2016年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信446より
先月の報告会から

“生きる力”ってなんだろ?

佐々木豊志

2016年5月27日 新宿区スポーツセンター

■「生きる力」ってなんだろう? 報告会場に立った佐々木豊志さんは顔を覆うヒゲが印象的で、熊のような風貌の人だった。これまでの活動について、95年の阪神淡路大震災でボランティアに参加したことから、報告は始まった。

◆95年当時、佐々木さんはテレビ関係の仕事をしていた。自然学校を立ち上げるため、その年の3月で会社を辞める予定だったそうだ。震災が起こった1月は、残りの有給休暇中。JON(Japan Outdoor Network)の繋がりで交流のあった、ホールアース自然学校の広瀬敏通さんと一緒に、すぐに被災地に入った。

◆「阪神淡路大震災に関係する写真は一枚も撮っていません」と、この時のことは、語りだけで報告が進められた。地震の凄まじさ、被災者の悲しみを目の当たりにすると、写真を撮影する気持ちにはなれなかった、と。阪神淡路大震災のボランティアでは、最も被害の大きかった東灘区の避難所、東灘小学校に入った。そこでは「避難民主体で動く支援」という方針を掲げた。その結果、避難所で生活する住民の意識は自立し、最終的に自衛隊が引き上げる際も、住民による運営がスムーズに進んだそうだ。

◆その後、自然学校開校に向けて、ログハウスの材料をアメリカで買い付け、それを自身で建て、翌96年にくりこま高原自然学校を開いた。中越地震、中越沖地震の時には、自然学校を運営しながら後方支援。開校から12年後、2008年には岩手宮城内陸地震が発生。今度は佐々木さん自身が被災者となった。震源は自然学校の直下だったという。地震は縦揺れで、建物への被害も大きく、基礎部分が崩れた。その修理は8年かかって、昨年ようやく終わったそうだ。

◆報告会場のスクリーンには地震の縦揺れの凄さを想起させる写真の数々が。大地に埋まっていた大きな岩が、地震の衝撃で飛び出し、大きな穴の横に転がっていいるもの。地震の衝撃で軽自動車ほどの大きさの岩が、一瞬にして宙に浮いたことを想像させる写真だった。岩手宮城内陸地震では山崩れの被害が凄かった。佐々木さんが自然学校に通うために使っていた道路も、山と一緒に崩れてしまい、高さ150mの絶壁ができた。その後の2年間は避難指示で事業を失っていたそうだ。震災からようやく立ち直る、というタイミングの2011年、東日本大震災が発生したのだ。

◆東日本大震災では、RQの支援活動に立ち上げから参加、「東北本部長」として現場で指揮をとった。被害者には低体温症で亡くなった人が全体の8%いることをテレビの報道で知り、バイオマスネットワークの人脈を生かして、ペレットストーブを寄付した。さらに仮設住宅の問題点にも触れた。被災地での仮設住宅建設は、基本的にプレハブ建築協会の会員企業のハウスメーカーだけしか参入できない仕組みになっているそうだ。自然学校のスタッフが、被災した時に入居したときの経験からの問題提起だ。

◆現在の仮設住宅は、住環境としての機能性や素材が与える心理的な作用、地元の経済効果など、様々な面で被災者を中心に考えられたものではない、と指摘する。しかし、災害救助法では、災害発生日から30日以内に建設着工が基準となる。そのため、佐々木さんが仮設住宅の問題について声を上げた時点で、対応するのはほぼ不可能な状態だった。そうした仮設住宅への考え方から生まれたのが、登米に建てた「手のひらに太陽の家プロジェクト」だった。

◆建設には、即決でモンベルの辰野さんからのサポートを受けた。それは地元の木材を使って、地元の大工さんの手仕事で建てられた。自然由来の塗料を使うためノーケミカル、ウールの断熱材、電気や暖房は自然エネルギーを活用するなど、細部にまでこだわった。スクリーンの写真からは、木の温かみと、安心感が伝わってきた。佐々木さんがこの取り組みを通じて感じのは、「福島で被災した子供たちと、親たちにとって良かった」と言うこと。福島の子供たちは原発による汚染の影響で、野外での活動が不自由だ。そんな不満を抱える親子に、安心して遊べる環境を提供しているのだ。

◆そして、2016年4月14日の熊本地震。佐々木さんはRQ九州を立ち上げた。通称赤紙が貼られた危険家屋の中から、住居者の大切なものを取り出す作業は危険が伴う。しかし、そういった作業にこそ、ボランティアの需要が多くある。作業する側もかなりの覚悟を持って参加しているという。この報告会の翌日には再び九州に向かうという。95年の阪神淡路大震災ボランティアから、中越地震、中越沖地震、岩手宮城内陸地震、東日本大震災、16年の熊本地震まで、佐々木さんは自らが被災者として、また支援する側として、約20年間に起こった震災に関わってきた。そのなかで「ひとつとして同じ震災はなかった」と佐々木さん。その度に現場で課題を見つけ、問題に取り組んできたのだ。

◆地震の話に続いて、自然学校での取り組みに進んだ。佐々木さんの自然学校では、自然環境や野外活動を通して「生きる力」を育んでいる。元々「生きる力」とは、96年に当時の文部省が掲げたキーワードだという。その内容に佐々木さんは共感した。変化する社会環境の中で、自ら課題を発見し、自ら問題を解決していく力。その中でも「自分自身で課題を見つける力」が一番大切だと佐々木さんは言う。

◆「生きる力」は、社会、生活、自然、の体験の中で育まれるそうだ。体験学習は、「体験、振り返り、分析、次の行動を改善する」というプロセスの繰り返しで学ぶ。そして冒険教育とは、成功するかわからないが、現状の快適な環境を抜け出し、チャレンジすることの大切さを学ぶものだ。佐々木さんは大学時代、教育の専門家を目指して学び、そこで冒険教育と出会った。その冒険教育のルーツを辿ると、「OBS(Outward Bound School)」にたどり着く。それは第二次大戦中に欧州でクルト・ハーンという教育学者が掲げた教育法だという。

◆体験学習と一般的な学校での学習の違いは何か。それは、体験学習は暗黙知、概念学習は形式知だという。佐々木さんは、それを「火を起こす」ことに例える。火の発生には、「熱、酸素、燃料」という3要素が必要だ。これらの知識は書物などから得られる形式知だ。しかし実際に子供たちが火を起こす時には、なかなか上手くいかない。酸素が必要だからと空気を送り込み過ぎると火が消えてしまう。内部の熱が足りないから、空気を送り込んでも消えるということを学び、内部の温度が上昇するまで待つ、という対応をとる。そこで空気を送り込むと、ボッと一気に炎が上がる。こうした体験プロセスで得られるのが暗黙知だという。

◆自然学校での取り組みに続いて、佐々木さんのバックボーンについて話は展開する。なぜ、佐々木さんは自然学校を運営するに至ったのか? それは中学校の時に登った岩手山がきっかけだったそうだ。佐々木さんは、岩手県の遠野に生まれ、気仙沼、一ノ関、盛岡で高校まで育った。佐々木さんが入学した中学校は元気が良すぎる、いわゆる荒れた学校だった。気骨のある先生たちが学校立て直しのために集められ、中学生と向き合った。

◆その方針は、学校行事を見直し、大きな自然の中で学ばせるものだった。先生たちはクラスをまとめるための準備として、身体の大きなリーダー格の生徒を選び、事前に山で鍛えたそうだ。選ばれた佐々木さんたちは、最初に練習として姥倉山に登った。先遣隊として登った山は、快晴で楽しいものだった。その後、改めて学年全体で行った岩手山は嵐。中学生にとっては辛い山行になった。自然相手のため、誰に文句を言うわけにもいかない。ただ厳しい自然を受け入れ泥道を進んだ。その時、先生たちは生徒たちのためにスイカを担いでいたという。

◆岩手山での自然体験に始まり、登山、サイクリング、農家での農作業の手伝いなど様々な体験をした。網張スキー場から八幡平へ向かう三ツ石までの冬山にも登ったそうだ。佐々木さん自身が、今中学生を連れて行くのはためらうほどの山だという。先生から受けた体験教育がもとで、佐々木さんも教員になりたいと思うようになった。中学三年の9月から受験勉強に励んで、成績は急上昇し高校進学、筑波大学へと進んだ。大学時代、冒険教育と出会い、冒険キャンプのリーダーの経験を積み重ねた。しかし大学三年生の時、決定的な失敗をしてしまう。

◆担当した子供とのミスマッチやその時の身体的な疲れから、夜中に雨が降り出した時に、睡魔に負けて担当の子供を助けに行けなかった。翌朝、その子供と対面した時、このまま教員にはなれない、と感じたそうだ。それからは教員を諦めて、山岳写真家を目指してヒマラヤに通っていた。どこかで逃げていたところもあり、それで食って行くことはできなかった。

◆その後、教育と山に詳しいということで大学の先生から声がかかり、日本テレビの関連会社で働くことになった。仕事は日本テレビが運営していた「スクスクスクール」というサマーキャンプに関するものだった。中学生時代、岩手山に登った一日がその後の価値観に大きな影響を与えた、と佐々木さんは振り返る。ことしから始まる国民の祝日、8月11日の「山の日」には、「山に入って、向き合い、成長する、そんな日になればいい」と佐々木さんは言う。

◆さらに話は「社会関係資本」という考え方に及んだ。佐々木さんはグローバル経済のあり方に疑問を抱き、都会での生活に区切りをつけた面もある。95年に放送されたNHKのテレビ番組、「エンデの遺言」でミヒャエル・エンデはお金についての問いかけを行っている。その番組を見た時、佐々木さんの疑問は間違っていなかったと感じたそうだ。自然学校の運営は震災やリーマンショックで厳しい時もあったが、何とか持ちこたえた。それは、通常お金が必要なことでも、人と人とのつながりによる労働力の交換、廃材の利用など、昔の日本でも行われていた「結(ゆ)い」のような相互扶助の体制があったから。グローバル経済の資本は否定しないが、その一方で社会関係資本を築くことで、社会の変化や災害などの危機により柔軟に対応できるのではないか、と。

◆そして森林はエネルギー資源だと佐々木さんは言う。 日本のエネルギー自給率は6%しかない。木の成長には間伐が不可欠だが、それをペレットストーブなど熱エネルギーに活用すれば、電気や石油の使用率を下げることができる。電気から熱エネルギーにする時のロスを考えると、暖房には木材を使ったほうが効率的。せめて、その部分だけでもとの思いで、地域での林業の取り組みを行っている。

◆最後に、養老孟司著の「バカの壁」で登場した脳内一次方程式「y=ax」の考え方をもとに、佐々木さんの自然学校での取り組みに当てはめて、締めくくられた。「y」は自分の生き方、「x」は知識などの形式知、そして係数「a」は体験教育で得られる暗黙知。知恵のある行動を導くためには、形式知と暗黙知の両方が大切だという。データを駆使して、ご自身が歩んできた方向性を示しつつ、これまで体験したボランティアや自然学校での活動を伝えた。その内容は暗黙知と形式知がバランス良く組み合わさった、「知恵がある行動」の報告会だったように思う。(山本豊人


報告者のひとことを兼ねた論考

社会関係資本をどう生かすか。グローバル経済に100%依存しない、翻弄されない考え方

■5月の報告会で『“生きる力”ってなんだろ?』というお題目で話をさせていただいた。私は野外教育・冒険教育に関わり「自然学校」という業態を通して社会に関わり続けてきた。我が身を振り返れば、個人事業として始まった自然学校が次第に公益性が高い事業が多くなり、2003年にNPO法人くりこま高原・地球の暮らしと自然教育研究所を設立し、2008年には岩手・宮城内陸地震で被災し、里山で新しい事業を展開する森林資源の活用を推進する為にNPO法人日本の森バイオマスネットワークを設立。さらに2011年東日本大震災で再び被災し以後の活動に大きな変化を生み組織も改組した。

◆現在は、自然学校から派生した様々な組織と連動しながら活動している。主要な活動テーマは、[1]青少年の育成・野外教育事業・子どもキャンプ[2]自然ガイド・エコツアー[3]青少年自立支援・不登校、ひきこもり、ニートの寄宿制度 [4]農的な暮らし創造の実践 [5]指導者養成・講師講演派遣 [6]森林資源循環・森林育成 [7]災害支援活動などが挙げられる。2度の震災を経て生き延びたくりこま高原自然学校は、設立時からスタッフ、人材育成、人事の考え方に、他の業態にない大きな特徴がある。

◆まず基本的な考え方が、「雇用する」「雇用される」という関係ではなく「共に事業を生む」という考え方が根底に流れている。従って求人をするということもなく、スタッフになる条件に同意できれば受け入れる仕組みになっている。全スタッフの合意で各スタッフの給与も決定される。給与の考え方は、「グローバル経済、グローバルなお金に翻弄されない」という、外部から見ると、ある意味でストイックな給与体系に見えるかも知れない。「持続可能な豊かな暮らしを創造する」ことを実践するために、自然学校のスタッフは、施設に住み込んで、暮らしを創る作業を共にしている。畑を耕し、家畜を飼い、日々「同じ釜のメシを食らう」という24時間ともに暮らして取り組んでいる。

◆報告会では、くりこま高原自然学校のこだわり・理念は、冒険教育と体験学習法にあること、そして2度の震災で試された自然学校の役割と自然学校の教育についてお話した。災害に直面した時に私が言い続けてきた「野外教育、冒険教育は自然体験活動を通じて生きる力を育む」ことが本当に正しかったのか問う時に、実は、経済の考え方にその特徴があり、自然の摂理に従う経済、暮らし方が災害に強く、地域振興にとっても大切な考えだと思っている。グローバル経済に100%依存しない、翻弄されない考え方を大切にしている。

◆それは、「お金」は人間が作った道具であり、神様が作って自然界に存在するものではない考えで、「道具は目的を達成するために作られ、正しい使い方をするとその目的を達成できハッピーになる。しかし、目的外に使用したり、間違った使い方をすれば、怪我をしたり時には大きな問題を起こす」という考えである。現在の社会問題や紛争の原因をたどると、お金の問題、経済の問題に行き着く。このことは、多くの人が正しいお金の使い方をしてないことになると考えている。

◆100%グローバルな経済に依存しないということは、グローバルマネーだけではなく、別のお金を持つということになる。自然学校は、複数のお金を持っていてグローバルなお金だけに価値を求めていない基本姿勢がある。震災時に起こる経済はグローバル経済だけではく、ボランティア経済が存在している。紙幣というグローバルなお金が介在しなくても、人が動き、物が動き、サービスも動く。大きな震災では行政では復興予算が計上される。

◆これはグローバルマネーであるが、震災直後や復興にはグローバル経済だけではなくボランティア経済で動くことがたくさんあり、復興を牽引したり、後押しをしたり、その可能性に東北地方の農山村のコミュニティには「結い」という関係性がある。グローバルな「お金」とは別の「お金」が存在していると見ることができる。

◆例えば包丁という道具を見た時、何を切るのかで、どの包丁を使うか決まる。出刃包丁、刺身包丁、果物ナイフ……様々な包丁から目的に応じて包丁を選ぶ。「お金」も様々な種類の「お金」を持っているべきだと感じている。

◆くりこま高原自然学校は複数のお金を持っている。例えば、自然学校では冬の暖房は全て薪ストーブであり、建築廃材の処理に困っている工務店から廃材をいただいている、質のいい廃材はストックして建物の材料をして使う、さらに廃材を置くために敷地内に道を作っていただいている。「冬のエネルギー」「建築材料」が手に入り、「道ができる」。このやり取りにグローバルのお金は介在しない。

◆また、自然学校のスタッフは近所の高齢になった農家さんの冬場の屋根の雪下ろしに汗をかくときがある。夏場には今度は野菜などをもらったりする。このように、グローバルなお金が介在しなくても、関係性が成立している。匿名性で競争原理で使われているグローバルマネーに対して、非匿名性で共生を生み出す「結い」や「ボランティア経済」「地域通貨」が今後の持続可能な社会を創造するためには必要な「お金」だと感じている。

◆顔が見える関係で、共生する関係に介在するお金が、自然学校が目指している持続可能な平和で豊かな未来を創ると信じている。社会学でいう社会関係資本(Social Capital)であり、自然学校はこの社会関係資本を大切にしてきた。このことが自然学校がグローバル経済に翻弄されないで活動し続けることができた理由でもある。震災からの復興も、地域の振興、さらにこれからの社会のあり方にとって「社会関係資本」をどのように生かすことができるのか? 「社会関係資本」を生かすことができる人と社会制度が今後の社会に重要になると信じている。(佐々木豊志


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