■2015年6月の報告者は月風かおりさん。風情のある名前にふさわしい、ほっそりした美しい女性だ。この人がいったいどんなことを話すのだろう……。会場内には期待感以上に不思議感が漂っていた。
◆南極に行きたい、そこで自分の表現を試みたい、と願っていた月風さんに願ってもない情報が舞い込んだのは2014年8月だった。ニュージーランドで隔年に開催されている南極に関する国際会議に参加中の国立極地研究所の副所長である本吉洋一教授から突然メールが舞い込んだのだ。会議会場の片隅で非常に興味深いポスターを見つけたという。それは、アルゼンチンの外務省下にある国立南極局が行うアートインレジデンス(南極に芸術家を送り込んで活動してもらうという企画)がもう10年にわたって続いているということを紹介するものだった。
◆メールには、残念ながらあなたが日本の「しらせ」に乗って南極に行くのは芸術枠のない現段階では非常に難しいが、自国のみならず他国の人まで南極に送るという国があるのでぜひ検討してください、と添えられていた。申込期限まで10日弱。頑張って苦手な英語で動機やプログラムを徹夜で書いた。何とか提出したものの、参加条件である「帰国後の自国展示会」の会場選びができておらず、申込期限を過ぎてからの抽選を例外的に待ってもらえたことなど、バタバタな中にも好意と幸運があり、なんとかプログラム参加できることに決まった。
◆10月に参加が決定してからの1か月半、慌ただしく準備をし、12月29日に日本を出発し、1月3日にブエノスアイレス到着。同行のグループは全員女性で、7人のアーティスト、2人のキュレーター(学芸員)、1人の通訳という構成だ。アーティストの内訳は、アルゼンチン人4人、日本人、オランダ人、コロンビア人がそれぞれ1人。
◆そしてついに南極大陸に移動する日がやってきた。輸送機の荷物の間に科学者、軍人、アーティストがひしめき合って乗り、ブエノスアイレスから5時間かけてリオガジェゴスにある空軍基地に行く。リオガジェゴスはウシュアイアという南米最南端の町から北に250kmのところにある町だ。ここパタゴニアは風が強く、飛行機が飛べなくなることがたびたびある。月風さんたち一行もここで2泊することになった。そして、リオガジェゴスから天候を見計らって南極マランビオ基地へ。間には大荒れするドレーク海峡があり、通常3時間の行程に5時間を要した。
◆マランビオ基地は露岩が多く雪が少ないので離発着に有利な地形になっている。ほとんどのアルゼンチンの機はまずここに到着して南極に6つある恒久基地に発つという。嵐が来たため一日延期して少し北に上がったエスペランサ基地に行く。昭和基地が島の北東にあるのに対し、エスペランサ基地は北西に位置し、南極半島の突端にある。マランビオ基地から90kmの距離を45分かけて雪上機で飛んだ。
◆基地には40数棟の建物があり、そのうち人が住んでいるのは13棟だ。その時は軍人、季節研究者(科学者)、そして月風さんたちアーティストがおり、夏休み中で本土に帰っている人も多かったため人口は50人ほどだった。居住棟以外には、気象棟、地学棟、医療棟、学校、博物館、ラジオ局、教会など、辺境とは思えない充実した設備が整っている。
◆基地内には驚くことに、図書館や暖房を完備した軍人の子供のための学校がある。1978年に大きな意味を持って設立されたという。現在アルゼンチンが南極地域の一部領土を主張しているが、それはイギリスが主張する領土と重なっている。1959年に南極条約ができ、それまで領土問題を争っていた国々がそれを機に主張を凍結した。アルゼンチンは南極条約には加盟しているが、来るべき将来南極の領土主権を主張するために、学校や病院を作って何年にもわたって人を住まわせてきたという「実績」を作っているのだ。しかし月風さんは政治的な問題は度外視して素直な気持ちで活動しようと思った。
◆エスペランサ基地の野外活動にはいくつか守らなければいけない決まりがある。まず一つ目は、外に出るときは各自必ず研究者を伴わなければいけないということだ。基地は東西150mの間に氷が解けてできたクレバスが数多くあり危険だからだ。もう一つは自分からペンギンに5m以上近づいてはいけないということだ。ただ、エスペランサ基地は営巣地の中にあるため、ペンギンの方からひょこひょこ来てくれることもあり、そういう時は至近距離で撮影できる。夏のエスペランサ基地には子育てをするアデリーペンギンやゼンツーペンギンが多数いる。その数なんと5km2に300万羽。研究者はペンギンの家族に番号をつけて管理している。
◆基地内の視察と野外活動をやりながらアーティストたちは活動の日を待つ。事前に提示しているプログラムに基づいてキュレーターがいつ誰がどこで何をするかをアレンジし、それに必要な準備も軍人と打ち合わせて考案してくれる。エスペランサ基地に入ったのが1月6日、そしてようやく月風さんのパフォーマンスにゴーサインが出たのは1月26日だった。当日は朝から準備をして雪上車に乗り込む。
◆南極大陸のイメージとかけ離れて月風さんの氷河上でのパフォーマンスは和服を着て行う。朝5時に起きて自分で着付けした。ほかのアーティストも手伝いのために同行する。移動中伴走していたスノーモービルが緩んだ雪に突っ込むというアクシデントがあり、1時間半かけて氷河上に降り立った。
◆ここからは月風さん1人だ。着物をはしょって筆を持ち、分厚い氷河の上の雪原に準備をしに行く。精神統一し、筆のところまで歩く。仲間が撮った写真には、凛としたたたずまいの月風さんが写っている。強い風が吹く南極にあって、月風さんだけが静寂に包まれている感じがする。書く文字はあらかじめ決めていた。「風(ふう)」「道(どう)」「開(かい)」の3文字だ。芸術の新しい風の道をここに開きたかった。つまり、自分がこの地でパフォーマンスをすることによって日本人の心意気を示し、新しい分野がここで開かれるということを見せたかったのだ。
◆間際まで温めていた墨と、氷河に広げた10mの白い布がある。そしていざ入筆し、「道」を書いているときに雲が一瞬にして切れ、日が照りだした。見事な表現の風景だった。月風さんにとって写真に入りきらないほどのスケールの大きい空間で書くということは夢だった。その夢をかなえるため、しらせに乗り日本隊として南極に行きたいと思っていた。しかし果たして日本隊でここまでのことができただろうかと考えると、アルゼンチン隊として南極に来たことが非常に恵まれた結果につながった、と強く感じたそうだ。
◆次は、毛筆とは一転して「インスタレーション」のパフォーマンスだ。現代アートの用語で、空間をも作品の一部にするというジャンルの芸術。終わってしまえば作品のように残ることがなく、現場で見ている人にしかわからないパフォーマンスだが、写真や映像でその様子を発表するのがインスタレーションの特徴だ。ポールを南極点に見立てて刺し、その周りに紐を引いてコンパスのように動いてサークルを作る。サークルは地球の輪郭で、輪郭の真ん中に軸がある。今自分は南極点にいるというイメージだ。
◆このとき吹雪でホワイトアウトになったことでかえって幻想的な雰囲気が生まれた。筆でサークルを描くというイメージで、しかし実際は草履で雪を削って自分の足で描いた。天候が変わって猛吹雪になり、周りでキュレーターたちがかたずをのんで見守っていた。もういちどサークルの中に入り、吹き降ろされてくるすべての風が南極点に集まるというイメージでポーズをした。これがひとつの作品の終わりだ。パフォーマンスの最初と最後に一礼するのを見て、周りの人たちは日本の精神世界を知ったと感動してくれた。お辞儀や手を合わせる動作、静と動の使い分けなどはいつも明るいラテンの人たちにとっては不思議なことなのだ。報告会の会場は静まり返り、やがて拍手が沸き起こり、しばしの休憩に入った。
◆後半は、月風さんが掲げる「風書(ふうしょ)」という芸術活動について、そして今まで旅した場所とどんな作品を作ったかという話に移る。風書というのは月風さんの造語である。旅が好きで旅をしながら風景や感動を墨で表したいということで2002年にスタートした「風」がテーマの活動だ。なぜ風の書というかといえば、大きく分けて二つの理由がある。
◆初めて風を意識したのは幼少期。10歳のころ当時住んでいた愛媛県新居浜市をきわめて大きな台風が通り過ぎた。夏休みの宿題をやっていたところ、突如屋根瓦が飛ばされ家が半壊した。普通の人なら怖がるところだが月風さんは興奮した。その頃家や街を壊すのは大魔神かゴジラだけだと思っていたのに、形がないものが家を壊したことでどうしてだろう?と興味を持った。台風が来るたびに風を確かめる!と喜んで家を飛び出す変わった子供時代だった。
◆そのころの体験から風に対して大きな興味を持ち始め、大人になって書道をやるようになってから「風」の字源を調べてみた。漢字は中国から伝来したが、風の元々の字は凡(せいふ)の中に鳥の字を配した鳳だった。昔中国では天空の鳥が風を起こすと信じられていたからだ。そして時代を経て説文解字(せつもんかいじ=最古の部首別漢字字典)ができたときに鳥が虫に変化した。その書物の中に「風吹いて虫生ず」、すなわち風が吹くことによって生き物が発生するという説明があり、虫の字に変わったのだ。
◆日本に風という字が伝来したのはその後である。以来日本人は目に見えないものを「風」で表してきた。最初に風が吹くことで風土ができ、風土ができることで風習が生まれる。風習が生まれるとそこに生きる人に作用して風貌、風格を作り出し、そして風紀が生まれる。日本人は風という字を駆使して目に見えないものを言葉として作り出してきた。そして、月風さんは風を追う。世界各地の風を感じに旅に出る。そこで風を使って風書を描くことを活動のメインに据えたのだ。
◆世界の辺境と言われるところを自分らしい方法で旅をして、そこで感じてきたものを帰国後に描くという芸術活動もしている。そこでこれまでの旅を「風景と出会う」と題して紐解いていく。月風さんの旅の手段はオートバイが多い。初めて旅したのは2002年の北米横断。そして2003年の旅はアラスカ半島を縦断して北極海までを賀曽利隆さんと旅した。北緯70度31分のところまで伸びているアメリカのパイプラインに沿って走るダルトンハイウェイを走行する旅だった。
◆2004年から2005年にかけてはアフリカのサハラ砂漠を賀曽利隆さんと縦断した。賀曽利さんと別れた後も他の仲間とモーリタニアルートのヌアディブからヌアクショットの砂漠を走り抜け12000キロ北上した。ネパールの旅は、道路が完備されてなく悪路の連続だった。ヒマラヤの中腹2500mぐらいからダウンヒルする自転車の旅だった。チベット横断の旅も賀曽利さんと行った。西安→敦煌→ラサ→カシュガルの合計6500kmをオートバイで横断した。
◆日本からオートバイを持ち込めなかったので、現地にある日本製のオートバイをかき集めそれを借りての旅だった。パキスタンに近い一触即発の非武装地帯も走った。2008年にチベット暴動が起こり、その翌年の横断だったので公安警察の検問が厳しく何度も引っかかった。
◆旅はいいことばかりではなく辺境に行くと数々のトラブルが起こる。様々な風習、風俗、習慣の違いに大いに惑わされることがある。それを「異風を知る」と名付けて紹介してくれた。アラスカ半島縦断中に遭遇した猛烈な蚊柱、チベット横断中に敦煌からラサまでの3000m以上を一気に1週間で登る行程で苦しんだ高山病、南米ギアナ高地のロライマ登山で襲ってきた吸血虫プリプリ。サハラ砂漠の一本道でテレビの突撃取材を受けたこともあった。
◆女人禁制のモスクの敷地に一歩立ち入ってしまい怒ったイスラム教徒に追いかけられたり、穴があいた燃料タンクの修理を頼んだのに、突然メッカに向けてお祈りを始めたモーリタニア人にびっくりしたり……。戸惑うことも多いけれど、特に宗教の違いには気を使わなければいけないと自省したりもした。
◆トラブルだけではない。月風さんが「旅はいつも最後には人に行きつく」とおっしゃるように、温かい出会いもたくさんある。5200mの峠をバイクで超えてドロドロのびしょびしょで凍えそうなときにテントに招き入れてくれたチベット人、採っていたブルーベリーを分けてくれたイヌイットの女性、校内見学を許してくれたばかりか即席の授業までやらせてくれたネパールの小学校の先生、ポタラ宮で五体投地のやり方を教えてくれたラサの巡礼者、一枚布でじょうずに子供を背負うやり方を教えてくれたマリのドゴン族のお母さん、ハマム(公衆サウナ)で裸で入り方をレクチャーしてくれたモロッコの女性たち……。
◆このようなさまざまな風景や人物に出会うことによって作品のイメージを高め、それを体に入れて作品に転化するのだ。現場書きと大作以外に毛筆を使った小さな墨絵の作品も描いている。白と黒の抑揚だけを使って一発で線を引ききるという、日本人の潔さが現れる作品だ。モチーフになるのは風景だけでなく、たとえばチベットの高山に生きる野良犬がいとおしく映ったときの情景なども題材になる。
◆最後に質問に答える形で月風さんがおっしゃった「不可能ということは考えたことがない。ダメ元でとりあえずやってみる。とりあえず一歩踏み出せば次に何かが掴める。私はそのように生きています。」という言葉が印象的だった。この言葉が凛とした美しさを裏打ちしているのだと思った。(瀧本千穂子 娘の柚妃と2013年6月以来今回の月風さんまで16回報告会に参加している)
■報告会当日は土砂降りの雨だった。そのような日に足元を濡らして来て下さった皆様にまずお礼を申し上げます。私の南極行きは物凄い事のように見えるが、実は数々の数奇な扉があった。それは正に「人」との出会いに導かれている。日本人の女性隊員として、2回の越冬を果した岩野祥子さん、極地研の本吉洋一副所長、当時南極シンポジウム担当だった神山孝吉先生、お話を伺った多くの隊員、海上自衛隊の方々だ。
◆その中で、特に印象的だったことは、2008年に初めて極地研で南極シンポジウムに参加させていただいた時の神山教授のお言葉だ。「我々がそのような時代の到来を感じつつも、名乗り出る人がいないと駄目なのである」。南極大陸が現在南極条約の下、世界が協力して科学研究を行う特別な場所であることは誰もが承知しているが、半世紀を越え、南極に関っている方の一部に、極地を身近な場所にしてゆく時代の到来を予期する「風」が吹いていることを私は初めて知った。
◆そのような中で、私はアルゼンチン国立南極局が行う芸術プログラムに参加が決まった時は、喜びと同時に日本人としての役割も痛感した。しかし私はこれまでと同じ様に自分らしく活動しようと思った。それは私が追い求めてきた「風」に集約される風土や風光、風景などの自然と、その地に生きる人間に現れた風貌や風格を感じて作品に転化することである。
◆報告会では、南極行きの経緯、南極滞在中の基地施設の紹介、野外視察、自然、そして、切望していた大氷河上での書の揮毫を写真で、エスペランサ基地へ雪上機で到着する上空の様子と3日間閉ざされたブリザードは動画で報告した。
◆南極大陸は地球の果てにある大自然が残されている最後のフロンティアだ。将来、好奇心に満ちた様々な感性を持った人が訪れる時代が来るかもしれない。そしてこの地で活動する人間は科学者でも芸術家でもずっと命がけだろう。いつか詩人や音楽家が南極の風に出会ったらどんな素晴らしい作品が生み出されるだろうか。子供の頃に体験をした強大な台風の「風」、自然と人をはぐくむ大自然の驚異、「風」をテーマにこれからも地球の感動創作、『風書』を積み重ねてゆきたい。(月風かおり)
月風さん自身が、大地に積極的に参加することによって、「行為が成って」ゆく。月風さんの風景への参加は、個的・私的な儀式のよう。白い衣装(和装)に 白い背景。すっきりと立つ月風さんのシルエットが とても神聖に感じました。だけれども、その一連の儀礼は、決して宗教などではなくて、「月風かおり」さんという まったくのひとりの個人のオリジナルな想いに基発する「結意」だ。
個に焦点を合わせつつ、その全体の壮大に徐々に融和してゆくのは、それ(月風さんの行為の経緯)を観ているぼくたちの感性。鑑賞者の感性が 起発しているということ。つまり、月風さんの そのような行為は、現在日本のそこかしこの今此処に滞在する「都市に動かぬ個々」の眠れる希望を触発し解放する。やさしく ゆっくりと。
そのような大役をさわやかに淡々と成して行く 南の果ての氷河に立つ(起つ)「ひとり(自己に起因する)」のパフォーマンス(行為)を 清らかであり 精悍であるとおもった。 一連の行為は、「月風かおりは、いま、たったこれから 風景に参加させていただきます」という自覚を真摯に表明している。そのような冒険家は 希有であると ぼくはおもった。
南極での行為のみではなくて、今回の報告会では月風さんの人生の一連の旅も紹介されましたが、月風さんは、「風景に参加している自身」をつねに自覚しているようにおもう。あるいは、いまそのときどきを 「なんとか」体感しようと タイムラグの解消に いつも勤めているようにすら感じた。
二次会の中華「北京」で月風さんと向き合って話していただいたときにも ぼくはそういうことを感じた。だから、たぶん、サハラであるとか 南極であるとかで スイッチが入るとかいうようなことではなくて、それは「常に」なのだとおもいます。現代社会における「現在此処」という自覚性の希薄に いつも敏感に直面しているのだとおもいます。
目撃することでしか体感し得ないことがある。それは、つまり、常に「今」「此処」を大切にされて、月風さんは生きていらっしゃるのだなという感じです。「スゴい」って おもいました。
宗教に成らず 政治にも成らず 世界中の人々が対峙対話しながら 少しずつ少しずつ 理解を疎通と信頼を育むことが可能なのは、たとえば 「月風さん」のような行為なのではないだろうか?
初対面の風景に対峙するとき 風景に参加するときに 個人が成しえる 最大限の清潔な態度を みたような気がしました。
おそらく 月風さんのパフォーマンスに共感共鳴するかたがたは 月風さんご自身の「常の態度・姿勢」そこに 射抜かれるのだと おもいます。
「自分自身」を行為の素材にしつつ なにをも支配しない 行為者でありながら 決して自己は突出しない リアリティを 強要しない 誇示の無い開示 「本人性」を極力排除した使命感が そのある種の聖域を成している それこそが 行為における「真の匿名性」ではないだろうか
なにも コントロールしようとせずに 「風景」を みごとに紹介している
南極は 遠くて近い 彼方は「今 此処」に 同化してゆく 意識の自在が解放されるとき 「ライブな行為」は、宿命的に一回性であるがゆえに 想いは「語り継がれ」 口頭によって「伝説」は 育くまれてゆく。おそらく その経緯そのものが、市民による創作行為の基点であり、市民による文化のはじまり。
神話にまどわされず 伝説のひとを たったいま目前にしている。 各々による自覚のある物語 それが伝説
「親善とは なんだろうか?」 ということを 喧騒の都市に居ながらにして あらためて考えることができる。そういう 報告会だった。(緒方敏明 彫刻家)(緒方敏明 彫刻家)
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