2012年8月の地平線報告会レポート


●地平線通信401より
先月の報告会から

映像と語りで考える地平線会議

   400回のきのう・今日・明日

━━歩き続ける者の系譜━━

2012年8月17日14時〜21時 新宿区スポーツセンター

── 1 ──
アマゾン・トウチャン一家との40年
関野吉晴(映像)
トーク・野地耕治+江本嘉伸

■金曜の午後2時前。少人数でこじんまり始まるのかと思いきや、既に30人程が集まっている。会場は通常あるテーブルが後ろにまとめられ、前は椅子だけが並んだ状態。早く来てその作業を行なってくれた人の中には、ベビーカーで娘さんを連れた三羽宏子さん(関野吉晴さんと少女の交流を追った映画「プージェー」の日本語訳を担当)の姿もあった。他にもお子さん連れの黒澤聡子さん(ブラジルで日本語教師。旧姓後田)や山田美緒さん(まんてん号でアフリカひとり自転車旅。旧姓山崎)など、久しぶりの顔がちらほら。これぞ400回! そして地平線会議33回目の誕生日だけあって、いつもとは違う、華やかな雰囲気だ。

◆しかも参加者には丸山純さんの作った、全400回の報告会と通信(報告会予告)を網羅した小冊子「立待月宴覧(たちまちづきえんらん)」が配られるという、豪華すぎる特典も! 来なきゃ損ソンッ! なーんてテンションの上がる中、全体進行の丸山さんが挨拶をされ、報告会が始まった。会場は60名、70名と増え続け、いつの間にぎっしり状態に。

◆第一部は、関野吉晴さん。先月の地平線通信に「400号到達記念特別寄稿」として掲載された関野さんの「40年目の再訪」。私は4ページをぐいぐい読まされてしまった。ペルーのアマゾンに住む、マチゲンガ族のトウチャン一家。関野さんは9年ぶりの再訪に、現地へと向かっている。よって第一部はご本人不在の中、江本嘉伸さんと野地耕治さんのトークで始まった。野地さんは、「グレートジャーニー応援団」の事務局長を長く務められてきた。「もとは上智大学探検部のOBで、アグレッシブな活動をしていた」と江本さんから紹介されると、「全然アグレッシブじゃなかった」と謙遜する。

◆学年で3期(年齢は2歳)上の野地さんが、最初に関野さんと出逢ったのは上智大学の探検部の部室だった。一橋大学に入学した関野さんが見学に訪れたのだ。当時上智の探検部員は少なく、部室にいたのは2人だけ。結局、関野さんは早稲田の探検部に出入りするようになり、また岡村隆さんもいらした法政の探検部とは一度マチゲンガへ一緒に訪れたそうだ。縦横無尽な学生の交流を聴き、眩しく思う(かつ、己の学生時代と比べて、とほほと思います……)。

◆関野さんの処女作は『ぐうたら原始行』(1974年)。編集に興味のあった野地さんが発行元の山と溪谷社の編集部に顔を出していたため、親交が深まった。(その後、マチゲンガの写真集を出したいという関野さんに、野地さんが絵コンテを切ったりもしたそうだ)。さて、今回メインの秘蔵映像は、関野さんがマチゲンガに通い始めて10年目、82年に取材されたもの。当時、高視聴率で予算が潤沢だったドキュメンタリー番組のあった日本テレビを訪ね、関野さんが話を取り付けた。江本さん曰く「結婚をしたのもこの頃。確か新婚旅行を兼ねてマチャピチュ遺跡を訪ねてからマチゲンガの森に入った」。

◆数千万円という大きなお金が動いたため、受領先に野地さんの会社を使うことになった。カメラマンは「自分の好きな時に撮影ができるように」と野沢温泉で小さな食堂を開いていた義江道夫さん。関野さんに惚れ込み、儲けは度外視、予算は全て撮影につぎ込んだ。番組の枠が潰れたため、作品として残ったのは今回の1本のみだという。丸山さんが「今では撮れないような、文化人類学的な資料性の価値もある映像」と紹介。編集で少し短縮した35分。秘蔵映像がいよいよ観られる!

◆「アマゾンとそこに住む人々の魅力に取りつかれた一人の日本青年。関野吉晴34歳」。名古屋章さんのナレーションに重なり、34歳の関野さんの映像が映ると、会場からは「わ、若い!」とどよめきが。車を走らせ標高3400メートルのクスコから、パンチャコーヤの入り口の町、シントゥーヤへ。馴染みの村でポーターを頼み、船で川の支流を遡り、重い荷物を背負って湿気の高い密林をブヨと格闘しながら進む。世界唯一の秘境・パンチャコーヤのトウチャン一家の元へ、5年ぶりに逢いに行く関野青年の様子が「冒険」として描かれていく。

◆焼畑の跡から家を見つけ、川へ向かうとトウチャン一家がいた。久しぶりだからか、全員がじっとこちらを見てニコリともしない。みな上半身裸で、カメラを意識することのない瞳が印象的だ。前回9歳だった次女のラン(オルキーディア)ちゃんは14歳に。年頃になり人懐っこさは消えている。

◆「ランちゃんだった。トウチャン一家の元気な顔が並んでいた。みんな元気だった」。関野さんの朴訥なモノローグの声が被ると、冒険行の模様から一転、一家の暮らしが丹念に映像へ切り取られていく。守り神とされている扇鷲の子供(白くてふわふわ!)を捕まえ育てる様子や、猿を解体し(つるんと皮がむけた!)、煮て、家族全員で仲良く食べる様子。近くの山からとれる黒粘土での土器作りを、ランちゃんに教えようとするカアチャン。ジャングルに入り焼畑のため木を切り倒すトウチャンに、見よう見まねで小さな木を切り倒す末っ子のゴロゴロ。手狭になった家の建て直しでは、木の幹を木の皮で固定し、シュロに似た植物の葉っぱをかぶせて屋根にする。傍にあるものでなんでも賄える生活は、一家の誰もが迷いなくやるべきことを行い、すべてが完結しており、なにも足すものがないように観えた。

◆片道3泊4日かけての一家での魚取り旅行。漁は男性が川上に魚の痺れる樹液を流し、流れてくる魚を下流にいる女性や子供が手づかみにする。みんな楽しそうで、行楽を兼ねているみたいだ。帰り道にはバナナも収穫し、ぞろぞろと帰って来た。関野さんが帰る前の別れの酒宴では、猿の皮で作った太鼓を鳴らし、唾液と混ぜ合わせて芋を発酵させて造ったお酒を呑み、一家はみな酔っ払い、陽気になっている。自然と一体となり日が暮れると眠るトウチャン一家だが、この日は徹夜で呑み、踊るという。

◆映像が終わり、短いトークの時間に。真っ先に、最前列で映像に見入っていた「サバイバル登山家」の服部文祥さんが、江本さんから指名される。まず「関野さんがいると思って来たのに……」と、少々不満げな服部さん。「縄文時代のような生活に現代人は戻れるのか」と関野さんに聞いたことがあるそうだ。答えは「技術的に戻れる」。服部さんもそう思うが、戻らない。関野さんもそういう暮らしを求めてアマゾンに行っているのに、なぜ戻らないのか。そこを詳しく聞き、語り合ってみたい、と言う。

◆「関野さんの原点はマチゲンガにある」と言うのは野地さんだ。今回の再訪でまた通い始めるのかは判らないが、基調にあるのは「自然と共に生きる人の生活に学びながら旅をする」ことで、それは変わらないと思う、と。「海のグレートジャーニー」の応援団長・岡村隆さんは、来年3月からの国立科学博物館での展示「グレートジャーニー展」に合わせ、関野さんが100人の人々と「どうやれば我々は生き延びていけるのか」をテーマに、真正面から語り合う企画を進めている。岡村さんも言う。「やはりマチゲンガは関野さんの『思想性の原点』。身体に染み込ませ、変わらずに生き、いまはそれを発展させている時なのではないか」。

◆関野さんの報告は1回目の1980年から、(この日も数えて)20回を重ねたそうだ。地平線会議の33年は、そこに集う人達の33年でもあるのだ、と改めて思う。グレートジャーニーをやっていた関野さんが訪ねた時、トウチャンは木から落ちて亡くなっていたことは、8月の地平線通信で書かれていた。いまカアチャンはじめ一家の皆さんはどうしているのだろう。映像で14歳だったランちゃんは現在44歳。早く、聴かせてほしい。21回目の報告で!(加藤千晶

── 2 ──
モンゴル ゴルバンゴル学術調査とは何だったか
進行・長野亮之介
トーク 江本嘉伸+明石太郎

■丸山さんのお話によれば、地平線会議の歴史には一時期停滞する程の謎の空白時間があったという。なんでも、代表世話人の江本さんがあるプロジェクトに関わり、毎年数か月モンゴルに入り浸っていたようなのだ。その名も「ゴルバンゴル学術調査」。いかにも謎めいたネーミングである。はたして草原で何が起こっていたのか。第二幕では、ついにその謎のベールが貴重な映像と共に開かれるのであった……。

 時は1989年。モンゴルの大変革時代。ソ連の歴史教育によって永い間禁句とされていたチンギス・ハーンの名は、社会主義崩壊と共に「民族の英雄」という輝きを放とうとする時期だった。その直前、江本さんと、当時のモンゴル科学アカデミー総裁であった著名な原子物理学者、ナムスライン・ソドノムさんとの出会いから、壮大な計画は動き始めていた。「この人がいなかったら、実現しなかった。総裁は、実に興味深く話しを聞いてくれた」と、江本さん。

◆ゴルバンゴルとは「3つの川」の意で、モンゴル北部、ロシア国境近くのヘンティー山脈付近を源流とするオノン、ヘルレン、トーラ川のことを指す。歴史的文献によれば、チンギス・ハーンはこの地で誕生し、チンギス・ハンの陵墓もこの地域のどこかに眠っているという。89年から93年の足かけ5年間、日本が技術、資金、人材を提供し、両国の考古学者(当時モンゴルには考古学者が7名しかおらず、学術交流も兼ねていた)を中心に日モ合同でチンギス・ハーンの陵墓を探る計画が実現することとなったのだ。とは言え、その陵墓は天皇のお墓のようなもので、むやみに掘ることは許されない。毎年4〜8月のツンドラ(永久凍土)の地表2mの氷が溶ける時期を狙っての科学物理調査という形式で行うこととなった。

◆現地スタッフは報道陣を合わせれば、多い時で50人程。移動しながらベースキャンプを拠点に活動する為、コックが必須であった。そんな大役に抜擢されたのは、なんと当時30才の地平線イラストレーターの長野さん。江本さんが長野さん宅で食べた手作り豆腐が美味しかったことがキッカケで、素人同然の長野さんは、辺境の地で3年間(毎年3、4か月)、大所帯の胃袋を任されることとなる。当然失敗は憶測できる。「モンゴルのような特殊な状況下ではチームワークも大事。結局のところ、信頼できる人間関係で判断する」そう言い切る江本さん。というのも、料理以外でも酔っ払ったモンゴル考古学者への対応など、日々総合的な人間力が求められたのだそう。それでも後日、カップ麺メニューに耐えかねた総隊長の江上波夫さんから「調査では、美味しい食事が必須。あの料理はなんだ」とのクレームが新聞社にきたときにはヒヤッとしたというエピソードに会場は笑いに包まれた。2年目には、同じく地平線イラストレーターで料理に腕の立つ三五康司さんも参加している。

◆会場では、当時のドキュメント番組(一年目の調査)が流された。今は亡き坂野皓さん演出の映像。椎名誠さんがリポーター役を務め、江本さんと時を同じくしてプロジェクトを発案していた開高健さん(調査が動き出す前に無念にも逝去された)の語りが「モンゴル遊牧民は一切跡形を残さない。全ユーラシア帝国の首都であったカラコルムでさえ、残ったのは亀の像一つ。徹底している。謎です」と、視聴者の好奇心を掻き立てる。「スポンサーに絶大の信用を持つ開高さんの力は大きかった」と江本さん。サントリーをはじめ、大手4社から集まったお金は10億円を越えた、と伝えられる。当時の日本の勢いを表す豪快な数字だ。

◆ドキュメンタリーの冒頭は90年4月の学術調査隊発足式のシーンから。モンゴル政庁前に集まった群集。旗が掲げられ、闘いの踊りなどのセレモニーの重厚な雰囲気が、チンギス・ハーン復権直後という凄いタイミングであったことを伝えている。8台の新型パジェロが、道無き轍を進んでゆく。「ガソリンは配給制で、貰うのが大変」。車で入れない場所には馬で行き、大スケールの捜索にはヘリコプターでアタリをつける。時間節約の為にもヘリは何百回と活躍した。

◆番組では、調査の紹介と平行してモンゴルの風俗にも触れている。旧正月に一家の長老が子供達にキスをするゲルでの風景、熊やノロジカの駆ける広大な土地、羊の屠殺や馬の出産などの遊牧生活やナーダムの様子など、どれも当時のお茶の間にとって鮮烈な映像であったに違いない。

◆ここで会場ではもう一人、フリーカメラマンの明石太郎さんが紹介された。明石さんは1986年の開高さんの釣り番組で、初めてモンゴル入りを果たしている。民主化前の当時は飛行機が無く、3トンの荷物を列車とバスで運んだという。開高さんとの繋がりから声が掛かり、後発の別動隊としてゴルバンゴル調査隊に参加し、花や動物などの自然風景の撮影を行っている。元々は野生のカメラマンではなかったそうだが、87年の防衛大学登山隊の記録映画の撮影中に6000m地点で偶然収めたユキヒョウの動画は世界的な快挙だったそうだ。明石さんは、チベットの報告会に登場している貞兼綾子さんの旦那さんであり、恵谷さんや関野さんに同行したりと、地平線会議と縁の深い方でもある。

◆さて。土を掘らずして、陵墓の位置を探る科学調査とは、どのようなものだったのだろう。登場したのは、ワゴン車に電磁調査機が搭載された、その名も「ハイテク地下探査機」。見た目がどうしてもローテクに映ってしまう辺りにも時代の流れを感じる。これは磁気探査法と呼ばれ、地下に流れる特定の磁場を計測し、固有の値から空洞や鉄製品を探るというもの。考古学者達があらゆる場所を歩き倒し、モニターの数値とひたすらに向き合ってゆく。3年目にはヘリコプターから吊るしたアンテナで探査する「空中探索」も展開されたそうだが、果たして、その成果はどうだったのか……。

◆番組の後半では、チンギス・ハーン時代(1320年頃)以前の青銅器時代の祭祀場跡などの発見が紹介されていたが、確かにこの度の真相は土の中である。それをドラマチックにカメラに収めることは、全てが解き明かされた時でなければ不可能なのであろう。現場を振り返るコック長野さんの「何が起きているかわからなかった。墓の跡を見ても、ただの石ころの集まりにしか見えない」という言葉が妙にリアルであり、歴史的大発見へ歩む道のりの、気の遠くなる程の奥深さを物語っているようだった。謎の究明へと向かうプロジェクトの大きなうねりと、関わる人々の熱意がひしと伝わってくる迫力から、この時代に遂行すべき探検の意義を感じることが出来た。時折、場面に映り込む当時の江本さんや三五さんの姿には、皆さんから一同に「若いねぇ〜!」の声があがり、別の意味でも見応えがあった。

◆かくして、謎の空白時間の内容は明らかになった。モンゴルの大変革時代に、江本さんはどえらい企画を打ち上げ、全力でぶつかっていたのだ。1人の物理学者との出会いが大きなうねりへと繋がっていた。江本さんはソドノムさんはじめモンゴルの友人たちの協力で関係各省、軍、委員会の難関をクリアし、合同学術調査の実施に漕ぎつけた。長年、タブーだったチンギス・ハーンに初めて触れるという凄い責任感を持って壮大な計画に挑んでいた。計画自体は社会主義モンゴル時代に決まったため、民主化の大きなうねりの中で一部からは「なぜ日本人にやらせるのか」と、批判も起きた。「そういう問題に対応するため、私自身は毎年毎年、草原とウランバートルを往復する日々だったね」と、振り返る。

◆全編を通じて一番心に残ったのは、当時あれだけの重圧を抱えていた江本さんが語った「結局は人と人との人間関係」の一言。「本気さや信用はどこの国でも共通だ」。実に江本さんらしい言葉だなぁと思う。全てのプロセスに通ずる本質を表しているように感じた。(車谷建太

── 3 ──
400回を祝う、豪華コーヒー・ブレイク

■じゃじゃーん! 第3部・コーヒーブレークの様子をお知らせします! まず、なんといっても「海宝亭」。偉大なる海宝道義シェフのメニューはオープンサンド! 海宝流特製燻製の鮭、海宝流生ハム、骨付きハム、海宝流リエット(パテ)。そしてレタスとサラダ菜。これらをパンにお好みで載せて頂く、わくわくする一品です。もちろん単品でもめちゃくちゃ美味しい鮭やハム。じっくり味わいたい、勿体ない、とパンに載せずに頂く輩も続出。我先にと殺到する欠食児童達にも動じず、にこにこと骨付きハムを切り分けたり、メニューの説明をしてくださる海宝シェフの背後に後光が見えました。

◆また、海宝シェフを手伝い、報告会の間中ずっと後で準備してくださっていた関根五千子さん、尾方康子さんら海宝チームが「ドリンクバー」を開設。様々な飲み物を給仕してくださいます(コーヒー党の江本さんは、報告会のさなかにも入れたてのコーヒーを運んでもらって大感激。武田力さんの顔がやたら赤かったのは、裏メニューの黄金色の飲み物がこっそり提供されたからという噂も!?)。

◆食べて飲んだところで、デザートは「原ケーキファクトリー」。原典子さんがとっても美味しいケーキ各種を、素敵なお祝いメッセージとともにお送りくださいました。ほかにも、酒井富美さんからは和菓子のご提供が。和洋のデザートも揃って、ご、豪華すぎる! 軽食、飲み物、デザート、全てのテーブルに人が殺到し、会場はほぼ1時間、なにがなんだか判らない事態です。そして全員がお腹いっぱい。おもてなし心溢れる、豪華コーヒーブレイクでした。

◆って、食べ物のご紹介に終始しちゃっていますが、この時間、車谷建太さんと山本豊人さんを中心に、若手で「茶話会」開催予定が、「これは食べるので忙しいよ!」「食べよう食べよう!」とみんな勇んで食べ物に走ってしまったことを、小さくなってここにご報告します。美味しいものばんざい!! 海宝さん、海宝チームのみなさま、原さん、酒井さん、どうも有難うございました!!(来られなかった人を羨ましがらせたい、加藤千晶

── 4 ──
ドキュメンタリー「アフガニスタン最前線」
上映と解説
惠谷治 明石太郎
進行・丸山純

■真っ赤に煮えたぎる溶岩池。それは19歳の惠谷治さん率いる早大探検部による、三原山火口底の映像だった。 テレビ東京でドキュメンタリーとしては初のカラー映像で放送されたという。映像の中で、恵谷さんはこの探検の意義を語った。「火山国日本において、我々日本人が活火山の真の状態を知らないというのは非常に残念だ。だから自分たちの手でやってみたいと思った」。早大探検部のリーダーとして三原山火口底を探検するにあたり、恵谷さんには、撮りたい映像がはっきりイメージされていたという。真っ赤にうごめく溶岩の力強さは、人々の心を大きく揺さぶる。 当時はテレビ放送がモノクロからカラーへと移行していった時代だ。モノクロが主流だった事を考えると、色が与えたインパクトは凄かったのだと思う。報告会で三原山火口底の映像を流したあと、会場はその迫力に圧倒されたように、しばらく静まり返っていた。

◆三原山の映像に続き、ソ連侵攻1年後のアフガニスタンへの潜入映像に移った。この時の潜入取材は恵谷さんとカメラマンの明石太郎さん、そして今は亡きディレクターの坂野皓さんの3人で行われた。報告会では、惠谷さんと一緒にカメラマンの明石さんも同席した。当時恵谷さんと明石さんは32歳。坂野さんは33歳。

◆3人はパキスタンから不法越境してアフガンのゲリラ解放区に入った。外国人ジャーナリストである事が見つからないように、帰国するアフガン難民に化けて国境を越える。 恵谷さんは蒙古系のハザラ族、明石さんと坂野さんはタジック族に成り済ます。 アフガンは黒色人種以外なら、誰でも何れかの部族になれるほど、民族的に多様な社会だと言う。 パキスタン側では数えきれないほどの検問があり、毎回緊張の連続だった。カメラやフィルム、電池等の機材を隠し、検問を切り抜ける。苦労したそのシーンを撮影できれば、どれだけ緊張感のある映像が撮れたかと、今では思う。しかし当時はカメラ自体が大きく、見つかってしまえば取材自体が水の泡となるため、発見されないように慎重に検問を抜けたそうだ。パキスタン政府の権力が及ばないトライバルエリアを経て、アフガニスタンに入国する。

◆ペシャワール郊外にあるゲリラ事務所に毎日通いコミュニーケーションを密にとる。その結果、惠谷さん達はゲリラ司令官の信用を獲得して解放区への潜入を許可された。外国人ジャーナリストとしてゲリラ達の信用を獲得するとはどういう事なのか。また、それはどうやったら獲得できるのか。ゲリラ側からすれば、相手は日本人ジャーナリストを名乗るスパイかもしれない。仮にスパイでは無かったとしても、前線への同行によって護衛に犠牲が出る可能性など、リスクは数多くある。そんな状況の中で、恵谷さんはゲリラ司令官に対し、「我々はこれだけアフガンのゲリラの事を勉強して知っている。しかし分らない点がある。それを知り伝えるためには現場への同行が必要なのだ」と、自分たちの蓄積を伝えるそうだ。

◆ゲリラに同行し、潜入した戦地で印象深い映像がつぎつぎと続く。敵地に近い解放区の村人の様子が映し出される。ソ連軍に橋を落とされても、3日後にはワイヤーブリッジを架けて、村人はしたたかに生きている。ゲリラ達は羊の革で作った浮き袋を持って、冷たい雪解け水に次々と飛び込む。急流の中を渡っていくゲリラ兵士達の映像も強く印象的だった。補給路を巡って争った時に破壊されたソ連軍装甲車。ゲリラ軍の上空を飛ぶソ連軍ヘリ、戦闘現場に放置された敵兵士の死体の数々。そして夜間の戦闘シーンなど生々しい戦場の映像が流れた。明石さんの撮影に対する姿勢にカメラマンとしての覚悟を感じた。機材を壊さないように重くても自分で担ぎ、 危険な状況でもカメラを回し続けていた。

◆ゲリラ兵士達のラマダンの様子は敬虔なイスラム教徒としての姿が伝わってくる。ゲリラ達はラマダンで断食をしている時も、同行する恵谷さん達のために食事を作ってくれたそうだ。そこにはイスラム教徒としての戦いと祈りが映されていた。

◆惠谷さんは信条として、取材前に二週間ほど現地語を徹底的に学ぶという。 なるべく現地語で対話したい。生活に必要な単語の100から200であれば、本気でやれば2、3日で覚えられると言う。また、第三世界で文字が書けるという事はインテリの証。現地について勉強している証明にもなるから、コミュニケーションに有利なのだという。

◆そして何よりも、恵谷さんは武器に詳しい。ゲリラと対話する時に武器の知識は非常に重宝するという。実際、CIAが賞金を懸けて探していた、ソ連製の新型銃も発見したそうだ。しかし、その一方で恵谷さん自身は戦地でも武装しないという信条を持っている。なぜ武装しないのか。自分が武装するという事は相手を攻撃する可能性があるという事だ。同時に相手からの攻撃を認める事になる。殺されたくなければ戦地に行かなければいい、自ら戦地に向かうのだから殺されても仕方がないという考え方だ。数々の信条に恵谷さんの取材に対する覚悟が垣間見えた。厳しい山岳地帯を徒歩で300km、35日間のゲリラ解放区の取材映像だった。

◆二次会でも餃子を食べながら 、恵谷さんに幾つか話を伺った。「より危険で過激な場所へと関心がエスカレートしないのですか?」という質問に対して、「戦地では爆撃や銃撃戦など、危険は常に身の回りにあるものであって、自ら求めるものではない。」そこへ岡村隆さんから間髪入れず、「そこが探検と冒険の違いだ」と。現場を知るための危険は受け入れるが、自ら危険を求める事はしないのだ。

◆また、恵谷さんが「うれしい瞬間」についても伺った。現地について勉強して、粘り強く、慎重に、ゲリラと対話する。もし知らない事柄があっても、あからさまに「知らない」とは言わない。常にゲリラとのコミュニケーションの中から、新しい情報を吸収していく。「前線の現実をもっと知りたい、伝えたい、そのためには同行が必要だ」という思いを誠実にゲリラ司令官にぶつける。相手が誰であろうと、ひとりの人間として、媚びる事なく対等にぶつかっていく。そこに国や民族、立場の違いは関係ない。一言一言丁寧にコミュニケーションを積み重ねた結果、得られる信用なのだ。戦地への潜入で、最高にうれしい瞬間はゲリラ司令官から同行を許可された時。「明日、前線へ行くからついて来い」と言われる時だという言葉が印象的だった。

◆報告会では、戦場の迫力映像と共に、3人の信頼感が言葉の節々から伝わってきた。命を賭ける覚悟で、仕事に取り組む。今現在33歳の自分を振り返ると、全然覚悟が足りていないので反省をしつつ、しかし同時に勇気をもらったような報告会でした。(山本豊人

── 5 ──
描き続けた「地平線」
絵師・長野亮之介が見続けた地平線会議の400回
進行・丸山純

「きっと誰よりも真剣にこれまでの400回を考え、見つめてきた人」。進行役の丸山純さんにそう紹介され、長野亮之介さんが本職のイラストレーターとして登場した。

◆長野さんが初めて通信に絵を描いたのは1984年発行の第62号、26歳のときだったという。手書き文字びっしりの紙面がもっと読みやすくなればと、高野久恵さんが旅したヤミ族にちなみ、彼らが乗る美しい船をはがきいっぱいに描いた。それから28年間、手がけた予告イラストは300点を越える。

◆このパートは編集者の立場で数々の作品を共に生み出してきた丸山さんから、問いが投げられる形式で進んだ。この日来場者を驚かせた「立待月宴覧」は2人の最新作だ。さて最初のお題は「画伯が選ぶお気に入り」。予告イラストがスライドに映され、エピソードが明かされると会場は大笑い。被写体からは「似てない!」と嫌がられることが多いそうだが(とくに女性)、「ほめられるのも嬉しいけど、けなされるのもとても嬉しい。作品が認識してもらえたって」

◆「ヘタですね!」酷評の電話がかかってきたのは服部文祥さん(287号)。しかし周囲には好評だったようで、自身の講演会で絵を使うことにしたと聞き長野さんは「勝った!」と思った。実は自信作だった。

◆顔のパーツが整っている人はデフォルメが難しい。たとえば関野吉晴さんは、髪型だけ本人っぽくして顔はもうあえて記号化し(!)、人類の軌跡をたどる旅になぞらえ丸裸の猿人に描くのが定番に(269号)。「偉大な探検家をこんなふうにしてしまっていいのだろうか!?」と葛藤しつつ、地平線だから茶化しちゃおう!と。「かっこよくなっちゃうから」という理由で目も描いてもらえないのは宮本千晴さん。「大先輩なのにホントすみません!」と、公開謝罪も。

◆「絵に人物のほうが近づいていく宿命もある」と丸山さん。鰐淵渉さんは頭から爪先までワニにされてしまったが(293号)、鰐淵さんが最近ワニらしくなってきたという衝撃の情報が!(???) おでん研究家の新井由己さん(220号)の場合は「描いていたらハゲ頭のチビ太になっちゃって、なんかはまった!」と自画自賛。根拠のないヒドイ描かれかたをされた被害者は後を絶たないが、読者は楽しいし、好奇心をくすぐられてその人に会ってみたくなる。

◆次のお題は「絵描きとしてエポックになった絵」。「独学だったし自信がないから顔を隠して描いた」のが賀曽利隆さん(67号)。ヘルメットをかぶり後ろ向きのふんどし姿で、熱狂的ファンの物議を呼んだ。早く人間になりたーい!のは坪井伸吾さん。「アマゾンといえば動物かな?って」奇怪な半魚人(285号)やレオタード着用のウサギ(312号)に。生まれて初めてパソコンを使って描いたアフリカンブラザーズ(114号)はたった5分で完成。「絶対似てねーよっ!」と三五康司ブラザーから怒声が!

◆遊び心で新たな試みも。アフガニスタンの地図にマスードと彼を追い続けた長倉洋海さんを合わせたはめ絵(113号)や、さかさまにすると松尾芭蕉が浮き上がるカヌー旅の吉岡嶺二さん(73号)、ひそかに紙版画や隠し文字などの取り組みも。「仕掛けにだれも気づかないと、しめしめって思うようになった……」と、ちょっと悪い顔に。

◆渡辺剛さんとはスキャンダラスな思い出が(158号)。「なるべく人が来ないように書いてほしい」と本人から頼まれ、本心ではなかったが「今月は一寸報告会に値する人が居なかったんですよ。(中略)年の瀬のあわただしい一日、すっごくどうしてもおヒマな方のみおいでください」と書いたら十数人しか来なかった。報告会史上最低参加人数の記録となり(今も更新中)、仲良しだった渡辺さんとは音信不通に……。

◆絶妙な報告会名と予告テキストも、長野さんが1人で作っている。毎回報告者へ事前に取材して編み出すが、コピーを学んだ経験はないという。思い出すことといえば、こどもの頃父親の影響で世界の文学シリーズにのめりこんだことと、大学の映画研究会でシナリオを書いていたことだとか。

◆長野さんが描く似顔絵は、一瞬でその人のあり方をまるごと伝えてしまうようで、ちょっと怖くもある。人の心の奥にある何かまで敏感に感じとる、野生のアンテナが備わっているのだろうか? なかなか言葉に表せない「っぽさ」を、見事に絵にしてしまうから!

◆後半は即興の似顔絵実演。「目があった!」と急遽モデルに使命されたのは福島県から来た渡辺哲さん。長野さんは左手で頬杖をつき足を組みながらエンピツを走らせ、ときどき渡辺さんを見つめ一呼吸おいてニヤリ。その手元を落合大祐さんがビデオカメラで生中継する。不思議な緊張感が流れ、会場はしんと静かに。「いい機会」と江本さんがマイクを渡し、これまでにも3.11の被災体験を語ってくれた渡辺さんに最新の近況報告をしてもらった。

◆警戒区域で立ち入り禁止だった故郷の楢葉町が8月10日に避難解除準備地域に変わり、3日前に帰れたばかり。まだ人の気配はなく、茂りすぎた草刈りに追われる日々。警戒区域解除について住民アンケートの結果は賛否両論で、補償金が切られることへの心配を抱く反対派の声もあったという。「この続きはきっとまたどこかで」と江本さん。

◆長野さんのほうは、白い絵の具で絵を塗りつぶし下書き線を消して、色づけ作業に入った。丸山さんがそばに来てそっと時刻を伝えると、頬杖をやめて急に机を抱え込むような姿勢に。「締切直前みたいになってきたー」と心臓に手をあてる。

◆開始から20分後「完成!」。ちらちら気になっていた渡辺さん、完成画に言葉なく……。画伯自ら「どうですか?」と尋ねると「どうですか? みなさん……」。たちまち席から拍手がわきおこって、納得(?)。長野さんの持論では「人の顔の記憶って1点しかない。ちょっとした特徴を思いきり大げさに描き、目立たないものは消しちゃいます」

◆4半世紀以上も予告を描き続け、今何を思うのか? 「気づいたら、もうそんなに?という感じです」とあっさりした答えだが、地平線がいつまで続くのかもわからなかった中での素直な気持ちなのだという。「自由にやらせてもらっているようですが、必ず反応がある地平線通信に描くのは緊張する」とは少々意外だが、丸山さんは「画伯の絵がなければ400回も続いてこられなかった」と語る。1回を400回繰り返し、来た道をふり返れば33年も経っていたなんて! 薄い「立待月宴覧」がすごく重く思えた。

◆その間さまざまな歴史的事件にも立ちあった。特に3.11の衝撃。震災直後の予告は、人物ではなく切り株や津波に炎が描かれた抽象画となった。地平線会議の営みに、いつも長野さんの絵がよりそってきた。

◆いち早く報告者の話を聞けるのは特権だと喜び、「予告がそうくるなら報告会はこういこうと思った」と後で報告者からいわれることがあるのも醍醐味だとか。「トクさせてもらってありがとうございます」と話す長野さんを温かい拍手が包んだ。

◆7時間にわたった記念集会もついに終盤! 長丁場にも関わらずどの瞬間も夢中でのめりこみ、あっという間に窓の外は夜の色。慌てて撤収し2次会になだれこむ。餃子でおなじみの「北京」では、惠谷さんと岡村さんが割り箸片手に巻き舌で吠えまくり、伝説のセリ人コンビによる即興オークションが大盛り上がり。夢のようなお祭りが過ぎ去れば次がもう待ち遠しくなるもの。500回目は、2020年12月のようです!(大西夏奈子


報告者のひとこと

情報機関による諜報戦、そして、南条直子、山本美香の“殉職”
━━報告会で話しきれなかったこと
惠 谷  治

 地平線会議400回記念報告会で紹介したビデオ映像のうち、三原山は私が19歳のとき、アフガニスタンは31歳のときの作品であったことを思うと、63歳を迎えた今、改めて深い感慨を覚えざるを得ない。

 アフガンの映像で、自分の頭頂部が禿げかけているのに初めて気付いた私は、急いで散髪に行き、現在のような短髪に変えた。自分の頭頂を見る機会など滅多にないから、その意味でもアフガンの映像作品を制作したことは、本当に良かったと思っている。

 さて、報告会で話しきれなかったエピソードを書いておこう。

 アフガン潜入の事前手続のシーンで、イスラム同志会(ジャミアーテ・イスラム)のナジブッラーが登場したが、個人的に親密になっていた私は、ある日、彼から相談を受けた。当時は、ジャミアーテ・イスラムの事務所があるペシャワールは、世界中の情報機関が入り乱れて、熾烈な諜報戦を展開していた。

「どうも怪しい男がいるんだ。会って何者か判断してくれないか」

 ナジブッラーから相談を受けた私は、ムジャヒディーン(イスラム戦士)に変装して、事務所でその男と対面した。彼はイランのジャーナリストで、ムジャヒディーンの解放区を取材したいということだった。イラン人だから同系のダリー語が流暢なのは当然であり、ジャーナリストというので英語も上手い。しかし、パシュトー語も話せるという。話しているうちに、ソ連軍の兵士の身分証の写真を見せると、ロシア語も解することが判明した。

「ナジブッラー、あいつは間違いなくKGBだ。イラン人と言っているが、タジク共和国あたりの出身で、工作員教育を受けた工作員だ。もう、事務所にも入れないほうがいいだろう」

 以後しばらくの間、私は解放区を取材したいというジャーナリストを、ナジブッラーとともに面接していた。

 アフガンを去って何年もたったある日、私は友人の紹介で、女性カメラマンと出会った。南条直子である。1985年にアフガンに密入国した経験があるが、本格的に取材したいので、信頼できるムジャヒディーンを紹介してくれということだった。はじめは当然ながら断ったが、何度も足を運んで来て、私に訴える。パキスタンのアフガン難民キャンプも取材していたことなども知り、彼女の熱意にほだされて、私はナジブッラー宛ての紹介状を書いて、彼女に持たせた。

 ナジブッラーからも連絡があり、彼女の解放区入りの手筈は整ったということだった。自分の役目は果たしたと安心して、しばらくたったある日、悲報が届いた。1988年10月のことである。南条直子はムジャヒディーンに護衛され、アフガンに潜入途中、地雷を踏んで爆死したというのだ。当時は、今ほどフォトジャーナリストの死をメディアが大々的に取り上げることもなく、彼女の名前を覚えているのは関係者しかいないだろう。

 先日、シリアで死んだ山本美香も、個人的にはよく知っているビデオジャーナリストで、彼女の死を聞いたとき、南条直子の死が自動的に思い浮かんだ。山本美香は45歳、南条直子は33歳で“殉職”したのだった。

 南条直子が爆死した経緯については、ナジブッラーが悔やみの手紙のなかで知らせてくれた。私は不法越境する度に、人知れず、つまり死の経緯が日本に伝わることなく死んで行くのではないか、といつも恐れていた。“殉職”の経緯が判明している南条直子や山本美香は、ある意味では幸せ者だと思うが、心から冥福を祈りたい。

 1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退し、新政権が誕生すると、ナジブッラーは外務大臣となった。しかし、その後、タリバン政権が成立し、ナジブッラーの消息は不明のままである。

なまけものの私と関野吉晴とのかれこれ40年

 地平線会議400回記念報告会で、関野吉晴の映像作品「ぼくの恋人はアマゾンの裸族」(1982年取材,83年9月NTVドキュメンタリー特集で放送)を上映するのだが、関野がマチゲンガを訪ねるために不在なので、代わりに当時の関野のことを話してほしい、ということだった。本当はこの時に、関野と一緒に長期間南米で行動を共にし、フィルムを回し続けたカメラマンの義江道夫さんがいれば興味ある話をたくさん聞けたはずだ。しかし、義江さんは関野がグレートジャーニーの途次にある時、野沢温泉スキー場で自分の経営する食堂に荷上げ中、脳出血で倒れ、長い療養生活から再起を果たせず亡くなってしまった。

 どうしてこんなことを書くのかというと、私は関野とは初対面以来40年以上の付き合いがあるが、国内でも国外でも彼がフィールドにいる状況というのをほとんど知らないからだ。単独行を専らとする関野に一番長い間接してきたのが義江さんだったと思う。

 私は上智大学探検部OBということになっているが、入部の動機はただ漠然と海外へ行きたいというだけで、辺境を探るなどという確たる目的があるわけではなかった。当時の探検部は先輩がラップランドの予備調査を終え、次の住み込み調査に備えての雪上訓練を専らとしていた。なまけものの私は数回、山スキーや雪洞訓練などの冬山入門に参加しただけで音を上げ、以来探検部の事務局と自称して夜な夜な街の探検に励んでいた。この頃から裏方人生に足を踏み込んでいたようだ。そして探検部OBが設立したマスコミ集団に属して、編集という作業にのめり込むようになった。

 結局、私がはじめて国外へ出たのは1971年に約半年間のアメリカ、つづいてヨーロッパに約10か月という(いずれも一応取材という名目だったが)軟弱なシティ派旅行だった。関野も墨田区生まれでつねづねシティ派を自称するが、私がアメリカ、ヨーロッパをさまよった時期に彼はもうアマゾン川全域を下り、先住民の集落に住み込んでいたのだ。

 74年に関野が『ぐうたら原始行』を出したとき、私はフリー(ほぼ失業者と同意)のライター兼カメラマン兼編集者を目指しており、版元の山と溪谷社にも出入りしていた。

 なまけものの私に、タイトルのぐうたらは大いに気に入ったのだが、読んでみると内容は全くぐうたらではなかったので少し落胆した。しかし、どこかで波長が合うものがあったのか、この頃から関野と親交を深めるようになった。78年に山と溪谷社編で出た『ロビンソン・クルーソーの生活技術』では、企画の段階から関わり、予め作った目次項目どおりに見事な写真を撮ってきたのには、本当にびっくりした。もっともこの本を編集中に本人は今回上映した番組のために南米に行ってしまい、制作に参加した人が苦労することになったのだが……。

 さて、私と地平線会議の関わりである。33年前の地平線会議誕生の頃、早大探検部OBの伊藤幸司さんと仕事をする機会が多かった。そして地平線放送やハガキ通信のことなどをほぼ同時進行で聞いてもいた。学生の頃から関野と同年代の惠谷治さん、岡村隆さんたちともたびたび顔を合わせる機会があった。しかし、話を聞いているだけでも、あまりに錚錚たる人物ぞろいで、私のような落ち零れ探検部OBにはなかなか敷居が高かったのだ。

 そして時は経ち、関野がグレートジャーニーの計画を進め、私が事務方を引き受けるという流れになった頃、地平線会議に出入りしているメンバーの多くに世話になるというので、1993年1月、江本嘉伸邸の新年会に関野に同道した。これを切っ掛けに頻繁に報告会に足を向けるようになり、自宅が通信の発送作業所に近いので、ビールの飲める時間間近に顔を出したりするようになった。以来20年近く、地平線会議関係者にはまことにお世話になったのだ。

 というわけで、報告会でも本稿でもとりとめのない話になったが、これからもなるべく報告会に出席する所存です。二次会で関野のエピソードなど何でもご質問下さい。(野地耕治

今だから語る、なんとも不思議な草原のトゴーチ暮らし

■地平線報告会400回記念集会おめでとうございました。微力ながら、第二部の進行と第四部の報告手伝いをさせて頂きました。第二部では、江本嘉伸さん、明石太郎さんをお招きし、お二人が関わったゴルバンゴル計画の内容を報告して頂いたのですが、同プロジェクト末席に私も参加していました。現地長期滞在の為、通信イラストを三五康司君はじめ多くの方にお願いするなどお手数をおかけした時期です。

◆ゴルバンゴル計画は、90〜92年の三年間を中心にした日モ共同科学プロジェクトです。読売新聞社が全面的に報道を担い、現場を統率する(肩書きではなく)実質的な中心人物が当時読売新聞記者の江本さんでした。その江本さんのお誘いに二つ返事で乗った私の役割は「ベースキャンプ要員」。時には30名以上もの隊員の食事作りが主な仕事です。

◆モンゴル語で料理人を「トゴーチ」といいますが、料理が得意なわけでもないド素人ですから、読売記者、考古学やエンジニアの若手隊員を巻き込んで、責任を分散しつつ、毎日工夫を凝らしつつの自転車操業でした。当時モンゴルは民主化直後の混乱期で何もかも品不足。生鮮食品はほとんど手に入りません。中国で野菜を買い出して入国したり、乾燥野菜やその他食材を日本から大量に空輸するなどの準備はありましたが、読売のエベレスト遠征経験者が担当した食料計画は(特に初年度は)登山キャンプのようにミニマムな品揃えだった印象があります。

◆コロッケを作ろうとしてもパン粉が無い。おろし金もないので、ビンの金属製のフタに釘でたくさん穴を空け、裏面に反り返ったギザギザを利用して堅いロシアパンをおろした事を覚えています。プロジェクトは毎年4月から8月の4か月間でしたが、調査地域の4〜5月はまだ厚く氷が張っていました。毎日川の氷を割り、溶かして水を作るのもベースの重要な仕事でした。火をおこす熱源も潤沢ではなく、食器を洗う水さえもったいない。節水はもちろんですが、排水を減らす意味でも各自自分の器をロールペーパーで拭き取ってもらったり、カップ麺を多用したりとまさに山のキャンプのような時期もありました。

◆当時ベースを訪れた江上波夫博士が食事のお粗末さに嘆き、読売首脳部が大慌てした事がありました。ご高齢の先生に特別に食事を用意する配慮も出来なかった私の未熟さは申し開きの余地もありませんが、へたくそなコックの貧しい食事事情の中でも、江上先生がいらしたのは、特に厳しい登山キャンプ状態の時だったような気がします。

◆調査・取材班が出かけたあと、モンゴル人の食事班と私だけがベースに残る事もよくありました。英語は通用せず、学者達はロシア語か、または通訳を介してやり取りをします。どちらも無い私は必然的にモンゴル語を使わざるを得ず、比較的早めに片言のモンゴル語を覚えたのは収穫でした(もう忘れたけどね)。荷物をトラックに積む際のかけ声を一緒に発しているうちにそれが数字だとわかったり、モンゴル人が地面に棒で描いた絵を指しながら発する音を、鸚鵡返しに覚えて単語を増やした経験が新鮮でした。

◆結局三年間延べ10か月に及ぶモンゴルでのコック生活は、今思えばバブリーな時代の幸運な経験です。朝起きてから寝るまで、一日中食事の事を考える生活とは、もしかしたら動物の基本なのかなと思ったり。調査が滞った時は若者達と一緒にヒマを持て余した挙げ句、タルバガンの巣穴を利用したゴルフと野球を混ぜたような画期的な遊びを発明したことも(忘れましたが)。ヒマ過ぎるのも創造の母なのです。

◆キャンプに雷が落ち、若者が全員、一時的に躁状態になって大騒ぎしたこともありました。草原での前例のない長いキャンプ生活では、こうして毎日のように何か事件が起こりました。ダメダメコックでしたが、結果的に最後まで居座らせて頂き、江本さんにもゴルバンゴル計画にも多大な迷惑をおかけした事をお詫びしつつ、大いなる学びの場を与えて頂き今も感謝しています。いまさらですが、おかげで今は料理が大好きになりました。 合掌。(長野亮之介

30年前、敵と味方に分かれていた「戦友」とのサハリンでの出会い

 地平線会議の報告会は聞きにいったことありましたが、報告者として参加したのは今回はじめてです。400回特別集会ということもあって老若男女ほぼ満席の盛況。特に若い人たちが多かったのには驚きました。継続は力なりということを証明してみせた会場でした。

 上映したフィルムは32年前の1980年、フジテレビ特別番組「潜入・アフガニスタン35日間の記録」。リポーター役の惠谷治、ディレクターの坂野皓、カメラマンの私の3人でパキスタンからアフガニスタンへゲリラに同行し取材したものです。上映後の質疑応答では撮影の苦労話など当時を思い出しながらの報告でたのしい一時でした。時間が押してあの場で語りきれなかったあるエピソードを紹介します。

 去年の夏「動物番組」の取材でサハリンに行きました。サハリンは道路事情が悪くポロナイスクから北の幹線道路はまだ未舗装でした。というわけで車は旧ソ連軍の払い下げトラックに一切合切を乗せて移動しながらの撮影になりました。夏のサハリンは何故か北上するほど気温が上がり不思議な感じでした。

 運転手をサーシャさん、と言いました。50歳ぐらい? 撮影も順調にいっており夕食後の世間話の中でサーシャさんがアフガン戦争で勲章を貰った事が話題になりました。実は私も30年前にゲリラに同行してアフガンに潜入取材していたと打ち明けました。サーシャさんは19歳で志願兵としてアフガニスタンに従軍し輸送部隊に所属。アフガニスタン北部のコンドゥスを基地として南部方面に戦車他武器を運ぶのが任務で、遠くはジャララバードまで南下したこともあったといいます。

 ある日ゲリラの待ち伏せ攻撃に遭いサーシャさんは負傷し、仲間も何人か戦死したそうです。サーシャさんは九死に一生を得て故郷に帰還し勲章を貰いました。30年も前、敵と味方に別れて同じ戦地にいたのだ。最前線での取材にもかかわらず私も幸運にも日本に帰る事ができました。そして今、サハリン沿岸の風よけに植えられた松林のテントでウオッカを飲みながら話をしている、「戦友」と……。

 取材からもどって、番組のDVDをサーシャさんに送り、それを観た感想を友人経由で伝えてきました。

 「DVDを観ました。その後半日上の空でした。きっと心の一部をアフガニスタンに置いてきたのでしょう。30年経っても記憶は薄れていません。心がまた波立ちました。明石さんにありがとうと伝えてください。彼は勇敢な人です。私は明石さんを尊敬します。映像は命の危険を侵して撮られたもの。私たちが戦った相手が映っていました。私の所属していた中隊の車両が戦車を輸送していました。もう一度運転手とナンバーをよく見てみます。もしかしたら誰だったか思い出すかもしれません。私は当時クンドゥゼのもう少し北方にいました。言葉がわからなかったのが残念です。本当にありがとうございました。〜サーシャ〜」 (2011.9.24 木村邦生/ロシア語訳)

 サハリンの取材はオオワシの子育ての取材でした。夏の時期オオワシはサハリン、カムチャッカ半島、シベリア沿岸で子育てをして、そのほとんどは北海道で越冬します。

 野生動物には国境はありません。人間も争いの元凶である国境を取り払って自由に何処へでも行けるようになるのは、いつの日のことになるのでしょうか。(明石太郎 カメラマン)


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