2016年7月の地平線報告会レポート


●地平線通信448より
先月の報告会から

ヤマってなんスか?

長野亮之介 服部文祥 多胡光純 丸山純(進行)

2016年7月22日 新宿区スポーツセンター

■『山の日』を前にして山を考える。山の日の制定に関わってきた江本さんがかねてから構想していた企画に、地平線ヤマ系の見事な三つ巴の顔ぶれが集結した。タイトルがとても秀逸。「ヤマってなんスか?」。この度放たれたこの一見さり気なくシンプルな問いかけは、皆それぞれに自分のいる地点から川を遡り、時代を遡り、やがてはこの国の深遠なる山々へとこだますることとなる。

「山」を語るために強制出動させられた4人の登場人物

◆今回司会進行を務めるのは丸山純さん。急にバトンがまわってきて「あまり山を知らない」と困惑気味だったが、パキスタンでのトータル2年半の山暮らしを指摘されてしまい渋々承諾しての登壇。冒頭に「今回三人には近況なども含め、山について自由に語ってもらいます。どうなるかはお楽しみ!」と宣言し、江本さんの選出したお三方の丸山さんによる紹介から幕が開く。各人の特徴を今のうちに理解しておこう。

◆一番手はサバイバル登山家の服部文祥さん。11年前より狩猟の道へも踏み出し、今年には著書「ツンドラ・サバイバル」が第五回梅棹忠夫山と探検文学賞を受賞。2004年に発刊された国際山岳年公式報告書『我ら皆、山の民』には、当時の服部さんによる「山登りが日本を救う」と題した寄稿文が掲載されている。「科学の指針である地球開拓としての登山は役割を終えている。だが登山はまだ大きな役割を持っている。地球のサイクルを離れた文明人にもう一度身体感覚を取り戻させ、地球規模の視点を与える役割である。」と綴られた一文の紹介に、すかさず本人から「そう思ってたんすけど、救いませんでしたね〜」のカウンターパンチ。会場に一波乱ありそうな予感が漲る。狩猟からの気づきの観点を加え、服部さんの口から何が語られるのか。

◆二番手は、13年間にわたり国内外230ヶ所を飛び続けて来た“究極の上から目線”エアフォトグラファーの多胡光純さん。一昨年から京都の地元で農業を始め、平地ではない“山里”の住民の視点をも手に入れた。「人々の暮らしの空間を空から撮りたい」。常に目線を深め続ける、ある意味で鳥人間に一番近いと思われる多胡さんの眼には、山はどのように映っているのだろう。

◆三番手、地平線通信のイラストレーターとしてもお馴染みの長野亮之介さんは北大農学部林学科の出身。これまであまり話されて来なかったが、実は森林ボランティア活動を18年間やってきた木こりのベテラン。遊び心と本気が同居する山の守り人長野さんは、さぞや大きな懐でこの山の国を見つめているに違いない。

服部家は、ブレーメンの音楽隊状態

■「最近何してるの?」先ずは近況報告から。「2日前まで山にいました」と服部さん。新潟でとある専門学校の学生達と一緒にサバイバル登山の体験講義。「本気でやる奴はこういうところに来ない。とっくに自分でどんどんやって凄い奴になるか死ぬかどっちか。」とバッサリ。山岳ガイドを育てる名目だったが、こんなんで大丈夫?とちょっとガッカリ。その数日前は、昔の陸地測量部のルートを取材しに北岳バットレスへ。現代的に今ならどう登るか?の検証。一人だった為、ロープを付けずに敢行したが、本来は確保が必要なクライミングの現場。落ちたら死ぬから「ちょっと怖かった」と振り返る。

◆日々の暮らしのなかで撮影された写真群には、ブレーメンの音楽隊状態で動物達が次々に登場。獲ったイノシシや釣ったイワナ、飼い始めたニワトリやハチ、そこに寄ってくるネズミやヘビやハクビシン(→食べてしまった!)、ネズミ対策にはやっぱりネコ。一際注目を集めたのは、最近家族の一員となったばかりの野良の子犬。「絶対やるようになると思うよ」との友人の一言に、札幌まで日帰りで引き取りに行って来たのだとか。やる犬はタヌキも自分で獲るという。

◆「こいつがいい猟犬になるかわからないが、いつか一緒に犬を連れて長くサバイバル登山をしたい」と夢を語った。さらに服部さんは「これまでは現代文明を知ってしまった我々にはツンドラに暮らすミーシャ(「ツンドラ・サバイバル」に登場するチュクチ族の狩人。言葉がまったく通じないのに、服部さんと絶妙なコミュニケーションができた)のような世界を感じる事は出来ず、アルパインのような尖ったことをやることで見える世界が限界だと諦めていたけれど、狩猟をやってそうじゃないという感覚を得た。横浜で暮らしていても山梨の猟場とは意識で繋がっていて、鶏とか菜園とか全てが地続きに見えてくる。地道に出来ることを一個一個重ねていくことで、ミーシャの見ている世界が見えるんじゃないかって最近思ってます」と語気を強めた。

森フェス、沖縄でヤギ小屋作り、大工修行ー北大農学部林学科が専攻だった長野画伯

■長野さんは6月、長野県菅平高原で行われた「森フェス」を紹介。今年で6年目、長野さんが副実行委員長を務める。きっかけは2010年にコスタリカに行ったメンバーで、スキーロッジが無料で借りられることになり、何か報告しようということになった。森林率の多い長野県であっても、今時の人は山を知らない人が意外と多い。「少しでも突破口を開けられれば」との想いから、フェスのような楽し気な雰囲気のなかで、森のことを真面目に話しつつ、来場者に一つでも良いからうっかり知ってもらおうと毎回企画を考えている。

◆その後仕事絡みで沖縄へ。毎回外間夫妻の暮らす浜比嘉島に立ち寄り、ヤギ小屋を作ったりしている。家畜のある暮らし。凄く可愛がっていても、あっさり屠殺場に持っていく。食べることと世話をすることが普通に同居している世界。島なので、魚介類や畑が日常のなかにあり、少なくともスーパーで切った肉を買うのとは全然違う。食べることと行動範囲が伴うという意味では、服部さんの話と近いところがあるのではと話す。

◆長い間林業に携わってきた長野さんは、最近は建築への興味が湧き、信州の大工のもとに通っている。昭和30年と比べて林業従事者は50万から5万人、自給率は90から20%を切る現状があり、だからこそ素人が手を出せる状況になっていると解説。切ってから出すのが大変な間伐材の殆どは森に置きっ放しになる。そもそも、住宅に使うために植えている筈だ。「木をどう使うか?」自分で木を伐り、製材し、家を作る。その工程を手伝っているという。

田植えの失敗から学ぶ「引き継ぎ」の大事さ 空から360度繋がる自分の世界

■最近丸山さんとの二人三脚で初めての著書『空と大地 世界と日本に描いた16のフライトライン』を完成させた多胡さんは「空は立て続けに物が見えてくるために、原稿に句読点をなかなか入れられなかった」と原稿書きの苦労を振り返る。週末は百姓。先月3度目の田植えを終えたところ。友人達の手も借りて手植えをしているが、去年丸一日かかった作業時間が、今年は3時間で終わった。本来後ろ向きに苗を植えてゆくべきところを、前回は前向きに進みながら植えていた、という。ヒモの打ち方一つでも要領の良し悪しがガラッと変わる。要は、習えば何てことないことを引き継いでいない為に生じる段取りの遠回り。「引き継ぎ」こそが重要なキーワードと話す。

◆「自分はどういう場所に暮らしているか」。古民家とのご縁で引っ越しをした多胡さんが捉えた、地元(京都府木津川市加茂町)の山々の映像が映し出された。山のピークまで一気に駆け上がり、遠くまで流れるように繋がる360度の自分のいる世界。「句読点が無いって気持ちわかってもらえますか?」川を渡り竹林を抜けると茶畑が……。「この先どうなんだ?」とずーっと行ってしまう。家も入ってくる。昔だったら映像作家として外したかった人工物が今ではむしろ欠かせない。

◆農機具のあるあの小屋があるから作業が出来るという発想。棚田の急斜面であればある程その価値がある。最近は撮った映像を地元の人々と一緒に観る。なぜなら撮った映像は“その土地の宝”だから。多胡さんの抱いている山とは、登って制覇するのではなく、気づかせてくれる存在。その多くは便利過ぎて教えられていない(引き継いでいない)。撮ってだしの映像を皆で観ていると、その都度皆さんがいろんな話を聞かせてくれ、山に向ける目線が自然と深まってゆくと語る。

「本物に飛び込みたい」3人の生い立ちに共通するハングリー精神

◆三者三様それぞれのフィールドワーク。何がそれを分けるのか。「元々どうして3人はこうなっていったの?」丸山さんの素朴な質問から暴露ばなしのような展開に……。「虫やザリガニを採ってたのは要素としてあったと思う」。横浜育ちの服部さんは中高はハンドボール部。「本物の現場」が足りないとは何となく思っていた。例えば友達の親が離婚して、家から出て行っちゃったとか聞くと「なんかコイツ格好いいな」、その友達が自分の知らない世界、深い世界を知っているみたいに感じていた。普通のおだやかな家庭だったのでそういう修羅場を知らなかった。

◆高校の時出会ったのが本多勝一の本。そういう引け目からタフな世界への憧れを抱き始める。本物の現場は登山にあるのでは? 「ヘタクソでも根性とやる気さえあれば」と、虫取り好き体質に体力も加わり、相乗効果で山登りにのめり込んでいった。自分にしか出来ないこと、いましか出来ないことをやらなければ意味が無いとの想いから、次第に岩登りや冬山へと移行していったという。

◆旧保谷市に育った長野さんは、子どもの頃から犬を飼っていて、ムツゴロウさんの生き方に憧れていた。夏冬は長野県の両親の田舎にも行っていたがこじ付け原体験程度の思い出。「俺もボンボンだったので……」と高校時代はテニス部だったことを告白。「なんか足りねーな」と感じていた当時は高度経済成長期。公害などの環境問題もあり、「こんな生活してていいのか?」とにかく東京を出たい気持ちが強く、大学選びは北大か琉球大か信州大と決めていた。北大の獣医学部が人気過ぎて、山仲間より「林学なら山に行ける」と聞きつけて林学科へ。最初の夏に40kg背負って大雪山を縦走。以後、山に入って遊びまくる日々を過ごす。

◆「全然山と関係ないです」。世田谷生まれ、埼玉育ちの多胡さんにとって、小学校の時父親といった富士山はつらい思い出。中高は水泳とバレーボールを経て、獨協大の探検部へ。バイクのガソリンからストーブを点けてお湯を沸かす当時のカップヌードルのCMに「カッケー!これ俺もやりてー!」と憧れた純情なエピソードも。植村直己さんの本が好きで、悶々としながらも「燃やすような人生を送りたい」と思っていた。賀曽利隆さんや風間深志さんのトークショーにも足を運び、バイクへの憧れからラリーに出たいと自転車で北海道へ。山の特訓とは無縁の比較的自由な探検部時代だった。

◆山を意識するようになったのは撮るようになってから。初めはその空間を前に視点が欲しくて必死に意味づけを探していたが「そうじゃない。自分は育てられているんだ」と意識が変わった。それから「山とは何だろうか?」と周囲の空間から見ていくようになっていった。そこに人が現れてきて、「どういう暮らしをしているんだろう?」と、自分なりの理解度が深まってゆくプロセスを説明。次第にどの山の面を顔としてアングルを決めるか。皆さんがどっちを向いて暮らしているか、暮らす人の心の拠り所なども意識するようになったのだそう。同じ時代を生きる三人の「本物に飛び込みたい」というハングリー精神はどこか共通している。

ヤマ・里・裏山・奥山

◆むかしむかし、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……。私達日本人は古来より山と密接に関わってきた。ヤマという言葉が指し示すものってなんだろう? 「多分ヤマってのは結構幅広い言葉な気がする」と長野さん。登っている時は地形がヤマと思っていたが、林業を知ると平地でもヤマ仕事と呼ばれる。日本みたいに国土の3/4が森林の場所では、地形のヤマから平地のヤマまで何を示しているかで山は違ってくるという。

◆「集落があって、その周りに田んぼや畑がある。川や道もある」これが「里」。「里の縁の部分のヤマ。インフラ前、山はエネルギーを採る場所。日常的に出入りするヤマ」これが「裏山」。里と裏山が合わさって、人の住む「里山」となる。おじいさんは裏山へ薪や山菜を採りに行き、おばあさんの洗濯していた川はひとつの交通路でもあった。そしてその奥にある「普段は人は入らない。ケモノの領域の世界のヤマ」が「奥山」と呼ばれている。もともとは全て森だった。深い森には怖い場所だから畏敬の念がある。先人は開拓してしまったことに対して、土地の神様に許しを乞うような意味で地鎮祭を行い、神社には奥山の名残りとして鎮守の森が祀られている。「全体が里山であり奥山でありヤマなんです。日本は全体がヤマの国」長野さんによる素晴らしい里山学の講義に聴衆は頷いた。

◆服部さんは「昔の記録によれば、今では秘境と呼ばれる黒部や北岳のような奥山でさえ、山小屋が幾つもあり、生活の延長だった」と話す。畏敬の念を抱くと同時に、今よりもずっと肝の据わった山師系の人々(ある種のスペシャリスト)が昔はたくさんいた。インフラや電気が来ることで我々のイメージを逆に縮めてしまっているとも指摘する。

◆多胡さんの眼には、山は“水の道”のように映るという。生駒山の典型的な里山の構成がよくわかる貴重な映像。上から見ると、山から降りてゆく沢筋は貯水池に一旦貯められる。その周辺の山のふもとには神社やお寺ある。昔から水は大事に守られてきた。更にそこから下へ下へと田んぼを抜けて落ちてゆき、住宅地には新しい暮らしがある。「水を辿れば人の暮らしがある」と言い切る多胡さんの解説と映像には、ドローンではおよそ捉えきれないであろう迫力があった。

山登りは日本を救うか? 救っていない……

◆「山とは何?」という本題のテーマに服部さんが切り込んでゆく。「若い頃は自分の肉体をぶつける場所だったが、今はそうではない。野性的な大きなエリアがなくなっちゃったので、山に行かないとたくさんの魚や山菜が無かったり、サバイバル登山のようなものが成り立たないため、仕方なく山に行っている。もしも日本に原始の世界がデカくあれば、地平線でも丘でも、山に限らずとも自分の旅が楽しめるかもしれない。

◆自分は山特有の地理的な障害などの面白い部分も全部含めて山に行き、その先で狩猟を始めて勉強をさせてもらった。前述の「山登りが日本を救うかもしれない」。それは現代文明に毒されてしまった脳みそを少しはクリアにするスパイスを与えてくれるかもと思っていたんですが、今はどっちかと言うと「登山の方が文明に負けちゃった」というイメージ。2002年国際山岳で梅棹さんが述べたように「子どもを山へやってください」という想いがあると思うが、重要なのは、ちゃんと山登りをしたら何割かは死ぬんです。本来ならば人はそこまで覚悟を持たなくてはならないが、それがない。

◆山での学びの裏には生きるか死ぬかの体験をした場合というものが付くはず。日本の登山者の殆どが、自分達が自分達の楽しむべきフィールドを自分で壊していることに何も感じていない。林道、登山道、山小屋、食べ物を持ち込む……。これらの事が当たり前になっている。全てが悪いことではなくいろいろあって良いけど、自分達が何をやってて、それがどういうレベルかを意識しないと俺は駄目なんじゃないかと思う。山で学べるかはそこにかかっている。

◆要するにそうやって人間が自由にお金を使って気持ち良く買えば良いじゃん的風潮が山登りにまで来ちゃってる。山そのものがそっちに侵食されちゃって「山登りが日本を救う」っていうのは負けたイメージ。山登りも文明に飲まれている。人類史的な意味を取り除いても、登山には人を惹きつけるものがあるのでは? 山登りが純粋になることで登山の意味がより明確になるかと思っていたけど、そうはなってないような気がする」。服部さんの鋭い洞察に会場は静まり返る。

狩猟者はドライ。自分もいつかは死ぬことを意識している

◆「山が生活の延長とは切り離されて、登山は挑戦することに意味があるというスポーツ的な位置づけになっているのかも」と長野さん。すると服部さんは「狩猟者はドライ」と語る。「大きい獲物を自分で殺すので、自分もいつか死ぬ側になることを誰もが意識している。狩猟を始めて実感するのは、若い時は自分、自分と、“俺は他の人間とは違う”と思っていた自意識が、いつしか“俺って他の動物と違う”という「俺は服部文祥の前に人間なんだな」という意識に変わったこと。

◆人間なんだから人間っぽく生きた方が面白いはず。ならば人間のように生きるにはどうすれば良いか?そんな関わりのなかで「獲物を撃つ」「山に登る」「ニワトリを飼う」をやっていくのが今は一番面白い。『山の日』はその先にあるかも知れない」。狩猟を始めるにあたって、登山の基本的な技術と体力は自分的にとても重要だったことも付け加えた。狩猟仲間と対等にやれてこれたのは、それまでの「俺は山を登ってきた」という肉体的な自信も手伝って、先を怖がらずに思い切って突っ込むことが出来たから。逆に今でもトレーニングを怠ると、怖くて山に行けなくなっちゃうのだそう。

◆長野さんが「山の上まで木があり動物が住んでる日本という山岳国だからこそ、山登りと狩猟(生き物)との対比も出来る。多分ヨーロッパなどの岩雪だけの山とは違うはず。」と発言すると、服部さんは「日本人として育ってきて、ヨーロッパに行ってもゲストなんです。それだと多分ヨーロッパでずっとやってきた奴より深いところにいくのは難しい。自分が深いところにいくには結局、土着の生活を積み重ねてゆくしかないんじゃないかな。でもたまにミーシャみたいな人に会うと凄い刺激を受ける。「生きていて良かった」ということしか考えないです。やっぱり思うのは、自分が必死で狩猟をやってきたからミーシャとわかり合うことが出来たということ。結局、土着の生活を続けていって、時々飛行機乗って(ガソリン、エンジンをガンガン使って)行かせてもらう。それが現代的な山登りなんですかね(笑)」と締めくくった。

山仕事の現場に、長年にわたって育まれた山と人との友情のような感慨を覚えた

◆長野さんが写真と共に一連の山仕事の作業風景を解説。主な現場は植林された人工林や二次林。作業道を作り、間引きの伐採から切り出し、そして製材まで、ロープやチェーンソーなど新旧織り交ぜた様々な道具を駆使して作業は進行する。山全体をイメージしながら、あらゆる知識や技術が集約されてきた山仕事の現場に、長年にわたって育まれた山と人との友情のような感慨を覚えた。

◆人工林であるが故に台風や鹿の被害を空から目にしてきた多胡さんは「人が山に手を入れる必要性」について質問した。服部さんは「どの時間軸で考えるか、誰の価値観で考えるかで違う。ほっとけば治る。ただそれは我々の知らない凄い長いスパンなのかも。」と応える。多胡さんは吉野で出会った棟梁が江戸時代からの1000年単位の視点を持っていることに驚いたという。長野さんは「戦後ははげ山ばかりになった。日本の森って原生林は2割以下しかない。殆どが人工林か二次林。歴史のなかでどこかで手を入れている。時間軸の問題、何が正しいでは無く、今生きる我々が何を使っているか、そういうことじゃないか」と総括した。

◆最後に一言。服部さん「いつも自分のやりたいこと、目の前のことをただやってきただけなんで。今は来た犬に期待しています。奴がやってくれるかはわからないけど、何か、自分がイメージしてない世界をもしかしたら見せてくれるのかも知れない」。長野さん「林業の世界では50代後半でもひよっこ。関われる範囲で関わり、そこから派生して建築など大工仕事もいろいろ楽しんでいきたい」。多胡さん「これからも空から記録していく。「みんなで見よう」。知らなければアクション出来ない。たくさんの情報が入ってくる世の中は便利ですけど、やっぱり生で見て、一次ソースの下で判断していかないといけない。それで何か思ったことがあったらやり取りしていきたい」。

とてつもなく大きくて大切な世界が目の前に広がっているような……。3人の語り部と進行役がすばらしかった報告会だった

◆野性味溢れる三人が、山を駆け巡った2時間半の放談会。遭難せずに無事に帰って来れたのは、丸山さんの冷静かつ的確な進行が素晴らしかったからに他ならない。終わってみれば、何かとてつもなく大きくて大切な世界が目の前に広がっているような感覚に包まれていた。同時にあるのは、私達が引き継がれるべき多くの大事なものを忘れる程に遠くまで来てしまっているという感覚。

◆いつもの地平線と違うなと思ったのは、山を前に語る時、皆一様にして自我が消えてゆくような語り部になっていたこと。どこかとても謙虚で山を尊ぶ姿勢がそこにあって、まるで山の神様が人間に語らせているみたいな不思議な時間だった。おそらく僕にそう感じさせた理由は、三人の持つ意識の純度の高さではないかと思う。いたって普通の少年時代を過ごし、きっかけの扉は小さくとも本能で嗅ぎ取った方角を信じて自ら学び教えを乞い、遠回りをしようとも一歩一歩歩み続ければ、どんな時代であれ本物の世界に辿り着けるのかもしれない。山の神様、古より受け継がれてきた山の民の魂はこの時代にも確かに息づいていましたよ! あと江本さん、「ウミってなんスか」を是非ともお願いです。(車谷建太 津軽三味線弾き)


報告者のひとこと

生活にとって山の日はすくなくともマイナスではない

■大気がかなり不安定なため、出発を遅らせたので、書いている。太平洋高気圧の勢力が強ければ、今頃、黒部でイワナを釣っていた。

◆2002年に国際山岳年というのがあった。その年の5月に青山のウィメンズ・プラザで記念イベントが開催され、その会合が私にとって、初めて多くの人の前で登山報告をした場だった。いっしょに登壇したのが、山野井泰史さんと石川直樹君だったから、私は人数合わせの引き立て役だったのだろう。それでも、自分が話す側になり得るんだというのはちょっと驚きだったので、よく覚えている。

◆私を呼んだのは江本さんで、当時は日高全山に行く前、サバイバル登山を始めてまだ3シーズンしかたっていなかった。思い切ったというか、参加者にとってはかなり「?」な人選だったと思う。「山の日」は、その国際山岳年から作ろうという動きが具体化したらしい。私も知らずにほんの少し関わっていたというわけだ。

◆14年前は不意打ちだったが、今年は山の日のイベントに呼ばれても断れるよう、ずっと前からちゃんと登山の予定を入れておいた。ところが、地平線は7月下旬だった。また江本さんに呼ばれて、のこのことやってきて、人前で話した。私の登山にとっては山の日なんてどうでもいい。だが、やっぱり山に魅力を感じる人が増えれば、岳人や私の本を買う人が増えるかもしれない。生活にとって山の日はすくなくともマイナスではない。登山者が増えれば、面白い登山をする若者が増えて、人生の彩りも増す。

◆というわけで大気は不安定なままですが、明日一番の北陸新幹線に乗ります。(服部文祥 8月2日)

われわれは、大切な知恵を引き継いでいないのでは?

■撮るためには視点が必要だ。だから山を撮るならば山を知る。それが僕にとっての山との関わりである。その知り方として、山を歩き見て聞き、そしてそれらを確認するために飛ぶ。そして気づきを得る。山の斜面に連なる棚田の一つ一つは、山の頂からにじみでる湧き水でつながっている。拳ほどの太さの一本の水路でだ。この手の話しを聞くと俄然、山に向ける姿勢が変わってくる。そしてその湧き水の頂点を乗り越えた先にはどんな世界が広がっているのか。その世界を包み込む空間はどうなっているのか。それを知るのが空の旅だ。

◆山で知ることは生きる術や生活の知恵であることが多い。得てして、それらは機械化を享受する今の暮らしとは真逆の方向にある。そして、それらの知恵は戦前までは当たり前に引き継がれてきた習慣であることに気づかされる。高度経済成長を経た後に生まれた我々は、豊かさを享受する暮らしのまっただ中に育ち、それはそれで良き面も多分にあるが、大切なそれらの知恵を引き継いでいない。

◆きっとそれは、人間力という言葉に置き換えられるのものではないか。人間力の低下を意識し、それと対峙する男が服部文祥なのでは。経済発展に傾倒する流れから、そうでなく人間らしく生きる流れが脈々と浸透しつつある昨今。その力を目覚ましてくれる空間が自然であり山であると信じている。手前味噌ではあるが、我が家で耕す一反半ほどの田んぼも小さくはあるが知恵と人間力と笑いの泉である。(天空の旅人 多胡光純

自然すら「消費」の対象になってしまった……

■奥山でケモノと対等に向き合う瞬間を求めて彷徨う服部君と、奥山・里山を俯瞰してその連綿たる連なりに感動しまくる多胡君。二人の行動には自然に対する《畏れ》があると思いました。かつては開拓した森の一部を鎮守の森として身近に残し敬った日本人。しかしいつのまにか自然すら消費の対象と考えるようになってしまった気がします。

◆登山を初め、自然に接するレジャーも、自然を消費するばかりではかつてのマス・ツーリズムのように不毛でしょう。私が関わっている林業の分野もそんな空気に犯されているのかもしれません。家をはじめ、船、樽、炭、ホダ木などあらゆる生活資材としての木をを供給する、社会から感謝される仕事だったはずですが、今やそこに求められるのは均質性と経済性ばかり。割れたり、捻れたり、腐ったりする〈個性〉は欠点とされます。

◆考え方さえ変えれば、その個性こそが別の価値を生むかもしれないのに。都合の悪いものを避けて排除するだけではなく、自分が理解できない存在をまずは認めて畏れ敬う意識が、今こそ必要なのだと思います。先日のクロストークの中に、そんな思いが滲み出ていたら良いのですが。山の日が、そういう事を考える日になればいいのですが。(長野亮之介

地平線会議的「山の日」報告会の舞台裏

■新たに施行される「山の日」に向けて、地平線報告会でも「山」について考えてみたいという話を江本さんから聞いたのは、去年の夏のことだ。2002年の国際山岳年がらみの活動を通じて自身が山の日の制定を提唱しながら、その後のなりゆきや現状に対して江本さんがずっと「地平線会議としてひとこと言いたい気持ち」でいることは、よくわかっていた。では、誰に出てもらうか。エア・フォトグラファーとして空から日本の山を見てきたし、最近になって山里で農業を始めた多胡光純君にまず白羽の矢が立ったのは当然だ。そして、長野亮之介画伯。林学科の出身で林業や里山の取材を続けてきたし、最近では山仕事や森遊びにも多くの時間を割いている。さらにサバイバル登山家の服部文祥君は、国際山岳年のとき以来、江本さんが「山」を語るときに常に彼の方法論や行動を念頭に置いて発言してきたというから、外せない。

◆私は、子どものころから登山にあこがれながらも洞窟探検に行ってしまい、その後はパキスタンの少数民族の村に通うだけになってしまったので、「山の日」には興味がなかった。だから、多胡に了解をもらった、長野に司会をやらせることにした、文祥も都合がついたなどと聞いても、はあはあと聞き流していたのだが、7月になっていきなり、お前が司会をやれと言われて仰天した。長野画伯からの提案だという。くそ、逃げやがったなと電話で文句を言ったところ、「丸山さんなら登山のことも少しはわかるし、なんといってもパキスタンじゃ、長く山里暮らしをしてきたでしょ」と指摘されて、なるほどと納得させられてしまった。

◆しかし、よく考えてみるとこの3人、接点がありそうでいて、ない。話がかみ合うのだろうかと不安だったが、順番に自分の話をするだけのリレートークになってしまっては、つまらない。最初から並んで座って3人で勝手に盛り上がってもらおうと、独断で決めてしまった。パネルディスカッションではなく、単なるトークショーととらえれば、話がどこに飛ぼうが、オチがきちんとつかなかろうが、ぜんぜんかまわない。これだけの役者たちの、三者三様の語り口を聞けるだけでも意味がある。事前に3人とメールで連絡をとり、近況や現在の考えを軽く聞いただけで、本番に臨んだ。

◆当日はまず、国際山岳年日本委員会が発行した冊子『我ら皆、山の民』(2004)を紹介した。やや堅めの論考が並ぶこの本のなかで真っ先に目に飛び込んでくるのが、ヒラリー卿のインタビューと梅棹忠夫さんの講演、そして文祥君が書いた「山登りが日本を救う」である。その一節を読み上げたところ、書いた本人からすかさず否定的な見解が出てきたので、司会としてはおおいにあわてた。なんとか最後にここに立ち戻ってくれば、話をまとめられるかもと期待していたからだ。このあたり、車谷君の書いた「報告会レポート」に、やりとりがいきいきと載っている。

◆続いて、江本さんが『季刊民族学157号』(2016年7月25日発行)に書いた「ジャンジャンの思想──『山の日』に考える」という原稿を、校正刷りのPDFを上映しながら紹介した。梅棹さんが初代館長を務めた、国立民族学博物館が刊行する季刊誌だ。ここで江本さんは、国際山岳年から山の日制定までの流れをまとめ、梅棹さんが講演で話した「子どもたちを山へやってください。…日本の科学を支えているのは山ですから…」という一節に触れる。そして、梅棹さんの原点である京都一中の登山スタイル、北山の道なき道を行く「ジャンジャン」について熱く語ったあと、地平線会議の紹介(自慢)から梅棹忠夫探検文学賞、その第5回の受賞者である服部文祥紹介と駆け抜け、最後は裏山に逃げずに津波にのまれた大川小学校の例を引きながら、梅棹さんの「子どもたちを山へ……」に落とし込む。

◆もしこれがシンポジウムだったら、基調講演として本人にしっかり語ってもらうところだが、江本さんがしゃべりだしたら、30分ではとうてい収まらないはずだ。3人に声をかけたのは江本さん自身なのだからと、司会者権限でここは我慢してもらうことにした。私のお役目はここまで。あとは、3人に自由に語ってもらうだけだ。報告会の内容については車谷君じつにうまくまとめてくれているが、幾つか個人的な感想を述べておこう。

◆まず痛感したのは、三つの視点が重なることで、こちらの理解も立体的になるということだ。下から沢筋を攻めていく文祥君、「上から目線」で水系を追いかける多胡君、そして里山学の知見を生かして時間軸の話にまとめる長野画伯。それぞれのいきいきとした体験の現場から放たれた言葉が、さまざまな方向から「獲物」を突き刺していくような印象をもった。多胡君の撮った俯瞰映像に他の2人が突っ込むシーンにも、それを感じた。3人に来てもらえて、本当によかった。

◆さらに個人的な感想として、なぜ登山に進む人と、そうでない人がいるのか、やっとわかった。少年時代の文祥君は横浜の丘陵地帯を駆け回り、長野画伯は奥武蔵や秩父でオリエンテーリングに熱中したという。その後、文祥君は本多勝一さんの著作に触れてより困難な人跡未踏の領域を求めていく(私も洞窟へと転じた)が、画伯はムツゴロウさんの世界へと惹かれていった。青春時代に本多さんにかぶれるかどうかで、人生が決定的になるのだ!

◆つたない司会を支えてくれたお三方と、盛り上げてくれた会場のみなさまに心から感謝したい。(元洞窟屋・元牧童の丸山純


日常の山――7月の報告会を聞いて、山好き編集者のひとこと

■「山の日」に乗っかれとばかりに、山業界はあれこれと“特別な”登山イベントを打っているが、地平線のテーマはそうではなかった。登る山ではなく、“日常の”暮らす山。三人のトークを聞いていると、少し前に話題になった本を思い出した。『里山資本主義』という本だ。ここでの詳しい紹介は控えるけど、つまるところ「里山」と称揚しながら、そこで生まれる“資産”を「都市」で売るための話で、過疎の村だって上手くすればビジネスが成り立つのだと主張する。

◆もちろん僕らはお金が動いてナンボの資本主義の世界に生きているのだから、これはこれで認めざるを得ないことなのだが、読んでいるとだんだん尻がむず痒くなってくる。「山」も「里山」も、もはやお金に換算しないと、その価値を見出せなくなってるのかということは、そこにあるのは、すなわち都会におもねる今の「山」の姿だ。「山」ってどうして、こんな風になってしまったのだろうかと考える。

◆かつて故郷に錦を飾ると言って、山を飛び出した若者は、そのまま都会に住みついて2世、3世。都会は人で膨れ上がる一方で、山村はあちこちで消滅している。人だけではない。木も水も土も石も、都会を作るためにせっせと材料を供給し続けて、こちらも荒れ放題になってしまった。それこそ齧られてカリカリになってしまった親の脛。それでも僕らは、水にしろ空気にしろ、食い物にしろ、この脛にいまだしゃぶりつかなければ生きていけない。

◆とはいえ、僕らの咀嚼能力もずいぶん落ちてしまったもので、山が差し出してくれるものを、都会風にこってり味付けしないと食えなくなってしまったし、ついには素材の価値すら見いだせなくなってきている。これは登山シーンにおいても変わらないと思う。

◆果たして、「山の日」を迎えるにあたって行われた報告会。ヒリヒリした登攀記録を聞くのもたまらないが、こうして手を伸ばせば届いてしまう山もまた山であり、実はそちらの方がより切実だったりもする。普段、思いもしなかったこと、例えば人が人として自然の中で生きることのややこしさとか、いろんなことを考えさせられた。ただ、多胡さんの映像が山も里も街も、すべて境なくひと続きの大地であることを改めて教えてくれて、何となくそれが全ての答えのような気がした。(竹中宏 雑誌編集者)


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