2012年10月の地平線報告会レポート


●地平線通信403より
先月の報告会から

ひもじい北極圏

街道憲久

2012年10月26日  新宿区スポーツセンター

■「アナログでロートルの街道です」という自己紹介で登場したのは、この夏9年ぶり9度目の「カナダ北極圏」行きを終えた街道憲久さん。多数の写真を入れて会場に持って来たはずのUSBメモリを開いてみたらカラだったというハプニングのおかげで、しみじみとした静かな語りのみで報告会は進んだ。

◆カナダ北極圏とは、北米大陸の北端とさらに北方に浮かぶ北極諸島。その中でも、ビクトリア島にあるイヌイットの町・ケンブリッジベイに、街道さんは40数年にもわたって通い続けてきた。北緯69度7分、カナダ北極圏の中央に位置する人口1600人ほどの町だ。

◆街道さんがケンブリッジベイをはじめて訪れたのは1970年。東海大学の探検学会に所属していた当時、他大学の探検部や山岳部は、登山が解禁されたばかりのネパール・ヒマラヤにこぞって遠征隊を送り出していた。しかし、先輩たちがすでに遠征を終えたところに今更行ってもしかたがないと考え、行き先をカナダ北極圏に定め、調査隊を組織した。宮本千晴さんのアドバイスもあって、「行けば成功」という一回限りの探検から一歩進み、学術にも対抗しうる行動の積み重ねを重要視した5年の長期計画だった。

◆その最初の北極圏行きについて、街道さんは「寒くてひもじくテントの中で震えていて、何もなすことができなかった」と振り返る。当時は1ドル360円の時代。外貨持ち出し総額には一人500ドルの制限があり、物価の高いカナダ北極圏で1日1ドルという貧しい生活を強いられた。計画自体にもすぐに綻びが見え始め、まずはイヌイットの世界を学ぶことから始めなければならないというリーダーの宮本さんの命で隊はバラバラにされた。

◆街道さんが向かったのは、地下資源開発の拠点としてマッケンジーデルタに新しく建設された町、イヌビックだった。大学で土木工学を専攻しているということもあり、オイルの試掘現場を訪ねたりしつつ、冬を越した。街道さんはここで大規模で乱暴な開発を目の当たりにし、「大自然と交わる手段として選んだ土木工学への興味が徐々に薄れ、ケンブリッジの、だらけきったとしか思えなかったイヌイットにどうしようもなく惹かれ始めた」と著書に記している。一人で放り出された他の仲間たちもまた、それぞれにイヌイットとの交流を深めていったという。

◆宮本さんは、調査隊の旅とイヌイットの社会について「マッチングがよかった」と解説する。隊が訪れたのは、50、60年代に連邦政府により進められたイヌイットの定住化が完了した直後だ。広い大地を生活の場にしてきたイヌイットが一気に町に集まり、町は混乱の中にあった。「イヌイットも右往左往して、いろんな遠縁からきて住み着いて居候していた。居候して金を払っては失礼と思わせる社会と習慣があった」(宮本さん)。

◆さらに、「優秀かどうかという評価をすぐに超えて、人間性というレベルでの評価になる」というイヌイットの人付き合いが、貧しい若者を寒空に放ってはおかないだろうという見通しを与えた。宮本さんは、「みんなひもじくて辛かった。そのおかげで、チームで動くのでは得られない理解の仕方や人間関係がたくさんできた」と語る。

◆ところが、翌年の71年、一次隊から引き継いだ二次隊のメンバー3人が北極海で遭難してしまう。二次隊は、予備調査的だった一次隊から発展させて、カヌーと徒歩による夏のビクトリア島縦断を計画。7月にケンブリッジベイを出発したが、通信手段もなく連絡が取れないまま、2か月後の9月に壊れたカヌーや遺留品だけが出発地点のすぐ近くの海岸で発見された。地元の警察らの協力もむなしく、仲間の消息はつかめないまま、73年に計画の責任者となってくれた大学の教授や家族が慰霊碑を建立し、調査隊は終焉した。

◆仲間の遺骨発見の知らせを受けて北極圏を再訪したのは、その翌年の74年夏のことだ。それまで、極北の大地に心躍らせる気持ちと仲間の遭難に対する無力感の狭間で複雑な思いに揺れていた街道さんは、このとき「とにかく一度は行かなければ」という思いにかられたという。春につき合っていた女性と結婚し、就職したばかりだった。

◆はじめて訪れた夏の北極圏は、その印象をガラリと変えた。雪と氷に閉ざされる厳冬期の暗闇とはうって変わって、一日中沈まぬ太陽が空に輝いていた。「太陽が出ているだけで、その土地にいる喜びをすごく与えてくれるものだなと思った」と街道さんは話す。知り合いや捜索を手伝ってくれたイヌイットと付き合い、狩りに連れて行ってもらったり、キャンプをしたり……。町での生活に戸惑い、酒ばかり飲んでいるように見えたイヌイットが、町から離れた野では堂々と振る舞い、生き生きとした動きを見せることに驚いた。

◆一方で仲間の遭難事故のことは常に頭を離れず、あるとき仲間の遺骨を探して、一人用の小さなテントを担いで町から湾岸沿いをただひたすら歩いたことがあった。ようやく湾の突端に届いた4日目、イヌイットのボートに迎えられた。自分が歩いていた湾を出て250キロも先の島で仲間の遺骨が発見されたという知らせのためだ。イヌイットの「おっさん」が差し出すビールを受け取ると、泣けてしまった。自分が歩いたこの4日間の距離はなんとちっぽけなものだったのか。「こんなに広いところなんだと諦めの境地に達した。こんなところでこんな風に生きているイヌイットはすごい人たちだなと感じた」。町で見せる酔っぱらいの姿と野で生きる力強い様子、その両方がない交ぜとなってどうしようもなく惹かれていったのだという。

◆とはいえ、日本に帰れば勤め始めたばかりの編集の仕事が待っていた。妻との間にはじきに子供も生まれた。「あのおじさんはどうしているのか?」「あのときのあれはどうなったのか?」と北極圏に思いを馳せては、その思いに任せて旅立つこともできずに悶々とする日々が続いた。ならば、と妻と幼い2人の子供を含めた一家で3回目の北極圏行きを決行する。折しも、同じ北極圏では、植村直己さんが犬ぞりで単独の北極点到達を目指していた78年のことだった。

◆街道さんの関心は、そうした冒険や探検から離れたところにすでに向いていた。「私はイヌイットの人たちと『北極点に行ったって食い物はないし、何をしに行っているんだろうね』と話しながら一緒に肉など食っていた」。一家は、ビクトリア島から対岸のペリーアイランドに渡っていた、あのビールの「おっさん」一家を訪ね、初夏から3カ月間、一帯でキャンプして狩りをする生活を送った。地平線びっしり移動するカリブーの群れ、川にはあふれんばかりの魚……。豊かな自然をフィールドに狩猟の技術や毛皮の処理の仕方、料理など多くの知恵を授けられる充実の3か月だった。

◆そうして、ある時は会社に勤めながら1か月程度の休暇を取って、ある時は会社を辞めて、北極圏との付き合いはゆるやかに続いた。そのうち、一度は辞めて戻った会社の経営を任される立場になり、自分の中で北極圏行きを「封印」した。

◆それから9年。街道さんは今夏、封印を解いた。そこに至るにはいくつもの理由があった。一昨年の定期検診で食道にガンが見つかり、手術をしたこと。病院から自宅に戻って静養している最中の昨年3月、東日本大震災が起き、日本の社会やイヌイットの人たち、自分自身のあり方まで考えたこと。そして、何よりも5年ほど前から北極からの便りが訃報ばかりになり、自分が封印しているうちに知っている人がどんどんいなくなっていくのではないかという焦り……。昨年秋の再検査で新たなガンが見つかると、「また行くしかない」と決意して会社を辞め、日本を発った。

◆迎える北極圏は7月の白夜。「おっさん」の家は9年前と全く同じ家に、同じ家具、同じ佇まいであった。ただ、奥さんが4年前に亡くなり、一緒に狩りをしたいと期待をかけていた一人の息子は酔って暴れて警察に捕まっていた。長男とおっさんだけが残されたなんとなく暗い家の中。そして、なかなか狩りに出ないおっさんとの「行く」「行かない」のじりじりしたやりとり。なかなか狩りに出ない理由は、ボートに使うガソリンを買う金がないからだと、後に分かった。

◆街道さんは、今回の旅では街中で狩りの獲物の肉を見かけることがほとんどなく、狩りの仕方が変わってしまったと感じたという。かつては狩りに出たら捕れるまで帰って来なかったり、移動しながら狩りをしたりするという名残があったが、今の狩りは町からいける近場がほとんどで、しかも1泊や日帰りの狩りが増えているというのだ。

◆その理由は、狩りをしなくても食べて行けるようになったことにあるという。大きくなった町には毎日定期便が飛び、野菜も焼きたてのパンも手に入る。政府からの社会保障や老齢年金も手厚く、おっさんを例にあげれば、月に2000ドルくらいは何もしなくてももらえる。おっさんの家にも町にも肉がなく、出される食事は町のストアで売っているチキンソテーやサンドイッチ、ハムエッグなどだ。狩りで獲た肉ならば喜んで手をつけるが、あの店でお金を出して買ってきたものなのかと思うと、居候はなかなか手を出しにくい。

◆カナダ北極圏では、先住民権運動の結果、90年代に先住民による自治州としてヌナブト准州ができ、今では「健康」「教育」「福祉」を三本柱に年間約1000億ドルもの予算がつぎ込まれる。イヌイットの起業に対する支援も惜しまず、そうした援助をうまく利用できる人とできない人との間に格差が生まれている。狩りは奨励されているため、学校教育の中でその仕方が教えられたり、各種の協会や団体で若者がお年寄りから学ぶ機会も盛んに設けられたりする、町の人も若者も狩りが嫌いではない。しかし、その中身というのは日帰り的な狩猟。別に頑張って狩りをしなくても充分に生きていけるのだ。

◆だけど、イヌイットの人たちの根源にあるのは生きるため、食うために獲物を捕ることにあるのではないか、と街道さんは思う。そのために知恵を働かせて労を厭わず働く。「食うために獲物を捕るという情熱は彼らの文化、生活を作って来ていた。それがずいぶん薄れて来ているなと思った」。

◆酔えば「自分は狩人だ」と繰り返し宣言するというおっさん。自分は一人でも荒野で生きていけるのだという誇りを持った狩人の叫びは、町の中でくすぶっていてはむなしく響くだろう。かつては荒野での狩猟生活こそが本来の姿で、町の暮らしは仮の生活だったのかもしれないが、その仮の暮らしが今、イヌイットから誇りや知恵を奪って内側から破壊しつつあるのではないか。街道さんの話はそんなことを考えさせる。

◆「今回の旅で一番強く思ったのは、居候がしにくくなったなということ。その原因は貨幣経済があの小さな町の基本になっていること」と街道さん。体力があって狩りの役に立てていた30、40年前とは違い、自分も年を取ってボートに乗り移るのにも人の手を借りなければいけない状態になっている。かといって、今まで貫いて来た「居候」をやめて金を使うのもまだ違う気がする。北極圏との付き合いは今後も続くだろうが、これからどうつき合って行くんだろうかと本当に思い悩んでいるのだという。(菊地由美子


━━街道の話を聞いて思う━━

あのときから42年、街道は太古からの偉大な人間像、ひとつの美しい文化の崩壊に立ち会っていたことになる

宮本千晴

 久しぶりに街道の話を聞いた。この夏9年ぶりにカナダ北極圏を訪ねてきたのだという。ただただ岩屑とさまざまな色の地衣類と苔のような草や苔のような灌木、そして大小の水が広がる極北の土地だ。1970年の9月はじめてその土地を踏んで以来、彼にとっては今回が9度目の旅だという。

 いや旅というより、街道にとってはたぶん帰郷というのが相応しいのだろう。あの土地と人々。つきつめると街道は友人たちに会いに行っているだけだ。友人たちの間に、友人たちの世界と友人たちの生活の中に身を置き、友人たちの凄さや偉大さ、友人たちの美意識や優しさ、慎ましさ、喜びと苦悩と崩壊を共感するために、そしてかろうじて残る誇りとわずかな希望を確認するために通っていたのだ。

 話を聞きながらあらためてそう思う。こいつはあれからずっと変わっていない。あのときの強烈な発見と憧れをずっと己が人生の課題として抱え続けている。そう、街道はおれと違って誠実な男だ。

 しかし今回の帰郷は「寂しさが残る悲しい貧しい旅だった」と。なぜなら「もう居候ができない世界になった」からだ。あのとき若かったわれわれに極地とはどんな

世界かを強烈に教えてくれた英雄たちが、もう抱き合って涙を流すことしかできなくなってしまったと覚ったからだ。あのときから42年、街道は太古からの偉大な人間像、ひとつの美しい文化の崩壊に立ち会っていたことになる。

 43年前、最初おれが提案したのは東海大学極地研究会の学生を主体としながらも外部の探検若手OBたちの力を借りて何とか5年つづけ、その間に取り組むべき課題を見つけ、その達成に必要な技術を身につけようという話だった。だがこいつらは40年以上続けてしまった。

 1970年の夏、東海大学カナダ北極圏調査計画70-75の1次隊のうち磯野哲志・春日俊昭・西富士雄ら学生3人はなんとかケンブリッジベイにたどりつき町外れのチャーやトラウトが遡る川のほとりにキャンプを張って魚を獲っていた。やはり学生だった街道憲久と雇われリーダーのわたしが追いついたのはすでに初秋。すぐに湖岸に氷花が咲き、雪が舞い始める。見通しの得られない凸凹の周氷河地形の凍土原に無数の湖が散らばっているからまっすぐ進むことなどできない。第一磁北が近いから磁石がくるくる回って安定してくれないのだ。雪は降るがいつまでたっても積もってくれない。なすすべもなく閉じ込められた。自分たちがいかに無知であり、この地で無能であるかを思い知った。

 その閉塞状態を開いてくれたのは二つ。ひとつはブッシュパイロットのウイリーだった。彼はぼくらを一人ずつツインオッターの副操縦士席に乗せてカナダ北極圏のDEWライン沿いの集落に連れていってくれた。

 もうひとつはイヌイットの狩人たちと縁ができてきたことだ。しぶきがアノラックに凍りつく海を航海し、やがてはスノーモビルの引く橇に乗せてもらって狩りに同行させてもらえるようになる。

 そのころには学生たちはそれぞれの人柄によってつぎつぎとイヌイットや白人の知人を増やし、家々を訪ねられるようになっていた。

 なすべきことが見えはじめた。まずはイヌイットの狩人たちを師としてゼロから学ぶことだ。冬の極北はどんな土地であるのか。その中をどうやって旅し、どうやって生き抜いていくのか。

 しかしチャンスは限られる。ケンブリッジベイだけに固まっていては皆に機会は回ってこない。一人一人を別々の町や集落にできるだけ頼りない形で滞在させることで各自は最大限に学べるのではないか。わたしはウイリーその他の知人たちと相談しながら学生たちの希望を聞き、春日を東のペリヒベイに、西をマッケンジー河河口に近いタクトヤクタクに、街道をそこから比較的近く、石油探査活動の基地になっているイヌービックに、磯野にはまずベイチャイモ(ウミウマクトク)とハサーストインレット、後にケンブリッジベイ、自分はまずケンブリッジベイ、後に磯野と交代してベイチャイモ、という風に、それぞれ単独で冬を過ごすことにした。

 金は一人1日2ドル程度しかなく、北の物価は極めて高い。この上なく心細かったことだろう。春日はテント生活からはじめ、イグルーを作ってもらい、やがてすっかり村の若者層に溶け込む。西はトイレのくみ取り屋の助手になって居候。街道は図書館通いののち石油試掘リグをはしごした。

 ベイチャイモからケンブリッジベイへの帰途、磯野は自分の努力で九死に一生を得たような生還の経験をする。犬橇はクリスマスイブに間に合うように急いでいた。気温が低すぎてすべりの悪い橇を押しながら走っていた磯野は海氷の割れ目に足を取られて捻挫、橇は気づかずに去った。磯野は朝出たテント場まで這って戻る。雪の防風垣とシートと砂糖を残してきたのを覚えていたからだ。それから3日寝袋もなく火も水も食べ物もなく耐えた。夜だけがつづく零下40〜50度の季節だった。

 磯野ほどではなかったが、それぞれがたった一人で金もろくな装備もなく相対したのは逃げ場のない極北の冬だ。極地への深い入門となった。そしてそれを受け入れてくれたのは、一面では超人のようにタフにして静かな伝統を残しながら、他面では酔っぱらうしかないイヌイットたちであった。当初の目標のゆえに極地での石油開発見学を選んだ街道は、自分の本当の関心はやはりこの狩人たちなのだと気づく。

 しかし街道が北に通いつづけることになったのにはもうひとつ理由がある。71年の夏磯野がその地で消息を絶ったのだ。磯野は遭難の経験もあって、冬の極地と狩人たちからもっとも多くを学んでいた。その経験を2次隊に伝えてもらわねばならい。無理に願って2次隊に残ってもらった。実際、2次隊を待つ間、磯野は自分と自分の犬と、仲良くなったイヌイットの犬や家族が食べるだけの魚を取れるようになっていた。

 遭難したのは同学年で航空宇宙学科にいた磯野だけではない。二つ先輩で数学科にいた中庭和夫、そして東レを休職して行動隊長を引き受けてくれていた京大山岳部OBの宮木靖雅も一緒であった。 宮木はすぐれた登山家であっただけでなく、多才な仕事師であり、大変すぐれた組織者であり、リーダーでもあった。みずから休職までして隊長を引き受けたのは、自分が提案しているアクト・タンクという構想を実際に試してみたかったからともいえる。宮木だけでなく、1次隊のわたしは都立大山岳部のOBだし、3次隊の隊長に予定されていた伊藤尤士も都立大出身の社会人山岳会所属の登山家だった。いずれもそれに先立って向後元彦が発案した南極最高峰ビンソンマッシフの初登計画に集まった人たちである。

 71年の春からスタートした2次隊の隊員たちは、なすすべもなく冬に耐えていた1次隊と違って、ボートを自作し、1日離れたところにオーロラ観測用の基地を建設し、スノーモビルと橇の旅に習熟し、アザラシ狩りがうまくなり……と、みごとな訓練と活動を見せていた。そして7月22日、一番の目標であった地磁気を観測しながらの内陸横断を実行するためにカヌーで氷の開きはじめた海に漕ぎだした。9月、そこからあまり遠くない海岸に壊れたカヌーが打ち上げられているのが見つかる。

 それから冬にかけて東海大学の加藤愛郎教授と地元の友人たちが懸命に捜索をしてくれた。翌年の春2次隊隊員でもあった吉谷瑞男や3次隊に参加する予定だった五十嵐正晃が2カ月かけて遭難地点とおぼしき海域を捜索し、わたしと伊藤も別チームとしてイヌイットの友人たちと脱出の可能性があった地域の捜索をした。春の極地は別の世界だった。

 加藤教授はその後マギール大学と共同でオーロラの調査を何年かおやりになる。吉谷は一人で自分の魚探技術を活かして運輸局の調査船に乗り組み、一帯の海底地形調査を手伝い、さらには世話になったイヌイット社会へのお礼としてCO−OPに入って湖漁を手伝う。

 それから街道が通いはじめる。3次隊に加わる予定だった川井章も行った。そうやって40年が経ったのだ。

 東海大の極地研究会に集まった学生たちはごく普通の若者たちだったと思う。しかしわたしや宮木や伊藤を夢中にさせたことを含め、いま話したようなことをやってのけたのはつまるところ彼らなのだ。そこには見栄えのいい主題も世間を感心させるような成果もない。しかしたとえば街道はその初心に忠実に、街道にしか見えないものを見据えているんだ。まさにそれでいい、そう思った。


報告者のひとこと

居候がしにくくなった理由について、もうひとこと

■なぜ、居候がしにくくなったのか。報告会では、言葉足らずもあり、今夏の北極行をあまり語れぬまま終わってしまったので、少し補足しながら、その思いを書いてみたい。

◆今回も目的などない北極行だったが、仲間の慰霊碑と北の友人たちが眠る墓所は真っ先に訪ねたいと思っていた。町から歩いて1時間弱のところにある墓所を訪ねて、その後は一日がかりでマウントペリーまで行くつもりだった。そのことをメル友の彼女に話したら、「一人で歩いて行ってはダメ。熊が出没していて危険よ」ときつい調子で言われた。

◆熊? 白熊がこのあたりにいるはずがないのに。前日には逆方向の町から40キロほど西の海岸にある慰霊碑を彼女の知人が運転する車で訪ねていた。慰霊碑は40年前に瓦礫を積み上げた2メートルほどのケルンで、いまも補修され続けながら建っていて、町の観光パンフレットにも「ジャパニーズモニュメント」として記載されている。

◆私の行動スタイルは、狩りでもキャンプでもいつもイヌイットらに連れて行ってもらう、同行させてもらうことの積み重ねだ。単独行で何かを為したいと思ったことはない。それでもよく知った場所へは一人散歩するくらいは何ら不安を感じたことはなかった。でも彼女は危険だと言う。熊とはグリズリーのことで、最近よく目撃されているらしい。そう言えば昨年は湾内に一角クジラが現れたとの話も聞いた。

◆カナダ北極圏の中央部に位置するケンブリッジベイでグリズリーも一角クジラも生息しているという話はそれまで聞いたことがなかった。北米大陸と北極諸島を隔てる海峡の氷が早く溶けているとの話も聞いた。地球温暖化のせいと括っててしまうことは出来ないが、動物たちの行動範囲が少し変わって来たのだろう。しかしだからと言ってヒステリックに何かを叫ぼうとは思わない。来年はまた違っているかもしれないのだから。

◆マウントペリーは標高200メートルもない丘と言った方が相応しい山だが、海抜10メートルほどの一帯ではひときわ目立つ山だ。その頂上からツンドラの大地を眺めるのが好きだったので、彼女の忠告を無視して一人一日歩いて来た。慰霊碑の建つ海岸付近までも、またマウントペリーの麓までもシャベルカーでツンドラをただ削ったような道路が延びている。そして海岸や川沿いに多くのキャビンがあちらこちらに建っていて、時折道路を車や四輪バイクが走っている。

◆以前はマスコックスというジャコウウシに出会うことが多かったのだが、今回は散歩中一度も動物を見かけなかった。キャビンは町の喧騒を離れて週末を過ごすためのものだ。夏には魚を獲ることは多いが、冬はほとんど使われず、狩りの拠点ではない。イヌイットの行動範囲も変わって来た。車で30分か1時間ほどのキャビンの往来と同じように、夏のボート、冬のスノーモービルでの狩りやキャンプは日帰りか一泊程度だ。獲物を求めどこまでも追い続けるというような狩りをする人はいなくなった。

◆ピクニックやハイキングのような狩りではなかなか獲物は得られない。もともと獲物を獲れるかどうかは当てにならないものだ。しかし、イヌイットは経験と知恵を重ね狩りで獲物が獲れる確率を高めて来た。しかしいまは必死にならなくてもいい生活が町にある。今回は本当に大地の恵みである獲物が町に少なかった。だから居候として町にいる私はいままでにないひもじさを味わった。

◆イヌイットは昔から助け合いを重んじて来た。川の向こうに魚がない家族がいたら、こちら側から魚を投げてやる。それだけ狩猟は厳しく簡単に獲物が獲れるものではなかった。いつ自分たちが飢餓となるか。そういう環境の中で、彼らは知恵を絞り労苦を惜しまず獲物を追った。しかし狩猟はそれだけで成果を当てに出来るものではない。だから他人への施しという素地を持っていた。

◆加えて、イヌイットは対等を重んじる。しかし、カネは獲物と違い数として計算され「借金」として残る。分かち合ったり共有したりがし難いものだ。「居候三杯目にはそっと出し」と言われるように、居候は謙虚に控えめに振る舞い遠慮しながら寄食しなければならないと私は思っている。さらに言うなら、イヌイットもツンドラの恵みである獲物を受け、極北の大地に寄食している。イヌイットとともに狩りをし大地を動き回っていると、獲物の肉を食うことに抵抗を感じることがないのは、わたしもまた同じく極北の大地に寄食していると思えるからだ。

◆私は確かに誰かの家の居候だが、その誰かの家もまた極北の大地の居候という屁理屈だ。しかし、政府からの生活保護のカネで、たとえそのカネが働いた報酬であったとしても、ストアーで買った食料を食うことは居候として抵抗がある。わたしはそのシステムの中に入れない余所者なわけで、政府の保護に寄食する居候にはなりたくないからだ。

◆政府は公共事業などで多くの雇用を創出しようと努力している。短期の雇用で多くの人が働けるワークシェアリングも進んでいる。大工仕事で時給21ドル、残業時給35ドルなど、3か月働けばボートやスノーモービルを買うことは可能だ。そしてまた3か月間は狩りに従事する。新しい生活スタイルのスタートとしては悪くはないと思えるのだが、それにうまく乗れない人たちのほうが多い。狩りに出かけずに街中で、消費と快楽とカネもうけを助長するテレビ番組を見続けて、生活保護費が入ると酒を飲みマリファナを吸いという生活で、今夏も若者二人が自殺した。

◆アムンゼンが北西航路に成功し交易所が出来始めた100年前、イヌイットは大地を駆け回っていた。イヌイットが悠久の大地にゆっくりと穏やかに居候する限り、極北にヌナブト(われわれの大地)は存在し続けるだろうと思う。私の新しい居候の形も見えてくるかもしれない。(街道憲久


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