■399回目の報告会(2012年7月28、29日)を南相馬で開催するなど、1年を通して震災の被災地に目を向けてきた地平線会議。2012年最後の報告会の第1部は、東日本大震災以降、奈良県から宮城県東松島市に通い続ける岩野祥子さんと「JR仙石線沿線住民の会」「野蒜・宮戸地区復旧、復興を考える会」の会長として、在宅避難者を取りまとめている野蒜地区新町の区長さん、坂本雅信さんが登場した。
◆通信でも、東松島での活動をレポートしてくれている岩野さんは、これまでに2度、南極観測隊員として越冬。つい最近は東西400キロに及ぶ瀬戸内海を1週間かけてカヤックで横断するなど(通信404号、ぜひ読んでください)、行動力の人だ。
◆「関西でも、船酔いになりそうなくらいビルが揺れたんです。テレビを通じてオンタイムで入る被災地の状況を見て、倒れそうなくらいショックを受けて。これは大変なことが起きていると思いました」。3月11日をこう振り返る岩野さんが勤務するモンベルは、阪神・淡路大震災時にもアウトドア義援隊を立ち上げ、人・モノ・お金の支援に動いた企業で、今回もいち早く支援活動に関わっている。
◆後方支援部隊だった岩野さんが、最初に被災地に足を運んだのは4月中旬。モンベルの緊急支援拠点だった山形県天童市に入った際に2日間、塩竃市の浦戸諸島と東松島の東名、野蒜を回ったという。「避難所のホワイトボードに避難者数・外泊者・ヘリからの物資配布時刻・共同作業の有無などが書き込まれているのを見て、南極と似ているなと思いました」。
◆野蒜地区では、海に近い鳴瀬2中周辺の家はほぼ流され、学校の1階を突き抜けた津波によって裏の松林もガレキの山状態。「この頃はまだ見つかっていない人も多くて、自分が遺体の発見者になるのでは、と思うと怖かったですね」。
◆4月20日に関西に戻ったものの、海が憎いという気持ちと同時に、またここに来なければと思った岩野さんは東松島で支援活動をすると決めて、5月の連休に11日間の休みを取って野蒜地区に入るかを探していました。
◆ここで岩野さんに声をかけられ、会場から「東北のカソリ」こと賀曽利隆さんが登場。賀曽利さんによれば、野蒜は明治時代、政府が日本初の洋式の国際港をつくろうとした土地で、この計画が上手くいっていれば、仙台以上の港湾都市になっていたかもしれない、とのこと。
◆11日間、高台でキャンプ生活をしながら支援に参加したボランティアは述べ1500名。その最初の作業は、鳴瀬川沿いの堤防のガレキ撤去だった。「“この辺りの人たちは何度も泥棒の被害に遭っていて、正直、よその人に来られたくないと思っているんです。だからあなたたちは目立たないようにしてください”と、避難所になっていた定林寺の取りまとめ役の人にいわれて。それで民家から離れた堤防の謔、になって、少しずつ民家の泥出しも手伝うようになりました」。
◆そんな岩野さんたちのボランティア活動に力を発揮したのがソーシャルQ加人数や、参加メンバーの得手不得手に合わせて、頼まれる作業も増えていったという。住民の要望を受けて共同墓地を整備し、避難路をつくるなど、行政の手が回らないところまで手伝ってきたボランティアだったが、秋風が吹いてテント生活が厳しくなる頃から、仲間内でもいつまで活動を続けるのかという声が挙がり始めた。「リーダーも事務所もない自主的な活動をどうしていくか、一度区切りをつけようという話になって。今まで活動させてもらったことへの感謝として、東名駅前でパーティを開きました」。
◆野蒜地区ではこの頃までも、毎週日曜日にはボランティアの炊き出しが入っていたそうで、「食事が終わったらすぐ帰ってしまうのかと思っていたら、みんな最後まで残ってくれたので嬉しかったですね」と岩野さん。総勢150名が参加したパーティは、机や電気もすべて地元で借りて、3万円ほどの費用で開くことができた、とのこと。区切りのパーティ後は、グループホームを運営しているすみちゃん(伊藤壽美子さん)の好意で、グループホームで寝泊まりするようになったそうだ。
◆そもそも岩野さんが東松島に通い続けているのは、ある男性のことばがきっかけだった。「あまり笑わない、口数の少ないおじさんが、一緒にお酒を飲んでいるとき“復興は5年、10年というスパンのことだから、ボランティアにもその気持ちで、心のケアもするつもりで通ってほしい”、って。それからは来いといわれないけれど行くし、行けばカズヒラ(尾形雄平=おがた・かずひら=)さんは待っていてくれる。娘さんが2人いるんですけれど、わたしは3人目の娘のようになっています」。
◆被災地の人々との個人的な交流が深まる中、岩野さんは前述のすみちゃんから、仙石線の早期復旧を訴えるイベント「走れ仙石線」を実施したいと相談を受ける。「地元の人の想いが大切なのであまり口出ししたくなかったんですけど、みんなもなかなか手が回らないので、わたしたちは駅周辺の整備などを手伝いました。ただ、ボランティアの中には自分たちの活動実績のために来ている団体もあって。方向性がブレて不安になった時には決してブレない坂本さんに相談しました」。
◆震災から1年が過ぎ、家のリフォームや学校に花を植える活動を続けると同時に、岩野さんたちは松島湾でカヤック遊びを始めた。「1年目はとてもそういう雰囲気じゃなかったけど、いつまでも暗い気持ちでいても仕方がないし、松島湾は美しいし……。自然にカヤックをやろうという気になったんです」。ちょうどその頃、生活復興支援センターの人から仮設住宅の子どもたちが外で遊んでいないという話を聞いた岩野さんは、子どもたちにカヤックを楽しんでもらおうと「海遊びin月浜」を企画。「センターの人が(津波の被災地で)海遊びを後押ししにくいことはわかりましたけど、浦戸諸島で復興支援をしている畑中みゆきさん(冬季オリンピック・モーグルの元日本代表選手)に相談したら、“やろう!”といってくれて。アウトドア義援隊の仲間にサポートしてもらって実施しました」。
◆東松島での活動を語ってくれた岩野さんの話の後は、短い休憩をはさんで、野蒜駅で7年間、駅員として勤務していた坂本さんが登場。当事者が語る野蒜地区の再生・復興の課題を聞きながら感じたのは、被災者と行政の温度差だ。
◆東松島市で、津波で命を落とした方は約1100名。そのうち500名以上が野蒜地区の方で、さらに現在、坂本さんが区長を務める新町地区250世帯では150名の方が亡くなっている。かろうじて家が残った17世帯70名に行政の支援が入ったのは、震災から1週間後。冷蔵庫の中のものを持ち寄り、持ち主の許可を得て、流された車からガソリンを抜いて買い出しをするなど、自力で生活していた坂本さんたちは「水が4月中旬、電気が5月11日に復旧するまで、食事などを支給してもらっていましたが、電気が来ればなんとか生活できるだろうから、行政に頼らず早く自立しようと思っていました」と話す。
◆自立に向けて動き出した坂本さんが「JR仙石線沿線住民の会」や「野蒜・宮戸地区復旧、復興を考える会」を立ち上げたのは、野蒜地区町づくり協議会が独断で市に提出した高台移転の要望書に対して、自分たちの意思を伝えるためだった。「協議会が市に高台移転の要望書を出したのは5月11日です。でも、避難者が自宅を見に行き始めたのは連休頃で、とても移転要望書を出せるような時期ではなかったんです」。
◆在宅避難住民にとって、高台移転の要望が町全体の民意のごとく提出されたことは、まさに寝耳に水。「高台移転を否定するわけではありませんが、野蒜地区全体が高台移転すると広報したのは市のフライングです。今の場所に住み続けたい222世帯639名の署名を集めて、その意思を市長に伝えました」。
◆岩野さんの話にも出てきたように、野蒜地区の人々の生活に欠かせないのがJR仙石線だ。「仙石線は市民にとってほとんど唯一の公共交通機関で、通勤・通学の足が奪われたことで、現に2000人以上の人口流出が起きています。早期復旧を希望する12511人の署名もJRに提出したのですが、津波が来たら安全の保障がない場所に戻しても仕方がない、というのがJRの回答でした」。
◆移転については時間とともに住民の希望も変化している。2011年8月の時点で60%だった移転希望者が、11月は30%に減少。運河沿いの1700世帯のうち、当初の200世帯から、今は300世帯が戻っている。毎月、野蒜に通い、いわば定点観測をしている岩野さんも「(野蒜に)行くたびに家が建って、人が戻っている印象があるし、同じ場所に住み続けるか、家を解体するか、市がアンケートを行った直後はリフォームの依頼が増えますね」と話す。
◆移転促進地域である東名運河の北側は、津波危険地域として、[1]建築禁止地域、[2]建てるなら、鉄筋コンクリート2階建て以上、[3]リフォームしてもよいけれど、同じ場所に家を建てるなら床を1.5メートル上げなければいけない、という3段階の制限がある。「床上げには行政の補助はなく、そんなお金をかけるよりも高台移転しなさいと、いっているようなものなんです。市は7.2、6.2、4.5メートルと3つの防潮堤をつくるというけれど、高台移転を促しながらなぜ3つも防潮堤が必要なのか。建設業者のためなのでしょうか」。
◆防災よりも減災。津波が来たら逃げることが第一と話す坂本さんは、災害に備えて必要なのは無線と避難所、そして避難所への避難路の整備だと続ける。「12月7日の震度5弱の地震のときも、暖を取ること、車で行くことのできる高台の避難所はほとんどなくて、震災の教訓が何も生かされていません。まずは新東名のどこが避難所として適切な場所か、考えるべきだと思います」。
◆報道が少なかったせいか、あまり知られていないが、市の指定避難所だった野蒜小学校の体育館は、裏山にぶつかった津波が館内で洗濯機状態となって渦を巻き、50名以上の方々が命を落とした凄惨な現場だった。耐震補強をしている校舎の3階に避難していれば、多くの命が救われたかもしれないがそういう誘導はなかった。無念の思いが残る中で、家族も近所の人も助かった坂本さんは、「生かされた以上、何らかのかたちで役に立ちたいし、残った建物を津波遺産として保存し、ここで起きたことを語り継いでいきたいと思っています」という。
◆未だに店も、学校も何もない野蒜地区を「吉幾三の世界ですよ」といった坂本さん。野蒜地区に限らず、課題が山積みの被災地の人々にとって、定期的に足を運び続ける岩野さんのような存在は、“自分たちを忘れずにいてくれる人がいる”という精神的な支えになっているのではないか。二次会での、東京で暮らすカズヒラさんの娘さんや坂本さんとの打ち解けた雰囲気を目にして、通い続ける=継続の力から生まれる互いの信頼の強さを感じた報告だった。(塚田恭子)
■岩野さんの報告が終わり、休憩! 報告会前から会場の後方で甘い香りを漂わせていた恒例の原典子さんから差し入れケーキタイム!、っと思いきや、チベット研究者の貞兼綾子さんが毛皮の帽子を被って登場。「かわいいでしょう、お気に入りなの」と癒しの笑顔で2月2日に開催される「チベットの歴史と文化学習会」について説明。聞いているうちにケーキが配られ、食べながら学習会宣伝を伺う。贅沢!
◆そのまま報告会は進行し、「第2部 福島は今」へ。まず楢葉町出身の渡辺哲さんによる楢葉町の現状。2012年8月10日、「避難指示解除準備区域」となり、昼間の帰宅が許されて(夜間の宿泊はできない)以後、大きな変化はないが、放射性物質の仮置き場を建設中のため、除染で集められた土嚢が町に山済みとなっている。また電気は通っているが、津波の影響で稼動できず、水が出ない。下水処理場が問題なかった地域では水は出ている状態。
◆ここで2012年7月の南相馬報告会で中心的役割を果たした上條大輔さん。南相馬市は、自転車が放置されたままの小高駅の自転車置場の情景が報告会参加者へ深く印象付けられた町でもある。震災直後、小高区がまだ立ち入り禁止だった時から許可を得て自衛隊と遺体捜索や倒れた樹木の伐採に入っていた上條さんは、南相馬市だけでなく福島の現状を把握している。
◆たとえば、5年後まで立ち入り禁止となった浪江町は2万7〜9千人であった人口が5年後の解除で戻る人口を3〜5千人と予想している。帰還希望者の8割はお年寄りという。5年町から離れ、補償金を受け、生活を築いたらその後戻る人がどれ程いるか。その後誰もいなくなった町をまた復興させるのは至難の所業となる。上條さんはこの周辺エリアには希望の少ない見方をしている。
◆大熊町は6号線を入ると30マイクロシーベルト以上が測定され、浪江町山間部の畑土からは4万ベクレル以上が検出されている。そんな中、昨年12月17日から原町、小高、浪江、双葉、いわきまで関連事業者の通り抜けが許可され、業者・関連事業者は立ち入りが可能になった。放射線量や土から検出される放射線を目の当たりにすると、立ち入りを容易に許可してしまっていいのか疑問に思う。今は南相馬市が原発作業員の前線基地になっているが、5年後浪江町へ前線基地が動くと原発まで10kmとなり、目視できる程近くなる。「そこにあるものがどれほど恐ろしいか1週間程度滞在すればよくわかる」。
◆ガイガーカウンターの測定値だけで危険を判断するが、危険はそれだけではない現実が沢山ある。環境や進む現状に気がおかしくなると上條さんは言う。たとえば、今福島には賠償金や除染作業に払われるお金が膨大に動いている。末端では日当1万5千円程度だが、大手の関連企業へは6万も支払われている。そんなお金の情報を聞くたびに嫌気がさしてしまう。浪江が3地域「入れる地域」「数年後に許可」「全く入れない」に区分される予定だが、区分地区が中々決まらない。道路一つで補償額が変えられるせいだ。
◆「お金があっても行動範囲が狭められ、生きがいが無いと面白くない」。震災前から育林、障害を持つ子供のデイサービスを行ってきた上條さんは仕事師であり、自身の芯を持って仕事をしてきた。現在は林業も出来ず、さらにデイサービスでも子供達の居住地より放射線量の高い山へ子供を受け入れて良いのか疑問に感じ、継続を求められながらも保護者へ説明し、昨年5月に休業した。そんな自分のやりたい事が出来ない現状に気が狂いそうになると言う。お金があれば幸せか?
◆続いて渡辺さんへ話が振られる。「自宅へ再度戻るか」という質問に、家は戻れる状況であり、戻る意向。しかし、周囲の若い家族は戻らない事を選択するだろう。皆が酷い事態に直面しているが、問題は「汚染」から補償の配分や政治へと様々な事が複雑に絡んできている。
◆最後に毎年5月のGWには太平洋から日本海まで走る渡辺さん。「今から三島まで走る」との驚愕発言!「明日クリスマスなのに走るの? てっちゃん(渡辺さん)に誰かいい人いませんか?」と言う上條さんも渡辺さんに感化され、100kmマラソンに出走している。最後に二人の漫談で緊張していた空気が和らいだ。私も年1、2回であるがハーフマラソンを走っている。でもてっちゃんの話を聞くと自分はヒヨコどころか卵の中だ!「地平線の仲間ならフルマラソンぐらいは軽く走れないと」とえも〜んの言葉が個人的には染みた報告会でした。(四万十以来の仲間うめ、こと山畑梓)
■報告会では、話そうと思っていたことの半分も話せなかった感じです。貴重な時間をいただいたのに申し訳なく思っています。ただ、報告会で話させていただいたことは、私にとってはとてもありがたいことでした。ひとつは、これまでの振り返りや整理ができたから。もうひとつは、野蒜の坂本さんが来てくれたからです。東松島の活動に関しては、江本さんが度々、通信に書く機会をくださったので、それが唯一のちゃんとした記録になっていました。今回、それをキーにしながら、それ以外の細かなことも、自分の手帳や日記を引っ張り出して拾い出し、時系列で整理しました。
◆そうしたら、今まで気づかなかった出来事と出来事のつながり、たとえば、集団移転説明会の後に、被災家屋のリフォームに向けての作業依頼が増えていたこと、などの関係性も見えてきて、あらためて、記録すること、整理することの大切さを感じました。一緒に活動してきたメンバーが数人、報告会に来てくれましたが、それ以外の仲間にも共有すべきだなあと思いました。
◆坂本さんが来てくれたこと。これはとてもよかったと思います。世間では、東日本大震災からの復興はすでに大部分において成し遂げられたと考える人が少なくありません。けれど実際には全くそんなことはないし、被災者のみなさんのやるせない気持ちの理由のひとつが、そうやって世間から忘れ去られていくことだと思います。
◆坂本さんは、震災当初から継続して地域のために行動し続けて来た人です。行動すれば必ず反目する人も出てきて、なんで?どうして?と思うこともたくさんあるし、無駄に疲れなければならないこともたくさんあります。いろいろ言われながらも、「今何をやらなければならないか」という核心を見据え、じぃっと行動し続けて来た坂本さんの姿を見ながら、応援しかできないけれど応援していよう、とよく思いました。
◆今回の報告会で坂本さん自身に話をしてもらうことは、聞かせてもらう我々にとっても貴重なことだし、坂本さん自身の力にもなるのではないかと思いました。報告会の後、ふたりで野蒜に帰る道々、息を吹き返したような坂本さんのパワー・元気を感じられたのは、本当によかったです。私自身がそうだけれど、応援してくれる人、味方でいてくれる人の存在は本当に大きいです。局面が厳しければ厳しいほど、そうです。
◆震災から1年10か月経って、泥出しや床板はがしのような、目に見える形での支援は実際ものすごくしづらくなってきています。報告会以降、2回、東松島に行っていますが、頼まれる作業はもうほとんどありません。最近は遊びに行っているようなもので、お茶っこして、夜は宴会をして、どっちにしても話ばかりしています。被災した人たちも、被災地に行くことをやめない私たちも、今をどう過ごすか、手がかりも手ごたえもつかみにくい中で何をしていくか、模索しながら、じっと我慢の時期かなあと思います。(岩野祥子)
■今回参加するきっかけを作ってくれたのがアウトドア義援隊の岩野さんである。東日本大震災においてボランティアの皆様方には大変御世話になり、ただただ感謝の一言につきます。アウトドア義援隊の皆さんには、震災後5月から今日迄、物心両面に渡って支援を頂いています。特に岩野さんとは、野蒜に来るたび尾形さん宅で飲む機会を通じて交流を深めているところです
◆そういう中で今回の話があり参加して、東松島市の現状や仙石線の問題や高台移転の経緯等を知って貰う事にしました。当日私は東京に早く着いたので、新宿駅に行って見る事にしました。それは私が元JR社員で平成11年から13年の2年2ヶ月を新宿駅改札で仕事をしていたからです。当時の人達に逢えるかと思い、探して見たが見つからず、聞く所によると現在は新宿駅改札は職員ではなく派遣社員が仕事をしているとの事でした。10年前とは駅構内内部も変わっており、時の流れを感じてしまいました。
◆その後、山手線に乗り高田馬場駅で待ち合せの江本さんと岩野さんと合流し、約1時間程お茶を飲みながら話をした後新宿スポーツセンターに向かいました。その日は午後5時から9時迄の3時間という事で岩野さんから震災後5月からの東松島市野蒜での活動報告があり、私の番となりましたが、震災時の話をはじめいろいろな話をしたかったのですが、10分の1も話ができませんでした。3時間という時間はあまりにも短く、思いの半分も皆さんに伝わらなかったのでは、と思っております。今後は、又話をする機会があれば参加したいと思っています。
◆私の後に福島の現状を話してくれた上條さんの話が印象に残っています。原発の補償金は一杯あるが、「ここでは自由があるようでまったく自由がない」との話がありました。この様な現状が続けば人間は働く意欲がなくなり人間がダメになっていくのではないかと思います。又、東電がその様にしているのです。この様な現状を見る時、私たちはまだ恵まれていると思います。本人がやる気があれば困難があってもいくらでも出来る事があるはずです。しかし、福島の人達は原発という人災で本人がいくらやる気があっても家に戻る事が出来ないのです。東電、そして政府の責任は重大です。
◆今回の総選挙において自民党が残念ながら大勝してしまい、又新たな原発を作ろうとしていますが、まったく言語道断です。仮に新たに原発を作ろうとした場合(作る筈がないが)東京都民は賛成するのでしょうか。そして、核のゴミ置場として認めるでしょうか。私は絶対反対すると思います。政府が危険である事が分かっているからです。
◆今後は私たちも30Km圏内にある女川原発の再稼動に反対をし、東松島市野蒜の復旧、復興に向けて、私の出来る範囲内で皆と協力しながら精一杯頑張って行きたいと思っておりますので、今後ともご支援、ご協力の程よろしくお願い致します。大変有難う御座居ました。(野蒜宮戸地区復旧・復興を考える会会長 坂本雅信)
■2012年は東日本大震災後の様々な活動を取上げて頂き、有難うございました。現在、我が地元の楢葉町は除染作業及び一部インフラ(上下水道)復旧工事が行われておりますが、報道でもありましたように、除染で集めた土壌や落ち葉を不法に投棄したり、汚染水を回収せず垂れ流しする「手抜き除染」が横行しており、現地では怒りの声が噴出しています。
◆また、東京電力福島第一原発では、大量の放射能汚染水の処理が課題となっており、対策の要となる新たな処理設備の運転開始が大幅に遅れているため(当初は2012年9月稼働予定でした)、事故から1年10か月が経っても増え続ける放射能汚染水を安全に管理する抜本的な解決策が見出せていません。
◆こんな状況で本当に帰還できるのか、時間の経過と共に帰還を諦める人が増えていく事をとても心配しています。しかし、悲観的になっても前へは進んでいきませんので、2013年も住民として出来る事に積極的に拘っていきたいと思っております。
12月の報告会後、2012年の走り納めとして、日本橋から箱根を越えて静岡県・三島大社まで、旧東海道を辿り約116km走ってきました。日本橋出発は午前零時。(カソリックなもので……)序盤は酔がまだ残っている状態でしたのでダラダラ走ってましたが、横浜駅を過ぎ権太坂あたりからリズムよく走れるようになり、藤沢の遊行寺(約51km)で夜明けを迎えました。
◆快晴の湘南海岸を横目に気分良く歩を進め、箱根湯本(約92km)には11:42に到着。ここから旧街道らしい雰囲気の残る石畳の峠越えが始まります。一気に箱根峠を越えようとしたのですが、手持ちの行動食が切れてしまいガス欠状態に……。そんな中、芦ノ湖手前の「甘酒茶屋」に辿り着き、頂いた力餅と甘酒は正に五臓六腑に染み渡る旨さでした。
◆そして芦ノ湖から箱根峠(約104km)を越えた後は一気に駆け下り、ゴールの三島大社へは16:45に無事到着しました。ここまで走ってきた理由、それは昨年末に厄除けのお守りを三島大社で購入したので、それを返納するためでした。その目的を果たせてホッと一安心です。その事を社務所の人へ話したところ、今年の後厄用に再度お守りの購入を勧められました。ということは今年も返納のため走ってお参りに来なければ……。そんなこんなで2013年も大いに走りまくろうと意気込んでおります。(渡辺哲)
|
|