■本日のテーマは、数ある世界遺産の中でも、人気ダントツのマチュピチュ。そして、案内人は白根全さん。全さんといえば、肩書きの「カーニバル評論家」を始め、誰もやらないことを追っている人、の印象が強い。今回のテーマを意外に感じた人は多いはず。私も、「11月はマチャピチュだ」と江本さんから聞いたとき、ツユ疑わずに「そういう無名の凄い遺跡があるんだな」と思い込んだ。(これはネパールの名峰『マチャプチャレ』とのヤマ屋的?勘違い、と後に判明)
◆「全さんについて語ればキリがない。その彼が50回も通い、『世界中色々行っている中で、唯一住んでみたいところ』がマチュピチュです」。 そんな丸山さんの紹介に続く彼の開口一番は、「地平線会議始まって以来、喋りながら寝ちゃう報告者になるかも」だった。一昨日帰国したばかりで、まだ時差ボケ中。地平線マチュピチュツアーは、ガイドさんの睡魔宣言でのスタートとなった。
◆マチュピチュには、一切の文献記録がないという。インカ文明が文字を持たなかったからだ。そのため未だに解らない事だらけ。いろんな人がいろんな説を唱えるが、マユツバ、見てきたようなウソばかりなんだとか。「その典型がこの写真」と映し出されたのは、遺跡背後に聳える、あのワイナピチュの絵葉書。それを縦にすると、あら不思議、巨大な岩山の凹凸が見事な古代人の横顔になる。「マチュピチュを築いた第9代皇帝パチャクティの横顔で、冬至の日没の光で現れる」というこの写真、全さんの判定は、「フォトショップ使い過ぎだろ」の一言だった。
◆『猿でも解る、5分間のアンデス文明の背景』のスライドで、ペルーの自然や地理をおさらいした後、本日のメインの1つ、シクラの講義が始まった。『シクラ』とは、太平洋岸のインカ遺跡の下、壁の内側から多量に出土する、大きな石を詰めたネットのこと。その用途を、考古学者は「中に石を詰め込んで遠くから運ぶ運搬用」と説明していた。けれど、発掘が進むにつれて俵状で軽く500kg、大きいと2000kgのものまで出てくる。もはや簡単に動かせる目方ではない。すると、今度は『儀礼だ』と主張する。
◆実は全さん、大学を出た後の2年間、縄文中期、4500年前あたりから古墳時代までの発掘現場で穴掘り調査をやっていたという。そこで痛感したのが、考古学の「実証科学であって人文系でもある、微妙な立ち位置」だった。「『儀礼』は実に上手い逃げ道で、そう言うと、そっから先がなくなってしまう。そうではなく、建築工学などの実証科学で実験し、同じデータで同じ結果が出れば、学問的にもスッキリするワケです」
◆シクラは、ネットの大きさ、積み方、サイズなどが様々な上に、繊維自体も捻ったもの、真っ直ぐなもの、三つ編み、二つ編み、カギ編みと、色々なテクニックが駆使されている。そこで、モデル化したシクラを使い、実際にどういう機能を果たしていたのか、筑波にある建築研究所で振動台実験を行った。3段積みシクラの上に建物替わりの1トンの鉄板を載せて揺らすと、1回あたり軽く百万円かかる。それを、シクラの有る無しなど条件を変え、十数回繰り返した結果、「上部構造の揺れが半減する」という免震効果が証明されたのだ。
◆私も、よく似た構図の話を聞いたことがある。それは、古墳内で見つかる小さな土粒を、考古学者が「儀式用に古代人が作ったもの」と考えて、長年『擬似米』の名称で呼んでいたところ、後にコガネムシの糞であることが判った、というものだ。この時のキーワードも『儀礼』、それを引っくり返したのは昆虫の専門家だった。
◆全さんは、「ナスカの地上絵『宇宙人説』は、一種のアパルトヘイトだ」と指摘する。そして、「そんな難しいことが昔の人に出来る筈ないから、宇宙人がやった、ではなく、目の前に残されたものから解明するのが科学的態度」と強調する。何もかも儀礼に結びつける姿勢もまた、一種のアパルトヘイトに違いない。
◆もちろん古代インカ人は、実験でシクラの効果を知ったわけではない。経験則的に使い始めたが、そもそもは魚網だったという。「当時すでに綿が栽培されており、それで網を作った。ウキ用のヒョウタン、錘の石も出ていて、定置網漁が行われていました」。ここでは、食物の7割以上が、魚介類やクジラ、アザラシなどの海洋性動物だったという。
◆優れた耐震性を誇るシクラにも弱点があった。「『神殿更新』といって、神殿は何十年単位で公共事業的に造り直しました。前のものを壊して空いたスペースにシクラを詰め込み、その上に更に大きな神殿を造るんですが、それを繰り返してシクラが積み重なってゆくと、ある高さで逆に壊れ易くなってしまいます」 その結果、1000年くらい続いた後に、シクラの技術は徐々に廃れてゆく。
◆ここで、全さんが「マチュピチュまでの5000年を5分で片づけます」と宣言。駆け足での、各地の遺跡巡りが始まった。約4000年前、素人目にも稚拙な石積みのコトシュ遺跡。次のチャビン文化になると、『布積み』や建物の角を強化する『算木積み』が現れる。「日本の築城技術では、安土城を造った『穴太衆(あのうしゅう)』と呼ばれる石工の技術集団が有名です。ようやく西暦1600年前後になって、日本でも様々な石積み技術が発達しますが、それがアンデスでは3000年も前にありました」
◆ピキリャクタというクスコ近くの遺跡では、ほぼ自然のままの石を上手く組み合わせる『野面(のづら)積み』にご対面。「この発展形が『打ち込み接(はぎ)』。石材同士の接合面を増してピッタリ組み合わせ、接点を増やすことで安定させています。さらにそれを発展させたのが『切り込み接(はぎ)』で、石同士を完全に整形して密着・安定させる、インカ時代の石組みの造りです」
◆「石自体の並べ方、積み方、角の処理の仕方にも、『谷積み』や『亀甲積み』など色々あります。重力を分散させたり、摩擦係数を最大にして建物を安定させたり、角の石をサンドイッチ構造にして倒壊を防ぐとか、石工の専門家集団が様々な工夫を凝らしました」目を閉じて聴けば現代建築の技術解説、顔を上げ、スライドだけ見詰めると、みんな似たり寄ったりの古代の遺跡。そのギャップが面白い。
◆石同士の密着技法が山岳地帯に多いのに対して、シクラは主に乾燥した海岸地方で使われた。湿度の高い山では、植物繊維のネットが腐ってしまうためだ。シクラが免震なら、密着法は耐震。ナスカ近くのカワチ遺跡では、植物繊維を下に敷いた『滑り免震』という技術もあるという。
◆一帯は地形も自然も多様な土地ゆえ、帝国による征服以前、各地に多彩な文化が栄えていた。シカン遺跡もその1つ。石壁巡りの後に見る金銀細工はひときわ眩かった。が、「インカは黄金帝国として有名ですけど、ここのお宝をパクったのがインカ帝国」なんだとか。また、「B級マイナー酔っぱらい文化」と全さんが呼ぶチャンカイ遺跡からは、酒杯を手にした人物像の酒器が続々と見つかっている。その土器の顔も、ポリネシア系にアジア系、コーカソイドにギリシャ風と、世界中の人種が勢揃い。「いろんな人たちが、ジョン万次郎みたいに辿り着いていたのではないか」。そう推理する彼によると、コロンブスも、「『新大陸を発見した』と言うより、『新大陸に来て、初めてヨーロッパに帰った人』」が正しい位置付けであるという。
◆アンデスは、我々の食卓に欠かせない、様々な農作物の原産地だ。ジャガイモ、ピーナッツ、トウガラシ、トウモロコシ……。また、それぞれのバリエーションが凄い。「ジャガイモだけで3500種類。味から使い途から全部違う」のだそうだ。「これは皮剥くのが大変で、現地名を『嫁泣かせ』と言います。しかも、これらをチューニョというフリーズドライ加工にすると、何十年でも保存でき、穀物と同じように扱えます」
◆それら豊富な品種の蔭には、科学的な品種改良があった。「これはモライの遺跡です。円形劇場だという説が濃厚だったんですが、実は農業試験場でした」「下と上で深さ100m以上の差があるので、霜の降り方、風の当たり方、陽の射し方も違う。耐寒品種とたくさん取れる品種を掛け合わせたりといった品種改良を、ここでやっていた」「花粉分析でも作物の花粉が沢山出ており、実際にその周りでは、一つの畑の中で、ジャガイモをざっと15〜20種くらい植えています。病気で一つの種類がダメになっても多くは残る、という理詰めの栽培です」。驚愕の事実の数々……。『メンデルの法則』なんて、インカ人はとっくの昔に知っていたに違いない。
◆野生動物の家畜化も、遥か6000年前から始まっていた。ラクダ科で高品質の毛が取れるアルパカは、運搬にも使え、1頭で30〜35kg、30頭のキャラバンを組むと約1トンの荷物を運べたという。これに小型のリャマとモルモットの一種のクイを併せた3種類が、アンデスでの家畜だった。
◆全長4万kmのネットワークを誇ったインカ帝国の道は、それ以前、2000年、3000年も前から建設が進んでいた。「これは、私が運んできてグレートジャーニー展でぶら下げた、7mの縮小版の本物です」と映し出された吊り橋は、インカ道で現存する唯一のものだという。絶壁中腹の引っ掻きキズのようなインカトレイルといい、我々の道路のイメージからすると心細いが、徒歩やアルパカキャラバンには、これで充分だったのだろう。
◆インカ道というハードの整備を全土で進める一方で、帝国はソフトの統一も果たした。スペイン人が『ケチュア語』と呼んだルナ・シミ語の公用語化だ。現在のペルーでも、スペイン語、アイマラ語と並び、ケチュア語が公用語に使われているという。「徳川幕府時代に『お国替え』というのがありました。インカ帝国も、言葉を共通にすることで、敵対している部族を武力で征服するより『言うこと聞くと良いことあるよ』と、お国替えで勢力を広げていきました」
◆こうしてインカ帝国が急速に発展を遂げたのが、9代目皇帝パチャクティの時代、首都はクスコ。という訳で、ようやく我々もクスコに到着した。『12角の石』や『14角の石』に見られる、頂点に達した石組み技術の数々。裏の丘に残る要塞兼神殿・サクサイワマンでは、高さ3〜4m、推定300トンを超える石が組まれ、その隙間にはカミソリの刃1枚入らないという。「鉄も機械も使わず、これらをインカの人は手だけで削りました。それでガチガチ叩いて……」と回ってきたのは、小さな握り拳大の、ズシリと重い隕鉄だった。摩滅によるのだろう見事な丸みを眺めていると、その膨大な年月と労働量に言葉も出ない。
◆この後も、脳外科手術の頭蓋骨や目玉付きミイラ、1000m近い崖の上の秘境遺跡ワクラプカラ、と全さんのサービス精神が発揮され、ようやくマチュピチュに辿り着いたのは、ツアー終了時刻の30分前だった。ここでも、話の中心は土木や建築だ。「全部の面で石の組み方が違いますが、ここは鹿島建設、こっちは竹中工務店みたいに、別々の職人集団が造ったのかも」「石を割るときは、石ノミで開けた穴に木のクサビを打ち込み、水をかける。すると木が膨張して、石の面に沿ってパコッと割れた」
◆遺跡内の名所旧跡を巡りながら、そんな説明が続く。しかし、ひとたび『石』を離れると、全さんが語るマチュピチュは、ナマナマしくてヒト臭く、どこか軽くてミーハー的だ。発見秘話や、それに纏わる人間ドラマ、いまでは観光客が列を成すという現実……。が、そんな思いも、彼が苦労して撮ったであろう写真を目にした途端、掻き消えた。東西南北の山から眺める『空中都市』は、狭い痩せ尾根の下から階段状に石垣を積み上げ、人工的に作り出した平地の上に築かれた、正真正銘の『天空の城』だった。全さんによると、「アンデス文明とは南米ペルーの太平洋岸に5000年前から栄えた古代諸文明の総体で、その最後に登場する、ある意味での集大成がインカ帝国」だという。まさしくマチュピチュは、いまの一瞬など超越し、5000年の時間の頂に浮かんでいた。
◆「『何か判りたい』と思ったら、本を読む、良く知っているヤツに話を聞く。そして現場に立って見る=旅をする。これ以外に方法はないと思います」。そんな言葉で地平線マチュピチュツアーを締めた全さん。「そういうのを纏めたのが、この本でございます」と、最後は10月に出たばかりの自著をPR。その、会場片隅に置かれた『マチュピチュをまもる アンデス文明5000年の知恵』の好調な売れ行きが、本日の案内人に対する、参加者の満足度を物語っていた。
◆短い質疑応答のメインは、いま話題のペルー料理。「大帝国が発達したところは、みなメシが美味い」「料理は腕が2割に素材が8割。これだけ食材豊富でマズいワケがない!」「世界で『一番予約が取れない』レストランのオーナーが、店を閉めてペルーに入り浸っている」……。睡魔はどうした!?の勢いの全さんが熱く語る、聞き手には『絵に描いた餅』話の連発に、「もういいよ」と江本さん。そして、「じゃあ、(質問)最後の一人」の丸山さんの声も遮って、「もう二次会、行こ行こ」とダメ押し。「ペルー飯で、江本さん怒り狂ってます。全さん、眠い中、本当に有り難うございました」。丸山さんのシメに会場が沸き、マチュピチュを基点に5000年の時空を駆け巡った報告会は、そのままお開きとなった。[記録係:ミスターX]
■喋りながらふっと意識が遠ざかり、幽体離脱状態のまま話し続けること数回? 地平線報告会初であろう、話しながら寝てしまった前代未聞の報告者にならずに済んで、まずはめでたしという今日この頃。実はこのお原稿も、今年4回目となるペルー行きの機内で書いて、乗り継ぎ中に送れば間に合うか、などという不埒な段取りとなっております。
◆とはいえ、テープ起こしを読んでみると、それなりに真っ当な内容なのはスバラしいっ! 無意識でも辻褄が合う程度の話ができるぐらい、脳細胞の中にネタが染み込んでいる証左ではなかろうか。この10年ほど、建築学者や工学系の専門家と一緒に活動することが多く、あらゆる機会に今までもやもやしていたアンデスの遺構とその造りに関する疑問をぶつけてきた。30年以上、旅しかしてこなかったような自分でも、やはり目線を鍛えることで何かしら見えてくるものがある。現実に目の前に残されたものから何が言えるのか、その限界を極める旅を続けてきたような気がしている。
◆環太平洋火山帯の地図を見るまでもなく、太平洋に面した首都は東京とペルーのリマ市だけ。地震や津波に襲われれば、犠牲者は数十万単位と言われている。被害を10分の1に減らす防災プロジェクトも、来年から本格的にスタートする予定だ。遺跡巡りやグルメ探究もやめられないが、人的被害の最小化を目指す壮大な計画は、新しい双方向モデルを提示できそうで後には引けない。邪魔する奴は藁人形に五寸釘! てなわけで、報告会にお越しいただいたお暇な方々に、ひたすら多謝多謝でございます!(ZZz-全@アトランタのトランジット・ラウンジ)
■今年亡くなった父が最後に行った国がペルーでした。昨年6,768mのワスカラン南峰に登頂し、当時3歳だった私の娘の柚妃(ゆずき)に父が写真を見せながら話をしているうちに、娘はすっかりペルー贔屓になってしまいました。白根全さんの報告会は、ペルーという国をもっと知りたいという思いもあり、私も娘もとても楽しみにしていました。
◆報告会で初めてマチュピチュの写真をきちんと見ました。ワイナピチュを向こうに臨んで尾根の上に伸びるマチュピチュ遺跡は、今までに見たどんな種類の景色とも違う美しさでした。緑の草地に並ぶ石の建造物と周りの険しい山々が見事に調和し、さらにそれらが霧に浮かぶ様のなんと美しいことか! この目で見られる日が来ることを願わずにはいられませんでした。
◆遺跡建造物の細部を見ると、一部の隙もない精緻な石組みの技術にまず驚き、そしてここまで石の形と積み方にこだわるのは、見た目の美しさではなく耐震性を追求した執念の賜物なのだと知りました。現代のような道具や重機のない時代に、宇宙人などではない確かに存在した遥か昔の人々が、経験値と高い技術力とをもってここまで優れた建造物を作り上げたことにはただただ瞠目するばかりです。しかしその頑丈な建物が消えるよりも先に建物の主(あるじ)が不在になってしまったことを、インカの人々はどう感じるのだろうかと思いました。
◆実は、報告会開始前に私が地平線カレンダーの封入作業を手伝っているあいだ、娘は会議室のイスを全部ひっくり返すという作業(注)をひとり黙々とやり続け、がんばり過ぎたせいか報告会の後半にきて眠気に負けてしまい、あとで残念そうにしていました。でも白根さんの書かれた子供向け(といっても内容は本格的)のマチュピチュを解説した本も入手できたし、初めての北京の餃子もたらふく食べられたし、とても満足&満腹な報告会だった、ということです。
◆そして報告会から2週間たった今日も変わらず、「ゆずちゃんの一番行きたい国はー?」と聞くと、「ペルー!」と元気よく答えています。(瀧本千穂子)
★注:地平線報告会では、ここ数か月、写真や動画をスクリーンを使わず会場の大会議室後方の壁に大きく映写するようにしている。このため、冒頭、会場全体の椅子をひっくりかえす作業が欠かせない。瀧本さんの父親は、この春ガンで逝った江本の山の親友。(E)
■『たくさんのふしぎ』をお送りいただき、ありがとうございました! 読むことをあきらめかけていたので、本当にうれしいです。マチュピチュの神秘さだけでなく、地震に備えた構造にまで触れているのを興味深く読ませていただきました。さすが全さん、写真も文章もすばらしいですね。報告会を聴きに行けなかったのが残念です。
◆裏表紙がナスカの地上絵でしたが、山形大学には「ナスカ研究所」(ペルー)があり、新たな地上絵の発見や研究を行っています。マチュピチュも地上絵もアンデス文明の遺産ですが、まさに“たくさんのふしぎ”に満ちていますね。いつか行ってみたい場所のひとつですが、はたして行けるかな??
◆地平線報告会にときどき来ているカメラマンの渋谷典子さんが『映画の人びと 女性カメラマンの映画撮影現場体験記』を出版しました。渋谷さんは同じ酒田出身で、何年か前の報告会の時に声をかけていただいて以来のお付き合いです。映画撮影現場のスチール・カメラマンとして体験したことを綴った回想記ですが、渋谷さんならではの味のある文章で、一気に読みました。高倉健さんや吉永小百合さんなどの、映画では観られないスナップ写真もいい感じでしたよ。
◆昨日は月山の麓にある肘折温泉に泊まってきました。志津温泉とはちょうど月山の反対側にあたり、こちらも名だたる豪雪地帯です。毎年2月に開催される「地面出し競争」にあかねずみさん(山形在住の網谷由美子さんのこと)たちと参加していますが、今年はなんと3位に入賞し、来年のシード権を獲得しています。雪はなかなか厄介ですが、それを楽しみに変えて遊んでしまおう!という肘折の人たちの魅力と温泉の心地よさに惹かれて、ときどき通っています。……と長くなってしまいましたが、あらためて感謝いたします。どうもありがとうございました。(山形県酒田市 飯野昭司)
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