■桜の木がさわやかな新緑に包まれた上野の国立科学博物館。現在開催中の「特別展 グレートジャーニー人類の旅」が連日来場者でにぎわうこの場所で、4月26日、関野吉晴さんの地平線報告会が行われた。
◆国の施設で報告会を運営するには、撤収時間や料金体系など、所定の規則をきちんと守らなくてはならない。そのため事前に招集された地平線スタッフが下見や打合せを重ね、関野さんや博物館の方々のご協力をいただいて、イレギュラーな報告会の準備を進めていった。
◆当日の流れはこうだ。参加者はまず「地球館」のGJ展をまわり、「縄文号」前でギャラリートークを聞いてから、報告会会場の「日本館」2階講堂へ移動する。展示では、ゆるやかにコースが設けられた巨大なワンフロアを歩きながら、関野さんの旅路を追体験するように展示物を見られるのが楽しい。
◆コースの後半、インドネシアから石垣島まで航海した「縄文号」が窮屈そうにおさまっている部屋がある。18時。船の甲板に関野さんが立ち、毎週金曜日恒例のギャラリートークがスタート。通常は19時まで続くが、この日は特別に20分早く切り上げられた。このあと急いで講堂へ向かう。迷路のような館内では、迷わないよう、「地平線会議」の腕章をつけた案内役の地平線スタッフが道を教えてくれた。
◆講堂は、ひんやりと清々しい空気が満ちていて、見上げるほど天井が高く、いるだけで心地よい。舞台まわりの深い焦げ茶色の木は、歴史的建造物であることを感じさせる重厚感だ。110名余の席がまたたく間に埋まり、19時5分前、舞台上に関野さんが登場した。
◆「なぜ、ここでGJ展をすることになったのか?」。関野さんと博物館の縁は、博物館人類研究部と共同研究をしたことから始まる。旅で出会った人たちに採取させてもらった頬の粘膜で、ミトコンドリアDNAの遺伝子解析をしていたのだという。
◆GJ展は監修者が3人いる。関野さんと、分子人類学専門で古人骨のDNA解析をしている人類研究部人類研究グループ長の篠田謙一さん、形態人類学が専門で骨から人類起源を調べている博物館名誉研究員の馬場悠男さんだ。
◆2011年、日本へ到着した「縄文号」「パクール号」の展示場所を探していた関野さんが、遺伝子解析をお願いする篠田さんに相談したところ、「うちでやろう。船だけ飾るのはもったいない、GJ全部の展覧会をやりましょう」ということになった。
◆フジテレビと朝日新聞社の協賛が決まり、規模が大きい「特別展」として開催が確定したのが2011年夏。「私はモノは集めていないけれど、膨大な映像と写真がある。それをどうやって見せるのか。なにを展示するかではなく、なにを伝えるのかが大事」。関係者と月2回集まり、展示の総論を議論した。
◆篠田さんと馬場さんは、研究を通して、人類史の「なぜ」を追求し続けてきた。関野さんは、地球上に約3000いる民族のうち、とくに伝統文化を残している人々と長くつきあってきた。「どちらの場合も目的は、現在と未来のため」。猿学者はサルが好きだから研究に没頭しているのではない。彼らを比較対象とすることで、人間社会の特徴や人間性の成り立ちを発見し、私たち人類がこれからどう歩いていくのかを探求しているのだという。
◆関野さんの愛読書『熱帯雨林の生態学』(ジョン・C・クリッチャー著 どうぶつ社)のなかで、もし宇宙から宇宙人が来て上空から地球の牧畜民を見たら、家畜が主人で、人間はその奴隷としてせっせと世話しているように映るだろう、と書かれているそう。「日本社会、ひいては世界文明の未来を考えるためには、我々と違う世界観や価値観を持つ人たちの視点から考えるのがいい」と関野さん。
◆「イースター島からモアイ像を持ってきて展示したかったけれど、この計画は失敗しちゃった」。失敗の原因は持ち出し許可が得られなかったためだが、そもそもなぜモアイ像なのか。「イースター島が歩んだ道が、地球が歩みつつある道と重なる。モアイ像は文明崩壊の象徴」
◆猿人、原人、旧人を経て、私たち70億人の共通先祖であるホモサピエンスが20万年前にアフリカで生まれ、世界中に散らばっていったGJ。その「最後」が、イースター島やハワイ島などポリネシアに到達した人々だった。「最後」と呼ぶ理由は、農耕と航海術の新しい時代がここから始まるから。
◆最初のGJは、シベリアやアラスカ、南米最南端まで到達した、狩猟採集段階で移動した人々。彼らは1人では生活できず家族を作り、一家族では住めないので50〜60人のグループを形成した。その人数で狩猟採集をして生きていくには、沖縄本島ほどの広さがないとだめで、180平方キロ(利尻島の面積に近い)のイースター島では狭すぎる。
◆1万年前にイースター島へわたった人々は、もともと台湾や中国南部にいて農耕を営んでいた。ところが漢民族の祖先にあたる人々が南下してきて、突き出され、イースター島にたどり着いた、という説が有力らしい。
◆彼らは島にイモを持ちこんで育て、新たな暮らしを始めた。すると時間をもてあまし、祭壇やモアイ像作りに励むように。やがて人口が増えて複数の部族に分かれ、部族間でモアイ像作りを熱狂的に競い出す。勝つためには巨石を早く運べるコロが必要になり、大量の木を切っていくが、「このままいくとやばいんじゃないか、と彼らは気づいていたはず。でもやめられなかった」
◆豊かな森に恵まれていた島からついに木が消えた。周囲に助けを求めたくても、一番近い島まで2000キロも離れた絶海の孤島。「まさに地球の現状。食料やエネルギー資源が有限だとわかっていながら、私たちは使うのをやめられない。火星には誰もいないし、地球外には救いを求められない」
◆人類が拡散していくときに適応困難だった4つの地域がある。熱帯雨林、極北、乾燥地の砂漠、高地。新しいフロンティアに行って滅びた人もいるが、そこで生き残れた人はパイオニアだ。「創意工夫をして、住めば都にしてしまった」。GJ展では、さまざまな民族固有の衣食住や生活様式のようすが具体的な展示物と文章で解説され、人類がどのように極限の土地に適応できたのか知ることができる。
◆人間と動物を分ける大きな特徴のひとつは「移動」。かつて関野さんは、好奇心や向上心が、新天地への移動に人を突き動かす最大の原動力だと考えていた。しかし今では、「弱い人が生きのびるために、仕方なく移動せざるを得なかったんだと思う」。豊かな場所には人口が集中する。増えすぎると弱い人がはじき出され、移動へ追いこまれる。
◆「日本はその典型。弱い人が集まってきて、行き止まりでこれ以上東に行けなかった。弱い人たちが混血してできたのが日本人」。同様なのがイギリス。ただし興味深いことに、弱いままで終わらないことが多いという。「善し悪しは別として、追い出した人をやっつけようと、日本はアジアを、イギリスは世界制覇を試みたときもある」
◆「日本人」というグループが成立した過程として、はじめに縄文人が、そのあとで渡来人がやって来て、縄文人を北と南に追いやりながら混血を進めた「二重構造説」が現在の定説。「新宿区で誕生する新生児の4人に1人は両親のどちらかが外国人。人が活発に出入りする歴史は現代でも続いている」
◆人類が獲得した性質として、一番大きな業績であり、人類をほかの動物と異なる存在にしているものはなにか。関野さんの答えは「直立二足歩行」と「家族」。二足歩行によって広域で多くの食べ物を探索できるようになった。あまった両手で大量のモノを運び、道具を作り、文化も生まれた。
◆家族や共同体を形成するのは人間だけで、サルやゴリラは家族を作らない。安全な森で生活する彼らは、5年に1回出産すればよい。チンパンジーのオスは交尾を終えるとメスのもとから消え、母親だけで子育てする。
◆ところが気候変動で森がサバンナに変わり、敵から襲われる危険性が高まると、必然的に子どもを産む回数が増えた。女だけでは複数の子どもを同時に育てられず、男が加わって家族のかたちに。さらに敵が近づきにくいよう自分たちを大きく見せるため、そして近親婚を避ける目的で、家族が群れて共同体になった。
◆GJ展の最初の展示物は、頭上にそびえ立つラエトリ遺跡の足跡化石。中央アフリカ東部に位置するタンザニアのラエトリ遺跡は、関野さんが足かけ10年を費やしたGJのゴールに選んだ場所だ。360万年前のこの化石の発見が人類祖先の直立二足歩行を実証し、研究の結果、2人の大人と1人の子どもが連なって歩いていたことも判明。つまり、この時代に、夫婦や家族とみなせる関係があったという暗示になった。
◆最後の展示物は、その足跡化石の主たちを想像し、科学とアートを融合して作った猿人家族の模型。家族構成は、父親、妊娠中の母親、彼らの幼い子ども。火山灰が降り積もる荒涼とした大地を、安全な場所を求め、父親を先頭にさまよい歩いているという場面設定だ。
◆「それからも人類はいろいろな業績を積み重ね、ついには自分たちの環境まで壊すようになった」。では、これからどうすればいいのか。展示コンセプトについて、関野さんは監修者やデザイナーたちと何度も意見を交わす。「具体的な答えを示すのではなく、データを出してみなさんに楽しんでいただき、個人個人で考えてもらえるものにしたかった」。5月上旬時点で、GJ展の来場者は10万人を超えたという。
◆この先人類はどこへ行くのか、この地球上で生き残れるのか。4月の新刊『人類滅亡を避ける道 関野吉晴対論集』(東海教育研究所)では、人類未来の「処方箋」について、異なる分野の賢者9人に関野さんが問いかけている。編集は、地平線会議発起人の1人である岡村隆さん。知恵の宝庫のような一冊のなかで、作家の船戸与一さんが「闇の消滅」について話していたのが、関野さんは印象的だったそう。
◆船戸さんは語る。「現代は『暗闇』というものが地上から失われていく時代。加えてITが社会からも『闇』なるものを奪っていく。ところがこれまでの人間の歴史を考えると、夜の闇こそが『恐れ』といった感覚とともに人間の想像力や創造力を育み、人の心をつなぎ、状況を動かす母胎となってきたともいえる。まずは闇というものがないと、人間は『物語』を紡げなくなる」と。(一部抜粋、一部要約)
◆関野さんはいう。「私たちは1人ひとり、死ぬまで物語を紡いでいかなくてはいけない。その人生という物語の総体が、人類の歴史になっていく。たとえ闇がなくなっても、紡ぎ続けなければならない。それをどうするのか考えてもらいたくて、この展示をやったわけです」
◆音響もよく部屋のすみずみまでクリアに声が響く講堂で、もっとお話を聞いていたかったが、20時10分前に報告会を終了。定刻20時には完全撤収。2次会参加者は、野外にある巨大なシロナガスクジラ模型の下に集合し、上野駅近くの居酒屋で盛り上がった。たくさんの貴重な体験の余韻が、今も続いている。
◆ところで、イースター島はその後どうなったのだろう。少し調べてみると、1万人(諸説あり)にまで膨れ上がった人口爆発の結果、島は深刻な食糧危機に陥ったらしい。ところが船を作る木も残らず、島脱出はおろか、漁すらできない事態に。人々は食糧をめぐり争い、食人も行われ、人口は600人ほどに激減。文化を失って、石器時代の生活に戻ったという。
◆GJ展は6月9日まで。関野さんが投げかけるこの壮大な問いについて、私たちみんなが答え探しに参加するべきときなのだと思う。(大西夏奈子)
ゴールのタンザニア、ラエトリに着いた時、インタビューを受けた。インタビュアーは学生時代から40年間付き合いのある探検仲間だった故坂野皓氏だった。寡黙な私をよく知っていて、自然に私の口から何かがついて出てくるのを待っているようだった。しばらくして私は言葉を探しだした。
「やっぱり、大事なのは、当たり前なことなんですよね」
この言葉を発すると、一番最初に思い浮かんだのはロシアで出会った、81歳の一人のポーランド人老人と交流した時のことだ。
ロシアのコリマ街道で、かつて強制収容所に収容されながらも生還した、ウラジミル・ロマナビッチ・フリストゥックさんと会った。81歳とは思えないほどかくしゃくとしていて、私のインタビューにも快く応じてくれた。
ウラジミルさんは、ポーランドの空軍兵士だった20歳の時、ソ連の官憲によって逮捕された。取り調べという名目で約1年半も拘留された。結局、まともな裁判は1度も開かれないまま、スパイ罪の汚名を着せられ、シベリアの強制収容所に送られた。
かつてポーランド空軍にいた時期に、アリーナという女性と結婚し、1人娘ももうけていた。しかし、戦争中に奥さんは病死し、祖母に預けられていた娘もやはり病気で死んだという。同じ空軍の兵士だった兄も戦死し、すべての肉親を失くした時、ウラジミルさんはもうこれ以上失うものはないと諦めたという。
1949年、ようやく強制収容所から解放された。青空が目に飛び込んできた。空気がとてもおいしく、雲の形もいつもとは違うように見え、収容所の内と外では、世界がまったく違ったという。
その後20年近く経ってから、ウラジミルさんは、現在の夫人であるエカテリーナ・イェゴラナさん(62歳)と一緒に暮らし始めた。ウラジミルさん夫妻は2人とも年金生活者で、十分ではないが、家と畑を持つ老夫婦が慎ましく生きていた。
逃げるように祖国を離れ、妻子とも別れ、強制収容所に入れられるという辛い経験を持ちながらも、カトリック教徒のウラジミルさんは「自分は幸運だった」という。
ドイツ軍に撃たれて太股に傷を負ったが、弾が骨まで達しなかったので助かった、ドイツ軍の捕虜になっても、なんとか脱出できた、強制収容所で金山の採掘をさせられることもなく、軽労働ですんだ、解放されてからも良い仕事に就き、新しい妻ともめぐり会えた、きっと神様が自分を守ってくれたに違いないと思っている。
「私はラッキーだった」と言っているウラジミルさんだが、私にはラッキーだけでなく、ハッピーに見えた。夫人とのつつましくもむつまじい暮しに満足し、ふくよかで、ゆったりとした顔をしている。何故幸福そうに見えるのか考えてみた。
彼は人生で最も大切な20代、30代、40代を強制収容所ですごした。家族と一緒に暮らすことができる。友達や仲間と自由に会える。好きなことを言える。好きなところに行けて、好きなところに住める。こういったことは多くの人にとっては当たり前のことだろう。
私たちは病気になって初めて健康であることのありがたみが分かる。山道で水がなくなり、水に出会った時の水のうまさは何とも言えない。この時、当たり前だったと思ってきた水の有難味がよく分かる。
ウラジミルさんは長い間、そうした当たり前のことができずに生きてきた。当たり前のことが、本当に大切であることを、身をもって経験してきた。そのため当たり前のことがいかに大切であるかを誰よりも身に染みて知っている。今それをかみしめ、味わって生きている。そのためウラジミルさんはとても満ち足りて、幸福そうに見えたのではないだろうか。
以前、日本人の友人がアメリカのレッドパワーの運動家に手紙を出した。レッドパワーは北米で生まれた先住民の権利回復運動だ。過酷な環境に居留地を押しやられた北米先住民の、後からやってきて大きな顔をしている人たちへの蜂起だ。
この時レッドパワーのリーダーは、
「私たちにして欲しいことは特にありません。あなたたちの大地を慈しんでください。それが私たちを支援することになります」
と答えた。アメリカインディアンらしい回答だ。大地という言葉には土のほかに水、大気も含んでいる。もちろん人類の普遍的な権利人権も含んでいる。他人のそれを守る、あるいは権利獲得を支援するのではなく、自分の権利を守る。侵されていたら回復するように努める。土、水、大気が汚されていないのが当たり前なので、汚されてきたら回復するように努める。あくまで自分の住んでいる土地で。
私はラエトリのゴールに着くまでに世界中の辺境を歩いてきた。五千日近くになる。しかし外国ばかり歩いていて、自分の慈しむべき足元を見てこなかったことに気付いた。生まれたところ、住んでいるところがどんなところなのか。日本について外国で質問されるが正確に伝えられずにいた。
アフリカを出て、日本列島にやって来た人類の足跡を辿りたいと思い2004年から始めたのが新グレートジャーニーだ。日本列島には四万年前の後期旧石器時代から、様々なところから人類が入って来た。その中で主要なルートを歩いた。シベリアサハリン北海道の北方ルート。ヒマラヤの山麓から一度インドシナに入り、その後北上する。中国、朝鮮半島を経て日本列島に至るルート。最後がインドネシアからマレーシア、フィリピン、台湾を経由して日本列島に至る海上ルート。2011年6月ゴールの石垣島に着いて8年間の新グレートジャーニーは終わったが、やはり最終的に辿りついた結論は同じだった。一番大切なことは当たり前なことだ。
■『puujee/プージェー』とグレートジャーニー探検家・関野吉晴さんの手作りカヌー「縄文号」製作を追ったドキュメンタリー『僕らのカヌーができるまで』アンコール上映が決まりました。どうか劇場までお出かけください。
『puujee/プージェー』&『僕らのカヌーができるまで』共同上映
◆『プージェー』上映後スピーチ:
5月25日(土)山田和也(監督)・26日(日)関野吉晴
6月1日(土)山田和也(監督)2日(日)山田和也(監督)
◆山田監督のスピーチでは、日本が進めようとしているモンゴルへの原発輸出について話します。
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