■424回目の地平線報告会は、8月16日に27歳になったばかりの冒険家の関口裕樹(ゆうき)さん。5月の報告会で、話し手の田中幹也さんに憧れる若者として登場した人物だ。関口さんが「冒険家」になろうと決めたのは16か17歳の頃。当時から今日に至る10年間を振り返って話したいと思います、という出だしで報告会は始まった。
◆幼いころ、母子家庭で育った関口さん。母親は働きに出ていたため、おじいちゃん子だった。そのおじいちゃんもカナダ北極圏に出かける前に亡くなり、現在は家族構成としては母親と2人である。小学校のときはサッカー少年で、チームではキャプテン。中学校で始めた空手は地元山形県では無敗で、すべて優勝。ところが全国大会の2回戦で日本一強い中学生とあたり完敗。それ以降、空手はなんとなくやめてしまった。目標を見失った関口さんの、何かをしたい、という強い思いに「冒険」のイメージがピタリとはまる。そうだ「冒険家」になろうと思った。しかし冒険って何だ?
◆誰かの話を聞いて憧れたわけではなく、興味も知識もあったわけではない冒険。まずは冒険とは何かを調べるために学校の図書館にあった冒険関連の本を片っ端から読んでみた。印象に残ったのは、永瀬忠志さん『サハラてくてく記』、池田拓さん『ビーグル海峡』だ(池田拓さんは関口さんと同じ山形県出身の旅人。北米横断、南米縦断を単独徒歩した後、26歳で事故で死去。今回のレポーター坪井は南米で出会ったことがあり、この名前があがったことはうれしい)。山野井泰史さん『垂直の記憶』、平山ユージさん『ユージ・ザ・クライマー』。凄い衝撃を受けた。この時期にたくさん一流の人の本を読んだことは、わからないなりに自分にとってプラスになった、という。
◆ともかく何をするにしてもお金がいると思い、高校時代はアルバイトして将来のための資金を作り、同時にマラソン、筋トレ、などで体も鍛えている。わからなくても動く。動くと次の目標が見えてくる。関口さんの姿勢はぶれず、高校を卒業するとすぐに徒歩日本縦断の旅へ踏み出した。2006年5月、北海道の宗谷岬からスタート。基本は野宿と決めたが、初日は野宿がとにかく怖くてほとんど眠れなかった。初めての旅は沖縄の喜屋武岬まで2715キロ、109日間の徒歩旅だった。
◆翌2007年、自転車による日本一周。いずれは世界に出ると決めていた関口さんが、スキルを身につけるための旅。2008年韓国徒歩縦断。ソウルからチェジュ島。2009〜2010年、雄大な自然の中にテントを張りながら自転車でオーストラリアを一周。最高峰コジアスコにも自転車で登頂した。オーストラリア人は自転車を止めると、すぐに心配して車が止まってくれるほど親切な人たちで、出会いはいい思い出になっている。
◆関口さんはオーストラリアから帰国したころからブログをはじめ、現在はFacebookに記事も書く。ただ自分のルールとして、現地からの発信は絶対にしない、と決めている。困難なルートを行くときにメールなどに気をとられると、成功の可能性が下がる。行動する人がネット配信するのは当然という現在の風潮の中で、自分は冒険の質を下げるような行為はしたくないし、みなさんにも考えてもらいたい、という。
◆2010年台湾徒歩縦断。台湾は徒歩に加えて玉山(新高山)にも登る。確実にキャリアは重ねているはずなのに、この頃からやる気がしなくなってきた。例えばオーストラリアを自転車で一周すると、周りは大冒険と言ってくれる。でも実はそれは時間をかければできる。誰でも出来ることをやるのは冒険家として矛盾してはいないか、と、思うようになったのだ。
◆近年、関口さんは真冬の北極圏や真夏の砂漠に挑戦しているが、その大きなターニングポイントとなったのが、田中幹也さんをHPで知ったこと。厳冬期の過酷な自然条件のカナダに、自転車やソリを引いての徒歩などで一人挑む。冒険の成功率の低い悪条件の中で自分の限界まで全力を出し切る。結果大きな凍傷を負って帰国する。読んでいて胸が熱くなった。自分がやりたかったことはこれではないのか。幹也さんの辛口と言われるコメント。それはまさに自分の話したかったこと。今まで自分が言語化できなかったイライラを幹也さんが自分の代わりに言ってくれている。
◆今の自分の冒険哲学の根底には田中幹也がいる。でも幹也さんと同じようなことをするには、自分には寒さに対する経験がない。そこで2011年、冬の北海道を自転車で走ってみた。スパイクタイヤを履くと、まったく滑らない。ところがマイナス20℃で足の指が凍傷に。今思えば、寒さに対する装備がまるでわかっていなかった。ここで話は日本での生活についてに。
◆高校卒業後、関口さんは就職していない。23歳から支援してもらっているスポンサーは、現在9社に。ただ支援はモノがほとんどで、活動資金は主に夜のアルバイト(某大手牛丼屋)で稼いでいる。関口さんいわく、日本の登山界・冒険界はスポンサーに関しては否定的だという。自分が好きでやっている冒険を仕事にすべきではない、という風潮がある。でも自分はスポンサーを肯定的にとらえている。優秀な人間にスポンサーがつくのは当然で、もっと冒険者の社会的地位を上げ、冒険に集中できる環境を作っていかないといけない。
◆自己資金でやるのが美しいと思うのなら、それはそれでいい。でも自分は24時間、365日、冒険のことだけを考えていたい。ここにいる人たち全員にこのことは考えてもらいたい。常に冒険について考え続けてきた関口さんだからこそ言える強い言葉である。ちなみに冒険から帰ってきたら住所不定だった関口さん。現在は登山家の大内尚樹さんの経営するアパートに、冒険中は家賃はいらない、という好条件で住まわせてもらっているそうだ。
◆2012年、厳冬期アラスカ自転車縦断。州都アンカレッジから北極海のデットホースまでの1400キロ。冬季は世界でまだ誰も完走していないが自分ならできる、と挑戦するも700キロ地点でリタイヤ。足の指が凍傷になったこともあるが、本当の理由は恐怖で、圧倒的な自然の力を感じ、その場にいることがもう耐えられなかった。ただ凍傷は勉強で防げると再起を決意。「凍傷は寒いからなるのではなく無知だからなる」は、極北サイクリストの安東浩正さんのアドバイスだ。
◆日本にいるとき、関口さんはクライミングをトレーニングとして取り入れている。クライミングは偶然出会った登山家、柏瀬祐之さんに教えてもらった。柏瀬さんは難易度だけが基準だった登山界にインタレストグレード、面白いか面白くないか、という基準を作り出した人。登山において最低の安全確保はするが、後は好きにやらせてくれる。上から命令されるのがイヤな関口さんには最高の師匠だ。
◆そして2013年厳冬期、再びアラスカへ。冬のアラスカは緯度が高いため日照時間が極端に短くなる。おまけに一晩で自転車が埋もれて消えるほどの雪。坂のアップダウンも激しく、楽なはずの下りもこの気温下では耐えがたいほど寒い。マイナス20度前後だった気温は分水嶺の峠を越えた途端に一気にマイナス44度にもなる。道の終点デッドホースには石油基地があり北極海は見ることができない。でもゴールは自分で決めればいい。
◆こうしてついに厳冬期自転車アラスカ縦断は達成したが、ひとつだけどうしても納得できないことがあった。何が何でも到達したい、という思いが強く、現地の知り合いに補給をお願いしたことだ。補給はズルで、美しいスタイルではない。その件は今も悩んでいる。2014年、徒歩厳冬期カナダマッケンジー河、400キロ。23日間徒歩。凍って道になった川の上をホームセンターで購入したソリを引いて歩く旅。途中でかつて植村直己さんの北極圏1万2000キロを現地支援した方の親族と出会い、自宅で植村さんの遺品を見せてもらう。
◆そしていよいよ「プラス50℃の世界」。本日のタイトル、「ギャップ100℃の恍惚」の、もう一方の世界だ。ただ関口さんの厳冬期冒険のキャリアから、この挑戦には周囲から疑問の声が聞こえてきた。しかし違うのだ。関口さんは失敗を恐れずに厳しい自然に挑戦して、自分の限界を追及したいだけ。暑い寒いは関係ないのだ。こうしてラスベガスをスタート地点にして760キロ、デスバレー自転車の旅が始まった。デスバレー最深部は海抜マイナス86メートル。意外にも、世界で最も暑い場所の一つは北米カリフォルニア州にある。今回の旅は水が生命線なので、自転車の前輪両脇に18.75リットルのボトルをとりつけた。
◆ラスベガスから気温40度の中を進んでいくと、数時間で熱中症になりゲロを吐く。自信はあっというまに打ち砕かれた。さらに核心部に迫る坂をくだると気温は10度も上がり、50度に。気絶しそうになり岩陰に避難した関口さんは、そのまま12時間日陰から動けなかった。普通砂漠は温度差が激しいものだが、デスバレーは深夜12時で気温がなんと42度。朦朧とした意識の中で見た月と星空が妙に鮮明に記憶に残っている。翌日、もう自転車に乗れず、ひたすら押して、デスバレー内にあるビジターセンター、ファニースクリークにたどり着く。ここで静養し、なんとか残りも走りきったものの、暑さには最後まで対応しきれず、いくら休憩しても体力は回復しなかった。
◆「ギャップ100℃」の話はここまでで、残りの人生をかけて北極冒険をしたい、と語る関口さん。今自分に足りないのは語学力だと感じ、春からはフィリピンに英語留学する予定だ。
◆今回の報告会、正直、冒険という言葉の連発に最初は違和感を覚えたが、24時間365日冒険のことだけを考えていたい、とまで言い切られると、逆にすがすがしくて気持ちよかった。実際関口さんは自分に欠けているものを常に探り、目標に向かって最短コースで進んでいる。同じ土俵には立てなくても、地平線会議は関口さんが投げかけた問いに応えられる貴重な場であり、参加者は単なる観客ではなく、報告者の対戦相手でもあるべきと感じた。(熱射病を克服する方法を知りたい。暑さには強い、坪井伸吾)
■「母が未婚でシングルマザーの家庭で育ちました」。そんな話題でスタートを切った僕の地平線報告会。その後も過去の冒険のスライド説明と合わせてスポンサーを付ける事や冒険をウェブ配信する事の是非、死生観について等、普段思っててもなかなか言えないような話題も一切の遠慮無く言いたい事を話させてもらった。会場にいた人に僕の真意がどこまで伝わったか分からないし、一部の人からは極論とも捉えられたかも知れないが、個人的には言いたい事が言えたと思っているし、そういったディープな冒険論が言えるのが地平線報告会の魅力だとも思っている。
◆報告会後も濃い時間が続いた。二次会の会場では冒険についての核心的な質問を受け、帰宅してからもレポートを書いて頂ける坪井さんからの鋭いメールインタビューを受けた。そしてそうした質問の一つひとつが自分にとっての冒険をより一層深く考えさせてくれるきっかけになり、そういった意味でも今回の報告会は多くの事を得られた素晴らしい場所だった。
◆それと僕が死生観について話したからだろうか。普段からよく「関口君って死にそうだよね」「関口君死なないでね」とマジ顔で言われるが、今回も来場してくれた人から同じ様な感想を言われてしまった。だけど僕にはまだまだ叶えたい夢ややりたい冒険が無限にあり、その為にも僕は全力で生き続けます。高校生の時から始まった冒険家人生はずっと変わらずにこれからも僕は冒険の為に生き、冒険が僕を生かしてくれるんです。最後に当日会場に来て頂いた方ありがとうございました。(関口裕樹)
|
|