬によって大半が水素と酸素に酸化分解され、蒸発する。遺体を60キロと仮定すると、蒸発した原子はどのぐらいの割合で地球上の大気成分に溶け込むのだろうか。ドクターは、故人に由来する原子の1個は大気中の原子2.6×10の18乗個に囲まれていると算出した。ちょっと想像がつかないが、人は死んでもまさに「千の風になって」私たちの周りを飛び回っているのだ。

◆誰も死んだことがないから、一般論として死について話すことは難しい。なのにドクターはこんなにもわかりやすく死を語る。人の生ははかないが、死があることで生は空虚にならない。はかないけれど、考えたり、愛したり、信じたり、悲しんだり懐かしんだり、寂しがったり、そして想像することができる。「われわれが宇宙を想像できることは驚きである」というスティーブン・ホーキングの言葉で、ドクターはキーワードの2つ目を締めくくった。

◆3つ目は「病」。今夏ドクターがドルポに向かった目的のひとつは、ティンギュー村でのHBV(B型肝炎ウイルス)キャリア調査だった。HBVは主に母子感染し、世界では約3億5000万人が感染しているという。出産時、乳幼児期に感染した場合、10〜15%が慢性肝炎に、さらに肝硬変や肺がんに進展する可能性もある。日本でも130万人前後(100人に1人!)が感染しているが、1986年からの母子感染予防事業によって減少、「ワクチンを適切に使えば、いずれHBVウイルスを撲滅できる」とドクターは話す。

◆8月にソナム・サンモさんや大谷映芳さんとともにマウントクーラ初等学校で実施した調査には、児童約100人が列を作った。この学校、日本でも有名なドルポ出身の画家、テンジン・ヌルブさんが作って運営しているのだそうだ。結果、106人中28名が陽性で「非常に高い」。ここまでは単なる医療調査団。ドクターの真骨頂は「これからどうしたらいいのか」と考え、基金の活動に生かすことだ。

◆ドルポでのHBV感染率の高さは、母親が若いうちに出産するためHBs抗原の感染力が高いこと、そもそもドルポの村々が閉ざされた空間であることが背景にあるのではないかと考えた。ひょっとしたら劇症肝炎で命を落とす乳児が多いかもしれない。しかし日本と同様にワクチンを投与すれば、母子感染、水平感染を予防することはできる。

◆ティンギュー村からの帰路、途中のドゥ・タラップ村で天候の回復を待って7日間の停滞を余儀なくされた。ネパール全土を襲った大雨のせいだ。いつやってくるかもしれないヘリコプターを待っているあいだ、ドクターは村のアムチ(チベット医)を訪ねた。チベット医学では脈診、問診、尿診、薬草を用い、「祈りによる癒しの力」を重視している。これは現代医学で言えば、患者と医者の良好な関係やバランス回復の重視に合致する。新たな医学的関心に手応えを感じているところにヘリがやってきて、ようやく窮地を脱したという。

◆後半はビデオで再開。ティンギュー村に行く途中、雨で増水した川を渡れず2日間待機した後にようやく徒渉する場面が。それでも水量はかなり多い。人では流されてしまうので、馬に乗って川を渡る。話を聞く方もみんな息を呑んでいる。幸いにして流される人はいなかったという。別の映像にはマウントクーラ初等学校でのチベット式の大歓迎。そしてさっき話に出てきたHBV検査。6歳から15歳まで106名の子供たちが列に並んで次々と人差し指に針を刺されて血を採取されるのは、映像を見るだに痛々しいが、出血はほんの一滴で、ほとんど痛くないのだそうだ。

◆キーワードの最後は「老」。医学的に言えば細胞数が減り、細胞内ではミトコンドリアが減少する。コラーゲンの減少で細胞は線維化する。疲れやすくなり、運動能力は低下し、反応が鈍くなる。しかし「老化」の仕組みは実はまだよくわかっていないのだという。2025年、日本は「老い」の津波に襲われると、ドクターは不気味なことを口にする。団塊の世代が75歳以上の後期高齢者に達する一方で若年人口は減り続けている。「医療の社会性、経済性が大きく変わる。時代性を見極めながら、生き残らなくてはならない」。

◆潜在的予備能力をいかに引き出すか。好例が100歳でも米ユタ州のスノーバードでスキー滑降をした三浦敬三さんだ。言わずと知れた三浦雄一郎さんの父上。見て聞いて覚えたことを、確かめ行動し表現することを繰り返す、つまり脳への刺激を反応に変える反復が多ければ、人は惚けずに長生きできるのではないかとドクターは言う。

◆一方で病に倒れることもある。「おそらくあなたはがんで死ぬ」とスクリーンには刺激的な文字。統計的には約3人に1人はがんに罹患するというから、あながち誇張ではない。がんは遺伝子の異常で、ヒトの細胞をクルマに例えればブレーキやアクセルの故障、クラッチの整備不良で暴走するようなものだ。そして医学研究の進歩で「がん幹細胞」がいわばがんの「女王蜂」であることがわかってきた。これを叩かなければがん細胞の増殖が止まらない。この解明に大きく貢献するのがノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授のiPS細胞の研究だそうだ。

◆チベット医学から見れば、がんの原因は血液の中の小さな有機体なのだという。もともとは健康維持に欠かせない有機体なのに、感情の誤った用い方、体質にふさわしくない食生活と行動、環境汚染の悪影響がそれに作用して、血液の中で人の体に悪さをし始めると解釈される。

◆がん幹細胞の研究にiPS細胞が有用なように、西洋医学は遺伝子を解明することでさまざまな成果を出そうとしている。そのひとつがゲノム編集によるAIDS治療だ。ドクターはかつて都立病院でAIDS患者の診断と治療にあたっていた。ゲノム編集でAIDSウイルスが標的とする細胞を改変し、ウイルスを寄せ付けなくすることができるのだそうだ。ゲノム編集は医療だけでなく、農作物や家畜の品種改良にも使うことができる。が、もし人の生殖系細胞に用いれば次世代に予期しない影響を及ぼす可能性がある。「ゲノム編集は核兵器に次ぐパンドラの箱」とドクターは話し、核兵器保有を独占しようとした5大国と、いまなお核兵器開発に野心を燃やす紛争国、とりわけ北朝鮮の暴走を危惧する。

◆かつて三輪主彦さんは「体力がつけば、知力もついてくる」とのたまった。座り続けることは健康に悪く、運動が認知症を予防するとドクターも言う。「山靴の紐を結んで外に出るのがいいのです」とドクターはドルポの話を続けた。足止めを食ったドゥ・タラップ村のゴンパ(寺院)はニンマ派だった。チベットの四大宗派のひとつだが、ドルポには庶民の支持が高いニンマ派の寺院が多い。村の入り口の荒れ果てた仏塔門をよく見れば、まんじの向きが逆だ。当地において左まんじ(卍)は、仏教以前にチベット各地に普及していたボン教の印。ニンマ派とボン教は混淆しているのだ。この土着の宗教がどこから来たのか、同じ鳥葬の風習があるペルシャのゾロアスター教が起源かもしれないとドクターは推測する。「古代環境が厳しいところで宗教が発達したのではないでしょうか」。

◆いまドルポでのブームは「冬虫夏草」だ。この数年、中国国内で爆発的な人気を博しているキノコの一種で、別名「天然のバイアグラ」、あの「馬軍団」も使っていたと言われる。それまであまり知られていなかったキノコの採取にチベット中の人たちが夢中になり、その影響が山を越えたドルポにも及んでいる、というわけだ。小さなキノコ1本が1000円から3000円で中国人バイヤーに売れる。それを目当てに、良質な冬虫夏草が採れる標高5051メートルの峠、コイ・ラに人々が群がる。祈りに満ちた聖地、ドルポにも物質文明と市場経済という津波が押し寄せている。

◆そのドルポにこの夏に行けたことを、神尾ドクターは奇跡のように喜んでいる。というのは、2015年12月、山スキーシーズン初滑りのルスツで転倒したのが原因で脳の手術をしたからだ。転ぶ直前までは覚えているが、その後30分ほどの記憶がない。気がついたときには帰りのバスの中だったという。直後の画像診断では異常なかったものの、2016年3月になってから症状が現れた。右手がしびれ、言葉もままならない。CTを撮ったところ血の塊が脳を圧迫していた。慢性硬膜下血腫。その状況でも自ら冷静に診断できるのがさすがプロフェッショナルだ。

◆手術ではドレーンで血腫を吸い出し、脳の圧迫を元に戻した。そんなことがあって、一時はもう二度と山には行けないと覚悟しただけに、「再びスキーもできるようになり、ドルポに行けるようになった」とドクターはこの上ない笑顔で話した。ゴーギャンから河口慧海、四部医典からゲノム編集、ホーキングから「千の風」、冬虫夏草からAIDS治療と、どこまでも続く脈絡のない話のようでいて、ドクターの「報告」はどれもが遠くネパールの奥地につながるある種の冒険譚だった。欲を言えば、ヘリで命からがらドゥ・タラップ村を逃げ出したハラハラドキドキの話も聞きたかったけれど、2時間ちょっとの報告会では全然足りなかった。(落合大祐


報告者のひとこと

星ぼしが煌めく夜空を眺めてみませんか?

■今回の報告では、ドルポの風景をあざないながら、「生老病死」を巡る旅をしてみました。私たちの砂時計の砂の一粒は、今こうしている間にも落下し、生から死に向かって時間を刻んでいます。好むと好まざるに関わらず、世界はエントロピー増大に向けて流転しているのです。生きとし生けるもの全ては、いつか終焉を迎える。そう認識するところから、生命のもつ意味を探ってみるのも、一場の戯れと考えました。

◆そもそも時間とは、過去から未来に向かうもの。この「時間の矢」を特徴付けているのは不可逆性です。時間がしばしば川の流れに喩えられるのは、一方向に流れるから。この時間の矢が最終的に行き着くところは、はたして何処なのでしょうか?

◆iPS細胞の発見により、分化した細胞の可塑性というパラダイムシフトが生まれました。「成熟した細胞が幼若な細胞へとあと戻りすることはない」という古いドグマは崩れ、細胞の「生物学的時計」は、巻き戻しが可能であることが証明されたわけです。

◆ヒトの避けがたい終わりは死ですが、ひょっとして、時間にも終焉というシナリオは存在するのでしょうか。あるいは、未来から過去へと巻き戻すことは可能なのでしょうか。宇宙の語り手である物理学者たちは、時間と空間を説明するためのエレガントな理論と方法を捜し求めています。

◆さて、ドルポに蔓延していたB型肝炎ウイルス(HBV)。世界でも数億人が感染していると言われます。HBVの遺伝子の系統樹を見ると、ヒトとゴリラ/チンパンジーを区別しえません。すなわち、共通祖先はすでにHBVに感染していたことが示唆されます。HBVの起源はそれほどに古いわけです。ウイルスの暴走を食い止める宿主(ヒト)の免疫システムと、それを回避するHBVの分子メカニズムが、せめぎ合い拮抗しながら、両者は子々孫々と世代を超えて共存してきました。

◆しかし、ヒトは「ワクチン」という大きな武器を手に入れました。母子感染(垂直感染)が主な感染ルートであるHBVに対して、ワクチンの接種は極めて有効です。ワクチンを用いて母子感染をブロックする戦略で、HBVをヒトから根絶することは射程圏内にあります。HBVの太古からの歴史は、確実に終焉に向かっているのです。

◆時間の流れの中で、同じ場所に留まるためには、たえず全力で走っていなければならない。「鏡の国のアリス」には、赤の女王と競争するアリスの姿が描かれています。生き残るためには進化し続けなければならないことの寓意です。

◆そんなアリスとは相反して、ドルポにはゆったりとした時間が流れています。中国からの市場経済が流入しつつあるとは言え、未だに昔ながらの生活と信仰が息づいています。峠をはためく風の馬(ルンタ)は、現在・過去・未来の三世を圧縮して、輪廻転生の「祈り」を天空に運んでいます。

◆時には、「閑」が留まるおとぎの国に迷い込み、夜空の星ぼしが繰り広げる生と死のページェントを夢想したいもの。「我々はどこから来たのか? 我々は何ものか? そして我々はどこへ行くのか?」。酔余の一興、今宵は星ぼしが煌めく夜空を眺めてみませんか。(神尾重則


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