今年4月25日にネパールを襲ったマグニチュード7.8の巨大地震。ネパール中西部(カトマンズ北西77キロ)を震源とするこの地震は、ネパール国内で9000人近くが死亡、50万戸が全壊する甚大な被害をもたらした。
なかでも壊滅的な被害を受けた地域のひとつが、貞兼綾子さんと縁の深いランタン谷(村)だ。今回の地震では地すべりと雪崩で谷の大部分が土砂に埋まり、4つの集落のうち2つの集落は全戸倒壊。131世帯671人の住民のうち4分の1にあたる11世帯175人を失ったという。
1975年以降、40年にわたって谷に通い続ける貞兼さんは、地震1か月後の5月21日から1か月間ネパールに滞在。カトマンズの仏教寺院イエローゴンパの避難所でテント暮らしをする村人を訪ね歩いて安否を確認し、若いリーダーたちと復興に向けた話し合いを重ねてきた。その大きな議題は、戻れない村にかわり新しいランタン村をどこに移すかということ。候補地は同じ谷筋を中心にいくつも挙がっているが、現在まで決定に至っていない。その理由について貞兼さんはこう言う。「候補に挙がった場所も日本の地質学者や氷河に詳しい人に聞くと、崩壊の危険性があるとわかって却下されている。いま日本でハザードマップを作っているが、ランタンの人たちはそれを何よりも期待している。(9月末ごろに)雨期が明けて政府が道路を作り出す前には村をどこに置くか決めるようです」。
ところで、貞兼さんが魅せられたランタン谷ってどんなところなのだろうか。村の歴史はおよそ350年から400年。行政上は「タマン」という部族に分類される住民の中にはチベットから来た人も多いそう。カトマンズの真北、チベット国境近くに位置し、U字谷の底を流れる川の片岸の台地に村が置かれている。高度は3500〜4000m。ランタンの「ラン」はチベット語で「牛」、「タン」は「険しい道」で、「牛が険しい山道を登っていった」という意味だとか。かつて某登山家に「世界で最も美しい谷のひとつ」と賞賛されたことで有名で、ヒマラヤ山脈の山並みと高山植物を眺めながらのトレッキングは人気が高い。
もともとはヤクやゾモ(ヤクと牛の交配種の雌。雄はゾ)などの牧畜や農業が中心の社会だったが、そうして観光化が進むとともに家畜や農地はホテルやロッジ、ティーハウスなどに姿を変えていった。「ミルクは1リットルの値段は20年も変わらない。なのにホテルやロッジの紅茶1杯はミルク1リットル分の何倍にもなる。やっていられない気持ちになるのも理解できる。そうやってどんどん家畜を手放し、お金により価値を置く傾向が強まっていた」。震災前には、夏の放牧の拠点であり、近年はトレッキングのベースにもなっていたキャンチェン周辺に34軒の施設が建っていたという。
貞兼さんとランタン谷の付き合いを語る上で外せないのが、自身が代表を務めるボランティア団体・ランタンプランの活動だろうと思う。ランタンプランは86年、薪に替わるエネルギー源として小規模水力発電の導入などの支援を行うために発足した。それに先立つ75年にランタン谷が国立公園に指定されたのに絡み、環境保護の機運が高まった85年には薪を使う村民は丸ごと立ち退くようにと政府が指示。困った村長が貞兼さんに助けを求めたのがきっかけだ。
ランタンプランは87年から93年の間、キャンチェンのロッジで氷河のわき水を使った小規模水力発電の試験運用を実施し、94年には村に公民館を建てて通電、夜間学級で識字教育も行った。その後99年から2006年にかけて村の全戸に配電するとともに、電気を使ったチーズやパン作りのための工房を建設、日本の職人に指導を仰いだ。送電線を張る際には谷の景観を守るために山沿いに通すことにも留意させた。それらのプロジェクトはようやく貞兼さんたちの手を離れ、安定した運営が可能になったところだったのだろう。ひと通りの歴史を話し終えると貞兼さんは、でも、と小さくつぶやいた。「そんなのもみんな氷河の下に埋まってしまった」。
手元に残ったものもある。40年間に出会った人たちを収めた写真の数々だ。その一枚一枚をスライドに写して、貞兼さんは懐かしむように彼ら彼女らを紹介していった。それは途中から静かな弔いの言葉に変わっていった。
たとえば仏教者の夫とチベットの北東部出身の妻。妻はもともと前夫とラサに巡礼に来ていたが、土地の女性に心を奪われてしまった前夫が逃げてしまい、ひとりぼっちになったところを仏教者の彼に助けられ、政情不安のチベットから一緒に国境を超えてランタン谷までやって来たのだという。そして、90歳近くになるまで息子夫婦とゴンパ地区に暮らしていたが、今回の壊滅的な被害の犠牲になった。いつか故郷のチベットに、と願いながら、叶わないまま異郷の地に果ててしまったのだ。
ランタン公民館運動を担って来た有能な若者たち6人組は、30代終わりから40代半ばの働き盛りだったが、うち二人しか残らなかった。「これがわたしの両腕で、これがわたしのブレーンだった。こういういい人たちが亡くなって本当に悔しい」。
イエローゴンパで撮った写真の中の人たちは、どの人も身近な人を亡くしていた。「彼女は夫を亡くした」「彼は妻を」「この夫婦は弟を」。積み重なっていく死の数が、ほんとうに小さな社会の中に多くの犠牲があったという事実を突きつける。
そして、貞兼さんが「わたしのファミリー」と呼ぶ下宿先の家族写真。86年ごろに撮られたものだといい、後方に当時30代の父と母、前方に貞兼さんが「息子」と呼ぶ長男を含む4人の幼いきょうだいが行儀よく並んでいる。この家族も父と息子(長男)だけが生き延び、4人が亡き人になった。
いま、貞兼さんのもとには家財一式とともに思い出の写真を失った友人(故人)の子どもらから、フェイスブック経由でリクエストが次々に舞い込む。それに応えてアルバムを総ざらいしては写真を送ってあげているそう。そのうちのひとつなのだろうか、フェイスブックに載せた古い写真の解説には、「残されたものが家族や隣人たちにどんなに愛されていたかを伝えられたら」と書き込んだ。
ランタン村の復興に向けた動きはこれからが本番だ。まずは移転先を決めること。一軒の建築費が240万ルピー(約250万円)かかる家を116軒も新築しなくてはいけないこと。失った畑や、震災と春の大雪で死んでしまったヤク200頭やゾモを少しずつでも買い戻して生活を立て直すこと。
厳しい状況だが、貞兼さんは残された若いリーダーたちに期待をかけている。1か月のネパール滞在中に「素晴らしいと思った」と話したことがあった。それは震災後に村人が一人残らず全員、同じ場所に避難したこと。そして集まった寄付を皆の前で平等に分けたこと。「震災前の村では考えられないくらい民主的なやり方が存在していて、わたしはここで一体なにを手伝えばいいんだろうかというくらいだった」。
貞兼さんが願うのは、かつてのような牧畜と農業を中心にした慎ましく、平等な社会を取り戻すことだ。「富が集中する社会は何かがあったときに助け合うことができない。でも今回お前たちは(避難先の)カトマンズでうまくやったじゃないか」。そうハッパをかけ、アドバイスを続ける。
ミルクを高く買って乳製品を作り、外国人トレッカーに買ってもらえば、ゴタルー(牧畜専従者)の支援になる。充分に暮らしていけると分かれば酪農をやる人がもっと増えるかもしれない。さまざまな支援を平等に分けるためには協同組合を作るのがいいだろう。そんなアイデアも進行しているそうだ。
そして、貞兼さんは最後にこんな話をした。
「1か月が経ち、支援が70%に減った、3カ月もしたら皆忘れてしまうだろうと息子が言う。嫁の兄も自分たちはどこか外国にでも移住した方がいいのではないかと言ってきた。確かにあの光景を見た人は誰もが住めないと思ったかもしれない。わたしたちが差しのべられるものは大きくはないけれど、続けていくこと、忘れないでいること、支援しているというメッセージを送り続けることが大切だと思う」。
これから谷の彼らがどういう未来を思い描いて、どういう村を作っていくのか、わたしも是非知りたいと思う。震災ですべてを失ったチベットの小さな谷に、牧畜を中心とした新しい平等な社会が実現できたなら、それは異国に住み、大きな震災を経験したわたしたちにとっても希望の灯になるのではないだろうか。(菊地由美子)
今晩、久しぶりにネパールのテンバと電話で小一時間話しました。テンバは、私がいつも’カトマンドゥの息子’と呼んでいるランタン村生まれの38歳。前々号地平線通信でも触れたと思うけれど、わがヒマラヤの谷の村の忘れがたい友人、リクチーの長男です。
電話の主旨は、日本の研究者がようやくハザードマップを作成してくれたので、添付メールを受け取ったかどうかの確認でした。27頁にもなる本格的なもので、これから新しい村を作るのに、絶対不可欠。彼らが待ち望んでいたものでした。まだ若干の不備はあるものの、今秋現地調査を予定している研究者たちが現地で確認しながら、補正してくれるというおまけ付き(と言ってもよいと思います)。
ハザードマップの話から、帰村への行程進捗状況、新しい村に建設されるモデル住宅のことや住宅資金のこと、そして「ゾモファンド」のこと。これは、結構議論になりました。ヒマラヤ地方でなぜ牧畜が衰退の傾向にあるのか?なぜランタンの牧畜専従者が近年減り続け、観光業に鞍替えしているのか?テンバの答えは明快でした。得られるキャッシュが労働に見合わないから。そこで、私はランタンの牧畜を魅力的な酪農に変えたいという持論をとうとうと語って聞かせたのでした。お電話から伝わるのは、多くの村人が観光地として再生したいという機運があって、そこにはわずかに残ったゴタルー(牧畜専従者)たちはますます縮小されてゆく危険性さえ伺われます。
この小さな村の経済は、私の知る限りでは、70年代は牧畜と農業が半々、80年代末からはそこに観光業が参入。つまり牧畜は三分の一に縮小、ロッジ経営に乗り出すものが現れ始めました。そして2006年からこの4月25日の大地震までの10年間はほぼ100%なんらかの形で観光に依存する経済に移行していたと思います。
観光地としての整備もできていないのに、チチ(母方のオバ=私のこと)はどのように牧畜を復活させようというのか!? テンバは半信半疑だったと思います。私も明快に答えました。
[a]酪農の谷にする [b]新しい乳製品の開拓 [c]市場を拓く
これは「ゾモファンド」の先に描く未来ですが、遠い先のことではなく、ゾモを増やしつつ実現すべきものだと考えます。来週半ばには、吉備高原吉田牧場の吉田全作さんをお尋ねして、具体的な組織作りから教わってくる予定です。吉田さんは、農家作りのチーズでは日本一といわれるチーズ職人。1999年からランタンプランに参画いただいてきました。来年の搾乳のシーズンに再び、吉田さんに現地で指導いただけるように、私もゾモ購入時期前に現地に飛ぶつもりです。
しかしともかく、まずは「ゾモファンド」。地平線の友人たちのあっと驚くゾモTシャツのアイディア《ゾモ普及協会》。長野画伯のステキなデザインとともに、友情と協力の輪が限りなく広がってゆきそうな予感がします。
さて、報告者のひとこと
「ゾモ1頭の値段はチャリースハジャール・ルピア」
NRS.40,000 =JPY45,296」(これは9月11日の交換レート、約45000円)
8月28日の報告会で言い残した大切なことが幾つもありました。特にランタンワ(ランタン谷の村人)の民族的な位置づけについて。これはまた、別の機会にお話させてください。(貞兼綾子)
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