2014年5月の地平線報告会レポート


●地平線通信422より
先月の報告会から

冒険の先っぽ

田中幹也

2013年5月23日  榎町地域センター

■第421回地平線報告会、報告者は田中幹也さん。幹也さんが地平線で話すのは4度目だ。1997年3月「情報の枷を逃れて」。2000年6月「冒険は何時頬を濡らす?」。2006年6月「冒険の陰と光」。過去の報告会のタイトルも、通信に描かれた悩んでいるようなイラストも、他の行動者とは異色で、いつも惹きつけられていた。残念ながら過去の報告会には参加できなかったので、本気の話を伺うのは初めてだ。

◆それにしても97年に地平線で話してからでも17年。さらに以前の本格的にクライミングを始めた86年から含めると何年になるのか、活動歴は途切れることなく続いている。山や冒険の世界の人間でなくても、経歴を見れば唸らずにはいられない。ところが幹也さん本人は「大衆」に受け入れられた時点で、もはや冒険は成り立たない、と、宣言している。なぜ敢えて、そんな宣言をしなければならないのか、と不思議に思いつつ一番前で話を聞かせてもらった。

◆話に先立って、江本さんより幹也さんが今年度の植村直己冒険賞受賞者に決まった経緯が語られる。受賞者に選ばれたとき本人がカナダの平原にいて、連絡がつけられなかったこと。幹也さん自身が受賞を受けるかどうか悩んだこと。続けて植村さんは故郷豊岡では神様であり、中学生が400人も話を聞きに来るのだから、授賞式では、そのへんを理解して話してね。と、江本さんからのリクエストがあり、いよいよ幹也さんの話が始まる。

◆前半は過去20年間のカナダの旅について。「カナダ」というと、そもそもなぜいまさらカナダなのか? なるほど一般的にはカナダのイメージはあんまり特徴のない旅行しやすい国。ただそれは観光地の話であって、日本の27倍の面積を誇るカナダは、土地の大半にはいまだに道すらない雄大な自然がある。そのカナダで幹也さんが自転車、カヤック、徒歩、スキーで旅したエリアは大きく分けると4か所。ノースウエスト準州。ロッキー山脈。東部ラブラドル半島。中央平原とウィニペグ湖。いずれも厳冬期だ。

◆冬を選んでいくのは、厳しいのでやりがいがある、プラス冬は人がいないので、許可を取らなくても気分で自由に動けるから(夏場だとたき火にも制限があるという)。自然環境以外の大きな理由は厳しい自然の中に住んでいる人たちが穏やかで優しいから。結局、カナダには20年通うことになったが、それは結果で、最初はそんなつもりはなかった。行けばいくほど魅力にはまり、18冬、のべ5年間通ってしまった。

◆地域ごとに準備されたスライドで、まずは2006年から通っているカナダ中央平原のウィニペグ湖。四国ほどのスケールがある凍った水の上を、食糧、テントを積んだソリを引きながら歩く。スライドには風を遮るものはおよそ見当たらない、美しくも恐ろしい氷の世界が映し出される。続けてスライドはアラスカに隣接したノースウエスト準州。針葉樹林の林の中をまっすぐ伸びる行きかう車もない雪の道。村から村までは数百キロはある。幹也さんはこの道を一人、市販の特に改造も施していない自転車で走っていく。道路上にいるかぎりは誰かに助けてもらえるのでさほど大変でもない、とサラリと流すが、そこには今までの経験の積み重ねが詰まっている。

◆次はカナダディアン・ロッキーだが、ロッキーはカナダの中では暖かいほうだ。問題は大量の積雪。写真で見ると確かに自転車は雪だるま状態で、これでどうやって進めるのか、と思ってしまう。日本と違うのは、自転車の旅人がいると風のうわさで聞いた除雪車が助けに来てくれた話だ。幹也さんは詳しく語らなかったが、笑って助けてくれたのではないか、という気がする。

◆理解できなくても本気さを認めることはできる。日本人は理解を超えた人を見つけたら、その人を自分が理解できる範囲内に収めようと必死で干渉してくる。それが優しさだと思い込んでいるから、幹也さんみたいに独創的な人には生きづらいだろう。理解を超えたものを、そのまま受け入れるには揺るがない自己が必要なのだが、海外、特に気候の厳しい環境に住む人たちは不思議なくらい自然にそれがあり、いい意味で放っておいてくれる。幹也さんがカナダ人の優しさについて語る時に見せる、ホッとした表情はそういうことではないだろうか。

◆カナディアン・ロッキー2年目はスキーで挑戦。3週間分の食糧プラス装備で60キロにもなり、雪が深いので、スキーを履いても場所によっては腰ぐらいまで埋まってしまう。一度足が潜ると、次の一歩を踏み出すのが大変で、1時間で200メートルぐらいしか進めないことも。スキーはこういう形で酷使するとビンディング部分が壊れてくる。深雪の中でスキーが使えなくなると脱出不可能になるので、保険としてワカンを持参した。

◆装備としてはGPSは使用せず、地図とコンパスだけで判断(日本ほど地形は複雑ではない)。警戒心の強い野生動物と出会うことはほとんどないが、クマの足跡を見つけたときは辿ってみることも。クマは歩きやすいところを歩くので、ルートファインディングの手間が省けるのだそうだ。驚くべきは、幹也さん、このときが初スキーだった。装備にしても、食糧は現地スーパーで購入したりして、気負うことなく自然体だ。それで結果を出している以上、マニュアル第一の装備原理主義者には反論の余地はない。

◆ここで会場に来ていた関口裕樹さん(26)に江本さんが話を振る。関口さんはこの冬、厳冬期の凍りついたカナダマッケンジー川を徒歩で旅してきたばかり。尊敬する人は幹也さんと語る。妥協を許さない姿勢は憧れの幹也さんと同じで、6月からは今度は真逆の世界一暑いという真夏のデスバレー(北米)を自転車で旅する予定だ。常に辛口の幹也さんも後輩であり、同志と認める関口さんを見つめる眼差しは優しかった。

◆一通り、カナダの話を終わって、話は日本に飛ぶ。画面には高層ビルの屋上に立つ幹也さん。日本ではクライミングの仲間と一緒に高層ビルの窓ふきの仕事をやっている。続いて本の編集作業『目で見る日本登山史』(山と渓谷社)。ここで幹也さんがあるページの拡大コピーを写す。そこには江本さんの名が。1962年3月19日〜20日、北穂高岳、滝谷出合〜第一尾根、江本嘉伸、星達雄(東京外語大山岳部)。自分の登山が日本登山史の1ページに加えられていたとは江本さん自身も知らなかった事実。この写真をきっかけに江本さんも話に加わる。「目で見る日本登山史」は純粋に困難さ、独創性、を判断基準にして評価された本物の登山史で、世間一般で有名な人が出てこなかったり、逆に無名だけれど凄い人が大勢でてきたりもする。それが幹也さんの考えと一致していて、やりがいがあるという。

◆ここは幹也さんの世間への不満と直結している核心部分なのだが、残念ながら幹也さんも認める江本さんの記録がどう凄いのか、部外者である自分にはわからない。おそらく、どれだけ丁寧に説明してもらっても、幹也さんが凄いというから凄いんだろう、という形でしか分からないと思う。でもどのジャンルにおいても最先端とは、もともとそういうものではないのか……。

◆さて幹也さんの日本での資金稼ぎだが、夏の富士山測候所への荷揚げ、テレビの山関係の取材のガイド、山岳ガイド、クライミングの講習会、etc。これらを組み合わせると冬場の遠征資金はなんとかなる。仕事は好きではないからテキトーにやっている。山に人と行っても面白くない、話の合間にネガティブ発言がどんどん出る。ところが幹也さんにガイドしてもらったお客さんにインタビューすると、見てないようで安全確保はしっかりしている、所作が無駄なく美しく、ロープさばきが速い。安心感がある。と評判は抜群だ。

◆江本さんが話に加わってから、装備の中の食材部分に話が移る。幹也さんの行動食は主にインスタントラーメンとオートミール。ラーメンはかさばるのでバラバラにして小さくする。水分のあるチョコ類は凍って食べられなくなるので持たない。食事は朝と夜の2回。行動中は水分も取らないので、テント内では人より多めの水分を取っている。ハードな一日が終わり、たっぷり砂糖の入った紅茶を飲んで日記をつけていると、メラメラと辛口ネタが湧き上がり、つきることなく文章が書けるのだそうだ。状況を想像すると悟った文章が出てきそうな気がするが、そうならないのが幹也さんが幹也さんである所以なのだろう。

◆後半、植村直己賞に選ばれて辞退しようか迷った理由が語られた。「冒険は大衆から理解されないからなりたつ。賞に選ばれるのは自分が落ちてきたからだ」。確かに冒険賞と名がつくのなら、それは世間受けする冠をかぶったモノではなく、もっと真摯に冒険を追及している人間に与えられるべきだ。しかしそれを理解するには同じレベルに立たないと理解できない。江本さんはそれを受けて本気のメディアは100部でしかできないと表現した。今回の植村賞が異色なのは、審査が結果より過程を重視、幹也さんが長年にわたり可能性を追い続けている姿を評価したこと。その評価姿勢に幹也さんも賞を受け入れることにした。

◆受賞は自分だけではなく、過程に重きを置いている人の代表として選ばれた、と思っている。きっと、ひたすらまっすぐに可能性を追求して20代でなくなっていったクライマー仲間たちを含めての受賞なのだと思う。

◆最後に幹也さんの文献をいろいろ読んで見つけた、幹也さんが自分を厳しく律していくために必要な毒舌のわけ。一人旅で一番おそろしいのは、自分に酔ってしまって他人の目が気にならなくなってしまうこと。自分の考えや行為が周囲から受けいれられていたならば、自分は動き出しただろうか。ぶつかるものが多いほど得るものも多い。周囲の目というものが自分を支えてきた。(こんなに疲れるレポートは書いたことがない。一応ランナー、坪井伸吾


報告者のひとこと

最近、報告会にやってくる人たちは、すっかり上品でおとなしい人たちばかりになってしまったのだろうか

■伝えたいことが果たしてうまく伝わったのだろうか? 報告を終えたと同時にそうおもった。なぜなら自分の発する辛辣な言葉や考えに対して、あからさまに嫌悪感をいだく人を当日の会場で見かけなかったから。たかだか趣味のためにそこまでリスクを犯す価値があるのだろうか、といった保守的なチンチクリンからの反論めいた意見も予測していたが皆無だった。拍子抜けした。

◆喜怒哀楽のうちどれかの反応があれば、商品としての価値はさておき、すくなくとも表現としては成功したといえる。反対意見は熟思する機会を与えてくれる。それによって、以前にも増して自分を貫くようになるのかもしれない。あるいは新たなる視座に気づかされるのかもしれない。反対意見は、つねに何らかの進展がある。ぶつかるほどに得るものは多い。

◆でも無反応というのは、祭りのあとの寂しさにも似ている。いや自分の発表に祭りのような華やかさはないので、お通夜のあとの沈黙といったほうがいいかもしれない。2次会でも3次会でもアルコールがいくら入っても、荒波も立たず誰ともぶつかることなく静かに終わってしまった。

◆最近の地平線会議の報告会にやってくる人たちは、すっかり上品でおとなしい人たちばかりになってしまったのだろうか。わるくいえば覇気がなく老成した人たちの集まりになってしまったのだろうか。あるいは自分自身の角(かど)が年齢とともに取れてしまったのだろうか。自分のなかの勢いが衰えて、毒にも薬にもならないもはやおしまいの人間へと堕落しはじめているのだろうか。自分のなかで何かが変わったのか。何を失ったのかしばらく考えてみたい。(田中幹也


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