■前回の国立科学博物館での関野吉晴さんの報告会に続いて、“グレートジャーニー”のディレクター、“プージェー”の映画監督として地平線ではお馴染みの山田和也さんが登場。96年の“神戸の震災の記録”以来2回目となる今回は、還暦を目前に「35年間見聞きしてきたテレビの世界を通して、自分史としてテレビ史を綴れたら……」という前説と共に幕が開く……。あれ?会場の向きが逆…!?と皆さん驚かれたことでしょう。実はプロジェクターが新調され、今回は会場背面の壁一面に映像をより大きく映し出してみようという実験的試みなのでした。さてはて、どんな映像とお話が飛び出してくるのでしょうか……!
◆山田さんがテレビ業界に入る経緯には、農大探検部出身でその活動に由来するところが大きい。当時憧れていた植村直己さんは垂直の世界から北極圏に探検の舞台を移し、日大隊もグリーンランドに入るなど、北極点を目指す向きがあり、山田さんも「実は後輩と共に北極圏を狙ってました」とカミングアウト。農大探検部の方針“一番になるよりも、人のやっていないことをやる”に乗っ取り、犬ぞり以外の方法論を模索しながら知床半島の冬期一周を果たしている。しかしながら、この時からテレビの世界へ歩みゆく山田さんの運命の歯車は静かに回り始めていたようだ。ロンドンから帰国した農大探検部OBの国岡宣行さんに地球の砂漠化について説かれ、強い影響を受けた山田さんは「北半球をやってる場合ではない」と半ば強制的にアジア・アフリカへと目を向けるのであった……。
◆76年10月〜77年1月にインド・ガンジス川全流降下を仲間と共に5人で敢行。持参したゴムボートは税関を通らず、現地の漁船を使って1200kmの聖流を下る。夜盗対策として目立たないようにしていた為にネパール人と間違われ、石を投げられる差別を肌身で感じながらも、ゴールとしていたベンガル湾に浮かぶサガール島に辿り着くと、そこはヒンズー教大祭の真っ只中であった。自分達にとっては探検ごっこの川下りであったのだが、地元新聞には「仏教の国から来た偉大なる大巡礼者“5 Japanese(7人の侍になぞらえて)”」との大きな見出しがついた。ガンジス川全流降下は世界初であったことに加えて、ヒンズー教の人々にとってのあらゆる聖地を巡る聖なる旅路であったのだ。そのため弱冠22才の山田青年は各地で聖者扱いを受けることになる(頭を垂れる人々に息を吹きかけ祝福していたのだそう!?)。
◆翌年にはインド・チベット文化圏のラダックの越冬に挑戦する。中印紛争の影響で長い間立ち入り禁止だったのだが、1974年に解禁したばかりの状況、世界中のジャーナリストが祭礼の多い冬季の滞在を試みたが、通常の3か月ビザでは足りない。欧米勢がことごとく追い出されてゆくなかで、アジア人の山田さんは喋らなければ大丈夫。峠が閉まるまで潜伏出来れば成功となるのだが、すんでのところで警官に見つかってしまい敢えなく追い出されてしまう。しかし、ラダック滞在中に撮った写真で(怪しい)月刊誌“Mr.ダンディ”の連載が決まり、それが日本テレビの目に留まることに……。
◆晴れて日本テレビのラダック越冬ドキュメンタリー番組にADとして参加することとなった山田さん。ディレクターは先に登場した国岡さん、プロデューサーは日大隊の北極点取材も担当していた岩下莞爾さん、カメラマンは同じく北極点取材の中村進さん。奇遇なご縁で自分をテレビの世界に引っ張ってくれたお三方を生涯の恩師と語る。このラダック取材から、山田さんのドキュメンタリー制作の基盤が築かれてゆく。78年10月からの半年間で30分番組を2本。今のテレビのスピードではあり得ない数字だ。一週間のうち4日を調査取材、3日を撮影に充ててゆく。山田さんが最初にやったのは、チベット暦を太陽暦に直すことと、対象の村の家族構成や穀物及び家畜の確認といった探検部の活動にも準ずるような調査で、それらの下地を作ってから取材に入るという手法は当時は当たり前だったという。
◆お話はテレビドュメンタリー史の流れにも触れてゆく。60年代当時、日本テレビはドキュメンタリーの梁山泊と呼ばれ、62〜68年「ノンフィクション劇場」は検証的手法のNHKに対して、人間くさい劇的な瞬間を切り取るといったユニークで世界的にも初めての手法を確立していた。中心人物であった牛山純一さんの貢献は大きく、65年「ベトナム海兵大隊戦記」は、あまりにも反米的との理由で三部作中一部しか放送されずも国際的に評価された幻の作品。66年に打ち出した“すばらしい世界旅行”シリーズは24年間の長寿番組となった。その番組の企画書を山田さんは読み上げる。
◆『明治以来、日本は欧米先進国をお手本に科学技術や精神文明の導入に励み、文化交流にも努めてきた。しかし、地球上には欧米以外の多彩な文化圏があって、それぞれ異なった生活様式や価値観に立って生きている。人口においても地域の広がりにおいても、非ヨーロッパ世界のほうが大きいのである。しかし、日本自体がその一部である“非ヨーロッパ世界”についてこれまで十分なテレビ報道がなされているとは考えられない。戦争や事件がニュースとして報道されることはあっても、地域民衆の日常の生活や感情が紹介されることはまずない。だが、こうした生活背景や価値観への認識なしに、戦争や事件の意味は理解できないのではないか』
◆この企画意図は、当時のテレビ屋の心意気を表している。「今こんなことを言うテレビマンは一人もいないし、いたら笑い者になってしまう。“ものづくりに真摯な日本”があった」と山田さんは少し寂しそうに語った。
◆80年。業界1〜2年のADで後先どうなるかわからなかった山田さんは、飛び級狙いでアメリカへ。映画学科に通う傍ら、日系のプロダクションで仕事をするうちに、建て前的にディレクターになってしまい(注…ディレクター=演出、AD=演出の為の物理的なサポート)、83年に帰国。日本テレビの契約ディレクターとなる。80年代に入ると、テレビ業界は様変わりしてゆく。その背景には、それまで特別であった海外旅行が一般的になり、海外を見る目が養われていったことが挙げられる。“ディスカバー・ジャパン”といった日本を振り返るような傾向と共にいわゆる“ヒューマン・ドキュメンタリー”というジャンルが定着。特別な人ではなく、ごくあたり前な人々の日常ドラマのなかに価値を見いだしてゆくというものであった。
◆現在の山田さんはアウトドアのイメージが強いが、30代はヒューマン系で評価されていた。第一作から2〜3年で10作程参加しているフジテレビ“日本ストリート物語”のなかから“浪花てんのじ芸人横丁”が流れる。ラダックとは対象的に制作の時間はなく、台本なしのぶっつけ本番。路地で出会ったおばちゃんから、下町の人情味溢れた芸人さんに辿り着く。スピーディーな感じが心地よく、素敵な人達がぞろぞろ出てくる。この瞬間的な繋がりの連鎖と、カメラと住人とのやり取りは「もの凄く面白かった」と山田さんは振り返る。そんな作り手が楽しいこの番組は、実際、視聴率はよろしくなかったそうだ。しかしそこにこそ作り手のプライドがあったという逸話が今回の報告会の表題となっている。
◆当時、視聴率は1%以下の場合、計測不能の※%と表示されていた。「どうだった?」と聞かれ「※でした。」と答えると「そうか、良かったな。」と返って来たという。「“テレビ屋の香り”があったのは80年代半ばまで。」と山田さん。テレビがメディアとして新参介入してから、歴代のテレビ屋達は2〜3期までは“凄いヤクザ”だったのだそうだ。「背広は腕を通すんじゃない。羽織るもんだ。」とか「ボーナスは必ずキャッシュで」など、肩で風を切り、どこか斜に構えているような人々のエピソードが小噺のようで、会場が笑いに包まれる。彼らは全て自分達で作り出してきた。映画館に70回も通い詰め、1000カット近くある映画丸々一本分のカット表を書き上げ「大体カット割りなんて、映画みりゃわかるよ。」と言い放つ。2番目には「うちは中小企業だからな。」との大企業への対抗心もあったのだろう。こちらが視聴率を気にするような素振りを見せれば「リーマンみたいな事を言ってんじゃねえ。金が儲けたいの?」という具合に、視聴率よりも、何を言いたいのかという質の高さを求める「※%」を誇りにしたテレビ屋達の姿があった。
◆バブル期に入り、日本テレビの資本金は会社設立時(52年)の2億5000万から70億8000万(85年)に。利潤追求傾向が加速し、旧型のテレビ屋は追い出されてゆく。山田さんが「最後のヤクザな番組」と位置づけて紹介したのは88年“チョモランマ頂上からの生中継”だ。発案者は岩下さん。チョモランマ(エベレスト)のネパール側とチベット側、双方から同時に頂上を目指す日本・中国・ネパール3国合同登山隊に同行、その様子を生中継しようという世界初の試み。馬鹿でかいパラボラアンテナと特注の電源車まで用意し、40名の大規模なテレビ取材陣を結成。構想3年、巨額の予算を動かしての、日本テレビの社運を懸けた挑戦である。岩下さんは放送日を5/5と決定。もし登れなかったら……、晴れなかったら……と考えると目も当てられないが、岩下さんは辞表を懐に入れて出発したのだそうだ。
◆山田さんはロー・ラでその時を迎える。ギリギリまでかかっていた霧が晴れ、遂に頂上からの映像がベースキャンプへと届いた瞬間……、「ヤッター!!!」歓喜の声と拍手が沸き起こり、皆が泣いている。世界で一番高いところからの360度の大パノラマが見事に生中継され、息絶え絶えながらも興奮の入り混じった中村さんの実況に、全国のお茶の間はどれほど釘付けになったことだろう。“やったもん勝ち”といった底抜けに純粋で子供のような遊び心と冒険的パワーが、テレビを支え、人を動かし、紛れもない想像を超えた感動を生み出している。中村さんは、下山が大変ななか頂上の石を持ち帰り、それを焼き付けたぐい呑みを感謝の手紙と共にスタッフ一同に贈ったという。
◆当時のフジテレビのキャッチコピーに“テレビは夢工場だ”とあったが、「確かにこの頃は私達は夢を実現していた。」と語り切ったところで前半が終了。「テレビ屋ですから……」進行表を片手に、映像サポートの本所さん(山田さんの奥様)と連携しながら、20時きっかりに終わる辺りがお見事である。会場を見渡すと、沢山の来場者のなかには“プージェー”の翻訳を担当した三羽宏子ちゃんのニューカマーベイビーをはじめ、多くの子供達の姿が目立っていたのも印象的。
◆後半のスタートと共に時代は90年代に突入。バブルは崩壊し、視聴率が株価と直結するシステムに「悲劇ですね。」と話す山田さんは、テレビ東京35周年大型記念番組“ココシリ・奥チベットの青く透明な大地”に参加。探検家スウェン・ヘディン以来、探検隊が入ったのは100年ぶり。生き物を拒絶するかのように厳かな自然の世界と、そこに生きる遊牧民の姿がとても対照的で、より迫力を増して観るものに迫ってくる。
◆2000年を迎えると、不況到来で予算は減少。ドキュメンタリー番組は民放からどんどん姿を消し、受信料経営のNHKでさえ、視聴率を意識して民放チックな形態へと変化していった。そんな渦中に“グレートジャーニー”は放映された。ご存知、関野吉晴さんの人類起源からの拡散ルートを辿るフジテレビのドキュメンタリー番組である。1993年に始まり、本編の足掛け10年間に加えて続編の足掛け5年間。「どうしてやり続けることが出来たんですか?」当時関野さんの夢に賛同し実現に導いたプロデューサーに山田さんが尋ねると「簡単だ。とにかく上には一切報告しないこと。少なくとも事前には相談してはいけない。」という至極シンプルな回答だったことを明かした。
◆NHK“世界自然遺産を行く・ビクトリアの滝”ではNHK側より終始自然遺産から目を離さないようにとのルールを受けるが、「環境ビデオでは面白くない」と山田さんは自然のスケールや厳しさを測る物差しとしてスタッフを画面上に登場させ、自然に挑戦してゆくという手法を試みる。世界一高い500mもの水煙が上がるその滝の滝壺にカメラが迫ると、そこでは滝は霧状になっており、水煙は跳ね返りの水圧に因るものではないと判る。今度は風圧を調べる為、上昇気流に乗せてカメラを付けた気球を飛ばしてみると、50m地点に下降気流があることを発見する……。この作品がその年のNHKハイビジョン特集年間賞を受賞。カメラが自然のからくりを解明しようと愚直に突っ込んでゆく姿勢が評価されたのだ。
◆そしてこうした手法はその後のドキュメンタリー制作に定着してゆくこととなる。このような硬派な作品が受賞したことを受けて、山田さんは原点返りの気運が高まっていると感じたと話す。現在のテレビは方向性を見失っているのではないか。テレビジョンの原点とは、“テレ(遠く)+ビジョン(視点)=見えないものを見せること”とアメリカで最初に教わった。半年をかけて30分番組を2本制作する下積みも、それを見極める為の時間だったのかもしれない。“とにかく現場に行き、普通の人には見られないものを撮ってくること”そんな直球にこだわり続けてきた山田さんの揺るぎない姿勢が、本質的で新しい手法を生み出す結果へと繋がっていた。
◆テレビに限界を感じたディレクター達は、自主制作記録映画の世界へと進出してゆく。山田さんの手掛けた映画作品の中から“障害者イズム”という作品が紹介された。元々はテレビ企画として、障害者の自立を半年間追ったものであったが、短い時間制限のなかで無理やり放送することに疑問を感じ、主人公達が自立出来るまでの7年間を追いかけて制作された記録映画だ。共に時間を育んでこそ捉えることの出来る感覚。障害を持たない者からは近くて遠い、障害者の日常のなかにある視点や心情が、臨場感を持って綿密に描き出されていた。
◆時代背景とともに語られるテレビ史は探検記のようで、新しい世界を旅するようにドキュメンタリーの世界を切り開いてきた人達の姿は、気概に満ちていて逞しかった。同時に、視聴率優先があたり前になってしまっているこの時代にはどうしても違和感を覚えてしまう。山田さんのお話と作品を通じて、何よりも心に残るのは、純度の高いドキュメンタリーには純粋な感動があるということ。この純度を薄めないことが如何に大切なことかという物凄く根本的で明白なことだった。山田さんのアングルは、グローバルとローカルを同時に捉えながらも、いつもどこかに冒険的要素が潜んでいる。二次会で山田さんは「やりたくない仕事はしたことがない」と言い切った。「“何とかするor降りる”でやって来られたのは幸せ」とも。あれだけ激動のテレビの世界で揉まれながら、如何なる状況下でも繰り出され続けてきた直球は筋金入りだ。洗練されていながらズッシリと重い。なおかつ直球勝負は観戦している側にとっても最高に気持ち良い。ドキュメンタリー界の名手として、これからも後世に残る名作を作り続けて欲しいと心より願っている。(車谷建太)
■報告会の翌日から始まった「puujee/プージェー」のアンコール上映も好評のうちに終了。関野吉晴さんが舞台挨拶に来てくださった日は満席でした。
宣伝もしていないのにこれだけの動員ができたのは、地平線会議の皆様が応援してくださったおかげです。現在、日本映画大学でドキュメンタリー実習を担当しています。将来性がないことが分かっているのに映画・テレビの世界に飛び込んでくる若者を抱きしめたくなるほど愛おしく感じています。(本当に抱きしめたら、セクハラ、パワハラですが)
◆映画のほうは「障害者イズム」続編の撮影を本所が中心になって緩やかに始めています。テレビはNHKの「冒険者たち」と「グレートネイチャー」の企画が進行中。それを口実に来月はトレーニングと称して登山三昧です。信濃又河内沢、谷川岳烏帽子岩、剱岳チンネ……毎週山に行けます!!!(山田和也)
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