2016年6月の地平線報告会レポート


●地平線通信447より
先月の報告会から

火星のジョーモン人

村上祐資

2016年6月24日 新宿区スポーツセンター

■タイトルは「火星のジョーモン人」。通信に描かれた長野さんのイラストは、タコ型の火星人になった村上さん。月に家を建てるのが夢らしい、どうやら近く「火星」に行くことになったって!? ちょっとSFみたいな話を期待してか、今回は子どもたちがたくさん集まった。村上祐資(ゆうすけ)さん、37歳、横浜在住。ふだんは大学で講師をしたり、ラジオのパーソナリティもしている。人前で話すのは緊張しなくなっているというが、伝統ある地平線の場に出て、ちょっと緊張気味だと話し始めた。

◆子どものころ興味を持ったのは人間がつくるさまざまな「道具」だった。教科書で縄文時代の石器ややじりなどを見て興味をもち、黒曜石を割って、自分で作ってみた。これで肉が切れるのかと、自分の指にあててみると、思いのほかぱっくりと切れ、血がぼたぼたと垂れた。道具が作れた。そのことに満足し、にやにやしていた。大学では建築の道に進んだ。建築はおそらく人間がつくる道具の中でもっとも大きく、暮らしにかかわる「道具」だ。「好きな建築は団地」という。同じサイズ、同じデザインの家がたくさん集まってできる団地。でもベランダを見れば、干してある洗濯物はそれぞれ違い、そこにはいろいろな人生がかいま見れた。そんな風景を見るのが好きだった。

◆ところが大学で学ぶ建築には、洗濯物は出てこない。無機質な空間に、おしゃれな家具が並ぶ世界。「ここに人は住んでいないな」と思った。アカデミックな建築の世界に違和感を感じながら悩んでいた時、建築雑誌「SD(スペースデザイン)」の0011号「特集 ヒューマン・センター・デザインの可能性」に出会った。「この1冊が僕の人生を変えた」。

◆アメリカのアリゾナ州に「バイオスフィア2」という建物がある。地球の生態系(バイオスフィア1)に対して、完全に密閉されたもう一つの生態系という意味で名付けられた建築だ。この建物は雨風はもちろん、空気さえも出入りしない。人類が将来宇宙で暮らすことになった場合を想定し、建物のなかには熱帯雨林や海、農場など地球のすべての環境がとじこめてある。

◆1991年から2年間、ここで男女8人の研究者が暮らした。設計上は、酸素濃度は一定に保たれ、食糧なども自給自足ができるはずだった。うまくいけば交代で100年にわたり生活・研究ができる、はずだった。ところが実際はうまくはいかなかった。研究者は施設内でいろいろな研究を予定していたが、ほとんどの時間は下草刈りに費やされてしまい、研究はできなかった。

◆思ってもいない生き物が入り込んで増えてしまったり、誰かが倉庫から食物を盗んでしまったり。人間関係もそうとういろいろあったようだ。極めつけはコンクリートが酸素を吸ってしまい、酸素不足に陥ったこと。「バイオスフィア2」は失敗と批判をされたが村上さんはそうとらえなかった。「僕はすごい成果だと思った。いずれこういうことがきちんとできれば人が宇宙に行ける。雷に打たれたようだった」。

◆卒業設計では「月面基地」をテーマにした。建築学科の世界では、敷地がわからないところに設計をするのはタブー。そこでNASAの画像などできる限りのデータを引っ張り出し、その影や日の高さから月面の地形を推定。なんとか「宇宙建築」で卒業することができた。大学院に進んでからも宇宙建築をテーマに研究を進めたが、やればやるほど腑に落ちないことがあった。

◆「バイオスフィア2の参加者たちが苦労したことが、建築の世界では解決できていない」。長い間とじこめられて暮らしている人たちが何を考えているか、研究室でずっと考えていても無理だと思った。バイオスフィア2に代わるものは何か? それを考えたとき南極が思い浮かんだ。南極観測隊への参加は簡単ではなかったが、あらゆる免許をとり、自分が役立つことをアピールし続けた結果、4年がかりで南極行きの切符を手に入れた。

◆「南極に行けば、どんな場所に行っても通用する答えがあると思っていた」。ところが「玉ねぎの皮をむくように」どんどん人間の暮らしの核の部分に迫っていきながら、越冬を終えたとき、何もなくなってしまった感じがした。ただ一方で「すでに理解はしているはずだ」という確信はあった。帰国後、むしろ現地にいるときよりも南極を意識している。あれから6年たって、最近ようやくそれが言葉にできるようになってきた。

◆いま「極地建築家」と名乗っている。「厳しい環境の中にこそ、美しい暮らしがある」という思いから、富士山測候所やエベレストベースキャンプなどの暮らしを体験してきた。冒険家ではない。冒険家を「見たことのないものへのあこがれを行動にうつす人」とするならば、極地建築家は「ここしかない場所をつくる人」だという。そして、「『ここしかない場所』をつくるには、その場所をよく観察することから見えてくるものがある」と村上さんは言う。

◆およそ1世紀の昔、アーネスト・シャクルトンは南極について「極寒、長い暗黒、命の保証なし」と描写した。現在の昭和基地では死亡事故が起きれば観測ができなくなるため、命の面ではかなり保証されているが、それでも100年前と南極の環境は変わっていない。南極は「当たり前がない世界」だった。普段なら10分で終わる簡単な作業が、極寒の地では1時間かけてもできないこともある。

◆今でも、「気を抜いたら誰かが死ぬ世界」。でも一方で、「気を入れすぎても人は生きていけない現実もある」と村上さんは言う。南極観測隊は入念に人選をしている。選考では南極でやりたいことについて強い意志を持った人を選んできた。だが強い意志を持つ人は心が折れやすい。現地滞在中に、あるいは帰国後に、心を病んでしまう人がいるのも現実だという。自分の心を自分でほぐせる人、もし人の心もほぐせる人ならなおいい。必要なのは「よく食べて、よく寝て、よく笑う」こと。「生き延びる生活」だけでは、人は生きていけない。「これは被災地でも同じことが言えるのではないか」と村上さんは言う。

◆南極であれ、宇宙であれ、建築は周りを取り囲む「死にあふれた世界」と「生の空間」の間にあって両者を分けている。英語にはISOLATIONとINSULATIONという二つの言葉があり、どちらも日本語では「閉鎖」と訳される。建築はまさに広い世界の中から、ある空間を閉鎖するものとしてある。

◆しかし前者(アイソレーション)には、あるものや状況から「隔離する」という意味があり、後者(インサレーション)には「保護する」という意味がある。建築をアイソレーションだと思った瞬間、人は病んでしまう。逆にインサレーションと思う人は、そこで生きていける人だ。

◆極地建築に必要なのは、送る側の論理に、送られる側の論理を加えていくことだ。NASAをはじめこれまでの宇宙研究は「火星の平均気温は何度?(答えはマイナス65度)」などといった宇宙に関する問いを立て、その穴埋め問題をするように膨大なデータを集めていった。そしてそれに対応する解答を見つけていった。でもそれらはすべて人間を宇宙に送る側の論理だ。実際に宇宙に行き、そこで暮らす感覚は「数字上のスペックをいくら集めていっても分らない」と村上さんは言う。

◆宇宙に行く人間が何を感じるのか、何が求められるのか、そのヒントを求めて、村上さんはこの秋から「火星」に行く予定だ。「火星」といってもそこは仮想の火星。アメリカのNPOマーズソサエティ(火星協会)が主催する「MARS160」という計160日間の閉鎖環境での滞在実験に、日本人として唯一人、参加することになったのだ。

◆今年9月からまずはアメリカのユタ州にある宇宙基地を模した直径8メートル、2階建ての閉鎖環境施設で80日間、来夏には北極カナダのデボン島にある同様の建物で80日間、それぞれ滞在する。役職は「副隊長」。書類選考でしぼられた約200人の中から、村上さんを含む7人が選ばれた。あしかけ3年にも及んだ選考で、なぜ自分が選ばれたのかはわからない。ただ、選考のための2週間の滞在で、極地建築の暮らしにおける「言葉の大切さ」を感じた。

◆村上さんは言葉を大きく二つに分けて説明する。ひとつは「最近どうですか?」など、相手のことを思ってかける「発見することば」。もう一つは、何かを相手に「説明することば」だ。自分の思いや意思を伝える「説明することば」はどうしても、相手にYESかNOかを突き付けてしまうため、度が過ぎると喧嘩になってしまう。「常に自分にブレーキをかけて、発見することばをかけるよう心掛けています」。

◆これまで国際宇宙ステーション(ISS)での「長期滞在」は、半年くらいがスタンダード。2030年にも予定されている火星の有人探査ではそれをはるかに上回る期間が必要となる。「今までのやり方は火星では通用しない。誰にも意味づけられたことのない世界を知る必要がある」と話す。

◆報告会は休憩を挟み、後半はこの1年間取り組んできたネパールの支援についての話になった(その概要は地平線通信446号参照)。震災前から子ども向けのワークショップとしてプラスチック製のドームテントをつくるプロジェクトを進めていた村上さんは、震災後、このドームが役立たないかと現地に持ち込んだ。現地からのリクエストで大型化し、改良したドームは約1年間で8棟がネパールに届いた。なかでも震災から1年となる2016年4月25日、古いエベレスト街道の拠点の街ジリに、調布市内の小学生・内田馨くんの提案でできたドームが建った。実際に現地まででかけ、ドームを届けた内田君も報告した。

◆「名前だけは知っていたけど、どんな国かは知らなかったネパール。僕はついて行っただけで、村上さんにしかられたりもしたし、僕が行った意味があるのかどうかもわかりません。ただ今回行ったことで、いろいろ知れたし、ありえないことをしたし、今日村上さんが報告してくれた『当たり前のない世界』があることを知ることができました。日本のほうが進んではいるけれど、ネパールにも素敵な生活があった。そういうことが分かってよかったです」(内田馨くん)

◆村上さんは当初、ドームを送る活動が現地の人たちにとって迷惑になっているんじゃないかと、不安を感じながら進めていた。だがドームづくりを通し、仲間が広がったり、ネパールの人たちと同じ時間を過ごすことができたりした。ドームという物を送るということよりも、かけがえのない一つの時間を過ごせたことで、十分ではないかと感じている。「ドームにかかわってくれたすべての人たちの心の中に、いつまでもネパールが残ってくれれば」と村上さんは話す。(今井尚


報告者のひとこと

火星も月も南極も、「全部があっち側」というとても大らかな括りで、僕ら日本人のなかには存在している

◆極地建築家のやるべきことは、厳しい環境に暮らす人々に「ここではないどこか。」を示すことではない。生き延びるためではなく、生きている実感を気づかせてくれる、そんな暮らしを整えること、「ここしかない」場所で日常を作り出すことだ。厳しい環境のなかにこそ、僕らが見習うべき「美しい暮らしかた」がきっとある。だから、南極やエベレスト、模擬火星環境など、極地とよばれる場所に身を置いてきた。

◆そんな僕のことを冒険家とよんでくださる方々がいるのだけれど、そのたびに小さな違和感がうまれてしまうのだ。それはきっと、僕が「場所を移動」していないから。移動せず、永くそこに留まること。僕を冒険家とするならば、厳しい環境のなかでどれだけ美しく「時間を全う」することが、僕の冒険なのかもしれない。

◆ニッポンは島国だ。僕らの地平線の前に広がるこの広い海原を、「隔てる壁」あるいは「繋がる道」ととらえるのか。2014年の火星訓練。アメリカ人3名、イギリス人、フィンランド人、ブラジル人がそれぞれ1名、そして日本人の僕で構成された国際チームのクルーたちとともに、ユタの砂漠にある模擬火星基地で、約2週間の火星実験生活を過ごした。

◆そのなかで僕は「こいつは敵わないな。」そう思わされるような、根本にある意識の違いを、他国のクルーから見せつけられていた。それは彼らがいつも「地平線の先に見ているもの。」彼らにとっての火星とは、本当に地平線のすぐ向こう側にある場所なのだ。島国ではなく、大陸に生きているからだろうか。ただ一歩、一歩と、歩を進めて行きさえすれば、必ずやたどり着ける場所なのだ。

◆彼らは火星までのプロセスを、課題を解決し、消去していく道のりとして捉えている。はっきりと、火星をゴールとして見据えている彼らには、目の前には道がある。僕ら日本人の多くは、火星の地にひとが立つなんてことを、リアルに感じていないだろう。見えない海を想像し、宇宙船という渡し舟を持たぬ限り、まさかその先へ行けるとは思ってはいまい。あるいは少しばかり水際で遊んでみる程度だろうか。僕でさえそうなのだ。日本人にとって火星は、月のようには、身近な存在にはなっていない。残念だけど火星にはまだ、かぐや姫はいないのだ。

◆その一方で日本人は海の向こう側を、対岸という一括りで捉えている。火星も月も南極も、「全部があっち側」というとても大らかな括りで、僕ら日本人のなかには存在している。大陸で生きてきた彼らにはそうはいかない。地平線の先に見える、あの丘を目指して歩くのか、あるいはあっちの木を目指すのか、とことん納得いくまで議論を重ねる。より確かな目標を指し示してくれるリーダーが必要になる。それが今まさに、火星をめぐって議論されていることだ。片道でいくのか、それとも往復なのか?まず衛星を目指すのか、あるいは月を経由するのか?など、議論は尽きない。僕は「全部があっち側」こんな価値観をつくってくれた、日本の地平線を誇りに思っている。それぞれが育ってきた場所でいつも眺めていた地平線。その違い。大昔のニッポン人も、同じ地平線を見ていたはずだ。火星のジョーモン人として、僕は僕の冒険物語を綴っていきたい。(村上祐資


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