2014年12月の地平線報告会レポート


●地平線通信429より
先月の報告会から

時代の渦を写す!

渋谷典子

2013年12月26日  榎町地域センター

■2014年最後の報告者は写真家の渋谷典子さん。渋谷さん(愛称はテンコさん)は東京写真大学を卒業後、ワークショップ写真学校の東松照明ゼミや森山大道ゼミで学び、1976年からフリーの写真家として活動を開始。ちょうど地平線会議が発足した79年頃に全盛期を迎えた「竹の子族」や「ロックンローラー」「新宿」などのドキュメンタリー写真を撮ってきた。その一方で、20年近くにわたり、映画のスチールカメラマンとしても活躍。三船敏郎主演のヤクザ映画『制覇』(82年公開)に始まり、高倉健主演の『夜叉』(85年)や『鉄道員』(99年)、吉永小百合主演の『玄海つれづれ節』(86年)など、写真誌の取材も含めて11本の映画に関わった。その経験は2013年11月に刊行された渋谷さんの著書『映画の人びと』にまとめられている。報告会では、前半に映画のスチールカメラマン、後半にドキュメンタリー写真家として撮ったたくさんの写真を見せてもらった。

◆テンコさんが映画のスチールを撮り始めたきっかけは、一本の電話だったそう。写真誌の編集者から「東映で女性カメラマンを探しているから、会ってみないか?」という内容だった。男ばかりだったヤクザ映画の現場を女性の視線で撮らせて、宣伝の材料にしようという意図があったようだ。映画に興味のあったテンコさんはそのオファーを受けて初めての現場へ。「朝でも昼でも夜でも出会った人みんなにお早うございますといいなさいと、それだけ習って送り出されました」。

◆映画の世界でのテンコさんの立ち位置はちょっと不思議だ。もちろん役者とは違う。映画の作り手とも違う。撮った写真はポスターやチラシ、パンフレットなどの宣伝材料に使われるという意味ではスタッフの一員なのだけど、完璧な当事者というより映画に情熱をかける人たちを間近に目撃した人という印象。『映画の人びと』の副題にも「女性カメラマンの映画撮影現場体験記」とあって、やっぱり独特の距離を感じる。報告会でも本でも、映画という特殊な現場でテンコさんが出会った驚きや場の雰囲気が率直に語られていた。

◆たとえばスチール写真はどのように撮るか。本番のカメラが回っている間にシャッターを切ると音がフィルムに入ってしまうので、スチールカメラマンはテストのときなどにムービーのカメラのすぐ横あたりから撮るそうだ。このとき背中を向いている役者がいると宣材には使えないので、重要なシーンでは本番のカットがかかってから、いったん撮影の現場を止めて向きを変えて再現してもらう。セット中に聞こえるように「スチールお願いしまーす」と声を張り上げるのはテンコさんにとって緊張の一瞬だったという。「ポスターに使われるようないいシーンでこそ現場を止めなければいけないのだけれど、いいシーンはやっぱり盛り上がっていて、いい流れになっているので申し訳ない気持ちだった。でも照明が変わってしまうと同じものは撮れなくなるのでそのときにやるしかない。初めて止めたときは前の日から緊張して、えいやっていう感じで言いました」

◆その他にも、照明や音声、記録など映画に関わる様々な仕事に携わる人の姿をテンコさんのカメラはとらえていて、記録の人はシーンの終わりで登場人物の服のボタンがどこまで留まっていたかとかグラスの酒はどこまで入っていたかまで細かく記録するのだとかいう、観客には馴染みの薄い特殊な役割についても語られた(詳しく知りたい方は本で!)。

◆ミーハーな一人として見逃せ(聞き逃せ)なかったのは、撮影の合間に見せるスターたちの素の表情や撮影にかける意気込みのエピソードだ。三船敏郎は黒沢映画に出たときに「役者は現場に台本なんか持ってくるな」と言われてから台本を持たずに撮影に挑んでいた。緒方拳はとても真面目な印象の人で現場でも監督と長い時間をかけて打ち合わせをしていた。

◆高倉健と初めて会ったときには電磁波のバリアーが周囲に張り巡らされているかのように感じて近づけなかった。でも、とても気配りをする人でかつ芸人好きで、ビートたけしと共演したときには最寄りの駅まで花束を持って迎えに行ったり、志村けんには「弟子志願の高倉です。こちらは寒いので風邪をひかないように」とメールを送っていたり。しかも、(笑えないこともある)オヤジギャグが好き! 吉永小百合はソープ嬢を演じた現場で、小さいビキニに透け透けのドレープ姿でも堂々と歩き回って女優魂を見せていたとか、藤田まことは売れない時代に全国のキャバレー回りをした経験から、また売れなくなったときのために、そのときの楽譜を捨てずに持っていたとか……etc。

◆テンコさんが最後に入った映画の現場は『鉄道員』だ。『夜叉』で高倉健を撮って間もない頃にやはり高倉健主演の映画『あ・うん』(89年公開)のスチールカメラマンとして声がかかったが、乳飲み子を抱えていたために断念した経緯があったので、「高倉さんが東映で19年ぶりに撮るこの映画はどうしてもやりたい」と志願したそうだ。

◆雪の中に真っ直ぐに延びる線路脇で高倉健が天を見上げる、全体に青みがかった風景が印象的なポスターはテンコさんが撮ったもの。この場所に立った瞬間に浮かんだ構図だという。「このとき高倉さんは役に入っているのが分かったのでテストでもシャッターを切れずに、監督のカットがかかった瞬間に撮った。遠くに見える信号は青ではなく赤でなければいけないと自分では思っていたので、カットまで赤が灯っていてくれてラッキーだった」

◆映画では終盤、死を目前にした主人公の前に死んだ娘が成長した姿で現れる。このシーンでもテンコさんは写真を撮ることができなかったという。「一脚を持って手をカメラではなく胸のあたりに置いていて、その手を動かすことすらできなかった。動く手が二人の視界に入っちゃいけないと思って。みんなフリーズ状態で微動だにしない。セットがひび割れるんじゃないかというくらいの緊張感でした。私もここは撮らないのが仕事だと思って撮らずに、あとでスチールの時間をもらいました」

◆『鉄道員』を撮り終えてテンコさんは映画の世界から身を引いた。従来のドキュメンタリーの仕事に重心を置くことと、子どもと過ごす時間を増やしたいと考えたからだと著書に記している。

◆後半は、そのドキュメンタリー写真が披露された。ひとつひとつに時代の空気が反映されていて、懐かしさを感じたり、自分の知らない歴史を初めて目撃した気分になったりした。テンコさんの代表的な仕事のひとつである竹の子族は、ピーク時にはロックンローラーの踊り手と合わせて6000人、ギャラリーが10万人もいたという。私は70〜80年代の流行を語る系のテレビ番組などでしか見たことがなかったのだけれど、ひとりひとりの若者の表情がくっきりとして印象に残った。

◆そのなかには後に自殺した元アイドルの沖田浩之の姿もあった。テンコさんが撮った対象はその他にはこんなものたちだ。中上健次。都立高校の入学試験を毎年解くというビートたけし。ボクサーの小林光二。新宿ゴールデン街。伊勢丹のライトアップ。建て替え中のコマ劇場。花園神社。さくらや。「笑っていいとも!」最終放送日のアルタ前。都立西高アメフト部。早稲田大学祭でのボディビルダー。零戦とエノラ・ゲイの滑走路。そして反原発デモ。

◆70年代から現在に至るまでの様々な写真のなかには、いまは無くなってしまったものもたくさん写っていて、なんだかとてもドラマチックだ。その一枚がかつてあったものの存在証明をするばかりでなく、時代の空気をも思い出させるのだから写真の力ってすごいと改めて思う。現在進行中の反原発デモを撮り続けているのも、いまの人に見てもらうだけでなく後世の人に伝えたいからだとテンコさんは言う。いまの時代の写真を未来の子どもたちはどんな思いで見るのだろうか。(菊地由美子


報告者のひとこと

報告したからには、今、取りかかっているテーマはきっちり形になるまで撮り続けなくては

■自分が会場の皆さんに向って話す、初めての地平線報告会。まさか私が報告者になるなんて、青天の霹靂。地平線会議には35年前、友人の中村易世さんから、「面白い報告会があるから来ない。写真が凄いから」と誘って貰い、おそらく3回目位から参加。途中、結婚、子育てと、中抜きがあり、21世紀初の報告、関野さんの「グレートジャーニー」から復帰。次月が石川直樹さんの「ポールトゥポール」。さすが地平線会議は凄い、とてつもない人たちがいる。と、また足を運ぶようになりました。今月はどこの世界に連れて行ってくれるんだろう、どんな写真を見せて貰えるんだろうと毎月楽しみにしていました。

◆2013年11月、初めて出した本「映画の人びと」を読んでいただいた江本さんに、「『映画の現場』のこと、70年代から撮り続けている『新宿』、80年代に撮っていた『竹の子族』、新たに取り組んでいる『反原発デモ』のこと等、今まで撮った写真のことを語ってくれればよいから」と、お誘いがありました。私のしてきたことや写真は、地平線会議の今までの報告者の方たちとは違うと思いましたが、一度皆さんに私の写真を見ていただき、感想を聞かせていただくのも良いのでは、と思い引き受けました。

◆初めての打ち合わせから当日の準備まで、その間、通信作成、発送。側で見ていて世話人の方々のご苦労が良くわかりました。今回はとくに、暮の忙しいときに丸山純さんが私の写真を147カットすべてスキャンしてデータを作ってくださり、恐縮しました。今年で36年目に入る地平線会議。継続の凄さを、改めて感じます。人前で自分の写真について報告するのも初めて、それも2時間以上も。グダグダな報告になってしまいましたが、終わってから「もっと他の写真も見たかった」と数人から声が掛かり、やって良かったと思いました。報告したからには、今、取りかかっているテーマはきっちり形になるまで撮り続けなくてはと、気も引き締まりました。今後、写真展、写真集等、発表していけるよう、頑張ります。(渋谷典子


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