2013年2月の地平線報告会レポート


●地平線通信407より
先月の報告会から

今も知らないチベット

今も知らないチベット

2013年2月22日  新宿区スポーツセンター

■1943年11月30日、一機の米軍輸送機がチベットに墜落した。輸送機は仏都ラサ上空を轟音を立てて低空飛行、乗員5人がパラシュート脱出して着地したのは、南へ約50キロにあるツェタン村近郊だった。

◆当時ラサは通商を目的に1904年以来駐留する英国、宗主権を主張する中国(国民政府)が対峙し、まだ幼いダライ・ラマ14世に代わって摂政が実権を握るチベット政府がそれを牽制する状況。墜落の報せを知った三者はそれぞれに調査隊をツェタンに送る……。この偶然を奇貨として、その後チベットを巡る国際政治にのめり込んで行く米国当局の政策の変遷と、翻弄される在外チベット人の姿を、3冊の英文資料を元にまとめたのが倉知敬さん。

◆この貴重な論考は日本ヒマラヤ協会の機関誌『季報ヒマラヤ』に連載され、チベット東部の山々のエキスパートとして知られる中村保さん率いる「横断山脈研究会」により、『チベット民族国家崩壊に至る抗争の歴史』という小冊子として2月に刊行された。倉知さんの仕事の一端は、山岳書の翻訳にある。特に山岳史に残るクライマー、エリック・シプトン(1907-1977)の伝記『山岳探検家・波乱の生涯』は名著として知られる。余談だが、シプトンは1931年にカメット(7756m)の初登を果たし、同峰の南東壁登攀に成功してピオレドールを受賞した谷口けいさんも「倉知ファン」だという。

◆報告会の会場にはいつもより早く参加者が集まり始め、そのほとんどが初めて新宿スポーツセンターに来たという。まだ18時半にならないというのに、会場はしんとして司会の丸山純さんが中村さんと倉知さんを紹介するのを待っていた。日本山岳会の中でも海外への発信を長く担当する中村保さんには、2011年の東日本大震災に際して、世界中の名だたるクライマーがメッセージを寄せたという。「世界の登山界、探検界とこれだけ交流している人はいない」と江本さんの紹介。

◆その中村さんによれば、倉知さんは一橋大学山岳部の5年後輩で、50数年の付き合いになる「正統的な登山家」。企業人としても活躍し、彼の才能と構想力と英語力がなければ、難解な原著をまとめることはできなかった、と持ち上げる。中村さんがホームグラウンドとするチベット東部は、1949年の紅軍による侵攻以来、たびたびチベット人の民族運動の発火点になってきた。その背景には米国当局による東チベット工作があったが、そのことは日本では断片的にしか知られていない、と中村さんは指摘する。

◆『季報ヒマラヤ』に倉知さんがチベット論考の連載を始めたのは、この中村さんの指摘で、米国在住経験もある倉知さんが米国のチベットへの関与に興味を持ったことがきっかけだったようだ。この連載は要約すれば「CIAが誕生してから、初めて海外の政治の舞台で影から行動し、あげく失敗して終わったというストーリー」で、一方で舞台となったチベットでは「1940年代から四半世紀のあいだに民族国家というものが生まれて消えてしまった」と倉知さんは紹介した。

◆冒頭に挙げたように、3冊の資料をまとめた小冊子は、米軍輸送機の墜落事件から始まる。時は日中戦争たけなわ。辻政信をはじめとする日本軍にビルマ経由の陸路を断たれた中国国民政府を支援するため、米国はインド領アッサムから昆明への空輸作戦を展開していた。この「Hump作戦」は後のベルリン封鎖などでの作戦の原型であり、墜落事故が少なくなかった中でたまたまチベットに落ちてしまった輸送機があったのだと、倉知さんは言う。

◆この事件は当時多くの新聞や雑誌でセンセーショナルに報じられたが、丹念に関係者に取材することで事件の本質に迫ったのが2004年に出版された"Lost in Tibet"だったという。5人の乗員そのものは政治的な動きをしていないが、米国にとってチベットに目を向けるきっかけになった事件だと倉知さんは指摘している。

◆これを起承転結の「起」とするならば、「承」の局面は二つある。2002年に出版された "The CIA's Secret War in Tibet" に詳しいように、共産中国の実質的なチベット支配が強まった1957年になって米国当局はカム(チベット東部)、アムド(同北東部)に資材を送る空輸作戦でチベット人の反抗を助けた。空輸作戦の前にはチベット人たちをグアムやコロラドの基地に送り訓練し、用意周到に飛行機を飛ばして武器や兵士を送り込んで行った。彼らの反乱は全国展開したが、人民解放軍が膨大な兵力でこれを阻止した。

◆この作戦を契機として、チベットという民族国家を解放しようという理念が働いた。しかしその理念はすぐに変質していく。米国は共産圏封じ込めのためにインドに協力。デラドゥンで訓練した空輸部隊は国境防衛部隊に変わり、カトマンズから遠く離れてネパール王室の目の届かないムスタンを拠点にゲリラ戦を始める。

◆チベット人自身が何も考えていなかったわけではない。ダライ・ラマ14世の実兄、ギャロ・トンドゥップは1959年3月のダライ・ラマのインド亡命以前からチベットそのものを近代化して中国に立ち向かおうと主張していた。しかし画策は僧侶内閣に阻まれ、彼はシッキムにカム(チベット東部)出身の若者を集めて反抗のきっかけを作ろうとしたのだった。ムスタンでゲリラ戦を始めたのは、ギャロ・トンドゥップの思想を受け継いだカム人たちだった。

◆続く「転」は、それまで非同盟中立を守り、米国との協力に消極的だったインドの立場が変わった1962年。チベット北西部のアクサイチンを中国が占拠して中印紛争が起きたためだった。インドは「チベットを助ける」ためではなく、自らの防衛のために中国と対峙するようになった。

◆端的に言えばチベットに接近しようとしていたアイゼンハウアーから、ケネディの時代になり、キューバ危機を経て米国はチベットどころではなくインドを支援する。1968年、大統領がニクソンに代わると、訪中の邪魔になるためにムスタンで闘っていたチベット人たちへの支援を打ち切って撤退させた。とにかく米国の政策はコロコロ変わる。翻弄する米国と翻弄されるチベット。いけないのはどちらだろうか。

◆このストーリーの「結」は1999年出版の "Orphans of the Cold War"に描かれている。政治的支配権を握っていた僧侶たちが既得権益と秩序を守るということしか考えていなかった一方で、カム、アムド(チベット東部)でゴンポ・タシが結成したゲリラ組織を中心とする武力闘争の状況や、いち早く亡命を選び在外チベット人たちのリーダー的存在だったギャロ・トンドゥップの活動を原著は取り上げている。が、「保守派と改革派のような対立があったのだろうが、それ以上に中国の侵攻が速かった」。しかしどれも実を結ばないまま終わってしまって、チベットは共産中国に完全に取り込まれてしまった。

◆米国はチベットに関しては秘密作戦が中心だった。つまりチベット人自身が蜂起するのを待つというのが基本的スタンスで、時代を追うにつれ、冷戦構造の中で「カーテン」をどうやって守るのかということに米国の態度は変質していった。その意味で米国はチベットに関してはいいかげんだったと倉知さんは話す。

◆このストーリーが日本人にとって示していることは何か。倉知さんは日本の米国依存に警鐘を鳴らす。「貿易で立国するということも重要だが、国民全体でひとつのまとまりのある国を建国するという方向でいかないと、長い間に侵略されて日本の独立が危うくなる」。この端緒が尖閣問題や中国国内での日本企業襲撃、油田開発問題なのではないかと彼は指摘した。

◆倉知さんが言うように、チベット民族国家の成否を握っていたのはカムやアムドと呼ばれるチベット東部での闘争だった。その東チベットに通い続け、25年以上になる中村保さんは、昨年2012年、四川と雲南とを旅して来た。中村さんが恋してやまない東チベットには、チベット自治区内に6000m級の山が200ほど未踏峰で残っているが、北京五輪があった2008年から自治区に入るのが難しくなり、一昨年はかろうじてもぐりで入れたものの、昨年は一切入れなかったという。四川省内には6000m以下で未踏の山群が残っているものの、山岳地帯には外国人は入れない。昨年はしかたなく「もぐりでこそこそと行ってきた」のだそうだ。

◆まずは畴拉山(チュラシャン)山系の素晴らしい岩嶺群にある未踏峰、ガンガ(5688m)の写真が映し出される。一帯には名前がない峰々が多く、7年前に挑戦した長野隊はピークを間違えた上に登れずに帰ってきたという。続いてそのすぐ東側に並ぶごんか拉山(ゴンカラシャン)山系のカワロリ(5922m)。この山は宗教的な理由で登山隊が入ることを認められず、英国隊や山梨大隊も追い返されて未踏のままになっている。

◆雪を抱いたアルプが高原にぽっかりと浮かぶ姿はチベット独特のもの。同じ横断山脈群の中でも四姑娘にはクライマーが押し掛けている現状から、近い将来にはこれら未踏峰にもクライマーが多く入るのではないかと中村さんは話した。名だたる山々に通じる断崖絶壁の道やミニヤコンカの圧倒的な南東壁などがスクリーンに映し出される一方で、中村さんのカメラは僻地に布教された名残のキリスト教会や、巨大な僧院、世界遺産になるのではないかと言うンガバの石塔にも向けられている。

◆コメントを求められた谷口けいさんは、平出和也さんとともに2011年にチベット西部にあるナムナニ峰へ遠征したときの経験を語った。「あの時、行っておいてよかった」と谷口さん。翌年の春から外国人の入域が制限され、以来ツアー客もほとんどがチベットに入れなくなってしまったからだ。アプローチの道路は話に聞いていたガタガタ道ではなく、高速道路なみで、開発が進展していることが窺えたという。

◆海外から遠征隊がチベットに入るとリエゾンオフィサーが必ず同行する。そのときのリエゾンオフィサーはチベット人だったが、中国人の上司を恐れているためか、とにかくそのすぐ東側に並ぶゴンカラシャン山系の1キロも離れていない温泉にさえ寄らせてくれなかったという。行きは何日もかけたのに、下山したとたん、早く追い出そうとする。帰りはなんと24時間走り続けたのだとか。ナムナニはインド国境に近く、国境警備の要衝であるプランという町に当局は谷口さん一行を近づけたくなかったらしい。

◆それを受けて今度は中村さんが自らの「チベット体験」を語る。この2011年は中村さんも「本当に逃げまくった」という。チベットを旅するには、人民解放軍と公安と旅遊局と内務省の許可がいる。谷口さんのような登山は目的地がはっきりしているからいいが、中村さんのようにあちこち見て回りたいという旅行の場合が問題になる。許可証には大きな町の名前しか書いてくれない。解釈によってはその町から一歩も出られないことがあるという。許可証にない町から追い返され、素直に帰ったふりをして、谷に入って出てこなかったことも。このときは日本人が行方不明になったと騒動になったそうだ。

◆昨年中村さんが続いて訪れたのは亜熱帯の雲南省。目的は山ではなく、フランスが探検した足跡をたどることだったが、そこで目にしたのは巨大な空港と高速道路網の発達だったという。雲南の3本の主要高速道路は昆明から四川の成都、ミャンマー、ラオス国境へとそれぞれ向かっている。ラオス国境に近い西双版納(シーサンパンナ)の景洪(ジンフォン)では人口40万の町にマンションが林立しているのに驚いた。クルマが多く、駐車場がなくて困るほどだったという。音を立てて開発が進んでいる。

◆メコンに架かる斜張橋を渡ると立派なイミグレーションがあり、その先はブーゲンビリアの咲くラオスだ。日本人はラオスもベトナムも中国も14日間ノービザで入れるが、同行した中国人ガイドはビザが必要。でも500元で通してくれたという。メコンを挟んで経済的な結びつきが非常に強いラオスだが、中国語はほとんど通じなかった。

◆メコンを遡ってきたフランス人の足跡は、教会に残っていた。西欧はチベットに対してキリスト教布教に努力したが成功しなかった。カトリックのフランスはネパール経由で入ろうとして失敗し、次善の策としてハノイからインドシナ半島への浸透をはかった。その時に建てられたのが各地にある天主教教会だ。カトリック宣教師は一時期、サルウィン河の西側まで入ったが、結局は追い出されてしまった。その名残はチベット自治区の塩井(ツァカロ)に残っているという。現在ではプロテスタントのほうがはるかに多く、基督教と言えばプロテスタントのこと。景洪の教会もプロテスタントだったそうだ。いずれどこかで『雲南探検史』を発表したいと中村さんは締めくくった。

◆「何でもあり、何でも起きる中国。尖閣でも何でも驚いてはいけない」と中村さんは繰り返した。中村さんは毎年のように中国を訪れているが、1年行かないと様変わりしているそうだ。一昨年の高速鉄道事故は既に過去のこととして語られ、あらゆることがすごいスピードで起きているという。「中国は古いものをぶっ壊して、新しくしてしまう」。物質的な利便性を与えて13億人を治めるというのが中国政府の基本方針であるかぎり、この変化を止めることはできないだろう。チベットの辺境にもその波は及んでいるに違いない。(落合大祐


報告者のひとこと

最後のライフワークが

■地平線会議でのトークは今回が三度目です。その内容は地平線通信に過不足なく正確に纏められていますので、重複は避けます。私の演題はいつも中国南西辺境、「ヒマラヤの東──チベットのアルプス」の未踏峰の紹介です。この地域に関しては世界でオンリーワンの存在になりましたが、私が最も希求したのは「登山」よりも多様性のある「探検」です。

◆「ヒマラヤの東」に関わり始めたのは偶然です。1989年から94年までの香港駐在がきっかけでした。人生のめぐり合わせでしょう。1961年のペルー・ボリビア・アンデス登山の後、ヒマラヤ以上に関心があったのは南米大陸を水路で縦断する企画でした。ベネズエラのオリノコ川からカシキアレ水道を通ってブラジルに入りアマゾン支流のリオ・ネグロを南下、再び支流を遡行してパンタナル湿原を通過し、ラプラタ川を下ってブエノスアイレスに到着するアドベンチャーです。しかし、会社人生のためこの計画自体は実行できませんでした。

◆次は香港行きの前に考えたプロジェクトです。仕事で赤道直下のザイール(現在のコンゴ)を訪れた時にヒントを得ました。アフリカのコンゴからアマゾンへ、赤道沿いに陸路と水路を辿って世界一周するアイデアに密かに熱くなりました。地平線会議にぴったりのテーマです。しかし、これも実現せず、行き着いたところが東チベット圏、カンバ族の世界です。

◆残された時間は少なくなりました。来年は80歳になります。最後のライフワークがあります。ケンブリッジ大山岳会の重鎮(現エベレスト基金理事長)から半世紀は残る役に立つ仕事を残せとアドバイスされ、それを真に受け『ヒマラヤの東──チベットのアルプス地図集』に取組み始めたところです。江本嘉伸さん、ご高配とご支援ほんとうに有難うございます。(平成25年3月10日 中村保

議論したかったが……

■思いがけず大勢の方々に、お話する機会を頂き、感謝申し上げます。チベット抗争史について、私はこの2年程何かを伝えようとしてきたわけですが、その相手の顔は見えず、どう受け取られ何を思って下さったのか、丸で見当もつかず、物足りない気持ちでした。そこで初めて相手の顔の見える場所を与えられることになり、実はとても期待して臨んだのですが、終わって見れば何も変わってないじゃないか、というのが正直な気分です。

◆そもそも、長い間かけて纏めた事象とか意見を、短時間に要領よく伝えるなどは、出来ないことでした。少なくとも、チベット抗争史の冊子を先に読んで頂いてからなら、下手な話もいくらかは理解に足る内容となったかも知れません。要するに私は、誰かがいくらかでも関心を持たれたら、議論したかった、のでした。

◆主たるテーマは、歴史的に人類の有り様は国家が規定する、というものですが、イヤ民族こそ真正なものであって国家は相反する否定的存在だという見方もあります。チベット史を具体的事例としてこれを議論するとどうなるか、などというのは興味深いことです。また、宗教と民族の繋がり、チベットと日本の相似性と異質性はどうなのか、などほかの人の見識を伺いたいことが沢山あります。まあ集会で議論しなくても方法はあるので、これからでもどのようでも結構ですので、何か言いたいことお持ちでしたら是非お聞かせ下さい。

◆私の次の課題として、チベット民族ホロコーストについて考える、というものがあります。漢族の大罪悪は罰しなくてはならないのではないか。しかし、まずは勉強してからです。(倉知敬


速  報

中村保さん、第2回梅棹忠夫山と探検文学賞受賞!!

■第2回梅棹忠夫山と探検文学賞に、先月の報告者、中村保さんの『最後の辺境 チベットのアルプス』(東京新聞刊)が決定した。梅棹忠夫山と探検文学賞は、信濃毎日新聞社、平安堂、 山と溪谷社が協賛し、小山修三・国立民族学博物館名誉教授を委員長とする選考委員会が選考する。第1回受賞は、角幡唯介さんの『空白の五マイル』だった。


チベットはまだ消滅していない

■「中国はチベットから出て行け」「チベット人を殺すな」──3月10日、日曜日の東京・渋谷で、日本に亡命しているチベット人たちによるデモアピールが春霞の強風の中で行われた。ニューヨークやサンフランシスコ、ロンドン、リオデジャネイロなどの各都市で西側「人権派」の協力を得てこのようなデモが行われる一方、チベット本土はこの時期、厳戒態勢が敷かれている。

◆2009年3月、アバ(四川省アバチベット自治州アバ県)で始まった僧侶らによる焼身自殺による抗議に参加した人々はついに100人を超えた。中国当局は当初「交通事故を起こし自責の念があった」「借金苦が原因」などと個人的事情であることを強調したが、抗議が急増した昨年からは「インドに亡命した高僧たちが指令している」と非難を始め、自殺した人たちの関係者を拘束した。中村保さんの報告にも「僧侶が焼身自殺を強制しているから摘発しているのだと言われている。たくさん子供がいる家に割当が来るとか、くじ引きで選ばれた人が自殺させられている」というくだりがあり、驚いた。

◆TCHRD(チベット人権民主センター)の調べでは、100人の中には親兄弟や親戚、友人のつながりがある人たちが多く、個人的事情よりもむしろ義憤に駆られて、やむにやまれず自殺という抗議方法を選んでいるようだ。「ようだ」としか書けず、中村さんのように断定的に言えないのは、チベット自治区や周辺の主なチベット地域への外国人の入域が厳しく制限されてしまい、亡命チベット社会の伝聞や中国当局側の報道でしかチベット本土の状況を知ることができないからだ。

◆中村さんの昨年の四川省チベット地域の旅の話でその一端がわかるかと思ったが、「相変わらず厳しく制限されている」ということしかわからず、はがゆかった。わからないのは、輪廻転生を信じ自殺は功徳に反することだと教えられている彼らがなぜ究極の抗議を行っているのか、チベットの中のチベット人たちがいまの状況について本当にどう思っているのかということだ。

◆2008年の北京五輪を前に、青海省出身のチベット人男性が思い立って、ラサを始めとするチベット各地でチベット人自身に対するインタビューを試みたことがある。当時34歳だった彼、トンドゥプ・ワンチェンはその後当局に拘束され、6年の刑を受けて投獄されているのだが、彼が撮ったインタビュー映像はスイスに亡命した従兄弟の手によって23分の映像に編集され、世界各地のチベット支援NGOによって上映された。

◆昨年公開された岩佐寿弥監督の映画『チベットの少年オロ』の作中にも彼の映像が挿入されている。23分の中で20人のチベット人たちが顔を隠すことなく、五輪のことや土地の収奪、文化や言語への抑圧などについてインタビューに応じているが、これには「言わされている」とはとても思えない迫力がある。

◆一旅行者としてチベットを自由に旅できないことには私も中村さんと同じく不満を持つが、こうした背景を知れば知るほど、いますぐではなく、チベット人が本音を言えるようになってからチベットに行きたい、そのためにはどうしたらよいかということに考え込んでしまう。

◆倉知敬さんはムスタンゲリラの項を「チベット民族の終焉とは、所詮地勢的隔離に惑わされて団結し得なかった、チベット民族自らがそもそも招いた不幸としか言うしかなく、それは貴重な他山の石」と日本人の国民性と比較して結んでいるのだが、東京で行われたデモでのチベット人たちの姿は「民族の終焉」にはほど遠い。

◆チベット人の中には、父母がムスタンのレジスタンスに参加するためにTCV(チベット子供村)で育ったという人もいる。ムスタンやチベット東部で行われたような軍事的な作戦は終わったが、彼らの精神的な闘いは内外で続いている。東日本大震災でも東北が消滅したわけではないように、チベットはまだ消滅していない。(落合大祐


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