■今回の報告者は、2011年春から今春にかけて、エベレスト、マナスル、ローツェというヒマラヤの8000m峰に次々と登頂した石川直樹さん。久しぶりに登場した石川さんは、日に焼けてくっきりとした表情で、相変わらずのすらっとした体型に白いTシャツ姿。「先月も来ました」みたいな感じでフラッと現れると、すっと会場の空気に馴染んだ。今月も後ろの壁いっぱいに写真や映像を映し出しての報告だ。
【2001春エベレスト】
◆石川さんのヒマラヤ通いのきっかけとなったのは、2001年春のエベレスト遠征だ。その頃、北極から南極までを人力で踏破した「Pole to Pole」の旅を終え、7大陸最高峰のうち6座を既に登頂していた石川さんは、最後の1座のエベレストに登るべくラッセル・ブライス氏の率いる国際公募登山隊、ヒマラヤン・エクスペリエンス隊(以下、HIMEX隊)に初参加した。当時はチベット側からのアプローチ。映像には、いまより少しだけあどけない表情の石川さんとジョカンやロンボク寺の風景から、登山の安全を祈願するプジャの様子、荷を運ぶヤク、ABCからC1、C2、C3を経て頂上へ向かう様子が次々と映る。
◆なかでも驚かされたのは、先に登頂した仲間のフランス人スノーボーダー、マルコ・シフレディが頂上直下から滑降するシーンだ。頂上に向かって何人もの登山者が列をなす脇で、少し滑っては休息を挟みながら、しかし確実に滑り降りるマルコの姿!! 「このときの彼は本当にすごかった。神憑っていた」と石川さん。地平線報告会で初めて流される貴重な映像だった。石川さんによると、マルコはこの際、6400mのABCまで無事に滑り終えたけれど、ボードをシェルパに担がせたと批判を受けたために数年後に再挑戦し、そのまま行方不明になってしまったという。
◆マルコを見送ってから石川さんも頂上へ。当時の表情を見ると、高度障害のために顔がむくんでいて辛そう。「長かった。やっと着きました」と息を切らせてコメントしている。
【2011春エベレスト】
◆そして2011年春、石川さんは10年ぶりに今度はネパール側からエベレストの頂きに立った。石川さんはこの2度のエベレスト遠征を振り返り、「2001年当時のラッセルはマッチョで厳しいタクティクスを敷いていた」と話す。当時は高度順応のためにチベット側のABCに2週間以上も滞在しており、「頭がガンガンして眠れず、すごく辛かった」と言う。その後、中国の規制でチベット側からの登山が困難になったためHIMEX隊はネパール側に拠点を移し、現在は6200mほどのロブチェピークに登って順応するようになった。その手順は、まず一回ピークに登ってすぐに下り、少し時間を空けてから再びピークに登って2泊ほどして戻る行程だ。2001年は標高7900mで寝るときから初めて使用していた酸素ボンベも、いまは7300mで寝るときから使っている。登頂までのタクティクスはより効率的になった印象があるという。
◆この「再びのエベレスト」に私は当初、意外な印象を受けた。だって、石川さんはマッチョな登山家タイプではないし、この10年間に写真家として物書きとして新たな地平を切り開き続けてきたように思えるのに「なんでまた?」って。だけど、エベレストに関しては旅の記録を写真集などにまとめていなかったからというのが動機だったようだ。
◆「どうにかしてまとめたいが、10年前の登山についてまとめても仕方ないし、写真フィルムのタイプやフォーマットも、いま使っているものとは違う。じゃあもう一回行くしかないでしょ、っていうことで行くことにした」そうして“いまでしょ!?”的に登ってみたら、また違う思いが沸き上がってきたのだそう。
◆「エベレストの頂上から最終キャンプのサウスコルに下るまでずっとローツェが見えていたんです。ああ、なんかすげえ山だなと思いながら下っていて、あっちの山からエベレストを見たらどう見えるんだろうと思った。チベット側からもネパール側からも見たけど、同じくらいの高さのローツェから見たらけっこう面白いんじゃないかと。自分の中に区切りをつけるために登っていたので、ここで区切ってもよかったが、もっとしつこく撮ったり取材したりしたほうがいいんじゃねーかと思って、下山している最中にローツェに行くことを決めた」
◆そう語って石川さんが映し出したのは、“影エベレスト”の写真だ。薄紫から薄い桃色のグラデーションに染まる明け方の空。その下の雲海に、正三角形にも近い、きりっとしたエベレストの影がうつる。そのときにエベレストの頂上付近にいた者だけが見ることのできる幻のような風景で、ほんの少しの気象条件が違ったら、体力的な余裕がなかったら決して撮れない奇跡的な一枚だ。
◆「こういう景色を見るとすごくびっくりするし、酸欠でフワフワした中でこういう風景を見て痺れたというか、スッゲーなこれ、という感覚になって、それが忘れられない。もうちょっといろんなことを見られるんじゃないかという思いもあった」
【2012春ローツェ】
◆ところが、そうして挑んだ2012年春のローツェは最悪のコンディションだった。圧倒的に雪が少なく、落石が多い。そのため、荷揚げするシェルパにけが人が続出し、ラッセルとシェルパ、登山者メンバーで話し合った結果、登山隊はローツェから撤退することに決めた。予定より早く終わってしまった遠征に石川さんは「欲求不満になって」、ダージリンやムスタンを旅する一方、その秋のマナスル遠征に参加することを決意する。
◆「あくまでもエベレストをいろんな角度から撮りたい、知りたいという気持ちでやっていたプロジェクトだったので、エベレストから少し離れているマナスルに登るつもりは元々なかったが、ダージリンやムスタンを訪れるうちに、もっと違うヒマラヤの山を知りたいと思った。しかも『ローツェは途中で撤退してしまったから割引でいいよ』なんてラッセルに言われて、『そっかー』と思ってマナスルに行くことにした」この軽やかさ。端から見ると、「ハッピーマンデーでビール半額だから飲みに行こうぜ」って誘われたときくらいのノリで石川さんはヒマラヤに出かけていく。
【2012秋マナスル】
◆2012年秋のマナスル遠征の記録は、ヘリコプターでサマ村に入る映像から。粗末なあばら屋にカゴを背負って歩く女性、マニ車を回す女性たち、夕日に染まるマナスルのぴょこっと突き出したピーク、タルチョがはためくBCには荷を入れた青いドラム缶、テント内の白い枕、真っ赤なゼリーとキッチンテントにかけられた柱時計……。そんな中に、バレーボールをするシェルパの映像があった。片方は揃いの灰色のユニフォーム、もう一方は黄色を身につけ、かけ声とともにボールが左右のコートを行き来する。ここが街中ならば、なんの変哲もないバレーボールの風景だが、実はコートが作られているのは標高4800mのBC。そこでフツーにバレーボールをしていること自体が驚異的だ。
◆「登山者はみな血眼になって頂を目指して命がけで気合いをもっていくが、サポートするシェルパは気負いなく山に入っている。BCに着いた直後なんて僕はヘロヘロで動く気力もないのに、シェルパたちは延々試合をしている。さらに荷揚げやルート工作をして下りてきてからバレーをするシェルパたちを見ながら僕は、これなんだなとすごく思った。こいつら本当にかっこいいなと思う」
◆自分がヒマラヤに通うのは山の頂きに立ちたいというよりシェルパに興味があるからなのだ、と石川さんは言う。だからなのだろうか、頂上の映像を見るといつもあっさりとしたコメントしかしていない。「頂上に着きました。さっさと帰ります」「いま頂上にいます。これから帰ります」「頂上にいます。これから下ります」……。もちろん、だらだらと滞在していては生死に関わってくるという事情があるのだろうが、登頂が一番の目的ではない石川さんにとって、そこは旅の中のひとつのシーンにすぎないという部分もあるのではないかと感じた。
◆マナスルの映像は、頂上アタックへ向けてC1、C2、C3へと歩を進めていく。その最中の、青い空とキラキラ光る雪面、綿菓子のような雲海に山々の頂きがぽこぽこと飛び出す様。その絶景。石川さんの視線を追体験するように、私たちもすっかりその眼福にあずかった。
◆そして、世界がピンクに染まる明け方に頂上アタックを開始。下から見えているマナスルの“認定ピーク”とされるところに立ち、さらに少し高いところにあるという“本当のピーク”に立った。その「認定」から「ほんまもん」までの道のりがまた、ちょっとすごかった。撮影する角度のせいなのだろうか、脇の切り立った斜面は70、80度の傾斜にも見え、細く、踏み固められていない雪の稜線は見ているだけでハラハラする危うさを孕んでいる。そして、立つこともできないくらいの狭くもろい頂上で、頭上に輝く太陽の、これ以上ないくらいの光の強さ。今回の報告会ではこれらの映像と、なんといっても写真の強さが際立って、それらを見られただけでも来て得をしたなと思った人が多かったと思う。
◆ちなみに、石川さんはこの10年ほど、プラウベルマキナという中判のカメラを撮影に使っているそう。二次会で見せてもらったその無骨なカメラは、手にしてみると思ったよりもずっと大きくて重かった。レンズ部分が折り畳める蛇腹式のレンジファインダーというやつで、ファインダーを覗き込んで二重の像を手動で重ねてピントを合わせるのだけど、高所でこれを何十回、何百回もやっているのかと思うと、ちょっと途方もない気持ちになる。息をするだけでもしんどいような高所にごついカメラを担いでいって、懐に何本もしのばせたフィルムをときどき交換しつつ撮影を続ける。もちろんそのために行っているのだろうけど、尋常でない精神力を要求されるはずだ。
【2013春ローツェ】
◆この春、石川さんは再びローツェを目指した。3月末にカトマンズを出発し、ルクラからヒマラヤ街道へ。その道中の写真の中に、クムジュン村の近くにある「クンブー・クライミングスクール」の外観があった。かつては見よう見まねで習得していた登山技術を教えるシェルパのための学校だといい、実際にアイスクライミングの練習をしている生徒たちの姿も。また、登山中の写真の中には、アイスホールに梯子をかけたりメンテナンスしたりする“アイスホールドクター”たちや、エベレストに20回近くも登頂しているというHIMEX隊随一のシェルパ、プルバ・タシやキッチン担当シェルパの写真もあった。石川さんはいつかプルバにロングインタビューをしたいと話していて、きっと近い将来に公募隊を支えるシェルパたちの物語が紡がれるであろうことも楽しみだ。
◆さて、登山隊はプジャを行い、BCからC1、C2へ。ローツェとエベレスト登山ではC2まで同じ道筋を辿り、その先のローツェフェイスの途中で行き先が分かれるそうだ。その後、C3を経て標高8000mくらいの最終キャンプ(C4)。ここから撮った写真の中のエベレストは威厳たっぷりの山だった。群青色よりも青いヒマラヤの空に大きな黒い山肌。堂々としたその表情は簡単には人を寄せ付けない雰囲気なんだけど、でも、でも、やっぱり……かっこいい! 今回、いろんな時間帯にいろんな角度から撮ったエベレストの写真を見せてもらったけれど、本当にそれぞれに違った表情を見せてくれた。
◆ところで、やや余談めくが、このC4やエベレストの最終キャンプであるサウスコルは、石川さんにとって「全然落ち着けない嫌な場所」なんだそう。「みんな、なりふり構わない。トイレとかも普通は隠してやるが、女性でもお尻丸出しでしていたりする。自分のことだけに必死になっちゃって、人間のいろんなものがむき出しになっちゃっている恐ろしい場所。一刻も早く登るか下りるかしたい」
◆そう語る石川さんは、まだ余裕があったのだろう。そういえば、2回目のエベレストからマナスル、ローツェの登頂前のどの映像を見てもすっきりとした顔で、高所順応がうまくいっていたことを伺わせる。ローツェにしてもエベレストにしても石川さんが特に重要視しているのが順応で、「ノーマルルートで高所順応がきちんとできていれば、ほとんど誰でも登れると思う」とさえ話す。
◆最後はローツェ・クーロワールと呼ばれるところだ。左右が岩の壁のようになっていて、それが頂上まで続いているという。場所によって広くなったり狭くなったりする、その溝の部分を歩いていく。「短いかなと思ったら長くて、クーロワールの(頂上側の)出口から風が来ていた。その風に雪の欠片が混じっていて光って見える。風の入り口に行こうと思って立つとまた違う入り口があって、風の入り口を求めてずっと行くような感じでした。僕はなんか無心になっていて、ほとんど写真も撮らずに頂上間近に来てしまった。取り憑かれたみたいに進んでいた。あの感覚は言葉で説明しにくいが楽しかった、すごく」
◆言葉から満足感がにじみ出るようだ。この数年のヒマラヤ登山を通して、きっと8000m峰でしか味わえない恍惚や充足感を経験したのだろうと想像する。また、石川さんはこんな風にも言っている。「ヒマラヤでは体を使い果たすような感覚があって、それが独特だなあと思います。エベレストもマナスルもローツェも空っぽになる感じがあった。明日動くために食事をし、早く深く呼吸をすることを心がけて体のメンテナンスをしながら行く。これだけ意識的に呼吸したり食事をしたりすることは普段はなくて、2カ月くらいして登って帰ってくると体が生まれ変わるような感覚があって、ちょっとやみつきになってしまうようなところがあるんです」
◆10月には再びヒマラヤに赴き、アマダブラム(標高約6800m)遠征に参加するそうだ。エベレストを見るための旅は完結したはずなのに、「ヒマラヤは本当に面白い」と目を輝かせて次の登山の計画をする石川さんは、すっかりヒマラヤ中毒になっているか、何かに取り憑かれているみたいだ。なんだか、ちょっと羨ましい。ともあれ、そうして歩き、突き進んだ先の高みから石川さんだけが見ることのできた景色を、また私たちに見せてほしいと思う。(菊地由美子)
久々に地平線会議で話をした。15年以上前、学生時代にはじめて報告会に参加して以来、何度か話をさせてもらったが、あの頃から地平線会議は何も変わっていない。いつものように、バタバタと映像の準備をし、入口付近では物販の準備がのんびりと進む。開始時刻のだいぶ前からいらっしゃる方もいれば、始まってからやってくる人もいて、気付けば後ろのほうまで人がいた。
ぼくのホームページで告知を行ったのが、報告会前日の夜22時過ぎというあまりにも遅すぎる時間だったことにも関わらず、本当にたくさんの人が駆けつけてくれた。中には大分から来てくれた方もいて、ありがたい。見慣れた顔が点在していて、懐かしい。
報告会の様子は、菊地由美子さんが軽やかな筆致で書いてくれたとおりだ。これ以上でもこれ以下でもなく、ぼくが付け加えることは何もないほどに、まとまっている。報告会の後は皆でぞろぞろと夜の早稲田界隈を歩き、駅前の「北京」で二次会をして、野宿野郎たちに見送られながら、解散。いやはや、徹頭徹尾、何も変わっていなかった。
このどっしりとした存在感には、目を見張るばかりである。次に地平線会議で話せるような旅ができるのは、いつになるだろう。みなさん、ありがとうございました。
■411回の報告会に出席した。「エベレストを隣の山から同じ目線でちゃんと撮りたいんです。誰もが知った気になっている既存のイメージを写真でひっぺがしたい」、「昔とはずいぶん変わってきたシェルパ族の今の姿を記録するのも同じ発想かな」という石川氏の狙いに関して興味津々だったし、そして何よりも『欲望の天嶮』という強烈なタイトルが胸にグッサリ刺さってしまったからだ。山は高ければ高いほど聖地とみなされ、人々の崇敬の念を集めるけれど、最高峰ゆえに世界中の人間の“カルマ(業)”を引き寄せてしまうのも、「チョモランマ」の、そして「サガルマータ」の、いやあえて言わば世界に冠たる「エベレスト」の宿命なのだろう。
◆勤め先からの遅れ気味の参加だったため既に報告会は始まっていた。出席名簿に記入していると、背後からゴウゴウと吹きつける風の音に紛れて上気した男の声が聞こえてくる。思わず振り向くと白い壁を引き裂く青い閃光──。虚空を疾駆する気流、真白に照り映える雪氷、黒々とした重厚な岩壁、それぞれの匂いや空気感まで伝わってきそうな映像に、思わず魅入ってしまった。
◆どの写真も映像も石川氏しかモノにできない貴重なものばかりだったが、中でも個人的に感じ入ってしまったのが「この道の先を右に行けば『ローツェ』、左に進めば『エベレスト』の山頂」という分岐ルートのショット。自分は山に関してはド素人だから、世界にはこんなに凄い“ビジョン” =天界への道があるものなのか、と素直に感銘を受けてしまった。率直に「この場所に立ちたい!」と。
◆僕はキリマンジャロには登ったことはあるけれど(ドラムセット一式という“お荷物”付きだったが〈笑い〉)、8千メートルを越える世界がどういうものかは、もう想像の埒外だ。そんな高峰に通暁している石川氏でさえシャッターを押し忘れてしまうような奇跡の光景との出会いもあったという。そうした純粋なリアリティーの積み重ねを昇華させたビジョンの数々を我々に届けてくれることが石川氏の真骨頂だろう。
◆変化を遂げつつあるヒマラヤ登山の現状も伝わってきた。確かに現地の受け入れ体制も整い、登山のノウハウが高度にシステム化され、装備も驚くほど進化している。そのため石川氏は「高度順応さえ順調なら誰でもエベレスト登頂は可能になった」と言っていた。以前に聞いたことがあるのだが、山屋さん達の間では「宝珠は龍が護っている」と言われるそうだ。
◆宝珠は山頂、龍は頂を目指す登山者を見舞う雪崩や、アイスフォール・クレバスなどで起こる事故といった自然の脅威の象徴だ。条件的に普遍化することでさらに多くの挑戦者を惹きつけることになったヒマラヤの山嶺だが、そこにはまだまだ強大な龍たちが潜んでいることを写真と映像が雄弁に物語っていたと思う。そんな龍たちを呼び覚ますのが、人間の邪まで独善的な欲望やカルマではないことを切に祈る。
◆「“水平”から“垂直”までいろいろな旅をしてきましたが、8千メートル峰の登山は全身の体力を使い果たす快感があるんです」(石川氏)。こんな言葉を聞いてしまうと、やるせなく胸の奧が騒いでしまう。僕は探検家や冒険家になりたいと思ったことはなかったけれど、悪ガキの頃から昭和の高度成長期にどんどんゴチャゴチャしていく街並の地平線を見つめながら、「あの向こう側にはきっと見たこともない世界があるんだろうな」といつも憧れていた。
◆でも一日中自転車を駆っても、夕暮れに路に迷うばかりで“すごい世界”には辿り着けなかった。歳を喰っていっぱしになってからも、世間様並みの分別と落ち着きが足りなかったおかげで、幸いにも見たかった“すごい世界”の幾つかに出会うことができた。しかし身体機能が自分の思うにまかせなくなってしまった今、水平、垂直、遠方、近傍に関わりなく“ここではない、どこかへ”行こうと欲する遙々とした「意志の力」が、まだオレの胸には宿っているのか。会場の壁面に次々と映し出される刺激的なビジョンを強く睨めつけ、興奮でかすかに震え始めた両膝をギュッと握り締めながら、そんなことを想い続けていた。
[追伸]今回寄稿をすすめてくれた江本御大の指示で近況を一筆。この6月から勤め人、始めました。真っ当な会社員になったのはほぼ人生初(笑い)。もうやりたい仕事が自分で作れなくなったし、何より他人様の御都合に振り回されるフリー稼業ではこの先身体が持たないな、と判断したのが主な理由。悲しいけどこれ現実なのよね。おかげで早寝早起きの健康的な生活を送っております。五十路の就活は苦労が予想されたものの、あっけなく決まってしまって拍子抜けでした。勤務先は新宿三井ビルでしたが、デカイ本社の堅っ苦しい雰囲気と通勤地獄に嫌気がさし、実戦部隊(府中の事業所)への転属を出願。仕事は商品解説書やパンフレットの編集制作のはずだったんですけど、実際にはDTPソフトを使ったグラフィック・デザイン! 自分は元々編集者で、Gデザインのキャリアはからっきし無し。一般の人にはこの職能の違いが分からんのですよねぇ。とりあえずいろいろこなす便利屋として重宝がられてはいる模様。しかし一部上場企業のパンフやWEBサイトのビジュアルデザインを視覚障害者が担当するなんて「冗談ではない!」と思うのだけれど……。(三五康司 杉並区)
★三五君は、長野亮之介画伯不在の折、しばしばピンチヒッターをやってくれた“地平線影武者イラストレーター”。27才だった1989年4月の地平線報告会で「アフリカンブラザーズの大冒険」としてドラマーの野中悟空さんとキリマンジャロのてっぺんでドラムを叩いた体験を語った。3年前、脳出血で倒れ、左半身麻痺、視覚障害の身ながら、新たな仕事に挑戦していた。(E)
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