■中央大学山岳部監督で気象予報士の猪熊隆之さん。ヒマラヤでの登山歴、山雑誌で目にする山岳気象の専門家としての記事。名前のイメージと肩書き、そして地平線通信に描かれた長野さんのイラストから、私は猪熊さんのことを、雪山をイノシシのようにラッセルで前進していく、熊のように屈強な山男だと、勝手に想像していた。報告会で登壇した猪熊さんは「ネクタイ姿のアスリート」という印象の人だった。
◆はじめに猪熊さんが気象予報士として、これまでに携わってきた仕事を、映像を交えながら紹介した。最初に「NHK世界の名峰 グレートサミッツ 世界最高峰エベレストに挑む」の一部を上映した。これは取材スタッフがエベレストに登頂し、山頂からの風景を大型カメラを使ってハイビジョン撮影するものだった。山頂から撮影するために、登頂日は最高に良い条件が求められた。日本にいる猪熊さんが、気象データや天気図、衛星写真やジェット気流の動きなどをもとに、エベレスト山頂の天気予報を行い、現地撮影隊に届けた。
◆猪熊さんの天気予報には、ヒマラヤに挑んだ登山家としての経歴も生きている。エベレストにはローツェフェースという急な雪壁があり、そこは降雪のあと雪崩れやすく、雪が予測される時には前進を避けたい。猪熊さん自身が、これまでの登山経験から、現場の雰囲気やルート上の地形などを把握した上で、総合的にアタック開始日をアドバイスする。
◆この撮影隊は「山頂からの絶景を良い気象条件で撮影する」という課題があり、猪熊さんも「この予報は絶対外せない」という、強烈なプレッシャーがあった。とはいえ、撮影隊はプロだから番組作りに必要な映像は撮ってくるだろう。生還することが何よりも大事だから、最終的に無事下山できれば、天気予報の意味はある、と気持ちを整理した。はたして、エベレスト山頂は、1年に幾度とない最高の天気に恵まれ、世界ではじめての高精細なハイビジョン撮影に成功した。深く青い空と遠望の白い峰々、山頂で歓喜する撮影隊の光景が報告会場に広がった。これは猪熊さんにとって、思い出深い予報の一つという。
◆続いて、猪熊さんの親友で、プロ登山家の竹内洋岳さんの映像。ヒマラヤ8000m峰14座の一つ、ダウラギリの映像が流れた。ベースキャンプのテント内に竹内さんが「いのちゃん」と名付けた、てるてる坊主がぶら下がっていた。竹内さんは毎回遠征のときにてるてる坊主を作っているそうだ。猪熊さんは竹内さんの登山を天気予報の側面から支えている。日本での気象データや天気図による予報を行い、現地実況を交えて、予報を修正していく。天気予報は「竹内さんと一緒に作っている感覚」で、 実況を交えることで予報精度は格段にアップするという。 アタックに最適な日程は随時変更され、好天が予測されるアタック開始日に対して、竹内さんは体調を完璧に整えていくそうだ。「そこが本当にすごい」と猪熊さん。結果、竹内さんは14座無酸素登頂を見事成し遂げた。
◆映像に続いて、天気予報技術についての講義が始まった。ホワイトボードに説明内容を板書しながら進めていく。気象予報士の受験予備校で講師をしていた猪熊さんは、初心者にも分り易く説明してくれた。 現代の天気予報についての説明。「数値予報」と呼ばれ、気象庁が発表する気温、雲量、湿度等のデータをもとに天気と関連づけていくもの。気象と地形は密接に関係しており、地形を想像しながら天気予報を進める。
◆とくにヒマラヤでは日本に比べて気象や地形の情報が少ないため、コンピュータによる天気予報が外れやすい。ヒマラヤの高度では、山頂付近の大気は乾燥していることが多い。登頂には雪よりも風の影響が大きく、ジェット気流が弱まっている時に登るのが望ましい。 大気の安定度、ジェット気流の動き、地形などを柔軟かつ総合的に想像しながら、最適な登頂予定日を割り出す。コンピュータによる気象予報が発達した現代においても、人が行なう意味は、そこにあるのではないか、と猪熊さんは言う。
◆一方で国内の山岳気象予報は、主に登山ツアーやスキー場、交通で活用されているという。登山ツアーではツアー客の安全のために利用され、悪天候でも登頂を望むツアー客に対して、ガイドリーダーの説得力ある判断材料に繋がっているそうだ。そして交通では、例えば立山黒部アルペンルートの除雪作業や運行などで活用されている。猪熊さんの山岳気象予報は、山に近いところで生活を営む人々の、毎日のくらしにも生きているのだ。
◆後半は、猪熊さんの山との出逢い、そして大怪我と病気の壮絶な体験談となった。猪熊さんの生い立ちが、スライドを交えて紹介された。子どもの頃は地図が好きで、小学1年生の時には世界地図をそらで描けた。地図を見ながら、空想の都市や町を図上に描くのも好きだった。特に河川が好きで、蛇行する曲線の上を、自由に空想しながら旅し、鉛筆で都市を描き上げた。高学年になると地図に加えて天気にも興味が湧いていった。
◆家族旅行では新潟から群馬に入った瞬間、トンネルを抜けた車窓の景色が大きく変化したことに衝撃を受けた。それが天気に興味を持つきっかけになったのかもしれない、と猪熊さんは言う。 次々にスライドは進む。会場いっぱいに鮮やかな色彩が広がった。それは 猪熊さんが中学生の頃に想像して描いた気温分布図。北陸地方から関東周辺の手描き地図の上に、色鉛筆のグラデーションが格子状に並ぶ。色とりどりの緻密な図は印象派絵画のようで、とても美しいものだった。
◆気象に没頭する中学時代を経て、高校時代は辛いことから逃げる日々。高校では午後の授業をサボってパチンコ。友だちに攻略を教わり、勝ったお金で遊んだ。その瞬間は楽しいけれど、3年間が終わると何も残らなかった、という高校生活。卒業後はアルバイトをしながら浪人して中央大学に入学した。このままでは「何もできない大人になってしまう」という気持ちがあった。体力も精神力も弱い自分を、鍛えられる部活を探した。大学からでも始めやすく、山を眺めるのも好きだったため、山岳部に入部した。
◆「山を始めてから、生きることがすごく楽しくなった」と猪熊さん。この言葉を聞いた瞬間、ダイレクトに心を打った。鳥肌が立った。これほどストレートで強い言葉があるだろうか? 入部当初は、胃腸を壊して体重40kg台前半。挑んだ谷川岳新人合宿では、土合駅の460段の階段で足が吊ってしまうほど、弱かった。それでも1日1日と辛い日を乗りこえた。さらに夏山合宿の3週間を乗り切ると自信も少しずつ付いた。自分の弱さを自覚して、人よりも多くのトレーニングを積み重ねた。
◆当初は一番弱かったが、3年生の頃には部内で1、2番を争うほど強い部員になった。山が楽しくて仕方が無かった大学3年生の冬、富士山で突風にあおられて滑落。命は助かったが、自分では動けず、厳冬の富士山頂付近で25時間のビバーク。それは途方もなく長い時間に感じられたという。翌日の昼にようやく仲間に救助され、病院へ。診察した医師も「これはひどい」と言ってしまうほどの重傷だった。
◆左足首の骨が粉々になり、それが肉を突き破って外に出た状態の開放性粉砕骨折。大量の血液が登山靴の中で凍り付いて、酷い凍傷だった。凍傷の影響で麻酔が使えないまま、緊急手術。その2週間後、根本的に治療するため、10時間に及ぶ大手術。この時も呼吸困難と出血多量で後半は麻酔が使えず、術中は痛みで意識を失っては目を覚ますことを繰り返し、この世のものとは思えないほどの壮絶な手術だった。手術は成功し、リハビリを経て2年後には再び山へ。この時のブランクが、猪熊さんの山への情熱に火をつけた。その後はチベットの未踏峰登頂、ヒマラヤ高所登山の面白さにも目覚めた。「私は順調にものごとが進んでいる時に、何かが起こるんです」と猪熊さんはいう。
◆1999年の秋、猪熊さんはシシャパンマ南西壁とチョー・オユーに挑戦する予定だった。高所順応で富士山頂に泊るなど、準備を進めた。しかし、下山しても全く食欲がなく、体調に異変を感じた。徐々に悪化、ついにベットから身体を起こせなくなった。検査を受けた病院からの電話で、急性肝炎と告げられる。すぐに自分で救急車を呼び、即入院。命の危険を告げられるも、数か月の入院の末、急性肝炎は治った。その後も、40歳までに登る山の目標を定め、登山中心の生活を送っていた。ヒマラヤに向けた心肺機能向上のトレーニングとして、トライアスロンに取り組んでいた、ある日、いつものように走り終えると足が異常に腫れていた。富士山の事故から12年、まさかの慢性骨髄炎発症だった。
◆3日間で仕事を引き継ぎ即入院。数か月の治療で退院はできたが、常に再発の恐怖がつきまとった。 骨髄炎を抱えての生活は、登山どころか日常生活も不自由な状態に。山には登れなくなり、山に関わることも辛くなった。部屋に貼っていた山の写真をはがし、山道具も売り、山と距離を置くようになった。15年以上続けていた山岳部のコーチも辞めようと思い、決意して挑んだコーチ会。しかし、山の仲間との心地よい時間に、命湧くような山での感動を思い出した。
◆それまでは、自分の限界を伸ばすことが、山の喜びだった。登山前の恐怖心と登攀した後の充足感があるからこそ、実感として普段の自分が貴重に思えた。だから自分が登れなくなったら、終わりだと思っていた。しかし、仲間との対話で、「山には登れなくなっても、山と関わることはできる」と思うようになった。自分なりの答えとして気象予報士になることを決意した。そう決めた時、骨髄炎の絶望のなかに希望の光を見いだした。
◆骨髄炎の治療として、高気圧酸素療法を受けた時のこと。偶然にも治療室内で竹内洋岳さんと再会する。猪熊さんが山の天気予報を考えていることを伝えると、「それじゃあ、僕の山の天気予報をしてよ」という言葉を受けた。それまでは国内での山岳天気予報を考えていたが、目標はヒマラヤへと広がった。 予備校に通い、病気と闘いながら気象予報士試験に一年で合格した。
◆どこの病院に行っても「完治は無理」と言われる中で、猪熊さんは骨髄炎の治療を諦めかけていた。登山家の小西浩文さんに「いくつ病院回ったんだ? そんなんで諦めていいのか」と言われたことがきっかけで、改めて治療法を探すことに。イリザロフ法という治療法を知り、診察を受けた。その結果、猪熊さんには適用できなかった。しかし、病院の医師は継続的に他の治療法を模索してくれた。そして同じ病院の世界トップレベルの技術を持つ医師に、検査、手術をしてもらえる事になった。14時間の大手術後、麻酔から覚めて1週間は拷問のような痛みと闘った。大手術は無事成功。奇跡的に再び走ったり、山に行くこともできるようになった。そして大好きな温泉にも入れるようになった。今は山岳天気予報など目標にしてきたことを次々と実現できているという。
◆「先輩方の前で、人生の教訓を話すのは恐縮なですが」と、猪熊さんは続けた。春は必ず来るように「辛いことは続かない」。人間は辛いことがあっても、忘れるようにできている。手術で経験した強烈な痛みは、辛かった記憶はあるが、痛み自体を今は思い出せない。人生では必ず困難や壁にぶつかるけど、それは新しい可能性を拓くチャンスなんだと思える。
◆現状に満足している時は、それを維持しようとして成長できない。困難にぶつかって、初めて自分なりの生き方を真剣に考えるようになる。 絶望的な骨髄炎の治療の中で、「自分の人生はそういうものなんだ」と一度は諦めかけた。しかし「自分には病気になった理由がある」と考えるに至った。人と「違う」ことは、その人が存在する最大の理由だと思った。その人だけの「何か」が絶対にある。悪いことの裏側には良いことが隠されている。
◆恐いけれど、勇気を持って一歩を踏み出せば、山と同じく景色が変わり、「新しい何か」が見えてくる。骨髄炎になって、初めて猪熊さんは気象予報士になろう、と思った。多くの山の人達に支えられて、今の猪熊さんがある。「山の人達は同じような苦労を知っているからこそ、無条件でいろんなことを応援してくれるんだと思う」。
◆骨髄炎になる前は、自分が主人公として登山することにしか興味が無かった。しかし、病気になり、気象予報士になり、はじめて登頂者を裏方で支えることの素晴らしさを知った。そして山の見方も全く変わった。以前は、岩や雪のようにアドレナリンが湧き出るような山にしか興味が無かったが、今は森や鳥のさえずり花のすばらしさにも興味が湧いている。「新しい人生の楽しみを教えてくれたのは、苦しかったけど骨髄炎のおかげなんだと思う」と猪熊さんは言う。
◆富士山での大怪我や慢性骨髄炎があったからこそ、楽しい人生だと思える。だから、たとえ慢性骨髄炎が再発したとしても、また別の何かを見つけるかもしれない。会場は猪熊さんの言葉に圧倒されていった。私はメモを取る手も動かせなかった。猪熊さんの話は加速度的に迫力を増し、言葉は力強い魂となって、次々と胸に飛び込んできた。「いろんなことがあるからこそ、人生は楽しいんだ」壮絶な辛さを何度も乗り越えたからこそ存在する、山との新しい関わり。猪熊さんの熱い言葉には、山や出逢った人々への思いが、 ずっしりと詰まっていた。(山本豊人)
先月号の地平線通信で福田晴子さんが書いてくれた報告会レポートで編集部ミスがありました。
◆冒頭、2ページの1行目に「7回目(これ、確認します。もっとやったのでは?)」との意味不明のコメントが入ってしまいましたが、削除します。
◆2ページ右下の最後「差別ならまだ分かる、まだ」で切れてしまっています。
これは、「差別ならまだ分かる、まだ許せる」とあるべきでした。「分かる、まだ許せる」が抜けています。今後気をつけます。福田さん、賀曽利さん、ごめんなさい。
「好きなことを話してください。」「原稿は用意しないでください。」江本さんからこう言われたときには、正直とまどいました。そういう講演会はこれまでになかったので。
終わったとき、とても爽やかな気持ちになりました。こんなに気持ちよく話せたのははじめてでした。ご来場いただいた皆様との不思議な一体感を感じました。ありがとうございました。
いよいよ、あと2週間でヒマラヤに出発です。初めて、ヒマラヤを訪れたとき、飛行機の上から見たカトマンズの町に衝撃を受けました。「茶色の世界!」そして、その地に降り立ったとき、その衝撃はさらに大きくなりました。沢山のポーターに囲まれて恐怖感を覚えたことが今は懐かしく思い出されます。
最後に行ったヒマラヤから早9年。パスポートもとっくに切れて取り直し。なんか海外旅行1年生の気分です。どう変わっているのだろうか? 友人は元気だろうか? とても楽しみな気持ちと、足の持病は高所でどう影響するのだろうか? いい予報が出せるだろうか? 不安もあります。登山もそうですが、不安がない登山は面白くありません。今回も緊張感を保ちながら、楽しく仕事をしたいと思っています。何より、ずっとやりたかった現場での予報ですから。行ってきます!(猪熊隆之)
■地平線通信の読者になって約3年。大阪在住のため、一昨年の夏に南相馬報告会に参加したのだけが唯一の地平線ナマ体験で、東京での報告会に参加したことはありませんでした。が、このたび、めでたく報告会デビューを果たすことができました!
◆フリーライターという職業柄、全国に出向く割には東京での仕事は存外に少ないのですが、今回はドンピシャリ。28日と29日に都内で取材仕事が入ったのです。しかも、28日の取材場所は新宿。これはもう地平線の神サマが降りてきたとばかり、取材後、報告会会場に馳せ参じました。
◆15分ほど遅れて到着すると、すでに席は8割方埋まっており、空いていたのは最前列。畏れ多くも猪熊さんの目の前に陣取る形に。ちょうど猪熊さんが関わったNHK「グレートサミッツ」のVTRが終わったところで、その後、ハナシは山岳気象予報の仕組みや仕事のしかたなどについての説明に移りました。
◆高校、大学とワンゲル部だったわりには気象の知識が乏しい私には、それなりに興味深いお話でした。ですが、正直に言えば、「山岳気象予報のハナシ」にさほど興味を持って参加したわけではありません。どちらかと言えば、「報告会に初参加すること」がモチベーションの大半を占めていたのであり、失礼を承知でさらに告白すれば、「あーどうせなら来月の報告者である本多有香さんのハナシが聴きたかったなあ」などと内心思っていたのです(猪熊さん、ゴメンナサイ!)。
◆ところが、ところがです。気象予報のハナシが一段落したあと、猪熊さんが山岳気象予報の仕事を始めるまでの来し方をとうとうと語り始めるや、私の両眼は大きく見開かれ、空腹は吹き飛び、持病の腰痛も意識の外へと逃げていきました。「山に出会ってから自分は変わった」という猪熊さんの、その変わりようの凄まじさ。痛いこと、辛いことが超苦手なへなちょこ野郎の私には、聴いているだけで冷や汗が出てきそうな苦境に何度も遭い、それでも逃げずに前に進み続ける姿は、まるで修行僧のように思えました。「高校生までは、とにかく嫌なことから逃げてばかりいた」という彼の、どこにそんな力が秘められていたのでしょう。
◆「どんなにつらいことも決してずっとは続かない」「苦しみや失敗からは必ず得られることがある」「病気になったからこそ今の自分がある」……。どこかしらで聞いたことのあるような言葉の一つひとつが、これほど重みと実感を伴って胸に迫ってきたことはありませんでした。
◆猪熊さんの壮絶な人生とは比ぶべくもありませんが、私もここ数年、ちょっとした試練が続いてきました。離婚、元夫の余命宣告、父の看取り、母の介護。昨年末に母がグループホームに入所し、ようやく山を越えたところです。つらい時、折に触れて胸の中でつぶやいてきた言葉は、「この苦しみが、いつか人の役に立つ時が来る」でした。
◆猪熊さんはまさに、自らの苦境を受け入れ、そんな自分が人のためにできることを実行に移した人。今ようやく動き始めたばかりの私には、まだまだ何ができるのか何をすべきなのか定かではありません。でも、この時期に猪熊さんに出会えたことは、きっと何らかの形で今後、私の背中を押してくれることと思います。地平線通信の読者でよかった。報告会に参加してよかった。2次会でウワサの「北京」に行き、皆さんと交流ができたのもうれしかった……。江本さん、猪熊さん、そして地平線会議を愛する皆様、どうもありがとうございました。(金谷眞理子 大阪府)
■富士山滑落から生還するのに実に20年かかった……感じ。幼少のころからの自分自身とピッタリ繋がってるのも感動しました。新しいルートを模索してパイオニアワークとして山にかえってきた。実に想像的・創造的なお話しでした。
◆猪熊さんが、子どものころに描かれていた「空想の町」の絵のことを二次会で聞いてみました。山の上の方に町があるとか、川が好きで川に沿って町があるとか。なんと、絵は「実家にまだあるかもしれない」とのこと。なんだか描きまくってた様子。きっといくつかは、残っているだろう。いつの日にか「ぜひぜひ、見たい」と想いを伝えました。ほんとうに見れたらめちゃくちゃ嬉しい。(緒方敏明)
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