■450回目の報告者は“伝説のクライマー”和田城志さんだ。和田さんのお話しが聞ける!とあって、会場には、いつもは見かけない人たちの姿も多くみえた(北海道から飛行機に乗って、和田さんに一目会いたいと二次会へ駆け付けた、山岳会所属の女性までいました)。
◆まず、江本嘉伸さんが自分にとっての和田さんは「『サンナビキ』の和田城志」だ、と話し始める。1972年に結成された、豪雪の黒部、釼岳を舞台に豪快な登攀を実践してきたクライマー集団「サンナビキ同人」。当時から和田さんに注目していたのだという。「60歳なら60歳、70歳なら70歳の生き方があるはずだ」と江本さん。いまも行動をつづける和田さんを、「地平線会議」が目指しているものの体現者でもあり、「現役で生きつづけている人」と紹介した。
◆和田さんは、5日前に大阪の家を出発、自転車で旅をしながら会場へやってきた。前夜は川越の山仲間の家に泊まってしこたま呑んだそうだが、そんなのどこ吹く風で、エネルギーに満ち満ちているふう。ものすごい、酒豪なんだそうです。 山は垂直、地平線会議の地平線といえば水平だ。ヒマラヤ全域を旅して水平の広がりを見た今、自分を「山岳オタク」と謙遜、さらには「岩登りと冬山登山ばかりやっていたので、水平の魅力を知らなかった。30歳くらいで目覚めておけばよかった、と今は後悔しています」。
◆和田さんにとって、山岳の世界には当時「スターがおりすぎた」という。すごい人がいて、憧れた人たちを追いかけることで精いっぱい、気づけば40歳近くになっていた。「青春、というか、人生そのものが詰まっていますね」というのが、冬の黒部、釼岳。30年間、ほぼ毎年正月と3月に登攀をおこない、15回の黒部横断を成功。「横断できるルートは全て踏破し、残っているところはない」というほど、入り込んだ。つねに天候が悪く、日本の山の難しさの神髄ともいえる山。登攀に2週間はかかるため、「そんな時間を費やして、ほかに誰もやらない」。若いアルパインクライマーたちが最近、黒部に出かけてくれているのは嬉しい。「僕が認められた気がする」と和田さん。
◆一番熱中した理由は、釼沢大滝の存在だ。スケールが大きく、「奇をてらった感じもある」という1983年の遡行が、とくに「ラインがきれいで、手ごたえがあった」という。釼沢尾根、大滝尾根、十字峡の渡渉。たくさんの写真が映し出される。
◆和田さんは学生運動真っ盛りの1969年、大阪市立大学に入学して山岳部へ。京都大学山岳部の影響で、人のやらないことをやる「パイオニアワーク」に惹かれていった。「未踏峰に行かなくては」との思いから、積雪期の黒部横断と釼沢大滝のほかに、目指したのはヒマラヤの初登頂。1978年に東部カラコルムのゲント(監)(7,343m)とネパールのラタン・リルン(7,246m)の二つを初登頂した。日本の山をやめて、ヒマラヤニストになろうかと思ったのも束の間、飛行機の窓からナンガ・パルバットのディアミール壁を見てしまう。
◆「話にならんのですよ」と和田さん。ちょうどその時、ラインホルト・メスナーが単独でそこを登っていた。世界のトップクライマーたち(メスナー、イエジ・ククチカ、エアハルト・ロレタン)は、当時、8,000m峰のバリエーションルートに挑戦しており、「技術、体力、アイディア、すべて桁が違った」。そのため、「自己主張するということができなかった」和田さんだが、「この山だけは自分がひらいた」というのが、マッシャーブルム北西壁新ルート。非常に難しかったし、ものすごく危険だった。「こう登って、こっちにきて、ここは話にならんくて……」と、山の写真から、ルートを生き生きと追ってゆく和田さん。素人目にはなにがなんだかわからず、あそこを登れるってことが、そもそも信じられません……。
◆オーストラリアのクライマーたちも登ってきて、キャンプ3で顔を合わせた。合同隊になろうと言われるが、こちらは一月以上もやってほぼルート工作もできている。和田さんたちが初登頂、オーストラリアのクライマーたちが同ルートを二登した。この登攀は、賞をもらったわけではないが、ヨーロッパで話題になったという。
◆マッシャーブルムのあと、つづけて、ブロード・ピークにも登頂。14座を狙う人のほとんどは8.000mということで「III峰」や「IV峰」(いずれも8.000にわずかに足りない)ではなく、ガッシャーブルムII峰へ行く。「8.000m14座」などの記録は、山ではなく数字を見ているのではないか、と和田さん。人がやらないことをやるのが登山なのに、それでは「品がない」とばっさりだ。
◆ほかにも情熱を傾けたのが、どの面から登っても雪崩のリスクが非常に大きい山、ナンガ・パルバット。カンチェンジュンガ縦走を果たした1984年には、ディアミール壁に、1985年にはルカパール壁中央側両稜(メスナールート)へ挑んだ。ナンガ・パルパットへは3回頂上近くまで行くが、届かなかった。「手に入れたのは、マッシャーブルムだけ」。ところどころで詩的なフレーズが現れる和田さん。登りたい山はたくさんあったが、1987年に冬の立山で滑落、右膝の十字靱帯損傷で登山を断念。2年後に敗者復活戦で黒部へ戻ってからは、再び山へ挑戦しつづけた。
◆ 1991年に挑んだのが、イエジ・ククチカが登ったのちいまだ第二登されていないパティン柱状岩稜(ポーランドルート)。フィックスロープを6,000m使って76日間粘ったが、7,800mで断念。雪崩と落石だらけで、恐怖心もすっかり麻痺してなくなる、「狂ったルート」だったという。「ここまで上がれば、あと少しだったんだけどねえ」。郷愁がにじむような、でもどこかさっぱりしたような、そんな口調が、印象的だった。
◆高知の土佐湾のそばで生まれ育った和田さんには、「根っからの放浪癖」があるという。しつけの厳しい母に育てられ、家の中の様々なことが苦痛。小さい頃から週末には家を抜け出して海岸でごろ寝。「布団で寝ない、朝のけだるさ」が好きだったという。いまは誰にも怒られないため、風呂嫌いで下着もなかなか替えない。不快になってきたら、パンツはひっくり返して履く。「旅も、あらゆること、自分が正しいと思うことや思わされていることを、ひっくり返してやる」。
◆ということで、後半は「垂直」から「水平」の世界へ。2012年に挑戦した「ヒマラヤ全域横断」と「冬のおくのほそ道」の話になった。「放浪癖」があるとはいえ、和田さんが打ち込むのは「アルピニズム的な旅」だ
◆「その前に、小難しい話です」と始めたのは、「身体性」についての話。会場に向かって「車の免許を持っていない人は?」と、和田さんが聞く。数人しかいない。和田さんはバスや電車、人の車には乗るが、自分で運転するのは「足・自転車・ヨット」とエンジンのないものばかり。そう遠くない未来には人工知能によって自動車が全自動で動くだろうといわれる中で、大事なのが「身体性を通しての解釈」であり、「登山も旅も、身体性に訴えるもの」と考えているという。
◆「ヒマラヤ全域横断」は、8月1日出国してネパールへ。シェルパ2人(途中から3人)を雇い、食料はほぼ現地調達、薪を担いでの山旅だった。カンチェンジュンガからルンバサンバへ向かう途中で肺炎になり、ヘリコプターでカトマンズへ。カトマンズから再出発して、マカルー、ソロクンブ、ロールワリン、ランタン、ガネッシュ、マナスル各山域を歩いた。
◆「頂上に登るのもいいが、毎日毎日、山から山へと旅するのが面白かった」と和田さん。トレースもなにもない大雪原。真っ白な山々。美しい写真がつづく。「登山の素養がなければいくことのできない場所」というが、「素養」のレベルが限りなく高そうです……。
◆村に着いて飲み屋があれば、呑む。キャンプするときは「『まずは酒、それから肉』を探して」、とシェルパに頼んだそうだ。ロキシーを作っている様子、解体ほやほやの肉の写真、燃料となるヤクの糞、子供たち。山以外の写真も映される。この旅は、アンナプルナ山麓のパーミッションでビザが切れていることがわかり、国外退去となって、帰国するはめに。
◆口惜しい気持ちで日本に着いた11月29日は、和田さんの次男の結婚式の5日後だったという。旅に出る前に欠席は伝えていたが、新婦の親族はびっくりしていたとか。12月、新婚の次男夫妻と妻と家族旅行へゆき、そのまま「よいお年を」と挨拶、いてもたってもいられず、「冬のおくのほそ道」の旅へ向かった。妻や息子は慣れたものだが、「やっぱり、次男の嫁さんはびっくりしていましたね」。
◆「冬のおくのほそ道」は、12月17日に深川の芭蕉庵跡から歩き始めて、ほぼ芭蕉の辿った道を歩く2か月弱の旅だった。雪の中を歩いて夜は野宿。落石や雪崩があるわけではないのでどこでだって寝られる。旅では「金があったらぜんぶ飲み代に使う」という和田さん。夜は居酒屋でしこたま呑み、そのままそこで泊めてもらうこともあった。そうやって道中を楽しみながらも、この旅は、アルピニストだから冬に、詩を好むので「付け句」をしながら歩くことで、芭蕉とのシンクロを期待したが、失敗に終わったという。
◆肉体を使って、頭でなく足で感じようと旅をしているのに、昔の街道は国道となっており、車の横を歩いているだけ。日本もネパールも同じで、「車の便利さは過疎を減らすのではなく助長しているし、文化や生活を劣化させている」というのが和田さんの実感だ。この年、1年のうち家にいたのは3分の1ほど(その間もあちこち旅ばかり)。トラバースも未完成、芭蕉も消化不良で、翌2013年には、残していた「ネパール北西部」を目指して旅立った。
◆ネパール北西部は、情報もなく訪れる人もほとんどいない。未踏峰がたくさん残る面白いエリアだ。日本人でこのエリアに一番入り込んだ大西保さんから資料を譲り受け、大西さんも歩いていない峠を2つ越えた。1つは「どこから来たのか」と現地の人にも驚かれたので、現地の人も未踏の山かもしれない。……まだまだスライドはあるのだけれど、このへんで時間切れ。
◆今後は、できることなら「伊能忠敬の足跡を辿る旅」をやりたいという和田さん。そして、「またネパール北西部に行きたいが、もう山は厳しいかなと思っているところ」なのだという。一つ登攀や旅で一回の報告会になるものばかり。二時間半の間、ばんばんと提示されるスケールの大きい登攀につぐ登攀、そして旅! とても一回には収まりきらない、贅沢すぎる報告会でした……。 (お話のスケールが大きすぎて、とっかかりすらつかめなかった 加藤千晶)
■地平線会議という得体のしれない団体(失礼)で、私のようなアルピニズムオタクの話が通じるかどうか不安がありましたが、分かってもらえたようです。私は今ではしゃべり過ぎていますが、現役バリバリのときは記録を外に出したことがありませんでした。1987年、冬山遭難をして登山することが絶望的になり、七ヶ月の闘病生活の中で過去を振り返るような気分で書き始めました。四十歳位のときだと思います。
◆登山(冒険)では、独り黙々と打ち込んでいる姿は格好いいのですが、ひとたび人目にさらされだすと、ひどく安っぽいものに見えるものです。行為も表現も際立たせようとして、過剰な演出をしがちです。大体、登山や冒険は極道もんのする行為で、あまり目立たない方がいいのです。社会的な価値があるような中途半端な意味づけは、特に品がありません。
◆探検は違います。見た目の行為にはそれほど差がないのですが、動機の深層心理には違いがあります。険と検の違いです。危険を冒す冒険は文学部、かっこよく言えば芸術活動、探して検分する探検は理学部、つまり科学的好奇心です。戯作と実学の差があります。桑原武夫は『登山の文化史』の中で言っています。「近代アルピニズムの起源となり、またその指導精神となったのは、近代自然科学である。恐れられていた山にまず入りこんでこれを開発していったのは科学である。芸術的静観のごときはその後にあるのであって、最初の原動力とはなりえないものである」。このような意気込みで行う行為なら、大いに主張してもらっていいのです。
◆SNSの発達した今では笑い話のような主張ですが、登った尻からいちいち記録を発表するのは、目立ちがり屋で格好が悪いと考えていました。私はもう完全に過去の人ですから、いくら喋っても法螺を吹いても許されます。考え方も変わりました。活動そのものに加え、他の自己表現を持つことによって、登山により深みを与えることがあることを知りました。
◆写真、絵画、文章表現など、内面を吐露することで気づくことがあります。ポール・ヴァレリーの言葉「人は、他者と意志の疎通がはかれる限りにおいてしか、自分自身とも通じ合うことができない」が胸に響きます。大いに他者と交感すべきだと思います。ただし、奇をてらった行為や派手なパフォーマンスは、意味がないばかりか不快ですから、要注意です。
◆報告会で私の登山歴を披露しました。象徴的に要約すれば、雪黒部とナンガパルバットに尽きます。そして今、旅に回帰しています。私は重度のアル中(アルピニズム中毒)です。しかし、歳や右膝の障害のせいにするつもりはありませんが、もう思うように登れなくなってしまいました。それでも、垂直であろうと、水平であろうと、ただ非日常の世界に身を置いていたいのです。
◆私は運転免許を持っていません。現代合理主義(つまり時間、金の節約)的に移動しません。これと言って際立った計画もありません。歩く、自転車、たまにヨットでほっつき回っているだけです。野宿、居酒屋(できればバツイチ五十路の美人ママ)、温泉で、行ったことのない鄙の里を巡るのが目的です。私は、火野正平と吉田類(同じ歳です)のやっていることをちょっと過激に実践しているだけです。
◆キーワードは身体性です。今、2045年問題が話題になっています。ディープラーニングするコンピューター人工知能(AI)が全人類の知能を凌駕するシンギュラリティ(技術的特異点)がやってくるという話です。AIが人類をコントロールする世界の到来です。その開発を危惧する声が多く上がっています。賛否があります。工学より哲学の問題として議論されています。知能とは何か。無限と言っていいビッグデータの集積と解析は、人間の脳にはもはや手に負えません。
◆意識(知能より上位の働き)は、生命的存在、つまり身体性に基礎づけられたものです。周囲の環境と有機的に接触する中で発現するものです。AIのような抽象的な物理空間で知能を発揮するのではありません。知性や知能は肉体を離れて勝手に動き回り、ときには節操をなくしたりしますが、意識は常に私だけのものです。つまり、2045年問題は我々の意識にかかっているのです。
◆我々の日常が求める情報の大半は視覚情報です。仕事も付き合い(フェイスブック)も書籍もパソコンもすべて視覚に頼っています。けっして嗅覚ではありません。身体は五感のセンサーで外部環境を認識しますが、現代社会はどこで間違ったか、視覚の袋小路に迷い込みました。アメリカ国防省の精神疾患の報告によると、うつ病発症は、現地で戦う兵士より無人機を遠隔操作して画面を見ながら殺戮する兵士の方が多いそうです。身体を伴わない行為は強いストレスにさらされるということです。私は、この身体性を社会矛盾の突破口にしたいのです。
◆意識もAIも神経細胞の、つまり脳の話です。デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と言いましたが、身体のわれは実は脳ではなく胸腺、つまり免疫システムにあります。多田富雄の『免疫の意味論』には衝撃を受けました。自他の境は脳ではなく胸腺にあるのです。首を切断されたとき、私はどっちにいるのか。深い哲学的問いです。身体性は首下にあります。長々と理屈を述べました。本題です。
◆身体性の自覚は、アスリートになろうという話ではありません。昔から言うように、「ものごとは体で覚えよ」に戻れということです。判断を視覚データでするのではなく、肉体を通してやろうということです。私はそれを「肉体の作法」と呼んでいます。登山は身体性そのものです。ここから少し悪口です。身体性を重視するあまり、身体そのものに関心が固定されます。それがスポーツクライミングやグレードです。そのあからさまな自己顕示はさわやかさがありません。目立ってなんぼは下品です。
◆オリンピック競技になろうとしているクライミングはもう登山ではありませんから、私の批判はお門違いでしょうが、登山はもう少し静かにやるものです。メジャーになってはいけません。登山の魅力は、自分と大自然が対峙している、その戦慄の内にほのかに灯るものです。挑戦という言葉が陳腐に思えるほど圧倒的な存在に対して、自分の肉体がシングルハンドで挑みかかる行為です。そして、いつか必ず死にます。偉大な探検家や登山家の多くは大自然に呑みこまれました。決してAIはこのような世界には足を踏み入れないでしょう。彼は死ねる肉体を持っていないのですから。
◆私は垂直の世界にあこがれてきました。今は水平の世界をさ迷っています。しかし、その中にもアルピニズムの香りを残したいと願っています。探検にはほとんど触れずに終わりそうです。ハゲ、デブ、加齢臭の高齢者がやることですから、アルピニストとしてご披露できるようなことはやっていませんが、少し自慢話をします。
◆2012年から13年にかけて、ネパールヒマラヤ全山域横断と冬の「おくのほそ道」を歩きました。合計で約7ヶ月を要しました。岩と雪の頂ばかりに目を向けていた私がハタと気づきました。広大なヒマラヤのほんの一部分しか見ていないことに。いっそのこと全部見てやろうと突然思い、何の用意もせずにネパールに飛び込みました。シェルパ二人を友にして、ネパールの東端、カンチェンジュンガ山域から歩き始めました。食料はすべて現地調達ですが、6000mの峠をいくつか越えますから、ピッケル、アイゼン、ロープもいります。すごい荷物を三人で分け合います。もとより私は一番軽いですが。ルンバサンバ、マカルー、ソロクンブ、ロールワリン、ランタン、ガネッシュ、マナスルの各山群をなるべくチベット国境に沿って歩きました。
◆しかし、つまらないミス(滞在ビザが切れ)で国外退去になりました。その消化不良の悔しさを帰国して二週間ほどして、おくのほそ道を歩くことで紛らわせようと思いました。芭蕉のたどった道を忠実に歩こうというものです。私はアルピニストですから冬に歩きます。
◆東京深川から歩き始め、日光、白河、福島、松島、太平洋側北限岩手県平泉まで行き、奥羽山脈を横切って酒田から日本海側北限秋田県象潟まで。以後、海岸線を南下、山形、新潟、親不知、富山、金沢を経由して福井県敦賀で旅を終えました。氷雨の深川から風雪の敦賀へ、54日間の旅は芭蕉にシンクロすることなく、不愉快な国道歩きに終始しました。
◆春になり、ネパール全山域横断の旅を完成させるため、再びネパールへ。長期の山旅は荷物が多くなります。去年の教訓を生かして、今回はシェルパを三人に増やしました。昨年の中断地点、アンナプルナ山群のチャーメに入りました。ティリッツオ湖からジョムソン、ダウラギリの北をアッパードルポに入り、河口慧海のルートをたどり、サルダンヘ。いくつもの峠を越え、ムグへ。チベット国境の未踏峰の山々を見ながらの旅は、私にとって十分に探検的気分を満喫させてくれるものでした。
◆ムグ地方からフムラ地方に抜けるルートのある部分は記録を見たことがありません。タケ・コーラからバルビハン・コーラへ抜ける峠は私が最初に越えたのではないかと思われます。薬草取りの現地の人から尋ねられたくらいですから。なおも国境沿いに西に向かいましたが、雪のため峠越えができずドジャム・コーラに引き返し、極西ネパールの町シミコットに入りました。ここから国境の町ヒルサに向かい、サイパルの西を越えて、ウライバンジャンに出ました。ルートを誤り、一部チベットへ越境してしまいました。逃げるように峠を越えネパールへ。アピ、ナンパ、ジェチボフラニの山々を雲間に眺めながらチャインプールまで下り、この長い旅を終えました。
◆私は、右膝に障害を持ちます。十字靱帯と内半月板がありません。整形外科医は、登山は無理だと言いました。あれから約30年、私の身体性は私を手なずけています。精神が体を規定しているのではなく、体が精神を規定します。ヒマラヤと芭蕉、何の関係もないように見えるでしょう。芭蕉の風狂も、身体に精神を語らせている点でアルピニズムに通じます。芭蕉を師事する文人たちは、芭蕉の道を歩いたことがあるのでしょうか。体験に学ぶに勝るものはありません。解るより感じるです。
◆「心頭滅却すれば火もまた涼し」とんでもない頭でっかちの詭弁です。脳がなければ、熱いも寒いも感じないと考えるのはまちがっている。身体は膜でおおわれていて、脳がなくても外部環境に反応します。筋肉は収縮しますし、無駄なエネルギー代謝はやりません。身体こそが私なのです。生物の定義はたった三つ、代謝、複製、膜です。肥大化した知能優先の社会にブレーキをかけられるのは、身体性に他なりません。
◆旅をしながら、星を眺めながら、しみじみと私の中で、身体と心が交換することが分かります。冒険も探検も、動機はいろいろあっても身体表現です。それも奥ゆかしいのは、他者の視線が不要なことです。人に見せない、見られたくない、限りなく生理に近いパフォーマンスというべきでしょう。登山は人と競ってはいけません。相手は自然です。自然に受け入れられて、それ以上何を望むことがあるのでしょうか。
■10月の報告者、和田城志さんは、自転車を漕ぎ、自力で報告会場までやって来た。報告会ではまったく触れられなかったこの往復旅のこともぜひ皆さんに知って欲しく、「旅日記」を書いてもらった。長いがいろいろなことを考えさせてくれる文章だ。和田さん、ありがとう。(E)
東京、地平線会議で講演があるので、それを口実に自転車で旅をすることにした。日曜日で京都からの湖西線は込み合っていて、大津京でやっと座れた。福井駅から走り始めた。たいていの主要な道はもう走っている。それで今回は山越えにこだわった。越前大野から九頭竜川を遡ることにした。
ここは戦国武将朝倉氏の領地で、若狭から福井一帯は内陸に意外と広い平野を持っている。ずーと緩やかな上り、九頭竜温泉で日没、汗を流す。飲食店はなく、国民宿舎で何とか夕食を作ってもらう。近くの空き地でビバーク、車も人もほとんどいない。
九頭竜ダムはロックヒルダムで、ダム湖はかなり大きく入り込んでいる。美濃街道を走る。福井県と岐阜県の県境にある油坂トンネルは自動車専用道で、旧街道を上る。トンネルを越えると長良川流域の素晴らしい展望が開ける。白鳥まで急下降して長良川上流を横切る。再び上りになり、ひるがの高原分水嶺峠に立つ。ここは長良川(伊勢湾)と庄川(富山湾)の分水嶺である。
ここより荘川に下り、また上りになって、松ノ木峠を越える。あとはずっと下り坂、暗くなって飛騨高山に着く。上り下りの多い一日だった。峠を三つ越えたことになる。ナンガパルバットの盟友、大杉の家に泊まる。
久々に二人で飲み語らい、何時に寝たか覚えていない。天気が下り坂なので、薄暗いうちから出発する。安房峠への長い上り、うんざりしながら走る。平湯トンネルを抜けて、せっかく稼いだ高度を急下降して温泉街へ。雨が本降りになる中を安房峠に向かう。ここも安房トンネルがあるが、自動車専用である。すばらしい紅葉だが、天気が悪いと映えない。景色も何も見えない峠、指先が寒さで凍える。
中ノ湯温泉で体を温め、一気に梓川沿いの道を下るが、狭いうえにトンネルが多く、不快な道だ。車が横をすり抜けていく。松本市街地に入らず南下して、南松本駅の近くの公園でビバークする。寝る前に近くの焼き鳥屋のカウンターでたらふく喰い飲む。
福井(越前)から松本(信州)まで国道158号線一本を走ってきた。ほぼ旧街道である。美濃街道、白川街道、野麦街道と名は変わる。上り下りは多いが、高速やバイパスのおかげで車の通行は少ない。
強い南風の中、塩尻峠に向かう。背後に穂高連峰が遠望される。快晴、すてきなサイクリング日和だ。諏訪湖を越え、茅野から白樺湖に向かう。八ヶ岳連峰、甲斐駒ヶ岳がスモックにかすんでいる。このすばらしい秋晴れでこれだ。人間が住んでいるだけで自然は薄汚れる。
上りでうんざりし始めたころ、白樺湖にたどり着く。湖面はひっそりとしている。白樺高原の別荘群もほとんどは廃屋だ。不動産バブルのツケをあちこちで見てきた。風景がきれいなだけによけい痛々しい。
大門峠から長い下りだ。正面に浅間山を眺めながら一気に下った。国道は車両多く不快な走り、佐久臼田で日没になった。同い年のママがやっている居酒屋でたらふく飲んだ。函館出身、嫁いで今は農家と居酒屋、烏賊飯がおいしかった。客は誰も来ず、看板まで飲んで、千曲川の橋の下でごろ寝した。
秩父の十石峠を越える。国道299号線はほとんど車が通らない。緩やかな上り、道を独占して走った。サイクリングはこうでなければ。峠の直前はさすがにきつかった。峠の展望台から東方、上州の山並みが一望される。すばらしい。日本は山の国だ。山また山、確かに関東は鄙の国だ。みちのくの入り口、ほんのこの前まで未開の地だった。一気に下り、秩父への山越えを避けて、少し遠回りだが本庄に出ることにする。
本庄手前で国道254号線に入る。旧川越街道だ。部分的に街道並木が残っていて、うっそうとした樹木のトンネルになっている。往時がしのばれる。入り組んだ住宅地にある渡辺斉さんの家は分かりにくかった。道路に出て20分も待ってくれたらしい。たくさんのごちそうを作って待っていてくれた。山談義、鯨飲、久々の斉さん節に酔った。相棒の高田幸子さんに会えなかったのが残念だった。
おいしい朝食を作ってくれて、おいしいお茶をいただいた。器からコップ、湯飲みまで趣向を凝らす斉さんのもてなし、しゃれている。たくさんの山岳図書に囲まれ、世捨て人のような生活をしている。山の人とは付き合っていないとのこと。生涯現役、登らなくなったら山の世界とお別れ、潔い。山極道の鑑だ。かくありたい。昨夜の続きを午前中やった。もう一泊するかと聞かれたが、今日新宿で講演すると言ったら、そんなのは聞いてなかったと言われた。確かに言ってなかった。
雨が降り始めるころ出発。川越街道は池袋まで一直線、都心に近づくにつれ車は増え、信号だらけ、東京はスラムだと思う。これが我が国の首都だと思うと情けなくなる。本降りの中、予定通り新宿スポーツセンターに着いた。誰も来ていない。
江本さん、兵頭さんの協力で無事講演をこなした。二時間半はあっという間、打ち上げの飲み会も楽しかった。いろいろな人に出会った。私の本を読んでくれる人がいてうれしかった。午前様になるころ、用意してくれた近くのホテルに投宿する。
朝風呂に入り、ゆっくりチェックアウト。近くの京王プラザホテルで旧友二人とランチを取った。特に1987年にクンヤン・キッシュで死んだ岳友、大沼拓実の遺児との再会はうれしかった。彼女が生後四ヶ月のとき大沼は遭難した。美しく成長した彼女を見て、こみ上げるものがあった。彼女は今、歯科大学の二回生、教師だった母一人に育てられ、その背中を見てきた。手に職を持ちたいというのが、再入学の動機だった。いろいろ話をした。これからも長い付き合いになる。
二人に見送られて帰途に就く。大都会から逃れるように西に向かう。八王子で日没、騒がしい居酒屋で一日を終える。しかし、奄美大島出身のママは素敵で、黒糖焼酎や酒をおごってくれた。締めの納豆ご飯もおいしかった。近くの公園でビバーク。
夜半に雨が降り、慌てて管理事務所の軒下に移動する。早朝、ラジオ体操の人の声に目覚める。寝ていてくださいと言われたけれど、うるさくて寝る気にはならない。
コンビニで朝食後、一気に峠に上り、東京都から神奈川県に入る。相模ダムに下る途中に、旧甲州街道の小原宿があり、参勤交代の本陣跡があった。街道は山の中腹を巻くように作られている。こういう道を走りたい。
神奈川県から山梨県に入る処で、相模川は桂川に名前を変える。緩やかな上りで笹子トンネルに着く。全長3キロで狭く気を遣う。甲府への下りは真新しい広い国道だ。あいにくの雲で南アルプスの眺望は得られなかった。
山梨大学で研究員をしている甥っ子と久々に会う。うるさい叔父きで嫌がられている。結婚、仕事、自分のことは棚に上げて、説教じみたことを言い過ぎか。ほうとうを食べる。ポスドクの先行きが心配だ。
その後、元岳人編集長の永田秀樹さんと旧交を温め、懐かしい山談義をする。退職後は実家の仕事を引き継ぎ、果樹農家を営んでいる。おいしいブドウをいただいたが、旅の途中だ、甥っ子をまた呼び出して、彼にやった。
日没の中、南アルプス街道に向かう。上り口の小さな居酒屋で、大河ドラマを見、タブレットを充電し、たらふく飲み喰った。客は一人常連さんがいただけ。近くの公園でビバークする。
秋晴れの下、峠への長い上りにかかる。芦安手前に大きな採石場があり、ダンプがひっきりなしに通ってうるさかったが、そこを越えると車はほとんど通らない。甲府盆地の向こうに秩父の山並みがすばらしい。急坂を自転車では無理で、ほとんど歩いて上った。
夜叉神に着いてびっくり、自転車の乗り入れはできないという。ゲートの係員の意地悪な対応に腹が立ったが仕方ない。バスを乗り継いで伊那に出ることにした。つらい上りだけさせられ、広河原への長い下り、北沢峠への風光明媚な山道は走れなかった。最高の紅葉と山並みを楽しめなかった。その上料金も四千円近くかかった。
戸台の仙流荘から再び走り始めた。ご多分にもれず伊那も疲弊した街並みだった。権兵衛トンネルの上りで日没になる、南アルプスの山並みが薄暮に沈んでゆく。トンネル手前に山頭火の碑があり、いわれを読んでいたら、通りかかった青年がパンを差し入れてくれた。しんどそうに自転車をこいでいるのに同情してくれたのか。腹が減っていたのでうれしかった。
このトンネルは全長4467mもあり狭い。車両が少ないのが慰めだ。トンネル内で追い越された車を数えたが、30台ほどだった。気温が下がり、指先がきりきり痛い。真っ暗な国道を木曽路に向けて一気に下り、国道19号線に合流した。最低だった。狭い道を大型トラックがひっきりなしに疾走し、まるで自動車専用道路のようだ。危なくて走っていられない。木曽福島手前の原野駅から輪行することにした。中津川まで乗り、駅近くの公園でビバークする。今夜は疲れて居酒屋にもいかず、コンビニの焼酎一杯で寝てしまった。
朝出発の準備をしていると、器量のいい黒猫がやってきて、近くでじっと見ている。人は不審がるが、動物は違う。何か話しかけているような表情だった。
名古屋の次男宅で会食しようかと言ったが、息子は飲み会で不在、嫁さん孫は用事で外出、あっさり断られ、雨も降っているし、ここで今回のサイクリングを終了することにした。電車に乗ればあっという間だ。車窓から途切れない家並みを見ながら、昼前から焼酎を飲んだ。
8日間の走行距離合計は680キロである。フルに動いた日が少なかったせいでもあるが、山越えの道であったことも、走行距離が短かった理由だろう。何も競争ではないのだから、そんなことを気にしているわけではないけれど、山岳部の習性がいまだに抜けない。早くスケッチや読書を旅のつれづれに楽しむようになりたい。
山越えサイクリングと銘打っているから、通過した峠や盆地の高度を記そう。
川白鳥(366m)−ひるがの高原分水嶺峠(874m)−庄川(756m)−松ノ木峠(1086m)−飛騨高山(560m)−平湯トンネル(1439m)−平湯温泉(1257m)−安房峠(1796m)−南松本駅(596m)−塩尻峠(1015m)−茅野(772m)−白樺湖大門峠(1459m)−佐久臼田(704m)−十石峠(1354m)−新宿(35m)−八王子(105m)−大垂水峠(399m)−上野原(169m)−笹子トンネル(723m)−甲府(292m)−夜叉神トンネル(1392m)−広河原(1520m)−北沢峠(1904m)−戸台仙流荘(867m)−伊那(641m)−権兵衛トンネル(1063m)−中山道原野駅(840m)
これらの上りだけを合計すれば、約7000mの高度差を登ったことになる。こじつけだが、8日間で水平距離680キロを走り、高度差7000mの山を一つ上ったぐらいの労力だということになる。
いつものことだが、地方の町はどこも疲弊している。観光地でさえ客はさっぱりで、シャッターを下ろした店、廃業したホテル、ペンションが多い。山間の限界集落はすでに消滅集落と言っていい。葎におおわれた田畑、廃屋に絡みつく蔦、復活することはないだろう。そして、こぎれいな二階建ての施設があれば、ほとんどが特別養護老人ホームで、あたりの景色に浮き上がっている。廃屋の主は今そこに住んでいるのだろう。
地方都市と言えば、どこも同じようなたたずまいで、チェーン店の飲食店、大型商業施設、人通りは少ない。車ばかりがやたら多くて、道は渋滞する。コマーシャルでやるような、自然を疾走するような快適ドライブなどあるはずもない。
「金のないのは首がないと同じだ」と落語は揶揄するけれど、時間のないのも同様だ。金も時間もないものが、車であわただしく休日を過ごす。貧乏くさくていただけない。しかし、金があり過ぎると退屈なように、時間があり過ぎるのも退屈だ。その塩梅がむつかしい。
とにかく、10日間近くも自由に道を選んで、居酒屋野宿で旅をできるのだから文句はない。しなければいけないことを限りなくゼロに近づけて、したいこと(実はこれが難しい)を開拓したいものだ。(和田城志)
■“より高きより困難”を求める和田城志さんの登山は、一般的にわかりにくい。少々長いけれど、説明したい。まず一般大衆にとってわかりやすい登山とわかりにくい登山がある。わかりやすい登山とは、日本百名山達成や七大陸最高峰登頂、といった数値の羅列で一般大衆を驚かそうというもの。話題性からメディアにも頻繁に取りあげられる。行為そのものよりも、いかに多くの人に共感してもらえるか。芸能活動とも重なる。この種の登山は、技能よりも表現としての演出が問われる。だから登山の技能は素人同然というケースも多々ある。
◆わかりにくい登山とは、冒険大賞でも取らないかぎり一般大衆の目に触れることはない。成功することよりも、自分の可能性を最大限に追求して完全燃焼することが目的。人知れず創作をつづける孤高の芸術家にも似ている。登山におけるたしかな技能と純粋な探究心が問われる。和田さんの登山はこちらである。
◆まずは和田さんが足跡を残したエリアを紹介する。厳冬の黒部横断、剱沢大滝の登攀、積雪期の剱岳・八ツ峰北面。そして海外は、ランタンリルン、マッシャーブルム、ナンガパルバット。エベレストやキリマンジャロ、日本百名山といった芸能人や芸能人もどきの登場するお茶の間で話題になる山は出てこない。和田さんがめざしているのは、パイオニアワーク。手垢のついていないエリアを舞台に新しいスタイルを試みる。だから必然的になじみのうすいエリアになる。最先端の科学技術の研究だって、一般大衆がわからない領域だからこそ新たなる開発となるように。
◆玄人好みのエリアに加えて、より困難を求める。たとえば一般的に日本の冬山といえば、12月から3月のあいだで最も登りやすい年末年始と3月を狙う。年末年始は自然条件としては厳しいが、多くの登山者が集中するために若干の心強さが生まれる。精神的な負担が軽減される。3月はいうまでもなく、天候が安定する。気温も上がる。雪は締まり歩きやすい。多くの登山者は冬山においても弱点を突いて登る。
◆ところが和田さんの冬山は、徹底的に攻めの姿勢である。冬山シーズンのなかで最も気象条件が過酷な2月を選ぶ。やり甲斐はある。他の登山者には会わず、山は静寂に包まれている。静寂に包まれた自然は美しい。弱点の反対だから「強点」と呼べばいいのだろうか。日本の冬山で「強点」を意識して登る人は数えるほどだ。チマチマした計算や細かなテクニックではない。その山の厳しさも理不尽さもすべてを受け入れて、正々堂々と正面から挑む。
◆海外においては、より情報のすくないエリアに目をつける。地理的な空白はなくなったといえども、地図を眺めたところでシミュレーションを超えない。情報の少ないエリアは現地に足を踏み入れてはじめてわかることばかり。先人がいなかったりきわめて少なかったりすれば、計画段階から手さぐりである。試行錯誤をくり返したところで、成功するとはかぎらない。でもあとからふり返ってみると試行錯誤しているときが最も充実していたりする。これまたやり甲斐だ。情報のなさは想像力をかきたてる。未知の世界に思いを馳せ、白いキャンバスに夢を描く。
◆その対極といえる情報の豊富な山についても触れたい。昨今多くの登山者で賑わうノーマル・ルートからのエベレストが例としてわかりやすい。エベレスト登頂者はすでに何千人といる。日本人だけでも延べ200人を越える。2016年春はネパール側から中国側から約400人が頂に立っている。多くの成功例によって、すでにいくつかの公式は確立されている。ガイド登山もさかんに行われている。お金とわずかな努力で買える夢という意味では、登山というよりも大掛かりな旅行である。
◆あるいはキリマンジャロなどは、多くの旅行会社がツアーとして手がけている。ほんとうに困難な山だとしたら、その山が魅力的であったとしても、旅行会社は企画しない。リスクというのは旅行会社にかぎらず日本の社会が最も避ける。だいたいキリマンジャロなど現地のポーターはサンダルで登ってしまう。エベレストもキリマンジャロも一般大衆が理解できうる範囲内での最高の登山なのかもしれない。
◆ほんとうに厳しい山は、自分たちが登るだけで精一杯である。ガイド登山もツアー登山も、経験も実力もない人をフォローする余裕がある山だからこそ成り立つ「ビジネス」である。ついでに日本百名山に至っては、登山経験の浅い七十代ですら数えきれないくらいの人が達成している。夢の実現にはちがいないが、もはやスタンプラリーの色彩が強い。
◆若い時期により高きより困難な登山を実践してきた登山家はたくさんいる。けれども人生のなかで30年間にわたり濃密な登山をくり返してきた登山家は和田さんのほかにはそう多くないだろう。和田さんは、これまでに滑落や負傷などで3回ヘリコプターに救助されている。こういう言い方をしたら救助に携わった関係者の方々に失礼きわまりないが、あれだけリスクの高いことをやっていてヘリの出動がたったの3回で済んでいるともいえる。
◆ほかの登山者が同じことを試みたら果たして何十回ヘリを飛ばしたことやら。いやその前に荼毘にふされているだろう。事情に通じている人が相対的に見たら、和田さんはかなり慎重に行動しているとコメントするだろう。ケガや死や遭難が良いといっているのではない。あくまでもリスクというものを相対的に見たらの話である。余裕で登れたということは、簡単だったから。全身全霊で取り組んで登れなかったということは、真の挑戦だったから。
◆若い時期により高きより困難を追求すると、多くの登山家は早い段階で壁にぶち当たり第一線から退いてしまったりする。あるいはすくなくない確率で早死にする。和田城志さんの軌跡とはそうした生と死の接点をギリギリで歩んできた、危うさの漂う登山の連続であった。(田中幹也)
■和田城志さんといえば、大学山岳部出身者にとってははるか遠い憧れの登山家だ。80年代後半を山岳部で過ごした私は、厳冬期の北アルプス、剣岳や黒部周辺で行われる長大かつ困難な、泥臭い山行の記録が山岳雑誌に掲載されるたびに、汚くて臭い部室で興奮しつつそれらの記録を読んだ記憶が蘇る。その登山スタイルは、当時華々しく展開されていた社会人山岳会の著名なアルパインクライマーの初登攀の記録とは一線を画し、豪雪である日本の山岳風土にどっぷりとつかるようなもので、その“山岳部的”なアルピニズムの精神にあこがれと畏怖を感じたものだった。
◆今回の報告会では、和田さんの口から何度も“アルピニズム”という言葉を聞いたが、日本の山々やヒマラヤの高峰、また近年和田さんがネパールや日本で展開している水平の旅の中にも通底する精神はまさに“より高く困難な(創造的な)方法で臨む”という姿だった。さらに、芸術や社会的事象に対する高い関心をも骨肉化された生き様に、以前と変わらない巨大で遠い憧れの登山家の姿を見せつけられ、おおいに興奮すると同時に、穴に隠れたいような気分になって会場をあとに帰路についた。
◆ひとつ、話の中で2045年問題(シンギュラリティー)に言及されていたが、これはまさに今の自分の関心事でもあり(地平線通信449号の「窓」で書いた)、すでに和田さんはその時代を見越して人工知能に対比しての身体性に着目し、動力にたよらない人力での移動に価値を置いて活動されていることに興奮した。死をも含む行為に情熱を持って臨む身体表現としての登山は、おそらく合理的なデータの蓄積として成り立つ人工知能のアルゴリズムがとってかわることのできない行為であるはずで、その異質性において私たちはもっと力を入れるべきものなのかもしれない。非合理的な対象にたぎるような熱い情熱を傾け結果を享受すること……。そんな和田さんのメッセージに、ますます魅了された一夜だった。(上智大学山岳部OG 恩田真砂美)
■東日本大震災から3ヵ月後の2011年6月中旬。地平線メンバーも数多く活動していたRQ市民災害救援センターの拠点のひとつ、「RQ河北」に参加したときのことです。浪板海岸の清掃活動後、近くの道の駅にある「ふたごの湯」で汗と汚れを流して拠点に戻ると、ビブスをつけたままの男性が、道具置き場のそばに座って作業していました。早く水を浴びたいと、皆、我先に車へ乗り込み、風呂へと向かうなか(もちろんわたしもです)、ボランティアが使った道具をひとりで淡々と手入れしていたその人は、“本当はネパールに行く予定だったんだけど、大変な時期に自分だけ好きなことやるのものどうかと思って。それで東北に来たんだけどね”と、世間話の流れから、そんな話をしてくれました。
◆“ネパールですか、実はわたしも……”と、自分のネパールとの関わりを話し、次の渡航予定を尋ね、メールアドレスを交換したその方が、和田城志さんでした。ただならぬ人というオーラを感じてはいたものの、門外漢のわたしは、和田さんが怪物登山家として登山界で知られた方であるとはつゆ知らず、何かすごい人と会ったという印象を河北から持ち帰りました。
◆その後、和田さんが送ってくださった山の写真(世界最高難度の山のひとつというマッシャーブルムなど)や、ネパール全土をチベット国境沿いに歩く2012年の登山計画を読み、服部文祥さんの報告会(や文章)で和田さんの名前を耳に、目にし、そのただならさを知らされた次第です。
◆写真は峻険な雪山だけでなく、ネパールの可愛いナニ(年下の女の子)たちと笑顔で写っているものを送ってくださるのですが、彼女たちよりも色が黒く、国籍不明な和田さんからは独特の色気が感じられます(そういえば、RQ河北で夕飯後の雑談時、どんな文脈で出てきたのかは忘れましたが“目で妊娠うんぬん”という話が……)。
◆ネパール滞在中で、今回の報告会に参加できないことをお伝えしようと久々に送ったメールの返信には、膝の手術をしたので山は難しいかなと記されていましたが、近い将来、ネパールで再会できればと、そう思っています。(塚田恭子 夫の故国ネパールを頻繁に往来)
■和田さんが言う「(日常)ふつうに六日間くらい風呂に入らない」「下着を替えない、裏返して履く」。ぼくの隣に座ってる白根全さんに「へえ〜 全さんは?」って聴いたら「俺は奇麗好き」「俺は、風呂に入らなかったのは26日間が記録。着てる物も変えなかった。」と言うのが、おもしろかった(サハラ原付行のとき)。フォーディズムを否定する和田さんは「身体的」ということを いろんな角度からおっしゃっていた。「何が」人たらしめるのか、みたいなはなしやとおもった。日本中、ヒマラヤ全土を歩いた人。人生をどれだけ「歩いた」ことかぼくが残りの人生ぜんぶを寝ずに歩いたとしてもとうてい足らない。
◆和田さんは、幼少のころ 母親に 寝巻きを必ずたたんでから着るようにしつけられた。それがイヤだった。母親にきれいな字を書くようにしつけられて 書きまくって鉛筆作文大会で賞を取った。字の奇麗さのみならず作文能力も評価される賞だ。 それも和田さんはイヤだった。練習がイヤだという。いつも本気本番が好き。「自分流」でないと気が済まない感じ。「やりたいこと」の途上を常に歩いている 身も心も同じに 歩いている。
◆身体の喜びと乖離しない唯一の方法、それが「歩く」ことなのだろう。タイムラグが無いその工夫実践を怠らない。その生き方が、起業とその成長成功を導いてきたのだろう。ヒマラヤも起業もすべてがつながっている。「楽しくないことはなにかが間違っている」。そこは、妄想世界に生きるぼくも同じだ。和田さんの著作にはたびたび妄想や幻想という言葉が出て来る。美術家(アーティスト)の仕事の主軸のほとんどは、想像だとおもう。
◆それは空想妄想仮想夢想瞑想、理想や思想とかも。「想う」ことが仕事。実際に現実的に体験として実現しちゃったら「おしまい」みたいなところがある。なので夢は「作品」として具現してゆかなければならない。妄想は体内で変換され、アウトプットはまったくべつの形や表現となる。空想はいつもリアルの外周を徘徊しながらリアルそのものに立ち入ることはない。はがゆさ、孤独、絶望から創作は生まれてゆく。
◆「なにもない」脳内にまず空間をつくり、空間に風景をつくり、想いの森に歩み入る感じ。そうしないことには妄想にリアリティは付随しない。「正体」は ばれてしまう。不遜を言いつつ いかに「ウソ」を付くかが仕事のようなもの。因果だとは想う。まぁ、かつてキリンとかも「麒麟」を創造したりしたのだし。たぶん人間は、あのころもそしてこれからも、あーかな、こーかなって想い考える。
◆仏教とかで「ヘビだと想ってたら縄だった。縄とわかったらもうそれは蛇には見えない」ってみたいのがあるらしい。一端、解っちゃうと、もう、自己認識を立ち戻らす事は至難だ。けど、アートってのは、縄をヘビに見せるようなことをやってく。知ってて「いかにウソつくか」ってことを前向きに段取って実践してく。ある意味で「自分のリアル感」を騙すようなことを具現してゆく行為、そこに「リアリティ」が出現する。
◆だから、本物ヘビそっくりに全部を「かたどり」したみたいに創ったのでは本物の生きたヘビに負けちゃう。なもんで、アーティストらは 四苦八苦して 自分流にヘビ「らしさ」を工夫する。ラスコー壁画。あのころは「人間」らは(ぼくらは)動物らといろんな意味でいまよりももっと近かったとおもう。ラスコー壁画を 超える動物画を描いた画家が居るだろうか?って想ったことがある。歴史上動物を描いた名人は多々居るけど。どうなんかなあ?
◆とにもかくにも「人間」は(ぼくは)、絵を描くことを忘れなかった。人類の遺伝子は絵画意欲の継承を忘れなかった、ってことかもしれないけど。それは、どんだけ太古かしらないけども、あのころの「人間」(ぼく)が、動物を視て洞窟の壁面に顔料を塗りこめた、その「目」と「手」といまの「ぼく」自身が確固として繋がっているということだとおもう。それもまた人間の「身体的」能力の維持継続であると想う。
◆「ナンセンが ダントツすごい」と言う和田さん、今はヨットを買って乗っている。北極海の「何か」を計画しているらしい。おそるべしだ。怪物を超えて妖怪になっちゃうのではないか。和田さんの「道」は「未知」に充ちているぼくなんかはモンベルのカタログをみてるだけで 息が切れてバテルような、ひきこもりの卑小な人間だ。ぁ〜あ、だ。今日も粘土こねて自己憐憫しよ〜♪。(彫刻家 緒方敏明)
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