■ポイントホープに23年通っている高沢進吾さん。話は、まずエスキモーという呼称について。アラスカではエスキモーは差別用語ではない。彼ら自身、自分たちの事を「イヌイット」ではなく「エスキモー」あるいは「イヌピアック」と呼ぶ(編注:カナダではイヌイットと呼ぶことが一般的)。
◆植村直己の本を中学時代にすべて読んだ、という高沢さんがアラスカへ通い始めたのは25年以上前、初めての海外旅行がアラスカだった。エスキモーの町バローへ行ってみたものの、ツアーバスからエスキモーの居住地を見る程度で不満だらけのものだった。そこで今度は1人でエスキモーの町コツビューへ行き、海岸にテントを張り、地元の人たちの行うサケ漁などを見たり、話をしたりして過ごした。
◆コツビューへ2回ほど行った後、もっと小さな町へ、と思い、空港で行先を見ていると、かつて植村直己の本で見た地名があった。ポイントホープだ。その海岸でテントを張っていると、外国人が珍しいのか子どもたちが遊びに来る。ときにその子どもたちにいたずらをされることもあった。2日目の夜、大人がやって来て、何か言っている。当時はまだ英語は苦手で、よくわからなかったが、「家に来ないか」と言ってくれているようだ。その夜はその人の家に泊めてもらい、また遊びにおいで、というので、ポイントホープに通うようになった。
◆当初アラスカ通いは、サラリーマンとしての夏休みを利用しての短期滞在に過ぎなかったが、2000年に会社を辞めたことをきっかけに、ポイントホープに長期滞在するようになった。ちょうどその年、ずっと世話になっていた友人がクジラ組のキャプテンに。高沢さんが現地入りしたのは、彼がクジラを獲った数日後でクジラの解体はあらかた終わっていたが、その後の処理等を手伝うなかでクジラ組の一員として認められ、翌年からはクジラ猟に加わるようになった。
◆一体、クジラ猟とはどんなものか。高沢さんは写真と映像でクジラ猟でのチームの仕事ぶりやクジラ祭りの様子を詳しく解説してくれた。クジラ猟を行うクジラ組とは、キャプテンに率いられたチームで、何組かが共同でクジラを狩る。猟の季節は4月上旬から6月上旬。春、北極海の氷が緩んでクラックができ、そこを北上するアグヴィック(ホッキョククジラ)を狙う。
◆海岸からキャンプまで、乱氷上にスノーモービル用トレイルを人力で整備し、大きなクラックに面した氷の上にキャンプを作る。テントやコータック(風よけの布)を張り、氷や雪の上でカモフラージュとなる白い上着カッティグニスィックを着て海を見張る。ボートは、伝統的にはアゴヒゲアザラシの皮を張った大型オープンデッキカヌー、「ウミアック」を使う。
◆パドルの先端が尖っているのは、海に薄氷が張ったりシャーベット状になった時にウミアックを漕ぐ際、海面にパドルを差し込み易いためではないか、と高沢さんは考えている。このパドルの先を海に入れて、柄の部分に耳を当てると、クジラの鳴き声など水中の音が聞こえる。会場ではゴープロ(GoPro ヘルメットカメラ)を水中に入れて録音した貴重なクジラの声が流された。
◆食料としてベルーガ(シロイルカ)等の海獣も狩る。ベルーガはライフルで撃ち、沈む前にフック付きのロープを引っかけて回収する。キャンプにはホッキョクグマが現れることもある。ホッキョクグマは彼らの狩猟対象の一つだが、大物のクジラを狙っている最中は、解体に手間のかかるホッキョクグマを狩っている余裕はないので、ホッキョクグマの足元にライフルを撃ち込んで追い払うのだそうだ。
◆クジラが現れたらボートを出し、クジラを追う。クジラに打ち込む銛の先端には火薬が入っており、銛の先端が当たれば銛の頭がクジラに撃ち込まれ、体内で炸裂する。傷ついたクジラを追跡しながら数本の銛が撃ち込まれ、絶命に至る。獲れたクジラは何艘ものボートで引き上げ場所まで曳いていく。獲れた場所が遠いと何時間もかかる。
◆氷の縁まで曳いてきたクジラを引上げる前に、解体の目印として長い柄付きナイフで切れ目を入れる。その際、マクタック(皮と皮下脂肪)を切り取って茹で、作業に集まった人たちに振る舞われる。そして氷の厚い場所を選んでクジラをロープと滑車2組を使って大勢(かつては町中総出)で氷の上に引上げる。引き上げは2、3時間かかる作業だが、氷が薄いと体長1フィート当たり1トンとも言われるクジラの重みで、氷が割れることもあり、そうなるとまたやり直すことになる。
◆解体作業はこの体長15mのクジラで丸3日かかった。クジラ肉の分配ルールは、尾鰭が最初に銛を打った組のキャプテンの取り分である等、伝統的に決まっている。かつては人が食べない部分も、犬橇用の犬の餌や、脂肪層を燃料にするなど、無駄なく利用されていたが、今は氷上に放置される。解体終了後、クジラの頭の骨を海に帰す。こうすればまたクジラになって戻って来てくれる、という伝統的な考え方による。現在では皆クリスチャンで伝統的な宗教とは無縁になってしまったが、この習慣は今も守られている。
◆解体されたクジラ肉は新鮮なうちに食べるだけではない。尾の身を永久凍土に掘った地下の天然冷凍庫に入れて熟成させる。秋に最初の氷が来た時に町の人々に振舞われるのだが、とても匂いが強く「砂糖と一緒に食べたら死ぬ」と言い伝えられている。他にも血とマクタックと肉を熟成させてミキアック(高沢さんのエスキモーネームでもある)というものを作る。
◆エスキモーの文化、伝統も日々変化している。ボートは2005年頃にはウミアックとモーターボートを併用していたが、2015年現在ではウミアックはほとんど使わずモーターボートが主流になっているそうだ。また、現在のエスキモーは近代的な家に住んでおり、キャプテンの家のキッチンは広く、皆でミキアック作りの作業ができるほど。また、今では多くの家庭に炊飯器があり、クジラ肉、魚、牛ステーキ等の付合わせとして米飯が食べられている。
◆6月になり氷が薄くなると、北上するクジラもいなくなり、クジラ猟のシーズンは終わって、ウグルック(アゴヒゲアザラシ)猟の季節が始まる。ボートからライフルで撃たれたアザラシは、沈む前に銛を打ち込み、顎にロープを掛けて陸へと曳航していく。ウグルックは皮をウミアック用に、皮下脂肪をシールオイルとして利用する。肉は干肉や茹肉等として食べるが、寄生虫が多いせいか生食はしない。
◆ウミアックに張るためのウグルックの皮は女性が縫い合わせる。縫い方も特殊で水が入らない様になっている。ウミアックには8頭分位の皮が必要で、基本的には毎年張り替えるので、沢山獲って来るように、とキャプテンは奥さんに尻を叩かれることもある。もっとも、最近はウミアックの使用頻度が下がっているため、2、3年に1回の張替えで済ませるようになっている。
◆夏にはウミガラスの卵採りもする。高い崖に産卵するので、体の軽い高沢さんがロープで断崖に吊下げられて、ラクロスのラケットのような道具で卵を1個づつ集める。採集できる期間は1週間から10日間位で、今年は3回崖に通い、70〜80個程採取した。これでもまだ少ない方で、1回で100個以上採ることもあるという。味は鶏卵よりも濃厚で美味しく、高沢さんはこっそり卵かけ御飯にして何度か食べたそうだ。他に陸上での狩猟としては、カリブー猟も行なう。
◆クジラ猟の後、6月中旬に「クジラ祭り」が3日間に亘って開催される。初日はミキアックがやって来た全ての人に配られる。2日目にはアヴァラック(尾鰭)の薄切りが、クジラ猟のキャプテンからクジラの猟に係った人たちに配られる。アチャック(自分と同じ名を持つ者)やウーマ(自分の配偶者と同じ名を持つ者)と呼ばれる人たちにも配られる。かつてエスキモーの間では、「名前」はとても大切なものだったことの名残りだろう。
◆クジラ祭りではエスキモーダンスも踊られる。ドラム(クジラやセイウチの肝臓の皮を張った大きな団扇太鼓)で伴奏し、それに合わせて歌い踊る。男踊りと女踊りがあり、女性の踊りは日本の盆踊りに少し似ている。ナルカタックと呼ばれるブランケットトスは、輪になった人がウミアックの皮で作ったナルカタックを持って、人を天高く放り上げる人力トランポリンだ。今ではクジラ祭りの時にぐらいしか行われなくなったが、本来は平らな氷原で遠方を望見する為の技術だったらしい。
◆よくケガ人が出るそうで、毎年救急車が待機している。高沢さんの映像の中では、マスクラットやクズリの毛皮等で手作りした晴れ着を着た女性(この1年の間に男の子、男の孫が生まれた女性)が、ナルカタックで飛びながら餅撒きの様に色々な物を投げていた。結構高価な物も投げられるのだが、それらを拾えるのは70歳以上の女性だけだ。
◆次々に言葉と映像で伝えられる極北の世界の現実。会場には、ウミアックの皮の一部やホッキョククジラのヒゲ、高沢さん手作りの模型(ウミアックとそれを載せるソリ)も持込まれた。現地では猟に出られない時など結構ヒマなので、ウミアックの模型を作ったり家事などを手伝うそうだ。他にもウル(女性用扇型ナイフ)、クジラの解体図を描いたトートバッグ、アザラシやウミガラスの絵を描いた手拭等(すべて高沢さんが作ったもの)も販売された。
◆「極寒 零下40℃ アラスカの鯨狩り」というDVDの販売もあった。これは1976年のテレビ番組のフィルムが知人の映像制作事務所で発見されたもので、それを高沢さんが解説を付けて自分で売っているという物。このドキュメンタリーが伝える猟のやり方は当時と基本的には変わっていないという。この映像をポイントホープの人々に見せたところ、現在の物よりも薄いオーバーパンツや、強風や降雪の中でも猟をする当時の姿を見て「寒い、寒い」と言っているそうだ。
◆質疑応答では、高沢さんが通い続けるポイントホープの15年間の変化や、現在のエスキモーの状況の話が中心になった。この15年間で海氷は明らかに薄くなり、今年は特に薄く、海獣の様子もいつもの年と異なっていた。ポイントホープは人口約700人(ピーク時は約900人)の小さな町で、アメリカ大陸で最初期に人類が定住したのではないか、と言われている地域。海獣の肉は売買が禁止されており、皆現金収入の為に猟以外の仕事をしている。
◆石油の配当金なども各人に入るため生活は比較的豊かで生活保護は貰っていない。配当金でアンカレッジへ行きショッピングしたり、ディズニーランドへ旅行する人もいる。また、ポイントホープはドライビレッジ(酒類禁止地域)なのだが、酔っ払って喧嘩をして逮捕される人もいる。
◆現在ではクジラを獲っても利用せずに捨ててしまう部分が増えたし、若者は、ハンバーガー等が好きでクジラ肉やアザラシの肉をあまり食べなくなった。とはいえクジラ猟を続けているのは、食料確保、そしてクジラ猟師だというアイデンティティのためだろう。肉をあまり食べなくなったとはいえ、マクタックは今でも皆の大好物であり、クジラが全面禁猟になった場合に備えて代用品が作れないかと考えているほど。
◆なお、我々のイメージと違って、ポイントホープの人達は、あまり生肉を食べず、茹で、干し、熟成、冷凍などして食べる。彼らにとっての冷凍肉は日本人にとってのサケルイベと同じく調理法の一種で生肉ではない。同じエスキモーとはいえ、食べる動物の種類や食べ方は、場所や地域によって結構違うのだ。あっという間に過ぎてしまった150分の報告会。高沢さんのHPウェブサイト 「Arctic Town of Alaska」、ブログ「カイジュウノツカマエカタ」に、さらに詳細に書かれているのでぜひ参照して欲しい。(松澤亮)
■これまで聞く側として時々参加していた地平線会議。ここで報告する人たちは、自分にとって憧れの人たちだった。そんな場所に無名の自分が報告者として参加することになるとは、一度も考えたことがなかった。関係者の方々、集まって下さった方々に改めてお礼を申し上げたい。
◆エスキモーという名称を知らない人はいないと思うが、今もイグルーに住んで狩猟をし、生肉を食べて生活していると思っている人が多いのではないだろうか。そんなイメージを覆すべく、現在のエスキモーについての話をさせていだいた。我々日本人が西洋文化を吸収しながら、良くも悪くも日本独自の文化を保ち続けているように、彼らも西洋文化を吸収しながら、自分たちの文化を保ち続けている。
◆15年間ポイントホープの猟に関わり続けて気が付いたことは、文化というのは常に変わり続けていくもので、誰にも止めることはできないということ。例えば今回の話の中心となったクジラ猟。形態は変わりつつも、有史以前から現在に至るまで、延々とクジラを捕り続けているが、近年、ウミアックの使用頻度は減り続け、モーターボートが主流となっている。
◆食べるものの変化は最近始まったことではないが、近年、野生の肉を食べる量は明らかに減っている。若者は野生の肉よりもハンバーガーが大好きで、電子レンジで加工する冷凍食品、炭酸飲料も欠かせないものになってしまっている。日本人の自分がアゴヒゲアザラシを食べている横で、居候先の主人はハンバーガーを食べていることもある。そんなときは「どちらがエスキモーなんだ?」とお互い笑い合っている。
◆初めてポイントホープを訪れた際に1歳だった女の子は、今や男の子の母親になり、最初に仲良くなった友人を始めとする多くの友人知人が天に召されてしまった。ポイントホープに係るようになって、長い年月が経ったと感じるが、この先も彼らが自分のことを受け入れてくれるのなら、彼らと一緒に猟を続けながら、変わり続ける彼らの文化を見つめて行きたいと考えている。
◆今回、自分の話がどこまで参加者のみなさんに伝わったろうか。写真を見ながら思いつくままに喋ってしまったので、勘違いされたり、理解できなかったりしたことも多々あるのかもしれない。クジラ以外の猟の話、食べ物や文化の話などを聞きたいという方がいらっしゃるようであれば、また報告会へ呼んでいただけると幸いです。(高沢進吾)
|
|