2012年7月の地平線報告会レポート


●地平線通信400より
先月の報告会から

飯舘村、南相馬市の現場を見、考える地平線行動

━━通算399回地平線報告会として━━

■目的  3.11が起きてから1年4か月。国の収束宣言とは裏腹に、未来に向けて何も語られようとしない原発事故。そして、ゆっくり忘れられようとしている巨大津波の被災地。被災地支援など微力ながら3.11と関わってきた地平線会議として、初めて月例報告会のかたちで福島の現場を訪ね、今進行していることを教えてもらい、語り合う。

■期日  2012年7月28日(土)29日(日)

■場所  福島県飯舘村、南相馬市

■宿舎  南相馬市鹿島区上栃窪字瀬ノ沢20-1  特定非営利活動法人「自然環境応援団」  障がい児者施設「あーす」  森林整備「地球屋」(理事長 上條大輔)
 今回の企画は、上條大輔さんの理解と協力の上で実行できた。

■参加者(住所地ないのは東京在住者)  賀曽利隆(バイク 神奈川) 渡辺哲(福島県楢葉町 車) 滝野沢優子(福島県天栄村) 荒木健一郎(同 滝野沢夫) 上條大輔(南相馬市 宿泊先あるじ) 宮本千晴 江本嘉伸 長野亮之介 武田力 中島菊代(大阪) 落合大祐(東京から車) 金谷眞理子(大阪) 井倉里枝(大阪) 小森茂之(和歌山) 河田真智子 古山隆行(神奈川 バイク) 古山里美(同) 岩野祥子(奈良) 石原卓也 横山喜久 北村敏 塚田恭子(千葉) アジャル(同 塚田夫) 新垣亜美(埼玉) 山本豊人 小原直史 遊上陽子(大阪) 加藤秀 (京都) 斉藤孝昭(バイク 横浜) 花岡正明(山形) 飯野昭司(山形) 橋口優 永沼竜典(石巻) 花崎洋(千葉) 松菱理恵子

■行動  2台のマイクロバスに分乗して、被災地域をまわった。要所要所でバスを降り、被災者である上條大輔さん、福島はじめ東北を熟知、3.11以後繰り返しこの地を踏査している賀曽利隆さんらの話を聞いた。それらの体験について、宿舎でさらにひとりひとりが語った。
 2日目は、完全復活した相馬野馬追の現場へ。一部は松川浦の被災地を訪ねた後、野馬追に合流した。

福島は日本の原発の中の一つでしか無い事、何時どこかの地域がなってもおかしくない事、わかってもらえたと思います

■皆さん、暑い中、そして遠い所お疲れ様でした! 記念すべき399回の報告会に南相馬が選ばれ皆さんに福島の現状そして自分なりの思いが伝えられ良かったと思っています。

◆今回南相馬での報告会を江本さんから打診があったとき本当は悩みました。今まで様々な人達が福島や南相馬に入ってきて観光気分がほとんどで原発の事震災の事地域の事等を理解、考えてくれない人が多かったからです。しかし地平線のメンバーは違う!と江本さんが言うとおり皆さんに来てもらえて本当に良かったです。是非皆さんの心の中に原発事故、震災の残した現状を地域に持ち帰り今後の人生に役立てて貰えればと思います。

◆これから先福島は良くも悪くも変貌をしていくと思います、原発は終息したかのように本当に地域によっては忘れられ何事もなかったように生活している人達もいるでしょう、しかし福島は日本の原発の中の一つでしか無い事、何時どこかの地域がなってもおかしくない事明日は我が身だという事がわかってもらえたと思います。みなさんもし原発や環境問題に悩んだ時は南相馬市に来てください。いつでも待っています。(上條大輔


南相馬特別報告会

無窮の大地に無常の風が吹く

2012年7月28日(土)29日(日) 飯舘村 南相馬市

■福島に行ったら、ままどおる食べる。福島に行ったら、アイスまんじゅう食べる。福島に行ったら、桃を箱一杯買いに行く。福島は私の故郷ではないけれど、久しぶりに訪ねると、おかえりと言われているような温かさを感じる。けれど、変わってしまった風景を見るのは複雑な思いがする。

◆飯舘村役場を訪ねるのは昨年10月以来だ。前回は賀曽利隆さんと渡辺哲さんの案内で、地平線会議の有志数人で来た。きょうのモニタリングポストの表示は0.85マイクロシーベルト。前回は2.58だったから、だいぶ下がっている。今回は399回目の地平線報告会として福島駅からマイクロバス2台を連ねてやってきた。

◆携帯型の線量計を持参した参加者も多く、測ってみればモニタリングポストよりも高い数値が出たようだ。地表の植え込みでは8マイクロを超える数値を示したところもあった。「モニタリングポストは操作された数値なのではないか」という声が参加者から上がる。

◆真実はどうあれ、こうした疑心暗鬼を生んだ東電の罪は重い。飯館はもちろん、浪江町の南津島も見てほしかったとここまで先導してきた賀曽利さんはいう。天栄村に住む滝野沢優子さんによれば、南津島には出荷したコンクリートから高濃度のセシウムが検出された採石場やDASH村があり、そこは昨年、F1(東電福島第一原発)のメルトダウン後に風にのった放射能とともに雨が降ったところだという。その風向きが東京に向かっていたらどうだったか、と宮本千晴さんがつぶやく。

◆村の畑は耕されないまま放置されているが、ところどころ「除染作業中」の旗が立って、作業が進められている。八木沢峠を越えて南相馬市に入ると線量がみるみる下がって行った。野馬追いの出陣で賑わっているだろう原町の市街地を避けて、県道34号線を南下。4月に立ち入り制限が解除された小高区へ。

◆小高の駅前通りはちょっと異様な感じだ。地震で倒壊した商店がまだそのままになっている。歩く人も、開いている商店もなく、それでも商店街の放送で聞くような音楽がどこからか流れている。「必ず小高で復活します!」と書かれたメニュー黒板が立つ菓子店。駅前にそのままになっている通学用自転車の群れを見ながら、参加者はそれぞれに想像を巡らせる。列車が通らなくなった線路は草ぼうぼうで、鍵のかかった駅の入口には「猫を沢山保護しています。ご連絡を」とのペットレスキューの連絡先が貼られていた。

◆けさ出陣を送り出した小高神社にはまだ大勢の人が残って片付けをしていた。真っ赤な顔をした高校生達が甲冑を脱いで帰るところ。2年ぶりに行われた小高からの出陣だが、残念ながら馬を連れてくることはできなかったために例年よりこじんまりしていたという。からっぽになった神輿蔵にみんなで入って、寄進された絵馬の数々に見入る。

◆国道6号線に出ると、とたんに津波の爪痕が目につく。草ぼうぼうの畑の中に、流された自動車がそのままになっている。海岸まで2キロ以上はあるはずなのに、そのあいだにあったものがすべて失われている。海岸沿いに南下する県道255号。宮田川を渡るあたりからところどころアスファルトが流されて砂利道になっている。マイクロバスを気遣いながら、ゆっくりと進む。

◆3年前の夏にも、私はここを自転車で走ったことがある。その懐かしさよりも、風景が一変してしまった衝撃のほうが胸に迫った。破壊された排水ポンプ場の残骸。海沿いの県道を越えて、陸側の田畑に消波ブロックが流れ込んでいる。無惨にもひっくりがえってしまった防波堤を見ながら、宮本千晴さんが冷静に分析する。

◆田畑とは言っても、河口の湿地帯を干拓して土地にしたのだろう。いつか津波が来る怖さを知っていたから、海岸が見えないほどの高さの堤防を作ってしまった。その高さを超える津波が来ればこのようになることを、住民が予期できなかったはずがない。そんな津波が来るはずがないと自分たちに暗示をかけていたのは、原発が安全だと信じ込んでいた日本人共通の意識なのではないか。原発が人災であるのと同様に、この津波災害も人災なのではないか、と。

◆海岸沿いに浪江町との境まで行く。唐突にバリケードが表れた。なぜか看板は「この先立ち入り規制中 スピード落とせ」と書かれている。南側の楢葉町境が「災害対策基本法により立入禁止」となっていたのに比べると、なんだか弱々しい感じがする。この先に何かあるのかと思い、ずかずか歩いていったが、歩いても歩いても何もなかったので引き返した。

◆場所としては完全に浪江町内なので、法的には原子力災害対策特別措置法違反になる。F1からたった10キロ。しかし放射線量は低く、都内とさほど変わらないという。いったいここから先の通行を規制して何になるのだろう。きっと通行の自由を奪わてもそれなりの代償を得られるのならばそのほうがよいと考える人たちがいるのだ。原発事故はそこに住む人たちの神経をも歪めてしまった。

◆宮田川に架かる橋まで戻り、この地で失われた人々の魂に、原発事故で故郷を失った人々の悔しさに花束を供える。この大きな花束をわざわざ用意された河田真智子さんの気遣いにも感服する。遠くからバイクがやってきて、現れたのは古山さんの夫、隆行さん。忙しい仕事の合間に神奈川からやってきたのだという。一行に合流するのかと思いきや、3分だけでまた帰って行ってしまった。

◆私たちは今夜の宿泊地、上条大輔さんの障がい児施設「あーす」へ。途中、小さな峠を2回越えるのだが、そのあたりで線量が再び上がり出した。食堂に集まり、思い思いにビールやジュースの缶を空けて後、夕食の支度にとりかかる。今夜は江本さん指揮の「エモカレー」。交替で風呂に入るのと並行して全員で手伝うとあっという間に食事の時間に。

◆「あーす」の3人の職員さんも郡山からのバスの運転手さんもみんなで食卓を囲む。食後は総勢40人近くの自己紹介。モノ作りを仕事にしている山本豊人さんは、震災前はふだん必要ないものまで作っていたことに震災で気付かされたという。22才と最年少の永沼竜典さんは現在石巻の雄勝で漁師の見習い中。大阪の遊上陽子さんは震災のことが自分の周りで話題にならなくなったことが気になっているという。福島天栄村の荒木健一郎さんが言う「死の灰が降るということはどういうことか、想像してほしい」という言葉には説得力があった。

◆がれきの上をわずか1年で草木が覆ってしまう生命力に驚いたというのは長野亮之介画伯。岩手大槌の中学生支援のために作った「鮭Tシャツ」の福島版を作りたいという。楢葉からいわきに避難中の渡辺哲さんが今回いちばん見てほしかったのは小高駅だったそうだ。楢葉も8月10日に避難指示が解除される。戻ったらテントを持ち出したいと渡辺さんは話す。和歌山でみかんと梅を作っている小森茂之さんは、耕作を放棄せざるを得なくなった福島の田畑を見て胸が痛んだそうだ。

◆避難指示が解除されても住民が帰還できないと夜は真っ暗のまま。それがどういうことなのか見たかった、と花崎洋さん。横山喜久さんは人工関節の手術をして今回が初めての遠出。震災後、奈良から宮城の東松島に通っている岩野祥子さんは、小高の町の様子と1年前の東松島とが重なったという。河田真智子さんは今回福島で、喜多方から東京に出た母のことを思い、なぜ福島に原発があるのか、考えあぐねていると語る。

◆原発事故が人災で、それが自分たち日本人の体質から来たことは間違いない、そのどこが悪かったのかを本当に考えなければならないと静かに熱く語るのは宮本千晴さん。むしろあの風向きが飯舘村ではなく東京だったほうがよかったのかもしれないとまで話す。被災者の受け入れもしている団地の管理が仕事の斉藤孝昭さんは、福島からの避難者の生活に妙な明るさを感じていたそうだ。それは生活の基盤を根こそぎ取られてしまい、あとは笑うしかなかったのだと今回納得したという。

◆続いて上條さんの「報告」。なぜ彼の家族がばらばらに住んでいるのか、彼がここでどうして頑張っているのか、これからどうするのか、朝から全員が気になっていたことを上條さんは話してくれた。南相馬市内でもともと障がい児の施設を運営していた上條さんはよりよい環境を求めて、ゴミの山になっていたこの土地を手に入れてコツコツと整備した。

◆ようやく建物もできて引っ越してきたのが昨年の1月。だが、たった2か月で震災に見舞われ、事業を中止せざるを得なくなってしまった。F1から35キロ。当初除染の対象ではなかったのが、今年1月、ようやく県が除染にやってきた。「国が言っていることが全然違うとは言わないが、でも現実は全然違う」と彼は言う。

◆3人の子供たちを南相馬に住まわせるつもりはない。それには放射線量よりももっと大きな問題があると上條さんはいう。原発の補償金を始め、ここにはお金がいっぱい落ちると思うが、その黒いお金を稼がせたくない、子供たちにはもっと夢のある仕事で稼いでほしいと思うからだと彼は続けた。「ここでは自由があるようでまったく自由がない。孫悟空のように実は範囲を決められている」。

◆日曜日は6時半起床。上條さんはその前に起きて、食堂を掃除していたという。まったく頭が上がらない。朝食後にきょうの予定を話し合い、相馬野馬追の行列を見る人たちと松川浦を見に行く人たちに分かれることにして、8時半に出発。

◆相馬駅から松川浦漁港へ向かう道はだいぶ修復されていた。水深の浅い浦に流されて浮かんでいたマイクロバスの残骸も撤去されていた。潮干狩り場の駐車場から漁港を一周する。大田区の博物館学芸員だった北村敏さんも懐かしそうな顔をしている。聞けばかつて調査でお世話になった人が旅館をやっているのだそうだ。以前より多くの船が係留されているように思えた。護岸も修復工事が行われ、着実に復興へ向かっている。

◆松川浦大橋の上からの景色が見たくて、みんなで歩いて行ってみる。いまここで地震があったらどうすればいいんでしょう、という井倉里枝さんの質問に、専門家の花岡正明さん、飯野昭司さんは、この橋は比較的新しいので壊れることはない、橋の上にいれば大丈夫と答える。

◆3年前に自転車で訪れたときの橋の上からの風景と比較すると、海岸にあった灯台や公園の遊具など様々なものが失われていることに気付く。原釜の海水浴場には見張り台やトイレが残っていた。が、海岸沿いに立ち並んでいた家屋が跡形もない。3年前の夏、甲子園野球の中継を見ながら昼食を食べた石和田食堂も、かろうじて道路の位置関係からこのあたりとわかる有り様。あの鉄筋コンクリ3階建ての旅館兼食堂ががれきになってしまったとはとても信じられなくて、呆然としてしまった。

◆松川浦を離れ、国道6号を南下。鹿島から陸前浜街道に入る。原町市街の浜街道は行列の間通行止めになるが、私たちが着いた時にはちょうどそれが解除されて、沿道の人たちが点々と残る馬糞の跡を掃除しているところだった。千年以上の伝統を誇る世界最大級の馬の祭りは、こうした多くの人の愛情に支えられているのだと知る。馬追の会場、雲雀ヶ原祭場地で行列組に合流する。

◆民謡が終わって、ちょうど甲冑競馬が始まるところだった。法螺貝が鳴らされ、まずは2騎、「螺役」が先行して走る。背負った旗指物が風にたなびく、蹄の音が大地に響く、その迫力。

◆「審判席から指揮旗が振られています。平成24年度第1回目の甲冑競馬。大役の皆さんによる競馬でございます。騎乗いたしますのは中ノ郷菊地、小高郷結城、まさに一騎打ちであります。この競馬、距離は合わせて1200メートルであります。さあスピードにのったまま第4コーナーを回ります。さあご観覧の皆様、第4コーナーからストレートに出て参りました。盛大な拍手でお迎えください。さあただいまご到着でございます‥‥」。

◆甲冑競馬はこの後8回続き、合わせて45頭が出場。続いてが野馬追のクライマックス、神旗争奪戦。広い祭場地に約280騎の騎馬が大将を先頭に陣営を取って並び、花火で打ち上げられた神旗を奪い合う。歓声が沸く。人も自然もいつかは変わってしまう。それでも私は福島が好きだ。(落合大祐


本当に人々は戻ってくるんだろうか

■福島駅から被災(被曝)中心地に近づくにつれ、青々とした田園風景が雑草生い茂る荒野へと変わっていく……まずはその様子に胸が痛んだ。人影のない飯舘村。役場前に設置された村民歌碑の歌詞──「山美しく水清らかなその名も飯舘わがふるさとよ」──に胸が詰まる。震災から1年半近くが経ち、津波の爪痕は思ったほどひどくはない。「その場に立てば号泣してしまうのでは」という心配は杞憂に終わった。

◆それよりむしろ、原発から20km圏内の小高駅の駐輪場に整然と残るたくさんの自転車が悲しかった。松川浦の漁港に整然と係留された漁船を見た時にも、同じ悲しみを感じた。これらの持ち主は今、どこでどうしているんだろう。除染が進み、立ち入りや居住制限が解かれつつある地区もあるそうだが、本当に人々は戻ってくるんだろうか。海山の汚染や風評被害などによって壊滅的な打撃を受けた農林漁業者や観光業者など、とうていその土地では生きられないだろう。復活した相馬野馬追を間近に見て、希望の光を感じられたのが救い。次に被災地に行く時は、何らかの形で被災地の役に立ちたい。ともあれ、貴重な機会を作っていただいた地平線の皆さん、本当にありがとうございました。(金谷眞理子 大阪)

「夏草や小高の暮らしいずこかし」 そして、松川浦のこと

■一日目 被曝退避地区となっている常磐線小高駅前の駐輪場には、夏の強い日差しの下、蜘蛛の巣と蔓草が車輪に絡む200台ほどの自転車が整然と並んでいる。ひしゃげた無人の店舗・家屋があちらこちらと残る駅前通り、いけないと思いながらも「フリーズ・凍結」という言葉がよぎる。「夏草や兵どもが夢の跡」か。句会の先輩からは素直な写生が一番と教えられた。小高駅舎にて「炎天に封じられたるポスト立つ」「夏草や小高の暮らしいずこかし」「夏草に赤く鉄路が伸びにけり」

◆二日目 午前、相馬市松川浦へ。外洋と干潟浦を区分けて南北7km程の砂州が太平洋沿いに伸びる景勝地である。この地へは1991年1月に干潟汽水湖での浅草海苔と青海苔(正確にはヒトエグサ−焼そばのふりかけでおなじみ)の養殖業調査を目的に訪ねたことがある。その時は漁協組合長で民宿も営んでいたKさんに取材、帰京時に通年の作業写真の提供を願うと、後日、秋口の種付けから春先の摘採・加工・後処理までを収めたアルバムが届き記録作成に大いに役立たせて戴いた。漁港でロープを繕うお爺さんに、Kさんの消息を尋ねたら「流された」の一言だけが返ってきた。

◆1999年に完成した500m余の長さのモダンなデザインの斜張橋である松川浦大橋の真下は、今から100余年前の明治末年の人工開削運河だという。内水面の干潟から直接太平洋への出漁を可能とし、さらに海流を流入回遊させることで、潟湖に弊害をもたらしていた自然堆砂の解消を図ってきたという。

◆震災後から車両通行禁止された大橋の中央まで歩き、運河を眺める。高さ20m・幅300mほどの砂岩丘陵の砂州を7〜800mほどの長さで深く抉り取り運河航路を作った人々の着想と難事業の結果に驚嘆させられる。帰宅後、ネットで運河口の松川浦漁港に押し寄せる津波と翻弄される漁船の動画を見る。太平洋に大きく口を開く橋下の運河が、まさに巨大津波を招き入れる玄関口となっている。暮らしに利益をもたらしたはずの開発、そして自然、この関係に改めて向き合い考える旅となった。

◆塩釜湾・松島湾高城・気仙沼湾五十鈴神社(猪狩社)・大船渡湾赤崎・大槌湾・山田湾織笠、かつて海苔養殖経験者を訪ね歩いた東北沿岸調査地である。震災後、しばしば思い出の地名を耳にしながら、再び訪れることもないまま今日に至っている。(北村敏 東京)

小鳥のさえずりを聞いていると、むしろこの地が人を拒み、自然に返ろうとしているようにも思えた

■福島原発事故の影響が目に見える形で残る地域を初めて訪れた。一番強烈な印象は小高町。自分たちが立てる物音と、鳥のさえずり以外の音がしない。人がいない町。無人の商店街に音楽を流しているのは意図してのことだろうけれど、寂しさがかえって募った。駅の自転車置き場の自転車たちは3.11のまま。整然と並んでいるのに、ツタがからまり、蜘蛛の巣が張り、埃が積もり、空気が抜けている。日常が突然奪われるとこういう光景になるのだ。何ともないものまでが突然手の届かないところに行ってしまう。

◆人を迎え入れない町では、崩壊寸前の家屋も放置されたままだし、歩道はアスファルトから草が生え、誰かの住処だった立派な家は荒れ果てて草ぼうぼうだ。このまま置けば、すぐにここは森に返るだろう。

◆人が、汚染されたこの地を拒んでの現状だが、小鳥のさえずりを聞いていると、むしろこの地が人を拒み、自然に返ろうとしているようにも思えた。

◆ケーキ屋の店先にあった「必ず小高で復活します」の手書きの黒板。どうすることがいちばんいいのか。ベストな選択をしてほしいと祈るしかない。(岩野祥子 奈良)

「みな原発反対を訴えても、電気を使うなと訴えはしてない」

■毎週のように夫と2人で東北、主に福島ツーリングをしていますが、今回の地平線会議の仲間との訪問では、 違う考え方や新しい情報が聞け、いつもとはひと味もふた味も違う福島でした。小高駅の自転車置き場にぎっしり放置され持ち主に戻る事は永久にない自転車、小高駅周辺のゴーストタウンのような雰囲気……。政府も東電も今の福島原発の問題に対して責任が取れてない!それなのにまだ原発を稼働させるのか!という思いが増々強まりました。

◆上條大輔さんが「みな原発反対を訴えても、電気を使うなと訴えはしてない」と言うのには同感。私はデモ参加はしませんが、極力電気を使わないことで原発に反対しています。炎天下の中での相馬野馬追は、みなさんの気迫を感じました。また、最初に道の駅川俣に立ち寄ってますが、ここは去年8月28日に来ました。川俣町はシャモが特産で、偶然この日はシャモ祭りが開 催されてたので、広場の屋台でシャモの親子丼(絶品!)や唐揚げなどを食べました。そしたら今年の春、風評被害でシャモが消費されないため泣く泣く何千羽ものヒナを処分したという養鶏場の方の記事が……。ショックでした。

◆今回参加されたみなさんも、参加できなかったみなさんも、ぜひ東北へ、福島へ、何度でも行って下さ〜い! 私も行きます! 今回、一部の方は松川浦にも向かいましたが、私はここには4月に泊まりました。泊まれる宿、何軒かあるんですよ。(節約主婦ライダー 古山里美 神奈川)

PS.昨夜の夕食はお土産の「川俣シャモ トマトカレー」

現地の方、現地に足繁く通われた方、地平線のつながりで実現した報告会に心から感謝

■放射線測定器をはじめて見ました。読み上げられる数値を最初は「へぇ〜」と聞いていましたが、移動するごとにデータが増えていけば、「ここは高い」「ここはそうでもない」などとつぶやき始めます。でも、その数値がなにを意味するのか実感はありません。マイクロバスの車窓の緑豊かな自然に目をうばわれれば、自分がなにをしに来たのか分からなくなります。

◆小高駅周辺の住む人のない荒れた街を歩きました。港町の浜には漁に出られないおびただしい船が停まっていました。実感をともなわないまま生活が奪われていく放射能汚染の怖さ、復興に向かえない重さ。江本さんが書いていたように、できるだけ早く原発を収束の動きに変えていきたいと強く感じました。現地の方、現地に足繁く通われた方、地平線のつながりで実現した報告会に心から感謝します。

◆大阪に戻り、職場で「午前中はクーラー入れない」宣言をしました。いっしょに働く障害者たちに「鬼!」などと言われていますが、それでもワタシの思いにつきあってくれています。

※上條さん、南相馬特産「アイスまんじゅう」ごちそうさまでした!もうひとつのオススメ「しみてん」食べてみたかった。ぜひ次回に!(井倉里枝 大阪)

もし自分のふるさとが放射能にさらされたら避難して果たして生きられるかどうか自問自答の連続だった

■福島に来て改めて放射能の恐ろしさを思い知らされた。においもなく、目にも見えず、気分が悪くなるわけでも、中毒症状を起こすわけでもない。危険の壁が見えない。危険を感じさせない恐ろしさがある。人のいなくなった家やだれも耕せなくなった農地が延々と広がっている風景は胸が痛く悲しかった。絶望的だった。「原発さえなかったら」との思いは強くなるばかりだ。飯舘村民歌の「山 美わしく 水 きよらかなその名も飯舘 わがふるさとよ」の歌詞が悲しくひびく。

◆もし自分のふるさとが放射能にさらされたら避難して果たして生きられるかどうか自問自答の連続だった。原発の電気に頼って被爆するなら私は電気のない生活を選ぶ。和歌山は貧乏県であり「近畿のお荷物」ともいわれ、4つの町に5カ所もの原発計画があった。20年にわたって町を二分する闘いの末、一つも造らせなかったのは奇跡だったと思う。(和歌山県田辺市 自給的農業者 小森茂之 電気代月1300円)

何も見えず、匂いも無く、どこも痛くも痒くもないのに、線量計の数字だけは勝手気ままに上下する

■貴重な機会を与えて下さりありがとうございました。震災被害、原発被害ともに、ある程度は理解しているつもりではいましたが、実際に自ら現場に足を踏み入れてみて、特に原発の影響に関して改めて現実を再認識させられました。何も見えず、匂いも無く、どこも痛くも痒くもないのに、線量計の数字だけは勝手気ままに上下し、それに一喜一憂しなければいけないという現実。距離の問題ではなく、たまたまの風向き、降雨により天国と地獄を分けてしまった現実。新緑に輝く山々を眺め、一面に広がる田畑を耕していた豊かな暮らしを一気に奪ってしまった現実。やはり人間はやってはいけないことをやってしまったのでしょうか?

◆今更ですが、私はそう思い、今からでもこの状況から脱却する方向に動くべきだとも思います。しかし、この暑い夏にエアコンを使わない生活を送ることは到底我慢できません。電気は必要です。どうすればこの相反する事象を解決することができるのでしょうか? 私には知識もアイデアもありませんが、改めて考え直すきっかけとなりました。(橋口優 東京)

威風堂々とした騎馬武者の振る舞いの中に、亡き息子への思いや、家族、友だちへの思いを抱きながら、伝統的な騎馬行列を作り上げている……

■はじめて相馬野馬追を見学した。 小高地区は4月に警戒区域を解除されたエリアで、野馬追の参加地域でもある。原発と津波の被害という、二つの大きな問題を抱えている小高地区、その野馬追の行列には胸が詰まった。400騎を超えるという騎馬武者の大行列はすごい迫力で、「かっこーいー」と少年に戻ったように無邪気にはしゃいでしまった。小高地区の行列では、槍や太鼓を持って歩く人たちに女性や子供が多く、隣で見ていた地元のおじいさんが、「小高は津波で多くの人が亡くなったから、普通は男の役だけど代わりに女性や子供達が出ているんだよ」と教えてくれた。そして甲冑の胴に若い男性の写真を貼付けた騎馬武者が通過した時には、あの人は津波で息子を亡くしたんだよと教えてくれた。野馬追での威風堂々とした騎馬武者の振る舞いの中に、亡き息子への思いや、家族、友だちへの思いを抱きながら、伝統的な騎馬行列を作り上げていること。震災を経て、野馬追に参加している地元の人たちの思いを考えると、全力疾走する馬の美しさと共に人々の思いがとても貴重なものに感じられて、今思い出しても涙が出そうになる。(山本豊人

関西では、もう東北の話はあまり出ません。何ができるかわからないけど、周りの人たちに語り続けていこうと思いました

■阪神淡路大震災の経験から、震度6〜7ならば高速道路が倒れ、ビルがへしゃげ、家屋も軒並み潰れているものと思っていました。でもテレビを見ていても、津波の被害は目を覆うばかりだけど、道路一本隔てて山側は何事もなかったような生活。どうなってるのかしら??? 5月に仙台から陸前高田まで海岸沿いを車で走っても、津波の無残さばかりが見えてきます。今回福島に行って、南相馬市小高地区の街を歩いてみて、あーやっぱり地震だったんだ、と納得しました。

◆原発事故のため警戒区域に指定され手付かずのまま放置されていた小高地区は、津波被害は免れたのに無人の街となっていたのです。私の知っている(神戸の街のような)壊れた建物、どこも傷のなさそうな建物、混在しているけど、すぐにでも生活できそうな街なのに誰もいない……。信号は機能してるのに、ライフラインがきていない、お店が開いてない、隣人が戻って来ない、電車がない……これでは帰れないですよね。

◆壊れたものを片づけて又建て直す、そして生活が戻る、そんな単純な復興ではないんだ!としみじみ思いました。津波で街ごと浚われて、原発で放射能を撒き続けられて、どうやって?を実感しました。関西では、もう東北の話はあまり出ません。何ができるかわからないけど、周りの人たちに語り続けていこうと思いました。(遊上陽子 大阪)

「これより80km以内に原発建てるな」の石碑を築くしかないのでしょうか

■原発から山林方向に飯舘村含め近隣の市町村にも高濃度の放射能が降り注いだ。事故発生時の風向きで被害を蒙った地域、免れた地域とに分かれた。汚染された山林は今後何十年かかるか見通しがつかないため農業を放棄する住民が増えるのではなかろうか。運よく被害を免れた地域でも今までどおりの生活が続くのかどうか疑わしい。

◆そのためこの近隣は地下水汚染や水源汚染の回避方法で相違が生まれ、深刻な問題となった。除染作業は今後原発エネルギーの恩恵を受けている都市ではこれらは地味な問題として関心が薄れ温度差がていくのだろう。長期に渡って地味な作業が行われることになるだろう。農耕生産は生活の糧であり、夢もあったはず。一方的に損害賠償だけで問題にピリオドがうたれるのも怖いし、生き甲斐までピリオドされてはもっと怖い。翌日の相馬野馬追い祭、今も復旧の見込みの無い常磐線、観光客は車での移動だった。行きに比べ倍の時間が掛かった渋滞はいみじくも事故発生当時の状況を想像させてくれた。帰りの車内での上條さんの話、「再稼動必要の流れは変えられない」で憂鬱になりました。「これより80km以内に原発建てるな」の石碑を築くしかないのでしょうか。(石原卓也 東京)

夜になってみなさい。あたり全体が真っ暗闇になって生活感覚は全く無いんですよ…

■いただいた事前案内では、浪江町の北端からその北に続く南相馬市の海岸線までにもバスが走り接近するようだ。津波に加え原発という2重被災地の現状はどうなのだろう。そんな、参加意図があった。そして28日午後、現地から友人へメイルを送った。「福島第1原発の北約15キロ、南相馬市南端に来ています。発生後600日近くが経過しましたが石巻とくらべ異質な光景が広がります。人影がとにかく少ないのです。だからなのか石巻街中や牡鹿半島では、自然災害・天変地異というあらがいようの無い、いわばあきらめの感慨もありましたのに、ここでは憤怒の感情さえおぼえます。きっと2重被災という過酷さの中にいるからでしょう」

◆昼間のバス2号車中、福島県天栄村住人で今回ガイド役の滝野沢優子氏が『今は日中なので町並みや田畑はごく普通の風景だが、夜になってみなさい。あたり全体が真っ暗闇になって生活感覚は全く無いんですよ。それを知って欲しい。』といった趣旨の説明をした。この日のすさまじい日差しをはねのけ、まわりを直視したくなる言葉だった。(花崎洋 千葉)

相馬野馬追で見せてくれた“東北魂”を持つ人々の復活を、同じ東北人として願わずにはいられない

■生まれてからずっと水田が広がる土地で育ったせいか、田んぼ(そしてその向こうに鳥海山や月山)が見えないとなんだか落ち着かない。いまは穂が出る直前で、青々とした稲が風に揺れ、早朝から草刈りをする人が働いている。それがあたりまえの風景だと思っていた。

◆しかし、飯舘村の田んぼには一面に草が生い茂り、どこまで行っても稲は見えなかった。もちろん田んぼで働いている人もいない。それどころか、村のなかにも人影はなく時が止まったようにひっそりとしている。全村避難。言葉では知っていたが、現地を訪れて初めてその意味を実感した。

◆景勝地として知られる相馬市の松川浦には意外にもたくさんの漁船が係留され、いまも出漁しているかにみえた。港で黙々と網を補修していた漁師に聞くと「いつ漁に出られるか……」とつぶやく。放射能による影響で魚を売ることができないからだ。今回案内してくれた上條さんが働く森もまた汚染されているだろう。

◆あの土地に人々が戻り以前と同じように暮らせる日は来るのだろうか……。現地にいる時も戻ってからもそのことを考えてしまうが、相馬野馬追で見せてくれた“東北魂”を持つ人々の復活を、同じ東北人として願わずにはいられない。(飯野昭司 山形県酒田市)

これからのフクシマについて考えるきっかけになる報告会でした

■新幹線で簡易線量計を取り出す。出てくる高い数値に不安を感じつつ福島駅に着く。しかしそこは日射しの強い夏の福島だった。福島の放射能汚染はまだ妄想する恐怖でしかない。線量でしか放射能汚染を認識するしかできないからだ。市内を離れると耕すことも住むことも許されなくなった田畑を草木が覆う風景が広がる。飯舘村に着く。地面で7マイクロシーベルト。痛くも痒くもない。線量計の高い数値となんともない身体感覚と目の前の無人の風景に戸惑った初日だった。

◆二日目は祖母の故郷の野馬追い。居住制限を汚染の度合いでなくフクイチから同心円で管理した関係で南相馬は小高神社を含めて立ち入りもままならず去年の野馬追いは数十騎が行列したに過ぎなかった。今年は400騎を超えほぼ震災前に戻り本来の野馬追いに戻った。武者行列の馬上の武者の覚悟を決めた貌は誇らしげだ。将門から続くまつろわぬもののふ人々の末裔だからか。会場は満員だった。除染したとはいえ数値は低くない。親子連れも多い。野馬追いはどんなときも相馬の魂のよりどころなのかもしれない。これからのフクシマについて考えきっかけになる報告会でした。(小原直史 東京)

荒武者どもの軍畑

■地平線会議の報告会を福島で開催! との話を聞き、今年、二度目の南相馬にバイクで行こうと決めてから、原発と放射線、ホットスポット関連の情報を再読し、賀曽利さんや滝野沢さんが話していた長泥や赤宇木、津島等の超ホットスポットの場所を確かめ、家庭用線量計(エステー製)を用意して今回の報告会に臨んだのでした。しかし、今回の報告会は線量計での数値測定を超えて、意外な展開が待っていた。

◆原発の10km圏に近い小高町では、1年4か月後の今も、地震で崩れた家屋が放置され、街そのものがゴーストタウンと化していた。田畑は耕作が放棄され、見渡す限りの草地となっていた。列車が走ることのない常磐線のレールは雑草の緑のカバーで覆われ始めていた。一旦、人の手を離れた家や街並みが、農地が、駅や線路が、道路が、こんなにも呆気なく自然に戻っていく様を目の当たりにして、被災者の方々が生活基盤を根底から全てを一遍に失ってしまったこと、そしてその復旧の困難さを思った。ここでは、千年の後退という言葉が現実のこととして感じられた。

◆だが、小高駅に程近い、小高神社では、明日に控えた相馬野馬追いの準備が進んでいた。眼に見えない放射能と言う怪物が、千年の歴史を誇る、荒ぶる東国武士達の「野馬追い」の行事をも押しつぶすかに見えたが、荒武者達が着々と反撃を準備していた。そして、翌日。原ノ町の通りは、武者たちの名乗りと馬の嘶きとともに、猛々しい戦国武者達が溢れ、見えない敵との合戦の雄叫びを挙げるのだった。エイッ、エイッ、オー。制御不能な怪物の大反乱、自然(神)への抗いがたい人の行為の空しさや喪失感から、一転、徳川に抗ったという相馬武者たちの命懸けの戦魂に、身も心も震えるような感動を覚えたのだった。これだから旅(地平線)は止められないのだ。(斎藤孝昭 8月7日から、賀曽利大明神とマダガスカルに向かいます。)

わが楢葉町も8月10日、現在の警戒区域から「避難指示解除準備区域」となります

■南相馬での報告会に参加された方々、遠路はるばる福島まで御出で頂き、有難うございました。「飯舘村」、「南相馬市小高地区」等の現場を見て、お感じになった様々な思いがあると思います。美しい山村の風景の中に人の姿が有りません。一大イベントが開催中にも拘わらず、小高駅周辺には人が戻っていません。これが原発事故後の現実なのです。

◆ところで、我が故郷の「楢葉町」も8月10日(金)に現在の警戒区域から「避難指示解除準備区域」へ再編されることとなりました。1年5か月経ってようやく自宅への行き来が自由に出来るようになりますが、皆さんが訪ねた小高区と同じで、原則宿泊は出来ません。上水道は出ないし、下水道が不備なのでトイレは仮設のを使うように指示されています。立ち入りも「午前9時から午後4時」を目安とし、現在の検問が撤去されますので犯罪防止のため警察や住民によるパトロールも強化されます。

◆「避難指示解除準備区域」への町民の反応は様々で、インフラ整備、それに除染が進んでいない状況で解除されても、生活が出来る見通しは立たないから意味がない、という声もあります。私個人としては、復旧に向けての大きな前進であると感じています。長距離ランと一緒で、遅くとも一歩ずつ進んでいけば、何時しか景色も変わり、ゴールテープが見えて来るものと希望を持ちこれからの福島再生へ出来ることを協力していきたいと思っています。皆さんも、現実の街の姿を是非周囲の人へお伝えください。今後もどうぞ宜しくお願い致します。(福島県楢葉町出身 渡辺哲 ライダー・超長距離ランナー)

[線量計で何が見えたか]

南相馬地平線報告会では、線量計を用意し、2台のマイクロバスのそれぞれで線量を計測しつつ、進行した。以下、参考までに2つの報告を掲載しておく。

<その1>
滝野沢さんに線量計をお借りしてバスでの移動中に放射線量を測定した。線量計は滝野沢さんが天栄村から支給されたものだ。電源を入れたままで常時計測し続けることができ、線量の変化に瞬時に反応した。福島駅を10:30頃バスで出発し、R114を南下すると15分ほどで比較的線量が高いと言われる渡利地区を通過する。このときの線量はバスの中で0.94マイクロシーベルト毎時(μSv/h)。途中、トンネルに入ると線量は0.05と一気に下がった。

◆11:10、川俣町の道の駅で休憩。トイレ建家のわき、砂利が敷かれている所で測定すると2.46。11:50川俣町内で1.0、道間違いに気付き引き返したポイントで0.6。道路脇は土で木が茂っている所の方が、コンクリートで固めてある所に比べて線量が高かった。県道12号線を進み、途中バスの中では0.2。飯舘に近づくと徐々に線量は上がり、飯舘村に入ってすぐのポイントで1.25となった。

◆数値は上下しながら役場に近づく右折ポイントでは1.98、2.5と上がり続け、進むバスの中で3.4を記録し、線量計から警告を伝えるバイブレーションと赤いランプが点滅する。F1から半径40km地点で約2。バスが飯舘村役場に到着し、手元の線量計で0.93、飯舘村役場前に設置されているモニタリングポストでは0.83と表示されていた。しかし10メートルほど離れた植え込みの中を線量計で測ってみると7.71と表示される。

◆再びバスに乗り、南相馬に入った地点で1.45、小高地区に入ったら1.5、小高地区の海に近い地点で1.8となり、原発に近づくに従って線量は上昇した。しかし人気のない小高市街を抜け、小高駅前に来ると線量は一気に下がり0.19となった。河田さんからの花束を献花した浪江境に近い浦尻海岸では0.09、原発から半径10kmの小高と浪江町の封鎖ポイントで0.34だった。

◆折り返し、宿舎へ向け北上。旧20km圏境で0.15。南相馬の宿舎への山道で徐々に線量が上がり、到着10分前の地点で1.38となった。宿舎として提供して頂いた上條さんの「自然応援団」敷地では建物前の広場では除染を行っているためモニタリングポストの数値0.28とほぼ同等だったが、裏山に近づくと約0.5くらいで若干線量が高く、宿舎建物の大きな屋根から雨が流れる雨樋の下では10を超える場所もあった。ちなみに南相馬を現地解散後、帰って来た新宿駅では0.05だった。(山本豊人

<その2>
■うだるような暑さの中、福島駅から二台のバスに乗り込み飯舘村に向かった。車窓から時折見かける“只今の気温35℃”というデジタル表示の看板が線量計を手にした私には只今の“放射線量μSv”と見間違えてしまった。線量計をあちこちにかざしてその数値の変動に皆で一喜一憂した。具体的な数値は載せないが、雨樋の下が高かったり、モニタリングポスト周辺だけを除染したことが分かる驚くほどの数値の差。飯舘村に入ってからの数値の上昇。そして線量計の表示を皆で写真撮影。もはやゲーム感覚。

◆恐怖は感じた。目に見えない、臭いもない、音もない、味もしない、しかし線量計によると得体の知れない”何か”が確かにそこにはあるようだ。線量計の数値が上下するものの私の身体に不快感や痛みをを与えるわけではない(今のところ)。その捉えることのできない、レスポンスのないことが不気味で恐かった。私には感情論は別として体感では現状、放射能問題は線量計の液晶に映される数字の問題にしか感じることができなかった。(永沼竜典

映像では見ることができない現実

■南相馬地平線報告会に参加して、いちばん感じたのは現地に行ってみると、より身近に感じるということでした。テレビで見ているのは映像なのですね。その地にたつと音も空気もあるいはにおいも(今回は臭いは感じませんでしたが)生を肌で感じました。家が有っても人は住んでいず、庭は草丈高く、その中で花葵やあじさいがいつもの夏のように、だまって咲いているのが悲しく思えました。田んぼや畑も手入れが出来ず草の伸び放題でした。

◆今回たいへんお世話になった上條さんのおっしゃるのには、冬に草が枯れてから除染するところは、するでしょうとのこと。表土を削り土を入れ替えて、作物を作っても市場で受け付けてくれなければそれまでです。手が入れられずそのままの田畑は元のように戻すのは容易なことではありません。花卉(き)農家のビニールハウスの骨組みも雑草と背比べしていました。林業の方もたいへんですね、原発のチリをかぶってから太くなった部分は使えないので、将来もチリをかぶる以前の太さでしか評価されないとのことです。

◆平和利用の原子力ももしもの時の対処が出来ないのなら使ってはならないと思います。日本は唯一の被爆国といわれていますが、今は世界に放射性物質を放ってしまいました。これは重く受け止めなければ成らないとおもいます。

★追伸 江本さん、たいへんお世話になりありがとうございました。エモカレーおいしかったです。お陰さまで翌日炎天下の中元気に過ごせました。(横山喜久 東京)

福島が直面している現実の、ほんの一部を目の当たりにした南相馬行きでした

■雨樋の下や排水溝など、地面の近くでは線量計の数値が10倍以上にはね上がり、ほかの場所でも機械を上下左右数メートルずらすだけで、数値が細かく変化する。2年前の夏までは青々とした稲が風にたなびいていたはずの田んぼは、辺り一面丈高い草で覆い尽くされ、この春、警戒区域から避難指示解除準備区域になった南相馬市の南部・小高町では、崩壊した家の周囲には黄色いテープが張られたまま。報告会で何度か話題になった飯舘村(居住制限地域)は、特養施設の駐車場には車が停まっていたものの、そこ以外の場所では、人の気配はほとんど感じられない……これはそのほんの一部でしょうけれど、福島が直面している現実を目の当たりにした南相馬行きでした。

◆今回、お世話になった上條大輔さんは、3年かけて独力でゴミを片づけ、土地を整備し、障害を持つ子どもたちのための施設をつくったと聞いています。同じ敷地にある家は、ほぼ上條さんの手づくりで、「解体したとき再利用できないものはできるだけ使わなかった」そうで、無駄のないシンプルで居心地のよい場所でした。津波の被害も地震の被害もないのに、時間や労力をかけて築き上げた自分の家を離れなければいけない。多くの人をそんな状況に追いやり、現場では原発事故前も後も、どこか胡散臭いやり方で働き手を確保してきた……。そういうものが、これからの時代、本当に必要なのか。経済最優先という考え方に違和感も持ってきた者としては、そこに呑みこまれないために、ささやかではあっても個人的な抵抗を続けていこうと、改めて思った次第です。(塚田恭子

地平線報告会で聞いたり読んで理解しているつもりだった渡辺哲さんの苛酷な体験を、初めて実感しました

■復興関連の調査で小名浜、郡山へは行きましたが、原発の被災地は初めてでした。小名浜では岸壁、郡山では集合住宅の基礎が地震により損傷を受けいずれも構造物が傾いていました。

◆不通となって線路やホームや自転車置場が草だらけになっていた常磐線小高駅の周辺では壊れた住宅もありましたが、地震の被害は思っていたほどではなく住むには問題なさそうな家もたくさんありました。「自分の家だったらたまらないよなぁ」と思わずつぶやき横を見ると渡辺哲さんが……。渡辺さんの苛酷な体験は地平線報告会で聞いたり地平線通信で読んで理解しているつもりでしたが、原発による目に見えない被害をこのとき初めて実感として感じました。

◆数日後の新聞に「東電のダムの底に沈んだと思うしかない」という趣旨の投稿がありました。まるで映画のセットのようだったこの光景を思い出すと妙に説得力のある言葉に思えてきました。しかし、この地域を放棄するようなことになるなら、原発も廃棄しなければ住民感情としてバランスが取れないのではないか、そして、この思いを住民だけでなく多くの人に感じてもらい、復興や原発の存続についてもっと考えてほしいと思いました。(武田力

でも、森の木達は静かにセシウムを吸い込んでいるのである

■地平線会議で福島に行った。福島の美しい自然の森の中でエモカレーを食べながら思った。日本の森の中の幸せな時間であった。でも、森の木達は静かにセシウムを吸い込んでいるのである。文句も言わず、ずっとずっと吸い込んでいくのである。長崎、広島以来の凄まじい放射能を浴びた福島。山や森は何も変わることなく美しい自然を見せている。5月に車で岩手、宮城、福島の海岸部を走った時は言葉を失った。復興とは名ばかりの風景だった。そして今回の美しい自然の中の地平線会議で改めて言葉を失った。(加藤秀 京都)

個人的な総括です

■本当に鎮魂の祈りを捧げたいのなら、場所なんかどこでもいい。大事なのは気持ちだと思う。順番が逆ではなかったか。私たちが宿泊した場所はホテルではなく放射能の被害をうけた特定非営利応援法人の施設である。泊めていただいたことに感謝をする。来た時よりも美しくして帰るべきではなかったか。上條さんが借金をして作った施設である。とてつもなく小さな話だがゴミを捨てるのにも市指定ゴミ袋のお金がかかる。せめて日中の活動中にでたゴミは持ち帰るべきではなかったのか。

◆論理の飛躍かもしれないが今回の事故で、信じて疑わなかった原発の安全神話が崩壊し、そうすると東電が悪い、国が悪いと文句を言う。今日のこの状況はこういう意識の積み重ねだったのではないだろうか。放射能どうこうについて語る前にそういう意識からまずは考え改めるべきではないだろうか。と前の見えない復興へのフラストレーションを自分のことを棚にあげて大人に噛み付いて発散する私を許してください。石巻にいらしたらささやかながらご案内しますので。(永沼竜典

「足を運べば、心の距離は大幅に縮まる」、そんな気持ちをまた思い出させてもらいました

■屋久島病を遠く離れて、お仕事三昧でキューキューなこの頃。あとの怖さを考えないようにして、今回の報告会に参加させてもらいました。飯舘村では、「ただ、人がいない歪み」を覚えました。そんな計画的避難区域(7月17日からは居住制限区域)において、100名あまりの方が居住を続ける特養「いいたてホーム」が気になり、勉強不足ゆえ、帰って検索してみると、総合的に避難所生活より健康を害さないという判断から、村の要請を国が許可したとありました。職員の被爆量も、容認範囲と言います。

◆様々な記事の中には、医師の訪問報告もあって、なるほど、これはとどまった方がよさそう、と思う反面、入居者自身の声には(きっと、調べきれなかっただけでしょうが)行き当たりませんでした。いろんなところで感じる、「決めごとの中心不在」が頭をよぎりました。翌々日、ニュースで「警戒区域“再編”福島」として、訪ねた南相馬市小高区がとりあげられていて、釘付けになりました。やむを得ず放ったままになっていた場所では、今こそ人手を必要としている、と。

◆「足を運べば、心の距離は大幅に縮まる」、そんな気持ちをまた思い出させてもらいました。ちょっと珍しい地平線ツアーと、ご尽力くださった方々に、深く感謝します。(中島菊代 屋久島病のねこ 大阪)

貴重だった小高区行き 期待以上に素晴らしかった野馬追い

■酷暑の2日間でしたが、遠足気分で楽しめました。特に野馬追いは期待以上に素晴らしくて、南相馬復興の気概を感じました。実際、南相馬の原町区は昨年9月に江本さんと一緒に訪れたときにも活気があって、自衛隊や警察ばかりだった震災直後のものものしい雰囲気は払拭されていました。

◆一方、4月に警戒区域が解除された南相馬の小高区は、震災直後のまま時間が止まっていて人影もない「死の町」状態。人間が住まなくなって一年以上も経つとあんな感じになります。現在も警戒区域のままの大熊、浪江、双葉なども同様で、こう言っては不謹慎かと思いますが、小高区は今が見どきです。ある意味、貴重な場所なので、今回、県外のみなさんに見てもらえて良かったです。

◆これから復興する南相馬とは反対に、放射線量の高い飯舘村は新たに帰還困難区域が設定されてゲートが造られていました。今後どうなっていくのか。福島はまだ震災が継続中です。今回、少しでも実情を知ってもらえたことと思います。福島のこと、これからもよろしくお願いします。 (滝野沢優子

復興する地区がある一方で、新たに閉鎖される場所があることも知ってもらえれば

■最高気温15℃の北海道から戻った直後の猛暑は体に堪えました。野馬追いも暑い中で見るのは大変でしたが、とても素晴らしかった。南相馬もくるたびに人が戻り、お店も再オープンし、だんだん活気が出てきているので、福島県民としてうれしいです。

◆今回、国道6号線の検問所を見てもらえなかったのは残念でした。あのものものしい雰囲気は、今の福島がまだ震災の中にあるということを実感できるものだと思います。飯舘村にも新たに帰還困難区域の立ち入りを禁止するゲートができていました。復興する地区がある一方で、新たに閉鎖される場所があることも知ってもらえればと思います。(荒木健一郎 福島県天栄村)

人は過ちを犯す生きものであり、100%安全の中で生きることが出来ないことを福島の事故から知った

■今年の春のことである。小さな考えごとをしていたら、数日で体重が3キロ落ちた。睡眠も食事もとらずに考えごとをしていた訳ではない。日頃、仕事をし、本も読む。インターネットをのぞくし、人にも会う。それでも、考える程に考えなく、生きているのだと思い至った。あまり考えなくても日常は回る。原発だって動かせるかもしれない。でも、それではいけないのだ。目を開いて物事を見、想像力を働かせ、感度を上げて生きなければいけないと、今は考えている。

◆人はその立ち位置に関係なく、過ちを犯す生きものであり、100%安全の中で生きることが出来ないことを福島の事故から知った。科学技術にも人間にも限界があるという前提のもと、生きていくしかないのである。そして、限られた資源の中で生きていくには、居候の心持ちで、謙虚に住むくらいが丁度いい。人類には未だ地球以外に住処がないのだから。(松菱理恵子

土木系の仕事に携わっている者の視点から、被災メカニズムを自分なりにあれこれ考えながら歩かせてもらいました

■飯舘村・南相馬の現地報告会を設営していただいた皆様、たいへんお世話になりました。ありがとうございました。厳しい個人的スケジュールの中、迷惑を承知で参加させていただきましたが、本当に良かったと心から感謝しています。

◆業務の関係で昨年4月〜6月に石巻市及び女川町の地震と津波による被害の実態は現地を歩いていましたが、初めて福島県内の被害を、29日に別途案内していただいた松川浦周辺も含めつぶさに見ることができました。土木系の仕事に携わっている者の視点から、被災メカニズムを自分なりにあれこれ考えながら歩かせてもらいました。

◆また野馬追甲冑競争は今まで見たことのあった草競馬とは全く異なる神事で、長年にわたり地域が培ってきた伝統と気概に感動しました。重ねてありがとうございました。なお、ミーティングで思わずもらした私どもの東日本大震災への取り組みを、詳細に取材したルポタージュが発刊されました(「東日本大震災 語られなかった国交省の記録」道下弘子著 シナノパブリッシングプレス ¥1,200-)。(花岡正明 山形)


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