■2015年1月、「イスラーム国」と名乗る過激派組織による湯川遥菜さん、後藤健二さんの人質事件に、我々は戦慄した。長年パキスタンに通う丸山さんは、政情不安の中で自分も拉致される可能性を考えていただけに、他人事ではなかったという。同時に、日本のイスラーム報道があまりに乏しく、テロの印象ばかり目立つことに、従来から疑問があった。「今、何もできないことが悔しい」。後藤さんの澄んだ眼に射抜かれたという丸山さんが立ち上がり、イスラームを知る一歩としての報告会が実現した。
◆会場受付では、丸山さんが月刊誌『望星』に連載する新刊紹介の中から、イスラーム関連書籍の書評を過去47冊分集めた、抜き刷り冊子が配布された。イスラームへのガイドとして有難い資料だ。報告会は、知の泉からスラスラと湧き出るように進められた。とはいえ丸山さんは、もともとイスラームを「学問」の対象としてきたわけではない。ムスリムとして暮らす民衆の多くがそうであるように、生活者の日常としてイスラームに触れてきた。「研究」成果と称して主観を客観的事実のように権威的に断定する口調ではなく、あくまで一個人が生身で接した普段着のムスリムの姿を垣間見せる語りである。
◆さらに、巷で解説される「イスラーム対西洋」という二項対立にとどまらず、パキスタンの少数民族カラーシャの立場からイスラームへの目線を持つ点がユニークだ。丸山さんが家族付き合いをするカラーシャの人々はムスリムではなく、多神教を信仰する。彼らは多数派であるムスリムから「異教徒」と呼ばれ、圧迫される。両者は敵対する関係で、カラーシャの人々は、丸山さんがモスクに行くのを嫌がるという。にもかかわらず、カラーシャと過ごした丸山さんがイスラームにさほどの悪印象を持っていないことは、不思議でもある。
◆そもそも丸山さんは、カラーシャに出会う以前から、イスラームに親しみを持っていたようだ。中学時代に読んだ本多勝一『知られざるヒマラヤ──奥ヒンズークシ探検記』や梅棹忠夫『モゴール族探検記』に憧れ、本多のように改宗もアリかな、という気さえしたという。
◆1978年、丸山さんは初めてパキスタンを訪れた。乾燥した沙漠の空気、袖先がチリチリと焦げるような日差し、褐色の大地の向こうにそびえる雪山、バザール、モスク。「子どもの頃から行きたかったのはここだったんだ」。スライドには、当時の記憶のままのように、玉ねぎ型のモスクの屋根が色鮮やかに映し出された。感動する若き丸山青年の姿も見られた(結構イケメン)。イスラームの世界を目の当たりにした丸山さんは、「男気がある」、「古き良き日本の武士道みたい」と、しびれたそうだ。一方、町でまったく女性を見かけないことに驚いた。
◆同じパキスタンでも、カラーシャ族の住む土地は荒涼とした沙漠から一変、緑溢れる谷だ。木々の多い日本と同様、多神教を育む風土である。また、カラーシャの女性たちはスカーフをかぶらず、外を出歩くし、男性とおしゃべりもする。女性がいる当たり前のような光景には、どこかホッとしたという。以降、丸山さんはカラーシャの谷に通い、「おトナリ」のイスラームと接してきた。
◆カラーシャの社会では現在、イスラームへの改宗が進んでいるという。ムスリムとの結婚や、病院での「異教徒だと地獄に落ちる」との説得、ムスリム社会での就職や昇進のため、あるいはカラーシャ社会で人間関係をこじらせて飛び出す、といった動機で改宗するそうだ。イスラームの教えを重視するパキスタンでは、学校でもクルアーンを知らないカラーシャは不利だ。そこで外国の援助でカラーシャ独自の学校もできたが、援助がカラーシャに集中することで、かえってムスリムからの反感が高まる面もある。丸山さんの話を聞くかぎりでは、カラーシャの改宗は信仰というより生活上の問題であり、神というより社会経済的な安定を求めているように思える。
◆カラーシャの改宗者も含め、一言でムスリムといっても、個々人の内実はさまざまだ。今回の報告会の柱の一つが、「多様なイスラーム」。宗派や土地の文化、近代化や西洋化の影響によっても異なる。宗派ではまず、スンナ派とシーア派に大別できる。ニュースでよく聞く基本的な語だが、混乱したままの方も多いのでは。「スンナ」は「慣習」といった意味で、「シーア」は「派」を表す。ポイントは、預言者ムハンマドの血統を重視するかどうか。血統を重視しないスンナ派が圧倒的多数派で、重視するシーア派が少数派となる。
◆スンナ派の中でも、パキスタンの「連邦直轄部族地域(FATA)」を占めるパシュトゥーン人は独特だ。「パシュトゥーンワライ」と呼ぶ部族の掟がイスラームより古くからあり、イスラームの慣習と渾然一体となって受け継がれてきたという。勇気と名誉を重んじる堅い掟には、客人接待や旅行者の護衛などが含まれる。この地域には中央政府の支配も及ばない。逃げ込んだウサマ・ビン・ラディンは、「庇護を求めた者は敵であっても匿う」という彼らの絶対的な掟によって守られた。
◆他のムスリムとは異なるこうした独自の結束が、過激派組織の温床を生むとも言われる。丸山さんは、過激派の狙撃にも屈せず女子教育の必要を訴えている17歳のマララ・ユスフザイさんにも言及。「あの勇気はどこから来るのかと衝撃を受けたが、彼女もパシュトゥーンなんです」。
◆一方、パキスタンのパンジャブ地方には、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の影響が根強い。我々の耳には、美しい旋律が響くコーランの朗誦はきわめて音楽的に聞こえるものだが、実はイスラームの主流の考えでは、人を惑わすとして音楽に否定的である。しかしスーフィズムでは、歌や踊りでトランス状態に入り、神との合一を目指す。映像には、世界各地のスーフィー教団による、ぐるぐる旋回したり、えんえんとお辞儀を繰り返したりする踊りが流れ、会場は密教的雰囲気に包まれた。
◆昨今ではそうした儀礼や宗教音楽の範疇を超え、ロックやポップスの歌手も登場していることには驚く。なんと、パキスタンにはコカコーラの出資による「コーク・スタジオ」というテレビ番組があり、スーフィーロックなど、伝統と最新の音楽を合わせた斬新なムーブメントが次々発信されて人気だという。ロックを聴いて育ち、宗教歌をロック風に歌う若者たち。過激派は怒り狂うとしても、これもまた、現代のムスリムの一面だ(それにしても、「コーク・スタジオ」とは、テロの標的にしてくれと言わんばかりではないか。かっこいいライブ映像はYouTubeで無料配信されているが、この戦略を文化融合と見るか、文化侵略と見るか……)。
◆多面的なイスラームの人々。日本の研究者間では、何かにつけて「クルアーンをアラビア語で読んでいない」との批判を向ける傾向もあるという。しかし、世界でムスリム人口が最も多いのはインドネシアであり、ムスリムでも必ずしもアラビア語のクルアーンに精通しているわけではない。誰もが神が定めた法源の解釈ばかり考えているわけでもない。「民衆のイスラームも、もっとクローズアップされていいのでは」と丸山さんは問う。
◆民衆の日常感覚においては、イスラームとは宗教というより「慣習」、「しきたり」だ。また、イスラームでは神と自分との一対一の関係を基本とする。神以外は皆等しい人間であるため、イスラームの聖職者(ウラマー)も「神聖」な存在ではなく、「ただの人」。クルアーンなどを解釈する「法学者」という位置付けだと丸山さんは説明する。どのウラマーの解釈に従うかは各自の判断であり、家族の中で異なることもある。
◆多様で、かつ個人的なイスラームが見えた気がした直後、丸山さんは一冊の本を掲げた。野町和嘉の写真集『メッカ巡礼』だ。世界中からメッカに集まるムスリム。金持ちも貧乏人も一様に、白装束をまとって、神殿の周りを巡る。表紙の写真では、その白が一つに溶け合っていた。「“多様なイスラーム”とともに、どうしても“一つのイスラーム”も伝えておきたかった」と丸山さん。圧倒的かつ平和的な白いうねりには、イスラーム世界の象徴を感じた。
◆平和な同朋意識こそあれど、当然ながら、過激な暴力性をもってイスラームを一元的に語るべきではない。過激派に最も被害を受けているのは、地元のムスリム達だ。それでもパキスタンの一般民衆において、米国への憎悪は、過激派への恐怖を凌ぐという。原因の一つが、国際法違反とも言われる、米国の無人機による空爆だ。市民の犠牲者数は米国の発表よりはるかに多いはず、と丸山さんは指摘する。特に結婚式や葬儀の列が誤爆を受ける。人々の怨嗟はつのり、タリバーンへの共鳴にもつながる。
◆また、イスラエルが繰り返すパレスチナ市民への残虐行為は、今やインターネットで世界中のムスリムの目に入り、人道的な憤怒が共有される。中東でもパキスタンでも、根源では西洋列強が土地の民族や文化を無視して勝手に国境線を引いたことが、紛争の火種なのだ。丸山さんは後日、過激派組織の「イスラーム国」が「国」を名乗る理由には、現存の領域国民国家を否定し、他の在り方を模索する意味が込められることを忘れてはならない、と強調した。
◆来場した『イスラム国とは何か』の共著者(常岡浩介氏との)である高世仁氏は、今回の人質事件について、「欧米の人質が次々と殺害される中、日本人に対しては裁判をしようとしていた。日本人は明らかに特別だった」と発言した。丸山さんも、「日本人が特別なのは平和憲法の力が大きい。アメリカ人の一万倍は安全だと言われてきた。西洋列強に屈せず原爆の惨禍から立ち直って経済大国を築いた日本に対し、親近感もあった」と続ける。
◆今回の報告会で私が再認識したのは、宗教対立と見える問題は、実際は強者(マジョリティ)に対する弱者(マイノリティ)の闘いだということだ。前回語られたキューバの社会主義革命は宗教と無関係だが、背景は共通する。西洋とイスラーム、イスラームとカラーシャ、スンナ派とシーア派。強者と弱者は入れ子構造だし、あちらの強者はこちらの弱者だ。人質事件は、日本もこの構造に無縁ではないと見せつけた。
◆また、日本に育った私は西洋の視線による情報を無意識に浴びてきたが、イスラーム圏の視線を知るほどに、西洋の論理を相対化する必要を感じる。たとえば、神の法だとされるシャリーア法(イスラム法)は、ローマに始まる西洋近代法とは別のはたらきをする法体系。近代法が機能しない事案も、シャリーア法では人々が納得する形ですぐ解決できることがあるという。日本でも近代法が入る以前の江戸時代までは同じようなもので、そう奇抜なことではない、と丸山さんは述べる。
◆日本では、ニュースにならない市井のムスリムを知る機会は少ない。女性の生き方など、イスラームに関して私はまだ無知である。しかし報告会を聞き、政治構造的な議論とは別次元で文化的理解は推進可能だし、より焦点を当てるべきだという気がした。(福田晴子)
■地平線報告会でしゃべるたびに、ひどく落ち込んでしまう。ああ、あれも話せなかった、これも言い忘れてしまったと、終わった瞬間から後悔の念がつのって、数日間はそのことばかり考えて過ごす羽目になる。講演や授業でしゃべる機会はこれまで何度もあったのに、ここまで不本意な思いをしたことはない。地平線報告会には魔物が棲んでいる!――かねがねそう思い続けてきたが、今回もまた魔物に捕まってしまったようだ。
◆魔物の正体を探ってみると、まずスライドの量が問題だ。なるべく多くの写真を見てもらおうと欲張りすぎて、写真の説明をするだけで精いっぱいになってしまう。おかげで、歴史や文化的な背景など、写真に写らない抽象的なテーマにはなかなか言及することができない。さらに、地平線会議という場を意識しすぎて、自分の直接的な体験をまず語らねばならないと力んでしまうことも一因だろう。本などで知った知識を披露することがどうしても二の次になり、奥行きのある話ができなくなる。
◆今回も、事前に用意した進行表を長野亮之介画伯に見てもらって、こりゃ、盛り込みすぎだよ、絶対に時間内に収まらないよと指摘されていた。それでも、なんとかなるさと始めたのだが、画伯の予測通り、これまでで一番、言いたいことが言えないまま終わる報告会となってしまった。会場まで足を運んでくださったみなさんには、本当に申し訳ないことをしたとつくづく思う。
◆あまりにも落ち込んでいるのを見かねて、ここでこうして機会を与えていただいたので、あの日、どうしても語っておきたかった話を三つだけ記しておきたい。
■今回の報告会を1978年に初めて出かけたチトラルから始めたのは、あの乾燥して荒涼とした風景をぜひ見てほしかったからだ。木がまったく生えていない裸の山々。人間ははるか川の上流から水路で分水して土地を潤し、木を植え、畑を耕す。水のないところには緑がなく、生活もない。あまりにも自然が荒々しく圧倒的で、人間はお情けによってその片隅でかろうじて生かせてもらっているに過ぎないのだ。誰のお情け? そう、もちろん神のお情けである。チトラルにいると、神はひとつなりとする一神教の教えが、すとんと胸に落ちてくる。このことを強調したくてわざわざチトラルを冒頭に待ってきたのに、言い忘れてしまった(やっぱり魔物のせいだ)。
◆チトラルからほど近いカラーシャの谷に行くと、山の斜面にはカシやヒマラヤスギの樹林帯が広がっている。豊かな緑のあふれる谷間を峠のてっぺんから初めて見下ろしたとき、ああ、だから彼らは独自の多神教を守り続けてこられたのだという思いが湧いてくる。谷でしばらく暮らすうちに、チトラルではばりばりにひび割れていた唇がいつの間にか治っていた。村を見下ろす高台には大神の祭壇がまつられ、村の真ん中には女神の神殿がある。村はずれの岩陰にはご先祖さまへのお供えが撒かれ、道の脇には儀礼に使われた焚き火の跡が残っていたりする。
◆沖縄の浜比嘉島をぶらついたとき、うちの村だったらこのあたりに……とふと見上げると、当然のようにウタキや小さな聖域が現われるのに何度も驚かされたものだが、チトラルの極度に乾燥した褐色の世界を旅していると、こうした原初的な宗教心の現われを見ることはない。さびしい、物足りないと思う気持ちより、一種のすがすがしさを感じる。
■イスラーム圏を旅した人なら誰でも、敬虔なムスリムは人間として信用できる、逆に酒を飲んだり、断食をサボったりするようないい加減な奴は信用できない、という経験則をお持ちだろう。
◆チトラルではお昼時になると、どの店も戸締まりして、みんながモスクへお祈りに行ってしまう。閑散としていたバザールである日、知り合いのガイドをつかまえて、あんたはなんでモスクに行かないんだ、悪いムスリムだなとからかった。あとでわかったのだが、彼はチトラル北部に多いイスマイリ派で、スンナ派のモスクに行くわけがないのだが、私を諭すようにこう言った。「神はモスクにはいない。私のこの心の中にいる。モスクへ行かなくても私は神に祈る。どこにいても祈る。神はそのことを知っている。神が知ってくれていれば、私は誰になんと言われようと気にしない」。そのときは、なに格好つけちゃって、などと茶化してしまったのだが、あとになって、彼はイスラームの本質を語っていたのだと気づいた。モスクへ行かないということで、冗談半分であっても「悪いムスリム」などと決めつけてはいけなかったのだ。
◆イスラームでは、神と人は一対一で直接結びついている。だから、きわめて個人主義的で、そこに他人が立ち入ることはできない。たとえば味醂を使った料理を食べてもいいのかという疑問に対して、味醂は酒と同様のプロセスで作られるのだからだめだと、あるウラマー(法学者)が自分の解釈を述べる。別のウラマーは、いや、煮きってしまうのでアルコール分は完全に飛んでいるから問題ないと言う(内藤正典著『イスラム戦争』より)。さて、どちらを信じるか。
◆自分が納得できるほうの言を信じればいい。世界最古の大学でスンナ派の最高権威とされるエジプトのアズハル機関が発するファトゥワ(宣告)を信じてもいいし、いや、うちの村のモスクの老ウラマーの言うことのほうが正しいと思えば、そっちに従えばいい。親子で、兄弟で、違うファトゥワに従っている例もよくある。
◆だから、異教徒へのジハードを唱えるファトゥワに共鳴する息子を、父親がそれは間違った教えだと止めることは、教義の上ではできない。自称「イスラーム国」(IS)によってヨルダン人パイロットが焼殺されたとわかったあと、アズハル機関のトップが「イスラームから逸脱した行為だ。奴らこそ残虐な方法で処刑されるべきだ」と強く非難したが、そう言われてもIS側は破門されたなどとはみじんも思わず、エジプトの大統領(選挙で選ばれた政権をクーデタで倒した)が任命するアズハルの言うことなんか聞いてたまるか、と考えている。
◆ダライ・ラマやローマ法王のような絶対的な宗教的権威は、イスラームにはいない。だから、過激主義者がクルアーンやハディースの字句を極端なかたちで解釈しても、それを上から押さえ込むことができない。神の前ではすべての人間は平等というイスラームの本質が、いまのような事態を招いていると言えるが、逆にそのことで新たな未来が開けるのではないかという期待も持てるのではないだろうか。
■今回の報告会でも、女性の先生を養成するために設立された私立小学校や、買い物をしたことがない女性に機会を与えようと作られた男子禁制のショップを紹介したが、イスラームにおける女性の地位について語ろうとすると、どうしても西欧的なものの言い方になってしまって、自分でも歯がゆく思う。私が男なだけに、男社会の論理に陥るまいとする心理が働くからだろうか。
◆チトラル南部ではスンナ派が多数を占めるが、民家を訪ねても、改宗した元カラーシャや、妻が学校の先生をやっている家などの特殊な例を除いて、女性と会える機会はほとんどない。客人はゲストルームに通され、幼い少女たちが料理を運んでくることはあっても、大人の女性は出てこない。だから本当のところはわからないのだが、夫たちを見ていると、どうもかかあ天下の家が少なくないように感じられる。どこでも女性は大事にされているし、一夫多妻の知り合いは一人もいない。おおっぴらに外に出られないなど、社会的な制限はあるが、だからといって女性の尊厳をおとしめていると一方的に決めつけることはできないのではないか。イスラームにおける女性の問題が出てくるたびに、そう言い張ってきた。ところが、それはあくまでもチトラルだったから、そう感じられたのだ。
◆その若者はパシュトゥーン人で、武器づくりで有名なダラの村からペシャワールの街に出てきて、法律事務所で働いている弁護士の卵である。その頃、パキスタンはインドに対抗して核実験を敢行し、国中が盛り上がっていた。しかし彼は、政府の言うことなんか信じられない、ヒロシマ・ナガサキに行って、原爆がいかに悲惨なものであるか、自分の目で確認してみたいという。
◆そんなことを言うパキスタン人は初めてだったので意気投合したのだが、そのうち学校教育の必要性の話になっていくと、「あいつらは人間じゃない、獣と同じだ! 何も考えていない。ただ喰って、寝るだけの生き物だ」と吐き捨てるように言い出した。一瞬、何を言っているのかわからず混乱したが、彼が言う「あいつら」とは、同じ家に暮らす女性たち、母親や姉、おば、いとこたちだと気づいて、ぞっとした。だからこそ教育が必要なんだと言っても、聞く耳を持たない。女は劣っている、いくら教育をしてもムダだと言い張る。おいおい、あんたは弁護士になるつもりなんだろ。
◆これはイスラームの問題ではなく、パシュトゥーン社会が伝統的な家父長制のもとにあるからだと、頭ではわかる。しかしイスラームが広まっている地域には、家父長制が強く根をおろしているのも事実だ。若者でさえこんなふうに思い込んでいるのだから、保守的な地域に住むパシュトゥーンの女性たちの地位が向上するのには、まだまだ年月がかかるのだろう。しかし、のちに二人の幼な子を連れて一人で日本にやって来てしまうパシュトゥーン出身の女性画家と知り合いになったし、あのマララさんもパシュトゥーンである。誇り高く勇敢なパシュトゥーン女性が、女は獣と同じだと言い張る男社会にいつまでも安住しているだろうかという思いもある。
◆パシュトゥーンの本拠地であるハイバル・パフトゥーン・フワー州(チトラルもその一角)の州都ペシャワールでは、女性が買い物をしている姿をちらほら見かける。チトラルの王族の女性たちがペシャワールに滞在中、バザールに服を買いに行くのに同行したら、次々と立ち寄る店で丁々発止と男の店員とやりあい、心から楽しそうに過ごしていた。彼女たちがチトラルでバザールに買い物に出向くことは、ありえない。
◆これを、私たちはどう受け止めるべきなのだろうか。そもそも外部の者が口を出していいものなのか。それとも彼ら自身がやがて解決していくべき問題だと、こちらはじっと見守るしかないのか。イスラームについて考え始めると、いつもここで堂々巡りに陥る。
◆でも、どんな立場に立つとしても、あの広大な地域で1400年にわたって綿々と営みが続いてきた、イスラーム文明へのリスペクトは欠かせない。国益だの、日本の立場だのという議論は横目で眺めるだけにして、16億の隣人たちとどう付き合うかを考えていきたいと思う。
●不完全燃焼だったという思いが強く残っているので、この報告会でうまく伝えられなかったテーマをウェブサイトで少しずつフォローしていくことにしました。題して「いろはにイスラーム」。長野画伯のロゴのおかげで思いのほか立派なサイトになっていますが、まだまだ中身はこれから。月刊『望星』の書評や上映した写真、さらには押さえておきたいイスラームの「いろは」などを順次掲載していきます。http://site-shara.net/irohani/。
●また、今月の20日(金)に、イスラームについて語るスライドとお話の会を個人的に開きます。場所はJR中央線・西荻窪駅から徒歩3分半の「西荻南区民集会所」(定員40名)、19時から21時まで。会費は200円。詳細は上記サイトでご確認ください。
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