2014年3月の地平線報告会レポート


●地平線通信419より
先月の報告会から

男泣き 希望岬

賀曽利隆

2013年2月22日  新宿区スポーツセンター

■バイク王・賀曽利隆氏、7回目(これ、確認します。もっとやったのでは?)の報告会の舞台は、1968年から通い続けるアフリカだ。2013年末から今年は、ケニアの首都ナイロビから南アフリカ(南ア)のケープタウンをめざすツーリング・ツアーを率いた。驚いたのは、街道沿いに綺麗なキャンプ場が整備されていたことだそう。道路も以前よりすっかり良くなっていた。タンザニアとザンビアを結ぶ道はかつてヘルラン(地獄道)と呼ばれたが、今や二車線のハイウェイ。また、1968年とは比較にならないほどイスラム教がアフリカ南部にまで普及し、キリスト教圏が押されているとのこと。食堂で出される肉に豚より牛が多いのは、その影響かもしれないという。

◆ゴールとなるケープタウンへの思い入れは、カソリさんにとって並の深さではない。最初のアフリカ縦断時から、ことごとく南アのビザに悩まされてきたのだ。何度大使館に通っても、断固拒否される。20歳のカソリさんは、出発地を変えざるを得なかった。それがずっと悔しさとして残っていた。「ケープタウンほど泣かされた町もない」と繰り返す。

◆現在は、日本のパスポートならビザ不要だ。しかしやはり南アは手ごわかった。今回は現地スタッフの一人にビザがおりない。南アは、著しい経済格差による出稼ぎ流入を防ぐため、アフリカ諸国の黒人の入国を厳しく規制しているのだ。もう一人のガイドはなんとか入国。そのガイドは大国とされるケニア出身で、タンザニアやマラウィなどの貧しい国では横柄に振る舞っていた。しかし南アの国境では小さくしゅんとしていたという。

26歳の旅、肌で感じたアパルトヘイト

◆「カソリの世界地図の中心はいつもアフリカ」。ミシュランの地図を広げ、ここに行った、まだここに行ってないと眺めるのが、この上ない至福の時だ。18歳でアフリカ全土を網羅するミシュランの地図と出会った感動は、今も忘れられない。当時は本当に情報がなかったから、丸善でそれを見つけたときの嬉しさはどんなだったか。

◆20歳で発った旅から戻り、なおアフリカに行きたいと決心したのが22歳。1973年、26歳で三度目の旅となる六大陸周遊に出た。「自分のひとつひとつの旅が作品だとしたら、この時のが最高傑作」というその旅で、周遊の半分以上をアフリカに捧げた。

◆この旅でも南アには泣かされ、ビザを待つ間になんとオーストラリアをヒッチハイクで一周してしまった。しかもビザを手にするや、バイクで再度オーストラリアを一周して(!)、念願の南アへ飛んだのだった。

◆ようやく踏み込んだ1973年の南アは、まさにアパルトヘイトの時代。当時の人口約2000万人、そのうち白人360万人、黒人1300万人、混血190万人、アジア(インド)人60万人だったが、すべては「ホワイト(白人)かノンホワイト(非白人)か」で分けられていた。

◆日本人は経済的結びつきが強いため、唯一例外的に「オーナブル・ホワイト(名誉白人)」として白人扱い。ビザがおりるのは観光客に来てもらいたかったからではない。あくまでビジネスのためだ。カソリさんは入国後まずヒッチハイクをしたが、黒人にも白人にも乗せてもらえて快調なすべり出し。アパルトヘイトの壁に直面したのは、ヨハネスバーグへ向かう列車の駅だった。

◆切符を買う窓口が白人用と非白人用に分かれている。カソリさんは、オーナブル・ホワイトだなんて冗談じゃないと非白人用に並び、3等切符を求めた。窓口の黒人のお姉さんに「どこから来たの?」と聞かれて何気なく「日本だよ」と答え、改札へ向かうと、その改札も、通路も、トイレも、白人用と非白人用に分かれているではないか。ふと見ると、自分が握っているのは1等切符である。窓口に飛んで戻ると、「だってあなた日本人でしょ。日本人がなんで3等に乗るの?」。唖然……。カソリさんは意地でも非白人で通すと決めて3等にかえてもらい、非白人用通路を通って乗り込んだ。「よーし、徹底的に3等で乗りまくってやるー!」

◆ヨハネスバーグ郊外の町では、教会に泊めてもらおうと思って通行人に場所を尋ねた。すると即、「ホワイト用か、ノンホワイト用か」。愕然とした。「駅も、トイレも、電車も、バスも、エレベーターも、レストランも、学校も、郵便局も、役所も……そしておまえもかという感じで神のもとでの人間の平等を説く教会までもが白人用と非白人用に分かれていた」のだ。

◆もちろん非白人用の教会へ向かった。黒人の神父さんは喜んで歓迎してくれた。神父さんが語った言葉は痛切だった。「差別ならまだ分かる、まだ許せる」。アパルトヘイトとはアフリカーンス語で「分離、区別」という意味だ。「差別じゃないんだ。人間との区別なんだ」。人間とサル、人間と野生動物、そういうふうに分けているのだ、と。

◆カソリさんはある時、駅で3等の窓口が大行列のためやむなく1等に並んだ。「おまえはこっちじゃない」と咎められたが、日本人だといった途端に「Sorry!」。ギュウギュウの3等車を横目にガラガラの1等車に座ると車掌が来て、案の定「おまえの乗るところじゃない」。が、日本人だというと手のひらを返したように、「悪かった」。

◆イギリスからの移民だというその車掌はアパルトヘイトについて、「まさかこんなにひどいとは思わなかった」と語った。金を貯めたらオーストラリアかカナダに移住するつもりだという。白人の間でも温度差があることを、カソリさんは知った。アパルトヘイトはヨハネスバーグ付近が特にひどいそうだが、インド人が経済を握る町ダーバンで聞いた話にも、胸が痛んだ。

◆「日本人は羨ましい、オーナブル・ホワイトだろう。我々インド人はいくら金を稼いだって一流に扱ってもらえない。どんなにがんばっても、肌の色でだめなんだ」。筆者はマハトマ・ガンディーを思い出した。ガンディーは弁護士として南アに渡り、列車で1等に着席したが、ただ肌の色ゆえに車両から投げ出されたという。アパルトヘイトの現状にショックを受けたガンディーは南アで人権運動を開始、それが後にインド独立の精神へとつながっていく。

◆南アが統治していた南西アフリカ(現ナミビア)でも、状況は同じだった。カソリさんがお腹をすかせてレストランに駆け込むと、白人達の視線を一斉に浴びた。すぐに一人が立ち上がり、胸倉を掴むようにして「出ていけ!」。結果が見えているので抵抗を感じながらもカソリさんは言う、「俺は日本人だ」。予想通り相手は一転、「Very sorry!お詫びに何でも食べてくれ、一緒に食事をしよう!」。根は悪くない、素朴な男だった。鉱山関係者で、日本は一番のお得意さん、車は日本車だという。カソリさんはその彼に、いつも首にパスポートをぶら下げておくよう忠告された。強烈な思い出だ。

◆そんな世界に現れたのが、ネルソン・マンデラ氏だった。1994年、28年間の投獄生活を終えてマンデラ氏が大統領に就任すると、南アは一気に変わった。それだけ民衆の支持があった。白人、黒人問わずの支持だった。ジンバブエ(旧南ローデシア)では、ムガベ大統領が白人を徹底的に排斥した。しかしマンデラ氏は民族融和を訴えた。その力が今日の南アを支え、ワールドカップが開催されるほどの発展に至ったとカソリさんは考える。まだまだ隔離されたような貧困エリアは残るが、それでも他のアフリカ諸国に比べたら水準が高いという。

「国境越えのカソリ」が行く!

◆さて、六大陸周遊では300回以上、国境を越えたカソリさん。ライダーにとって国境越えは峠越えと同じ意味合いだとか。あそこは越えられないと聞くと「矢も楯もたまらん」という「国境越えのカソリ」、難関突破の伝説は数知れない。たとえば南スーダンからウガンダへの国境。ヒッチハイクで入ったが途中で見つかってしまい、「戻れ!」と叱られた。

◆ここで喧嘩しないのがカソリ流だ。「そうかぁ、残念だなぁ」とすっとぼけて、係員が見えなくなったところでザアッと草原をつっきり別の道へ。通りがかったバスにそれっと飛び込み、市街へまっしぐら。首都に着くと何食わぬ顔でイミグレーションに赴き、「すみませーん、ケニアから来たんですけどイミグレなかったんですよね!」。エルゴン山北側のケニア国境にないことは踏査済みだ。係員も、それなら仕方ないとスタンプをポン。

◆北イエメンから南イエメンへの国境は、難攻不落が旅人の定説だった。ならばやってやると挑戦。北イエメン出国は、お茶など飲みつつ係員と仲良くなるカソリ流で成功した。南イエメン側では、「国境でビザをもらえると言われたんです!」の一点張り。結局、首都の内務省へ連行となり、ホテルに軟禁されたものの、親日国だったおかげでお縄は免れ、国外強制退去で許された、とのこと(強制退去も大変な事態だと思うが……)。

◆ギニア国境越えでは、大使館に通いつめて領事にも懇願したところ、トランジットビザが出されて意気揚々と入国。もうこっちのものと長居していたら見つかって、すごい剣幕で係員に車から引きずりおろされた。「あのときの形相の凄まじさ」と回想するカソリさん。いわば北朝鮮で捕まったようなものだという。しかし、取り調べに来た高官はカソリさんの話を聞いて嘘みたいに笑いだし、「そんなに行きたいなら」と一筆書いてスタンプをポン。その紙が印籠のごとく威力を発した。宿も食事も厚待遇、戦闘地帯の真っ只中をトラックで進み、トラックが動かなくなると戦車が呼ばれた。カソリさんは戦車でギニアからセネガルへの国境を突破、兵士達に祝福されたのだった。

◆西サハラでは、ちょうどスペインとモロッコが最後の戦闘を繰り広げていた頃。カソリさんは鳴り響く砲火の下、ヒッチハイクでモロッコへ向かった。モロッコは昔からビザ不要の国だ。ところが、うかつだった。「スパニッシュサハラから来た」と言ってしまった瞬間、係員の顔色がサッと変わった。「今なんて言った? あそこはモロッコサハラだ!」紛争地帯は敏感なのだ。翌日まで軟禁されたが、いい勉強になったという。

◆ちなみに、パスポートにイスラエルのスタンプがあると中東諸国に入国できないと知られるが、当時のカソリさんが取った行動とは。まず日本大使館に行き、「すみませーん、パスポート落としちゃいました〜!」。ちゃっかり新しいパスポートを得て、イスラエル入国。出国後に破棄したそうだ。

◆今回、筆者は「カソリック教徒」という言葉を覚え、その「ミサ」に初参加した。疾走するバイクのごとく猛烈な早口、淀みなく飛び出す無数の地名。怒涛のカソリ節に圧倒された。軽いトランス体験であった。驚異の記憶力は、12回のアフリカ行の始終地図を見つめ、脳と体で反芻してきた証だろう。各旅のルートはすべて色分けして記してあるという。アフリカ中を虹色に塗り尽くす絵はまさにカソリさんが生きた軌跡。のべ140万キロ、世界3500日・日本3500日の計7000日に及ぶ旅人生だ(その間ご夫人とお子さんは!?)。カソリさんの師、宮本常一先生は日本国内で4500日を旅したが、国内の日数で常一先生を追い抜くのが生涯の夢だそう。「これからも地球上を走り続けたい」と、アクセル全開の王者であった。(早大大学院生 福田晴子


報告者のひとこと

■今回の報告会は2部に分けて話そうと思っていました。前半の1部では「アフリカ縦断」(ナイロビ→ケープタウン編)の写真を見ていただきながら、「みなさんに一緒になって旅しているような気分になってもらえたら」という願いを込めました。後半の第2部ではこの46年間で12回のカソリの「アフリカ行」を話すつもりでした。しかし半世紀近くをかけた旅の一部始終を1時間で話すのは無理というもの。

◆そこで12回のアフリカ旅を振り返り、どれが自分の心に一番、強く刻み込まれているかを考えてみました。それが「六大陸周遊」(1973年〜74年)の「アフリカ編」でした。20代の大半をかけて世界をまわったカソリの世界地図の中心には、いつもアフリカがありました。このときもタイのバンコクを出発点にし、アジア→オーストラリア→アフリカ→ヨーロッパ→北アメリカ→南アメリカとまわり、最後はアメリカ西海岸のサンフランシスコから日本に帰ってきたのですが、旅の半分以上はアフリカでした。

◆さらに第2部の最後に、第3部的に46年間で世界を駆けまわった39回の旅のルート図を見ていただきました。現在までに旅した国が136ヵ国、旅した日数が約7000日、旅した距離が約140万キロであることを話しましたが、この旅した日数と旅した距離は日本を含んだもので、日本と世界は半々ぐらいになります。報告会の会場には宮本千晴さんが来てくださいました。「アフリカ一周」(1968年〜69年)から帰ったときに宮本千晴さんに出会ったことによって、ぼくは日本民俗学の最高峰、宮本常一先生にも出会うことができたのです。それ以降、国内では宮本先生のつくられた日本観光文化研究所を拠点に活動させてもらいました。もう少し時間があれば、そのあたりの日本とのからみを話したかったです。「30代編」を皮切りにして「40代編」、「50代編」、「60代編」とつづけているバイクでの「日本一周」ですが、次の大きな目標は「70代編日本一周」です。それを成しとげた暁には、ぜひとも4百何十回目かの報告会で、カソリの「日本を駆ける!」を話させてもらえたらと思っています。(賀曽利隆


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