2014年11月の地平線報告会レポート


●地平線通信428より
先月の報告会から

地平線特別報告会 in 豊岡

2014年11月23、24日 兵庫県豊岡市・植村直己冒険館
 フロント原稿にあるように、2014年11月、数えて427回目の地平線報告会は、東京を離れて兵庫県豊岡市の植村直己冒険館で、冒険館の20周年記念行事とタイアップするかたちで行なった。セレモニーには地元豊岡市民、豊岡市長、市議会代表、植村直己夫人公子さん、植村さんの母校・明治大学関係者、東京・板橋にある植村冒険館関係者らに加え、野球の野茂英雄さん、関野吉晴さん、地平線会議代表世話人らが参加。次いで、場面を切り替え、全国各地から集まった仲間を中心に地平線会議が主催する「特別報告会」となった。植村直己冒険館での地平線報告会は1999年7月24日、地平線会議20周年記念集会が行われたのに次いで2度目。以下、特集のかたちで豊岡レポートをお届けする。まずは、中島ねこさんの「あらすじ」から──。

[メモ的あらすじ]

■天気に恵まれた勤労感謝の三連休初日。緑と紅のコントラストが美しい山あいを進み、午後の日差しが差し込む冒険館に到着。中庭には、海のグレートジャーニーで活躍した縄文号が鎮座。紅葉をバックに、いぶされつつあるイノシシ、シカ、ブタ肉を見守る縄文号クルーや助っ人の学生たちや彫刻家。昨日から、薫製棚を組んだり、燃料の木材を切り出したりとフル回転。明日来場者に提供するため、これから徹夜で火の番をする。少しいるだけで、“たき火の匂い”がくっついてくる。

◆近所のスーパーに夜の部の買い出し。夕方、到着した地平線会議代表世話人の江本嘉伸さんらと合流。吉谷義奉館長交え打ち合わせ。夜は民宿『可愛人屋』で但馬牛のすき焼き。

◆翌日、朝方にぱらついていた雨も上がる。冒険館に向かう途中、本格的ランナーを見かける。やはり(!)、福島県から参加、京都からはランで向かっていた渡辺哲さん。京都発22日9時34分、同日20時39分福知山着。そこからはノンビリペースで、冒険館に午前10時55分ゴール! 元気で空腹。

◆やがて地平線関係者たちが続々到着。『開館20周年記念 植村直己冒険館感謝祭』のもと、『地平線特別報告会 in 豊岡』の準備が始まる。多くの来場者が行き交い、芝生広場では地域によるバザーの豚汁やおにぎりなどを人々が笑顔で味わっている。クラフトやツリーイング、火起こし体験、呈茶などもあるようだ(来場者数約2,200人)。『冒険家たちのおもてなし』と称し、縄文号航海ゆかりのインドネシアカレーや一昼夜かけていぶした肉も、どんどん無料で提供。世界各地の塩や特製ソースと合わせる趣向。『森の音楽会』と題した本格的なブルーグラス演奏も祭りを盛り上げる。

◆427回目の報告会ではあるが、勝手の違いが課題につながる。一個ずつほぐすうち、どんどん時は過ぎ、13時30分、中庭で記念式典開始。中貝宗治市長はじめ、地元や東京から要職にある方たちが集まるなか、植村直己さんの妻、植村公子さんの姿も。間にトークショーを挟み、14時30分、報告会進行者の丸山純さんにバトンタッチ。報告者たちのプロフィールが掲載された地平線通信特別号を、付近の人々に配布し、特別報告会第1部がスタート。

◆帆を上げた縄文号の上から、関野吉晴さんの『縄文号の上で、風、波、潮、雷に翻弄されながら、考えたこと』。自然からの素材で舟を手作り。砂鉄を集め、たたら製鉄をし、やぐらを組んで木を伐り、パンダナスの葉で帆を織る。/30年前に廃れてしまった技を伝えて喜ぶお年寄り。学ぶ島の若者たち。/精霊への祈り。/民族・宗教・世代が違うメンバーで乗り越えた足掛け3年の奇跡の旅路。/舟の上でのハイセツ方法。/使わないと衰えていく感覚。太古の人のように五感を使いながら旅をしたかった。/例えば患者が診察室に入る時から診察は始まる。/海の色で深さを知る。/風まかせ、潮まかせ。自然には逆らえない。/科学でできるのは、自然を知り、予測を立て、対策を練ること。/恵みと戒めをもたらす自然を変えることなどできないことを、また痛烈に感じる。/自然さえ残していれば一からやりなおせる。人間に酸素は作れても、光合成はできない。/地球はわたしたちに関係なくできている。多分、ほろびるときも、わたしたちと関係なく。Q.目の前の未来について。超高齢社会に思うことは? A.健康寿命をいかにのばすか。走らず、歩く。自転車の方が膝を痛めない。ただし、単に長生きするのが目的ではない。5〜6歳短命になってもいいなら好きなことをすればよい。

◆第2部は小ホールに場を移す。テーマは『極地』。椅子を足し、70人近くがすし詰めで聴き入る。北極冒険家の荻田泰永さんによるビデオ上映。シロクマに遭遇し、声で威嚇。/無補給で限りある時間の中、乱氷帯をできる限り直進する。/「腕力よりも忍耐力」。/小さいリードはドライスーツで泳ぐ(参加者が試着し、会場を回ってくれる)。/気温−30度。水温の方がはるかに暖か。/体脂肪も消費カロリーに当て込む。体重15kg減。/資金繰りの苦しさ。/講談社から『北極男』刊。市長挨拶。「冒険の層の厚さがすごい」。そのまま後半も傾聴される。

◆元南極観測隊(通算2年4か月)、岩野祥子さんの話。プロジェクトX風ライギョダマシ釣り映像。観測史上新記録の魚拓。/南極大陸の成り立ち。地球の歴史を1年に例えれば、0.548秒な人の一生。/南極点到達争いの歴史。ぜひ知ってほしい南極探検家白瀬矗。/戦勝国優先の基地事情。領土権主張はできない南極条約。南極ベビー。/凍結された情報、南極観測の意義。/コケ100種、日本が発見した、湖底のコケボウズ。/海洋大循環。オキアミが減れば、地球の気候が変わる。/日本国民、地球人の自覚。東日本大震災では「仲間が大変だ」。/地域のつながりに身を置き、育む。

◆明治大学山岳部炉辺会元会長の中尾正武さんから、南極観測の初予算化や南極点1時間滞在の話。社団法人N.A.Pは、「冒険家は冒険だけに注力を」と、資金面で荻田さんを支える。

◆コーディネーターの江本さんが、岩野さんとモンベルで開発した女性目線のウエアのことや、荻田さんの苦しい資金繰りについて水を向けるうち、気付けば終了時刻の午後5時。少しだけ館内見学。2013年植村直己冒険賞受賞者田中幹也さん企画展をご本人と観る不思議。多くの語録展示が印象的。館内全般言葉の展示が目立ち、語りかけてくる。

◆地平線特別報告会は『夜の部』会場の可愛人屋へ。広間にボリューム満点のオードブルや炊き込みご飯のおにぎりが並び、まずは腹ごしらえ。吉谷館長差し入れのセコガニを、おかみさんの剥き方講習に学び、むしゃぶりつく。差し入れの貴重な各種酒類を、四六乃窯・友の会(彫刻家・陶芸家の緒方敏明さんの作品を通して創作活動に触れる有志の集まり)のぐい飲みコレクションでいただく。荻田さんへの質問。「北極では、何時に寝て、何時に起きるの?」「朝6時に起きて10時半ごろ寝る感じ」。約70m先、目が合ったシロクマに向けての映像と音声。「おいクマ! おーい、おーい、おーい!」。岩野さんへの質問。「こどもが喜ぶ話って?」「南極の話には食いついてくる。こんな世界がある、すごいよ、と伝える」。

◆夜の部には、エアフォトグラファーの多胡光純さんも報告者として登場。日本の桜、紅葉、流氷風景の映像。「自分の目で見たものを自分の手でまとめた」DVDを12月16日に発売。プロの音楽家とのコラボレーションにも取り組むこの頃。DVDのほか、ipadやカレンダーも立てられる、arumitoy作、木のスタンドも紹介された。

◆お腹も落ち着いたところで、メッセージが紹介される。「私の作ったお菓子が皆様の輪の中にあることを嬉しく思います……」。お待ちかねの甘いものが、ずらりと並ぶ。これが噂の、原典子さんお手製スイーツ! シフォンケーキ、オレンジケーキ、ナッツケーキ、ブラウニー、オレンジ&グレープフルーツピール。折角なので、なんと15年前の冒険館報告会が馴れ初めの夫妻により、ケーキ入刀。冒険館の職員のみなさんにもあらかじめお分けし、みんなで甘い幸せをいただく。

◆北海道、山形、福島、長野、岐阜、千葉、埼玉、神奈川、東京、愛知、大阪、奈良、和歌山、岡山、香川から、冒険館目指して集まった、世代もまちまちな地平線特別報告会 in 豊岡号乗船者たちと、たくさんの差し入れとともに合流してくれた冒険館スタッフの、リレートーク。ネパール旅の飛び入り映像も加わり、和やかな時間。歓談は夜中まで続いた。

◆翌朝は案外みんな早起き。しっかり朝食。ぽつぽつと帰路につく参加者も。個別に送っていただく。この2日間、冒険館以外の市の職員さんも、送迎ほか、地平線のお世話を休日返上で引き受けてくれた。8時30分、冒険館からバスを出してもらい、神鍋高原お鉢巡り。眼下には里を抱く山々が靄に浮かび上がる。冬まぢかの、すがすがしく香ばしい草の香り。

◆再び冒険館へ。吉谷館長に話してもらう。「距離ではなく、来て、盛り上げてやろう、という心が嬉しい」。地元出身の館長さん、中学時代、植村直己にはまるで興味がなかった。そして今も恐らく3分の1もわかっていない、と。/冒険館に関わるようになり、植村直己が、冒険そのものよりも人柄を評価されていることを知る。/伝えたいことは、『冒険の業績』、『こんな日本人がいた』、『チャレンジする心の大切さ』。/『頂点以外は評価されず、“かしこい”が先、“やさしい・親切”はあと』の日本だが、てっぺんよりプロセスを大事にしたい。「田舎はいいね」と言われるが、それは、そうした評価をブロックしているから。/植村直己は目を見て話し、にこっと笑い、相手を和ませた。/植村直己を知らない人が増えていくなか、日本人でいろんな冒険をしている人を、その心や言葉を、紹介していきたい。/来年、2度目の冒険フォーラムを企画中。力を。

◆田中さんじきじきのクライミング教室終了後の昼どき、参加者の保存の技のおかげで、昨夜のごちそうをまた楽しみ、江本さんの解説付きで、館内を見学。屋上のメモリアルウォールで植村直己の軌跡をたどれば、そろそろお開き。館長自らがバスを運転し、冒険館スタッフに見送られ、江原駅へ。帰宅後、窓口としてたくさんのやり取りをしてくれたスタッフからは、ねぎらいのコール。

◆何に価値を置くか、冒険館からの宿題。あたたかな気持ちが、お土産。翌日からは、断続的に雨が降り続いた。(中島ねこ


地平線特別報告会 in 豊岡レポート

歩き継ぐものたち

関野吉晴 荻田泰永 岩野祥子

2014年11月23、24日 兵庫県豊岡市・植村直己冒険館

第1部 「縄文号の上で、風、波、潮、雷に翻弄されながら、考えたこと」

■「みなさんこんにちは。関野吉晴です」。植村直己冒険館で行われた、地平線会議特別報告会・第1部。冒険館に寄贈され、久しぶりに組み立てられた「縄文号」が中庭で存在感を放っている。第1部の舞台は縄文号、会場はぐるり、その周辺なのだ。芝生の緑に映えるこの美しい白色の舟の上で、関野さんが話し始める。ジャケットは脱いでポロシャツ姿、先ほどまで参加されていた式典から一転、リラックスした雰囲気だ。

◆自分の腕力と脚力のみで、人類の足跡を逆から辿る「グレートジャーニー」。足かけ9年、2002年にこの壮大な旅を終えたあと、日本人が日本列島に辿り着くまでの(北方、南方、海洋)ルートを辿ったのが「新・グレートジャーニー」だ。海洋ルートを辿る「海のグレートジャーニー」は、「すべて自然から素材を採り自分たちでつくる」というコンセプト。木を伐採して炭を焼き、砂鉄を集め、たたら製鉄をして、日本で学生たちとつくったのは、斧、鉈、蚤、ちょうな。この5キロ分の工具を完成させるためには、150キロの砂鉄と、3トンの森林伐採をして焼いた300キロの炭が必要で、「これが私たちの文明の歴史ですね」と関野さん。

◆インドネシアの西海岸に渡り、マンダール人の舟大工たちと高さ54メートルの大木を切り出して、この縄文号をつくった。困難だったのは、隆起サンゴで消石灰、ココナッツでココナッツオイルをつくり、それらを混ぜ合わせてつくった漆喰による「塗装」(帰国後にも再び、傷まないよう塗り直した)。そして、いまここで堂々と広げられている「帆」だ。これは、30年前までヤシの葉の繊維を使って織っていたカロロという布。お年寄りにつくってもらうと、お年寄りは生き生きとして、一度途絶えた文化に若者も興味津々、村の人達が喜んでくれたという。

◆日本人4人と普段はマグロ漁師であるマンダール人6人、合計10人のクルーが、二艘に分かれて航海。1年(4月から大型台風多発前の8月の間)でインドネシアから沖縄まで約4700キロメートルを行く予定が、逆風や無風に苦労して、3年がかりで石垣島に到着した。

◆20代〜50代の年齢差に民族の文化の違い……、舟上で24時間生活をともにする中、大変なのは、やはり「人間関係」だったという。インドネシアでは上下関係を重んじるため、若者クルー(前田次郎さん、佐藤洋平さん。「冒険家のおもてなし」準備で連日徹夜、この時も、朦朧状態で来場者に鹿やイノシシの丸焼きをふるまっていた!)が注意をすると「恥をかかされた」と口をきいてくれなくなることも。

◆けれど、(本業のマグロ漁中に遭難して亡くなった一人を除いて)3年間同じメンバーで航海、ゴールができた。1年目にホームシックで脱走しようとしたクルーを、2年目に他のクルーたちが「同じマンダール人として恥ずかしい」と外すよう訴えたが、関野さんは聞かなかった。「みんなそれぞれ、長所も短所もある。励ましてあげるのが、友達じゃないか」。

◆舟の上での報告会の醍醐味。実際に使っていた素焼きの窯を見せながらの食の話や、前夜の講演会の時、「明日は舟の上で実演します」と宣言していた通り、アウトリガーの部分まで下りて、聴衆の方にお尻を突きだしてしゃがみ、「ここなら波が来れば『水洗トイレ』になる」と会場を笑わせる場面もあった。

◆一神教である中東のイスラム教徒には許されないことだが、マンダール人たちは、木にも山にも海にも、精霊がいると考えている。舵を海に差し込むことは、海を痛めつけること。つねに海の精霊に祈りながらの航海だった、という。ほかにも木を切る時、舟をつくる時、いつだって祈りがあり、縄文号は「祈りのつまった船だ」と関野さん。東京生まれの関野さんは、五感を使わずとも生きている世界にいる。五感は使わないと衰えてしまう。太古の人達と同じように旅をして、彼らがなにに苦労してなにに喜ぶのか、少しでも同じ感覚を得たい。だからこそ手作りにこだわり、五感を研ぎ澄まして、航海を行った。

◆濃紺、コバルトブルー、エメラルドグリーン。海図を見なくても、海の色を見れば深さはわかる。風向きも肌でわかる。夜間の方向は島影と星だけが頼りだが、曇っており月が見えない夜は勘を頼りに進み、早朝になって修正した。縄文号は近代ヨットのようには進まず、まさに「風任せ」。「自然には逆らえない」と痛烈に感じ、航海中、「神様の始まりは自然信仰だ」ということが実感できたという。太陽や山や海は恵みを与えてくれるが、人を懲らしめたり戒めたりもする。科学技術が進歩しても予測と対策がとれるだけで、台風も地震も抑えることはできない。

◆私たちは、科学技術で作り上げた現在の快適な空間、すべて失っても一からやり直せるが、もしも植物がなくなってしまったら一か月は持たないだろう。だからこそ、科学は自然をよりよくするために使うべきだ。青い空の下、風を感じながら聞く関野さんの言葉は、いつも以上に力強く迫ってくる(そして「一からやり直せる」と言い切れる、関野さんのかっこいいこと!)。

◆最後に江本さんが、医療の発達による日本の長寿化について尋ねると、「自分は延命処置はして欲しくない」と言うとともに、(健康寿命を延ばすには)「走るような無酸素運動はいけない」「自転車がよい」と、「ドクトル関野」に変身。時間も残り少なくなり、司会の丸山さんが話を受けて、「地平線会議には、(健康に悪い)ランナーがたくさんいる」と、京都から冒険館まで走って来たウルトラランナー・渡辺哲さんを紹介、和やかに終了、となりかけた時。「でも」と遮った関野さん。「なにかをするために生きるのであって、長生きが目的ではない。好きなことをやりながら生きるのだ」。柔らかくも、きっぱりと言い切った。祈りのこもった舟、縄文号と、共に立って。(ますます関野さんのファンになった加藤千晶

第2部「極地を歩く知恵━━あの時代と現在」

■快晴の空の下「縄文号」の前から、特別報告会の第2部は小ホールへ移動。ゴンドラ、犬ぞりと謎めいた展示物がそこかしこにある冒険館の中でも、なぜここに魚拓なのか、そしてオレンジ色のレインコートのようなものは何なのか、小ホールは際立って不可解な一角に……。予想以上の参加者の多さに、席があっという間に埋まり、廊下にも人だかりができた。

◆参加者の中には豊岡市の中貝宗治市長の姿もあった。謎の魚拓を前に歓迎のあいさつ。「植村冒険賞の受賞者にはよくこんな人が世の中にいるものだと毎年驚く」と話し、2011年に続く次回の「日本冒険フォーラム」開催と冒険賞の20周年に地平線会議の協力を求めた。いまの北極は、植村直己さんが目指した北極と様変わりしている。第2部は北極、そして南極に親しい2人の話。

◆「北極男」の荻田泰永さんは「北極点無補給単独徒歩到達」を目指している。定期便の飛んでいるレゾリュートからチャーター機でカナダ最北端近くのディスカバリー岬まで飛ぶ。植村さんの時代はそこより少し東のコロンビア岬がスタートだった。ディスカバリー岬から北極点まで直線距離で800キロ、スキーを履いて、そりをひき、ストックを支えに海の上に張った氷の上を歩く。南極と違い「足下が動いているのが北極の難しいところ」。海氷が動くことで生まれる乱氷帯をいくつも乗り越える。道はなく、その場その場でどこを歩くか決めなければならない。

◆彼の挑戦は地球温暖化とのたたかいでもある。ピアリーやナンセンの頃にも乱氷帯はあったが、温暖化によって「氷に堪え性がなくなった」ために、リード(氷の割れ目)が発生しやすくなっている。だから昔よりも難しい、と彼は言う。彼が目指す無補給単独徒歩に成功したのは20年前にノルウェー人の冒険家、ボルゲ・オズランドだけ。その後は成功例がなく、それというのも海氷状態が悪くなっているからなのだ。

◆無補給だと持っていく食糧の量で「締切」が決まってしまう。とにかく最短経路を行くのがいまの極地冒険の鉄則だ。乱氷帯は乗り越え、小さいリードは泳ぐ。オレンジ色のレインコートのようなものは、なんと氷の海を泳ぐための「ドライスーツ」だった。6月の地平線報告会では映像に映っただけだったが、荻田さんは今回、その実物を持参した。水の中に入るとぷかぷか浮く「着る浮き袋」。福島から来たランナー、渡辺哲さんがこれを着てみせたが、陸上ではダボダボの寝袋を着ているようで少し可笑しかった。

◆巨大なリードは寒冷地でも硬くならない特製フォールディングカヤックを使う。それを造った高嶋正裕さんも姫路から会場に来ていた。彼の冒険は様々なコーチに支えられたスポーツだ。このドライスーツがあったら「グレートジャーニー」も違う展開になっていただろうと関野吉晴さんも話した。関野隊がシーカヤックで通過したベーリング海峡も、ドライスーツとフォールディングカヤックがあれば、徒歩と組み合わせて横断できたかもしれない、と。荻田さんは今年の春、北極海の上を48日間苦闘して撤退した。「来年もまた北極点に再挑戦します」と彼はにやりと笑い、報告をしめくくった。

◆続いて東日本大震災の被災地ボランティアで「南極さん」と親しまれた岩野祥子さん。彼女は南極観測隊の隊員としてこれまでに2回越冬している。さっそく壁に貼られた魚拓に触れる。なぜ南極に魚? 実は昭和基地周囲の海ではライギョダマシという深海魚が釣れる。南極観測隊50周年の2007年、岩野さんたち越冬隊員は大物釣りの記録更新をと1年かけて準備した。彼女が編集したドキュメンタリータッチの映像には、厚さ1メートルを超す海氷に穴を開け、そこから糸と仕掛けを垂らす様子が写っている。会場から歓声が上がる。魚拓は138.3センチ、35.0キロという「日本新記録」のライギョダマシだった。

◆南極には地球上の全体の90%の氷があり、氷床の厚さは平均2200メートル。いちばん分厚いところで4800メートルもある。「富士山の上にさらに1キロも氷が載っている本当に氷だらけの大陸」だと彼女は言う。「氷だらけ」なことが、地球形成や宇宙の歴史にいたるまで科学上のさまざまな発見につながっている。例えば恐竜の化石からは、パンゲア大陸から分裂して南極大陸が現在の位置に納まるまでの経緯が推測できる。例えば南極では隕石が2万8000個も見つかっている(南極以外ではまだ5000個)。凍結保存されて風化しなかった隕石からは太陽系形成時の様子や小惑星の内部構造などがわかった。

◆厚さ3000メートルの氷を掘り出してみれば、太古の時代に降った雪から当時の二酸化炭素濃度や気温など大気の組成がわかる。驚くべきはその長い歴史の中でもここ200年での二酸化炭素濃度の急上昇ぶり。人間の社会活動が地球環境を変えている証左が氷からわかるのだ。最後は大急ぎになった。冬の気配がしのびよる外はすっかり暗くなっていた。(落合大祐


報告者のひとこと

私たち一人一人が掛替えのない、たったひとつしかない物語を紡いでいるのだと思います

■縄文号とパクール号を豊岡の植村直己冒険館に寄贈させてもらい、今回は縄文号が久しぶりに組み立てられ、帆を張って展示されてほっとしました。また各地から来てくれた地平線のメンバーに見てもらうこともできました。

 荻田君、岩野さんの北極、南極の話も聞けてよかったです。荻田君は次回は北極点に立ってほしいですが、まだこの先長いので、無理をせずにじっくりと進めてほしいです。これだけ懲りない人間なので、いつかはきっと北極点に立てると思います。

 岩野さんは私たち人類の生きている時間は地球史の時間軸の中ではコンマ5秒という話でした。同じように銀河系以外の宇宙の果てから見れば、地球の表面に住んでいる人間たちは本当にちっぽけな存在です。そういう違った時間軸、空間軸で自分自身を見てみることは必要だと思います。

その上で私たち一人一人が掛替えのない、たったひとつしかない物語を紡いでいるのだと思います。確かにちっぽけな存在ですが、決してつまらない存在ではありません。皆、輝く瞬間があるはずです。(関野吉晴

装備とは命そのものであり、人間の知恵と工夫の産物である

■自分にとって、植村直己冒険館は2回目の訪問だった。初めての訪問は今から二年ほど前だろうか。何の前触れもなくある日突然見学に行った私を、そのときの館長さんだった小谷さんが歓迎してくれて一緒に食事に誘っていただき、翌日には車で植村さんのお墓やコウノトリ見学など各所の案内までしていただいた。

 その時に強く感じたのは、豊岡の方々の植村さんに対する愛情だったのだが、今回の訪問でも同様の感動があった。冒険館の式典に来ているお客さんたちに若い方々が多く、そして人数の多さに驚いた。若い人たちにも植村さんの存在すら知らない人が増えている、という話を聞いたことがあるが、植村直己冒険館の式典に若い人が多く来ているというのは救われた思いがした。

 館内展示では、目の前に植村さんが実際に使用した装備類を見ることができるのだから、是非ともその装備の向こう側にある冒険の苦悩や試行錯誤に想いを馳せていただきたい。人間は弱い生き物なので、極寒の極地では物を持たなくては生きられない。装備とは命そのものであり、人間の知恵と工夫の産物である。装備は時代と共に変化し、それは冒険の手法の変化でもある。

 19世紀初頭のヨーロッパの極地探検家たちは、艤装された軍艦で凍った海に乗り込んで、舞踏会にでも行くような燕尾服の腰から刀剣をぶら下げ、粗末な防寒着で寒さに震えた。ナンセンやアムンセン、ピアリーなどが活躍した19世紀末からの英雄時代には、積極的にエスキモーの生活技術を探検に取り入れ、犬ぞりや毛皮の衣類を用いることで目覚ましい探検成果を上げた。

 植村さんの時代になって、単独での北極点到達が果たされた。飛行機の物資補給や極点からの帰路が飛行機でのピックアップなどは当時批判されたという話であるが、単独という手法の変化を追求すれば仕方ない話である。貧弱な装備に身を震わせた時代からの積み重ねがあってこそ、現在の無補給での北極点到達や、北極海横断などが実現できているのである。

 近年、北極海の海氷減少が著しい時代となって、北極点到達は難易度が増している。だからと言って北極点到達が不可能になったわけではない。これまで通りの、ある種マニュアル化された北極点挑戦手法では困難であるのならば、今の時代の新しい手法を自分で考えて産み出せば良いだけの話である。これまでの過去の探検家たちは、みんなそうやってできなかったことを実現させてきたのだろうから、自分もその末端に加わりたいと心から願っている。(荻田泰永

一生懸命向き合うほどに、人生はおもしろくなる

■「植村直己冒険館」「兵庫県豊岡市」という、行動者にとってあこがれの場所で報告者となれたにも関わらず、報告者に徹しきれなかったことが、若干、申し訳なかったような気がしている。地平線会議に出入りさせてもらい始めてようやく8年。その間、浜比嘉、明治大学、南相馬など、いつもと場所を変えて行われた報告会やフォーラムがあったけれど、はっきりスタッフとして働かせてもらったのは今回が初めてだった。

 裏方はむしろ好きな方で、スタッフとして参加できたことは正直うれしかった。その一方で、今回のメインは報告者であることも十分理解していて、スタッフと報告者との切り替えをいかにうまくやるかが課題だなと思っていた。豊岡入りするまでも非常に忙しかったし、豊岡入りしてからも、自分のことに集中できる時間はほとんどなかった。本番の段取りも直前まで相談していたから、最後は集中力で乗り切るしかないのだが、それにしてもあと1時間、自分だけの時間が必要で、当日の朝、早起きして夜の部の宴会場で最終調整をしていた。

 そんなことをやりながら、江本さんはやっぱりすごいなと思った。全体の統括のみならず、22日夜の関野さんの講演会や23日の式典への出席など、行くことが大事、そこにいることが大事という役割がたくさんある。多くの人と会って、いろんな話をして、頭の中をいろんな事象が巡っているはずだ。寝る時間だって減る(実際、22日の夜、江本さんが帰ってきたときにわたしはもう寝ていた)。そういう状況で、いちばん目立つところでいちばん重要な役割を果たしていけるのは、これまで相当数の場数を踏んできたからだろうと思う。

 わたしも1回ずつ、経験を積ませてもらっている。今回も貴重なそのひとつとなった。チャンスをもらえることが何よりありがたい。過ぎ去る時間は巻き戻せないしやり直しがきかないから、その瞬間に最高のパフォーマンスを発揮することをいつも心がけている。より少ないエネルギーでそれができるようになりたい。そうすれば今回みたいな状況でもうまくやれると思うし、余裕ができればまた別のところにエネルギーを費やせるようになる。一生懸命向き合うほどに、人生はおもしろくなる。そしてその基本は一歩一歩、着実に積み重ねていくことなのだと、今回も実感した。貴重な経験をありがとうございました!(岩野祥子


こんな建物だったのか! 行くべし! 植村直己冒険館

■特別報告会の内容や冒険館へのアクセスを案内するオープンな場を用意しようと、10月後半にブログ(http://chiheisen.net/toyooka2014/)を立ち上げた。となれば、どこかに冒険館の写真がほしい。建物全体とか、正面玄関がどーんと写った象徴的な写真がないと、こういうサイトはどこか落ち着かないのだ。

◆ところがいろいろと探してみたのに、そんな写真はどこにもなかった。どうやら正面玄関などなく、建物の全体を見わたすこともできないという、とても不思議な構造になっているらしい。Wikepediaを見ると、この建物は著名な建築家である栗生明氏が設計したもので、「構造物の大半が地中にあるユニークなデザインで、1996年度日本建築学会賞受賞、1998年の公共建築百選に選出されている」という。

◆実際に訪れてみて、なるほどと納得した。来館者がまず目にするのは、丘の上に細長く延びる、磨りガラスで造られた直方体の箱である。これはメモリアルウォールと呼ばれ、側面には写真や新聞記事が焼き付けられていて、植村さんの軌跡をたどることができる。えっ、冒険館ってこんな小さな建物だったのかと思ってエントランスに向かうと、じつはこの磨りガラスは地下を割って伸びる通路の上部(天井と側壁)を構成しているだけで、通路に沿って地下に思いのほか広い展示室が設けられていることが判明して、驚かされる。

◆冒険館のウェブサイトによると「約200mに及ぶまっすぐな通路は、大地を切り裂くクレバスを表現し、通路を主軸としてイグルー(雪洞)をイメージする展示室・映像ホールなどがあります」という。そうか、ここはクレバスの底なのか。上部から差してくるのが自然の光だというのは、いかにも植村さんにふさわしい。このエントランスをくぐるだけでも、冒険館に行く価値がある。

◆さらに驚くのは、入ってすぐ左に折れると、本館とはやや斜めの方向に並走する別棟につながり、そこは明るい陽光がたっぷりと降りそそぐ庭園に面していることだった。荻田泰永さん・岩野祥子さんに登場いただいた報告会の第二部をやった小ホールもここにあり、部屋に入ったとたん、クレバスの底がいきなり外界と通じていたような感覚に陥る。それに並ぶ小部屋では、今年の冒険賞受賞者・田中幹也さんの「ひとりごと」を中心に組み立てた、ユニークな企画展示がおこなわれていた。

◆この別棟と本館との間が中庭になっていて、その一角に縄文号がどーんと鎮座ましましている。下が緑の芝生で、吹き渡る風に茶色の帆が気持ちよさそうにはためく。報告会の第一部では、関野吉晴さんが軽々と船の各部を移動しながら、船造りの過程や航海の模様を楽しそうに語ってくれた。中庭の後ろ側には、翌朝、幹也さんの指導でみんながチャレンジしたクライミングウォールがある。

◆メインの展示室は、2日目の昼に江本嘉伸さんの案内でじっくり見た。いまと比べると当時の山道具はずいぶん貧弱だったことに、改めて感心する。イヌイットの服や道具類も多く展示され、現地を知る江本さんが使い方を詳しく説明してくれて、とても興味深かった。報道などでよく目にした、懐かしい植村さんの写真の数々に再会することもできる。

◆こうしたハードウェアの素晴らしさ以上に印象的だったのが、スタッフのみなさんの笑顔とおもてなしの姿勢だ。解散後、私たちを乗せたバスや車が三々五々と出発していくのを1台ずつ最後まで手を振って見送ってくださった光景は、忘れられない。お世話になりました。ありがとうございました。(丸山純


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