■「明けましておめでとうございまーす!」和やかな雰囲気で登場したのは大西夏奈子さんだ。現在はフリーで編集者とライターをやりながらモンゴルに通っている。夏奈子さんが着ているモンゴル民族衣装のデールは20歳のころに作ったものだといい、パッと目を惹くピンク色だ。水色のデールをまとった8歳の我が娘も並んで立たせてもらい、憧れのモンゴルの先輩の横で娘のほっぺたは最高潮に赤く染まっていた。なぜ冒頭の挨拶なのかというと、モンゴルは(中国などとはまた違う)旧暦で、今年は2月27日が元日なのだ。報告会のあった日、モンゴルの人々はごちそうの準備で大忙しだという。
◆そもそもなぜ夏奈子さんがモンゴルにかかわるようになったのか。夏奈子さんは広島生まれ、江戸川区の南葛西育ち。23区にもかかわらず何もない埋め立て地で育ち、幼少時代は童話作家になるのが夢だった。その後、成長して東京外国語大学モンゴル語科に入学。なぜモンゴルを選んだのか20年近く謎だったが、日本語教師をしているお母さんから最近種明かしが。「将来モンゴルで日本語教えたいな〜ロマンだなあ〜」と生まれた時からお母さんが耳元でささやき続けたためすっかり刷り込まれてしまったらしい。
◆夏奈子さんが初めてモンゴルを訪れたのは大学1年生だった2000年。首都ウランバートルの街を一望できる丘から見た風景写真では、街なかにまだ小さな草原が点在しているのがわかる。モンゴルに対して日本から多くの援助をするなど、先人たちが国家間をよく繋げてくれた恩恵を受け、夏奈子さんが訪れた当時のモンゴルは日本ブームが起こっていた。「日本人ですか」とよく声をかけられ、その一人がターニャという女の子。友達になって文通する中で、毎回手紙に「来年の夏に田舎に行こう」と書いてあった。いろいろなことがアバウトで日時も目的地もよくわからなかったけれど、とにかくビザを取って翌年またモンゴルに行った。
◆この頃のモンゴルで印象的だったのがマンホールチルドレンだ。外国人とわかるとお金を求めて声をかけてきて、断ると石を投げてくる。こっちも負けじと投げ返す。しかし何千人もいたマンホールチルドレンは今、忽然と姿を消してしまった。政府やNPOなどが保護して社会復帰できたという説、臓器売買や売春のために中国やロシアへ連れて行かれたという説などが噂でささやかれているが、実態はよくわからない。
◆翌夏ターニャの家族と一緒に、ゴビアルタイ県ジャルガラン村で遊牧生活を送る親戚のゲルをめぐる旅をした。バンのような車一台で定員オーバーしての、途中2泊というきつい旅で、悪路が続きまるでロデオのようだった。モンゴル人たちが小石をおへそにセロテープで貼っていたのが車に酔わないおまじないだと言われ、夏奈子さんも半信半疑で真似をしたら実際酔わなかったという。他にも変わったしきたりが山ほどあった。ターニャのお祖母さんが突然車を降りて服を脱ぎ、草原で3回でんぐり返しをしたのだが、自分が生まれた地点でそうすると次の一年健康でいられるという。生活の中にたくさんしきたりが根づいているのが夏奈子さんにはとても面白く、今でも好きでそういう伝承を収集している。
◆ゴビの方に行くにつれ、風景は砂漠になる。ターニャの家族の里帰りは、銀細工の名手だったお祖父さんの墓参りが目的だった。モンゴルは前年にも訪れていたが、ひょうきんだったり優しかったり涙もろかったりする、他人との間に壁を作らずむき出しで接してくれる人たちとの触れ合いがたくさんあったこの年のモンゴルが、夏奈子さんにとっては本当の始まりだった。
◆10歳から地元で和太鼓をやっていた。9.11の半年後の2002年5月、ニューヨークの人を太鼓で励まそうというイベントに参加し、そのままカナダのトロントに移動して9か月間滞在した。高校生の時にクラスで話題になっていた母校先輩の関野吉晴さんが、色々な国でたくさんの人と会って直に話す様子をうらやましいなあと思っていた。トロントにはエスニックタウンが200以上あり、それぞれの民族が元の文化を守ったままタウンを形成していて、そこに行けば色々な人に出会えると思ったのだ。電車でカナダを旅したときはジャスパーでクライマーの田中幹也さんと出会い、「日本に帰ったらここに行くといいよ」と手帳に“地平線会議”と書いてもらった。
◆トロントではゲイパレード、ローマ法王を前に喜びで失神する南米の友人、チベット難民と中国人のプライドをかけた殴り合いなどを目の当たりにし、民族や宗教について深く考えさせられたりギャップを感じたりする日々を過ごした。通っていた語学学校で自分の国の文化について話す授業があり、ふと思い立って広島のお祖母さんに国際電話をかけ初めて原爆の話を聞き、翌日学校でその話をしたところ、ヨーロッパ、南米、韓国、台湾の生徒たちはその事実を知らなかった。夏奈子さんは驚くと同時にこちらから発信することの大切さがよく分かったという。
◆社会人になって出版社に入り、広島・長崎のことを日本語と英語で世界に発信するという企画の担当者になった。その本をPRする際、夏奈子さんは被爆3世ということを前面に出して新聞やテレビで発言し、それを機に核についても考えるようになった。若い人に受け取って欲しいという意図だったが、実際は70、80代の人たちからの反響ばかりが届いた。発信しても関心を持って受け取ってもらえないと意味がないということが身に染みた。
◆広島にある日米共同の放射線影響研究所では、被爆者と2世を対象に追跡の健康調査を今も行っている。ここでは検診の際に被爆者から採取した血液が保存され、人が原爆に遭うとどうなるかをずっと追いかけている。このデータがICRP(国際放射線防護委員会)の参考値にされ、被ばく線量限度の基準値ができるきっかけの一つにもなった。そして2011年3月11日。現代の日本人が核を現在進行形であり自分にかかわることであると認識した、時代が変わった瞬間だった。
◆2011年5月、毎日新聞にスクープ記事が。日本とアメリカがモンゴルに核の最終処分場を作ろうとしているというのだ。広島とモンゴルがこんな風につながってしまったということが大きな衝撃だった。モンゴルでもすぐ報道され、デモが起き、モンゴル政府はこの計画を実行しないと宣言した。日本がやろうとしていたのは包括的燃料サービスといって、原発を輸出し、モンゴルのウランを使って核を作りさらにそこで出たゴミをモンゴルが引き取るというパッケージだった。
◆そのころ夏奈子さんは日経新聞の出版社で派遣社員をしていて、記事をクリッピングする業務をしながら、モンゴルの話題が急に増え始めたのが目に見えるように分かったという。「経済成長率世界ナンバーワン」といった報道があった一方、「デフォルトになるかも」という報道もあり、いったい何が起きているのか気になって仕方がなかった。ところが他の近隣諸国とは違いモンゴルについては情報がなく、ニュースも流れてこない。とにかく知りたくて現地に行こうと決意した。
◆2012年末、11年半ぶりにモンゴルに行った。久しぶりのモンゴルは建設ラッシュで、これから国が昇っていくぞというエネルギーで溢れ、人々がギラギラしていた。否応なく興奮させられたがその興奮がなんなのかが理屈では分からず、とにかく彼らとかかわってみようと思った。ただ、情報は入ってこないのでモンゴルの人と付き合って知るしかない。東京でモンゴル人らしき人を見かけたら、こんにちはと話しかけて友達になる。人口300万余りのモンゴル人全員と知り合う勢いで、モンゴルでも声をかけていく。こうして今も色々な立場、階層、年代、職業の人と知り合っていっているところだ。
◆ここで遊牧民の話に。首都のウランバートルを出ると草原が延々と広がる。関野さんから「ぜひプージェの家族に会ってきてほしい」と言われ、3年前会いに行ったら、映画の中では2歳ほどだったいとこのバーサンが大きく成長していた。かつてプージェがバーサンを温かく守っていたのと同じように、今は兄のバーサンが弟バーサのことを温かく守っていて、プージェの魂が脈々と受け継がれているかのようだ。お祖母さんのスレンさんもニコニコ元気で暮らしている。
◆目指していたゲルにたどり着けなくて困っていた時は、そばを通りかかったモンゴル人夫婦が自分の親戚の遊牧民のゲルに案内してくれた。その人たちは新婚でこの日は引越しの予定だったが、それをキャンセルして付き合ってくれたという。モンゴルの人は愛想笑いをしないのでとっつきにくい印象があるが、実際は困っている人がいるとすぐ手を差し伸べてくれる温かい人たちなのである。他にも、草原の遊牧民の暮らしぶりやモンゴルならではのユニークなしきたりを紹介してくれた。
◆首都ウランバートルでは、ある時一人で北朝鮮レストランに入った。先入観も影響しているのかもしれないが、怖いという印象だった。まず店に入ったらカラオケセットがオンになり軍歌が流れてくる。店員の女性は白いブラウスに黒のスカートという出で立ちで、眉が太く決して笑わない。ウランバートルには北朝鮮から数千人の出稼ぎ労働者が来て工事現場の仕事に従事しているそうだ。モンゴルも北朝鮮も社会主義同士だったこともあり、また朝鮮戦争のときにモンゴルが北朝鮮の子どもを引き取って育てていたなど、深い繋がりがあり親密な関係にある。
◆ここからは相撲の話。日本でモンゴルと言えばまず相撲なのではないだろうか。白鵬関は、日本では外国人ということで叩かれ、モンゴルでは日本人と結婚して日本に魂を売ったと言われたりした。今は母国でさすがに英雄の扱いだが、数年前まではそういう悪口もよく聞かれた。日本ではヒールだった朝青龍は、モンゴルでは誰もが尊敬する英雄である。
◆夏奈子さんは昨年7月にわんぱく相撲を観る機会があった。モンゴル人通訳が来なかったため急きょ通訳を頼まれたのが縁で、モンゴルチームと3日間一緒にいることに。モンゴル代表のうち、前年の白鵬杯で優勝したソソルフ君は子供力士界の有名人だ。細い体で粘って大きな相手を投げ飛ばすので、白鵬は自分の過去の姿に重ねたであろうと夏奈子さんは思う。白鵬も来日当初は痩せていて、無理やり食べて体を大きくした。白鵬が開催する白鵬杯では、現役力士のカラオケ大会などの楽しい企画もあり、子供たちは力士の楽しそうな姿を間近に見て将来の夢を膨らませる。このような活動を一生懸命やっている白鵬に夏奈子さんは心を打たれたそうだ。近年の相撲界はモンゴル人力士が数多くいることで悪い声も聞かれるようになったが、モンゴル力士が日本の大相撲にパワーを与え、日本の大相撲がモンゴルの子どもや若者に夢を与えていると思っているという。
◆夏奈子さんはほんの数か月前の年末年始にモンゴルを訪れた。モンゴルでは12月31日がクリスマス。広場には大きなクリスマスツリーが飾られ、水色、黄色、ピンク、緑など様々な色のサンタクロースがいる。「冬のおじいさん」と呼ばれ、ロシアのスタイルだという。31日深夜には広場でカウントダウンを待ち、−30度の極寒の中でみんな踊りながら体を温める。それから電車に乗ってバカハンガイという初日の出スポットへ。太陽が顔を出す瞬間、人々が一斉に「オーハイ!オーハイ!」と叫ぶ。そしてミルクを大地と空に撒き、お祈りをするのだ。
◆最近のニュースと言えば、ウランバートル郊外にできた新空港だ。北東アジアのハブになるという鳴り物入りの新空港は日本のサポートもあって完成したが、どうやら今年開港できなそうということが判明。空港からウランバートル市街までを繋ぐ50kmの道路がまだできていないのだ。道路はモンゴルが作る予定だったが、お金が足りず舗装することができなかった。
◆次にモンゴルの最近の経済について、夏奈子さんがGDP成長率を分かりやすいグラフにしてくれた。モンゴルには世界最大級の鉱山が数多く存在する。鉱山開発に投資する海外からのお金が集まり、2011年に成長率が17.3%になった。世界1、2位を争う成長率は海外から注目され、日本でも投資セミナーが開講されるなど湧いていた。この時モンゴル政府はさらに伸びると楽観ムードになって、2012年に資源ナショナリズムに方向転換した。しかしその後の中国経済の衰退、資源の値段の急落、加えて政府がルールをコロコロ変えるせいで投資家の不安を煽り、投資が減ってしまった。政治家の賄賂など他の要因も相まって2016年の成長率はおそらくゼロであろうという発表が先日IMFから出された。
◆モンゴルの大気汚染は場所によっては北京より何倍もひどく、人が亡くなるレベルだという。主な原因は、郊外に広がる密集したゲル地区だ。市の中心部のマンションは暖房設備も含めたインフラが整っているが、郊外にゲルを持ってきて住み着いた人たちは寒くなると石炭を燃やす。さらに貧しい人はタイヤやプラスチックなどのゴミも燃やし、それらが煤煙になって市内に充満する。市民たちの大きなデモがあり、政府は対策としてこの1年間はゲル地区に勝手に住み着いてはいけないという法律を作った。人口約318万人のうち、ウランバートルには約半数、そのおよそ半数がゲル地区に集中している。
◆ゾドいう雪害も起きている。前年夏の降水量が少ないと草が十分に成長しない。そして冬季低温により一度溶けた雪が氷になると、舌を使って草を食む牛から先に飢えて死んでいく。ほかの家畜も草を食べる能力が低い順番で死んでいくのだ。数年おきに起きるものだが、今年は昨年に続いて2年連続になった。申年はひどいゾドが来るという言い伝えがある。家畜を失った遊牧民は生活に困窮してウランバートルに仕事を求め、ゲル地区に住み着いてしまうが、今年は国がそれを禁じたためそれもできない。
◆物議を醸しているのがダライ・ラマの問題だ。11月に来日し、その足でモンゴルを訪れたことに、政治的な目的があるのではないかと中国が非常に立腹。予定していた外交会議を中止したり、モンゴルから中国に石炭を輸出する際に高い関税をかけたり圧力をかけてきたのだ。チベット仏教の活仏のジェプツンダンバ・ホトクト10世がモンゴルで転生し、そのための訪問だったことをダライ・ラマも認めた。10世はモンゴルのどこかにいるまだほんの2、3歳の子供だ。中国政府が別に擁立して「二人」になったパンチェン・ラマのこともあるので、10世の行く末を夏奈子さんは心配している。
◆モンゴルは社会主義時代にロシアの衛星国だったので、今もロシアと深い関係にある。エネルギーの分野を例に取ると、モンゴルでは国を5つのパートに分けてそれぞれで発電・電力供給している。ウランバートルがある中央のパートは一番人が多く集まり経済も動いているところで、火力と少しの再生可能エネルギーで発電しているが、非常に不安定だ。そこでロシアが余った電力を買ってくれたり足りない分を売ってくれることで、安定的に電力供給できている。つまり国の中枢の電力をロシアに握られているということでもある。水力発電をおこなえば安定的な電力供給ができるはずだが、実現に向けて動き出そうとするとロシアから圧力がかかり先に進むことができなくなるのだと、複数のエネルギー関係者が話していたという。
◆ロシアと中国に挟まれたモンゴルはどちらの国とも良好な関係を築きながら、第3の隣国である日本との関係も深めていこうとしている。夏奈子さん自身も「日モ」がいい関係でいることはとても大切だと思っている。国家間の政治的なかかわりは花田さんたちの尽力のおかげで深まったが、個人レベルの関係はまだまだだと感じている。日本にいるとモンゴルの情報がほとんど入ってこない。日本のニュースは向こうで流れることもあるが、個人レベルでももっと話題を共有しあい、理解し合いたいと思っている。
◆夏奈子さんが日本で出会ったモンゴル人たちは、日本とモンゴルの懸け橋になりたいとか、将来モンゴルの政治家になって国を救いたいとか、真剣に熱く語る。じゃあ自分は何ができるかを考え、日本でもっとモンゴルの話題を発信し、モンゴルでは日本の話題を発信して、お互いの価値観や意識のギャップを埋めたいと思うようになった。その一つとして『モンゴリアン・エコノミー』という経済誌に毎月寄稿が始まった。この雑誌はモンゴルのビジネスマンや政府・外交関係者がよく読むということで、去年モンゴル雑誌賞を獲得した。最初に記事を書いたのは去年の11月で、モンゴルの新首相が訪日した時のレポートだった。ここで一番言いたかったのは、日本とモンゴルが拉致問題解決のための連携を約束したということ。モンゴルのマスコミの人と話すとこの問題が全然知られていないのを感じていたので、もっとそれを知ってもらえればと、そこにやりがいを感じるという。
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■ここからは元駐モンゴル大使の花田麿公さん、地平線世話人の江本嘉伸さん、そして大西夏奈子さんによる鼎談だ。江本さんが読売新聞の記者としてモンゴルを最初に訪れたのは1987年5月で、その時に大使館の一等書記官をしていらしたのが花田さんだ。江本さんに会った時は2度目の勤務だったこともあり、仕事は割と軌道に乗っていたそうだ。お二人の出会いの様子を花田さんに聞いた。
花田:日本から読売の方が来るということで僕がどこかに行っていたのを呼び戻された。対応しろと言うことで。僕は待つのが嫌いなので昼休みにバーッと探しに行った。「あなたですか、来たのは」と言ってホテルの食堂に乗り込んで話し込んだらなぜか馬が合った。トランプさんの言うところのケミストリーと言うような、あんな感じになった。
江本:花田さんは日本とモンゴルの関係を樹立した功労者だと思います。西側の外交関係の構図は、まずアメリカ主導で関係を作り、そこに日本が入っていくというパターンが普通だった。モンゴルの場合は日本が先だった。北京からウランバートルまで寝台列車に乗っているとき、アメリカ人の美しい女性と同室になった。その人がアメリカ大使館を開設するために派遣された外交官だった。日本の大使館はとっくにあるのに、アメリカのはこれからという段階だった。
それ以前から日本は経済的なものも含めて第一のパワフルな国だった。花田さんたちが相当がんばったがモンゴルにはまだ問題があったようだった。その辺どうだったんでしょうね。
花田:モンゴルの特徴を考えたら答えが出ると思うんですけど、私はこういう風に捉えています。一つには、有史以来中国と対決してきた遊牧の国であるということ。二つ目に、中国とロシアに挟まれている唯一の国であること。この二つの大国に挟まれて消えたり飲みこまれたりしていった国ばかりの中で、唯一今も存在している。これはやっぱり偉大なことなんです。三番目に、人口の少なさだ。日本の4倍ぐらいの国土を持っているが人口は少ない。ただモンゴルより人口が少ない国は世界200か国のうちに57か国もある。ポルトガルがスペインと世界を二分していた時のリスボンの人口は10万だったが、それで大国とやり合えるのだからモンゴルも現在の人口で十分です。そして四つ目。モンゴルには他の国にないものがある。チンギスハーンです。チンギスハーンがあるからモンゴル人はプライドがあるしこれからもやっていけるでしょう。彼らは普通の国のようになるわけにはいかない民族だし。
マレーシアのペナンなどいろんなところに在勤したが、モンゴルの方がずっと深いものがある。口承の文化です。だから今夏奈子さんがそれを集めていると聞いてびっくりした。
江本:ソ連に封じ込められていたチンギス・ハーンを民主化が“解放”した。
花田:地平線の方に言う言葉ではないと思うが、旅と旅行というのは別のものだと考えている。旅する人は自分の人生を考えると同時に旅の中で地球と宇宙のことを考える哲学的な人でなくちゃいかんな、と思う。ならば夏奈子さんはどちらなのかと意地が悪い目で今日見ていたが明らかに旅行者じゃないということがわかった、それがすごく嬉しかった。それから、僕らの言葉は皆さんに届かないが彼女の言葉は届く。だからこういう人が日本モンゴル関係に一人出てきた、ということなのだろう。さっきの答えですけど、今までにこういう人がいればもっと日本とモンゴルのすれ違いが防げたのではないかと思う。すれ違いの原因は、日本は中国を超えてモンゴルには行きづらい。国家としては愛(う)いやつだと言って面倒を見るが、それはつまり飼い殺しだよね、言葉は悪いけれど。だけど民間の人がモンゴルに行くというのは、ましてや住むというのはなかなか難しい。なにしろ寒い。
国家の開発銀行があれば大きな投資が自国でできるようになる。それがないからモンゴルは国民一人当たり20億ドルという再来年までに払わなければいけない借金を外国に背負っている。日本はいくら借金があると言っても日銀が日銀に借りている借金で、一人当たりはモンゴルの1/20ほどだろう。モンゴルはまさに破産国のようなものになってしまった。日本は、国家としては助けるのに国民が行って投資するということはほとんどない。開発銀行というのは国の要のところだから本当は美味しいところだ。その開発銀行を作るというので相談に乗り、最終段階まで話が進んだにもかかわらず、4、5年前にやめたって。あそこに駐在するのは寒いから嫌だというのだ。日本がお膳立てしてすべて投資して最後の段階まで整えたのに、結局韓国の人が総裁になってしまった。だからそこらへんなんですよね。おそらく地平線の人なら喜んで行くのだろうが、既定路線で来た普通の会社員の中には行く人がいない。僕も外務省にいるということは既定路線なんだろうと思っていたが、モンゴルを選んだ時点で人生脱線していると人から言われました。だから夏奈子さんのような人がもっとこくさん出てくれるといい、と今日つくづく思いました。
江本:花田さんは並みの外交官じゃないです。当時は社会主義国だからもちろん日本語教育というものが一切なかった。遅くまで仕事をして帰宅した後、当時小学生だった次男坊に深夜まであらゆる科目を教えてた。それから不思議な趣味があって、ウランバートルの小さな狭い部屋で模型の列車を走らせてるんですよ。毎日忙しいのに。
花田:あれはドイツのメルクリンという模型です。日本の模型は高かったんですよ。ところが日本の模型界の権威からあんたのは模型ではなく玩具だと言われた。
江本:花田さんはモンゴル語が達者でモンゴルのテレビにしょっちゅう出ては市場経済になった後の色々なことをアドバイスしていたような、モンゴルではかなり有名な人でした。
花田さんにもう一つ質問。あれほど鳴り物入りでベルリンの壁が崩壊し、ソ連が崩壊し、モンゴル人がワッとなって民主化し、新しいリーダーになった。なのに経済的にはうまくいってない面がある。体勢が変わって発展していくというのは、こんなものなんでしょうかね。
花田:それはモンゴルだけの問題ではないと思うんだけど、一つには国際的な援助がある。モンゴル政府の人がよく言うのは、モンゴルはあの時池におぼれた、それをつまみ出して陸にあげてくれたのは結局日本だけだった。そうこうするうちにやっとモンゴルが元気になったら中国も含めみんなまとわりついてきた。そうなったときモンゴル人は日本にもっと応援してもらいたかった、日本とだけやりたかったのに、もうその時になったら見えないほど後ろの方に日本が立っていた。じゃあお金もくれないのかというとそうじゃなくてお金はくれる。でも後ろの方に立って眺めている。つまり経済援助はしてくれるけど貿易は伸びない、投資もしてくれない。投資をしない奴はゼロだ!とか言って怒っていた。
江本:夏奈子さん、あなたから質問は?
夏奈子:質問ではないんですが、プージェの翻訳をやった外語のモンゴル科の一つ先輩の三羽宏子さんと花田さんが2006年に報告会をやった時に、初めて花田さんを目の前で見て、その時に外交官のイメージがガラッと崩れて、大らかで大きくて海のような方だなと思いました。地平線通信のようにモンゴルのことを書かせてもらえるところが本当に少なくて、モンゴルのことをやってもお金が入ってくるどころか出て行くばかりなんですが、そういう記事を書くたびに花田さんがメールをくださるのが勇気になっています。花田さんが、外交は国と国のことだけど、人と人のことでもあるんだよとおっしゃっていたのが印象に残っていて、個人同士の付き合いなら自分にもできると思っていろんな人と友達になるってことを続けようと思っています。モンゴルで2000年に日本ブームだったインパクトが強すぎて、今どんどん日本のプレゼンスが下がってきているが、それをまた上げられたらいいなと思っています。
江本:最後に花田さん、もうひと言。
花田:地平線でも書かせていただきましたが、サンフランシスコ平和条約には日本の周りの韓国、北朝鮮、中国、モンゴル、ロシアが入っていないんですよ。どこもアメリカと調印していない。そのあと日本政府がモンゴルやロシア、中国などとは個別に別の条約を締結したけど、北東アジアがじくじくしてるのは本当の意味での和解はしていないから。それは我々より上の世代の責任だけど、日本は侍の国なんだから間違ったことを言ったらごめんなさいと、お金ではなく一回謝ればそれで終わりなんですよ。しかしモンゴルとはそれをやったから戦争のわだかまりのないいい関係を築けたんです。国だって結局人の感情なんだから、怖い態度で謝りましたよ?と言うような感じでは許されないんです。だからお金ではなく、謝ること。事実を日本人が知って潔く謝った先には、許しの世界以外何ももい。それは人間の感情のことだから個人レベルでそうならないといけない。今アジアの人は日本人のことを嫌なんです。孤立無援。地平線会議のような外国に対して心の広い人の集まりならいいけど、普通はだめですよ。まずはそれを突破するにはどうしたらいいかと考えたときに、最初に一粒の種がぽとんと落ちて植わったのが、夏奈子さん。だから彼女のことは応援したい
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発想がいちいち面白いモンゴルと、目の付け所がいちいち面白い夏奈子ちゃん。実は出会うべくして出会った、とても相性のいいもの同士なんだと思いました。(瀧本千穂子)
■地平線会議は、遠くのはるか先を歩いていらっしゃるスゴイ方たちが、後ろのほうを歩くひよっこに優しいです……。報告会の前も当日も後も、みなさんの温かさがとことん身にしみました。本当にありがとうございました。
◆花田麿公さんも、びっくりするほど気さくに接してくださいますが、実際私にとっては雲の上の存在です。その花田さんに今回無理をお願いしてお越しいただき、生のお話を伺えてすごく嬉しかったです。社会主義時代のモンゴルに命がけで飛びこみ、身と心ひとつで国と国をつないでこられた花田さん。海のようなおおらかさと大陸的な骨太さがあふれ、その言葉の節々に息をのむような重みと凄みがあり、モンゴルの方々から深く愛されている花田さんを心から尊敬しています。花田さんと江本さんの貴重なツーショットも、いつかまた見たいです。
◆私のモンゴルとのおつきあいは始まったばかりですが、モンゴル人のぶっ飛びな発想には驚かされることが多く、それが楽しくてたまりません。気質や考えかたが日本人とは正反対のように私には思えて、見た目が似ているぶん摩訶不思議です。ゲルのなかにも草原世界にも自分だけのプライベート空間を保つ仕切りがないからなのかはわかりませんが、心にも壁がないです。パワフルなモンゴル人に、私のほうもむきだしの心でぶつかっていかないといけません。
◆モンゴル人のほうから驚かれることもあります。むかし私がまだ耳にピアス穴をあけていなかったとき、何人ものモンゴル人に「女の子なのにピアスしてないなんてあり得ない!」と目を丸くされ、美容院に連れていかれ、耳に穴をあけられました(消毒はツバで)。魔よけの意味があるそうです。モンゴル人とつきあっていると、痛い目にあいぐったりすることもありますが、あはははと笑い転げてしまうことのほうがいっぱいあって、もっともっと知りたくなります。
◆地球上には住所を持たない遊牧民も、インターネット上のFacebookには固定の連絡先があり、私が東京にいても毎日誰かから連絡がきます。昨晩はプージェのイトコのバーサンが「楽しいお正月をすごしましたか?」と、水色のデールを着て撮った写真を送ってくれました。そういえばこの前東京で知り合ったモンゴル人のナラちゃんはプージェとバーサンの幼なじみで、子どものころ一緒に遊牧していたそうです。偶然出会った点と点があちこちでつながっていきます。この世界のせまさもモンゴルの醍醐味だなあと思います。(大西夏奈子)
■老害であると知りつつ、地平線の大西夏奈子さんの報告会に出させていただきました。正直とてもおもしろかった。大西さんの人となりが報告に正直に反映して、さもありなん、さもありなん、ああ、そうだったのかというようにお話を終始エンジョイさせていただきました。
◆モンゴルの統計局は今現在の人口を世界人口とともに常に表示していす。3月3日午後10時50分の時点で世界の人口は7,380,713,800人で,モンゴルは3,134,990人です。つまり世界約74億人で、モンゴルは313万5000人というところでしょう。大西さんはそのモンゴル人一人一人に会いたいと述べられました。仮に大西さんの寿命が100年とすると一年に1万3500人に会わねばならず一日約37人に会わねばなりません。モンゴルにいれば数字上はあるいは可能かも知れませんが、辺鄙なところにいる人を考えるとムリだと思います。
◆しかしながら大西さんのその心意気にいたく感動しました。こんにちは、おはようございますと知らない人に声をかける行為に新鮮さを感じました。なぜだろうと考えているうちに、大西さんの空恐ろしいまでの大きさ、深さに思いいたりました。
◆報告会が開かれた2月24日は、日本とモンゴルが外交関係を樹立した1972年2月24日からちょうど45年目にあたりました。人間だったらサファイア婚式でした。当時モンゴルのことを知っている日本人はほとんどいませんし、知っていても振り向かない、興味がないという相手でした。そんな中、戦後の日本外交は少しでも友達を世界に増やしたくて、付き合いのなかった国とのお付き合いを模索し、そしてモンゴルについては私の個人的な強烈な関心もあって(と勝手に主張しています)、日本はモンゴルとのお付き合いの道を開きました。今日の関係を見るともちろん関係者の皆さまの努力によりとても良好な二国間関係にあるといえます。
◆しかし、モンゴル人が日本人が好きだとよく引用される世論調査は15年前のものです。いま調査すればどうなのでしょう。ちょうど10年前に経験したことがもとで大西さんがまぶしくなったのです。10年前、日本モンゴル両国で外交関係35周年の記念事業が展開されました。みなさん善意のように見え、熱心で、前向きで事業は成功したのですが、私はかんじんの事務局長をしながら、何か違和感を覚え、二つの国の友好とはこんなことなのかと思いました。
◆たぶん、モンゴルのいなかの牧民の人も私の違和感を共有してくれたのではないかと思います。その事業の中で、お金を儲けようとした人がいました。自分の属する団体の羽振りを好く見せようとする人がいました。自分が中心だと誇示するため他の人を排除しようとする人がいました。そしてほとんどの人がモンゴルの人々に対して上から目線で見ていました。これでもう心は切れそうでした。
◆決定的だったのは、ウランバートルの第四発電所でモンゴルの人々とある雪害のひどい冬、日本政府側にいた私とともに、冬の暖房と電気を確保するため戦ってくれた友人が、ウランバートルでモンゴルの人たちと苦楽をともにした人々がここには居場所がないというものでした。私たちの集まりが欲しいというものでした。そして私は、日本の周辺の隣近所とのつきあいとは何だろうとこの10年悩んできました。
◆そんなとき大西さんの報告が地平線通信に載りだし、そしてあの晩ついに一粒の種が大地におりたのを確認できました。モンゴルの人たちと普通に普通の話をして、そんななかに普通の人間としての共感や反発を感じてはじめて真の信頼関係を築いていけるのだと思います。大西さんの世界もそのように見えました。お金で繋がってない関係がなんとも気持ちよく感じました。そして、他方で「エコノミスト」誌でご自分の意見を述べる塲を確保されておられます。恐るべし大西さん。(花田麿公 元モンゴル大使)
■わたしが今回のほうこく会を聞いて心にのこったのは、まず夏奈子ちゃんのお話しで、初日の出を見る時は、オーハイと言いながらミルクをいろいろなところにまくというところです。なぜかと言うと、オーハイということばには「今年もいい年になりますように」などのいみがあるのかなと、わたしもそうぞうできて楽しかったからです。
◆つぎに、花田さんのお話しで、りょこうしゃとたび人のちがいを教わったことです。ここでは、わたしはモンゴルに行くけど、わたしはりょこうしゃなのかたび人なのかをすごく考えさせられました。そして夏奈子ちゃんがりょこうしゃでないというのがわかって、わたしもよかったと思いました。
◆江本さんの話をノートに書きわすれたから書けないので、もうしわけないですがこれでわたしのかんそうはいじょうです。(瀧本柚妃 8才)
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