2017年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信456より
先月の報告会から

登山を文化にしたい!

花谷泰広

2017年3月24日 新宿区スポーツセンター

■第455回の報告者は「江本さんから何度か声をかけられたけどまだ話せる資格はないと思って断り続けてきた」というアルパインクライマーであり山岳ガイドの花谷泰広さん。会場には母校信州大学山岳部の先輩や報告会参加は初めてという山関係のひとたちも加わって席が埋められた。パソコンの準備をしながら伸びをしている花谷さんに話かけると、「今日は緊張してるんですよ」という。

◆以前から地平線の報告はこれ以上ないタイミングで行われることがあると思っているのだけれど、今回も同様だ。江本さんから「花谷くんの報告会レポートを書いて」と携帯が鳴ったのは2月の終わりで、ウワサに聞いていた4月からの山小屋経営のことを思い出した。先鋭的な山登りで新しい挑戦をしつづけていくのは難しい。リスクの高い領域で、年を経ていくなかで、自分自身が心の底から納得できる対象を見出し続けられるのは突出した一握りなのではないかと思う。

◆40歳になった花谷さんが4月から七丈小屋の指定管理者になると聞いたとき、今までとは異なる新たな挑戦ではないかと驚いた。ふもとから1600mも標高差のある小屋で、管理や運営の経験がないにもかかわらずこの選択は、軸を変えた真っ向勝負の挑戦に見えるが果たしてどうなんだろう。今聞いておくべき話だと思った。花谷さん自身も山小屋運営についてほかではまだ詳しく語っていないはずだ。

◆報告は期待どおりというべきか、甲斐駒ケ岳黒戸尾根にある七丈小屋の指定管理者となるために会社を作り、社長になったというところからはじまった。「設立した会社のミッションは『登山文化の継承と発展に貢献して多くの人々が登山に親しめるようにすること』。今回は自己表現としてのクライミングの話はしません。もともと登山に対しては劣等感の固まりだったんです」。花谷さんから意外な言葉が続いた。

◆大学山岳部では3年下に横山勝丘さんら強い後輩がおり、上には馬目弘仁さんがいた。卒業して出会ったのが佐藤裕介さん。いずれもピオレドール賞を受賞した世界的にも屈指のアルパインクライマーだ。「彼らにフィジカルでは負けていなかったが、メンタルが違った」。植村直己に憧れて小学校の卒業文集にはすでにカンチェンジュンに登りたいなど固有名詞を上げるほどだったというが「山野井さんは小学校の卒業文集にすでに無酸素でエベレストに登ると書いて、さらに上をいっていたんです」。

◆花谷さんにとってもうひとつの大きな軸である、若者をヒマラヤ登山へ導く「ヒマラヤキャンプ」をはじめたきっかけは、20歳のときに参加した信州大学のラトナチュリ峰遠征だった。現場では散々で、荷上げも一切できなかったのに頂上に立たせてもらう。くやしさを味わった最初の経験だったが、純粋に大きな山の頂に立てたことがとてもうれしかった。今の若いひとたちは連れて行ってもらう機会すら減っている。ならば、自分がはじめようと思った。

◆ヒマラヤキャンプで重視しているのは、どれだけ歩けるかと生活技術。それは自分の経験が基にある。大学山岳部ではとにかくいっぱい歩いた。最長は30泊31日の南アルプス合宿。基礎ができていれば応用が効く。山で重要なのは、この二つだと思っている。ヒマラヤ登山の師匠は信大山岳部の先輩である田辺治さん。極地法のエキスパートで、シェルパとの交渉など大勢をまとめることに長けた人だったけれど、一方でシンプルなアルパインスタイルはあまりやらなかった。最後にそれをやって、ダウラギリの雪崩で消えてしまったのかもしれない。

◆田辺さんとは日本山岳会の東海支部で冬のローツェ南壁にも行った。このとき、とても強い2人のシェルパと出会った。そのひとりがダワツェリンで、だれよりもフィジカルもメンタルも強かった。落石にビビっていると「死ぬときは死ぬんだ。神様しかしらないのだから恐れるな」と言われたが、本当に危ない場所ではさっさと引き返すことのできる良いクライマーだった。彼に「お前みたいに強いヤツをみたことがないから有名な登山家になれるはずだ」というと、山は金を稼ぐために行くだけだと言い切られた。当時の自分には実力以上の野心があり、世界的クライマーになりたいと思い、そういう目で世界を見ていた。

◆その奢った気持ちへの大きなしっぺ返しが28歳のメルー峰だった。ケガをして這々の体で帰ってきたが、この事故がなかったらその後の登山で自分は死んでいただろう。大して登れもしないのにそんな厳しい山を登っていていいのか、と突きつけられた気がした。でも、あきらめられなかった。そして2年後の30歳のとき再挑戦して登ることができた。

◆山頂で隊長の馬目さんと自分は大泣きした。馬目さんはメルー4回目。自分は2回目で大けがしての再挑戦だった。通常の登山では山頂は通過点で、感極まったことはこのときしかない。最後に岩を迂回したので登山自体は失敗だと思っているが、そのときは頂上が必要だった。なんとしても登って呪縛から解き放たれたかった。これを機に自分の登り方が変わった。30になって自分が見えてきたような気がした。

◆30歳でガイドもはじめた。昔は山岳ガイドと山小屋仕事だけはしないと思っていた。山岳ガイドは終わったクライマーの仕事、山小屋はどこにも行けない仕事だからだ。しかし、メルーで一緒だった岡田さんと黒田さんは当時すでにガイドで、自分の登山もできる。彼らを見てやってみようと思った。短期間でお金を稼ぎ、ほかは自分の登山に集中できる。今なら若いクライマーに勧めてもいい仕事だと思っている。富士山の強力(ごうりき)もやった。1回10万円。夏のガイドを含めると富士山には年間50日通った。

◆実はローツェの後、田辺さんから次の遠征に誘われていたが、メルーにどうしても行きたかったので裏切った。極地法から離れたいという気持ちもあった。それから10年たってからふたたび田辺さんとネムジュン峰の遠征へ行き、トップでルートを拓けるようになった自分の成長を感じて感慨深かった。その後、谷口ケイさんとアラスカに遠征した。

◆いままででもっとも心と体が一致していたのは2012年だ。パフォーマンスと気持ちが最高点に達したときだった。この年、フィッツロイとキャシャール峰に登った。フィッツロイはジャンボ(横山勝丘)がパートナーだったので登ることができた。キャシャール峰ではピオレドール賞を受賞した。

◆このときに、はじめて登山は出会いがあって登れるのだと感じた。自分の心と体が最高潮に達しているときにキャシャールと出会い、そこへ馬目さんと青木さんと一緒に行くことができた。現場のコンディションも良く、1週間天気が崩れなかったのも奇跡的だった。全てが味方をしてくれたと感じた。山は思いだけではなくて、いろいろなものが重ならないと登れないんだと36歳にしてようやく理解できた。2012年以降は、クライマーとしてそれほどコミットして登ってはいない。

◆2015年からはじめたヒマラヤキャンプは、ヒマラヤ登山の間口を広げたいと考えてやっている。行くからにはネパール政府が発表している未踏峰や未踏ルートなど情報が少ないところに行く。記念行事的な単発ではなく長く続けて連鎖を見たいので、自分のプロジェクトというよりは継続していけるシステムにしたいと考えている。

◆1回目の2015年は信州大学の後輩を連れて行った。2014年にネパール政府が解放した104座の未踏峰から選んだが、2週間前にネパールのクライマーに登られてしまったので第二登。去年のロールワリンカンは初登頂だった。ちょっと難しいかなと思ったがいつまでも未踏で登っているとはいえないので、ここを選んだ。

◆ヒマラヤキャンプでは「自分が行きたい山に行きたいヤツと行く」というところはブレないようにしている。履歴書を送ってもらうが書類だけではわからないので、選考登山をする。黒戸尾根を登って体力をみる。歩き方をみれば歩けるかどうかわかる。技術はあとづけでもいいが、体力と生活技術は長く歩いたり何日もテント生活をしていないと身に付かないのでそこを見る。

◆山の中で一緒に生活することも大事にした。日帰りの登山を繰り返しても仲良くならない。そして、リスク管理のためには人のスキルを信用しない。人間は必ずミスをする。一番信用していないのは自分。できるだけ客観的に自分を見るようにしている。現場では映像も撮る。山を登らない人にもヒマラヤの世界を見てもらいたいと思っている。日本人のほとんどは、ヒマラヤ=エベレスト。いろいろな山が沢山あるんだということを含めて伝えていきたい。本来は今ヒマラヤキャンプの第三回がはじまっているはずだが、今回はそこまでの気力がなく集めなかった。次は6月頃から募集をはじめて夏から秋にトレーニングし来年の3〜4月に遠征する予定。

◆現在は七丈小屋運営のことを中心に考えている。先代の管理人はひとりで20年間小屋を守ってきた。電気も水もなかったのをこつこつと快適にした。3年前に先代から誰かやる人がいないかと相談を受けたが、引き継ぐ人が現れなかった。理由のひとつは通年営業。1-2月は登山者がほとんどいないのに常駐しているので、それが足かせになっていた。2年前にまだ現れないと聞いたとき、ここに自分の拠点ができたら、これほど面白いものはないと思ってしまい、僕やりますと手を挙げた。

◆公的な指定管理者制度なので、公募したところほかに2人手を上げた。すでに山小屋をやっている人たちだった。普通の行政は、小屋経営の経験がある人を選ぶが、北杜市は僕を選んでくれた。唯一僕が通年やりますと手を上げたからかもしれない。しかし、自分がここに釘付けになるわけにもいかないので、パートナーを得て、先代の管理人も1年はいてくれることになった。

◆準備するなかで大変なことがようやくわかってきた。人に話すと今までわかっていなかったのかと笑われる。いま何が一番大変かというと許認可などで、食品衛生責任者や旅館業、消防検査などいろいろ資格をとらねばならない。先代の管理人が4月から従業員になるので現時点では法律的にはクリアしているが、そんな準備もしなければならない。

◆甲斐駒が好き。里山からはじまって、山岳信仰開山から200年の歴史があり、アルピニズムもある。山の要素全てがそろっている。秋は松茸がいっぱいとれる。これほどひとつの山で全てが味わえるところはあまりない。そこを発信したい。小屋の運営そのものは大変だけれど、七丈小屋が赤字になることなく、お客さんが来てくれると思っている。むしろそこが目的ではなくて、山小屋に手を出した一番の核心は「多くの人々が山に親しむように」すること。

◆今の登山人口を支えているのは中高年。今後、それらの人たちがいなくなると、廃業する小屋やショップがでてくる。それに対してまだ山の業界はなにもしていない。多くの人に山登りに興味を持ってもらうのが大事。山に関心のない人たちも山に行くようなシステムを作らねばならない。北杜市には瑞牆山、八ヶ岳、甲斐駒ケ岳という魅力的な山々がある。それらを使ってやってみたい。自分自身小屋は素人だが、ガイドのキャラクターがあり、登山家というキャラクターがある。山小屋をキーにして、そこに広がる豊かなフィールドを使った取り組みをすることで、首都圏から2時間でアクティビティーができる場を提供でき、北杜市の活性化にも繋がる。

◆北杜市の自然は区分が別れる。里山、低山、2000mくらいの山があって、森林限界を超える山がある。こういう情報すら一般の人は知らない。里山のエリアは登山靴もいらない雨具もいらない地図もいらない散策路を歩けばいい。そこから先は低山エリア。登山靴も雨具もあったほうがいいと段階を踏んで行く。中級山岳エリアは一歩進めて、必要なスキルで区切る。さらにステップアップしたければ、情報を出して技術講習でお金をもらおうと考えている。

◆日本はいま、登山人口800万人くらいと言われる。将来は二人に一人で5000万人くらいに増えてもいい。山のふもとで遊んでもいいし、山頂にいかなくてもいいし、渓谷道で遊んでもいい。国土の7割が山。これだけ身近だったら、もっと入っていいはずだ。

◆小さいときは六甲山のふもとに暮らし、山と町の境目が少なかった。1時間程度歩いておむすびたべて帰ってくるというところから自分の山登りははじまった。今でも、山登りに対して抱いている感情は、当時とあまり変わっていない気がしている。「山小屋のことを考えると次から次へとアイデアが湧いてきて」という花谷さん。今回の報告では、先鋭的クライマーでもある花谷さんが40歳という油の乗った年齢で既にクライマーとしての自分自身を詳細に振り返り、自ら区切りをつけていることを初めて知って驚いた。

◆一方、それができていればこそ、次なる大きな目標である小屋の経営やヒマラヤキャンプを含めた社会のシステム作りに邁進できるのかもしれない。小屋経営とシステム作りは大変であることに違いはないと思うけれど、とにかく楽しそうだ。(恩田真砂美


報告者のひとこと

語り忘れたこと

■もうずいぶん前から江本さんに報告会で話をしないかと誘われていましたが、自分にはまだその資格はないと思っていたので、ずるずると月日が流れてしまいました。地平線会議はホンモノの行動者、表現者が集う場所だと思っています。そんな場所で話をすることは、僕はまだ早いとずっと思っていました。ところが昨年夏に日本山岳会のイベントで江本さんにお会いした時は、今だからこそ話をさせてもらいたいと思ったのです。ようやく自分が進むべき方向が見えてきたからかもしれません。

◆柄にもなく、何となくいつもよりも緊張して話を始めましたが、話しだしたら本当に気持ちよく、自分の思いがスラスラと出てきました。皆さんが少し前のめりになりながら話を聞いてくれているのがよく分かったし、何と言っても気持ちを分かってくれるだろうという安心感がありました。150分という時間は長すぎると思いましたが、あっという間でした。本当にありがとうござました。考えてみればいい忘れていたことがあったなあと思い、ここに残そうと思います。

◆「登山文化の継承と発展に貢献し、多くの人々が登山に親しむ世の中を作る」というのが僕のミッションです。その中で、特に「継承」の部分でやらなければならないと思っていることがあります。それは江本さん前後の世代の話を聞き、それをちゃんと記録に残すということです。

◆山岳部などの組織がなくなることで、一番失われるのが先輩方の話を聞くことだと思います。この世代がやってきたこと、考えてきたこと、いい話もそうではない話も、本来ならば酒の席とかテントの中で聞く話だと思います。その機会がなくなってきている今の登山界の現状がとてもさびしいのです。大先輩方にインタビューをすることはとても責任重大だし大変なことだと思いますが、この世界で口伝がなくなってしまったら、本当に終わってしまうと思います。

◆インターネットじゃダメなのは分かっているけど、でもこれはインターネットの力を借りてできるだけ拡散させたいし(でも視覚ではなく聴覚に訴えかけるようなモノにしたい)、時にはリアルな機会で語ってもらえるような場を作りたいと思います。1979年からずっとそんな場を提供している江本さんと地平線会議は偉大です。ということで、江本さん。今度は語ってもらいますのでよろしくお願いします!(花谷泰広


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