2015年11月の地平線報告会レポート


●地平線通信440より
2015日本冒険フォーラムパネルディスカッション報告

最果てのパワースポット

大場満郎 岩野祥子 荻田泰永 武田剛

2015年1月22日 明治大学アカデミーコモンホール

■御茶ノ水の明治大学アカデミーコモンで4年ぶりに開催された「2015日本冒険フォーラム」。第439回地平線報告会もかねたパネルディスカッションのテーマは、「北極・南極、こんなに違う」。1000人収容の会場は満席で、舞台上に出演者が揃うと期待が一気に高まった。コーディネーターの江本嘉伸さんは開始早々、1分を惜しむように4人のパネリストに自己紹介を促した。

◆Tシャツ姿の大場満郎さんは、世界で初めて両極単独歩行横断を果たした冒険家。1997年に4度目の挑戦で北極海横断成功、99年には南極点横断成功。そして同年、植村直己冒険賞を受賞。14年前、ふるさとの山形県最上町で「アースアカデミー大場満郎冒険学校」を開校し、「地球縦周り1周の旅」では世界各地と日本の学校をインターネットでむすんで環境教育をしている。

◆岩野祥子さんは、2回の南極昭和基地越冬経験をもつ、異色のサイエンティスト。その後はアウトドアメーカー勤務、東日本大震災の被災地支援、市民劇団の舞台女優などを経て、今年春から奈良県月ヶ瀬に移住、三重県伊賀市の農業生産法人で農業を始めたばかり。「非常に田舎なところで、獣のなかで暮らしている感じ」と嬉しそう。

◆3人目は「北極ばっかり」の荻田泰永さん。「僕をこの世界に引きこんだ張本人が」とふりむいた右隣で、大場さんが笑う。大学を中退してやることがなかった荻田さんが、テレビで旅の計画を語る大場さんを偶然目にし、北極に連れて行ってもらったのが2000年。それがきっかけとなり、北極点無補給単独歩行に挑み続けている。

◆武田剛さんは、3年前に朝日新聞社を辞め、今年屋久島へ家族と移住。環境などをテーマに取材活動を行なう。記者時代は南極観測隊越冬取材をはじめ、北極圏やヒマラヤ取材など極地をめぐった。「植村さんの活躍を見て育ち、極地に憧れを抱いた。その後を追うようにして今に至っている」。

◆「俳優というより、いつの間にか山女になっちゃった」と江本さんが紹介したゲストの市毛良枝さんは、過去にカナダのゴールデンで犬ゾリに乗り、南極半島も訪れたことがあるといい、「マイナス40度くらいの極寒でも、運動量が多いと大汗をかきました」と話した。さて、1時間45分で北極と南極をどう語るのか。「時間節約のため私が質問攻めにします」と早口ぎみに宣言した江本さんは、大場さんに向かって「北極と南極どちらが難しかったですか?」と口火をきった。

◆大場さんは準備とトレーニングを含め、5年連続で北極へ。「いつも跳ね返され、凍傷で手足の指も失った。すごく長くて大変でした。4度目はとくに辛かった」。補給フライトが来ず、8日間ほとんど食べる物なし。発信機EPUBからSOSを何度も出し、「私、怖がりで、SOSの大場で有名になってしまって……」。4日目には母親へ向けて「ここで眠りそうなので申し訳ない」とノートに“遺書”モを書き残した。

◆氷でできている北極とは地形的に異なり、大陸の上に厚い氷が乗っているのが南極。「陸続きだから頑張れば歩き続けられる。パラセールを背負い、カタバ風を受けてピューッと進めた」と大場さん。「南極特有のカタバ風とは?」と江本さんにふられ、岩野さんがわかりやすく解説をしてくれる。「大きな南極大陸は、中心部にいくほど標高が高く、寒い。冷えてすごく重くなった空気が、内陸から沿岸へ向かって強く吹き下ろすのがカタバ風」。「風速300メートルになることもあるそうですね」と江本さんが驚きをこめた。

◆次は、荻田さん撮影の真っ白いホッキョクグマの動画。「かわいい!」と市毛さん。見ると、大きな母グマの背中に小さな子グマ1頭がぶらさがり、さらにもう1頭の子グマが母グマのそばを離れないようトコトコ歩いている。「よくこんなの撮れましたね」と、江本さんがため息。テントに近寄ってきたという別のホッキョクグマの動画では、「前足が汚れているのはアザラシを食べた直後で血がついてるから。つまり、あんまり腹が減っていないんですよ」と荻田さん。続いて、「オラーー!」と叫び、ライフルを抱えた荻田さんが走りながらクマを追い払っていく場面。カメラを三脚に置き自撮りするのは、「歩くほかにやることのない旅で気分転換になる」。

◆ギシ、ギシ、と鈍い音をたて、荻田さんが乱氷帯で2つのソリをひく動画。ソリの重さはスタート時点で合計120キロ。「去年北極に挑戦した時のものですね。彼は2度挑戦して失敗しています」と江本さん。氷が薄くなっている北極海。「最近は、氷が割れていたらドライスーツを着て水に飛びこみ、泳いじゃう。いちいち迂回しているとなかなか前に進まないから」。無補給は必然的に時間制限ができ、下手に遠回りするよりいいという。

◆岩野さんは「北極よりも寒い南極で、工夫して暮らす生き物のたくましさに感動した」。昭和基地周辺に密集して生えるコケは内部がプラス10度に温かく保たれ、おかげでほかの植物や微小動物も共生できる。肺呼吸できないアザラシは、厚さ2メートルの氷に自分の歯で穴をあけ、潜水のたびにそこで息継ぎ。岩野さん参加の第48次越冬隊が水深600メートルから釣り上げたライギョダマシは、138センチ、35キログラムの大物で日本新記録に。記念写真には隊員手づくりの素朴な大漁旗も見える。

◆2003年、45次観測隊にカメラマンとして参加した武田さんが遠くから撮影した昭和基地の写真には、レゴブロックみたいな赤、青、黄色の直方体が並ぶ。「第1次観測隊は小さな4つの小屋でしたが、この時点で50ほど建物があり、ちょっとした町のよう」。越冬隊員40人はそれぞれが各分野のプロフェッショナル。発電機を管理するエンジニア、疲れた隊員に美味しい料理をふるまう料理人、医師、大工……。越冬中の500日間、生活の営みすべてをこのメンバーで回す。水は雪を溶かしてつくり、万が一のため消火訓練も欠かさない。「貨幣経済がない南極で、必ず自分が誰かの世話になって生きていると体感した」と武田さん。

◆「大場さんはもともと百姓が好きで、冒険に興味はなかったんですよね」と江本さん。農家の長男に生まれ、大学でも農業を学んだ大場さん。希望を抱いて実家に帰ったものの親に仕事をまかせてもらえず、「つまんないからスポーツカーを買って飛ばし、白バイによく捕まった」。くすぶっていた当時、鷹匠の沓沢朝治さんの魅力にのめりこみ、会いに通った。鷹匠の生き方に憧れたが、家族からは全く理解されなかった。

◆そんな時に植村さんの本に勇気づけられ、農業視察で西ヨーロッパやアフリカへ。次は南米に行きたいと告げると母親に激昂され、とうとう家を出た。「ちょっと生きかた変えれば、お袋のこと楽にできるのに。言えば言うほど社会から自分がはじき出されて、布団のなかで泣いていた」。別れの挨拶の時、沓沢さんに「じっちゃん、80歳越えてもなぜそんなにイキイキしてるの」と尋ねたら、「俺は好きなことやってっかんな」の一言。それが人生訓になり、大場さんはアマゾンへ旅立った。

◆大場さんは、植村さんから極地旅についてアドバイスをもらったことがある。「羽毛服もないのか、古くてよければ俺があげるから」と言われ、自宅を訪れたらそのまま酒盛りに。飲めない大場さんはすっかり酔っぱらってしまい、「植村さんは犬ゾリで行ったけど、俺は自分の力でソリを引っぱって歩くんだ!と何度も繰り返しちゃって。酒って怖いですね……」。グリーンランド到着後、先住民の家々を訪ね歩くと「植村さんが遭難したのをみんな知ってて、泣いててね。植村さんの名前を出した瞬間、どこでも大歓迎された」とふり返る。

◆2006年、武田さんは地球温暖化の取材で、氷床が溶け出すグリーンランドへ。植村さんが犬ゾリを覚えた村、シオラパルクに暮らす「エスキモーになった日本人」大島育雄さんを訪ねた。現在68歳の大島さんは28歳の時、植村さんとともに先住民から生きる術を学び、その後イヌイットの女性アンナさんと結婚、漁師として生きている。かつて自由自在に犬ゾリで走れた海上は水浸しになり、船がないと進めなくなった。獲物の居場所も村から遠ざかり、先住民の伝統的な生活は困難に直面している。大島さんの漁に同行4日目、やっとセイウチに遭遇。600キロの巨体を鉄砲で撃ち、銛で突いて、余すところなく解体した。

◆今年10月末、南極のオゾンホールが観測史上3番目の大きさになったという報道が出た。江本さんが岩野さんに説明をお願いすると、「地球上空にあるオゾン層は、宇宙から飛んでくる有害な紫外線を吸収してくれる、生き物にとって大切なもの。そのオゾンを化学反応で壊してしまう物質がフロンガス。フロンは1987年のモントリオール議定書で使用禁止になったけれど、物質として安定しているため、今も上空にある。この影響が消えるのに2050年くらいまでかかるかな」。南極上空が寒いほど化学反応が起きやすく、オゾンホールが広がると岩野さんは言う。

◆次は武田さん撮影の写真。グレーの空をわっと覆い尽くす黒い鳥の大群は、春先にグリーンランド沖合へ飛んで来るアッパリアス。岩陰に身を伏せながら1羽ずつ網で捕獲し、獲った鳥をまるごとアザラシの毛皮の袋にぎゅう詰めにして3ヶ月ほど寝かせれば、キビアックという独特の醗酵食品ができる。大島さんの自宅で食べたことがある荻田さんは「匂いは鉄分臭いブルーチーズ。内臓はどろどろしてイカの塩辛みたい。肉の部分を指で触ると羽毛がするするとむけ、クリームチーズのよう」。大場さんも現地で試そうとしたが、「暖かい家のなかだったので匂いをかいだだけで、うっとなった」。このキビアック、生前の植村さんが恋焦がれ、旅の励みにしていた大好物だった。

◆次々出てくる面白いエピソードに聞き入っていると、もう終了時刻間際だという。駆け足で進みながらも、妙に穏やかで、おおらかな時間が会場には流れていた。最後に江本さんは「今後何をしようとしているのか、未来に向けての発言を」と問いかける。武田さんは、シオラパルクに残った大島さんが「自分は植村さんのように前へ前へと進めなかった。大切なものを後ろにどんどん落としていってしまうような気がして」と言うのを聞いて驚いた。「人生の宝物をこの地で見つけた、と話す大島さんの生き方に、私も人生の後半は傾倒してみたい。そんな矢先に出会った屋久島にとどまり、自然環境に関するメッセージを発信したい」。

◆荻田さんの当面の目標は、北極点無補給単独徒歩の成功。世界唯一の成功者が出たのはもう20年前。その後だんだん氷が薄くなるにつれ、難易度は上がっている。「北極海は人間の想像が及ばないほど怖ろしい別世界。でも今の自分の経験があれば、できるだろうという自信が正直ある」。来春、3度目の挑戦を目論む。「それから」と続け、「今度は自分が若い人を連れて行きたいなっていう思いもやっぱりあるんです」。

◆岩野さんは「南極に暮らして人生が変わった。日本人代表として仕事ができたし、物事をとらえるスパンが広がり自分が地球人だと思うようになった。それがよかった」。震災後の東北で「生き続けることの大切さ」を教わり、自分にできる活動を、と防災士の資格を取得。農業を始めたのも「食べ物を自分でつくるのは地球人に必要なスキル」だから。「生きる力をつける。それを周りの人とも一緒に頑張りたい。その活動の入り口に南極がある」。

◆300ヘクタールの前原高原の一角で、冒険学校を運営する大場さん。開校時にグリーンランドから連れてきた犬のサラちゃんも14歳。「最近は勉強のほうが大事だと、自然体験に来る小学生が減っているので、もっと広く認知されるように頑張りたい」。昔ながらの方法による無農薬の米づくりは、春に苗植え、秋に手鎌で稲刈り、最後は収穫感謝祭。「地球1周縦周りの旅も4回目を実現して、地球のいろいろな現状を伝えていきたい」。

◆4人の話を聞き終えた市毛さんは、「人が生きるって何だろうというのを、極地や山のような特別なところが教えてくれる気がする。でもそれはきっと人間が縄文時代にやっていたようなことで、原点に戻るために行く場所なのではないかなと思いました」。パネリストとゲストの退場後、江本さんが会場に向かって、締めくくりの話を始めた。「未来に向けての感想を言います」。

◆北極も南極もエベレストも単独も、誰かがすでにやっている。なのに、なぜ私たちはそこで何かをしたいのか?「人間が持つチャレンジ精神、窓を破っていきたい思いはきっとなくならない。これからも人は口実を考えては挑戦するだろう。極地はその思想をもっとも肉体的に表現できる極まりの地。その存在価値はこれからも消えない」。そして、ふたたび4年後の「日本冒険フォーラム」開催を提案し、会場前方で聴いていた中貝豊岡市長に託した。市長は立ち上がり、「4年に1度は冒険を考えるこういう場があっていい。また元気にお会いしましょう。約束します」と誓い、大盛況のなかで冒険フォーラムは幕を閉じた。(大西夏奈子


報告者のひとこと

植村直己さんからもらったアドバイス、装備

■今回のテーマは極地ということで北極も南極も旅してきた話をさせていただいた。私が初めて極地(グリーンランド西岸1400キロ単独歩行)に入る際、植村直己さんにお会いして、装備についてや、イヌイットとの付き合い方、海氷の見方、シロクマ対策などのアドバイスをいただいたこと、また羽毛服、コンパスなどをいただいた話をさせてもらった。できたら、さらにイヌイットたちから聞いた植村直己さんの心温まるエピソードなども紹介したかったと思っている。

◆冒頭で中貝市長が画像を用いて「植村の育った町・コウノトリ悠然と舞う町」のプレゼンテーションを行なったが、田んぼで農夫とコウノトリが並び作業をし、川の中に牛とコウノトリが一緒に映る光景は、まさに人間と自然が調和し、共生する姿を見た思いがした。植村さんが追い求めたかたちが今、故里の地で再現され、きっと植村直己さんも喜んでいるだろうな、と思われた。

◆植村夫人の公子さんも来ておられ、お話ができて嬉しく思いました。もう少し時間があれば、地球縦回り一周の旅の話を通して、地球の温暖化により、極地の自然環境や野生生物、さらにイヌイットたちの生活が変化を余儀なくされている現状などをお伝えできればよかったかな、と感じています。(大場満郎 山形県最上町)

延々と続くむちゃぶり

■日本冒険フォーラムを終えての感想は「ほっとしている」のひとことに尽きます。江本さんとの出会いから9年。まだたった9年ではありますが、江本さんから突き付けられる数々むちゃ(と、かつては思っていたこと)も、今はまったくむちゃとは思わず、いろいろな注文にさほど動じなくなりました。「仕事と原稿とどっちがだいじなの?仕事を休んででも原稿書きなさい!」と、何度言われたことでしょう。

◆今回は、「農業が大変なのはわかる。でも!今はこっちの方がだいじ」でした。そんなむちゃな、と内心で思いつつ、江本さんへの返事は「はい」です。江本さんの本気とセンスと指導力は抜群です。他の人との関わりでは絶対に得られないものを江本さんは与えてくれます。その人のむちゃを受け入れるかどうかというのは、その人を信用するかしないかということなのだと思います。

◆今回も多くの実りをいただきました。今回の、そしておそらく今後も含めて、わたしの役割のひとつは「科学的にものを話す」ことだと思います。来場者に何かひとつでも来てよかったと思えるものを持ち帰ってもらうこと。“その任務をわたしに課したこと”が江本さんのセンスのよさだと思います。今回の機会、経験、関わってくれたすべての人に感謝します。(岩野祥子 奈良県月ヶ瀬住人)

植村直己さんへの手紙

■植村直己様。初めまして。植村さんの志を継ぐフォーラムに参加させて頂き、大変光栄に思っております。学生時代、将来に悩み、植村さんの後を追うように山岳部に入った私にとって、夢のような時間でした。胸を張れる経歴はありませんが、取材者として、極地を歩いてきました。小学生の頃、北極で活躍される姿をニュースで見ていたからこそ、今の自分があるのだと思っています。

◆そして、植村さんにとって、極地への第一歩となったシオラパルクを訪ね、私は人生の転機を迎えました。1970年代、ご一緒に犬ぞりや狩猟を学んだ大島育男さんと出会い、新たな目標を見つけました。「この村で人生の宝を見つけたんだ」。そう語る大島さんは、シオラパルクで40年以上も暮らし、今ではイヌイットの伝統を若い世代に伝えています。

◆植村さん、大島さん。一見、正反対に見える生き方ですが、極地の魅力を伝えるという意味では、同じだと感じています。そして私は、太古の自然が残された世界遺産の屋久島で暮らし、取材をする道を選びました。

◆人生の前半は各地を飛び回り、後半は一カ所に留まる。私にとって、お二人は人生の羅針盤です。

◆そして今回、最も嬉しかったのは、植村さんを支え続けられた、公子夫人にお会いできたことです。ありがとうございました。(武田剛 屋久島住人)

師匠の師匠の植村さん

■あの時間を4人で喋ると言うのはさすがに無理があるなぁと思いつつ、自分に割り当てられた時間はしっかりと役割を果たしたつもりでした。が、どれだけ伝わったかは皆さんの感想を聞いてから判断します。個人的には、私を冒険の世界に引き込んだきっかけである大場さんご本人とも久しぶりに再会でき、改めて昔の話しを大場さんの口から語られた時に、何とも言えない高揚感を感じました。

◆気がつけば最初の北極行から15年。自分も最近は「ベテラン」みたいに言われたり思われたりする機会もあり、心のどこかで調子に乗っている自分がいることも自覚している。ただ、大場さんに「もうオレも髪が真っ白だよー、北極で散々怖い思いしたからねー。荻田君、真っ黒でいいなぁ、まだ怖い思いが足りないんじゃないのー!」なんて言われると「はい、その通りです」としか思えない。大場さんの前に立つと、自分はいつでも「初めての海外旅行でいきなり北極に来ちゃった若者の荻田君」であることを自覚している。

◆かつて、植村さんのもとを尋ねた若い大場さんもいい歳となり、その大場さんのもとを尋ねた私がいま北極点に挑戦している。植村さんの前にも先人がいて、そのうちの誰が欠けてもいまの自分はいなかったのかもしれない。その中でも、植村直己という人が与えた影響について、改めてその大きさを感じた一日でした。(荻田泰永 北海道)


終日レポート

「11.22」に何が起きたか

■439回の地平線報告会は、「冒険フォーラム」に加えて地平線独自の展示、報告会を実施するという、インポッシブルではないにせよかなり大変なミッションになることが予想された。11月上旬にはフォーラムに向けた特設サイトが開設され、同じころ当日スタッフ用のメーリングリストの配信も始まった。大きなイベントを行う際のこうした周到な準備はもはや地平線会議の伝統になっているが、それらを淡々とこなしている丸山純さんの手際のよさには毎度ほれぼれしてしまう。

◆今回の会場は4年前と同じ明治大学アカデミーコモンのアカデミーホールで、定員は約1000人。前回は会場には行ったものの、どうしても外せない用事があって開会直後に退席している。そのためフォーラムそのものは知らないが、豊岡市の小中学生が作った「折りコウノトリ」がホールの全座席に飾りつけられた荘厳ともいえる光景は忘れられない。

◆指定された集合時間は9時30分だったので、庄内発羽田行きの1便に乗り(自宅を出てから3時間弱で)なんとか時間までに会場に着いた。地平線報告会の会場となる2階の「交流ひろば」へ直行し、スタッフ用の植村直己冒険館のオレンジ色のビブスと地平線会議の腕章を受け取る。はじめに全体で打合せをやるのかと思っていたが、すでにそれぞれが自分の持ち場について活動を始めている。

◆交流ひろばには、現在グリーンランドで活動している山崎哲秀さん(第364回報告者)、今日の報告者でもある月風かおりさん(第434回)と高沢信吾さん(第437回)の写真パネルや道具などが展示されている。これらは前日に久島さん、緒方さん、長野さんら“地平線会議芸術部”が準備したもので、苦労の跡がうかがわれるすばらしいレイアウト。

◆わたしの主担当はホール内のビデオ撮影だが、フォーラムが始まるまでは仕事がないので、「ゾモT」班のシール張りを手伝った後で会場内の偵察へ。1階の受付では参加者に手渡す資料の準備が進められ、その奥のロビーには「植村直己の足跡と植村の素顔」と「植村直己語録」を紹介する黒田征太郎さんのパネルがずらり。

◆長いエレベーターを乗り継いで3階に上がると、ホール前ロビーにはこれまでの「植村直己冒険賞受賞者」のパネルと「植村のふるさと豊岡市紹介」コーナーがセットされ、昨年11月に行われた「地平線特別報告会 in 豊岡」でお世話になった植村直己冒険館の方々が待機中。その隣りには地平線会議の年報とゾモTの販売コーナーもできていた。

◆10時を過ぎると、開場を待ちかねた人たちが次々と交流ひろばにやってきて、興味深げなまなざしで展示を眺めている。なかには「チャレンジャーたちのメッセージ展」に登場している本人もいて、自分のパネルの隣りで記念撮影している姿もみられた。同じころ1階では、受付に人が殺到した場合の対応について綿密な打合せが行われ、ロビーの展示も大勢の人で賑わっていた。

◆11時になると、2階の交流ひろばでトークショーが始まった。最初は「風書」の月風かおりさん。丸山さんの司会で順調に進んでいたが、用意した動画が映らないというトラブルが発生。いろいろ手を尽くしたが原因はわからず結局映像なしとなったが、月風さんはまったく動じず丁寧な説明を続けた。この後、3階ホールにビデオカメラを設置しに移動したため、次の高沢信吾さんの報告を聴けなかったのが残念。(映像が映らないトラブルの原因はケーブルにあったようで、新しいケーブルに替えて午後には映像が復活した)。

◆受付が始まる前に交代で昼食。豊岡市(冒険館)が用意してくれた「Geo Lunch」は、神鍋米のおにぎり、但馬牛のハンバーグ、但馬鶏のからあげ、神鍋高原野菜など但馬で採れた食材を中心にしたおいしいお弁当(ごちそうさまでした)。それにしても、いったい何時に作ってここまで運んできてくれたのだろう?

◆12時の受付開始と同時に人が入りはじめた。2階から3階への誘導では、地平線会議“年少組”の長岡祥太郎さん、瀧本柚妃さん、菊地美月さんが大活躍。ホール前で「奥の入口へ進んでくださ〜い」と声をかける柚妃さんの姿にすっかり場がなごむ。ゾモTや地平線グッズの販売も好調のようだ。開演前のホール内では「植村直己の世界」と「冒険館の四季おりおり」の映像が流れている。

◆開会15分前になっても空席が目立ち、はたして席は埋まるのか……と不安に思っているうちに続々と人が入りはじめ、気がついたら1階席はほぼ満席。2階席にまだ空席があるようで、後から入ってきた人を係の人が2階へ誘導する。13時30分、司会の岩崎さんと江本さんが登壇し、いよいよフォーラムが始まった。

◆最初に、豊岡市長の中貝宗治さんによる「植村の育った町・コウノトリ悠然と舞う町」と題したプレゼンテーション。いつもながら、中貝市長のプレゼンは理路整然としてわかりやすく、しかもさりげなくユーモアを交えている。“失われた大切なものを取り戻す”ため、50年以上かけてコウノトリの野生復帰を成し遂げ、さらに“環境と経済が共鳴する”地域を創りあげようとしている豊岡。考えのベースになるのは、持続可能性、自立、誇りの三つで、「命への共感」こそがエネルギーだという。

◆これらは植村さんが故郷に残したメッセージだというが、逆にこうした地域だからこそ植村直己という傑出した冒険家が生まれたのはないだろうか。市長のプレゼンの後に、植村直己冒険館でしか観られない記録映像「素顔の植村直己」が上映されたが、これをみるとそのことがよくわかる。

◆14時15分からは、文藝春秋の編集者として長年親交があり、植村さんが全幅の信頼をおいた友人である湯川豊さんによる「今あらためて植村直己を語る」と題した基調講演。講演の前に湯川さんのプロフィールを紹介する江本さんが手に持っていたのは、昨年1月に出版された『植村直己・夢の軌跡』。湯川さんが植村さんに出会ってから46年、そして植村さんがアラスカのマッキンリー(デナリ)に消えてから30年経ってようやく書かれた素顔の植村直己像で、湯川さんから植村さんへの最後のメッセージとも読める。わたしは昨年冒険館に行く前に予習として読んでいるが、もう一度読みたくなった。

◆壇上に現れた湯川さんは、「先ほどの記録映像は見ないようにしていたが、植村さんの声が聞こえて胸がざわついた」と言い、一瞬言葉に詰まった。その後、江本さんが紹介しこの後のシンポジウムにも出てくる、エスキモーの最高のごちそうであるキビヤックにまつわるエピソードに触れ、それからゆっくりと植村さんとの出会いや南極大陸横断の夢を語りはじめた。

◆植村さんの冒険は「単独行」であることと「先住民の生き方を学ぶ」ところが特徴であり大きな魅力。”自然を征服する”のではなく、先住民に生き方を学び”自然とともに生きる”ことをめざした唯一の冒険家。自然との共生は今の時代の課題になっているが、それを40年も前から実行していた植村さんは時代の先駆者としてその先見性を再評価されるべきだとおだやかな声で強調した。

◆基調講演に続いて、フォーラムの共催者である明治大学の福宮賢一学長が挨拶。植村さんと明治大学とのつながり、さらに豊岡市とのつながりと50年以上にわたる豊岡市のコウノトリ野生復帰プロジェクトを紹介し、植村さんの行動力の源泉は生まれ故郷の豊岡での日々だと結んだ。10分ほどの休憩をはさみ、パネルディスカッション「北極・南極こんなに違う」が始まる。こうしたパネルディスカッションはえてして時間が足りないもので、今回もそうだったが、それでもパネリストひとり一人が語るべきことを語ってくれたという印象を受けた。個人的には、久しぶりに同郷の大場満郎さんの笑顔と饒舌な語りに出会えたのがうれしかった。

◆最後に、江本さんが「未来に向けて」の感想として、冒険フォーラムの意義と何かに挑戦し続けるチャレンジ精神の意味を語り、中貝市長は4年後にまた冒険フォーラムを開催することを約束した。フォーラムの参加者は、若い人の姿もみられたが、全体的には植村さんが国民的冒険家として活躍した時代を知る(年齢層の高い)世代が多かった。4年後はどうなるかわからないが、中貝市長が話されたように、冒険家と同じ「限られた命を大切にしたい」という思いでこれからの日々を過ごし、この場で再会することを楽しみにしたい。

◆パネルディスカッション終了後、交流ひろばの隣りで関係者による「交流会」が開かれたが、地平線会議のメンバーはそれには参加せず、交流ひろばで報告会の続き。午前中に観られなかった月風さんと高沢さんの動画も無事に再生でき、長岡竜介さんの演奏で盛りあがった。それが終わる頃、隣りの交流会場から続々とごちそうが差し入れられ、地平線二次会がスタート。食べきれないほどの料理を堪能し、会場を撤収した後は三次会へ……。午後11時、長い夢のような一日を振り返りながら、高速バスに揺られて東京を後にした。(飯野昭司@山形県酒田市)


「交流ひろば」

ひときわ輝いた地平線芸術部!!

 ━━「交流ひろば」の2日間顛末

■吉谷義奉館長と担当の西村文紀さんから、今回は2階に「交流ひろば」というスペースを設けたいというお話が出たのは、10月初旬の打ち合わせの席だった。椅子を並べ、フリードリンクを用意して来場者がくつろいで交流できるようにするほか、冒険館を訪れた「チャレンジャー」たちの紹介パネルを置いたり、山崎哲秀さん(当日はグリーンランドに滞在)が撮った写真やエスキモーの民具を展示するつもりなのだという。「それで、ここに何か、いまの地平線会議をうまく紹介できるような展示を考えていただきたいのです」と言われて、驚いた。

◆まず出されたのは、地平線のメンバーたちをチャレンジャー・パネルと同様のパネルに仕立ててずらりと並べるというアイデアだった。しかしいまの地平線会議には、「自転車日本一周の途上で寄りました!」のようなわかりやすい行動をしている人はほとんどいない。顔写真と短い紹介文からなる小さなパネル1枚では、とうてい伝えきれないような内容ばかりだ。

◆それに、せっかくフォーラムのテーマも「なぜ、極地なのか」なんだし、山崎さんのグリーンランドの展示もある。だったら、こちらも極地でいくべきだ。となると、もう答えは出ている。9月の地平線報告会でアラスカのクジラ漁の町に通いつづけている高沢進吾さんの報告を聞いたばかりだし、6月には南極でアート・パフォーマンスをしてきた月風かおりさんに登場いただいた。現在の地平線会議のありようを紹介するには、やはり直近の報告者に出てもらうのがいちばんいい。

◆お二人に快諾いただけて、まずはほっとする。それぞれ自分の世界をもっている方々なので、寸法を記した図面を渡して、何をどう展示するのかはお任せしてしまった。高沢さんは出張続きで東京にいる時間がほとんどない状況だったし、月風さんも連日の業務に追われる多忙な時期のようだったが、画像や映像を手早く用意していただけて、たいへんありがたかった。印刷会社に入稿して、大判のインクジェットプリンターでプリントしてもらうまでを私が担当した。

◆前日の仕込みは、まず施工業者と詰めながらの会場設営から始まった。事前に渡してある図面の指示通りにやってもらえばいいとも思ったが、やはり現場で合わせてみないとうまくいかないところが多々ある。朝9時から出向いて、正解だった。そこへ、関根皓博さんのクルマが到着する。印刷会社から届いた大伸ばしの写真やそれを貼るためのパネル、年報、ゾモTシャツなどの大荷物を、武田力君と共に運んできてくれたのだ。さらには、工具一式をかついできてくれた緒方敏明君、便利な道具を用意して北海道から来てくれた久島弘さん・掛須美奈子さんが加わり、展示する写真のパネル貼りが始まる。

◆やがて高尾での山仕事を終えた長野亮之介画伯も駆けつけて、これじゃ終わらないよとハッパをかける。B1判という巨大なパネルにシワや気泡が出ないように写真を貼るのは、3人がかりでも神経をすり減らす作業だ。さらに、はみ出る部分をカッターで切らねばならない。1メートルの定規では切れないような大きなサイズはもう二度とごめんだ、と全員が感じた。映像上映用のTVモニターのテストもする。

◆途中から月風さんが立ち寄ってくれて、軸装された風書作品を壁面に掲示した。さっと月風さんが白手袋をはめるのを見て、しまった、作品への敬意が足りなかったと反省する。ブリザードに向かって突き進むペンギンがなんともけなげな、迫力あふれる作品に息を飲む。パフォーマンス時に着ていた白い着物なども、きれいに並べていただいた。パネル貼りに予想以上に時間がかかり、写真を壁面に固定していくのは、高沢作品を仕上げたところで時間切れになってしまった。

◆当日の朝は田中幹也君にも手伝ってもらって、まず月風作品の固定を済ませ、さらに高沢さんが持参してくれた衣類や道具、模型などを展示する。全体を仕切る緒方君がそれぞれの展示物に注ぐ思い入れの強さに、身内にアーティストがいることのありがたさを痛感させられた。

◆10時に開場。まだこちらは映像などの準備中で態勢が整っていないのに、植村さんと同年配ぐらいの方々が何人も入場してくる。冒険館が用意してくれた、淹れたてのコーヒーの香りがあたりに漂う。紙コップを置いたりできるよう、テーブルや椅子をあわてて並べ変えた。森井祐介さんがどーんと構える年報やゾモTシャツの売り場も、けっこう人だかりがしている。

◆11時過ぎから、まず月風さんのトークショーを始める。簡単な紹介をしたあと、まずは南極という環境を実感してもらおうと入れたブリザードの映像が途中まで流れたところで、突然、画面が真っ暗になり、音も消えてしまった。それまでずっと、エンドレス再生で映像も音もちゃんと出ていたのだが……。月風さんにトークを続けてもらっている間に機材を点検してみたが、どうやってもだめだ。

◆あきらめて、壁面に展示した写真を指さしたり、手に持ったPCの画面を見せながら客席のあいだを回るという原始的なやり方で、トークショーを続けた。アクシデントにもかかわらず、臨機応変に対応してくれた月風さんの胆力に敬服する。続く高沢さんのトークショーも、同様の手法でやった。高沢さんの展示は写真が中心だし、クジラの髭や衣類など現物もたくさんあったから、映像なしでもかえって印象が深まったかもしれない。

◆ようやく長野画伯に司会をバトンタッチし、長岡竜介君のミニコンサートが始まる。奏者の息づかいがそのまま伝わってくるほどの至近距離からフォルクローレの演奏が聴けるなんて、贅沢な体験だ。演奏もそうだが、長岡君は場の盛り上げ方がうまい。最後は客席も一体となって、短いながらも充実した時間となった。

◆12時前に、午前の部をお開きとする。さっそくTV側もPC側もすべての可能性を試してみたが、問題なし。残るはケーブルだけだ。前田庄司君が撮影係を中断して秋葉原までケーブルを買いに走ってくれたが、それを差したところ、あっけなく映像が復活した。これまでトラブルもなく、端子も金メッキされた高品質のケーブルだったのだが……。

◆作品を固定してある壁面パネルの裏側を、荷物などを置くバックヤードとして使っていた。そこに久島さんが一人で座り込み、黙々と手書きの看板を作っている。あとでわかったのだが、それは3階のホール脇の通路に置く、トイレの位置を示す案内板だった。1000人が入る会場なのに、休憩時間が思いのほか短いのを見て取って、スムーズに人が流れるよう、準備をしてくれていたのだ。実際の休憩時間、ほとんどの人がそれらの案内板を眺めながらトイレへと動いていた。こんな気配りができるのも、地平線会議の底力なのだろう。

◆フォーラム閉会後、多くの人が交流ひろばに流れてきた。そんななかで5時から高沢さんのトークショーを始める。ざわついているため、小型のハンディメガホンを貸してもらったが、やっぱり声が通りにくい。マイクとPAをちゃんと用意すべきだった。もちろん、今度は画面も音も復活していて、アザラシ狩りの模様やクジラの声など、とっておきの映像を楽しんでいただけたと思う。

◆続いて、月風さんのトークショー。雪の上でのパフォーマンスの模様をなまなましい現地の音の入った映像で見てもらえたので、さらに感動も深まったように感じられた。高沢さんのB1サイズの写真2点、月風さんの幅1.3メートルの風書作品、その存在感はやはり会場を圧倒していた。いつもの報告会ではもっと大きなサイズでスライドを壁面に投射しているが、次のスライドに移るとそれは消えてしまう。リアルな作品がそこにずっとあるという迫力は、やっぱりすごかった。

◆二度目の長岡君の演奏も、午前とはまた違った構成で、とても盛り上がった。楽器もたくさん並べてくれて、目でも楽しめたと思う。当日のバックヤードでは、祥太郎君がウッドブロックをぽこぽこと叩いているのを何度か見かけた。次回はぜひ親子で共演してほしい。

◆6時、交流ひろばもお開きとする。そして、長野画伯の音頭で乾杯をして地平線の二次会が始まり、パーティ会場から運んできたもらった豊岡の名産品をみんなでむさぼり喰ったが、その脇でパネルや展示物の片付けがもう始まって、あれよあれよという間に梱包ができてしまった。なんという手際のよさだろう。さすがだ。7時、すべてが終了。いかにも地平線らしい空間がこの日だけ出現して、たっぷりと一日を楽しめたように思う。(丸山純


「交流ひろば・報告者」のひとこと

極地には、懐の大きな『風』が吹いている

■〜風が吹いている〜 いろんな人がいるのだな〜。北極に行った人、南極に行った人、極地で生活した人、今も生活している人、自力で行こうとしている人、その話を聞きに来る人……。どうして? 『極地』は人を引き付けるのだろう。遠くて、孤独で、過酷なのに。

◆今年南極へ降り立った自分だったが、大きなフォーラムの渦の中に一人で問いかけているような不思議な時間だった。上映された植村さんの笑顔はなんて柔らかなのだろう。私は2003年、デナリ国立公園で白いマッキンリーの姿を見た時、植村さんが自然に挑んだ理由が少しわかった気がした。宇宙に突き抜けるようなその世界は美しかった。

◆その年、私は賀曽利隆さんと北緯70度18分のプルドーベイまで旅をした。その後、陸の極地とも言えるサハラ砂漠を旅し、チベットや南米にもバイクや登山で足を運んだ。その旅はいずれも当たり前だが、日常の生活からかけ離れた自然環境と生活環境で、生きてそこを通過できるか、きっと試されたのだと思うようになった。極地にはそんな懐の大きな『風』が吹いている。

◆死と背中合わせだから人間の小ささを痛感し待つことを覚え、前進や後退を学ぶ。そしてそれぞれの人がその地に行く本当の理由を教えてくれる。それが『極地』だ。植村さんの時代も今も、それぞれの『極地』を目標に、成果や記録に止まらず、勇気と謙虚さで前進している人に多く出逢えたことは、この日一番の爽やかな収穫となった。(月風かおり

ポイントホープの友人から「オレにもその写真くれ」と、会場に電話が!

■会場に入ったとたんに大きく伸ばしたウミアックの写真が目に入る。自分で撮った写真ながら迫力に圧倒されてしまい、思わず写真に撮ってFacebookにアップする。すると5分もしないうちにウミアックの先頭を漕いでいる本人(ポイントホープ在住)から電話。「オレにもその大きな写真をくれ。部屋に飾るから」あまりに素早い反応に思わず笑ってしまった。

◆トークショーでは、数枚の写真の中に情報が溢れ返っていたため、20分でどれだけ話ができるのか不安だったが、丸山さんの司会のおかげで無事に終了。いかに簡潔に端的に自分のやっていることを説明するか、ということが今後の課題かもしれない。

◆さて、今回の冒険フォーラムのテーマとなった「なぜ、極地なのか」。自分が「極地」に関わるようになったきっかけは中学生の頃読んだ植村直己の著書だった。そして気がつけば20年以上「極地」に通い続けている。自分にとっての極地、すなわち北極は、大好きな人たちがいて、大好きな風景がある、大切な場所だ。だから「極地」なのだ。江本さん、丸山さんを始めとするスタッフのみなさんのおかげで、素晴らしい展示とトークショーができました。本当にありがとうございました。(高沢進吾


11.22地平線スタッフの風景

子どもスタッフも頑張った、地平線縁の下チーム

■江本さんから「頼むぞ」と言われてスタッフをまとめる役目を引き受けましたが、決して私がこういう仕事に向いているわけではありません。地平線に古くからいて過去にも大集会で同じようなことをやっていて裏方仕事に精通していて、なによりいちばん頼みやすい私のところへきたのでしょう。

◆まずはスタッフ選びから。10月の報告会でめぼしい人に片っ端から声をかけようと思ったら、この日に限って引き受けてくれそうな人があまり来ていません。司会の丸山純さんの呼びかけに応じて、久保田賢次さんと報告者の阿部雅龍さんが申し出てくれました。

◆メールでも協力をお願いしたのですが、失敗したのは岩野祥子さんに「もし当日来られるなら、スタッフをお願いします」と送ってしまったこと。パネリストだと気づいてお詫びのメールを送ったら「何でもやります!」と心強い返信。田中幹也さんからは「私にできそうなことってあるのかな?」。大丈夫です。冒険賞受賞者にさりげなくいてもらいたかったのです。しっかり交流ひろばを守ってくれました。

◆総勢36名がスタッフとして集りました。もう当日に日付が変わった頃に「行けそうです」とメールをくれたのは村松直美さん。前日に年報とゾモTシャツを車で運んでいただいた関根晧博さんは、腰痛のため参加できませんでしたが、おかげで年報は72冊も売れました。

◆特筆すべきは、こどもスタッフの活躍です。長岡祥太郎くんと神庭美月さんは3階へ昇るエスカレーターの前で、受付でもらうシールを貼っているかをチェック、3階へ昇ると瀧本柚妃さんが大きな声で「奥の入り口へ進んでくださーい!」と案内していました。3人は豊岡市の岸本京子部長から、名誉市民のバッヂをいただきました。

◆1000人も集まるイベントがどのようなものか、全体像の見えない中で苦労したのは冒険館との調整で、担当の西村文紀さんとは何度もメールをしました。それを踏まえてメーリングリストで、一人ひとりに役割をお願いしたおかげか、みなさんで頼りない私をフォローしてくれたおかげか、大きなトラブルもなく無事に終えることができました。スタッフが一丸となり、熱気に満ちた一日でした。(武田力

[スタッフとして汗を流してくれた人びと]阿佐昭子 阿部雅龍 網谷由美子 飯野昭司 岩野祥子 大西夏奈子 緒方敏明 落合大祐 掛須美奈子 加藤千晶 菊地由美子 神庭美月(5歳。菊地由美子長女) 北川文夫 久島弘 久保田賢次 白根全 関根晧博 高沢進吾 瀧本千穂子 瀧本柚妃(7歳) 武田力 竹中宏 田中明美 田中幹也 月風かおり 長岡竜介 長岡のり子 長岡祥太郎(9歳) 長野亮之介 花岡正明 前田庄司 丸山純 村松直美 森井祐介 横内宏美 渡辺哲


地平線パワー、炸裂!!

極地は生き方を問う

■植村直己と大島育雄という極地に魅せられた2人のたどったその後が、冒険を続ける生き方と、生きることが冒険だということの対比として捉えられ、おもしろかった。人間には、社会生活に浸っていると定期的に冒険に出たくなる習性があるという捉え方があることを認めたうえで、毎日の生活そのものが冒険ならば、その毎日を受け継いでいくことが冒険なのだという視点の転換がおもしろい。大場さんや荻田さんは前者、武田さんは屋久島で、岩野さんは奈良で新たな生き方を模索する冒険を決意する。極地に一度でも踏み入れたら、生き方が問われるのだろうか。(岡山県 北川文夫

朝風呂に入り、神棚にお神酒をささげて出陣!

■舞台作品や展覧会の仕込みのときは 朝風呂に入って 仕事場の神棚にお神酒をささげてむかいます。今回も同じようにしました。だからといって 自分スキルが向上するわけではないけど。極地の「なぜ」ってことは 実はよくわからなかったのですが、たぶん、人間は、止まらない「意志の原型」のような中に生き続けていたいのだ。とおもいました。意志という言葉が妥当かわからないけど。たくさんの方々にお目にかかれ ナマに向き合ってお話しできて そのことがいちばんよかったです。「会う」ってええですね。(緒方敏明 彫刻家)

会場の図面を見ながら、誘導を練習した娘

■7歳の柚妃は人前に出るとドキドキもじもじする普通の女の子です。その子に来場者1,000人の誘導という仕事が与えられました。図面を見ながらどこに立ち何と声をかければいいか、考えては試しを繰り返し本番に臨みました。結果、別の階にまで響くのびやかな声で娘は実にいい仕事をしてくれました。自分の役割がよく解らなければ自信が持てず物怖じします。それを教えるのは親の役目ですがそれだけでは不十分です。仕事ぶりを期待されたこと、ベストと腕章を与えられスタッフの一員という誇りを持てたこと、これらが加わり初めてフルに力を発揮できました。極地を語る大きな舞台の裏では大人用ベストをワンピースのように着たチビもがんばっていたのです。(柚妃の母、瀧本千穂子

スタッフはこんなにたのしいんだ!

■ぼうけんフォーラムでスタッフをやらせてもらったのがとてもたのしくてよかったです。ゆうどうのおしごとをがんばったので、とよおか市からめいよしみんにしてもらいました。めいよしみんのコウノトリのバッジをもらいました。わたしは3がいのゆうどうをしました。おきゃくさんがくるときに「おくの入口にすすんでください」、きゅうけいのときには「トイレは2かいにもあります」、かえるときには「かわいいゾモTはこちらでうっています」とこえをかけました。3じかいのときに、いちばんはたらいたのは柚妃ちゃんだとたくさんほめられました。スタッフはこんなにたのしいんだとかんじました。(7歳の瀧本柚妃

フツフツとしたエネルギーを頂いた

■今回の冒険フォーラムでスタッフとして当日の受付を少しお手伝いさせて頂き、微力ながらも、フォーラムの運営に携わらせて頂いたこと、嬉しく思っております。今回一番注目したのが、パネリストの皆さんが極地での関わりを通して、どのように人生を歩んでいるのか、という点です。皆さん、其々の分野で精力的に活躍されてる姿を拝見し、自分自身もっと懸命に何かに打ち込んで人生を燃焼させたい、というフツフツとしたエネルギーを頂くことが出来ました。(渡辺哲 福島県いわき市)

どこ探したって、こんな必殺仕事人集団はいないよ

■毎度のことながら、今回も、「地平線って、ほんと不思議な集団だなぁ」の思いを新たにした。多彩、かつ高いスキルを持つ人々がワラワラと集まり、黙々と自分の受け持ちをこなして一大イベントを表裏で支える。しかも、自画自賛の類は一切ナシ。私が見聞きする他の現場では、文句やケンカ、仲たがいが常態なのに。どこ探したって、こんな必殺仕事人集団はいないよ。当日、私は途中でスタミナ切れを起こしてしまい、パネルディスカッション半ばで退出した。それは残念だったが、悔しくはない。私にとって、地平線自体も一つの極地、いや、極致体験なのだ。(今回は豊岡組の皆さんとお喋りする機会がなかった。唯一、それだけが心残りの、久島弘

人々が詰めかける姿に、今なお植村さんが人を魅了し続けることを実感

■鬼怒川の水害に見舞われた郷里の近くに手伝いに通い、汗を流すことの価値を実感したこともあり、丸山さんや武田さんから「スタッフ求む」とお声がけがあった際、瞬時に手をあげました。受付補助を担当させていただき、開演の1時間以上も前から多くの方々が詰めかける姿に、今なお植村さんが人を魅了し続けることを実感しました。初めてアジア会館での集いに参加させてもらったのは、植村さんがまだご存命の頃。いつも夢をくれる地平線の皆さんと時を共有でき、とてもいい機会でした。江本さん始めご尽力されたみなさん、ありがとうございました。(久保田賢次

翌日の全身筋肉痛が物語る、充実した一日

■当日の使用機材=ボディ:ニコンD3、ニコンD800、レンズ:AF-Sニッコール70-200mm f/2.8G ED VR、同24-70mm f/2.8G ED、同 14-24mm f/2.8G ED、AF DX フィッシュアイ・ニッコール 10.5mm f/2.8G ED、AF-SテレコンバーターTC-14E、望遠レンズ使用時のみ一脚を使用。結局、魚眼レンズは使用せず。機材の総重量は約16キロ。

◆壇上では、レンズ越しに一番テンパって見えたのはE本氏だったようだが、さすがに役者ぞろいで見事なまとめぶり。担当ごとに大活躍だった地平線助っ人全員の接近遭遇写真を撮るつもりでいたが、その余裕もないままあっという間に終了。翌日の全身筋肉痛が物語る、充実した一日であった。皆さま、大変お疲れさまでした。(白根全

アッパリアスに恋焦がれて

■極地に関する知識が増えて困る、と思う。もちろん報告会で何人もの話を聞いてきたおかげだ。南極は大陸でペンギンがいて、北極は海でシロクマがいるとか言っていたうちはよかった。南極海には藻みたいのが生えているとかアザラシは氷に穴を開けて息継ぎをするとかいうのもトリビアでなんか使えるかも。でも、さすがに北極を歩行中の影の状態から時刻を割り出したり、太陽が出ていないときにサスツルギで方角を定めたりする知識なんてまず使う機会がない。やばい、すっかり“耳年増”状態……! モノでも知識でも何かを手に入れるということは同時に手に入らなかった何かを再確認することだ。「発酵させたアッパリアスはブルーチーズみたいな味」。そんな荻田証言があれから頭を離れず、しかしちっとも味覚として再現できようがない。アッパリアス。仕事の合間に思い浮かべる。アッパリアス。イオンに売っていないかな。アッパリアス。ああ、アッパリアス。あれ?誰か冒険家みたいな人もそんなこと言ってなかったっけ?(菊地由美子

ほっきょくはこわい。なんきょくはぺんぎんがいるからいい

■ほっきょくのしゃしん(?)はちょっとこわかった。だってしろくまにあったらがぶっておそわれちゃうもん。なんきょくだったらぺんぎんにあえるし、ちょっといってみたいかも。ゆきだるまもつくれるでしょ。でもさむいからやっぱやだ。あのひはゆずきちゃんといっしょにすわってほんならべたときがたのしかった。もっとしごとしたかった。(神庭美月 5歳:母聞き書き)

アッパリアスの話は誰がする?

■パネルディスカッションの資料スクリーン出しを仰せつかった。進行する江本さんの頭の中の台本が直前まで(いや、本番が始まってからも)変わるのはいつものこと。開会直前に武田剛さんから「『キビヤック』の話で盛り上がったので、大島さんの話で使いたい」と鳥の写真を7枚預かった。が私は「楽屋で大場さんと盛り上がった」のだと勘違いして、大場満郎さんがいつ鳥の話をするのだろうと頭を傾げながら舞台袖でMacの矢印キーを順序よくクリックしていた。「アッパリアス」の話題を江本さんが武田さんに振ったときにはあとの祭り。大場さんではなく、大島さんだ!すぐに鳥の写真が出てこない……。キビヤックはアッパリアスをアザラシの中に詰め込み、醗酵させたもの。ちなみに大場さんは一度だけ機会があったものの、その臭いがダメで食べられなかったそうだ。私もたぶんダメだ。(落合大祐

映画「植村直己物語」の思い出

■今から二十数年前、高校の映画鑑賞会で観たのが、「植村直己物語」でした。当時の記憶はかなり曖昧になってきているのですが、映画の印象が強烈だったのか、今でもよく覚えています。これから世の中に出ていく高校生に、当時の先生方は「やりたい事をあきらめるな」と、そのチャレンジ精神を伝えたかったのだと、一人の子供を持つ親になった今、しみじみと感じています。今は難しいことはわからなくても、交流ひろばで見たり、聞いたり、感じたりした事、ちょっとでも息子の心に残っていてくれたらいいな……。(長岡のり子

展示でエスキモーの人たちの暮らしがわかりました

■ぼくは、エスキモーの人たちの道具や、動物の牙で作ったものなどに興味がありました。特に、トゥピラクに魅力を感じました。トゥピラクは、おまじないに使われています。まさか、アヤーガ、プラーッチ、トゥピラクが動物の牙で出来ているなんて思いませんでした。エスキモーのサングラスは変わった形をしていて、普通のサングラスとは全く違っていました。トゥピラクは白いガラス細工のように見えました。シロクマの爪は、太くて長くて鋭かったです。ハッコは、銛の先っぽです。ウローは、扇形をした女性用のナイフです。ぼくは、この展示を見て、エスキモーの人たちがどういう生活をしているのかが少しわかりました。寒そうで、シロクマに食べられそうなのでグリーンランドに行きたくはありません。でも、エスキモーの人たちのことをもっと知りたくなりました。(長岡祥太郎 小学4年)

僕も早くあの厳しくも美しい世界に還りたい

■極地をテーマにした冒険フォーラム。僕自身が極地冒険をしているだけにスタッフとして関わらせて頂き嬉しく思っています。僕は当日は受付補助をさせて頂きました。今でも千人近くの人を集める植村直己さんという男は今なお多くの人を魅了している事を強く感じました。厳寒の極地ですが極地熱が高まっているのをプレイヤーとして感じてます。大場さんは勿論として、ベテランの山崎さんや荻田さん、20代の若手でも極地を目指している子たちもいます。冒険のスタイルも装備も植村さんの頃から変わりました。ただ現代は現代の冒険のスタイルがあり、依然として極地が僕らを魅了する事に変わりありません。僕も早くあの厳しくも美しい世界に還りたい。(阿部雅龍

汗染みた若者がやって来るのを期待したのに……

■僕の前を、白髪頭ばかりが通り過ぎていったが、それが現実なのだろう。植村も生きていれば74才。彼らは植村を知っている。正直、僕は汗染みた若者がやって来るのを期待していた。冒険に憧れながらも一歩を踏み出せない連中が、極地なり高所なりの生の話を聞きたくて無愛想に立つ。もちろん講釈を嫌う尖った奴らもいるだろうが、それでも若者の姿の少ないことに胸騒ぎがした。植村がそうであったように、夢を抱いて用意周到に臨むのが「冒険」なら、時に無謀なパフォーマンスも「冒険」と呼ばれ、持て囃され、憧れの対象になる。もっと植村を知って、植村に連なる人たちに背中を押してもらって欲しかった。20年前の僕がそれを求めていたように……。(竹中宏 編集者)

植村直己さんの著作7冊を読み直しました

■盛大なフォーラムでしたね。お客さんも地平線スタッフの皆さんも一体となった和やかな雰囲気の中、楽しんで演奏させていただきました。ありがとうございました。さて、この機会に『北極圏1万2000キロ』など植村直己の著作7冊をあらためて読み直してみました。その冒険には、極地に生きる現地の人々との深い関わりが根底にあるのでしょう。アラスカエスキモーの団扇太鼓の伴奏で、ヤーヤーヤーと踊りまくる彼の姿もまた魅力的です。人間の居る所に音楽あり。フォーラム全体を通しては、極地とは、人間の精神と肉体のありようを最もよく映す鏡のような場所なのではないかと感じました。(長岡竜介

手を伸ばせば触れることができた交流ひろば

■2階の交流ひろばに行くと皆が手分けをして準備中。「ゾモT」を並べている隣の机に、「地平線から」のバックナンバーが積んであります。「森井さん、本の係をお願いします」で本の販売係になりました。目の前が交流ひろばのスペース。フォーラム会場の舞台は、目の前にある大きなスクリーンで見ることができます。交流ひろばの司会は丸山さん。出演は月風さん。3歩と離れていないところで南極の様子を語る月風さん。目の前をウロウロしている小柄なオッチャンがふたり目の高沢さんとは知りませんでした。北極のクジラ取りの話は秀逸。報告会の会場に足を運ぶ機会が少ない私にとって、お二人の南極、北極が手に取るように見えました。フォーラムの満席の会場もさることながら、手を伸ばせば触れることができるような交流ひろば、素敵でした。(森井祐介

雪氷学会会員、フォーラムを聞く

■実は私は雪氷学会会員です。何が悲しくて厳寒の地に調査に出かけるのか、尋常ならぬ輩たちの、超マイナーな学会です。研究発表会では極地に公費で行きたい理由づけとして、趣味的な研究を5日間にわたり発表します。金にならぬ分野ですから若手の参加者は発表会場にテントを張り参加します。彼らを強く引きつける極地の特徴は、無機質の自然により造形された景観だと感じました。植生が被覆しない、氷と雪が風など気象条件により形づくられる、著しく単純な世界。言葉で伝えるのが容易でないからなのか、冒険者は厳しい条件下でも映像を撮り続けています。大場さんがお住まいの山形県最上町のとなり新庄市に、2011年10月から2年半だけですが勤務。3冬連続の豪雪で大場さんのお話を深く理解できた気がします。(花岡正明

リヤカー中学生との再会

■会場でばったり安保創晟くんに会えたのが嬉しかったです。夏に中学生5人と大木ハカセさん(「一般社団法人N.A.P.」代表で、荻田さんの北極点事務局長)が挑戦した「ぼくらの冒険 リヤカー東海道五十三次」、その参加者の一人である創晟くん。出発から2日目の野宿先に遊びに行かせてもらったのですが、その時よりぐっと背が伸びていて成長ぶりにびっくり。「荻田さんに憧れている、極地に行ってみたい」という彼の世代がする冒険ってどんなだろうと楽しみに思いました。あと、わたしは二次会で泥酔。お会いしてみたかった高沢さんに「中学生の時、植村さんに憧れて」というお話を気づけば3度は伺っているなどタチが悪く、三次会の記憶は怪しい……。せっかくの機会なのに、反省です。(加藤千晶

前日に終わってしまった、私の冒険フォーラム

■11月20日の金曜日の夜、背中の上のほうに痛みを感じた。翌21日は、駿河台の会場にうちの車庫に保管してある地平線の年報を私の運転で運ぶことになっているので気になった。朝になったら咳をしても背中が痛い。でも、10時には武田さんが来たのでなんとか年報を車に積み込んで出発。江本宅でさらにゾモTを積み込み、会場へ。体を折り曲げるようにしてハンドルを握った。今回の私の役目はここで終わった。22日当日は息をしても背中に激痛が走り、まったく動けなくなったのだ。残念、残念、残念。連休明け行きつけの治療院に行くと「ぎっくり背中」と言われた。「ぎっくり腰」ならぬ、そういうのがあるらしい。鍼をいっぱい打たれ、少し楽になったが、それにしても残念無念。(関根皓博

印象深かったことを思いつくままに

■(1)前日、重量物搬入のために入った会場バックヤードの迷路構造。武田現場監督の指示により大西夏奈子さんと業務用エレベーターで3階へ上がるも、そこは扉だらけの空間で、開けるとトイレや別のエレベーターホールやらが現れ、なかなか目的地に辿り着けず。(2)当日、1階ホールの床に緑色粘着テープで書かれた「一旦止↑」の誘導表示。豊岡市スタッフの力作で、受付の混雑を避ける万全の準備はさすがです。(3)交流会に出た米粉カステラの輝く黄色。美味でした!(4)後日、戻ってきた北海道は一面の銀世界。当地11月の積雪量としても、「極値」だったそうです。(掛須美奈子 千歳)

年報の販売スタッフに

■当日急遽の参加でしたが、年報を手にされる参加者の皆さんの立読みからの購入っぷりにてんやわんや。文字が小さいねーと断念される年配の方々が印象的でした。居住地を関東に移してから3回めの秋。439回地平線報告会を兼ねる「2015日本冒険フォーラム」にスタッフとして参加できたことに感謝します。ありがとうございました。(lunaこと村松直美


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