■39年目に突入した地平線会議。第461回の報告者は、世界にふたりしかいないカーニバル評論家の白根全さん。「グレートジャーニー(GJ)裏話」=裏方、「地平線年報制作の舞台裏」=記録、「カーニバル追っかけ記」=現場、という豪華“地平線三題噺”を語ってくださるという。
◆そういえば8月の地平線通信発送作業の2次会で、江本嘉伸さんと全さんのこんな会話を目撃した。 E「40周年のイベントどうしよう?」 Z「イベントなんて邪道! 大事なのはやっぱり記録っすよ」 E「なるほど、よし! これまでの地平線を総括する報告会を、来月全に頼む!」 Z「う、うっ、うむむむむむ……」
◆報告会タイトルの「気まぐれ地平船」は、1970年代のFM TOKYO深夜番組「気まぐれ飛行船」にちなんだもの。ある晩、MCのジャズシンガー安田南さんが生放送中に突然号泣する放送事故があった。飼いネコが亡くなったのを思い出したからだという。「今日は昔話してるうちにオレも号泣しちゃうかも!」と全さん。それでは「もう時効っ、ぶちまけちゃえ〜」のGJ裏話から、はじまりはじまり〜!
◆全さんと探検家の関野吉晴さんとの出会いは、今から30数年前の南米ペルー。マチュピチュで結婚式をあげたばかりの新婚ホヤホヤ関野さんだったが、式を終えたその足でアマゾン先住民のもとへ、ひとり旅立ってしまった。残された奥さまを見かねた全さんは、アンデス山麓の村へお誘いしてご案内。それが関野さんとの深く長いおつきあいのスタートだった。
◆全さんがコーディネーターとして最初にGJの現場に関わったのはパナマ地峡。GJ応援団長の恵谷治さんから「地峡を通り抜けた経験のあるオマエがここを仕切れ」と無茶ぶりされたのがきっかけだ。当時は内戦が激しかったが、その難関もなんとかクリア。それ以来「困ったときのシラネ」と呼ばれ、「今アラスカなんだけど明日来れないかな〜?」と関野さんから電話がくれば、「明日はちょっと無理だけど、明後日なら……行けマス……」となるのだった。
◆人力のみで旅してきたGJ。「実は未完成ルートが300mだけ残ってる。この傷跡、思い出すだけで泣きそう!」との爆弾発言も。超危険なパナマ地峡のコロンビア側湿地帯で、関野さんの乗るカヤックをやむなくモーターボートで引っ張ってしまったのだそう。「いつか戻って旅を完結させよう」と関野さんと話したものの、まだ果たされていない。
◆一番頭を悩ませたのは、日本人の来た道を手作り丸木舟で航海した「海のGJ」。例のごとく「悪いけどこっち来れない?」とインドネシアから電話が。ソマリア海域の海賊が問題になっていた時期で、安全対策を頼まれるも、突然すぎて仕込む時間がなく「ミッションインポッシブル!」。GJにはテレビ撮影が入るため、もしクルーが誘拐されでもしたら某Fテレビ社長の首が飛ぶ。安全面を証明する軍や警察からの書面の提出など、局側からの要望が細かいので「もうテレビはこりごりっ」。
◆縄文号とパクール号を24時間体制で護衛するにはどうすればいい? 試行錯誤の末、フィリピンCIA長官との接触に成功。交渉を試みたが、軍を動かすのは難しいし、民間軍事会社を雇うと1ヶ月で1000万円超かかる。ふと「現地で一番有名な冒険家は?」と思い浮かび、フィリピン人冒険家のアート・バルデスさんと知り合う。彼はもともと国土交通省の副大臣で、まったく素人のメンバーを鍛えてフィリピン初のエベレスト登頂を成功させた有能なオーガナイザー。その彼が「山の次は海だ!」と、手作りの舟でマレー系海洋民族のルーツをたどる、まさにGJと似たような船旅を計画していた。さらに「沿岸警備隊はオレの元部下だ!」とすぐ連絡してくれた。中国系イスラム教徒の司令官と神学論争まで闘わせて口説き落とし、沿岸警備隊総司令官からの書面もゲット! 「これでつながったー」と全さん嬉し涙。
◆荒波にもまれながら、カメより遅いGJの航海は3年目に。ここからは外洋へ出るので誘拐される心配も消え、伴走役を沿岸警備隊から民間船にバトンタッチ。次のゴール地点は台湾。その少し手前で全さんは現地へ先回りして、仕込みに入る。台風到来のリスクもなんのその、2隻の舟は見事石垣島にゴールイン!
◆「関野さんって他はさておき、運だけは抜群に強い! 今やっても絶対に実現できないようなことを、スキをぬってやってしまう。そういう星のもとに生まれた人」。こうして「国家権力をプライベートな遊びに使ってしまう荒技」を駆使しながら、長い航海が無事終了。めでたし、めでたし! 「そういえば最後の1年はギャラ無しだったんじゃないかなあ〜」と全さんがもらしていたのが気になるけれど……。
◆「てなわけで三題噺のお次は、聞くも涙、語るも涙の年報制作裏話!」。年報『地平線から・1979』を手に、「これを作るのが地平線だという時代がかつてありました。そのためにはあらゆる犠牲を惜しまない!」。最大の犠牲者との呼び声も高い全さんは、vol. 6(1984-85年)から第8巻(1986-88年)まで3冊の編集長を務めた。
◆海外放浪の日々を過ごしていた1970年代末のある日、パタゴニアの旅情報を得るため、全さんは初めて日本観光文化研究所(観文研)の事務所を訪ねる。神田練塀町のビルの入口がわからず、目の前を通りかかった「しょぼくれたおじさん」に案内してもらうのだが、なんとその方こそ観文研創設者の宮本常一さんだった。
◆3年近い旅を終え帰国した全さんは、地平線年報の編集作業場へふらり。その頃の編集長は関西学院大学探検部OBの森田靖郎さんで、大学探検部つながりの若者たちが総出で編集作業にあたる大下請け体制ができていた。ネタはほとんどが新聞記事や個人的つながりから。恵谷さんが5紙の切り抜きを毎日ためていたのだ。面白そうな旅人を突撃取材したり、行動者に原稿を頼んだり。なんと、今西錦司氏や中沢新一氏との対談も掲載。「現場の声を大切にして、しっかり記録していくんだ!という崇高な理念に燃えまくって、下請けたちが泣きまくってた」
◆「当時の地平線会議はレベルも敷居もむちゃくちゃ高かった。少数精鋭で探検部や山岳部でない者は外様扱い」だったそう。「ロクに口も聞いてもらえないから、下請けを頑張って、少しでも認められようとご奉公していた」。ある朝、全さんは渋谷の喫茶店に呼び出される。早めに店に着くと、すでに江本さん、恵谷さん、岡村隆さん、宮本千晴さんなどの大御所がずらーり。1ヶ所空いていた奥の席になにげなく座るが、実はそこは空けてあったのだった。もう逃げられない状態で、「森田が手一杯だ、次からオマエが編集長やれ!」とお達しが。
◆ここからは、1980年代に撮影された大御所のみなさんの写真オンパレード。画面が切り替わるたび、会場がオオーとどよめく。くしゃっと笑う賀曽利隆さん、凄みのただよう恵谷さん、今より華奢なはたち前後の長野亮之介さんと丸山純さん、妖精のように微笑む関野さん。「諸悪の根元はこの人。無理難題を言いまくって、なおかつしっかりサラリーマンをやってた」のは、黒髪ふわふわヘアーの江本さん。「みんな若いし、すごい迫力。どう見てもシロートとは思えない……」
◆写植のフィルム貼り込みで制作していた年報は、まさに「手作り」作業の極み。自らの旅に情熱を注ぐのみならず、日本全国の冒険者の行動記録も後世に残そうとした青年たちのエネルギーが写真から伝わってくる。「いくら原稿を書こうが、編集作業をやろうが、原稿料もギャラもゼロ。請け負うほど他の仕事ができなくなり、出費がかさんでドツボにはまる」と全さんがこぼすと、「いやあ、つくづく苦労をかけましたね」と江本さん。入稿前にあまりの忙しさで力尽き果て、池袋駅のベンチで失神した夜もあった。
◆ここで「ひとことぜひ」と、会場にいらした三輪主彦さんにマイクが渡された。「この写真は2時間58分で走った頃の私です。これで江本さんを弟子にしました!」と三輪さんが朗らかに語れば、「くぅー、この話になるからイヤなんだ!」と江本さんが立ち上がり地団駄。おふたりは、ランニングタイムを長年競ってきた地平線の名物ライバルだ。
◆船の上に座りカメラを睨みつける精悍な半裸の青年は、モルディブ漂流時代の法政大学探検部OB岡村隆さん。次の1枚は、今回の報告会直前に卒寿を迎えられた年金旅人の金井重さんが、53歳のときにインドの道端で見せたにこやかな笑顔だ。頭に花飾りをつけた愛らしい女性は29歳の河田真智子さんで、マーシャル諸島を旅したときのもの。「仕事するヒマがあったら旅へ、と島巡りに明け暮れていました。そうしたら人生はちょうどよく帳尻が合うのか、34歳で産んだ娘が重い障害をもっていることがわかりました」。60歳を過ぎ島旅を再開、これから島に恩返しをしていこうと決めたという。
◆続いて、かつて観文研で働いていた高世泉さんの登場。高世さんを含め、宮本常一さんに直接会ったことのない人たちもが、強い情熱で常一さんの背中を追っている話をしてくださった。賀曽利さんと風間深志さんがニカっと笑うツーショットは、パリダカ参戦中に撮影。江本さんが思わずマイクをとり「この写真は僕もすごく印象深い。ふたりともやられたんだもの、あのサハラで」と熱弁。全さんの一番の親友だった西野始さんは、バイクで南米大陸やアフリカ大陸を駆け巡り、その後飛行機事故で亡くなった。
◆最後の写真は、31歳の全さんがサハラを50ccのミニバイクで走ったときのもの。「これでサハラ行くかってバカ丸出しでしたが、ほんっと面白かった! 自分の能力とか、ありとあらゆるものが問われる旅ができたのは幸せだった」。4ヶ月近く、1万4,255kmを走ってダカールに到着。「でもまだ力を尽くしてない……目指せケープタウン!」と再び走り出す。
◆橋のない川ではカヌーにバイクを積んで渡り、世界で5番目に貧しいギニアビサウ共和国へ。この国をカーニバル取材のため30年ぶりに今年再訪したら、「かつて首都に1つしかなかった信号が、なんと倍に増えてた!」。旅先で現地の人と接しながら気になるのは、「旅ができる側とできない側」の関係性。答えはまだ出ないが、「旅ができる側にいられるのは自分の努力ではなく、たまたまこの時代の日本に生まれたから。それを忘れてはいけないんじゃないかと思いながら、忘れて旅をしている」。
◆「そもそも昔話ってすっごくカッコ悪い」と全さんは言い、よくある三大昔話に「愚痴、言い訳、自慢」をあげる。さらに男が行動する原動力は「金と権力と性欲、プラス嫉妬」だとも。そういうものがうず巻く世の中で、清く正しく生きるにはどうすればいい? 「何かについて深く理解したいとき、手段は3つしかない」。1つ目、深く知っている人から直接聞く。「つまり地平線報告会でしょ。いくらメディアが発達しても、生の人間から放たれる話には絶対かなわない。こんなありがたい話が500円で聞けるなんて!」。
◆2つ目、本を読む。しかも批判的な目線で。全さんの本棚(縦2.5m、全長14m)には、30年がかりで世界を歩き買い集めたラテンアメリカの写真集や小説がぎっしり。「今の私を作っているのはこれらの本(とお煎餅?)」。そして3つ目、旅をする。「地図の空白はもうないと言われるが、現場に立ってみない限り空白は埋まらない」。……ここで時間切れ、カーニバルのお話はまたの機会に!
◆38年間変わらず、500円で参加できる地平線会議。この場を作り上げてきたみなさんが何年経っても年齢不詳の怪しい若さと輝きを保っている秘訣は、旅と冒険への底知れない憧れと愛情にあるのかもと思った。「現場がすべて」と常々おっしゃる白根全さんが、きっと生涯旅人であり続けることはもう言うまでもなく!(大西夏奈子)
■まずは報告会当日、諸般の事情おもに老人問題の事務手続き引き継ぎ@入院先に手間取り、会場到着が開始時間ぎりぎりとなってしまったことをお詫び申し上げませり。余裕でたどり着ける計算だったが大幅に読み違え、一瞬このまま逃げちゃおうかと思ったことも告白しておきたい。地平線報告会には魔物が棲む、というのは丸山純説だが、始まる前から正にそれを実感させられる報告会となってしまった。
◆いずれにしても、昔話はかっこいいものではない。へたをすると本当に愚痴と自慢と言い訳に終始すると思いながら、結構それっぽいことを喋ってしまったような気がしてこれまた反省しきり。メイキング・オブ・ザ・グレートジャーニーの裏話も、緊迫した現場でドタバタ苦労するのと同様に、かなり消化不良の苦戦気味となってしまった。影の黒幕というのが理想だが、実際はただの裏方。まあ、裏方が走り回らないと何事もうまく進まないのはいつの時代も同じだろう。ともあれ、どんな裏話があろうともGJの成し遂げたことは誰が何と言おうとやはり凄くてエラい!
◆2年目の航海はいい風が吹かず、コロンの港でスタンバイしたまま長い停滞を余儀なくされた。いつ来るとも知れぬ風を当てどもなく待つ日々が続いていたが、沿岸警備隊司令官との経費打ち合わせでパラワン島に出張して戻ると、不在中に待望の風が吹き始め2隻の丸木舟はさっさか出航していた。伴走の警備艇は上官の指令無しには動けない。連絡も無しに勝手に出発したと、司令官は頭から湯気を立てて怒りまくっている。お前ら全員逮捕、国外追放してやると息巻く司令官を何とかなだめようと試みるが、激怒したまま取り付く島もない。結果的には裏技を駆使してどうにか丸く収めたが、実はこれが航海中最大の危機だったかも知れない。
◆この年は出発が遅れたあげくスタート後も風に恵まれず、距離がまったく稼げなかった。こちらは風間チームの南北アメリカ大陸2輪ツアーのコーディネーターと撮影を頼まれており、当初予定にはなかったキューバも自分の趣味で寄り道することにしたため、図らずも航海の途中で離脱することとなった。以前からこの時期のバシー海峡越えは自殺行為だと、沿岸警備隊から中止勧告が出されていた。丸木舟のドクトル関野氏に、核心部の海峡越え外洋航海は来年に延期するようマニラから電話で泣いて頼んだのを思い出して、壇上で思わず号泣しそうになってしまった。2日間の超短期日本滞在で南米へ飛ぶ直前に中断の知らせを聞いたときは、安心のあまりマジに腰が抜けそうになったのであった。
◆それより何より、メイキング・オブ・ザ・地平線年報も涙無しでは語れない世界。懐かしい面々の写真を見ながらよくぞ号泣しなかったと、自分を誉めてあげたいぐらいである。長い南半球の旅を終えて日本に戻った後、活字デビューは観文研発行の月刊誌『あるくみるきく』に掲載された「私の旅から」というコラムだったが、まさか地平線年報の編集長を務めることになるとは思ってもみなかった。大絶賛アナログの切った貼ったに明け暮れた当時、どうやって食っていたのか、いまさら自分でも不思議になるぐらいだ。
◆とはいえ、裏方下請けの苦労だけではなく、編集作業を通じてさまざまなキャラの行動者に出会えたのは、自分にとって貴重な財産となったこともまた事実である。年報には収録できなかったが、丸山純と朝日新聞社に押し掛けて本多勝一氏にインタビューしたり、カリブ海取材の途中、当時ニューヨークに住んでいた作家の宮内勝典氏と対談したり、年報制作にかこつけてけっこう遊ばせていただいたことも多々ありだった。完成したときの地面から足が浮くような達成感ももちろんだが、苦労を厭わずに楽しめたのはやはり若さゆえのことだったのだろうか。
◆それに加えて、当時あまり鮮明に意識したことはなかったにしろ、記録することと継承していくことの意義は時代が変わっても重要である。未来は過去から生み出されるものだし、過去は未来を考えるデータの山だ。歴史の蓄積を知らないと理解出来ないほど世界は複雑になっているが、ものごとを既知の事実に分類してしまうとその実態が何かを考えなくなる。自分の知らないことはフェイクニュースと決めつける危険性を、どれだけ意識しているだろうか。思考停止・脊髄反射・過剰適応の3つが渦巻く現状とどのように向き合っていくのか、それぞれの個が問われるものは大きい。その意味でも、地平線会議が続けてきたことや、記録と継承をさらに深く検証し考察することは意義深い。
◆立ち止まって自分の頭でじっくり考え、咀嚼しつつゆっくりびっくりし、その先を見つめてそろそろ進んで行く、というのが今回の三題噺の裏テーマ。そのココロは「オレはお前じゃない」という過激なテーゼだ。異質なものを排除するのではなく、一人ひとりが違う存在であることを前提としていくことが、個人の自由に取っていかに大切か。現実の世界をほぼ他人事として眺めながら、相変わらず理想とする存在は三年寝太郎の今日この頃である。
◆てなわけで、おあとがよろしい三題噺のはずが二題目で時間切れとなってしまったことをお詫び申し上げつつ、次週よりまた再び南半球へ逃亡となる。ちらっと初公開して絶大な反響があった白根文庫の本棚と、豪華絢爛カーニバルの話はまた次の機会に、ということで、何とぞよしなに。(ZZz-カーニバル評論家)
■報告会当日、上京のため車で駅に向かう途中、たまたまラジオで服部文祥さんの話を聞いた。NHK「すっぴん」にゲストで登場していたのだ。テンションが上がり、約18、9年ぶり(!)の地平線報告会へ。たまたま先月、鶴岡で観たばかりの『縄文号とパクール号の航海』の裏話ときた。白根全さんの名前が最後にエンドロールに流れていたから、ああコーディネーターやったんだと思っていたが、まさかあの伴走船にずーっと乗り込んでいたとは……。
◆お疲れ様としか言いようのない修羅場の数々(無風時の余りある無為な時間はもちろん読書だ)。映画を観ていない人はよく分からなかったかもしれないが、観ていても想像もつかないほど国を跨いだ過酷な現場だったと知れた。船をいったん陸揚げする時のスチールときたら、関野さん一人だけニッコニコ顔なのが印象的だった。
◆人は動物として生まれ、数年かけて人間になり、老いては徐々に動物に還って死ぬんだなあ、と子育て、介護をやってきて思う。人間って何だろう。動物であることが基本のはずだ。つまり精一杯生き抜くこと。知力と体力の限りを尽くし、生を全うすること。そう、全さんはコレを超マゾ的なまでに全うするから「全」なのだ。きっと何か困難をやり遂げると脳がめちゃくちゃ悦ぶのだろう。これを知ると止められないのだ、ギャラの多寡にかかわらず。
◆帰りの新幹線の中で『息子と狩猟に』を読了。やっぱり何が何でも生き抜かなくちゃね。(日本も知力と体力の限りを尽くして生き抜かなくちゃ。) 古本しか読まなくなったという全さん、新刊も面白いのあるから!(山形在住 Kintaこと難波裕子)
■今年初めての報告会。山形の難波裕子さんといっしょに、ワクワクして会場にたどり着く。せっかくなので、前から3列目に座る。全さんのお顔がよく見える。うしろを見ると、老若男女、知らない方ばかり。でも、全体の雰囲気は変わってなくて、そのことにほっとする。
◆全さん秘蔵の写真。80年代初めの地平線会議運営委員会(?)の様子が次々と映された。全さん、亮之介さん、渡辺さん、三輪さん、賀曽利さん、江本さん、みんなみんな青年! 地平線会議も若かった。旅を始めたばかりの金井重さんの姿もあった。全さん曰く「当時、50代で一人旅してる日本人女性なんていなかった」って。重さんの行動力を再認識。
◆地平線会議に初めて参加したのは1982年、向後紀代美さんの報告会だった。新宿で開かれた大集会も聴きに行った。つい昨日のことのよう。実は最近、気持ちが沈むことがあった。たぶん、すぐには回復できないけれど、報告会へ参加したことで、ちょっとだけ、いやかなり、前向きになっている。いつでも受け入れてもらえる、戻って来られる場。
◆今回の上京は、亮之介さんの個展も目的のひとつだった。水墨画の猫ちゃんたちに会えた。個展と報告会、また同じ時期に開いてもらえると嬉しいです。(飛騨高山在住 中畑朋子)
■スクリーンに映し出された一枚の写真をみて、私は驚いた。「あ、このバンカーボート、ついこの間私も見た……!!」2017年8月、私はフィリピンのパワラン島の海にいた。そのときに出会った、使い古されたバンカーボート。そのボートとそっくりのボートが、今、目の前のスクリーンで映し出されていたからだ。
◆少しだけ、フィリピンの旅で見た現地の人の様子を伝えます。パラワン島の大人たちは、バンカーボートを日常の仕事で使っている。比較的新しいボートもあるけれど、かなり年季の入ったボートの方が圧倒的に多い。だから、ボートの不具合は日常茶飯事のようで、大人たちは手慣れた様子であちこち直している。パラワン島の子どもたちは、バンカーボートの底に溜まった塩水や雨水を、大きいバケツで掬い出している。それが彼らの仕事の一つ。それらの光景が、白根さんのお話を聞いていると、自然にフラッシュバックされた。思いがけないところで繋がっているんだなぁ。と嬉しくなった。
◆白根さんのお話は、私には刺激的すぎて、たくさん笑ってしまった。今回の地平線報告会も、盛りだくさんの内容。国家権力を個人で使ってしまう関野さんのエピソード。関野さんやチームのために、あっちへこっちへ走り回った白根さんのエピソード。「現場の声を大切にするんだ!!」という使命感と情熱に燃える先輩たちのエピソード。世界中のカーニバルの話も、また聞けたら嬉しいです。
◆一つ一つのエピソードを聞きながら、私の心は「おぉっ!」と叫んでいた。「おぉっ!」と感じるその瞬間は、何の前触れもなく、いつも突然やってくる。その瞬間が、私は好きだ。不思議なことに、その瞬間が訪れた直後には、こういう気持ちになっている。「さぁ、やりたいことをやろう!」地平線会議は、いつも私を次の行動へと向かわせてくれるのです。(杉田明日香)
|
|