■これが本年3度目となる森田さん。進行役の丸山さんでさえ、「ドイツに中国人の組織があって、それを追いかけたのかな」と一瞬勘違いしたという、今回はちょっと意外なタイトルだ。その本題に入る前に軽く触れたのが、最近話題になっている『東大話法』 政治家や官僚たちが使う話し方で、命名者によれば、「一も二もなく立場でモノを云い、どんなに辻褄が合わなくとも自信満々で話す」アレである。それに対して森田さんが、「地平線の400回を超す現場の報告は、もはや『地平線話法』と言っていい。これは、日本のどの社会へ持って行っても通用する」と前置きし、「今日はぼくも地平線話法で話を進めていきます」の宣言?でスタートした。
◆毎週金曜日、今夜も国会周辺ではデモや集会が行われている。この『アジサイ革命』に、森田さんは注目しているという。中身もさることながら、警官の対応が面白いらしい。本来は重要施設への接近を鎮圧・阻止する立場でありながら、「はい、これから国会の方へ進んでください」と誘導したりする。「ちょっとつかまえて訊いてみると、『自分は3.11のあと、福島の方へ支援活動に行きました』とか『デモの皆さんの言われていることも、良く理解できるんです』といった返事が警官から返ってきます」
◆その現象に、ある種の『都市伝説』を感じながらも、森田さん自身は「脱原発でぼくらの安全が保障される訳では全くない」と、あくまで現実的である。日進月歩の原発機器や安全管理のハイテク化に較べ、放射性廃棄物の最終処分は全く進んでいない。その問題を置き去りにしてスタートした原発自体が間違いだし、そもそも放射能をゼロにすることなど不可能なのだ。
◆日本政府の新エネルギー戦略を見ると、「2030年代に原発をゼロにする方向で考える」と言いながら、核燃料サイクルについては「来年から再開する」と言っている。つまり、「核燃料サイクルを維持する限り、原発は止められない」という論法で、これは本末転倒も甚だしいと森田さん。プルトニウムを使う『もんじゅ』の方が遥かに危険だからだ。
◆では、なぜ日本は核燃料サイクルを諦めないのか。一つはエネルギー、もう一つはプルトニウムの保有による、潜在的な核抑止力にある。しかし、持つべき国が持ってしまった現在、その意味はない。「それでも核燃料サイクルに拘るのか、ぼくには理解できない。3.11の後、ドイツは2022年までに国内の原発17基すべてを閉鎖すると、早々に決めた。日本とどこが違うのか。それを見にドイツへ行ってみようと思ったんです」
◆東西ドイツの時代から取材などで通い詰めたベルリンに、森田さんは格別の思い入れを持っている。いつも足場に使うのは、旧東ベルリンのゾフィーフェン通りにある、昔の東ドイツ風アパートの一室だ。けれど、今年行くと、ちょっと様子が変わっていた。1階は全てカフェになり、アパートの中も改造してお洒落なブティックが並び、ちょうど南青山のような感じになっている。朝はそのカフェで、夕方は屋上のビアパーティーで他の住人たちとビールを飲んだ。
◆その中の1人で、森田さんも世話になった隣人が、元グリーンピースの幹部だった。話し好きの彼によると、東西ドイツが統一されたとき、みんなこのアパートから古い物を捨てたという。が、彼の部屋は、写真も食器も家具も、すべて古い物ばかり。それを訊ねると、「過去と現在は繋がっているものだ。これを断ち切ると未来はなくなるから、自分は捨てなかったんだ」という。
◆さらに「大切なのは過去なんだ。積み重ねてきた時間、生き抜いてきた時間、これが我々の未来を開いてくれるんだ」と、まるで人生を砂時計に例えるような話になった。「砂時計は、一回、溜まります。溜まったものをひっくり返すと、また新しい時間が始まる。『人生とはそういうもんだ』って言うんですね。脱原発より、そっちの話の方が面白いな、とぼくはどんどん引き込まれていったんです」
◆すると次に彼は、「人はいつも人生に問いかけられているんだ」と言い、その言葉にハッとした森田さんに、もう一言、畳み掛けた。「幸福な人ほど不幸なんだ。不幸な人ほど幸福なんだ」「まるで禅問答で、さっぱり判らなかったんですが、どうやら東西ベルリンの人のことを言っているのだな、と判りました。彼が出してきた10年ほど前のWHOの資料では、旧西ベルリンが自殺率のトップになっている。この数字を見て、彼の言っていることがなんとなく判る気がしてきたんです」と森田さん。
◆「豊かさの陰にある虚脱感。モノは溢れていても精神は貧しい。ドイツの人たちはそう感じ、これが脱原発へと繋がったのかも知れない」そんなことを考えながら彼の話に耳を傾けるうちに、フッと若い頃の記憶が蘇った。
◆森田さんの学生時代は70年安保と重なっている。デラシネ(根無し草)という言葉が流行り、大学も閉鎖されていた。それをいいことに、貨物船に乗って地球の果てを訪ねるような旅ばかりした。人の倍かけて卒業した時、仲間は既に立派な社会人になっていた。いまさら就職のアテもない。仕方なく東京に出ようと決めた森田さんに、父が次のような言葉を授けたという。
◆「男には、3つ、自分で決断しなきゃならんことがある。『一生、これで食って行く』という仕事を自分で見つけろ。一生、この人だと思う伴侶を自分で見つけろ。そして、自分の死に方は自分で決めろ」 最初の2つは早々に見つかったが、『死に方』は意味が良く判らない。父もそのことを語らないまま亡くなり、その後はすっかり忘れていた。それをドイツで思い出したのだ。
◆「どんな物事にも始まりと終わりがあります。それは人生も社会も同じ。始め良ければ終わり良し、と行けばよいが、なかなかそうはならない。産まれる時は勝手に産まれても、死ぬ時は『勝手に』とはいきません。せーので会社を興しても、畳む時は周りの人のことや社会的責任があります。これは原発でも同じじゃないか。時代の勢いや高度経済成長に乗って始めた原発が、止める時にこれほど色々な問題があるとは誰も考えていなかったに違いない。原発も人生も、終わる時にその真価を問われる、価値が決まるんじゃないか」と考えた。
◆そして、「『死に方』は『生き様』です。父が言いたかったのも、そのことではないか」と気付いたのだった。哲学者ハイデッガーに、『人間は科学や技術の主人になってはならないし、奴隷になってもいけない』との言葉があるという。「ドイツの人たちは、科学が神の領域まで行ってしまっていいんだろうか、と疑問を持ち、脱原発に向かったんじゃないか。そう考えると、ドイツで脱原発の現場を見ることも大切だが、ここで原発の生きざま、死にざまを見てやろう」と、そんな気になった。すると、それを聞いた彼が言った。「森へ行け」
◆アウトバーンを走って目に付くのは、太陽光パネルと風力発電機。海にも洋上風力発電が回っている。その再生可能エネルギーはキロワットアワーで15円くらい。日本の26円に較べても低いが、もっと安くなると云う。一方、南部では家畜の糞などを使ったバイオマス発電が盛んに行われている。森田さんが訪れたところは自給率が250%を超え、余剰分を水素エネルギーに変えて水素自動車を走らせていた。
◆その水素スタンドは、まだベルリンでも15、6か所に過ぎないが、近い将来、1000か所になるという。風力発電をやっているシーメンスは、かつてはドイツ最大の原発メーカーだった。脱原発の動きと共に風力発電に方針転換し、そのインフラの輸出で、事業は年間3兆円規模に発展した。
◆チェルノブイリの事故後から、ドイツは脱原発を念頭に、30年近くやってきた。この10年で再生可能エネルギーは3倍に増えている。しかも、簡単に新規事業へ参加できる仕組みが整っているという。「州が自治権を持っており、門戸を開いていて、モデルケースやシミュレーションも沢山あり、極端に言えば、ぼくが『明日からやりたい』と云っても、すぐに出来ます。日本のように、まず大手の企業が受注し、そこから下請けに廻すという形をとる必要がないんです」という充実ぶりだ。
◆「しかし、ドイツでも3.11がキッカケとはいえ、それ相応の目標や説得力がなければ、国民の総意による脱原発の決定など有り得ません」 では、それは何だったのか。「脱原発に当たって各方面にデータ提出を求めたメルケル首相は、それらをドーンと積み上げ、最後にポンと一言付け加えました。それはぼくの予想外の言葉でした。
◆『科学技術や経済よりも、倫理が優先する』 でも、その一言で国民は納得したんです」「『倫理』なんて、日本では日常的に殆ど使われません。ドイツではそれが国の大きな過渡期=脱原発を決めている」 倫理って何だ? それを訊ねると、その答えも『森へ行け』だった。
◆ドイツに大都市はないと云う。街はすべて中都市どまり。人口を増やしたり大規模な施設を作るのは愚かなこととして、あえて大きくはしない。「ドイツには現代史がありません。日本の街は昭和まで戻れば間に合いますが、ドイツは中世の建物が普通にあり、200年、300年前はまだ若い方。500年、600年前のものもあります。
◆市庁舎に入ると、当時の物がそのまま使われており、地下の居酒屋のケラーでも、ドアや取っ手、テーブル、椅子、どれをとっても100年や200年では利かないようなものばかりです。ぼくが使ったナイフやフォークには、昔の王族の家紋らしきものが入っていました。日本でなら『触らないで下さい』という展示品になるようなものが、ここでは平気で出て来ます。歴史は博物館のものじゃなく、ここでは生きている。そのドイツの凄さ、歴史観、時代感、時間感覚にぼくは、まず圧倒されました」
◆土日を完全に休む国だから、お店は開いていないし、電車やバスも半分くらいしか走らない。では、人々は何をしているのか、と訊ねたら、「森に行っている」との返事。そこでドイツ人について小さな森に行くと、なるほど小さな家や畑があり、そこを耕したり日曜大工をしたり、終わるとビールを飲んで過ごしている。そして月曜日の朝8時には、リフレッシュして仕事に戻る。ただ、その光景は、森田さん的には「ちょっと頭を冷やしただけではないか」というレベル。「森は哲学だ」の言葉には程遠い。ドイツといえば、やはり『黒い森』か……。
◆飛行機などから見ると、森は深く真っ黒だ。ところが『黒い森』を訪れてみると、意外に整然と整理されていた。「文明の前に森があり、文明の後に砂漠がある」と言われるが、ドイツも例外ではなかった。第二次世界大戦後、酸性雨や色々な環境破壊によって『黒い森』も全部枯死したのだ。整然としているのは、そこにドイツ人がブナやモミを懸命に植林した結果だった。
◆70年代から台頭してきたドイツの『緑の党』も、森の復活とほぼ歩調を合わせているという。黒い森の中心地バーデンバーデンから少し行ったところには、ヘルマン・ヘッセの生家があった。森の手掛かりを求め、そこまで足を伸ばした森田さんは、ギリシャ・ローマの文明によって築かれた初期のヨーロッパは、その後、北のゲルマンと遭遇し、両者のせめぎ合いの中で形成されていったことを知る。
◆生家で説明してもらった『ローマ軍記』にも、「北方のゲルマンを攻めに森へ入った古代ローマ軍は、60日間行軍しても森の端に行き着いたものはいなかった」との一節があった。「このとき森に立て篭もっていたのがゲルマン=ドイツ人です。彼らは、『パースペクティブ』という独特の考え方、思考法を生み出しました。建築で『パース』と言いますが、平面だけではなく、立体的にあらゆる角度から捉える、現実的な見方です。
◆ギリシャ・ローマの地中海文明はロマンチックでしたが、森の中では現実的でなければ生きてゆけなかったのです」 そのドイツ人は、「我が胸に2つの魂が同居している」と胸を張る。一つは、ギリシャとかローマから貰った地中海の情熱。もう一つは、森から得た理性だ。この『理性』という言葉で初めて、「ああ、倫理に近いな、ようやく行き着いたな」と森田さんは実感した。
◆でも、まだ『倫理』そのものではない。では、倫理はどこにあるんだ。そう訊ねると、「もっと北の森へ行け。原生林の森へ行け」との答えが返ってきた。その言葉に、「ぼくは極端な人間なんです」という森田さんは、ドイツを突き抜け、最北端のバルト海へと出てしまう。
◆その海には沢山の小島が浮かび、かつてのハンザ同盟で栄えた港町が島影に残っていた。そこから森の中へ道が続いていた。それは、13世紀に修道院を建てようとしたものの、バルト海の荒波と厳しい気候のため、そのまま手付かずで何世紀も放置された道だという。しかし、そこに踏み込んだ森田さんは、あまりの薄気味悪さにウンザリし、僅か1日目で後悔し始めた。この中では、なかなか倫理を見つけるまでは行かないな。そんな思いにも付き纏われた。
◆アマゴ釣りを趣味とする森田さんは、日本でも、しばしば人里離れた森に入る。アマゴは神経質な性格ゆえ、なかなか姿を見せない。魚を求めて何日も森の中で過ごしていると、どんどん内向き、内省的になってゆく。そして、「道に迷った時はこうする」など、いつしか森の中でのサバイバルルールを、自分で作るようになると云う。
◆突き詰めると、それは自分と森と、そして全ての生き物のためのルールでもある。そこまで考えて、森田さんはハッとした。それが、実は倫理に繋がってゆくのではないか。倫理とは、万物の生命を守るためのものではないか。ドイツ人もそう判断して脱原発を決めたのではないか。もちろん、その解釈が正しいかどうかは判らない。でも、それに気付いた以上、もうここに居る必要はない。そう思って、森を飛び出した。
◆その後、バルト海の小さな町で、週末、深い森の中の教会で開かれる音楽会に立ち寄った。そこで身震いするほど感動的なアルトを歌う日本人女性から、「音楽は神様がくれた最大の贈り物。ここで歌うのも、森の精霊たちに聴かせて会話するため」と聞かされる。
◆その場では理解できなかったが、帰国後に白神山地のブナ林でケーナやサンポーニャを演奏した折り、林に反射して駆け巡る音に、森の精霊との一体感を覚えたという。最後の疑問にも答えが見つかり、各地を訪ねた森巡礼は完結した。森田さんにとっては、恐らく至福のひと時だったに違いない。
◆ここから話題は、ドイツの大皿食文化、レヴィ・ストロースの調理法考察などをぐるりと一回り。脱原発に戻って、独中の比較に移った。「ドイツの脱原発には、ドイツ人気質が非常に関係しています。ドイツ人は父と子と精霊の『三位一体』の考え方ですが、その強固な三角形で理性をしっかり守る人たちだと思います。これに対して、『二極』の人たちが中国人です」
◆陰に対して陽がある。孔子がいれば老子がいる。儒教があれば道教がある。間に支点のあるシーソーのようにバランスを取り、あるいは時計の振り子のように行ったり来たりを繰り返す。それが中国人だという。
◆森田さんによると、『二極』は彼らの言葉の中にも現れている。たとえば進退は、日本人にとっては「進むか退くか」の相反する2つの意味を持っている。が、中国語では「退く」のニュアンスを含んだ「進む」だという。「売買」も売り買いではなく、「交渉する」という意味になる。「売ることもあれば買うこともあり、そのバランスを取ることで交渉が成り立つ」からだ。
◆アヘン戦争に始まり、日清戦争、日中戦争へと続く流れは、中国にとっては屈辱の歴史である。これを乗り越えるのが現代化の一番大きな目標となり、北京オリンピックや上海万博を開き、GDPでも日本を追い抜いて世界2位になった。しかし、実態は、GDPも1人当たりに換算すると日本の8分の1、「しあわせ級数」では僅か6%で世界で最下位だという。
◆そのジレンマが国民を反日に向かわせた。「日本は敗戦国だ。肩を並べられて堪るか」と、2005年には日本の国連常任理事国入りを阻止した。「このとき反日運動を仕掛けたのが『黒道』です。一人っ子政策により戸籍を持てない子供たちの結社組織で、以前お話した毒入り餃子事件の真犯人もそうです。彼らが、ショートメールメッセージを使って、さまざまな攻撃を仕掛けました。ここで、反日とネットが結びつきました」
◆5億人とも言われる中国のネット人口の大半が、80年以降に生まれた『80后』(パーリンフォー)と呼ばれる人たち。天安門事件後の愛国教育、つまりは反日思想で育ったが、ネットは中国政府にとっても諸刃の剣だ。都合の悪い情報はフィルタリングでカットし、外国人がホテルのネットルームを使用する際も、ネットポリスが内容を監視する。
◆「それを掻い潜って出されたのが、『零八(リンバー)憲章』でした。中国の事実上の人権宣言で、『ネット天安門事件』とも言われています。天安門事件以来のぼくの友人でもある劉暁波が草案し、これにより彼はノーベル平和賞を受賞しましたが、いまも身柄を拘束されたままです」 その憲章には、森田さんもすぐに署名したそうだ。
◆「中国では、ネットを見ることを『囲観』(ウェイカン)といいます。これは『囲碁を見る』の意味で、俯瞰するということです。ぼくは鳥瞰だと思います。なぜなら、彼らはネット上で標的となる獲物を探すんです」去年の中国版新幹線の事故でも、当局はさっさと幕引きに掛かった。が、ネットに出て民衆が立ち上がり、調査に乗り出さざるを得なかった。何かを決める、判断するに当たって、いまはネット世論の力が大きくなっているという。
◆新聞報道などとは違い、途中で様々な意見が書き込まれるネットは、真意と違うものが伝わる恐れがある。こういう時代、政府の要人や文化人も、反日を煽る言動は避けるべきだろう、と森田さんは戒める。
◆「中国はいま、先進国になれないまま高齢化が進み、国が衰退してゆく『中進国のワナ』に陥っている」と森田さんはいう。先進国になれるか否か。それは、先日の党大会で決まった新体制の今後の10年にかかっている。その大会で、「中国人の個人所得を倍に」と胡錦涛は訴えたが、それは政治改革抜きにしては有り得ない。森田さんは、あのメッセージで次の習近平に政治改革を託したんだ、という。
◆密航問題を追っていた頃、森田さんは東京やニューヨークで集めた情報を持参し、根拠地である福建省で、当時の副省長だった習近平に会っている。その印象は「赤より赤」、つまり共産党よりもガチガチの共産主義者だった。若い頃に文革で下放された彼は、徹底的に共産主義を学び、それが現在の政治手腕に生かされているのだそうだ。
◆習近平が、どのように政治改革をやるのか。森田さんによると、それはたった1つ。既得権者にメスを入れること。それだけだ。これに手を着けない限り、所得倍増は有り得ない。富裕層は中国全体の1%いるかどうか。その殆どは既得権者、つまり共産党幹部と家族、その周囲に群がる人々だという。
◆今回の党大会の直前に、「温家宝の一族が海外に27億ドル蓄財している」とニューヨークタイムスがリークした。「真偽はともかく、今の幹部たちが海外に多額の金を不正送金して貯め込んでいることは、みんなが知っています。その不正蓄財を吐き出させ、きちんと税金を払わせて、平等に分配することで一般の人たちの所得倍増への道が切り開かれます。それ以外に方法はありません。自らも二世議員の『太子党』である習近平さんが、自分の身や骨を切ることができるか。それは彼の手腕にかかっていると思います」
◆この格差是正を行うには、相互に繋がっている『三黒問題』を解決しなければならない、と森田さんは断言する。「その3つとは、利権に繋がる経済マフィアにして地域のボスの『黒社会』、戸籍のない子供たちが作っている結社の『黒道』、そしてハッカーの『黒客』です。軍の中にも強力なサイバー部隊を持ち、アメリカの国家機密や軍事機密を盗み取り、日本の企業に対してもスパイ活動を行っていますが、これを何とかしないと、国際世論に叩かれ、先進国にもなれません」
◆そして森田さんが早く手をつけて貰いたい、と願っているのが、黒道だ。これがために、中国では子供の誘拐が後を絶たず、売買され、強制労働させられ、臓器売買や偽装結婚の犠牲になっているという。また、毒入り事件に見られるように、これらの殆どが日本にも関係しているからだ。
◆『未来のルーツ』を、歴史観を探す自分自身のキーワードにしているという森田さん。日頃は何に使ったか判らなくとも、たまに通帳記入するとドキュメントが残るキャッシュカードになぞらえて、「その程度でよいから、時々は歴史認識と領土問題を考えた方がよい」と語る。
◆そして、「これからの未来を拓くために、どういうところに原点を辿ればよいのか。旅をしたり取材をする度に、ぼくはいつもそこに立ち返ります。いまは森の中を彷徨いながら出口を求めている、とそんな感じだと思うんですが。その出口が見えれば、ぼくの生きざまかなぁ。そんな感想を持っています」と、最後を自身のルーツの一つ、父の教えの言葉に絡めて話を終えた。
◆倫理探索のドイツの森逍遥、そして中国事情圧縮版。「一言も聞き漏らすまい」と森田トークに集中した後の休憩時間、配られた原典子さん(ウルトラランナー原健次さんの奥様)手作りのケーキが有り難かった。多分、この2時間弱で脳が糖分を使い切ったのだろう。小腹を満たしての後半は、森田報告会恒例、ケーナの演奏で再開した。のどかで心地よい音色に全身を包まれて、先程までの緊張感が融けて行く。アンコール的1曲も含めて、計3曲を楽しんだ。が、実は森田さん、趣味の武道大会で誤って鼻を打たれ、昨日、緊急手術を受けたばかりの大変な状態だったのだ。
◆質疑応答の部の一番手は江本さん。その「地平線話法に関してもう少し具体的に補足できる?」を受けて、「たとえ現場で感じたことでも、活字にしようとすると必ず罠に嵌る」と森田さん。驚いたことに、今朝になって満足に声が出ず、話す予定の中身を慌ててパソコンで打ち、誰かに代読してもらうことまで考えた。
◆しかし、やってみると話し言葉の活字化は難しく、全然違う原稿になってしまう。「意識して話す、書くのではなく、素のままで喋ると本当にいい言葉が出てくる。ぼくがメモも用意せずに話すのは、次に出てくる言葉を自分で期待しているからです」のコメントに、会場からも「う〜ん」という感嘆が……。
◆3人の子供の父親でもある渡辺久樹さんは、『父からの3つの教え』に関連して、「子供に人生の指針になるようなアドバイスは、なかなか出来るものではないが……」と問い掛けた。森田さんも、娘を送り出す時、気の利いた言葉を掛けられなかったそうで、「言葉は、その時は大したことなくても、後から重みが出てくるんです」と返した。
◆「そうだね〜」の空気が会場に広がる刹那、「親、特に母親は凄く言ってるじゃない。聴く耳を持ってるかどうかだよ」と、宮本千晴さんが鋭い一言。皆さん身に覚えがあるとみえ、ドッと湧く。千晴さんからは、「日本中が東大話法でしか考えられなくなっている。その不完全なパーツの立場でのみ発想している。現場からの初歩的ながらトータルな発想の仕方とのギャップが大きく、どうすれば皆がシステムとして考えることが出来るのか、それが一番気になっている」と憂う声も出た。
◆森田さんも、「まずワクを造り、それから中を埋めてゆく。現場で設計図を作るより、まず外形があって先に規律的なモノを作る。言葉だけではなく、いまの社会は発想自体もそうなってきている」と応じ、ドイツでは、統一したことで様々な問題が表に出た。そのために一度ワクが壊れ、それが脱原発にも影響している。もし旧西ドイツのままだったら、ワクの中で「将来的にも原子力産業は残しておいた方が良い」と考えたかも知れない、との興味深いエピソードを紹介した。
◆各人各様の質問が続き、最後に「話そうかどうか、迷っていたんですが……」と静かに切り出したのは中嶋敦子さん。一昨年亡くなった父君は原子力の研究の草分けで、彼女も東海村で育ったという。その父は、原発は『無理だ』とのスタンスだった。非常に早い時期から論文などで訴えたが、その結果、周囲から叩かれて壮絶な扱いを受けた。
◆「2004年の中越地震の時、父は、柏崎の原発が今の福島第一のような事故を起す寸前ではないかと心配して、オロオロして知り合いの研究者に電話を掛けました。私にも『ニュースで何か言ってないか? 何か兆しはないか?』と聞き、『何も言ってないわよ』と答えた時の、『冗談じゃないよ!』と言った声が忘れられません」「亡くなる3週間くらい前に、六ヶ所村が火事でゴウゴウ燃えている夢を見て、『ああ、怖かった』と言いました。その時は、あと何週間しか持たないと分っていたので、もっと楽しい夢を見て欲しいと思って声を掛けた覚えがあります。それが2010年の3月の中旬でした。1年後に、それが本当になってしまいました。父の夢は六ヶ所村でしたが、それはプルサーマルをもの凄く心配してのことなんです」
◆そして、まだフクイチ倒壊の不安が残っているにも拘らず、ノド元過ぎて忘れてしまったような世間の風潮に、「『凄く難しい原子力村』ではあるけれど、森田さんの独自の切り口でお書き下されば意味があると思います」と訴えた。3時間近い報告会は、敦子さんの口を借り、まるで天上の父君が語りかけているような言葉で締め括られた。[(新婚直後から別居状態の)ナゾの記録係:ミスターX]
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