■「あなたはシリアの現実を見るべきだ」。多くのシリア人が故国から逃れた。途中で溺死する人たちも続出した。それは何が原因なのか? そう問いかけた記者に、バシャール・アサド大統領は答えた。「原因は戦争かもしれないし、テロリストへの恐怖かもしれない。だがシリア政府は人々の支持を得ている。シリア政府のせいではないことは確かだ」。9月23日の報告会の前日、AP通信は大統領へのインタビュー全文を配信した。アレッポはシリア軍に包囲されておらず、国連の救援物資輸送トラックを爆撃したのはシリア軍ではない。一国の大統領がここまで明らかな嘘をつかなければならないほど深刻な内戦とはいったい何なのか。「シリアの現実」を見てきた桜木武史さんは、きっと饒舌に説明してくれるに違いない。と思って、報告会に来たのだが……。
◆「桜木さんはこんなことをやっているのに、めちゃくちゃ「あがり症」。人前で喋るのがすごく苦手らしい」。聞き手、丸山純さんの紹介で始まった報告会は、いきなり拍子抜け。確かに目の前の報告者は、惠谷治さんや桃井和馬さんといった百戦錬磨の戦場ジャーナリストといったイメージからはほど遠い。開始10分。今年1月に出版され、山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞した著書『シリア 戦場からの声』を丸山さんが絶賛しているあいだ、当の桜木さんはなかなか喋らない。
◆戦場ジャーナリストを志したきっかけは?との問いかけに15秒も考え込んでから「高校生の頃に本多勝一さんの『戦場の村』という本を読んだから」とポツリ。他の本多勝一の著書は?『カンボジア大虐殺』とか『ニューギニア高地人』とか?とたたみかける丸山さんに、「はい」と一言。当人がほとんど話さないまま、話題は最初の著書、『戦場ジャーナリストへの道 カシミールで見た「戦闘」と「報道」の真実』に。
◆桜木さんは大学を卒業後、カシミール紛争を取材対象に決め、インド北部、ジャンム・カシミール州の州都スリナガルに腰を据えた。1987年3月、州議会選挙で市民の人気が高かったはずの「イスラーム統一戦線」という政党がわずか4議席しか取れなかったのがきっかけで、不満を抱いた市民がパキスタンへ渡ってゲリラ化。1989年からインド政府と戦い続けている。これまでインド軍兵士5500人、イスラム武装勢力2万1000人、市民4万7000人が戦闘の犠牲になっているという。ここまで実は桜木さんのメモを丸山さんが読み上げる形で進行し、桜木さんは丸山さんの10分の1も喋っていない。
◆地元の新聞社を回り、手製のプレスカードを下げて、英語のわかる記者と一緒にインド軍が武装勢力と対峙する前線へ。いきなりゲリラに拷問されて死んだ市民の遺体や、反政府デモを目の当たりにした。スクリーンに映し出された写真を見ながら、少しずつ桜木さんの唇が動き出す。「これは初めての取材で、イスラム武装勢力の一員と疑われた若い男性がインド軍に逮捕されて、拷問を受けて遺体となった現場です」「大きなテロ事件があって、その翌朝住民に武装勢力が紛れていないかチェックしている様子です」。
◆まるで訪れた観光地のことを話すようだが、桜木さんの行動スタイルが面白いのは、英字紙などで情報を集めてから出撃、ではなく、いきなり現地の新聞記者と一緒に現場へ飛び込んでしまうことだ。何が起きているのかおそらく自分でもわかっていない。それがかえって生々しいリポートを描く効果を生んでいる。脈絡がなく、辻褄も合わない。でも現場で起きているのはそういうこと。私たちが新聞やテレビで接するニュースはそうした断片を継ぎ合わせて「商品」に仕立てたものなのだから。
◆2005年、泊まっていたスリナガルのホテル前で戦闘が始まった。「なんか興奮してしまって、外に出たら撃たれました」。血まみれの痛々しい写真。右顎が吹き飛ばされた。現地の病院で気管切開し、大使館がチャーターした飛行機でデリーの病院へ搬送。2週間の入院後、ようやく帰国して、顎骨の再建手術を受けた。肩甲骨を1/3削って顎に移植するという信じられない手術だ。チャーター運賃90万円、医療費が100万円。でも「治ったら、また行こうと思った」。顔に包帯、食事もままならない状態での職探しである。幸いにしてトラックドライバーの仕事があった。夜のコンビニ配送は、顔の包帯を気にしないで済んだ。以後、お金が貯まると退職して取材へ赴き、帰国しては同じ会社に再就職を繰り返し、なんと15回に及ぶという。
◆続いてスクリーンにはケシの花畑。カシミールではなく、アフガニスタンのジャララバードだ。ここから始まり、アヘンやヘロインに溺れるパキスタンの人々も取材した。が、タリバンと麻薬の話題は日本ではあまり関心を得られず、スズメの涙の原稿料で大赤字。記事を書く気力をなくし、またトラックを運転しながら、ラジオのニュースを聞いていると「アラブの春」が気になった。「中東にも一度行ってみたい」。
◆2012年3月、観光ビザでシリアのダマスカスを訪れた。もとよりジャーナリストを歓迎しない国、観光客を装ったほうが反体制派に接触しやすいという目論みはあったが、結果としてシリアを観光できる最後の時期となった。シリアには「アラブの春」が遅れて訪れた。アサド大統領の独裁に反対する人々が立ち上がったのが2011年。当初は平和的なデモを行う民衆と政府との対立だったのが、市民が武器を取って「自由シリア軍」となった。
◆2012年初めにアルカイダ系の「ヌスラ戦線」が登場する一方でアサド政権にはレバノンのヒズボラやイランが加勢。間隙を縫ってクルド人たちも立ち上がった。2013年春にはイラクからISが侵入して人質事件を起こした。自国民を殺された米国が仏などと有志国連合として参戦。一方でIS掃討を名目にしたロシアがシリア政府に肩入れするに至って、もはや米露対立の縮図となっている。
◆ドロドロになったシリアの状況は、勢力図を眺めているだけではわからない。私が思うに、天気図と同じく、反体制派の蜂起からいまに至る経緯を何枚もの地図にプロットしていって、やっと見えてくる。だが天気図と異なるのは、どんなに眺めても明日明後日の行方が見通せないことだ。
◆ようやく聞き手よりも桜木さんの言葉が多くなってきた。反体制派にまとまりがないのが問題なのでは?「バラバラってわけでもないんですけど。ロシアとアサド政権が空を支配しているので不利。反体制派の士気は高いんですが」。スクリーンの写真を見ながら進行する。最初にダマスカスを訪ねたときには、有名な市場、スーク・ハミディーエは賑わっており、まだ商品が並んでいた。カシオン山から見下ろす市内も平和だった。パルミラ遺跡には人はいなかったが、観光客として行くことができた。アサド政権の支持集会が各地で開かれる一方、モスクの中では毎週金曜日に反体制派が気勢を上げていた。政府軍が包囲するモスクの中で見たプラカードには、「スンニ派の血は一つとなって聖戦に向けて立ち上がろう」と書かれていた。
◆ダマスカスの中心部からバスで20分のドゥーマは反体制派が唯一支配している町。桜木さんは留学生を装ってここにアパートを借りた。星が3つ並ぶ旧シリア国旗が公然と掲げられていた。デモと葬式の繰り返し。デモ帰りの市民を政府軍の狙撃手が撃つ。「本当に毎日人が殺されて」。桜木さんは遺体を撮ることに抵抗感があったが、人々はこれを撮って伝えてほしいと願った。しかしシリア自由軍のライフルに対して、政府軍は戦車と装甲車を繰り出し、迫撃砲で町を廃墟にすることをいとわない。ドゥーマはすぐに陥落した。「今じゃもうたくさん亡くなっているか、村を出てしまっているか。とにかくすごかったです」。桜木さんはこのとき、シリアに2ヵ月滞在して帰国した。そのすぐ後にアレッポとダマスカスで一斉に武装蜂起が起きた。
◆2012年7月、トルコ国境のアザーズを反体制派が占拠したことで、最前線アレッポへの道が外国人ジャーナリストに開けた。世界遺産の古都アレッポはボロボロになっていた。収集が停まり、いたるところにゴミが散乱しているのが問題になっていたが、この頃はまだ住民が多く、クルマも走っていた。パン工場も稼働していたが、たびたび攻撃の標的になっていた。病院には市民だけでなく、負傷した兵士も運び込まれた。担ぎ込まれたヌスラ戦線の兵士もこっそり撮影した
◆桜木さんはだんだん戦闘に深入りして行った。2014年5月の1ヵ月間は最前線を見るだけでなく、「従軍記者」として反体制派とともに戦うことになった。そのときの映像がすごい。アレッポ市内で集合住宅に立てこもり、政府軍と対峙する。乾いた銃声が響く。「この壁の向こう側がアサド政権の支配地域です。距離にして約50メートル」。こちらからもあちらからも弾が飛んでくる。うわーっと丸山さんが思わず声を上げる。「怖いね」。
◆大声を出せば政府軍に聞こえる距離。味方も「こっちには日本人がいるぞ」と大声で無用な挑発をする。政府軍と異なり弾薬に限りがある反体制派は節約しながら、ライフルを一発ずつ撃って威嚇する。ダイナマイトも手榴弾も自家製。「地獄砲」と名付けられた迫撃弾も多用された。ときには味方の陣地に着弾したが、撃つ時も投げるときもみんな笑っている。
◆スッカ・ジャパスは2014年3月に自由シリア軍が奪還したエリアだ。電気水道は一切なく、井戸水が頼り。夜は真っ暗。戦闘に参加しながら武器には手を触れなかった桜木さんは、主に食事の運搬を担った。銃撃戦の最中、兵士が走り回り、ホコリの立つボロボロの建物の中で、平然と食事している若者がいる。戦闘と日常とが交錯している。これが市街戦なのか。桜木さんは一緒に戦う仲間たちに溶け込み、内面に入り込んで行った。
◆銃弾の飛んでくる壁の向こうに飛び出し、相手の陣地をどこまで後退させられるか。最前線は、いわばフロンティアだ。地平線会議では探検や登山など行動者にとっての「地理的フロンティアの消滅」が一時期話題になったが、私が思うに桜木さんはスッカ・ジャバスでまさしくフロンティアに接したのだと思う。荻田泰永さんの北極点到達を阻む地球温暖化は「環境フロンティア」だし、サバイバル登山家、服部文祥さんが挑むのは「文明フロンティア」だ。東日本大震災や熊本地震で傷ついた被災地への救援活動は「災害フロンティア」かもしれないし、大国ですら外交的リーダーシップを持てない世界情勢の中で「紛争フロンティア」はますます広がって行くだろう。地平線会議に関わる人たちのフィールドは、消滅するどころか、広がる一方の無限の荒野のように思えてくる。
◆「これから前線に向かいます。これから戦いに行くムジャヒディーン軍です」。桜木さんが毎晩21時に運送会社から配送に出発するのと同じように、武器を手に出撃する若者たち。英語が話せるため通訳を買って出てくれたファラズダックの姿が映像に。実はこれが彼の最後の姿。この日の夜、彼は亡くなったのだという。目の前に迫撃砲が落ちる。「それまで死ぬということはあまり考えていなかったんですけど、そこで仲間と『タケシがここで死んだらどうしたらいい?』という話になった」。この続きは受賞作『シリア戦場からの声』のハイライトでもあるので割愛する。
◆なぜこんな苦しい思いをしながら桜木さんはシリアへ行くのか? 「インドやパキスタン、アフガニスタンの取材は興味からだった。でもシリアでは初めて『こんな世界がある』と伝えたいと心の底から思った。ケタ違い。何とか伝えなきゃと思ったから、シリアにのめりこんだ」。どうしてこんなに暮らしたいほどシリアが好きなのか?「日本人の友達よりシリア人のほうが多いですからね」と桜木さんは笑わせる。「爆弾が落ちてくるのはいいが、住むところと仕事がないのがシリアの困ったところ」。そう答える桜木さんに、最初のシャイな姿の面影はまったくなかった。
◆桜木さんはダマスカスでの最初の取材でさまざまな人を頼ったが、そのひとりが小松由佳さん。彼女は2006年8月に日本人女性として初めてK2に登頂し、植村直己冒険賞を受賞した登山家でもある。2008年に初めてシリアを訪ね、写真家として難民の姿を追っていた。報告会には生後6ヵ月の長男を抱いて参加。乳児の「サーメル」という名前は、シリア人の夫の亡くなった兄の名前からだという。小松さんにも報告をお願いしているそうなので、桜木さんとは異なる角度からのシリアの話をぜひ聞いてみたいと思う。
◆米ケリーと露ラブロフの両外相が主導した9月12日の停戦合意は、ここに至ってカラ手形となってしまい、アサド政権はアレッポへ総攻撃をかけている。9月27日の英フィナンシャルタイムズは、アレッポの反体制派地域にわずかに残った市民の声を伝えている。「爆撃が止むと、人々は我先に水や食糧を求めて走り回るのです」「朝起きると、きょうも生きていると実感します」。その声は私たちに届いているだろうか?桜木さんの話を聞いてしまったことで、FT記者のリポートが深くまで刺さった。(落合大祐)
Q「顎が吹き飛ばされたと言ってたんだけど、いま顎がついているのはどうして?」
A「それは大きな手術をして、16時間ぐらいかけて肩の骨を顎に移植して、いまは骨があります」
■人前で話すことが苦手な僕にとって、丸山さんとのインタビュー形式での報告会は助かりました。また地平線会議は講演会ではなく報告会だからこれまでやってきたことをそのまま伝えればいいから。2時間なんてあっという間だよ。江本さんに言われた通り、気が付けば時計の針が9時を回っていました。
◆就職活動を一切することなく大学を卒業して、フリーのジャーナリストになりました。もちろん自称です。名刺の肩書にはジャーナリストと印字されていますが、原稿料より取材費が上回り、赤字を補填するため日本ではトラックのドライバーをしています。取材中には危険な思いを何度もしました。カシミールでは右下顎を撃たれ、重傷を負いました。パキスタンでは、ヘロイン中毒者に注射針を突き付けられました。シリアでは何度となく目の前に砲弾が着弾しました。
◆「どうしてお金にならないのに、そんな危険な場所に足を運ぶんだ?」周りの人たちは僕にそんな疑問を投げかけます。正直、僕も明確な答えを導き出せていません。ただ、カシミールでもシリアでも死と隣り合わせで暮らす人たちに僕は引き付けられました。そして彼らと時間を共有することで、その土地に愛情を抱くようになりました。
◆特にシリアでは何人もの友人を失いました。シリアでの日々を思い起こすと、今すぐにでも向かいたい衝動に駆られます。ただ現在のシリアを見れば、もう二度と足を運べないかもしれないと悲しくなります。僕は話すことより書くことを生業としています。今は、週6日、トラックのハンドルを握る日々ですが。それでも今回、地平線会議でお話しをさせていただいて、苦手でもこうして僕が取材してきたことを声にして伝える必要があると感じました。
◆地平線会議を迎える日までは胃が痛くて緊張でドキドキしていましたが、今回、報告会を終えて、お話しができて良かったなあと心から思います。本当にありがとうございました。(桜木武史)
■先日の 地平線報告会。すばらしかったです。丸山さんが桜木さんの横に座って「会」をすすめるのがとてもよかったです。人に合わせ、場に合わせ、会場の、刻々と移り行く「場の雰囲気」を瞬時瞬時に感じ取って工夫されてる丸山さん。報告会の「時間空間」が 丁寧に育まれてゆくような感じ。
◆ぼく的には「桜木さん。ご自身と間近にお目にかかれて、お話しできたこと」。ほんとうにうれしかったです。ナマに「顎」を観察確認できたこと。お話を聴いただけではわからないこと。ぼくは、彫刻を創っていて、「人」がイチバン難しいです。それでも、「人」を創りつづけてる。「人」は数百は創ったとおもいます。ほとんどがダメです。発表できるほどの作品は、まだ、生涯、数点くらいしかできてないです。人は、知れば知るほど「わからん」ことの方が増えて来るし。永遠継続のテーマかもしれないです。
◆人を創るときは、いつもまず「一緒に居る」とか「対話をくりかえす」というところから 徐々に始めます。ですから、デッサンを繰り返し、実際に塑像しだすまでは 半年以上かかったり、対話だけで 完了したり、ドローイング数十枚で完了してしまったりします。なかなか彫刻制作開始までは行けないです。「桜木さん」という「歴史上の本人の顎」を見せていただいたこと。感動感激感謝でした。下あごの半分は、義歯。顎を正面から見せていただくと傾いてる。左肩甲骨の一部を左顎に移植して「顎」を創った。
◆その後、顔つきや発音(滑舌)は変わらなかったとのこと。そこが、スゴいなっておもった。自分は「こうありたい」という強い意志が「自分」自身を形成してゆくさまをまさに間近に視ることができた。というか。そのように言う言葉表現は 失礼なのかもしれないのだけど。ぼくは、すごい勉強になりました。ほんとうにほんとうにもう大怪我しないでほしいし、まさか死なないでほしいです。
◆二次会の「北京」では握手してもらった。ついそのとき「まだ右手があるうちに」って言ってしまった。周りの友だちから「なんてことを言うんだ」って怒られました。じょうだんですって、桜木さんに言ったら笑ってくれましたけど。ぼくは、いっつも軽薄だからなあ。(緒方敏明 彫刻家)
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