■今日の主役は、東京・小平市にある武蔵野美術大学(通称ムサビ)の卒業生たち。新グレートジャーニー最終章・海上ルート、別名『黒潮カヌープロジェクト』で様々な役割を担当した5名に登場してもらう。プロジェクト開始当時から追いかけてきた地平線会議ではおなじみの話だが、航海の終了から2年がたった今、あの経験は若者たちにどのような変化をもたらしたのか? 改めて話を聞いてみたい。彼らと同年代の私は興味津々だった。
◆はじめに、概要として記録映画『僕らのカヌーができるまで』の数カットが流された。旅のコンセプトは「自然から直接ものをとってきて利用する」。2008年5月の九十九里浜での砂鉄集めにはじまり、製鉄のようす、できた工具で木を切り倒し丸木舟をくりぬいていく過程などがテンポ良く紹介される。航海に使う2艘の船が完成したのは2009年1月末。約9か月間という短い準備期間の中で、彼らは鉄の他にも「縄」班、「食」班などに別れ、航海に使用するものをできる限り自分たちで作ろうとした。
◆進行役の鈴木純一君によって、報告会は3部構成で進められた。第1部ではプロジェクト開始前について、関野さんがムサビに来る前年の2001年に油絵科に入学した木田沙都紀さんが回想した。彼女が大学2年生になった4月、ムサビ全体がざわついていた。「グレートジャーニーがムサビに来るらしい!」。関野さんとの出会いから6年後、木田さんはプロジェクト全体のマネージメントと映画のプロデューサー、そしてインドネシアにいる関野さんと学生をむすぶ役割を担当した。多くの人の間で葛藤もあったことだろう。それでも何とか計画を進められたのは、プロジェクト以前から行なわれていた関野ゼミでのつながりが大きかったという。
◆毎週火・木曜日の放課後に行なわれていた関野ゼミでは、農業や食、自然の話を中心に世の中について考えることが多かった。時には遠足として品川と場へ見学に行ったり、大学構内で羊や豚の丸焼きを作ったことも。窯作りから始めるこの取り組みは、今もムサビで続けられている。関野さんの周りに集まる人たちは、なんとなく泥くさい。土にさわることや、畑仕事や自然が好きだったり。ただモノを作るだけではなく、大学の外にも面白い事があるという考えの人たちだ。
◆現在は中学校の美術教師をしている木田さん。「関野さんの学生との関わり方を見て、自分が好きな事を人に伝えたり巻き込んだりする事がとても魅力的に見えました。大好きな美術を人と共有できるのはすごく楽しい。これからも美術をとおして人と関わっていきたいです」。“良い師とは、良い師がいる人のこと”という意味の中国のことわざを思い出した。木田さんなら、出会いの素晴らしさを子どもたちに伝える事ができると思う。
◆第2部では縄班を担当した2名の女性が登場した。リーダーを務めた村井(当時は田中)里子さんは2008年に工芸工業学科テキスタイル専攻(布を織ったり染めたりすること)を卒業、現在は一児の母。もう1人の竹村東代子さんは2008年に日本画学科を卒業。プロジェクトの記録広報冊子『結』の編集と、縄班、鉄班に参加した。今はフリーでイラストやデザインの仕事をしており、先に開催されたグレートジャーニー展のパネル(レシピ風でユニークでした)も作成した。
◆大学入学当初から、村井さんは学生たちの作品制作に対する姿勢に違和感を持っていた。素材を買って作品を作ることを当たり前とすら思わず、全く無意識でいることにひっかかっていたのだという。草で糸を作るなど個人的に素材研究をしていた村井さんは、プロジェクトの話を聞いてリーダーに名乗りでた。一方で竹村さんが専攻していた日本画では、いつも自分たちで絵の具を作っていた。岩石の粉とにかわ(動物の皮などを煮て得るコラーゲン)を手で混ぜて調整していく。「岩の質などによって出来上がりが変わり、色を重ねても比重が軽いものが上に出て来たりして……。日本画を始めてから、ものって何でできているんだろうと日常的に考えるようになった」。
◆企画段階では航海中に着る服(!)や帆も作る予定だったが、時間の都合で縄のみを作ることに。最も時間を費やしたのは調査。麻、葛、シュロ、赤苧(あかそ)、苧麻(からむし)、シナ、麦など使用できそうな植物ごとに担当者を決め、実際に縄を作っている団体や農家などを訪ね歩いた。最終的にインドネシアの漁師に選んでもらい、素材はシュロに決定。竹村さんは、現在もシュロ縄を作り続けている京都の保津川下りの船頭の元を訪ねた。縄は櫂と船を結びつける部分に使われている。水に強いとか耐久性がいいといった長所があるが、「船頭さんたちは櫂を漕ぐときのギーッ、ギーッという音がいい、これがないとやる気しないと言っていて、面白いなあと思いました」。なるほど〜と、なんだか理屈で説明されるよりも納得してしまう話だ。
◆縄作りの話にも実感がこもっていた。皮の網目状の繊維をきれいに揃えて束にする。板に釘を打ち付けた「繊維取り機」でひっかいて細かいゴミをとり、きれいな繊維にしてよっていく。パミオというインドネシアの道具を使ってやるが、一回目のひねりがまず大変。繊維をつなげていくとき、ちょっとでも手を離したらすぐもどって縄ではなくなってしまう。1回よりをかけたものを、どうにかそのままにして、2本目をあわせていく。3本あわせて1本の縄になる。手間のかかる作業だ。船に使う縄を全部作りたかったが、限られた時間内で完成したのは80メートル。それを船の重要な部分、帆を操作する箇所などに使ってもらった。足掛け3年にわたる航海中、縄は切れたらより直して使用した。その強度はインドネシア人クルーにも好評だったという。
◆9か月の活動を振り返ってみる。村井さんは、それまでとは作品制作の仕方が違ったと言う。作品は教室やアトリエで作るが、縄の場合は、歩きながらも使える草を探したり、使わせてもらえるシュロがないかとカバンの中に常に鎌が入っていたりした。日常生活の中に縄作りがあったのだ。日々の暮らしとモノ作りとの関係に影響を受けた村井さんは、卒業後、農業の仕事に携わっている。また、竹村さんは縄の見方が変わったという。「縄文土器に縄の模様をつけた理由は諸説あるが、古代の人がこのただの繊維からできたとは思えない強度とか、よりを逆にかけることで固定される事とかに力を感じたのでは」。モノがあふれる現代で、そのありがたみやすごさが本当にわかる若者は少ないだろうと思う。
◆第3部は2008年〜2011年のインドネシアでの話。鈴木純一君は2009年、視覚伝達デザイン学科を卒業。砂鉄集めのほか縄班や食班にも参加し、映画ではインドネシアで船を造るシーンの撮影と共同監督を担当した。現在はフリーでデザインの仕事をしている。佐藤洋平君は2007年、油絵学科卒業。クルーとして船作りと足掛け3年の航海をやり遂げた。佐藤君は子どもの頃からテレビに出ている「冒険家」に対してマイナスイメージを持っていたが、実際に関野さんと話すと面白く、大学2年の頃から研究室に通うようになったという。卒業してからも就職せずに興味を持っていた船を追って沖縄等に出かけていた所、2007年の秋に関野さんからプロジェクトに誘われた。在学中に民俗学に関心を持った(ムサビには宮本常一さんがいた影響で民俗学の系統がある)こともあり、船作りをとおして色んな土地に住んでいる人の考え方などを知りたいと参加を決めた。
◆2008年5月に砂鉄集めがスタートし、7月に鉄器が完成。その月にはインドネシアのスラウェシ島へ行くというハードスケジュール。インドネシア西海岸に住むマンダール人という船作りや帆走技術に長けている人たちと共に船を造った。森の船大工と呼んでいた木こりたちの技術は高く、斧1本で薄皮をはぐように木を削ることができる。「よく仏師の方が、木の中に仏様が居てそれを出してあげる感覚で木を削るというけれど、それを見ている感覚でした。最後は手出しできなかった」。
◆縄文号と名付けられた丸木舟のほか、マンダール人の伝統的な技術で作ることにしたパクール号は、木釘を打ち込んで板をつないで作った。木釘には木質の固い黒檀やドロンといった種類の木を使う。「僕たちの船は20種類くらいの植物からできている。固い材の利用法とか、腕木の接合部はねばりのある豆科の植物の根だったり、植物の使い方のすごさには感心した。向こうの人は木を宝物だと思っていると思う」。
◆トータル2か月間のジャングル滞在の様子も面白かった。家は高床式。家の前にある川はトイレ、お風呂、洗濯場を兼ねている。飲料用には砂地に穴を掘って濾したものを沸かして使った。仕事帰りに歩くヤシの並木道も、雰囲気があっていい。カヌーに適した木を探すのも大変だったが、ドリルやチェーンソーを使わないでやってくれる船大工を捜すのにも2か月程かかった。また、関野さんが用事で日本に帰り、卒業生3名だけで暮らしていたときに現地のもめごとにも巻き込まれた。極度の緊張状態だったが、こういう経験を通して彼らはだんだん逞しくなっていったと関野さんは言う。佐藤君らの乗船が正式に決まったのは、航海開始よりたった2週間程前とのこと。命がかかっているだけあり慎重だ。ちなみに現役学生の参加ははじめからダメだったという。
◆船づくりには日本の若者が約200人、インドネシア人も100人ほどが参加した。船は2009年の1月末に完成し、4月に出航。船の上で食事して、排泄して、お風呂に入って(水浴び)、寝て……自分の家が移動している感覚だという。安定性もよく、天気がよくて追い風がある日は寝ていればいい。ただ、縄文号とパクール号の速度に大きな差があったため、2隻のスピード調整が面倒くさい航海になった。全長7メートルの縄文号の速度は、11メートルのパクール号の半分くらいしかなかった。佐藤君は、船作りについて知識不足だったと言うが、それでも何とか航海できるレベルの船になったのが、マンダール人のすごい所。木の腐っているところを修理する技術や、進みにくい船でも何とか日本まで辿り着く航海術。縄文号は舵の調整などの操作がとても疲れるが、それを続けるのは日本人だけでは無理だった。海が荒れたときはマンダール人キャプテンに頼らざるを得なかった。「彼らの技術はすごかった」。
◆そんな佐藤君には、心残りな出来事がある。航海を終えたあと、インドネシア人クルーたちに日本を案内した。新幹線のスピードに驚いたキャプテンが「日本人はすごいスピードの乗り物を作ったけれど、自分たちは船しか作れなかった」と言った。佐藤君は「そうじゃないよ」と言いたかったが、語学力が足りなくてうまく伝えられなかった。8月に久々にインドネシアへ行くという佐藤君、今度は自分の想いを伝えられるように頑張れ!
◆今回報告した5人の他にも、プロジェクトに関わった1人1人にそれぞれの気づきがあったと思う。泥くさく失敗したり遠回りしながら、仲間と共にゴールを果たした経験は人生の宝だ。当時の話を改めて聞くことで再発見もたくさんあったが、もっともっと「今」の話も聞いてみたかった気もする。
◆ちょっと驚いたのは、すでに教師や親として子どもたちに何かを伝える立場になっているメンバーが出て来ていること。「10年、20年という長いスパンで気づきを活かせればいい」という関野さんのお話があったが、ゆっくり、でも時間は確実に進んでいるのだ。やっぱり、おちおちはしていられない。若者自身も、目の前の結果を急がずに、でも自分の歩む道を見定めたり、時には寄り道したり、外の世界に挑戦していくことが大切なのだと感じた。
◆私自身、この4月から屋久島暮らしをはじめて、当たり前のことを考えられるようになった気がする。たとえば島のスーパーでは家庭用のアリの駆除剤が山ほど売られているが、アリは掃除屋だからそんなに敏感になる必要もないのでは、とか。私たちも自然の一部として、環境に謙虚に溶け込んで行く心を持ちたい。目の前にあるものを丁寧に見る力と心の余裕が欲しい。
★若者たちの奮闘ぶりは、2008年7月の地平線通信にも載っています。改めてご覧あれ。(梅雨が明け、快晴の屋久島より 新垣亜美)
■先月の報告会に来ていただいた皆様、ありがとうございました。ここ数年はご無沙汰していましたが、学生の頃に地平線に通っていたこともあり、自分が報告者になることは感慨深いものでした。後から気付きましたが、緊張の為か何回か間違った発言をしてしまってすみません。(一応この場を借りて訂正しておきます。パクールに使用した木釘の材料の一つは黒檀と言ってしまいましたが、正しくはテツボクです。最後に引用したジャレド・ダイアモンド氏の著作は「銃・鉄・病原菌」ではなく「銃・病原菌・鉄」です。)
◆報告会でも話しましたが、8月にはインドネシアのスラウェシ島を再訪する予定でいます。一緒に航海したマンダール人達の住む西スラウェシ州では、断食月を終えるとサンデックという漁船のレースが始まり、縄文号のキャプテンのグスマン達も参加するため、それを観戦しに行くのが主な目的です。レースの規模は大きく、スタート地点の西スラウェシ州の州都マムジュからゴールの南スラウェシ州のマカッサルまで、300kmを超える距離を50艘程の舟が10日間かけて南下します。キャプテン達のいるチームは強豪で、一度レースを見に来いと言われていたのですが、なかなか日程が合わず、やっと今夏向かえることになりました。
◆サンデックは縄文号と同じくフロートが二つあるダブルアウトリガーの舟で、10m程の白く美しい流線型の船体と大きな三角帆を持つのが特徴です。今春亡くなられた東南アジア研究者の村井吉敬氏は著作の中でサンデックに触れ、「こんなきれいな漁船は、世界中探してもあまりないだろう」と記しています。海のグレートジャーニーの航海でもマレーシアやフィリピンの沿岸沿いに各地の漁船を沢山見てきましたが、自分もマンダールのサンデックが一番機能美に優れていると感じました。
◆装飾に凝った舟はありましたが、船体のフォルム自体が洗練されたものは少なかったように思います。マンダールの海岸沿いを歩いても汚れた舟はほとんどなく、手入れも行き届いていて、舟への愛着も他の民族とは異なるように見えました。しかし、かつては飛び魚漁などにサンデックはよく使われていましたが、エンジン船の導入により一時期廃れかけていました。それを危惧したマンダール人ジャーナリストのリドワン氏とドイツ人学者のホルスト氏の働きかけにより1995年よりサンデックレースが開催されるようになりました。
◆マンダールに今でも見事な帆走や造船技術が残っているのはこのレースによるものも大きいでしょう。これは沖縄のサバニレースによるサバニの復活と話は似ているかもしれません。海のグレートジャーニーの航海が成功したのも彼らの様々な技術があってこそでした。昨年からこの大会はリドワン達の手を離れ、政府主導になっているようです。最近ではレース用に船体はより細く、帆はより大きく改良され、風が良ければ最大30ノット(時速50km程度)で帆走することも可能になりました。
◆2008年に初めてマンダールを訪ねた時、リドワン氏にサンデックに乗船させてもらったことがありますが、そのスピードには驚きました。帆が大型化したため、強風時には舟の転覆を防ぐ為に、風上側のアウトリガーに人が乗ってバランスをとりながら帆走します。それを体験させてもらった時に自分は何回も落水して海パンが脱げました。アウトリガーの竹が水の抵抗のないようにつるつるに磨きあげられている上に、あまりのスピードで振り落とされるのです。サンデックレースは賞金のかかった大会でもあり、チームへの参加は難しいですが、練習中には乗せてもらうつもりです。
◆今日(7月5日)、グスマンから携帯にメールが入っていたので久々に電話したのですが、自分も地元のプレ大会には参加できるかもしれないとのことで、少し期待もしています。彼は飛び魚の卵漁から帰ってきたばかりらしく、何百キロも穫れたと自慢していました。インドネシアの漁師と簡単に連絡が取れるのも不思議な時代だと思いますが、きっと数年の内に彼らの子供達はfacebookなども始めるのでしょう。
◆もう一つ、マンダールへ向かう目的としては船造りに関わってくれた人達に改めて話を聞くこともあります。縄を作ってくれたカサルディンさんというランベ村の老人をはじめ、ここ数年でお世話になった方が何人か亡くなりました。平均寿命の短いインドネシアでは70歳を越える方はあまり多くありません。今回の訪問が最後に会う機会になる人も少なくないはずです。今のうちに彼らに聞いておくべきことは何なのかと考えています。
◆あと、関野さんが名付けたクルーのダニエルの息子、Yoshiharu君に会うのも楽しみですね! 2011年の航海直前に生まれた子なので、だいぶ大きくなっていることでしょう。先日、ダニエルにも電話で様子を聞きましたが、名付け親に似たのか、かなりやんちゃに育っているようです。一ヶ月程の滞在ですが、帰国したら地平線通信にも報告できれば、と思います。ただ、筆無精なのでお約束はできません(笑)(海のグレートジャーニー・クルー 佐藤洋平)
■あなたと道具との距離を考えてみる。例えば、ホームセンターで木製の柄が付いた金槌を買うとする。所要時間15分、1280円の買い物。これが、あなたとその道具の距離である。距離といっても、物差しや地図で分かるような距離ではない。金槌を形成している素材が存在していた場所から、あなたの手元までのことである。言い換えれば、これがあなたと自然の距離である。どんな道具も食べ物も、それらの素材は自然界に存在していたものである(道具や食べ物の素材と、自分の関係性を実感として得ること。それは、映画「僕らのカヌーができるまで」及び、「黒潮カヌープロジェクト」のテーマの一つだった)。
◆金槌の金属部は、中国で採掘された鉄鉱石が加工されたもの。木製の柄は、マレーシアの森で伐採されて、人の手か機械によって加工されたもの。例え、○○産と書かれていても、金槌の素材たちがどこから来たのか、それを知ることは簡単ではない。また、どのくらいの時間と労力がかかっているのかを知ることはもっと難しい。大量生産が当たり前の現代では、製造過程が公開されることはあまり無い。
◆見せる意味が無いとか、危機管理、衛生管理のためという理由もあるが、見られると困るという理由もある。食に関する大量生産の現場では、「食欲を害するため」という理由で公開しない生産現場がある。映画『フード・インク』(Food, Inc.)(ロバート・ケナー監督 2008年)」では、アメリカの某食肉生産加工業者の悲惨な生産現場のことが語られている。
◆ある養鶏場では、大量の鶏肉を出荷するために、沢山の薬を与え続けながら暗黒で鳥を飼育する。暗闇の中で静かにエサを食べ続け、肥満状態となった鳥は、自分の体重に絶えきれず骨折をする。その農場は、内部を公開することを雇い主の会社から禁止されている。現代の不透明な生産システムの中では、人が自然との距離を知ることが難しい。
◆人が自然との距離感を失えば失う程、間違いに気づくチャンスを失っていく。また、人は自然からのものを得て生きている以上、自然を信頼しなければならない。しかし、自分たちが起こした事故により、信頼することができなくなってしまった。2011年3月、福島第一原子力発電所事故。広島に投下された原爆168発分に相当する放射能物質が、東日本を汚染した。
◆現在、東日本で安全と言える場所は無い。茨城、栃木、千葉、東京の一部の場所でも、レントゲン室(放射能管理区域)と同等の放射線量があるらしい。これは、先日聞きに行った小出裕章さん(京都大学原子炉実験所助教)の講演会の中で語られた東日本の汚染状況だ。神奈川県の保育園が主催した講演会だった。参加した父母に向けた小出さんからのメッセージが印象深かった。
◆「子供たちが被曝することは絶対に避けなければいけないが、子供たちから個性が無くなってしまうことはもっと避けたいことです。ここで言う個性とは、子供が遊びによって見つける、好みやその子らしさのことです。雨を恐れ、土を恐れ、海を恐れ、遊ぶことを制限された子供たちは、個性を見つけることができません。それは、被曝することよりも恐ろしいことです。その人らしい生き方をさせてあげて下さい。人生において、その子が知るべき価値のあるものがあるならば、迷わず優先してあげて下さい」
◆矛盾を噛み締め、苦しそうに語っていた。この土地に生きる子供たちは、もう自然を信頼することができないかもしれない。そして、自然との距離感も得ることが難しくなる。間違いに気づくにはまず、その理由を知らなければいけない。あなたとモノの間、あなたと自然の間には沢山の学びと気づきがある。「あなたのそれは何処からきましたか?」(7月7日 鈴木純一)
■2008年6月から2010年6月までの約2年間、私は黒潮カヌープロジェクトの総合マネジメントと、映画のプロデューサーを担当してきた。私の役目は、プロジェクトをスムーズに進行させること。自分の意思はさておき、全体の調和のために動く毎日だった。
◆ちょうどポレポレ東中野での上映が2週間後に迫った2010年4月のある日、武蔵美で映画のチケットを売りさばいていた最中に、実家の母から父の死の知らせを受けた。それ以降、私は死について深く考えることになった。ポレポレでの上映が終了し、石垣島に2艇のカヌーが到着した後、映画製作チームは自主上映をするための活動を始めたが、私は参加を見送ることに決めた。その頃の私は、父の死によって、今まで漠然と過ごしていた日々の時間が実は有限なものだったことを実感し、自分が持っている残りの時間をしっかりと生きていかなくてはいけないと考えていた。
◆現在私は、女子校で美術の教員をしている。「美術を手段に他者と繋がる」という自分の理想に少し近づくことができたかなと思う。黒潮カヌープロジェクトを通して得たことが、これからの私にどんな影響を与えるのかは分からないけれど、本当に自分が好きなことを、地に足付けてじっくりやっていこうと思っている。(木田沙都紀 「黒潮カヌープロジェクト」 マネジメント 「僕らのカヌーができるまで」 プロデューサー)
■大学を出てから毎日めまぐるしく、特に就職(農場)してから出産するまでは突っ走った感じだったので、グレートジャーニー展の開催に伴う関連本『海のグレートジャーニーと若者たち 4700キロの気づきの旅』のインタビューと今回の報告会は、この数年の自分を振り返る良い機会でした。
◆美大卒業後2年間、山形で農業。そして身ごもり、東京西部に戻ってきて、今は都市にぽっかりと残る田園風景の中、小さな畑を世話しながら、農的イベントを企画しています。子育てをしながら。素材にこだわって制作していたら、流れで土に意識が向いていました。それで、美大から農場に制作の場を移しました。
◆ここの畑もそうですが、東京の田畑はどんどん減少していて絶滅寸前。畑の持ち主に高齢者が多く、1人亡くなるごとに相続で農地が売却されるからです。小平の自宅の隣の広大な畑も地主さんが亡くなって、最近は毎日測量の人が来てます。地主さんは体力的理由で営農できず、たまにトラクターで耕耘して、草が生えるのを防いでいるだけだった、茶色い土だけの農地。
◆何も育てずに、畑を荒らしておく(=草ぼうぼうにしておく)と、農地とは認められず宅地並みの課税になるという変な法律があるのです。ここも、どこにでもあるような建売の住宅になってしまうのかと思うと悲しいし、腹が立ちます。
◆子供はいま1歳半です。子供を産んだら母になって、「家庭に入る」という言葉もありますが、私もまだ子供のようです。まだ、知らない世界を見てみたいし、「何かおもしろいことやりたいなー」っていつも思っています。幸い夫もいるので、家族3人(増えるかもしれないけど)おもしろく歩いていきたい。(村井里子)
■黒潮カヌープロジェクトに参加し、自然からとってきたものから自分たちでモノをつくることを経験したあと、私は再就職して会社員になりました。就職したのはスリッパの会社で、100円ショップやホームセンターの安いスリッパから雑貨屋さんやデパートの2、3000円のルームシューズまで日本全国に流通しているあらゆる室内履きを製造・販売しています。
◆工場は中国にあり、中国各地で手作業で縫製され日本に輸入された商品が日本の隅々まで流通していきます。ほとんどの工場に空調は無く、埃っぽく、接着剤の石油系の匂いが充満している中で子供が遊んでいたりしました。安価なものは下請けに出されて刑務所で生産されることもあるそうです。3年間企画担当として働き日本で企画した商品がどのように大量生産され流通されていくのかを目の当たりにすることができました。
◆おそらく私たちが今なにげなく買っている日常雑貨のほとんどが、このように生産・流通されているのでしょう。モノを手にするための二通りのプロセスを経験し、作っている人は私たちを知らず、私たちも彼らやその土地のことも知ろうともしない。そういうモノに囲まれて生きているのは、実はとても特殊な状況だと感じました。
◆関野さんがよく言っていた「50年後も生きてる人たちに体験させたかった」という言葉の意味を思います。これから産まれてくる子どもたちの生きる時代はどんな時代になるのか予想もつきませんが、私たちが体験したこと、気づいたことを少しでも伝え、体験させてあげられたらと思います。関野さんのように。(竹村東代子)
■船作りのコンセプトは「自然から素材を自分でとってきて自分で作る」だった。本来はインドネシアにある古代の船を再現したかったが、熱帯なので有機物は全部腐ってしまい残っていなかったので、船の時代性よりも作り方を追求するためにこのようなコンセプトにした。
◆今回の旅に若者を誘ったのは、色んな事に気づいてほしかったから。気づいてる事に気づいてほしかった。気づきが身に付くのはこれからで、それが活かされるかどうかは、たぶん10年くらいみないとわからない。最近の社会の評価の仕方は非常に短くて、会社では1年とか半年で評価がされてしまう。もうちょっと若者たちを長い目で、10年とか20年とかで評価してもらいたい。
◆僕はあまり責任感が無いと言われる。人をあおっておいて、じゃああとは好きにやれよって。それは、人は役割を与えるとそのとおりやると思っているから。能力を発揮するのは、たとえば明治維新なんかも、20代の若者たちが国を背負って動いた。もしあの人たちが100年前に生まれていたら、たぶん農業をやっていただけで、国を動かすことはしなかったはず。そういう「役割を与えられたからやっちゃった」というようなことは、多分多いのではと思う。
◆アマゾンでの子育もそうだった。何も教えない。少なくとも手取り足取りということはしない。1歳、2歳の子がナイフをいじっていて、当然ケガもする。親は手をださない。切れるんだってことをけがをして学ぶ。それにより観察力が鋭くなる。手取り足取り教えてしまうと、それ以上のことはできない。
◆人は役割を与えればやる。夢は自分で切り開いていくもの、僕はきっかけを与えるだけで、無責任な方がいい。たぶんこれからも人をまきこんで無責任に生きて行くと思います。若者たちの10年後、20年後を期待しています。(文責 新垣亜美)
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