2015年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信434より
先月の報告会から

崩壊の素顔

━━ネパール大地震緊急報告━━

安東浩正 貞兼綾子

2015年5月22日  榎町地域センター

■4月25日にネパールで発生した大地震。日本のメディアは連日、カトマンズにある歴史的建造物の倒壊や救助された人々の姿が映し出されていた。「メディアと実際の違いを伝えたい」。現地から帰国したばかりの安東さんの報告が始まった。安東さんは「地震のときの話は、通信に書きましたが」と前置きして、Googleの衛星写真を活用しながら、当時の行動を説明した。

◆地震当時、マナスルを一周するトレッキングルートにいた。全18日間の予定で、最終目的地タル村まで歩いてあと1時間だった。地震の揺れは1〜2分ほど続いたが、最初は揺れがわからなかった。地震に気付き、頭上にある崖の崩落が心配になり、落石の影響が少ない場所に避難した。ヒマラヤの高峰に挟まれた2000mほどの深い谷間だったからだ。安東さんはこのトレッキングツアーの最終地点をタル村に設定した。それは、この村からチベット文化圏に入る、個人的に好きな土地だったから。同行者をより魅力的な場所に案内したいという、安東さんの思いが表れている。地震を引き金に、ヒマラヤ全体が落石の嵐となり、ダイナマイトを次々と爆発させたような轟音がとどろいた。

◆安東さんが初めてカトマンズを訪れたのは1990年。最初はバックパッカーだったが、山岳部出身の安東さんには物足りなくなり、カトマンズから自転車の旅に切り替えた。厳冬期チベットの自転車による冒険、山と溪谷から出版された書籍『チベットの白き道』はダルバール広場が出発点となっている。25年間、安東さんにとってネパールは居心地のよい国の1つだった。長年通い続けたカトマンズでは迷路のような路地も地図無しで歩いて行ける。同時に、レンガ積みの建物が多いカトマンズが、地震が起きたら大変なことも理解していた。

◆地震発生後、安東さんら一行は小走りでタル村に向かった。タル村は特に被害はなかったが、村の水力発電施設への落石で停電していた。一泊した後、バンディプル、チトワン国立公園を経由し、地震発生から4日目に当初の予定通りカトマンズ入り。「水や食料が不足している」「疫病が流行している」など様々な噂が飛び交っていた。カトマンズに向かう途中、すれ違うバスは、屋根の上まで人でいっぱいだった。田舎に実家がある人はすぐにカトマンズを脱出しようとしたのだ。ネパールのバスは通常時でも屋根の上に乗る事が出来るそうだ。ネパールに行ったら体験してほしい事の1つと、安東さんらしい一言が。

◆緊張の面持ちでカトマンズに到着。意外にも新鮮なフルーツや魚まで売られている状況。安東さんはあっけにとられてしまった。被害状況を確認しようと、カトマンズ盆地を歩いた。まずはタメル地区。外国人旅行客が多いエリアだ。タメルは鉄筋の建物が比較的多いため、ほぼ無事だった。おいしいカツ丼が食べられる「絆」という日本食のお店も無事で、地震から7日目には開店していたという。「絆」のカツ丼は日本で食べるそんじょそこらのカツ丼よりもうまいそうだ。

◆タメルから歩いて1時間弱の場所に、旧王宮のダルバール広場がある。タメルと旧王宮の中間地点にある、迷路のように密集した、庶民の暮らす地域でも崩れた建物は多くなかった。 安東さんが最も好きな場所だったダルバール広場にあるシバ寺院は完全に崩れてなくなってしまっていた。 2〜300年前の古い建物の被害は大きかったが、それでも古い建物の4分の3は残っている印象だ。 カトマンズで一番犠牲がでた建物は水道塔*。1930年頃の建築でレンガを積み上げた塔だ。眺望の良い水道塔には、当時100人ほどのネパール人がいて、倒壊してしまった。

◆地震発生当初、安東さんはカトマンズが壊滅状態にあると想像していた。しかし被害を確認し、この状態ならまだ復興できると感じた。東日本大震災での津波の被害を見てきた立場からすると、そこまで大変な被害とは思えなかったそうだ。カトマンズでは全体の建物の1%全壊、5%半壊して人が住めないという印象だった。

◆地震から5日目、一旦帰国。その翌日、予定していた別のツアーは地震の影響でキャンセルになった。しかし安東さん自身のフライトはキャンセルせず、自分の目で被害の状況を確かめるため再びネパールにもどった。日本から支援に来ている自衛隊もカトマンズでは活動することがあまりないような状態。ネパール全体で約8000人以上が亡くなったと言われるが、食料やテントが不足しているのはカトマンズじゃないという事がわかった。それはどこなのか?

◆特に被害がひどかったところは3か所。1つ目はシンドパルチョーク地区。死者2〜3000人。2つ目はランタンリルンの麓にあるランタン村で死者約170人。土砂崩れにより村全体が壊滅してしまった。そして3つ目は震源地に近いゴルカ郡にあるバルパックという村。そこでも100人以上亡くなった。

◆ネパールは最貧国と言われている。観光が主な産業だ。実際とは異なる報道による、風評被害が心配なのだ。彼らが自立するためには観光産業を衰えさせないことが大切だと安東さんは力説した。それは一緒に働くネパールの友人への思いなのだろうと感じた。休憩に入り、安東さんがネパールから買ってきたクッキーが会場に振る舞われた。

◆後半の部が始まった。貞兼さんは、報告会の前日21日にネパールに旅立ったため、落合大祐さんが撮ったビデオでの登場となった。貞兼さんとランタン村との繋がりから。貞兼さんがランタンリルンの名を知ったのは、お母さんが持っていた雑誌からだ。ランタンリルンへの登攀が解禁されたことがきっかけとなりランタン村へのトレッキングルートが拓かれた。その雑誌にはランタンリルンの写真が掲載されていて、「すごくきれいな写真だった」。1961年か64年の大阪市立大学山岳部が遠征のときに撮影した写真だった。

◆その後、貞兼さんは1975年に初めてランタン村を訪れた。カトマンズからトリスリまでジープで移動して、そこから1週間歩いてようやくランタン村に到着した。その時は「ただ友だちの家にお訪ねするという感じ」で、 直前にチベット人のキャンプに長くいたこともあり、特別な印象はなかった。当時は外国の文化が入っておらず、彼女らは民族衣装であるロングドレスの裾で鼻水を拭き、そのままお皿を拭いたりと、不衛生という印象が残っている。ランタン村への旅行者が増えるに従って、そういった習慣も消えていったそうだ。

◆ランタン村出身の青年の、「ツーリズムというものが人をダメにしてしまう」という言葉に、貞兼さんは目から鱗の思いだった。それまで心があったものが、お金に変わってしまった。 お金を儲けるために、家畜を手放して、ホテルやロッジを建てる人が増えた。ランタン村の人々が大切にしてきた宗教心や伝統的な年中行事、そして家畜や農業、それがツーリズムによってないがしろにされる、という思い。そして、このままではいけないという思いを、青年は感じていた。

◆ランタン村は標高3500mにあり、人々は3000mから5000mという広いエリアで、家畜と移動し、高地に生息している薬草を採取して、それを売ったお金で生計を立てていた。それが国立公園として多くのトレッカーが集まるようになると、ロッジやガイドなど旅行者相手のビジネスで現金収入を得る人が多くなった。

◆80年代に入ると、ランタン村を訪れるトレッカーは村人の人口の何十倍にも達した。旅行者に食事を提供するため、煮炊きに必要な薪の確保が問題になった。国立公園に指定されると、木の伐採や景観の保護が求められた。彼らは本来、木は伐らず、倒木を薪としていたが、トレッカーの増加により自然に存在する資源の把握が出来なくなっていたようだ。木を守るために、標高の低い場所に村を移動させる計画まで検討された。表面化したエネルギー問題だったが、実験的な沢での発電をきっかけに、電気によるエネルギー対策が進められるようになった。たったの2ワットだったが、電気のある生活に村人達は可能性を感じたのだ。そして1986年にランタン村のエネルギー開発を支援するために貞兼さんはランタンプランを立ち上げた。

◆1975年から続けている人口動態を記録したノートを取り出した。整理し直そうと考えていたという。「今回の地震で亡くなった大勢の人を思うと切なくてさ」と貞兼さん。ランタン村の570人のうち、地震で約170人が亡くなり、約400人が残った。「ランタンリルンの下に、タルナというすごい素敵な場所があって、余生はそこで過ごそうと思っていたのにね」と貞兼さんは寂しそうだった。

◆今回のネパール訪問でミッションと考えていることがある。土砂崩れで壊滅した村を、どこに再建するのか?そして彼らの経済的な立て直しをどう考えるのかを彼らと話し合いたい。彼らの心身の復興と、村の再建活動を長い目で支援していきたい、そして地平線会議のみなさんにもご協力頂けたら、と締めくくった。

◆今月の報告会は、お二人の異なる視点から、ネパール大地震について語られた。双方に共通していたのは、ネパールに住む親しい人々への思いだった。安東さんは最初に旅行者としてネパールを訪れ、自転車による厳冬チベットの冒険やヒマラヤへの起点とした。最近では、ご自身が企画するトレッキングツアー等でも頻繁に通い、現地の信頼している友人たちと一緒に仕事もしている。そして、ネパールは観光が大きな収入源である事を指摘し、復興を支えるためには、観光客を減らしてはいけない、という思いが強い。

◆一方、貞兼さんは40年に渡ってランタン村に通い続け、家族同然に付き合ってきた村の人々がいる。貞兼さんご自身も、今回の地震でランタン村という大切な場所と人々を失ったのだ。親しい人々の復興を、長い目でサポートしたいという思いがある。お二人の語りには、ネパールで生活している親しい人々への思いやりがつまっていた。(山本豊人

*注:1932年のネパール地震で倒壊してその後再建された塔は「ダラハラ塔」または「ビムセムタワー」と呼ばれ、水道塔ではなく見張り塔の役割だったらしい)。

報告者のひとこと

さあ、私とネパールに行こう!!

■ネパール地震から1ヶ月以上たった今、あれだけニュースを騒がせていた話題も、すっかり日本の報道から消え去ってしまった。まあ報道なんてそんなもの。でもね、人々の記憶からすっかり忘れ去られたわけじゃない。これから当分の間、一般の旅行者はネパールに行こうとしないだろう。ぼくの回りでも、行く予定だった人が訪問を取りやめる現実がたくさんある。本人がその気でいても、家族の同意を得られない、新婚旅行の相方が……、などの理由で。

◆大した産業のないネパールにとって、観光客激減は相当なダメージ。なんとか訪問者を呼び戻そうと、ネパール安全アピールの声が現地から聞こえてくる。たとえば私の知る旅行社からのお知らせを直訳しよう。『ネパールに75ある県のうち地震の影響を受けたのは8県のみ。主な幹線道路も空港も被害はない。世界遺産8か所中、過度にダメージを受けたのは2か所のみ。カトマンズでは90%のホテルが安全であるとされ営業している』

◆エベレスト地域のロッジもほとんどが営業中。35あるトレッキングルートで、影響を受けたのは2つのみ。電話、インターネット、ATMなどすべて稼動中。つまりは観光が関与するほとんどの場所は、すでに問題なく旅行できる。にもかかわらず観光客はいない。これじゃあネパールがかわいそう。

◆地平線報告会の後、ぜひネパールに行きたいという方が何人もおられた。そういう言葉が聞けるなら報告した甲斐もある。震災地だからボランティアをしなくちゃとか難しく考えなくても、すばらしい山の景色を楽しんで来ればいい。そして現地で貢献できそうなことを自分で実践したらいい。東北の震災復興とは異次元に違い、素人がボランティアで活躍する場所もないと思う。

◆もともと簡素な建物で、自分たちで作ったものだから、すでに多くの建物は自分たちで直しつつある。深刻なダメージを受けた山奥の村々ももちろんあるが、そこは元々訪問が困難で、それは国連にまかせよう。普通にネパールを旅行することだって、現地人にお仕事を与え、経済復興に貢献する。ただ行きたくても、きっかけがないとなかなか出かけられないようだ。例えば地平線会議は先月に福島を訪問しましたね。そういうきっかけを皆さんがお待ちならば、今年の秋にも私がネパールにご案内しましょう。何をどうしたいかは参加者の意見をまとめて決めましょう。興味のある方は安東浩正まで!  安東浩正


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