■今回の報告者は、9月1日に写真集『生きる喜び』を自費出版した河田真智子さん。河田さんは島旅の達人としておなじみだが、この写真集は重い脳障害を持って生まれて来た娘の夏帆ちゃんの成長の記録をまとめたもの。河田さんは写真集のスライドを映しながら、島と障害児、さらには原発事故の話も織り交ぜて、夏帆ちゃんとの25年間といまの思いを語ってくれた。
◆まずは、夏帆ちゃんが生まれる以前の話。河田さんと島の出会いは大学1年生の春休み、鹿児島県の沖永良部島への旅だ。島の農家に10日ほど泊めてもらい、帰りに港に見送りに来てくれた方の言葉が印象に残ったという。「人の一生の中には、自分ではどうしようもできないくらい辛いときがあるものだ。そんなときがあったら、あなたもこの島に帰って来なさい。帰るふるさとがあるということはありがたいものだ」と。「また、おいで」と言われて次の夏に島を再訪すると、「本当に来た」と驚かれた。再再訪したときには、その言葉が「おかえり」に変わった。「それがきっかけで島に繰り返し通うようになりました。そうして大学の頃にはいろんな島に行って、いろんな人と触れ合って、島の素顔を伝える仕事をしたいと思うようになりました」。
◆25歳のときに、島の愛好会「ぐるーぷ・あいらんだあ」を立ち上げた。その際、作家の島尾敏雄氏の息子さんに、こうアドバイスされたという。「あなたは善かれと思って島の人と関わろうとしているだろうし、若い女の人が熱意を持って訪れれば島の人は温かく迎えてくれるでしょう。でも、やり始めたことをあなたの気分で辞めてしまったら、それは余計なおせっかいかもしれない」。では、途中で投げ出したと言われない年月はどれくらいなのだろうか。そう考え、木が大きく育つ年月と同じくらいの30年間は会を続けようと心に決めた。
◆34歳で一人娘の夏帆ちゃんを出産。写真集の最初のページは、出産直後に分娩台の上から撮影したモノクロ写真だ。その当時、生まれたばかりの赤ちゃんの写真を撮るのが流行っていて、河田さんもそんな他愛のない幸せな瞬間を写すつもりだったそう。ところが、予定日から1週間ほど早く生まれた娘は、すぐには産声をあげなかった。医師たちが隣の処置室に連れて行って取り囲み、足の裏を刺激したりしているようだが、なかなか泣き声は聞こえてこない。1分……、2分……、声が上がるまでの時間を心の中で数えると5分ほどあった。仮死状態で生まれた娘は保育器に入れられ、その日のうちに別の病院に救急搬送。後に「点頭てんかん」と診断され、重度の心身障害が残るだろうと医師に告げられた。
◆その娘、夏帆ちゃんは生後8カ月までを病院で過ごした。この頃の病状はというと、「脳から異常な電波が来ることで、右向きに手を伸ばし、体をひねり、足を突っ張るという発作を起こす」ということで、「ベビーカーにじっと座れないというのがまず苦労した」と河田さん。リハビリを行うことで、こうした体の緊張を解くそうで、写真集にはリハビリ後にふっと力が抜けた一瞬の、あどけない表情の夏帆ちゃんの写真があった。
◆1歳を過ぎてから、初めて家族旅行に出かけた。行き先は「地続きで、何かあったらすぐに帰って来られる場所」ということで、御殿場を選んだ。さらに、1歳8カ月で河田さんの心のふるさとの沖永良部島へ。この旅への思いを河田さんはこんな風に話した。「(島に通い始めて)最初の頃は、島の人からは若くて自由だから来るんだろうけど、結婚したら、子どもが生まれたら、きっと来られないよね。『あいらんだあ』という会もどのくらい続くんだろうね、と見られていたかもしれない。でも、だからこそ、子どもを島に連れて行きたいと思った」。
◆はたして、一家が島に降り立つと、空港まで島の人が何人も迎えに来ていた。移動手段がなかったら困るだろうと心配して来てくれていたのだ。友人の一人は夏帆ちゃんを抱っこしようと手を差し伸べ、「なっちゃん、帰って来られてよかったね」と語りかけた。河田さんは、「そのときやっと私と島との付き合いも本物というか、同じ目線でつき合っていけるのかなと感じた」と言う。“自分の子どもが歩けなくても連れて来たじゃないか。河田は結構本気じゃないか。頑張っているぞ”。そんな風に見てもらえるようになったと感じたそうだ。
◆夏帆ちゃんが5歳のときには、母子2人きりで奄美大島と加計呂麻島に出かけた。「障害児を育てていると、とにかく全てが人の力を借りて生きていかなければならない。『すみません』と『ありがとうございます』っていうのを一体、何回言うのだろうかというくらい。子どもが生まれた途端、頭を下げ、頭を下げて生きてきて、だんだん自分に腹が立って来て、私一人でも連れて行けるっていうのを、いつかやりたかった」。そう思い立って、夏帆ちゃんの体重15キロ、車いす15キロ、荷物15キロ、計45キロを一人でかついで1週間の旅へ。島の人には「肩肘張らないで。人脈という手足もあるよ」と言われた。結局、全く知らない島の人にたくさん助けられながら旅は進み、「なんだか吹っ切れたような感じの南の島だった」と河田さんは振り返る。
◆この話には程度の差こそあれ、少し思い当たるところがあった。子どもを乗せたベビーカーは街中のちょっとした段差につまずくし、地下鉄の長い階段なんか一人では途方に暮れてしまう。毎日『すみません』と『ありがとう』を何遍となく繰り返し、見知らぬ人の手をも借りることを覚える。そうして、自分が一身に子どもの生命を背負っているかのような気負いを手放す、通過儀礼のような経験。この世の中はこんなにも健康で身軽な大人の基準でできているのだと知り、世界を別の角度から眺める想像力を身につけるのもこんな瞬間だ。
◆だけど、夏帆ちゃんの日常には、そんな甘っちょろい母にはとても想像に及ばない困難がたくさんあっただろうと思う。それを窺わせる一連の写真群もあった。例えば、眼が見えていて追視できるか鏡を使って確認するテストや、トレーニングによって覚えた物を飲み込む能力(=嚥下)に問題がないか検査したときの様子、開口器をつけて口の中にゴムのテントを張ってする歯の治療、成長に合わせて何度も作り直してきた「親子の断面図」のような特注の車いす。大阪のリハビリセンターに“単独”入院したときには、90日のうち50日ほどを河田さんが別室で付き添った。高校卒業後だろうか、河田さんにとっては義理の父にあたる、“おじいちゃん”と夏帆ちゃんが手をつなぐ微笑ましい写真には、「実のところ、おじいちゃんが孫に触ったのはこれが初めて」という事情があった。それから、食事がうまく飲み込めなくなって胃にチューブを通すために腹部を切開した手術あとの痛々しい写真も。
◆そんな“記録”写真の合間にあってほっとしたのは、七五三、卒業式、成人式などの子どもの節目を写した“記念”写真や「元気でいてくれますように」と桜の花びらを降り注ぐ父子の花見写真。それに、私がとても好ましく思ったのは、河田さんが仕事をする日の夏帆ちゃんとお父さん(旦那さん)の日常風景を切り取った写真だ。布団に横たわり「やや放っておかれている感じ」の夏帆ちゃん。お父さんはその手前でパソコンの画面を見やりながら自分のワイシャツにアイロンを掛けている。そんな二人に送り出されながら、河田さんはずっと仕事を続けてきたのだと思うと、とても印象的だった。だって、その裏には続けることの苦労も、もちろんあったはず。
◆女性の人生には好きなことを辞めるタイミングが何度もあって、なかでも子どもの存在は相当に説得力のある理由だ。自分を犠牲にして子に尽くす母親の姿は美化して語られやすいのだ。それでも、周囲に言葉を尽くして理解や協力をとりつけ、いろんなことに心を配りながら好きなことを続けていく。子がいることを何かをあきらめる理由にしない。その子が重い障害を抱えていたとしたって、自分の人生をあきらめない。そんな姿に、後輩ママの私はとても勇気づけられる。
◆後半、今度はコメントなしの静かな中で、再びスライドを映し出した。あえて劇的にしないで淡々と並べたという写真について、河田さんは「見る人の心の中にどんなベースがあるかで受け取り方が違っていい」と言った。25年の物語を聞いたあとに改めて見た一連の写真の中の夏帆ちゃんは、あるときはとても透明で無垢なように、あるときには表情豊かに語りかけてくる眼差しであるように私には見えた。それ以上に、河田さんの「愛おしい、愛おしい」という気持ちが積み重なっていくのがよくわかるような、母子の歴史を見た気がした。
◆さて。「ここからが難しいところなんですが」という前置きで河田さんが語り出したのは、写真のさらに裏側の話。そう、今回の話のタイトルは、「島とショーガイとフクシマ」なのだった。河田さんは冒頭から、「障害を持って生きてきたことは、島の抱える大変さ、あるいは原発事故で自分の故郷を追われた人たちの大変さと共通するものがあるように思えてならない」と話していた。わかるようで、完全にはわからない。わかるのは、その立場に置かれていない自分には理解しきれない部分があるのだろうということ。河田さんは、「自分がいざハンデのある子を抱えてみたら、人に言えない、言おうとしても理解されないことがたくさんある」と語った。
◆例えば、夏帆ちゃんはこれまで、車いすの転倒や食べ物の誤嚥などの事故をいくつも経験してきたという。事故に遭うこと自体は防げない部分もあるが、そこに嘘があったとしたら、そのことで自分の子の運命が変わっていくとしたら……。そんなとき、取材者である河田真智子さんの取るべき行動はある意味では分かりやすく単純。だが、障害児の母である本名・榊原真智子さんの思いはもう少し複雑で、「その両者の間で板挟みになることがある」と河田さんは漏らした。「角をたてないほうが上手くいくという障害児の母の思いと、嘘はよくない、うちの子に起きたことが次の子、あるいは夏帆にもう一度起こるかもしれないから、ちゃんと言わなくてはという葛藤になる。その折り合いが難しくて困る」
◆そんな局面に立たされた河田さんが思い出す島がある。太平洋に浮かぶ島国、マーシャル諸島のキリ島。1954年にアメリカがビキニ環礁で行った水爆実験に伴い、強制移住させられた人々が住む島だ。「人間関係をうまくしておいた方が夏帆を預かってもらえる。預かってもらえないと島にいけない。でも、自分は島で何を見て来たのか。ビキニを追われて監獄のような小さな島に閉じ込められて、その後の健康状態をチェックされている人たちを訪ねた河田真智子は、榊原真智子という一人の母親として現実に屈していいのか。自分の中で河田と榊原が闘う。闘うと吐き気と頭痛でヘトヘトになり、介護ができなくなる。どこか相談に乗ってくれるところはないかと探すが、その度に挫折したりする」
◆榊原と河田の闘い。板挟み。河田さんはそんな葛藤を何度も口にした。とてもアクティブなイメージの河田さんだけれど、今回ばかりは母親として迷い、揺らぐ表情を私たちの前に見せた。そして、現在の夏帆ちゃんが直面している問題。それは、首に人工的な穴を開ける「気管切開」の手術をするかどうかの決断を迫られていることだ。河田さんによれば、「恐らく、まだしなくてもいいのではないかという状況」。だが、医師が手術を勧める背景には現在の医療体制が充分でないという現状がある。
◆脳障害を診る医師のうち8割は小児科に属していて成人した夏帆ちゃんも小児科にかかるが、小児科の病棟はいつも患者でいっぱいだ。そのため、何かあったときに救急で運ばれても入院できなかったり、たらい回しにされたりするかもしれない状態だという。事実、これまでにも、入院時に複数の病棟を転々とし、慣れない看護師が担当してトラブルが起こっては病状が悪化することがあったそうだ。気管切開には空気を通りやすくし、手間と技術のいる痰を取りやすくするというメリットがある。つまり、将来の安全を取るために早めに処置する策だというのだ。
◆生後のトレーニングで口から食事をとれるようになった夏帆ちゃんは、思春期を過ぎて誤嚥が増え、現在は再びチューブで栄養をとるようになっている。それに加えて今度は首に穴を開けるというのでは、どんどん生きる状況が厳しくなっていくようではないか。しかも、気管を切開するということは、声が出せなくなるということをも意味する。医師の言うとおりに、そこまでする必要が本当にあるのか。何か改善する策はないのか。そう、一人であがいているのだという。「なぜ一人かというと、もはやみんなであがくほど問題は簡単ではなくなっていて、そのうちにそれぞれの人が亡くなって、あがく人がいなくなる。障害のある子が大人になっている状態にたくさんの社会の問題が凝縮してやって来ている」。
◆いまの社会構造、医療体制の中では切開したほうが安全だと頭では理解できる。だけど、言葉を持たない夏帆ちゃんのコミュニケーションの主体は声。苦しいとか、痰が詰まっているとか、親に来てほしいとか、いろんなことを声で伝えることができているのだ。その声を失う決断をなんとか回避できないのか。河田さんがあちこちに相談してみて分かった究極の解決策。それは、親が寝ないで24時間付き添うこと。そんな解決策しかない、それが現実だった。
◆「声を出せなくても生きていることが大事だからと夏帆に言い聞かせようとするが、一方で社会の状況がこんな風だから切開しなくてはいけないというのは、言葉を持たない夏帆に対して申し訳なく、親の力不足だと思う。この一年、あらゆるところに相談してきたが、できればそのことには触れてほしくないという反応をされるのがいまの社会の状況。なぜなら、みんなそれなりに亡くなっていくので、あまりにも少数派の問題になっている。ビキニを追われた人が住んでいる島の状況と同じではないか」。
◆いままさに難しい決断に迫られている最中の河田さんは、取材者として、親として揺れる思いをそのままに話を締めくくった。「私は島にずっと関わって来て、何かを伝える仕事をしている者として、何をどう伝えれば言葉を持たない夏帆に代わって発言できるのかということをいつも考えている。いままでは障害の重い子を育てていても、あまり挫折感がなかったが、今回初めて早めの気管切開がいいのかと迷いながらいるところです」(菊地由美子)
重い障害をもって生まれてきた娘の夏帆(なつほ)の25年間の写真記録集『生きる喜び』をテーマに話をさせていただきました。
夏帆が生まれて半年、治療は難しく、脳障害を専門する病院へ、お見舞いに来てくれた江本さんの言葉を思い出します。
「真智子さんは病気ではないから」と言われたのです。入院する娘に24時間付き添いをしている私に、何か仕事をもってこられたように思います。
島にかかわる仕事してきた私は娘が生まれるまでに3冊の本を上梓して、順風満帆だったのです。でも、娘の障害はあまりに重く、仕事は断念せざる得ないと思っていました。
でも、私は病気ではないから、娘の病気を理由に自分の志を断念したら、懸命に生きる娘に申し訳ない……と、江本さんのことばで気づきました。
それから、娘が26歳になった今年まで、娘の体調に合わせて、島と関わる仕事をしてきました。
夏帆は22歳の時の誤嚥性肺炎を引き金に胃に穴を開けて直接栄養をとる胃ろうでの食事になりました。そして今、首に穴を開けて呼吸の手助けをする「気管切開」を勧められています。「気管切開」を考えることは死生観を考えることにもつながる難しいテーマです。
そして、18歳以上の脳障害者が入院できる病棟がないため、病院をたらいまわしになったり、他の病棟に居候するなどの課題にも直面しています。慣れない他の病棟への居候では事故も起こりやすいのです。
緊急時に備えて、早めの気管切開をした方が安全ではないか? と主治医は考えてくれたのだと思います。
昨日の診察ではいよいよ、入院日程を提案されるものと思い、夫も決死の覚悟で臨みました。ところが主治医から、なかなか「気管切開」の言葉が出ません。夏帆は目をくりくりとして、先生のお話をよく聞き、ニコニコしています。そして、ゴホンと咳をして痰を切り(咳出反応OK)、さらに、これをゴクンと飲み込みました(嚥下状態良好)。「元気」をちゃんと自分でパフォーマンスしています。
今、気管切開の話はひとまず据え置きです。理由の一つは、夏帆が元気で気管切開の緊急性がないこと。もう一つは、予定入院であっても、3週間の入院ベッドが、かかりつけの科で確保できない様子です。
震災以降、娘を取り巻く福祉、医療関係は目に見えて厳しくなってきました。(島も障害も福島も同じです)
報告の後半は、私自身が消化できてない混迷のままを話しました。事故や医療過誤の可能性を背景にした話であったため、具体的に語れないところを菊地さんが、よくまとめてくださいました。ありがとうございます。
『生きる喜び』はどこにあるのか?
「生きる喜びは、誰かのために存在することのなかにあります。何もできなくても、誰かのために存在すること、それは、つきつめれば、死んでしまった後にも誰かの心のなかに存在することに、生きる喜びは息吹いています。
生と死の間を行ったり来たりしている夏帆の瞬間を写真は捕えます。ある日、写真を撮っても、夏帆の形が写らなくなる日が来るかもしれません。それでも私は、夏帆が生きることと死ぬことをかけて、伝えようとしたことを撮り続けていきたいと思っています。」(河田真智子写真集『生きる喜び』より)
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