2013年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信415より
先月の報告会から

ちょっとアフリカでお務め暮らし

小林有人 竹林紀恵

2013年10月25日  新宿区スポーツセンター

■今回の報告者は、JICA青年海外協力隊でアフリカはブルキナファソに駐在した小林有人(こばやし ありと)さん(31)と竹林紀恵(たけばやし のりえ)さん(27)のカップル。小林さんは現在もODAの仕事に携わり、中央アフリカのコンゴ民主共和国と日本を行き来している。ブルキナファソ? コンゴ民主共和国? 聞き慣れない国、遠いアフリカ。そこにはどんな暮らしがあるのか。賛否両論ある青年海外協力隊やODAの事業。日本の若者は現場で何を感じたのか。会場は迫る台風をも怖れぬ人々で埋まった。いつもの新宿区スポーツセンター大会議室は、机と椅子が一新して新鮮な雰囲気だ。お二人にとっては初めての地平線会議で初めての登壇。そして筆者の私は今回初めてのレポート担当で、緊張気味。新・新・新尽くしの報告会である。

◆小林さんはアフリカ常連のわりに色白で、スマートな黒縁メガネに白襟のシャツ。一見するとIT企業のエリートエンジニアといった容貌だ。一方、竹林さんは元気と笑顔いっぱいの太陽を感じる女性で、BGMにアフリカの歌が聞こえてきそう。前半は、小林さんの自己紹介からスタートした。

◆静岡出身の小林さんは、大学進学を機に東京へ。理工学部の経営システム工学科から大学院まで進み、修士課程では金融工学分野を扱った(やっぱり理系だったか!)。修士論文のテーマは「区分線形型収益率モデルを考慮した年金ALMの最適化問題について」。<クブンセイケイガタs○△×☆……!?> しかし金融の勉強の末に小林さんが感じたのは、「お金持ちの役にしか立たない」ということ。

◆その頃から、日本語教師、数学科講師などいろいろなボランティアを始めた。一番長く続いたのが、今も顔を出している森林ボランティアだ。その後、森林ボランティアの経験を活かして青年海外協力隊に応募し、2008年9月からブルキナファソへ。同国が要請した職種は「村落開発普及員」で、具体的には「森林管理グループの支援」という内容だった。特殊技術を持たない者でも応募しやすかったので競争率は意外に高かった、という。帰国後の2011年からは社団法人日本森林技術協会に所属し、主にODAに関する森林調査の技術移転の仕事をしている。

◆続いてはブルキナファソとコンゴ民主共和国の概要紹介。西アフリカの内陸国ブルキナファソは砂漠に近く、面積は日本の約3分の2、人口は約1700万人。フランス領の時代を経て、1987年からはコンパオレ大統領の政権が続いている。マリに近い北部は治安が悪化しているものの、全体としては多民族間に争いも少なく、穏やかな国だという。

◆中央アフリカに位置するコンゴ民主共和国(旧ザイール。お隣のコンゴ共和国とは別の国です)は面積が日本の約9倍、人口約6700万人。旧ベルギー領で、フランス語を公用語とする。広大な大地をコンゴ川が渡り、雨が多く、アマゾンやインドネシアと並ぶ森林地帯だ。目下気になるニュースとしては、世界遺産にも登録されるビルンガ国立公園で石油が発見されて騒然となり、WWFが開発を食い止めようとしている。資源多き土地らしく、広島と長崎の原爆のウランはコンゴ産だとか。近年は反政府武装勢力との戦闘の影響で、政情が混乱状況にある。

◆ブルキナファソに関するニュースでは、アフリカのサッカー大会で準優勝した時の選手インタビューが非常にブルキナファソ人らしい、と小林さん。要は決勝で負けたわけだが、選手は何ともない調子で「たいしたことじゃないよ、また来年来ます」とサラリ。小林さんは、この感覚が「日本人じゃないな、と。こういうのが好きです」と笑う。そして、「なぜアフリカに惹かれるのか」という問いがいくつかのエピソードで明かされていった。

◆ある時、小林さんがコンゴの同僚に出張費の支払いが来週でもよいか尋ねると、同僚は「鳥小屋の中の鶏より、口の中の卵」と訴えた。日本で言えば「明日の百より今日の五十」、逃げ回る鶏より今すぐ手に入る卵がよい、との意だ。鶏と聞いて小林さんはブロイラーを想像したため、すぐ手に入るじゃないか、と最初は訳が分からなかったが、説明してもらって納得できたという。

◆また、ブルキナファソでは、食堂に入ると食事中の客によく“You are invited(あなたは招待されています)”と呼びかけられた。「知らない人の食事を私が食べるのか? お金は払うのか?」と謎だったが、生活するうちに、一緒に食べましょうと言うのが一種の社交辞令的な習慣らしいと分かってきた。食堂で誘われて食べたことはないが、道端で知り合いが小さな鍋を囲んでいるところに行きあうと、本当に食べる場合もある。そういう土地柄だった。

◆道端でトウモロコシなど買って職場に行っても、食べようとすると「一人で食べるのか」と怒られる。一人目に会った人に半分、二人目に会った人にはそのまた半分、三人目に会った人にはさらにその半分を渡すのだ。それでは自分の分がなくなってしまうではないか。しかし彼らは、「ここでは何か得たらみんなで分けるんだ。それは私の喜びだ」という。取り分が減ってお腹がすくだろう、本当に喜びなのか?と問うと、そうだ、と答える。小林さんも、「そういうものか、と思えてきた」。

◆コンゴでは、森林研修の際、森の伝統的な所有者である村長に挨拶に行くことがあった。お酒を贈る習慣だというが、仕事なのでお酒では領収書が切れない。さてどうするか。贈らなければ、突然ヘビに襲われる、ハチに襲われる、昨日まで何ともなかった車が突然壊れる、といった具合に「呪われる」ため、たとえ大統領でも用意しなくてはならないという。小林さんがポケットマネーで買ってきて差し出すと、そのお酒は儀式として大地に少々捧げられたが、残りは村長が全部飲んでしまったらしい。次の日、酔っぱらった村長に「もう一本くれ」とせがまれた。断ると「呪われる」ので、「なるべく村長に会わないようにした(笑)」という。

◆ぽつり、ぽつりと語りながら小林さんは、「結局、いまだによく分からないので、アフリカに通っているのかな」と結論。たとえば、民主化について。ブルキナファソの友人に「アラブの春」に関する印象を聞かれ、小林さんは「春というくらいだから良いのでは」と答えた。しかし友人は、「あれは最悪だ」。カダフィ大佐を特別擁護しているわけではなさそうだが、「民主主義だけが唯一の方法ではない。それ以外の方法もある」と。振り返るとその語気には、騒乱の背後に欧米の利権があったと見るニュアンスも含まれているようだった。小林さんは、「初めて聞いた視点だったので、どういうふうに考えたらいいのかな、というのは今も心に残っている。引き続き考えてみたい」。

◆会場では、コンゴでの森林伐採現場の写真も多数紹介された。材木は国内での消費も多少あるが、お金になる高品質のものはヨーロッパに運ばれる。衣装材(化粧材)が主な用途で、樹齢60〜80年くらいの木が切られるようだ。最近は中国にも大量に輸出されているという。交通路としては川が発達しており、フェリーやタンカーで丸太や木炭が運搬される。川は庶民にとっても重要な足で、漁で生計を立てる人々も多い。

◆そんな中で一枚、腰まで水に浸かって満面の笑みを浮かべる小林さんの写真に目を引かれた。事務作業が多い現職だが時にはフィールドワークがあり、森からの帰りにみんなでわいわい水たまりを歩いて渡ることになったのだという。道中「どうしても水が避けられなかった」と言うが、クールな理系姿はいずこ、溌剌と輝く小林さんの童心に返ったような笑顔を見るなり、こっちが彼の正体か!?と気付かされたのだった。

◆休憩時間には、「私達は映像や言葉で伝えることはできるけれども、匂いを伝えることはできない。だからみなさんに匂いを一切れずつお渡ししたい」という竹林さんから、ブルキナファソ産ドライマンゴーが振る舞われた。濃厚な、うっとりするほど甘い香り。後半は、そんなマンゴーが繁る大地での衣食住や女性達を紹介する竹林紀恵さんのお話だ。竹林さんいわく、全世界に派遣されている協力隊のうち7割は「すごくまじめに目的に向かって活動している人」。1割は「ちょっと引きこもってしまっている人」。残りは「あまり活動せずうろうろしている人」。竹林さんは、活動しつつも村を「うろうろ」していることが多かったという。

◆暮らしぶりを見ると、竹林さんの住まいはコンクリート造りだったが、村の家の多くは藁吹きの屋根。どんぐりの頭のようにぽこっととれる屋根の中は、穀物倉庫になっている。村人はイスラム教徒とキリスト教徒が半々で、一夫多妻のイスラム教徒の家庭では、妻達は各々丸い家、夫は一人で四角い家に住むのが、この村の昔ながらの家族形態。ブルキナファソには60以上の民族が暮らすといわれ、家の形はさまざまだ。

◆商店を覗くと、小鳥やネズミを打つためのパチンコ、油などを量り売りする秤、自転車の修理道具などが並ぶ。いわゆる貧困層向けのBOP(Base Of Pyramid)。ビジネスの動きが盛んで、その日使う分だけを買えるように小分けした袋も多い。町の通りには携帯電話の充電屋さんがある。地元の人の多くがケータイを持っているが、家に電気がないので、一回50円で充電するのだ。かけることはできない、受信専用のケータイだという。

◆竹林さんは、そうしたブルキナファソ暮らしで三人の女性に出会った。一人目は、親友と呼べる仲になった同年代のアワさん(27歳)。コーヒーショップで働く彼女の楽しみは、雑穀の地酒「ドロ」をこっそり仕事中に飲むことだ。お給料は月2000円で、支払われない月もあるので生活は苦しい。恋人であるその店のオーナーと、単身者向け住宅で同棲している。もとはイスラム教徒だったが、キリスト教徒の恋人に合わせて改宗した。両親は遠い町にいて、お父さんは一番新しい奥さんと暮らしているが、「私にはお母さんがいっぱいいるのよ」とアワさん。竹林さんは柔軟な宗教観や家族観を感じたようだ。やがてアワさんはガソリンスタンドでも働き始めた。お給料は月6000円だ。

◆二人目は、竹林さんのお向かいに住む、4人の子どものお母さん。フランス語はまったく通じなかったので、竹林さんの現地語の練習相手だった。彼女は夫が出稼ぎ先で亡くなったと聞くと、その弟と再婚した。また、ある朝6時に村から20km離れた先で「薪を拾いに行く」という彼女に会ったが、たくさんの薪を積んで帰ってきたのは夜中の1時。違法伐採を取り締る環境省の役人に見つからないよう、早朝出て夜中に帰るのだという。竹林さんいわく、「強いお母さん」。

◆三人目は、竹林さんのフランス語の家庭教師。本業は小学校の先生で、一クラス100人を超える授業が朝7時半から始まり、夜6時に帰宅後は翌日の授業の指導案をみっちり書き上げねばならない上、二人の子どももいて、多忙な彼女である。実家は、お父さんが大学教授で自家用車もある裕福な御宅。彼女の両親とはまったく面識がなかった竹林さんだが、一人で会いに行くと、温かく歓迎されたそうだ。

◆ブルキナファソでは3月8日の「世界女性の日」が祝日となっている。女性はお揃いの服を着け、その日ばかりは男性が料理を作り、女性は公の場でお酒を飲むことができる。女性対男性の試合で絶対女性が勝つサッカーイベントや合同結婚式などが催され、盛大に祝われるという。歴史や政治の舞台に現れる機会の少ない女性達の生き様は、報告会ならではの情報といえよう。

◆さて、次にスライドに映し出されたのは、お皿に山盛りの芋虫。協力隊では「男性隊員はみるみる痩せ、女性隊員はどんどん太る」と言われるそうだが、竹林さんも現地の食に目がなかった。芋虫の味わいは、「コクがあります。エビみたいです」。サンドイッチの具になるのだとか......。「太った原因の一つ」という白インゲン豆の粉を練って揚げた「サモサ」は、「ほくほくしておいしい」。日本でも強烈に食べたくなるという。

◆インゲン豆とお米を炊いたお赤飯のような「ベンガ」は、油をたっぷりかけて塩をまぶして食べる。ピーナッツのお団子や、豚の丸焼きも美味。飲み物では、地酒の「ドロ」や、粟・ショウガ・水・たっぷりの砂糖で作るカルピスのような味の「ゾムコム」。赤いハイビスカスのジュースやオレンジ色のバオバブジュースもよく飲んだ。日本でハイビスカスジュースの再現を試みたところ、「これでもかというくらい」砂糖を入れないと現地の味にならず、どんなに砂糖を摂取していたのか思い知ったという。

◆市場の屋台には、「こんなのも食べられるのか」と驚く「その辺の草」が積まれ、興味津々だった竹林さん。「ブルキナファソの食事はすごく手が込んでいる」と語る。「収穫から食べるところまで全部見えるというのが、日本と違う。トウモロコシをとって、粉にして、練って、食べて。お肉も野菜もすべて目に見えた。日本のスーパーでは、お肉がパックに入って足だけ並べて売られている。違和感を持った」。

◆アフリカといっても村々によって食文化はまったく異なる。ブルキナファソの主食はトウモロコシ粉を練ったもの、コンゴの主食はキャッサバ粉のお団子「フウフウ」。それに漬けるソースはアフリカ原産オクラのソースをはじめ、多種多様。自生の地域食材を使う風景にもよく出会った。「村の食生活ってその地域の特性が見えてきて、すごく面白い」。食べ歩きから風土に親しんだ竹林さんである。

◆そうして過ごした任地で、竹林さんは東日本大震災を知った。この時、ブルキナファソの人々は「あなた達の問題は私達の問題です。あなた達の苦しみは私達の苦しみです。あなた達のために祈ります......」とメッセージをくれた。そのメッセージを白い紙に大書して村人たちが竹林さんと並んだ写真が会場に映し出される。彼らはトウモロコシや喜びだけでなく、悲しみも分け合うのだ、と竹林さんは強く感じた、という。

◆報告会の締め括りは、コンゴでの結婚式の映像。陽気なブラスバンドに合わせて、新郎新婦への贈り物が次々と踊りながら担ぎ出される。マットレスが担がれ、電子レンジが担がれ、コンロ、扇風機、椅子、テーブル、テレビ、冷蔵庫、ソファが踊り出てフィニッシュ。愉快な式であった。

◆ブルキナファソでは2008年頃は約60人の協力隊員が活動していたが、軍が大統領に銃を向けるという一時的な混乱が起こり、全員強制退去させられた。竹林さんもその一人だ。友人達に挨拶する間もなかったという。政府の管理下に置かれる隊員には行動にも制約がある。巷では、協力隊の活動は適切な援助になっていないとの批判も聞く。しかし小林さんも竹林さんも、「行ってよかった」と即答。この日会場では5歳の柚妃ちゃん(ゆづき。5月号通信にあった、ガンで亡くなった江本さんの岳友のお孫さん)から、「村に子どもはいますか」と可愛い質問があった。映像で映し出された 村の風景を見て同じ年頃の子たちがどう暮らしているのか気になったそうだ。自分と同じ年頃の人達が何を考え、どう暮らしているのか。会って、見て、何かを感じて帰ってくる。今回の報告で、協力隊の活動の意義はそこにあるのではないかと思った。(福田晴子 早稲田大学院生 文化人類学専攻)


報告後記

なにかあったときに最後に生き残るのは彼らだな、と思った。

■アフリカは憧れだった。でも行ってみたら、彼らも普通の人間だった、と思う。アフリカにも普通の人たちが住んでいて、かれらだって、本当に本当に本当に優しいけれど、ズルはするし、お腹は空く、お金だって実際のところ必要(額は日本人と全然違うかもしれないけれど)、そんなところはどの世界の人たちとも同じ、でもCAN2013(サッカーアフリカカップ)の決勝で負けてc'est pas grave(たいしたことないよ)って言葉が出る底なしのサバアレ感(ca va aller、なんとかなるよ)。ドーハの悲劇のときに、最後の最後で一点入れられた日本人は、「タイシタコトナイヨ、また次来るさ」、ととても言えないだろうな、と思いつつ、それを聞いたとき、これがアフリカだ、と思って嬉しくなった。

◆結局アフリカは憧れであり続けるのだけれど、少しずつ自分の日常にもなりつつあるし、仕事と生活をアフリカでする上で、アフリカが自分の日常にならないと、そこでの生活のストレスはものすごいものになってしまう。アフリカについて東日本大震災のときに思ったのは、なにかあったときに最後に生き残るのは彼らだな、と思った。ものすごい少エネルギー社会だから。

◆なにか見つけたいのだけれど、まだ見つかってなくて、いまのところ見てきたもの聞いてきたこと知っていることの整理を試みたけれど、ひっちゃかめっちゃかで、結局、報告後記もひっちゃかめっちゃかでごめんなさい。と思っていたところ、地平線レポートがなんと美しくまとまっていることか、福田さんの文章力に感服でした。福田さん、地平線のみなさま、お越しのみなさま、まことにありがとうございました。(小林有人

どうやら10年以上も前にブルキナファソに出会っていたらしい……

■ブルキナファソ、ニジェール、ガボン。青年海外協力隊に応募しようと決め、新卒、実務経験なしの私が選べたのはこの三国。「人がやさしい」の言葉に惹かれ、第一希望にしたのは、ブルキナファソだった。協力隊の一員として過ごした2年間は、自分がブルキナファソに居る意味と常に葛藤していたように思う。そこに居るだけで意味がある、と確信を持てたのは3.11のとき。本当に沢山の村人に、知っている人からも知らない人からも声をかけられ、励まされた。「額ではなく心です」と現地の赤十字社の呼びかけのもとに最貧国と言われるブルキナファソから集まったたくさんの寄付。この言葉や思いを日本に届けなければ、そう思った。

◆2年間のブルキナ滞在後半、南部のティエベレという村を訪れた。カッセーナという人たちが住むその家には壁面に象徴的な絵が描かれている。その家を見た瞬間、はっ! とした。愛知県にある野外民族博物館リトルワールドには、ブルキナファソの家としてカッセーナの住居が実物大で展示されている。それは、遠足で訪れた中学時代の私が一番気に入った家だった。帰国後、実家に眠っていたアルバムの中に、その家と自分が写る写真をみつけた。どうやら10年以上も前にブルキナファソに出会っていたらしい。運命だったのかな、なんて思いながら、これからもずっと日本とアフリカを繋ぐことに関わっていたい。(竹林紀恵


★ガボンから2年ぶり帰りました★

■皆様おひさしぶりです。2年間アフリカにいて、10月に日本へ帰ってきました。アフリカでは青年海外協力隊の農業隊員として、アフリカ西海岸の赤道直下にある、ガボンで働いていました。ガボンは、10月の報告者、小林有人さんが活動しているコンゴ民主共和国の隣の隣にある国です。報告の中にあったもう一つの国、ブルキナファソへは行く機会がありませんでしたが、その隣のベナンには行きました。報告を聞いていて、私も知っている物事や、知らないこと、懐かしいことなど、いろいろ出てきました。

◆アフリカと一口に言っても広く、国によって環境も文化も違います。それどころか一つの国の中でも地域によって随分違ったりします。その一方で、やっぱりアフリカだなあ、という共通点があるのも確かです。中でも西アフリカの旧フランス植民地は、フランス語以外にも宗主国の影響で共通するものが多くあります。私自身は、あまり協力隊らしくない場所で、ちっともアフリカらしくない活動をしてきたのですが、改めて、青年海外協力隊では、いろんな人がいろんな所でいろんな事をやっているんだなあ、と思いました。(松澤亮


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